かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

作品を人と語ることについて

0,はじめに

 以前、ある記事で、僕はなにかを好きでいるためには努力をする必要があるといった。そしてその努力の具体的な内容として、好きを言語化するための作業や、コンテンツにかかっている文脈を追う作業の必要性について書いた。

 この記事は11月に書かれたものだが、実際にこういうことを思い始め、実践にうつしはじめたのは、ここからさらに遡って8月ごろになる。したがってそこから数えると、かれこれそういう「好きでいるための意識的な努力」をはじめてすでに半年弱くらいが経過したことになる。ここではその実践から考えたことを備忘録がわりに書き留めておく。以下自己分析(自分語り)になるので注意されたい。

 

1,コンテンツ/コミュニケーション

 僕がこの記事で設定した問題は、「アニメに飽きつつある現状をどうすればいいのか」というものだった。でも、人はたいがいものを考えるとき、それをいつも複数の文脈で考えているものだ。ここでは考えを文章にするにあたって、問題をとりあえずこのひとつにしぼり、その流れに沿っていろいろ書いたわけなのだけど、もちろん僕の頭にはここでは書かなかったような別の問題意識もあった。今回はその一つについて書きたいと思う。これは「僕はなぜ人と趣味を語り合えないのか」という問題意識だ。

 近頃、アニメをはじめとしたコンテンツの消費形態がかわりつつあるといわれる。こういう変化を捉えるための用語として、たとえば「コンテンツ消費/コミュニケーション消費」というものがある。コミュニケーション消費というのは、人があるコンテンツを受容するさい、コンテンツそのものというよりも、そのコンテンツを話の肴にしてコミュニケーションをとるほうを重視するような消費形態をさす言葉であるといえる。これはSNSやインターネットのようなメディアと親和的な消費形態といってよさそうだ。これが適切な例かはわからないが、たとえば『けもフレ』の受容などは、Twitterでの盛り上がりと切り離せないといえるだろうし、最近でいえば『ゾンビランドサガ』の受容などもそうだろう。一方コンテンツ消費とは、コミュニケーションのためとかではなく、たんにコンテンツを消費するような在り方だといえる。

 もちろん、おそらくこの二項関係は完全には分離しないし、重なり合うことができる。人はコンテンツを楽しみながら、それを同時にコミュニケーションのだしに使うこともできる。あるいはコミュニケーションに役立てているに過ぎなかったコンテンツに、そうしたことに関係なくハマってしまうこともある。そしてそのそれぞれに良し悪しがあることだろう。

 僕が最近思うのは、先ほどあげた「僕はなぜ人と趣味を語り合えないのか」という問題は、まさしくこの二つの消費形態「それぞれ」の「良し悪し」に関係するのではないかということである。

 そのことを説明するにあたって、まず僕がどちらの消費形態をより好む傾向にあるかということを、ここではっきりさせておこう。実は僕は昔から「コンテンツ消費」のほうの仕方でコンテンツを受容するきらいがあった。趣味嗜好は比較的ミーハーなほうだし、わかりやすいほうなのだが、かといってコンテンツを他人とコミュニケーションするために消費したことはそんなにない。だから僕は、たとえばSHISHAMOのとあるヒットソングに歌われているような「友達の話題についていくのは本当は私にとっては大変で/私が本当に好きなのは昨日のテレビじゃない」という屈託はなかった。見たくないものはそもそも見なかったからだ。

 ひとつ断っておくと、これはべつにイキリではないし、一匹オオカミや、他人と違うオレ、を気取っているわけではない。いや、そういうこともかつてはあったのかもしれないが、もはや今となってはそれはかっこつけでもなんでもない。体に染み付いた、たんなる習い性になってしまっているのである。

 しかし、こういう「コンテンツ消費」偏重には、当然SHISHAMO的屈託とちょうど裏返しの屈託がある。他人と話題を合わせるのは面倒だが、面倒くさがっていると共通の話題が少なくてコミュニケーションがしづらいという屈託である。もちろん、共通の話題がないことは必ずしもコミュニケーションにとって致命的ではない。でも、そういう、話題などに左右されない「基本的なコミュ力」なるものがないとはいえないにしても、やはり人のコミュ力はコミュニケーションの場の文脈(そこで扱われている話題や、その場にいる集団の性質)によっても大きく左右されるということは疑いえない。

 だから、まず第一に、「コンテンツ消費」偏重の問題は、「他人と話題を合わせられない」ということである。それが「なぜ人と趣味を語り合えないのか」という問題の一つを構成する。

 

2,エンタメ的/文学的

 しかし、ややこしいのは、「僕が」「人と趣味を語り合えない」理由はそれだけではないということである。ここからはまた問題がずれてくるので、そのずれについても語っておこう。

 まず、僕が先ほど立てた「コンテンツ消費」の問題は、「コミュニケーションに配慮した消費活動をしないため、人と話題が合わないこと」だというふうにまとめることができるだろう。しかし、同時に、僕は「人のコミュ力は文脈によって変わる」ともいったし、また僕自身の「趣味嗜好は比較的ミーハーなほうだし、わかりやすいほう」だともいった。だとすれば、この問題、つまり「なぜ僕は人と趣味を語り合えないのか」問題は、そもそも成り立たないことになるだろう。なぜなら、これらの前提をふまえれば、コミュニケーションに配慮した消費活動をしないことは、かならずしも共通の話題を持てず、したがってうまくコミュニケーションできないということに帰結しないからである。いいかえれば、たとえコミュニケーションに配慮しなくても、趣味が多くの人と結果的に共通するなら、話題はかみ合い、そういった問題は生じえない。そして事実、僕はスポーツとかお笑いとか、そういったものについては(ほんとうに残念なことに)ほとんど興味がなく、そういう文化圏のものを好む人とその手のことについて詳しく語り合うことができないけれど、限られた文化圏、たとえばオタクカルチャーについていえば、ほとんどのオタクが好きそうなものが好きなのである。ど直球な萌え豚アニメも好きだし、なろう系だって楽しめる。

 だが、にもかかわらず僕は今まで人とそういうコンテンツを長々と語れたことが少なかった。だからこの問題は僕が「コンテンツ消費」偏重な人間であるということだけからは説明がつかない。いいかえれば、その観点は僕がお笑いとかスポーツとかが好きな人たちとうまくコミュニケーションがとれない理由のひとつを説明するのにしか使えない。

 では、なぜ僕はオタクとあまり作品を語り合えたことがないのか。これについてはある程度はっきりしている。

 それはまず第一に、僕がアニメ(漫画やラノベでもいいが、とりあえずアニメとしておく)についてあまり語ることがないからである。そしてその「語ることがない」という気分の根底には、おそらく、ヒロインが可愛いとか、この展開が面白かったということは個人的な体験で、それはその場でそういうことを感じて楽しかった、で終わる話だ、という発想がある。事実、昔の僕は、そういうことを人としても「わかりみ」とか「それな」みたいな反応しか返せなかった。それ以上のことをわーっと語って相手にドン引きされるのが嫌だったということもあるが、それ以上に付け足すことが特にないし、そもそもヒロインのなにが可愛かったとか、どういう展開があったとかを、そんなに覚えていないからである。

 しかし、では僕はこれだけオタクをやってきて語りたい作品がなにもないのかというと、そんなことはない。たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』や『Fate/Zero』、『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。』や『Fate/Stay night』などには、たぶんに語りたい欲望を刺激されてきた。そしてそれは、碇シンジや、衛宮切嗣や、比企谷八幡や、衛宮士郎といったキャラクターが、何か実存的な問題を生きているように思え、そしてそういう問題は僕にとって重要に思えたからだ。でも、じゃあこういう作品について人と語り合えばいいじゃないかと言われると、僕はどうしてもそういう気になれない。なぜなら、そういう視点から作品について語り始めると、なんだか話題が哲学的でやけに難しいものになってしまうし、そういう話題では、基本的に人と楽しく話せないからである。哲学的なタームを出すとドン引かれるし、そういう言葉を使わないで語ろうとしても、その場ですぐに答えを出せるようなことを扱わないから、やりとりが不活発になる。そして、なんだか無駄に空気が重くなる。いいことがない。

 したがって、僕が人と作品を語り合えない問題のもう一つは、こういう二種類の作品に対する、僕の対峙の仕方に起因する。一方で、僕は萌え豚アニメや面白いアニメについて、それ以上語る必要を感じないし、そもそも内容をそんなに覚えていない。他方で、僕の印象に残っており、僕が語りたいと欲望し続けているアニメについては、それを語り始めると、楽しいコミュニケーションができなくなってしまうという問題が出てくる。

 コミュニケーションに親和的で、その場で楽しめたりすっきりできたりするが、忘れてしまうがゆえに語れない作品と、鑑賞の最中もすっきりせず、なんとなく引っかかり、それゆえに語りたい欲望を刺激し続けるが、コミュニケーションに親和的でない作品。これらを形容する言葉として、ここではさしあたり「エンタメ的/文学的」というキーワードを設定しておこう。一応ことわっておくが、もちろんこの二つは重なり合うことができるし、どちらが良いとか悪いとかいうことは、ここではいっさい問題にしていない。また、これはたんに作品をどう見るかの視点の問題に過ぎず、その意味で作品自体には「エンタメ的」も「文学的」もないともいえるが、とりあえずここではそういう議論は脇に置いて、これを作品を形容する言葉としておく。

 ともあれ、これで「僕はなぜ人と趣味を語り合えないのか」という問題を構成しているもう一つの問題が、ある程度まとめられるように思う。すなわち、それは「エンタメ的作品はコミュニケーション親和的だがそれについて語る言葉を持てず、文学的作品については語る言葉を持てるがそれがコミュニケーション親和的でない」という問題として立てることができる。

 では、この問題はどのように解決すればいいのか。その方法にはさしあたり以下のようなものがあるだろう。

 

1,エンタメ的作品については、感じた楽しい気持ちや面白いという気持ちを表現する技術を養う

2,文学的作品については、そこで感じたことについて、わかりやすい言葉で語れるようにする

 

 思うに、僕が8月からやってきたのは、この二つの実践というか、この目標に向けた実験のようなものである。

 

 一度まとめよう。

 ふたたび、僕はなぜ人と趣味を語り合えないのか。その問題を二つに分割すると、それは第一に、僕がコンテンツ消費型の人間であることの問題である(そしてこの場合に想定されている「人」は、−−こういうざっくばらんな区分に問題はあるとしても、あえてそういう区分をするならば−−非オタク的といえるだろう)。そしてそれは第二に、僕がコミュニケーション非親和的な作品に語る欲望を見出し、コミニケーション親和的な作品に語る欲望を持たないということの問題である(そしてこの場合に想定されている「人」は、「文学的」な話題に興味をほとんどもっていないオタクである)。もちろんこういう問題構成にもたぶんに問題はあるが、ひとまずはこういうことで理解しておく。

 そしてこの二つの小問題のうち、第二の問題については、僕は、作品から感じたこと考えたことを表現する技術を養うトレーニングをする(Twitterで作品のディテールについて語る厄介オタクロールプレイをするなど)ことで、それと向き合おうとしてきた。

 

3,

 最後に、こういった問題と関連して、最近考えていることがある。それはポストモダン論などで盛んに議論されている問題と関連することだ。

 この問題とは、情報供給の過多と、ライフスタイルの細分化の問題である。

 それはもっと抽象的に言えば「大きな物語」とか「大文字の他者」の衰退というふうにいえるかもしれないし、きわめて具体的に言えば、国民みんなが聴いているようなヒットソングがなくなったとか、そういう文化現象の変化からいうことができることかもしれない。いずれにせよ、今、人は昔に比べて世界がどうなっているのかとか、文化はどうなっているのかとか、そういうあらゆることの全体像を掴みづらくなっている。大量の情報を手軽に素早く入手できるようになりながらも、それをどう扱えばいいのかわからないでいる。「みんな」が誰なのかわかりづらくなっている。少なくともそういう全体像がわかり、情報の意味がわかり、「みんな」の内実がわかるという幻想が機能しなくなっている。そのなかで、人はきわめて狭い共同体や細分化された自分の趣味嗜好や欲望のなかに閉じこもっている(「タコツボ化」)。

 こういう観点から考えれば、僕もまた時代の子ということになるのかもしれない。しかしこの際、僕のありかたが僕個人の資質によるものなのか、時代によるものなのか、あるいはその両方なのかということはどうでもいい。重要なのは、こういう時代にいかにして文化を可能にするかということである。

 これは素朴な僕自身の考えで、批判的な吟味や文献渉猟をおこなって培ったものではないが、文化というのは二つの側面を持っている。一つは模倣で、もう一つはメタゲームだ。

 たとえば、誰かがいいものを作ると、それをやりたいといろんな人がその真似を始める。そうしてそれが文化のパブリック・リソースになっていく。たとえばレイモンド・チャンドラーフィリップ・マーロウを主人公とする探偵小説で編み出した独自の文体や作風は、その後の探偵小説の文体や作風を規定している。これが模倣の側面である。

 しかし、模倣は必ず陳腐化に帰結する。だから、その後の時代の作り手は、そのスタイルを「こういう感じのやつでしょ」と定義したうえで、違うことをやるようになる。そうやって作られたコンテンツは、もはやそれ自体だけで理解できるものではなく、先行するものとの関係を踏まえなければ理解できないものになっている。そこには作品レベルのみならず文化レベル(メタレベル)の文脈がかかっている。これがメタゲームの側面である。

 メタゲームのなかで成立するコンテンツは、つねに先行するスタイルを意識的に踏まえたものになっているから、歴史的・文化的であり、それ自体が帰属する(と自己規定した)文化について、自己言及している。しかしそれは外部の人間にはすぐにはわからないので、他の文化圏の人や、結局は同じことだが、後の時代の人にとっては、よくわからないものになっているかもしれない。

 それにしても、なぜメタゲームは通じなくなることがありうるのか。それは、作品が必ずしもそのゲームのルール(その作品が自らをそこに置いているところの歴史的・文化的文脈)を明示しないからである。それはあえて明示されない場合もあるし、そもそもメタゲームをおこなうに際してコンテンツの作者が行った自己規定や文化状況の定義が曖昧だったり、本人にはそれと明確に意識されていないからかもしれない。彼らはとくに自らの行為の意味を問わずなにかをしただけかもしれないし、そこで行われているのは、各人の好き勝手な創作活動かもしれない。

 ここにたとえば批評(あずまん的な意味での)と呼ばれるものの役目が出てくる。それはあえてそのルールを明示し、そこでおこなわれていることの意味を示すものである。あるいはそれは、ときにルールの捏造であることもあるかもしれない(というか常に捏造なのだろう)。だがいずれにせよ、そうやって全てのコンテンツを(暴力的に)一つの、あるいは類型化されたいくつかのゲーム、歴史、文化圏に引きずりこみ、ときに他の圏域にあると思われているものに接続すること、こういう無粋な行為を担うということが、おそらく批評の役割なのだと思う。

 それはある意味で、なにかのフィクション、全体性の幻想を語るということだ。それはもちろんこの時代において親和的でない。なぜなら、人はもはやそういう物語や幻想をナイーヴに信じられないからである。しかし、そういう意味づけの役割を担うものなければ、人は濫造され続ける供給過多なコンテンツ(情報)を語る言葉を持つことができない。

 そして、ふたたび話を戻せば、僕のアニメに対する付き合い方は、ながらくそういう状態にあったような気がする。僕は自分の趣味嗜好でしかコンテンツを摂取していないし、(これだけどっぷりつかっといてなんだという話だが)オタクカルチャーに対する自らの帰属意識に対して懐疑的で、そもそも「オタクカルチャー」などという言葉は、ありもしない領域を錯覚させ捏造するものに過ぎないと感じてきた。でも、僕は最近、そういう文化領域をかりそめにでも画定する言葉を持つために、素朴に「教養」を身につけたいと感じるようになった。この教養というのは、具体的にいえば、ガンダムを全部見るとか、SAO異世界転生の代表作を読むとか、そういうことである(どういうことだ)。そういうふうな文脈を踏まえてさえいれば、そのなかできっと、これまで漫然と見てきたコンテンツについて、語る言葉を持てるようになると思うのである。

 もちろん、必ずしも人は何かについて語らなければならないということではないし、それを僕は他人に強いるつもりもない。そもそも言語化というのは無粋なものだし、それなりに危険なものである。適当に言葉を使えば、借り物の表現でしかものを語れなくなる(どれだけ表現を洗練させても、そもそも言葉が借り物なので、結局はそうなるのだが)。しかもそういうレディメイドの表現はたいてい様々な錯覚や倒錯を含んでいる。だが、その危険性を踏まえ、なお沈黙は金ということを知った上でも、僕はやはり自分の「好き」について他人と語りたいと思う。そういう個人的な思いのうえで、僕はこういうことを考えている。