かんぼつの雑記帳

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三日月・オーガスのこと:「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」第1期(第1話~第25話)レビュー

0,はじめに

先日「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」(以下「鉄血」)というアニメの一期を見ました。ニコ動などでは二期の内容がよくネタにされていたり、一期と二期で評判が正反対だったりと、なにかと話題に事欠かないこのアニメ。以前から気にかけており、いつか見ようと思っていたところ、友人から一緒に見ようと誘われ、ようやく見始めたという次第です。


本作の舞台は、「厄祭戦」と呼ばれる壊滅的な戦争からかなりの時を経て、人々が戦前までのロストテクノロジーを利用しながら生きている時代。物語は、地球の「経済圏」のひとつに植民地支配されている火星の独立を目指す運動家クーデリア・藍那・バーンスタイン嬢が、同じく火星はクリュセの、CGSという民間警備会社を訪れるところから始まります。


このCGSには、三日月・オーガスオルガ・イツカをはじめとする孤児たちやヒューマンデブリと呼ばれる安価な労働力として人身売買された子供たちが寄り集まり、大人たちによる酷使と虐待に苦しんでいました。彼らは労働のために身体改造を余儀なくされ、体内にさまざまな機械を動かすための「阿頼耶識システム」を埋め込まれた存在。この世界では身体改造は禁忌とされているため、彼らはまた差別と嫌悪の対象にもされています。


1話では、そんなクーデリアと彼らのもとに、人類社会の秩序維持のために活動する組織「ギャラルホルン」が襲撃を仕掛けてくる様子が描かれます。その目的は火星独立運動によってギャラルホルンの権威を脅かすクーデリアを、不慮の事故に見せかけて暗殺すること。襲撃を受けた三日月たちは、CGSの兵器と、ながらくCGS施設の電源に使われていたモビルスーツガンダムバルバトス」を駆使して、このギャラルホルンに対抗します。


一期全体の筋書きは、そんなこんなでギャラルホルンの部隊を追い返し、CGS内でクーデターを起こして「鉄華団」を旗揚げした三日月らが、クーデリアを地球に護送するという任務のために奔走するというものです。彼らの旅の道中では企業の搾取による労働者の貧困やギャラルホルン内部の腐敗を象徴する虐殺事件や内政干渉など、この社会の持つ様々なひずみが描かれています。

1,三日月・オーガスはなぜ魅力的なのか①

今回、僕がこの作品についてここで備忘録がわり書いておきたいのは、この作品における重要キャラクターの1人、三日月・オーガス(以下「ミカ」)のことについてです。


他にもたくさんの魅力的な登場人物や、語るべき要素のあるこの作品のなかで、なぜミカに注目するのか。それは、ミカが並み居るキャラクターたちの中でとりわけ魅力的だからというのもさることながら、一番には、彼がこの作品における鉄華団の在り方を象徴するようなキャラクターだからです。


まず、ミカがどんな人物かということについての僕の解釈ですが、第一印象は「サイコ」でした。たとえば、彼は敵に対して情け容赦がなく、殺す際にも一切の同情や躊躇、その他その行為の重みに対するリアクションがありません。それを象徴するシーンやセリフはいくつもあるのですが、有名なものでいえば「ま、いいか、こいつは死んでいいやつだから」とかでしょうか。


でも、よくよくミカという人物を見ていくと、決して彼がサイコなわけではない、少なくとも一辺倒ではないことがわかります。鉄華団の面々のことをとても大切に思っていることがわかるし、その意味での優しさもちゃんと持ち合わせている。彼らが窮地に陥ったときなど、ふだん戦闘中には敵に対して冷淡で乾いた反応しか返さない彼が、怒りを露わにする場面も見受けられます。


そんなわけで、いっけん相異なる二つの側面を持つように見受けられるミカですが、僕はそれはミカのなかでは矛盾していないと考えています。ミカはおそらく自分の身内だと思った人たちには情が厚いが、そのほかの人間については冷淡で、敵ともなれば容赦をしない。そういうふうに、味方と敵とでかなりはっきりと態度を変えるタイプなのでしょう。

 

で、このキャラクター造形についての僕の感想なのですが、とても面白いと思っています。それはなぜかというと、ふつうこの手の話では、主人公格のエースパイロットは殺人行為に葛藤するのが定石のように思われるからです。だいたい主人公は思いやりや同情心が強く、それゆえにしばしばその範囲が敵にまで及んでしまう。そのため、自分がやっていることに罪悪感を覚えて苦しんだり、相手の死を痛ましく思ったりする。


そういう意味では、ミカは完全にこういうキャラクター類型のアンチテーゼのような存在です。その同情の範囲は、味方にしか及ばないからです。だから彼には殺人への葛藤がない。


この作品のもっとも興味深いところは、そんなキャラクターが主人公格に配された物語が、にもかかわらずとても(鉄華団側に)感情移入できるように、また「いいぞもっとやれ」となるように作られているところです。ふつう、こんな設定を持ったキャラクターはヒールになるのですが、そうではない。むしろそんな酷い奴なのに、ミカは受け手にとって魅力的に映る。


とはいえ、もちろん、ヒール的な要素を持ったキャラクターが魅力的に映るというのは、べつだん珍しいことではありません。悪には悪のかっこよさや魅力があって、それは優しさとか正義の心みたいなものを持つキャラクターの魅力とは全く違うものとして成立しうるからです。


でも、ミカの魅力は、そういう悪の魅力というのとも違う気がする。少なくとも僕はそのように感じました。だから、鉄血を見ながら、ずっとミカの魅力はどこにあるんだろう、ということについて考えていました。いいかえれば、ミカの魅力とはなんなのか、それはどこでなぜ生じているのか、そしてその魅力はどのような意味を持つのか、こういうことについて考えていたわけです。


僕がさっき「彼がこの作品における鉄華団の在り方を象徴するようなキャラクター」ということを言ったのは、こういう問いについて考えた結果、ミカというキャラクターをそのように特徴付けることができると思ったからです。

2,三日月・オーガスはなぜ魅力的なのか②−−痛快さ

ミカの魅力ってなんなんだろう。これを一言で言い表そうとしたとき、まず僕が思い浮かべたのはその発言や行動の「痛快さ」でした。その痛快さは、彼が戦闘中、おもに敵と通信しているときなどに感じることができます。しかもその痛快さは笑える痛快さなのです。


実際、先述したように、僕は今回この作品を友人たちと一緒に見たわけですが、そのときに僕が経験したのは、ミカがその手の言動行動をとるたびに、全員が一様に笑ってしまう、という現象でした。そして友人たちがどうだったかはともかく、その笑いが生じたときの自分の気持ちを考えてみると、やはりそれはたぶんに痛快さから生じたもののようなのです。


では、それはいったいどんな種類の痛快さなのか。僕が思うに、これは相手にとって価値があると思っていることを、端的に無価値だと即断して切り捨てることの痛快さです。といってもこれだけだとなんの話なのかわからないと思うので、具体例を挙げてみたいと思います。

(※以下ネタバレ注意)

たとえば、23話「最後の嘘」の後半シーン。
一応このエピソードの文脈を説明しておくと、この時点で鉄華団は無事地球にたどり着き、あとはクーデリアとともに、火星独立運動の鍵を握る大物政治家とともに経済圏の1つ「アーブラウ」の議事堂に向かうだけ、というところまできています。しかし、大気圏突入の際、彼らを阻んだギャラルホルンの部隊に恨みを買ってしまったため、彼らはまたしてもその部隊のモビルスーツ3機に足止めを喰らいます。


このとき、この部隊の隊長をしているのが、カルタ・イシューという女性。実は彼女はギャラルホルン創設に関わった「セブンスターズ」の一翼を担う名家の娘で、並々ならぬプライドを持っています。そんな彼女にとって、テリトリーだった地球外円部を突破されたことは強い屈辱であると同時に、家の名に泥を塗ることにもなる失態でした。そのため、今エピソードでの鉄華団との戦いは、彼女にとって自尊心を回復し、家の名に泥を塗ってしまったその汚名を雪ぐためのチャンスだったのです(実はこれに加えてここにはマクギリス・ファリドという人物への彼女の恋愛感情も絡んでくるのですが、これについては説明を省きます)。


そこで、彼女はまず鉄華団に対して、モビルスーツ3機同士による決闘を申し込みます(注を付しておくと、この世界には一応そういうルールに則った戦いで雌雄を決するという慣習が存在しています。ただこれはかなり昔からの伝統的な慣習なので、この時代には半ば形骸化しており、あまり頻繁にはおこなわれないもののようです。鉄血一期ではこれより前に一回だけこの方式による戦闘が行われました)。彼女がなぜ通常の戦闘ではなく、こんな方式の戦いでの決着を望んだのかというと、それはおそらく彼女にとってこの戦いが自らの名誉を回復するための戦いだったからです。それは後ろ指をさされるいわれのない、お互いの矜持を賭けた正々堂々とした戦いでなければいけなかったのでしょう。


しかし、ここでミカは驚くべき行動をとります。彼女の要求を最後まで聞かず、いきなり強襲を仕掛けるのです。実はここには、カルタに鉄華団の中枢メンバーを殺されたという個人的な怒りもあったのですが、それを考慮に入れても、この行動はいかにもミカらしい行動であり、鉄華団らしい行動であるとも言えます。彼はカルタが重んじる矜持や形式などどうでもいいと考えている。相手にとって価値があると考えているもの、また彼らがそれを重んじていることそのものについて、ミカはまったく顧慮しない。そしてそんな彼の行動にはやはり痛快さがあります。

3,三日月・オーガスはなぜ魅力的なのか③−−ガエリオへの怒りから

そんなこんなで、ミカの魅力とはなんなのか、それはどこで生じているのかについては答えが出ました。ミカの魅力とは、相手にとって価値があると思っていることを、彼が端的に無価値だと即断して切り捨てることの痛快さにあります。そしてそれは、そのような価値観を携えて彼に向かってくる敵との戦闘場面において、彼がとる言動行動によって生じる。ひとまずこういえそうです。


それでは、なぜその痛快さは魅力的なのか。これが僕にとっては一番の謎でした。


しかし、なんとなく物語が後半にいくにつれて、僕は徐々にその理由がわかるようになってきました。そのきっかけは、後半部で何人かのキャラクターに対して僕が抱かされた怒りにあります。


たとえば、先ほど言及したカルタやマクギリスの幼馴染で、おなじくセブンスターズの家の出であるガエリオという男がいます。彼は物語序盤からマクギリスとともにギャラルホルンの一員として登場しますが、この男はその頃から不快なキャラクターでした。たとえばギャラルホルン鉄華団と明確に敵対関係に入る前、彼は一度マクギリスとともに火星を訪れ、そこでミカたちと出会っています。そのときから彼は、ミカの脊髄の不自然な盛り上がり、つまり阿頼耶識システムの施術の痕跡をあからさまに嫌悪していました。身体改造された者に対する差別意識の表れです。


ガエリオはほかにもことあるごとに鉄華団の面々を宇宙ネズミという蔑称で呼びならわしたりと、いけすかないところのあるキャラクターですが、そのいけすかなさが一層際立つのは、彼が部下や友人に対して篤い友情を示したり、自分の戦いを正しいと信じているところが描写されているときです。彼がもっともらしいことや高潔な理想なり思いなりを吐露するたびに、こちらとしては、差別意識を丸出しにして鉄華団の面々を扱ってきたくせになぁと思ってしまうわけです。


こうしたキャラクターの差別意識や欺瞞に対する怒り。そして、そういったキャラクターたちに虐げられている孤児たちやヒューマンデブリに対する強い感情移入。この二つの気持ちは、後半になるにつれてますます強まっていくことになります。そしてその自分の怒りと感情移入を自覚するなかで、僕は、自分が今までミカに対して抱いてきた痛快さとは、こういういけすかないキャラクターたちが重んじるものや価値に対して、彼が孤児としての、虐げられてきたものとしてのリアリティを突きつけるところにこそあるのではないかと気づきました。

4,三日月・オーガスはなぜ魅力的なのか④−−ミカのリアル

ミカにとって、この作品世界はどんなふうに映っているのか。それはおそらく、かなりシンプルな世界なのではないかと思います。弱いものが虐げられ、強いものが虐げる。強くなれば生きていけるが、弱いままだと奪われ、利用され、絞り尽くされて殺される。だから彼にとってカルタやガエリオその他のキャラクターの主張や価値観には興味がない。彼らが敵か味方か、どちらが強いのかが大事なのであって、その他のことを理解するのに手間をかけても意味がないと思っている。なぜならミカにとって、あらゆることの白黒は端的な暴力によって、どちらが強いかによって決まるからです。


そういう意味で、彼には理念もない。つまり世界をよりよくしようとか、誰もが幸せに暮らせるようにしよう、といった、ある種の普遍的なものの考え方がない。彼にとってリアルなのは、自分の身の回りにいる者たちだけです。敵対してくる者にも大切なものがあり、またその人を大切に思う人がいるかもしれない、というような想像力がなく、そこに関心もない。いまここにいるみんなだけが身近でリアルで大切だ。そういう発想が根底にある。


ここには二つの強いリアルがあります。弱肉強食というリアルと、身近な人以外人は愛せないというリアル。ミカはそういうリアルなものしか信じられないキャラクターなのであり、彼がそうなった理由としては、彼の生来の性質もさることながら、出自も大きいように思われます。


ともあれ、こういうミカのリアルを奉じる世界観から出てくる言動行動、その身も蓋もなさは、結果として敵対してくるキャラクターの欺瞞を暴き出したり、甘さを指弾したり、権威を滑稽化したりするような効果を持つ。つまり敵の視点に映るものの意味を彼の視点からひっくり返してしまう。これがミカの魅力(その言動行動の痛快さ)の正体なのではないかと思うわけです。

5,おわりに

最後に残ったのは、その魅力はどのような意味を持つのかという問いですが、これはこれから二期を見るにあたって、僕にとってとても重要な意味をもつ問いなのではないかという気がしています。それというのも、この問いについて考えていくと、結局鉄華団の在り方を肯定していいのかどうかということに繋がっていくからです。


これまで僕はミカのこの魅力を「相手にとって価値があると思っていることを、彼が端的に無価値だと即断して切り捨てることの痛快さ」にあるとして、それは結局視点のひっくり返しの痛快さなのだと言いました。そしてそこにはやはり受け手の怒りが前提されているわけで、だからこそミカがなにか言ったりやったりすると「よくぞ言ってくれた/やってくれた」という気持ちにもなる。


それではその怒りはどこからきたものなのか。もちろんこれは、ひとつには、鉄華団の面々に対する感情移入からくるものでしょう。彼らは理不尽な目に遭ってきたのだから、これ以上そんな目に遭うのは許せない。そう思うのは自然なことです。


だからそれはそれとして、そう思うのはいいのですが、問題は、そこで鉄華団の在り方に同調し過ぎることです。鉄華団の価値観は、基本的にミカの価値観と近いように見受けられます。そしてその説でいくと、鉄華団の基本的な発想は、弱肉強食、身近なものだけを愛する、というものです。それは確かにリアルなのですが、理念とか普遍性を持っていません。だから彼らに全面的に感情移入し、それでよしと割り切ってしまうと、それでは彼らの奪った命や、奪ったものについてはどうなるの? ということになる。あるいはそれじゃ結局不毛な循環を繰り返しているだけじゃないか、という気分になる(べつにそれでもいいという考え方もあると思いますが)。つまりここにはどうしても、ミカ的な主人公類型と旧来の主人公類型(できれば敵も殺したくない主人公)それぞれの是非についての問題が回帰してしまう。


またこれは、受け手がコンテンツとどう向き合えばいいかという問題にも派生していくように思えます。つまりそれは、受け手にまず怒りを抱かせ、ついでそこから生じる復讐心を満たしてあげることでカタルシスを得させるというタイプのコンテンツを許容していいかどうかという問題や、キャラクターの葛藤は要るかどうか問題と繋がるような気がします。僕は個人的にはそういうタイプのコンテンツを許容しませんし、キャラクターは葛藤した方がいいと思う。でも、それはそれとしてミカの在り方が魅力的なのも事実で、それを倫理的な立場からのみ断じてしまうのも、コンテンツの可能性を狭めてしまう気がする(少なくとも鉄血は前者には当てはまらないと思いますが…)。


このあたりのことを、二期では扱うのかどうか。もし扱うとしたら、それはどのように扱われるのか。今のところの僕の予想では、それはおそらく鉄華団やミカの変化(あるいは変わらなさ)の描写を通して、扱われるのではないかという気がしています。そのうえで、彼らがどういう運命のなかで、どういう考え方の元に、どういう選択をしていくのか。それをしっかり見届けたいと思います。