かんぼつの雑記帳

ほとんど個人用メモ。アニメ・哲学などを扱ったエッセイを投稿しています。

好きでいるための努力

大昔に『化物語』を読んだとき、強烈に印象に残ったことがある。それは八九寺真宵の「好きなものを好きでいるために努力することは不純なことではなく大事なことなんだ」という旨のセリフだ。

一方には、ほんとうに好きならば、それを好きでいるために努力する必要なんてない、したがって好きであろうとし続けることは不純だ、といったたぐいの考えがありうる。そして真宵のこの発言は、そういう立場に対して、ほんとうにそうなのだろうかと、問いかけ直すようなものである。

現在、僕の手元に『化物語』はなく、確認が取れないため、もちろんこういうことを真宵が言ったかどうか、あるいはこういう文脈の話だったのかは定かでなく、僕の記憶違いの可能性も大いにありうる。ただ、僕にとって重要なのは、その発言の有無や真偽よりも、その内容だ。好きなものを好きでいるということはどういうことなのか。そのために努力は必要なのか。この問いそのものが妥当なものなのかはともかく、それを通じて考えられようとしているものは、とても深い問題なのではないかというのが、僕なりの直観だ。

ところで、こういうことをことさらに今とりあげるのは、僕が最近、まさに好きなものを好きでい続けるために努力する必要を感じたことがあったからだ。その好きなものとはアニメである。

実は最近、アニメを見ることに飽きつつあった。理由はよくわからない。ただ敢えてそれを挙げるとすれば、いくつかあげられないこともない。たとえば、アニメにお定まりの文法みたいなものに食傷しているというのがひとつ、それからこれは数年前から薄々感じていたことではあるが、毎クール毎クール数十本単位でコンテンツがひたすら濫造され、それらのほとんどがクールが過ぎ去るとともに潮が引くように忘れ去られるという状況の過剰なスピード感なりバカバカしさなりについていけなくなってきたというのがひとつ(もっとも、これは作り手が考えなしに作りまくってるとか、消費者が馬鹿みたいに消費しまくってるからこうなってるというよりは、市場そのものの構造的な問題なのだろう)、最後にこれは非常につまらない理由ではあるが、僕もそろそろ歳だしなと感じているというのがひとつ。あと多少これもまた馬鹿げた話だが、僕の集中力の低下もあるいは要因の一つかもしれない。

ともかく、それで最近はアメリカ文学(チャンドラー、アーヴィング、キング)やアクション映画の方に関心が行っているという次第で、アニメはこれきりとうぶん見なくてもいいかもしれないと思いかけていた。そして後に述べるような理由でモチベーションは再燃したし、今期(2018年秋クール)はさいわい『ゾンビランドサガ』のおかげで楽しくオタ活できているのだが、それでも来期はどうなっているかわからない。

そしてこれはどうやら僕だけに起こっている現象でもないらしい。たとえば地元でよくあう友人などは、かつては中学生時代にそのクール毎に放映されているアニメをめぐってともに雑談に花を咲かせたものだが、いまやそのモチベーションはほとんどないらしい。それにTwitterをぐるりと見回してみても、社会人になったのを機にとか、なんとなくとか、その他様々な理由で、アニメを見なくなっていく人は多いように見受けられる。もちろん、それらを共通の現象として一括りにできるかどうかは大いに疑問だが、まぁそういった人は一定数いるわけだ。

もちろん、僕もそういった人たちの大多数のように、なんとなくでアニメから撤退、アニオタ(そもそも僕はアニオタだったのかわからないが)は廃業! というふうにしても良いのかもしれない。

でも、十代の前半から後半にかけてあれだけ熱中し、いろんな問題を抱えつつも付き合ってきた趣味なりライフスタイルなりを、今になって、こんなかたちでやめてしまうというのも、なんだか寂しい話である(僕はこの手の詮無い感傷に固執して道を踏み外すことが少なくないが、それはそれとして)。それで僕は最近、アニメを好きでい続けるために、努力をすることにした。

たとえば、最新話を1話1話見終わるたびに、自分なりに面白かったところ、見応えがあったところ、そしてその箇所から感じたことなどをできるかぎり具体的に、Twitter言語化したり、人の感想を検索して読むようにした。もともと僕はなにごとにつけ言語化や感想の共有というものを軽蔑していた時期があったので、そういうことに慣れ親しんでこなかったというようなこともあり、そういう作業は苦手だったのだが、それを繰り返していくうち、だんだんとそのコンテンツに漠然と感じていた魅力が焦点を結ぶようになり、それが視聴継続のモチベーションになった。

また、別の例を挙げれば、こういうところがもしかしたら僕がアニオタらしからぬ? ところなのかもしれないが、僕は今までアニメ雑誌やwebの記事なんかをろくすっぽ読んだことがなかった。それを最近になって、別の記事で書いた雑誌への興味も手伝って、多少チェックするようになった。またweb記事の情報を拾うため、作品毎の宣伝用Twitter公式アカウントのツイートをしっかり追うようにした。

すると、そこでやはり自分が今まで読まなかったようなものを読む機会が増える。たとえば声優へのインタビュー記事がそれである。もともと、僕はスタッフはともかく、キャスト(声優)がそのコンテンツについてどう考えているかということにはほとんど興味がなかったのだが、それを読んでいるうちにだんだんと面白いと感じるようになった。作り手として作品に携わっている人たちの作品解釈、キャラクター解釈を読むことを通して、作品の魅力を新たに意識したりそれを語る新たな語彙を得られるということはもちろんだが、かれらがどのように試行錯誤し、考えながら演技に臨んでいるかということを知ると、そこで言及されていた具体的な場面を見直すために、一度見たエピソードを復習する機会にもなった。

もちろん、こうしたことは、ふつうのアニオタ(アニメ好き?)は当たり前のようにやっていることなのかもしれない。しかし、僕にとってこうしたことはひどく新鮮な体験だったので、こんなふうに一工夫すれば、こんなにもコンテンツは楽しめるようになるのか、とびっくりした。それとともに、自分が今までいかにテキトーにコンテンツと関わってきたのかに気づき、それもまた大きな驚きとなった。

では、そのテキトーさとはなんだったのか。それはひとつには、細部への(アイロニカルなという意味ではなく、素直な)こだわりや、そういうこだわりを持っている自分の感覚への無関心だろう。また他方では、それは、欲望の文脈をしっかり多様化していく作業の欠如だったのだろう。人は何かを好きになるとき、その好きを意識し感覚していなければならないし、その好きは様々な文脈を絡めることで多様化していくことができる(そしてそういう意味ではアニメ以外のほかのジャンルにも色々と手を出しがちな僕の傾向は良いものなのかもしれない)。すごく大雑把な話をすれば、僕が今まで怠ってきたのは、その二つだったのではないかと思われる。