かんぼつの雑記帳

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アニメ『Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ』の物語構造について

※注意…全面的なネタバレを含みます。

 

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先日、友人から唐突にLINEが来て、母校(大学)の文化祭に行かないか、と誘われた。われわれが卒業した大学は美術系の大学だけあって、その文化祭にはなかなか見応えのあるものがたくさんある。とはいえ、既に四年間ものあいだこの催し物に参加してきて既にいくぶんか食傷気味だった僕としては、別段行っても行かなくてもどちらでもいいというような心境だった。
それでも友人の誘いに乗ってこの文化祭を見に出かけたのは、それそのものが楽しみだったというよりも、それを口実にして久しぶりに友人と会いたかったからだった。しかしいざ文化祭に行き、展示物を見て回ると、やはりそれなりに収穫がある。それを得たのは学生たちが作った映像作品を見たときのことだった。
この映像作品はいわゆるニチアサにおける特撮枠の一つであるところの仮面ライダーをパロディした作品で、おそらく制作陣にその意図はなかったように思われるが、ここには随所に特撮批評とでもいうべき要素がちりばめられていた。たぶんこの作品そのものに批評性があったというよりは、大学の教室で展示されているものとして、アマチュアが「それっぽく」撮った特撮作品を見る、という環境そのものがそういう効果を作品に付与したという側面も大きいのだろうが、ここでは作品をその鑑賞の環境抜きで独立したものとして語れるか、といったことは脇に置いておくとして、話を前に進めることにしよう。
ともあれこの作品において僕が一番興味深く見たのは、主人公の仮面ライダー(厳密にいえば仮面ライダーではないのだが、便宜的にそう表現しておく)とは別に、もう一人の仮面ライダーが登場する、いわゆる登場回にあたるストーリーだった。まず、このストーリーはそのもう一人の仮面ライダーの存在が仄めかされるシークエンスで始まり、そのあとで主人公がある怪人と戦っている場面に移る。主人公は懸命に戦っているが、怪人は部下と二人掛かりで攻撃を仕掛けてくるため、彼は苦戦を余儀なくされる。こうして形勢が怪人たちの側に傾きかけたところで現れるのがこの新しい仮面ライダーである。彼は主人公に比べてはるかに高い戦闘能力を有しており、おまけに飛び道具まで持っているので、怪人たちをあっという間に追い込んでしまう。しかし彼が一般人を巻き添えにしてまで怪人を倒そうとすると、主人公は一般人を逃がすためにこの邪魔をしてしまい、結果的に怪人を取り逃がすことになる。主人公は戦闘ののち、この仮面ライダーを一般人を巻き添えにしようとしたかどで問い詰めるが、この主人公の正義感は一笑に付され、おまけに「お前のような役立たずは要らない、俺が一人で奴らを倒す」とまでいわれてしまう…。
文化的な背景に依るとは思うが、私見ではこういう展開を目の当たりにして既視感を覚える人は多いのではないかと思う。少なくとも僕としては強烈な既視感を覚えたのだが、僕の場合、この既視感には明確に具体的な参照元が存在した。それは最近見たアニメ『Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ』(以後プリヤ)一期の展開である。
プリヤは簡単にいえば魔法少女モノのアニメで、仮面ライダーと同様にバトル要素のある物語コンテンツだが、一期ではサーヴァントと呼ばれる英雄の霊が具現化した敵七体と、主人公の少女イリヤが戦いを繰り広げるという内容になっている。とはいえ、イリヤは巻き込まれ型の主人公なので、物語開始時点から魔法少女だったわけではなく、やむにやまれぬ、あるいはいくつかの個人的な事情によってこのサーヴァントと戦う羽目になる。したがって一話では魔法少女としてまったくの素人であるイリヤは、当然サーヴァントとの戦闘においてピンチに陥るのだが、ここで助けに入るのが本作もう一人の魔法少女であるところの美遊で、彼女は最初から魔法少女の切り札である「クラスカード」(サーヴァントの力の一部を引き出して使うことができるアイテム)を使いこなし、このサーヴァントを一撃で倒してしまう。
このくだりだけでも先の映像作品とプリヤのストーリー展開が酷似している(主人公が敵と戦っている→ピンチに陥る→主人公が打破できない展開をもう一人の戦闘キャラクターが圧倒的な実力で打破する)ことがわかっていただけると思うが、両者の類似はこれだけに留まらない。その次の回で魔法少女として戦う理由をイリヤに尋ねた美遊は、彼女の「なんとなく」「面白そうだから」「しかたなく」という答えを聞いて「そんな理由で戦うなら戦わなくていい。あとのサーヴァントは自分が倒す」というのである(では逆になぜ美遊がこのサーヴァントたちと戦うのかといえば、それはのちに明かされるように、彼女がこの騒動のそもそもの発端に関係するキャラクターだからである)。
ちなみに、件の特撮作品ではその後どうなるかというと、怪人が兄弟を引き連れて二人掛かりでもう一人の仮面ライダーと戦う展開になり、このピンチに主人公が駆けつけるかたちで、友情関係と共闘関係が成立する。一方のプリヤはどうかといえば、この一期はまるまるイリヤと美遊の友情・共闘関係が成立するまでの物語だといってもよいくらいで、ほとんど同一の展開(一人で最強のサーヴァントに立ち向かい窮地に立たされた美遊をイリヤが助けに行く展開)がクールのクライマックスに待ち受ける。むろん、たかだか23分ほどの映像作品と一期分のアニメ(約22分×10話)では分量がまるで違うから、そこに至るまでの過程は変わってくるのだが、全体の構造を鑑みればここまで似ているというのは面白い。
おそらく、この構造に思いが至った時点で、これをヒントに物語の様々なテーマについて考えることができるだろう。たとえばこの構造はいわゆるバディもの(アニメでいえば『Tiger&Bunny』、ドラマでいえば『相棒』など…)の序盤においても使われているのか、といったことを考えるのも面白いだろうし、ある別のコンテンツにおける似ているが違うようにも思える展開(たとえば『ドラゴンボール』において復活したフリーザが未来からきたトランクスに容易く斬り殺されてしまうところなど)とこの構造に必然的な類似性はあるのか、といったことを考えるのも面白いだろう。だが僕がここで真っ先に考えたのは、「なぜ後から現れた魔法少女(や仮面ライダー)は主人公を拒絶するのか」という疑問だった。
この問いに対する答えは様々なかたちで可能なのだが、ともあれ僕が思いついたのは 「物語を繰り延べるため」という制作者の視点を想定した答えである。むろん、制作者としては「雨降って地固まる展開にすることで二人のキャラクターたちの絆を強く結ぶため」といったような思惑もあるのだと思うが、僕はそれを脇に置いたまま、帰りの電車の中でプリヤのストーリーがどのように繰り延べられているのかについてぼんやりと考えていた。
今思えば、こうした恣意的な連想が僕の頭の中で展開されたのにはそれなりの理由があって、それはおそらく僕がかねてより漫画の連載やアニメのクール単位でのストーリー管理がどのような手法でなされているのかを考えたいと思っていたからだった。というのも、まず連載という制度において綴られる物語は、ほんらい物語というものが始まりと終わりを持つものであるにもかかわらず、商業的な理由からその終わりをつねに遅延させたり、新しい始まりを用意しなければならない宿命を背負っているし、アニメは一話ごと、あるいは数話ごとの物語にケリをつけたりキリのいい引きないし溜めを作りながらも、それを最終的には1クール分という大枠での物語としても見せねばならない(むろん日常系作品などはその限りでもないかもしれないが)。したがって両者はその点においてふつうに物語が語られる仕方とは別の仕方で語られているか、あるいは物語制作の技術としてもともとあるのかもしれない繰り延べをかなり工夫したかたちで用いているはずで、その点においてこれらのコンテンツの分析にはこの繰り延べの技術の分析が不可欠になる。
ともあれこのようなわけで、僕は今回の鑑賞体験から気づいたある特定の物語構造をきっかけに、プリヤを参照しつつこの繰り延べについて考察をおこなってみた。以下に記すのはその成果である。

 

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ここでは、まず僕が「なぜ後から現れた魔法少女(や仮面ライダー)は主人公を拒絶するのか」という問いに対して「物語を繰り延べるため」という回答を考えた理由を述べ、のちの議論の土台を作っておこう。
そのためにはここで僕が通常考えている物語というものについて定義しておかなければならないだろう。僕の物語モデルは非常に単純なもので、それはひとことでいえば「問題が提示され、解決されていくその過程を描くもの」である。そしてこのモデルは僕の独創的な発想に基づいて作られたものなどではなく、物語論とか歴史哲学とか、あるいは脚本や小説制作のハウツー本なんかで繰り返し語られてきた典型的なモデルでもある。
たとえばフレドリック・ジェイムソンという人は『言語の牢獄』というテクストにおいて、この手の物語モデルの原型を作り上げた人たち(構造主義ロシア・フォルマリズムの派の人たち)の思考の形式のようなものについて論じているが、彼はその過程でその物語モデルに言及している。
彼によれば物語には欠如→回復(これを問題→解決といいかえてもよい)といった「願望成就の形式」が存在するが、これは物語の前提条件ではあっても、物語を成すに十分なものではない。なぜなら物語においては「どのように」この願望成就がなされるかということが重要なのであり、変化そのものではなく変化の様相を記述することが重要だからである。いいかえればそれは「過程」こそが重要なのだということでもあり、この議論は「人間はその思考の形式のなかでいかにして時間を記述できるのか(時間の空間化や歴史の構造化についての問い)」という哲学的な議論にも繋がるのだが、こうした難解な問題はここではひとまず措いておくとして、ともあれここでは彼によっていわれているようなことが物語というものを定義するために必要な要素なのだと、さしあたりこう考えておこう。
そしてこの議論はさらに言語学者のA.J.グレマスが考えた行為者モデルの議論に接続される。行為者モデルの議論とは、物語のキャラクターは物語においてそれを進行させるための役割を担っているという考え方で、この役割モデルは全部で六種類ある。これらはそれぞれ主体、対象、送り手、受け手、敵対者、贈与者と呼ばれる。
主体、というのは一般的に主人公といわれているような存在に近く、ある対象をめがけて行動する特性を担った役割である。物語は送り手が主体を対象に向けて送り出すところから始まり、主体はこの対象を目指して進むが、途中で敵対者にその進行を阻まれる。このことによって主体はたいていの場合ピンチやジレンマに追い込まれるが、贈与者の助けによって最終的にはこの敵対者を助けるなり危機を克服するなりして、対象を獲得する。あとは主体がこの対象を受け手に引き渡せば物語は完結する。
さてジェイムソンはこの行為者モデルをどのように先の物語モデル(欠如→回復の形式を前提としつつも、そうした始点と終点ではなく、過程に重心を置くものとしての物語モデル)に接続するのか。彼によれば、この変化の過程の「どのように」を担うのはつねに贈与者なのであり、ここに彼の物語論についての言及の眼目がある。つまり、難解になるのを承知でいえば、ここでジェイムソンが言いたいのは、ある自立し閉鎖した歴史の体系なるもの(たとえば文学なるものの自立した歴史としての文学史)があるとき、その歴史において記述されるなんらかの変化の原因は実は外部からもたらされるということであり、それはとりもなおさずこの歴史の自立性や閉鎖性、自己同一性の不可能性を暴露する、ということである。そしてこのことは、変化の記述が可能になる条件を示しているのであって、その条件とは、体系の外部からくる<他者>なのである。この<他者>を物語論の文脈でいいかえればそれは贈与者だということになるのだが、ここらへんの議論は理解しなくてもよい。とりあえずここで押さえておくべきことは、ジェイムソンが物語を定義するにあたって、欠如→回復の形式にくわえてその過程の様相(how)を考えねばならないといったこと、そしてその様相の記述には贈与者が必要になると述べたということ、である。たとえばある国の王から遣わされた勇者(主体)がさらわれた姫(対象)を助けるために竜(敵対者)との戦いに挑まなければならなくなったとき、ここで勇者に竜という絶対的強者を倒すためのアイテム(聖剣など)をあたえる者(賢者など)があらわれる、といったような展開は様々な物語において似たような形で生じるが、ここで主体にアイテムを与える役割を担うものこそはグレマスのいうところの贈与者であり、そしてこの場面において贈与者はあきらかにこの物語が陥った問題(勇者の任務を邪魔する竜)を解決に導く決定的な原因となっている。それはとりもなおさず「主体は贈与者の協力によって(who)問題を解決した」という構造が「主体はこのようにして(how)問題を解決した」という構造であることを意味しているのである。つまり物語にとって大事なのは副詞にあたる部分なのだ。
さて、これまで僕はジェイムソンの議論を参考にしつつ、物語というものを考える際の基本的な枠組みを概説してきた。むろんグレマスらが分析の対象とした物語は古い民話などが大半なので、これを単純に現代の物語に適用できるかというと必ずしもそうではないし、実際の物語にはもっと入り組んでいて、かなり重層的な分析をしないと構造を整理できないものもあるが、ひとまず単純なモデルとしてはこういったものを想定できる。そしてこれは決して原理を欠いた偶然的ないし経験的な形式などではなく、人間の思考や、欲望のありかたと必然的に関わっているという意味で擬普遍的であり、ここではこのような理由からこのモデルを戦略的に用い、歴史的な時間の隔たり(古い民話と現代の物語の隔たり)を捨象する。このモデルが擬普遍的であるというのは、たとえば「欠如の回復」というモデルを顧みればわかるが、実はこれは古くはプラトン哲学における愛(エロス)のモデルであったりもするのであって、たとえこの愛、欲望のモデルにプラトン哲学の形而上学的で浮世離れした色合いが加わっているにしても、それは我々が「私の生きがいは…」「今年の目標は…」「今日とりあえずやっておきたいことは…」というようなことを考えるときの思考や欲望のありかたなどにも関わっているからである(つまり人の心のあり方が決定的に変化しない限りこの欲望モデルもそれに沿って作られた物語モデルも時代を超えてある程度は妥当といえる)。物語の形式はその点において人間の欲望や実存の形式に寄り添ったものであり、物語がこういった形をとるのは、それが人間の欲望のありかたにフィットさせられているからなのである。
ともあれ、いつまでも「問題の解決が〜」「行為者モデルが〜」などといっていても始まらないので、物語の定義や理論などの話は終えるとして、ここからはこれらの枠組みを実際に用いて、問題となるプリヤの第二話を分析してみよう。

 

2,

ふつう、単純な物語のあらすじないしプロットは、三つの段落にわけて構文で記述することができるし、究極的には一文の構文で表現できる(後者をログラインという)。ログラインを使うとプリヤ未視聴の方にはよくわからないことになるので、ここでは前者を用いてあらすじを書くが、この四つの段落はそれぞれ、

 

1.前提情報の整理と提示(あるとき、あるところに、Aという人がいて、Aはこんな人で、こんなふうな状況aのなかで生きていた)。
2,事件や葛藤の出現(そんなある日、こんなことが起こって、Aは状況b(多くは危機や葛藤状態)に陥ってしまった)
3,ブレイクスルー(しかし、Aは〜によって、この状況bを脱する)
4,結末(こうして、Aは状況cに至った)

 

といった内容をもつ。この構文は僕が勝手に作ったものだが、映画脚本のハウツー本などを見ても似たようなものは出てくる。
ともあれ、基本的にはこの構文を使いつつ、この構文でカバーできないような内容を含む場合(たとえば一つの話において重層的に展開されている二つの物語があって、一方の展開が他方に影響するようなとき)には、適宜この形式に補足的な説明を加えながらあらすじを書き出すこととする。
そのまえに、まずは第一話のおさらいをしておこう。
物語は本作の主人公、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン(イリヤ)の日常を描くところから始まる。彼女は魔法少女もののアニメが好きな小学生で、両親は海外を転々としていてなかなか帰ってこないが、メイドの二人や、兄の衛宮士郎、そして学校の友人たちに囲まれて楽しく暮らしている。
しかしそんなイリヤのもとに、あるとき、マジカルルビーという意志を持った魔法のステッキが飛び込んできて、彼女に「魔法少女にならないか」と勧誘してくる。実はルビーはこの冬木の地に災厄をもたらすかもしれない七体のサーヴァントを倒すために、魔術を学ぶための学院から遣わされた二人の少女たちの一人、遠坂凛の魔術礼装(サーヴァントと戦うための装備)だった。しかし、ルビーの主君である彼女と、その仕事仲間であるルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは犬猿の仲で、まったくお互いに協力するそぶりを見せない。彼女たちの協調性のなさに愛想を尽かしたルビーと、ルビーの妹分であり、ルヴィアの魔術礼装であるマジカルサファイアは、この主君たちのもとから逃げ出して、もっと魔法少女然としたかわいらしく自分たちにふさわしい主君を探していたのであった。
そこで白羽の矢が立ったのがイリヤなのだが、当のイリヤははっきりとした態度を示さない。そうこうしている間に、ルビーの居場所を突き止めた凛が彼女らのもとにあらわれ、イリヤに対しルビーを返すよう要求してくる。だがルビーはイリヤを自分の主にするといって聞かず、そこでしぶしぶ凜はイリヤをサーヴァントとの戦いに巻き込むことにする…。
この第一話をイリヤの物語として考える場合、実はこれを第二話との続きものと考えるほうが適切なのだが、それでもこれを単体の(結末が宙づりにされた)物語として考えることはできる。というのも、主体≒主人公というのは、一般的に考えられているよりも実ははるかに主体性に欠けるキャラクター格で、物語論における<召喚の辞退>というタームが示すように、行動を起こすきっかけを与えられないと行動に移らないうえ、そうしてきっかけを与えられてもなおこれを拒絶することが少なくなく、したがって、しばしばアニメや漫画などでは主人公が行動に踏み切るかどうかについて葛藤していたり、それに乗り気でなかったり、それを拒絶したりするのを、逆の方向へと持っていくために一話を割くというパターンが見受けられるのだが、この第一話もそのようなパターンのものとして考えることができるからである。
とはいえ、この第一話の場合、この葛藤の解消が最終的に主体的になされることがなく、凛の半ば命令にも近いような依頼によってその解決を遅延されてしまうため、この段階でのイリヤはこの一期全体の問題(サーヴァントの打倒とクラスカードの回収)について消極的な態度しか持っていない。したがってプリヤ第一期においてはこうして一旦宙づりにされた問題がのちに第七話のあたりで改めて蒸し返され、最終話まで影響を及ぼすことになるのだが、これについてはのちに重大な論点になることだけを明記して、一旦脇に置いておこう。
ここからは第二話からのあらすじを先に示した構文に沿って記述する。

イリヤ冬木市に住む普通の小学生だったが、あるきっかけで魔法少女として、サーヴァントを倒し、彼らを倒すことで入手できるクラスカードを集めなくてはならなくなったのだった。
そんなある日、イリヤ(主体)は凛(送り手)に呼び出され、サーヴァント(敵対者)との初戦に臨むことになる。だがイリヤは魔法の知識や戦闘の技術もないうえに、凜はサーヴァント相手にはほとんど無力。一方のサーヴァントは英雄が制限つきとはいえ現世によみがえった姿であり、その魔力も戦闘能力もはるかに優れている。イリヤはなんとか実戦を通してサーヴァントとの戦い方を覚えていくが、サーヴァントは「宝具」と呼ばれる必殺技を発動し、イリヤを斃そうとする。
絶体絶命の危機に直面したイリヤだったが、そのとき彼女の前にもう一人の魔法少女(贈与者)が現れ、サーヴァントをあっという間に打倒してしまう。
このようなわけで、イリヤは危機から脱し、サーヴァントを倒したのだった(問題の解決)。

正確にはサーヴァントを倒したのはイリヤではなくこのもう一人の魔法少女
(美遊)であるため、第二話ではきっちりとイリヤ自身が問題を解決し、それらを清算したわけではない。これについても後々述べることになるが、それも今は措いて、ここでは第二話における美遊の立ち位置に注目しておこう。
美遊は当然問題の解決の決定的な原因となっているために、ここでは贈与者の役割を担っていることが明白なのだが、一方で第二話が終わった後の第三話で、彼女ははやくもイリヤを拒絶し、イリヤが戦う動機を問い直すことで、その後の展開への流れを作ることになる。
つまり、美遊は紛れもなく第一話〜第二話までの一つの物語の流れを「終わらせた」のだが、また一方で新たな問題を持ち込み、第十話まで展開されることになるプリヤ一期の大きな流れを「始めて」もいる。とはいえ、一期の内容を知らない方にとっては、このあたりのことがよくわからないだろうから、これについても一応説明しておこう。
一期のクライマックスとなるサーヴァント・バーサーカーとの最終決戦パートでは、美遊とイリヤの物語が交互に展開し、イリヤの物語についてはイリヤの母・アイリスフィール・フォン・アインツベルン(以下アイリ)が、美遊の物語についてはイリヤが贈与者となってブレイクスルーがなされる。とはいえこの二つの物語は並行関係にあるというよりはむしろ主従関係にあり、イリヤの物語は美遊の物語のために展開されている向きがある。あるメインの物語において贈与者の役割にあるキャラクターを主人公とした物語、つまり彼ないし彼女が躊躇しながら最終的にこの贈与に踏み切るまでの物語が、メインの物語と交互に展開される、というのもかなりの頻度でさまざまな作品に用いられるパターン(近々で僕が見たところではたとえば『ブレイブウィッチーズ』の第四話など)だが、プリヤ一期のクライマックスもこのような仕掛けで作られているといえる。
ともあれ、プリヤ一期のクライマックスパートはこのような構造を持っている、ということを確認したところで、ここでは構文に沿ってイリヤと美遊の物語のあらすじを示しておく。

イリヤ(美遊の物語における贈与者)の物語〉
イリヤ(主体)はひょんなことから魔法少女になった小学生。彼女は凛、ルヴィア、そしてもう一人の魔法少女・美遊とともに、サーヴァントを倒し、クラスカードを集めるための戦いに巻き込まれていたが、何でもできて戦闘能力も高い美遊に対して、少なからず劣等感や申し訳なさを感じていた。
そんなある日、イリヤはサーヴァント・アサシンとの戦いにおいて危機に陥ったことで魔力を暴走させ、危うく美遊たちをその攻撃に巻き込みそうになってしまったことによって、美遊に今後の共闘を拒否される。イリヤは美遊の一言と、命の危険を感じたことを理由に魔法少女をやめることを決めるもののの、美遊が危険な戦いに巻き込まれていることを知っていながら、自分だけが日常に帰っていいのかと葛藤する。しかし、彼女は美遊がイリヤに言った通り、自分が美遊の邪魔になってしまうというのではないか、という意識(敵対者)のために、この葛藤を解消することができない。
そんなふうにして悩み続けていたイリヤのもとに、ある日、母親のアイリ(贈与者)が海外から帰ってきて、彼女の相談に乗ってくれる。イリヤは美遊に言われた言葉にこだわり美遊を助けに行けないでいるが、アイリはこの言葉に、「ほんとうにイリヤが足手まといだからそういったのではなく、そういったことで友達を危険から遠ざけようとしたのではないか」と別の解釈を示してみせる。
こうして、イリヤは美遊を助けに行く決意を固めたのだった。

〈美遊の物語〉
美遊はとある事情でサーヴァントと戦い、クラスカード(対象)を回収しなければならなくなった魔法少女である。彼女はもう一人の魔法少女イリヤとともにサーヴァントを倒して回っていたが、彼女の事情にイリヤを巻き込みたくないが故に、彼女を遠ざけ、ついには魔法少女としての戦いから撤退させてしまう。
そんなある日、彼女(主体)は凛、ルヴィア(送り手および受け手)とともに、最後のサーヴァント・バーサーカー(敵対者)と戦うことになる。ところがこのバーサーカーの正体はギリシャ神話最優の英雄ヘラクレスであり、十三回分殺さなければ死なない特殊な肉体を持っていた。美遊は凛とルヴィアに撤退を呼びかけられるが、ここで撤退したら次の戦いではイリヤが呼ばれる羽目になると考えたすえ、凛とルヴィアだけを強制的に帰還させ、このサーヴァントと自力で戦うことを決意する。
美遊は善戦するものの、バーサーカーの強靭な肉体と卓越した力の前に追い詰められてしまう。しかし彼女がとどめを刺されると思ったその瞬間、魔法少女の姿になったイリヤ(贈与者)が現れ、すんでのところで美遊を助ける。イリヤを危険から遠ざけようと思っていた美遊だが、イリヤの想いを知って二人で戦うことを決意し、二人(とイリヤが連れてきた凛とルヴィア)はバーサーカーに挑む。
こうして、美遊はイリヤと改めて友情で結ばれ、バーサーカーを倒すことに成功したのだった。

少しばかり補足説明をしておくと、美遊が凛とルヴィアを帰還させることができたというのは、このサーヴァントと美遊たちが戦っている世界が、日常の世界と違う次元のようなところにあるからであり、おまけにこの次元の間を行き来したり、そこに他人を連れてきたりそこから帰したりできるのは、ある例外を除いてルビーやサファイアの所有者、つまりイリヤと美遊だけだからである。
さて、以上で説明したあらすじが一期のおよそ八話から十話までの内容になるのだが、これらが第二話、第三話において美遊がもたらした物語のポテンシャルを活かしたものであることはわかるだろう。もし美遊に何一つ抱えている秘密などなく、彼女がイリヤに終始協力的で、サーヴァントが現れたこの事態について(のちの展開で明らかになるように)責任を感じてなどいなければ、物語はもっと淡々とサーヴァント七体を狩るだけの物語になっただろう。そしてこうなった場合、物語のポテンシャルを保っているのは、凛やルヴィアたちが持ってきた問題ということになり、ここにイリヤと美遊が関わる必要はなくなるどころか、むしろ彼女らはこのような危険を避けようとするだろう(そしてルビーやサファイアにしても、よもや嫌がる彼女たちに戦いを強要することはあるまい)。未清算の過去という設定、そしてその過去が原因となって引き起こされつつある出来事に責任を感じるような性格設定を付与されているからこそ、美遊は死の危険を冒してでもこの問題に関わるのだし、イリヤイリヤで、美遊が友人であり、そんな彼女が一人で戦い続けることを嫌がっているがために、同じようにこの問題に関わることになる。ここで美遊は明確にイリヤの戦いを動機づける存在なのであり、彼女はイリヤがこの物語から退場することを防ぐ役割、つまりプリヤの物語を延長させる役割を果たしているのである。
したがって、第三話において美遊がイリヤを拒絶し、そして第十話で共闘関係を受け容れるまでの(構造が先かテーマが先かはわからないが、ともあれ友情をテーマにした)物語は、動機の希薄なイリヤを物語の流れにつなぎとめるための手続きとして機能しているし、少なくともそこにおいて語られる二人の人間関係のドラマが終わるまでは、プリヤの物語は語られ続ける「意味」がある。第二話のサーヴァント戦の物語から第十話までの二人の物語が生成した原因、つまりプリヤの物語が延命される原因となった要素こそは、第二話において前触れなく出現した、贈与者としての美遊なのである。前置きが大変長くなったが、これが僕が「なぜ後から現れた魔法少女は主人公を拒絶するのか」という問いに対して「物語を繰り延べるため」と答えた理由である。いいかえれば、この第三話において美遊が示した物語の延命機能としてのポテンシャルは、すべて第二話のあの場面から生じているのだ。

 

3,

次なる問題は、美遊がプリヤ第一期第二話で果たした役割、すなわち物語の繰り延べないし延命効果は、あのときの美遊固有のもの、つまりたんなる偶然的なものなのか、それとも、物語に固有で普遍的な法則によるもの、つまり必然的なものなのか、ということである。僕はこれを必然的なものだと考える。事実、プリヤにおける物語の繰り延べは、この手法を反復することによってなされている。
それは、たんに美遊がつねに物語の繰り延べを行なっているという意味ではない。そうではなくて、僕が言いたいのは、美遊が第一期第二話で果たしていたような役割を担ったキャラクターが、つねにプリヤの物語が新たに生成するその原因となってきたということである。
このことを確かめるために、ここでもう一度、あの場面における美遊が贈与者であったことを思い出そう。そしてプリヤ第一期から第四期までの各話において、贈与者の役割を果たしたものを列挙してみよう。

・第一期
第二話
サーヴァント・ライダーとの戦いにおいて追い詰められたとき…美遊が現れ、これを倒す

第四話〜第六話
サーヴァント・セイバーとの戦いにおいて追い詰められたとき…イリヤが覚醒し、クラスカード・アーチャーに秘められた英雄の能力を自身に憑依させて戦い、セイバーを倒す。
イリヤはクラスカードをこのように使えることを知らなかったため、これはイリヤの無意識とでもいうべきものが贈与者の役割を果たしていることになる。

・第二期
第八話〜第十話
魔術協会から派遣されてきた封印指定執行者、バゼット・フラガ・マクレミッツとの戦いにおいて追い詰められたとき…凛が駆けつけ、戦いを一時休戦へと持ち込む。

他の話を例として挙げてもいいが、僕としてはこれで十分だと考える。なぜなら、おそらくはこの三つの展開だけで、アニメプリヤの全クールの大きな物語の流れを説明できてしまうからだ。
まず、第一期第二話の贈与者・美遊は先ほども述べたように、第一期のクライマックスの展開を生み出す役割を果たしたのだが、彼女はそれだけではなく、三期と四期および劇場版『雪花の誓い』の展開、そしてそもそもこの物語が始まった直接的な原因をも担っており、プリヤのすべての物語を、少なくともそれが語られるポテンシャルを、プリヤというコンテンツに与えたキャラクターである。これについては詳説する余裕がないが、気になった方はプリヤの三期と四期を見てみてほしい。
そして第一期・第四話〜第六話におけるイリヤの覚醒状態(イリヤの無意識)は、第二期の主要な展開の一つである、クロエ・フォン・アインツベルン(以下クロエ)をめぐる物語のポテンシャルを引き出した贈与者である。第二期ではこの無意識が受肉し、クロエというイリヤとは別様のキャラクターとして彼女に対峙することになるが、このクロエとイリヤの物語は、まさにこのセイバーとの戦闘におけるイリヤの覚醒から到来したものなのである。
さらにその第二期の後半では、クロエとイリヤの和解ののちに、彼女らの持っているクラスカードを奪うべく、魔術協会というところからバゼットという女性が派遣されてくるが、この女性はサーヴァント並み、あるいはそれ以上の戦闘力を有しており、美遊、クロエ、イリヤ、ルヴィアは、このバゼットの前になすすべもなく負けてしまう。しかし彼女にとどめを刺されるかと思われたまさにそのとき、ブレイクスルーをもたらしたのは凛であり、凛は回収した七枚のクラスカードの他に、もう一枚のクラスカードが出現したという情報と、そのカードの場所の情報を交渉の材料にして、バゼットとの戦いを休戦に持ち込む。こうして贈与者としての凛がもたらした情報(八枚目のカード)は三期の後半の主要な展開の原因となり、それは美遊の過去をめぐる物語へと接続され、プリヤの物語を四期や劇場版にまで繰り延べている。
こうした構造を見ればわかるように、プリヤの物語の種はその日常回(本筋に関係ないところで展開されるキャラクターの日常を描いた回)を除いて、贈与者によって持ち込まれており、それは語られるべき謎、語られるべき続きへの予兆として、物語にその語りのポテンシャルを付与するのである。
先ほど、僕はプリヤの物語が美遊の登場によって語られる「意味」を獲得した、といった。ところで日本語における意味という言葉はフランス語ではsensであるが、このsensは「意味」という意味の他に、「方向」という意味をも持つ。物語は語られ尽くされるまでは、その終着点の「方向」に向かって語られ続けるが、それが終わる時には、このような指向性を喪失する。それはちょうど人が食欲によって刺激されたとき、空腹が満たされるまでは食べ物を摂取し続けようとするが、それが終わるとその欲望が消失してしまうのを感じる、あの現象と似ている。したがって、ここで僕がいう物語のポテンシャルというのは、受け手によって物語られなければならないと欲望されている謎や中途半端に残された問題が示唆する物語の予感、物語が向かうべき新たな方向への予感のようなものなのである。
さて、このようなことを踏まえると、最後になぜ、このポテンシャルを物語にもたらすのは贈与者でなければならないのか、という問いが生じる。そこで最後にこの問題を論じて、このエッセイを「終わる」ことにしたい。

 

4,

これまで、僕は、物語が問題の解決とその過程を描くことを基本とするものであること、そしてその過程の決定的なところにつねに贈与者が関わること、そしてこの贈与者の観点からプリヤを分析したとき、プリヤの物語の延命がつねに贈与者によってなされることを説明してきた。
そこで、ここでは最後に「なぜプリヤにおいて物語を持ち込んでくるのはつねに贈与者なのか」という問いについて考察を加えておきたい。
さて、この考察を始めるに当たって考えるべきは、なによりもまずジェイムソンのあの見解、すなわち「贈与者=<他者>」という見解である。ではそもそも<他者>とはどのような概念なのか。それを今から少し説明しよう。
現代思想において、基本的な問題のひとつとなってきたのは、ヘーゲル哲学的なものをどう考えるかということなのだが、それは非常にひらたくいえば、他人のことをどう考えるかということにつながる。それはひいては存在、真理観、倫理といった問題について、あるいはもっと具体的にいえば20世紀の主要な問題すなわちナショナリズムファシズム、資本主義経済といったものの問題について考えることにつながるのだが、大雑把にいえば、こうしたイシューの全てを集約するキーワードの一つが<他者>なのである。
<他者>の概念やイメージにはそれを唱える人々によってそれぞれ細かな違いがあるが、とりあえずここでは「自分が理解できないもの」「自分が忘れ去ったもの」「自分が排除したもの」「自分にとって不都合なもの」ぐらいに考えておけばよい。たとえば、自分が理解できないものというのは、世界がそうだし、他人がそうである。そして、本来理解できないはずのそういったものたちを、理解していると思い込むことが、ときに相手への暴力につながることがある。または、そうした理解できなさに直面したとき、僕たちは思わずそういったものを否定したり、なかったことにしたり、排除しようとしたりする。
こうした構図は様々な問題を考えるときに繰り返し繰り返し立ち現れてくる。そしてジェイムソンがこの議論の文脈で論じているロシア・フォルマリズム文学史論についても同じことがいえる。
彼らは簡単にいえば文学論を組み立てようとした人たちだから、当然文学史についても語れなければならない。しかしそこで彼らは一つのジレンマに直面する。それは、文学史における変化をどう記述するか、という問題に関わるジレンマであった。
たとえば、ある時代に文学様式Aが流行っていたとする。そしてその流行が、文学様式Bのそれに取って代わられたとする。ではこの変化はなぜ起きたのか。このことを説明するには二つの方法があるだろう。一つは、文学様式の変化の原因を、文学内にあるものとして考え、この内在的な原因から、変化を説明する方法である。そしてもう一つは、文学様式の変化の原因を、文学外にあるものとして考え、この外在的な原因から、変化を説明する方法である。
もし、前者の説明をおこなうとすれば、文学史はその内容を失うことになる。なぜならば、文学史における変化の原因を文学内に求めるということは
文学史における変化の原因を文学の自己原因的な原理に求めるということであり、こうした原理すなわち抽象的な法則は具体的な内容や時間に規定されえないために、なぜよりによって具体的な文学様式であるAが、別の具体的文学様式であるところのBに取って代わられたのか、ということを説明できない、つまり実際に起こった出来事の特殊なあり方を説明できない(こうした特殊な何かについての語りは、つねに「文学」の原理自体の自己解題に回収されてしまう)からである。
したがって、こうした自己解題の罠をかわすには、人は後者の説明方式をとるほかないだろう。しかしそうすると今度は、この文学史という試みの前提自体が危うくなる。なぜなら、もし文学史の変化を外部的な原因、たとえば社会のシステムの変化によって説明するとすれば、それは極論たんなる社会の歴史にほかならず、この社会の歴史に文学史が回収されてしまうことになるからである。むろん、ここまで極端なことを考える必要はないが、それでも外部にある歴史の変化の原因を求めるならば、その歴史の自己同一性、つまりこの場合でいえば文学および文学史の自己同一性は、つねに脅かされていることになる。したがって、このようなモデルにおいては絶対的に自立した自己同一的な文学史なるものを立てることが不可能になってしまう。
文学史の変化を内部的な原因によって説明すれば具体的な事象や変化を説明できない。しかし文学史の変化を外部的な原因によって説明すれば今度は文学史という単位そのものの存立が脅かされる。いいかえれば、他者をいなかったことにして自立を訴えれば変化が説明できず、他者を受け容れようとすると自分というものが危うくなる。おおまかにいえば、これがロシア・フォルマリズムの陥ったジレンマである。
ジェイムソンはこのようなジレンマの議論を背景に物語について言及しているといえるわけだが、こうした文脈を踏まえると、まさにここでいわれている文学史と物語はパラレルな関係にあるといえるし、文学史における変化の外部的な原因になぞらえられるものは、物語においては贈与者であるといえる。したがって物語における贈与者は基本的にその物語の外側から到来するのであり、これがジェイムソンが贈与者=<他者>という議論を展開した意味である。
事実、人が理解できない他者とは、つねに実際的にもメタフォルカルにも異邦人(ストレンジャー)である。人はこの異邦人と話すことで彼ないし彼女と打ち解けることができるかもしれないが、その会話が始まる最初の瞬間には、この人物は得体の知れない、会話が成立するかもわからない何者かである。したがって本質的に異邦人は未知性によって定義されうるのであり、この未知は知的な欲望を駆り立てる。人はこの未知を既知へと変えていくことで、異邦人を理解しようとする。理解さえできれば、この人物は、あるいはこの人物がもたらした情報は、他者などではなく、たんなる既知のなにかである。
このように他者との出会いは他者への知識欲を掻き立て、他者の他者性はその知識欲によって(空腹な人の前に供された食事のように)食べられてしまう。そして人は、しばしば何かを食べることを欲望するのみならず、何かを食べることを欲望することそのものを欲望するものだ。同様に、物語が終わってほしくないという欲望は、まだ物語を欲望していたいという、物語の欲望への欲望として、物語を欲望する。贈与者は物語において未知のものとして、あるいは未知のものを携えてあらわれる権利を持っているがゆえに、こうした欲望を引きつけることができる。「この少女は何者なのか?」「イリヤはなぜあんな状態になったのか?」「八枚目のカードとはなんなのか?」ーープリヤの物語は外部から引っ張ってきた唐突な贈与者ないしその情報によってこれらの謎を提示し、それに答えるべく物語るという体裁をとって、物語を延命させる。この点において、プリヤの物語は贈与者の本質的な他者性を利用して、物語を展開すると同時に延命するという、二つの役割を贈与者に課している。
こうした話を踏まえれば、プリヤの世界において、とりわけクロエと美遊は、その設定から贈与者たることを宿命づけられている、あるいは逆に、贈与者としてあらわれなければならなかったことで、その設定における他者性を宿命づけられているといえるかもしれない(どちらが先なのかは作者しか知りえないことだろう)。なにしろ、美遊はまさに異界からこのプリヤの世界に来訪したストレンジャーそのものなのだし、クロエについても、そのもともとの出自を考えれば、イリヤの無意識、すなわちイリヤの内なる他者に他ならないのだから。
以上、ここでは「なぜプリヤにおいて物語を持ち込んでくるのはつねに贈与者なのか」という問いについて論じてきた。贈与者は変化の決定的な原因を担うというその性質上つねに唐突に外部から到来することができ、その点において他者性を帯びている。こうした他者性は受け手の欲望を刺激し、物語に方向を与える。だからこそ、贈与者は物語を延命する力を持っているのであり、プリヤはこの力を活かして、第一期から第四期、および劇場版の物語を展開したのである。