かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

わからない感覚について

最近ぜんぜんブログを更新していなかった気がしたので、定期的に更新する義務もないのだけれども、このまま書かないと永遠に書かない気がしてそれはちょっと自分にとって損失だなという気がしたので、何かを書くことにした。こういう経緯があってなかば書くために書いた話なので、これはオチのある話というよりはたんなる近況報告みたいなものである。

 


たとえば東浩紀の本を読むと、どの本であれ、「~かもしれない」とか、偶然とかの問題が頻繁に語られている。ほかの本を読んでいても、たまにこういったことが話題になることがある。実は僕はこの手の話題を読むたびにある種の困惑を感じてきた。

僕は好んで人文書といわれる類の本を読む。とくに哲学や精神分析の本を読む。それは、たぶんひとつには、単純に知的な意味で面白いからだ。しかし、それ以外の理由もある。そういったものを読んでいると、自分が今まで漠然と感じてきた生きづらさの構造が的確に説明されているという箇所に出会うことがあり、その出会いがなにかの解決や救済になるわけでもないのだが、感動を呼ぶ、ということがある。もちろん、そういった個人的な感動はそれはそれとして、その説明が的確なものかということについてはちゃんと批判的に読まなければならないわけで、その意味ではあるいみそういう感動は危険なのだが、とまれ、なんにせよそういうふうな感動があるにはあって、僕はそれを感じるためにそういったものを読んでいる節がある。

ところで、そういった共感ができる、ということは、そういう本を読むときには意外と助けになることが多い。語り口がいかに抽象的であろうと、そこで語られている思想なりなんなりはある程度はこの著者の人生経験を参照して作られたものなわけだから、その参照元に思いがいたるならば、その分だけその発想がわかり、整合的に読みやすくなるということが、たしかにあるのだ。だから、こうした本を読むに際してその気持ちや発想がわかるというのは、もちろんそこにナルシシズムを投影してしまうという危険はあるけれども、ある程度は大事なことではないかと、個人的には思うわけである。

そこで話は最初に戻る。僕がなぜ上述のような話題が出てくるたびに困るのか。それは、かれらがそこで語ってくれている実存的な感覚が、僕にはよくわからないからだ。それは僕からすれば、そうした感覚をもとに作られた思想を、細かいレベルで、さまざまな文脈で読むということができないかもしれないということを意味する気がする。そして、それは僕が考えたいことを考えるにあたって結構致命的なことだという気がする。

そんなわけで、最近、僕はそういう感覚や発想を分かりたいと思い、そうしたことを扱っていると思しき小説を読んでいる。今読んでいるのは東の『クォンタム・ファミリーズ』で、これはそういうことを抜きにしても、今のところ、ものすごく面白い。

それから、その前には柴崎友香の『わたしがいなかった街で』という小説を読んだ。これは夫と彼の不倫がきっかけで離婚した30代半ばの女性と、彼女の知り合いの妹の話だ。前者の女性、砂羽は、東京で運輸業を営む会社の契約社員としてはたらき、家ではよく戦争もののドキュメンタリーを見ている。彼女もやはり偶然に関する問いを抱えている。たとえば、この小説は最初こんなふうに始まる。

 


一九四五年の六月まで祖父が広島のあの橋のたもとにあったホテルでコックをしていたことをわたしが知ったときには、祖父はもう死んでいた。

 


この「あの橋」というのは祖父がかつて彼女にその思い出を語って聞かせたところの橋で、この橋が位置していたのは、ちょうど原爆の爆心地の近くだった。だからもし祖父がこの六月の時期にコックをやめてよそに越していなかったら、祖父は死に、彼女もまた生まれていなかったかもしれない。この「かもしれない」と、とはいえ、現実はげんにこのようにしてある、ということのあいだで、彼女はその意味を問わざるをえなくなる。

こうした問いは、彼女によって、小説内でのあらゆるものごとに対して発せられる。たとえば遠い場所での戦争のドキュメンタリー映像を見ているとき、彼女は「なぜこの場所にいたのがわたしではなく、彼らなのか」と考えるし、ある日偶然以前の職場の人間とすれ違ったとき、「この偶然にはなにか意味があるのではないか」ということを考えてしまう。

少し寄り道をすれば、こういう感覚は柴崎が別の作品でも頻繁に描く感覚と、どこかで通底する気もする。最近、僕はこの人の作品を連続して読んでいたのだが、これはちょうどその三冊目の作品で、その前に読んだ二冊では、いずれも写真と実物、瓜二つの人物、十年前の自分と今の自分、といった二つのものたちのあいだにあるズレや同一性に対する登場人物たちのさまざまな感情的な体験(驚き、違和感、喜び、などなど)が繰り返し描写されていた。たぶん、これは他の作品でもずっと描かれている感覚なのだろうけれども、こうした感覚と、上述の感覚は、それこそ身もふたもない言い方をすれば反復とか不気味なものとか、そういうテーマと、ともに関係するという気がするのである。

まぁそれはともかくとして、とにかく僕はこういう感覚がやはりわからない。あるいはそういう感覚そのものはあるかもしれないのだが、それを十分に自分のなかで抽象化したり構造化したりして把握することができていない。たとえば、「なぜあそこにいるのが私ではなく、彼らだったのか」という問いの意味は、僕にはよくわからない。たぶん僕ならこういう問いに対して、そこには何の意味もない、と考え、それを危機的なことだと思わないし、そうした問いをある実存的な要請の表現としても、つまりレトリカルクエスチョンとしても、共感を持って理解することができない。

しかし一方で、反実仮想的な発想は僕とてよくするのであり、そもそもそういう発想は人間にとって不可避的なものにも思える。つまりもしあのときこうしていたら、とか、もしかしたらあの人の立場に僕がいたかもしれない、ということは、僕だって考える。しかしそれがなぜ現実がそのようでしかありえないということに対する疑義、そのようであることの意味に対する問いにつながるのかが、よくわからない。それが歯がゆい。

これが理論的な問題なのか、たんに感覚的な問題なのかはわからない。理論的、というのは、もちろん実存的な感覚というのはひとつには感情の問題ではあるが、それ以上にそれをどう考えるかという発想や論理構造の問題でもあるからだ。しかし、おそらく、僕にはその両方が今欠けているのだと思う。

だから、むしろ僕のいまの主要な関心は、そうした問いを問うてしまうそうした感覚やそれを成立させる論理構造が、なぜ僕にはないのか、ということになりつつある。とくに『わたしがいなかった街で』の主人公の気持ちや発想は僕にはほとんど分かる気がする(などと軽率にいうべきではないのかもしれないが、素朴な実感としてはそう思う)だけに、そこでなにか一気に突き放される感じがする。たとえばこうしたふと挟まれるコミュ障っぽい感覚はすごい分かる気がするのだ。

 


有子でも、加藤美奈でもいい。チューナーになってくれる人がいないとき、他人と何モードで話せばいいかわからない、と前に有子に説明したことを思い出す。

 


これ以外にも、若干被害妄想めいた対人不安があるとか、人との話し方がわからないとか、他人への興味がどうしても希薄になりがちだとか、にも関わらず人と関わりたくてもどかしいとか、そういったことに対する漠然とした屈託の感覚は分かる気がするし、そういう人がそういうドキュメンタリー映像を延々と見てしまう感覚、みたいなのも、なんとなく、分かる気がする。にもかかわらず、そうした確率や可能性や偶然に関する意味の問いを彼女をして問わせしめるその気持ちだけがよくわからない。

つらつらと喋ってきたが、このようなわけで、最近はこの妙な感覚の欠落をめぐってものを考えていることが多い。こんな感じなので、もしこれを読んで、「そういう話が出てくるものといえば、こういう作品があるな」という心当たりがある人がいれば、ジャンルを問わず教えてもらえるとありがたいです。

 

人生と夢

1,


三島由紀夫は認識と行動という二元論を終生唱えていた。そしてそれはそれ自身彼の葛藤の表現でもあった。この葛藤というのは、簡単にいえば、なにかを意識することと、それを生きているということのあいだにある、埋めがたいズレに苦しむことである。ひとつ断っておけば、これは古くから哲学的な問題として考えられてきたので、べつだん三島が最初に考えたわけではない。ある意味でそれは彼個人のというよりも、哲学的な生のありかたの基本的な形式である。したがって三島はこのような意味での哲学的な生を生きたのだといえる。

たとえば、小説家自身である彼に言わせれば、小説家にとって唯一アクチュアルなのは(つまり行動的なのは)、作品を作るという行為である。このことはそのまま芸術と人生という二元論の問題につながっていく。人生というのは、まさにふつう人がそれを生きているところのものである。ところが、芸術家というのは、それを表現するために、それについて観察=意識しなければならない存在である。さらにこのとき、芸術家は人生からデタッチメントした(人生を生きていない)状況にあるといえる。

ところで、なにかをその都度決定したり判断したり決断したりするということは、一種の狂気である(たとえばキルケゴールは決断とは狂気であるといっている)。しかしなんの見地からして狂気なのか。意識の見地からである。意識にとって、あらゆる判断の作業はエラーに陥る。たとえば道徳的な行為とはなんなのかということは誰にもわからない。もちろん、ふつう、人はほとんど意識せずに善いことをおこなえる。目の前に困っている人がいたら、その人を助けようと思ったり、哀れみを抱いたりするということは、ふつうのこととしてある。そしてそう思うことと、そう思ったことでその人を実際に助けることのあいだには、ほとんど障害がない。しかし一度そこで道徳的な正しさとは何かと考え始めると、人はそれについて何もなしえなくなる。そして、このようなことは、自分が今まさになそうとしていることについて意識することから始まるのである(実際には何もしなかったということをせざるをえないし、この、生きていないつもりなのに実際には生きているという問題は根本的な問題なのだが)。

つまり三島にとっては、認識する(それを意識する)限りは行動する(それを生きる)ことはできず、まさに芸術家=小説家とはそのようなズレを生きる存在である。しかし、少なくとも、小説家は作品を作るそのときにおいては、具体的な題材や筋について決断している。だから小説家にとっては小説を作るということだけがアクチュアルなこと(それを生きるということ)となる。


2,


それにしてもなぜ人はなにかを意識するとき、判断エラーに陥るのだろうか。それはおそらく様々な可能性に脅かされるからである。

たとえば小説を作ることすらできなくなった小説家のことを考えてみよう。そのとき、小説家はなにに苦しんでいるのだろう。おそらくどの題材を選べばいいかわからないということに苦しんでいるのである。たとえば主人公は男でもいいし女でもいいだろう。この主人公はギャンブルに溺れてもいいし堅実に生きてもいいし恋に落ちてもいいだろう。しかしなぜそれを選択するのかという根拠を問うと、なぜだかはわからなくなる。彼ないし彼女はどんな可能性も選びうる。だから逆になにも選べない。では、そんな小説家がなにかを選べるようになるとしたら、それはどんな場合なのか。それは、ある特定の価値観や対象に彼の心が投資=備給しているときだけだ。

別の例を出せば、これはコミュニケーションにおいてもそうだ。自分が相手になにかをいうとき、その意味や効果は、相手がそのときどんな状況にある、どんな人間かによって異なる。しかし自分はもちろん相手について多くのことを理解してはいない。だから自分がこれからいおうとしていることは、様々な意味にとられる可能性がある。そのなかにもし自分にとって好ましくない可能性があるとすれば、人はそれをいいたくてもいえなくなる。もしそれがいえることがあるとすれば、それは、彼ないし彼女がその可能性を意識していないときか、意識していてなおそれをいうことで相手とうまくコミュニケーションができる可能性に賭けることを決めるときだけである。つまりそれが危ない橋だと気づいていないか、気づいていてなお危ない橋を渡ることを決めたときだけ、それをなしうる。

だから論理的にのみ考えられたときには、人はいつまでも決断しえない。つねに様々な可能性に脅かされるからである。もし決断しうるとしたら、それは、狂気や、強い欲望によるしかない。しかしもう一つ、別のファクターもある。それは時間に関わるファクターである。

ジャック・ラカンは三人の囚人の寓話というものを使って、この時間という要素の効果を説明している。その寓話とは次のようなものだ。ある三人の囚人がいる。彼らはあるとき、監獄長に、特定の条件を満たすことで釈放してやるといわれる。その条件とは、あるゲームに勝利することである。とうぜん外に出たい三人は、このゲームに参加することにする。

このゲームは次のようなものである。まず、囚人たちの背中には、五枚の円盤のなかから選び出された円盤が、一枚ずつ貼り付けられている。三人の囚人たちの背中にそれぞれ一枚貼り付けられたわけだから、貼り付けられている円盤の枚数は計三枚であり、残りは二枚である。さて、この五枚の円盤は、実は、色分けされている。その内訳は白三枚の黒二枚で、囚人たちは自分の背中に貼り付けられた円盤の色も、残りの円盤の色も知ることができない(実際には全員の背中に白い円盤が貼り付けられている)。彼らが知りうるのは残り二人の背中に貼られた円盤の色のみである。この状況下で自分の背中に貼られた円盤の色が白と黒のどちらなのかをいちはやく監獄長に言い、なおかつ当てたものが、ゲームの勝者である。ただしお互いに情報をやりとりしたり、相談したり、サインを送ったりすることはできない。

このようなゲームを行ったところ、囚人たちはしばらく逡巡し、それから同時に監獄長のもとに駆け出して、「自分の背中の円盤の色は白だ」といった。

さて、このときなにが起こったのか。

ラカンによればこうである。まず、囚人たちは、「自分がもし黒だったら」と考える。仮にそのうちの一人をA、残り二人をそれぞれB、Cと呼ぶことにしよう。さてAは自分が黒であるという仮定をもとに、次のように考える。

もし自分が黒であったら、BとCは黒い円盤と白い円盤を見ているはずだ。次に、もし彼らのうちの一人が「自分が黒であったら」という推測をしていたならば、その段階でこの一人は、残りの一人が二枚の黒い円盤を見ており、そこから自分の円盤は白だと結論するはずだと推測するはずである。すると、この推測者(BかC)にとって、この残った一人は即座に駆け出さなければならないのだが、げんにこの一人はそうしない。さてもしここまで推測を進めたなら、推測者は、この段階で、「ということは、自分は白なのだ」と考え、監獄長のもとへ駆け出すだろう。同様の推測をこの二人のそれぞれがしうるはずなのだから、自分(A)を除く二人は、もし自分が黒であれば、即座に自分が白だと判断して駆け出すはずである。しかしそうしないということは、私は白なのだ。早く駆けだそう。……

しかしながら、これは純粋に論理的に考えられた場合には、なしえない推論である。なぜなら、Aがこう判断しうるには、彼がBとCが自分の背中の円盤を見、駆け出さないということを見る、という、経験的データを得る時間が必要だからである。したがって、もし彼らのうち誰かが彼の判断よりもはやく駆け出した場合には、彼の推測はそのことだけで破綻することになる。したがって彼は一刻もはやく自分の推測の正しさを確保するために駆け出さなければならない。彼は判断(自分の円盤の色が白だと理論的根拠はなくとも決定し、それを監獄長に言うという判断)をせよと急き立てられている。

問題はここからである。この寓話において、三人の囚人たちは同時に監獄長のもとにおもむき、正解することができた。ということは、無事に彼らは釈放されることができたのだろう。しかしもし彼らのうち誰かが残り二人にたいして出遅れて遅れてしまったとしたら、彼はどうなったのだろう。

まず、この寓話のレベルでいえば、彼は囚人にとどまるということになるだろう。しかしラカンがこの寓話でいわんとしたことを踏まえるならば、このことの意味するところはなにになるのか。

まず、この寓話全体が精神分析的に意味しているのは、人がいかにして社会化するかということである。精神分析的には、人が言葉を使ったり、社会に適応したりするということは、去勢されることで可能になる。そこでまずは社会化について語るために去勢の説明をしよう。一般に、去勢とは男性器が切除されることをさすが、もちろん精神分析の去勢とはこういうものではない。精神分析において男性器とは幼児的な万能感の比喩であり、人はそうした万能感を挫かれることで社会に参入するのである。

これはたとえば、勉強のことである。いまの社会においては、人は、やりたいことをやるためには、経済力を持たねばならない。そのためにはいい企業に勤めるというのが一つの有力な選択肢である。では、いい企業に勤めるためにはどうすればいいか。勉強をしていい大学に行かなければならない、というのが、一つの答えになる。

しかし、そもそも自分の欲望と、勉強とのあいだには、本来、何の必然的なつながりもない。ではなぜそんなことをしなければならないのか。それは、人が社会に、そしてそのルールのなかに生きているからである。人間の(無意識の)なかにある幼児的な万能感は、自分の欲望は誰がどういおうと叶えられるし、そうであるべきだと信じている。しかし現実にそうするわけにはいかない。なにかが欲しいからといって、それを盗んだり、奪ったりすることは許されない。だから願望を叶えるためには、社会の要求に応えるかたちをとって、やりたくもないことをやるという作業に一度迂回する必要がある。こういう第三者的なもの(社会)の敷く法に屈すること、このことを去勢という。

ところで、三人の囚人たちの寓話は社会化に関わる話なのであった。そしてこの場合、急き立てられて他の囚人と同時あるいはかれらに先んじて監獄長のもとに赴いた囚人は、この社会化を成功させた者だと考えることができる。ということはこの囚人は去勢を受け容れたことを意味する。ではこの囚人はこの寓話において、どのように去勢されたのか。まずは取り残された囚人ではなく、出し抜いたこの囚人のことを考えてみよう。

まず、この囚人にとって去勢は、監獄長にこのゲームに服することを強いられ、それを受け容れたところから始まっている。さらにそれが決定的になるのは、この囚人が急き立てられて、論理的根拠なしに、自らの背中の円盤の色を判断したときである。これを社会化という観点から読みかえれば、彼は社会というゲームのルールに巻き込まれ、それに参加することを決めてしまった人々との競り合いの中で急き立てられることで、無根拠に自分が何者であるかを確定したときに、去勢を受け容れたということになる。

では、取り残された人はどうなるのか。彼は論理(根拠の底を求める思考)のなかで判断エラーに陥り、社会にたいして自分が何者であるかを確定できなかったものである。ようするに、彼は社会化されることができなかったのだ。

この急き立ての比喩は、一見非常に思弁的に思える。しかしこれは身近な問題でもある。

たとえば、就活のことを考えてみよう。就活においては、人は自分がどの分野のどのような職種や業界のどのような仕事に就くのか、示すことを求められる。さらにその判断と自分の今までのありかたとの必然的な繋がりを物語ることを余儀なくされる。しかし、そのときには、彼は、自分がほかの仕事にもつきえた可能性を捨てざるを得ないだろう。そして自分がレディメイドの言葉や社会的な枠組みによって一意的に規定されるような存在ではないということを、あえて無視するか忘れるしかないだろう。さらに就活のしくみそのものは、こうした規定を促す〆切、明確に自分を何者か決めずに済むモラトリアム期間の刻限(急き立ての原因)として機能している。

逆にいえば、もし自分が何者であるかを社会に対して規定し示すことができないならば、人は牢獄に留まり続けることになる。ところで牢獄とは、非社会的な存在を社会の内部で隔離しておくための場所なのであった。取り残された囚人とは、社会に適応できなかったもののことである。


3,


しかし、無根拠になにかを判断するあるいは自分の判断の根拠の底を疑わないということは、自分の判断に決定的な盲点を抱え込むということである。この盲点を抱え込むことがいやならば(つまり去勢を拒否するならば)、人は人生において判断し続けるつまり生きるのではなく、人生から引いてそれを意識するしかない。とはいえそれは原理的には不可能なことである。なぜなら、人は人生を意識し同時にそのなかで生きているからである。この意識を悩みだと考えても同じである。悩みつづけることは人を社会の周縁へと追いやっていく。

最後に僕がここで考えておきたいのは、この人生に悩むということと、人生を生きるということを、夢という概念と突き合わせてどう考えればいいのかということだ。

ここで僕は人生を生きるということを、夢と等置することがどこまでできるのか、ということを考えてみたい。ここでいう夢とは、「人生とは儚い夢のようなものだ」という一般論におけるような夢でもあるが、精神分析的な意味での夢も含む。

精神分析における夢とは、ひとことでいえば、人の幼児的願望が前面に出てくるものである。たとえばフロイトはそれを一次過程への退行と呼ぶ。

フロイトにとって、人間は基本的に幻想の中に生きている存在であるが、この存在は、同時に、現実を捉える手段をも持ち合わせている。それは術語でいえば、一次過程と二次過程をあわせもつ存在である、ということだ。では一次過程と二次過程とはなにか。

人はなにかの対象を通じて満足を得たとき、このことを記憶するが、この記憶は厄介なものでもある。なぜならば、フロイトによれば、人はこの記憶を思い出すことを通じて、いわば記憶という実体を持たない幻想によっても、自分を満足させることができるからである。それは生命維持の観点からすれば危険なことである。なぜなら、たとえば飢餓の状態にあるときに、現実を省みずに食事の幻想だけを見ていたら、そのうち死んでしまうからである。幻想による願望充足の試みは幻滅に終わる。したがってある対象が出現したとき、人は、それがほんとうに現実のものなのかどうか、そしてそれが以前自分に満足をもたらしてくれたものと同じかどうかを判断しなければならない。対象とそこから得られる満足という点からすれば、このような現実吟味と対象の同一性の判断の機能を司るものこそが二次過程である。一次過程においては、人は幻想と現実の区別がつかないので、二次過程はこの一次過程を抑圧することによって人を現実に適応できるようにする。

ところが、人が寝ているときには、この二次過程の抑圧は弱まって、一次過程が前面にでてくる。このときに見るのが夢である。このような考え方は、しばしば人が夢の中にいるときにはそれを夢だと気付けないことがあるという、経験的なデータに基づくものだと思われる。

ところで、人が何かの同一性を判断するというとき、そこには言葉=語の機能が働いているということがわかる。なぜなら、人が流動する連続的な世界に、同一性を保つ非連続な対象を見出すのは、ひとえに言葉の機能に依るからである。そしてこの場合言葉は、ある対象について語ろうとする言葉として機能している。つまり語と物が分離している。

この議論に関連して、夢についてフロイトは面白いことを言っている。いわく夢においては、登場人物が喋る言葉には意味がない。それは夢を見ている本人のなかにあった、昼間のやりとりの記憶を、そのまま持ってきたり組み合わせたりしたものに過ぎないのである。

このことはなにを意味するか。夢においては言葉がなにかを意味する語としてではなく、たんなる物としてあつかわれていることがわかる。つまりそれは~についての言葉というよりも、そのような言葉があったならばそれがそれについて語ったであろうところの物、つまり~になっているのである。

これはいいかえれば、夢においては語の次元がないこと、あるいは二次過程が機能していないことを意味する。さらにそれは、なにかについて意識する意識の次元がないことをも意味するのである。

もちろん、厳密には、人は夢を意識して見ていることがありうるし、そこで言われた言葉に意味を見出して反応してしまうこともありうる。しかしもちろんフロイトの考える夢は、二次過程が完全になくなってしまった意識状態のことを意味するわけではないから、おそらくこのときには、緩和された二次過程が働いていたものと考えることができる。

いずれにせよ、このような意味で、なにかについて意識する次元が確保されない状態が夢だとするならば、まさしく人生を生きるということは夢を見ることに他ならないということになる。それでは人生について悩む(意識する)ということは、一方で、醒めていることを意味するのだろうか。つまり、社会に適応している多くの人はただ夢を見、悩んでいる時にだけ、目覚めていると言えるのだろうか。

おそらく、そうではないだろう。これはただちに人生を生きるということもまた目覚めているということなのだとか、人生に悩むということもまた夢を見ているということなのだということを意味するわけではない。というよりも、重要なのは、根本的に、目覚めているということと、眠っているということの区別をつけるのは原理的にはできない、ということである。

しかし、それにしても思うのは、醒めてあろうとしながらも、決断し社会化するということは、ある種のアイロニーを抜きにすればいかにして可能か、ということである。急き立てを使うのはひとつだろうし、欲望をうまく作るというのもそうだろう。しかしそれもなんだか違う気がしないでもない。また、これはある種、文系的な学問の知をどのように一般社会へ流通させればよいかという問題でもあるだろう(そうする必要があるかどうかというメタな問題はまた別としても)。この場合、世の中は夢をみすぎているのだ、といっても詮無いことである。多数者の夢こそが社会の現実を形成しているのだし、それにそれは非本質的に過ぎないものにみえながら、実はそれなくしては本質的なものすら成り立たないような、そういう性格のものだからである。

アイデンティティとその周辺

昔書いて途中でやめた原稿に自分語りをくわえたエッセイになります。

 

 

アイデンティティという言葉はよく人口に膾炙した言葉ですが、そのルーツを知っている人は意外と少ないのではないかと思います。ふつうに使われている言葉ほど、そういう傾向がある気がします。いちいちそんなものの意味や起源を問いはしない。実は、アイデンティティというのはもともとは一般的な言葉ではなくて、エリック・エリクソンという人が考えた、精神分析の術語、専門用語です。日本では、批評家の江藤淳がこの人の理論を応用したことで有名(?)です。
と、偉そうに言ってはみたものの、僕もその内実を詳しく知りませんし、エリクソンの本も読んだことがありません。しかしここではエリクソンアイデンティティ概念についてさしあたってciniiで拾った学術論文を参考にしつつ、その気軽なレビュー記事を書くという形式で、なにか述べてみたいと思います。なんだか無責任きわまる文章ではありますが、インターネット上の、それも匿名の個人が、なかば独り言というか、自分用のメモがわりに使っているようなブログの記事ということで、どうかご寛恕願いたいと思います。

1,

ここではとりあえずその学術論文の内容を僕なりに咀嚼した概説をしていきたいと思いますが、そのまえに一応、アイデンティティという言葉の一般的な意味を確認しておきましょう。さっきの話の続きみたいになりますが、やはり日常的にとは言わないまでも、人がよく使う言葉ほど、意外と定義が各々で食い違ったりするものですから…。
ではあらためて、アイデンティティとはなにか。僕の理解では、これは、一般的には、その人がその人であるということの根幹を支えるようなものです。たとえば僕は心身ともに男(ととりあえずいって僕の日常生活には支障ない)で、ヘテロセクシャル(異性愛者)で、日本人ですが、こういったことのうちのどれかが、僕にとっては重要なものでありえ、それが揺らぐと心がぐらついてしまう、そんな場合に、そのようなものを指してアイデンティティ、というようです。そしてそんな揺らぎが致命的になると、「アイデンティティ・クライシス」(日本語に訳せば自己同一性の危機)なんていうふうにもいいますね。
そしてついでながら僕個人とこの言葉の付き合いについても説明しておくと、僕は昔から性格が捻くれていますから、以前はアイデンティティという概念をはなから疑ってかかっていました。というのも、日本人だとか、異性愛者だとか、男性だとかいったものが、自分の核にあるとは言い難いと、感じていたからです。さらにいえば、そもそも核などというものを考えること自体、ばかげている。かりに核についてのそもそも論は置くとしても、少なくとも男性だのなんだのといったものはいわば僕の属性に過ぎないのであって、そういうものをいくら列挙したところで僕の核とやらにはたどり着きはしない。そんなふうに思っていました(もちろん今は多少違う見解を持っています)。
とはいえ、実はもともとの(つまりエリクソンの術語としての)アイデンティティというのはこのころの僕がイメージしていたような、簡単な概念ではない。たとえば河合隼雄というとある臨床心理学者がいうところによると、エリクソン自身、この言葉の意味をよくわかっていなかったそうで、これは本当かはわかりませんが、とりあえず河合先生のいうことをここに載せておきましょう。

このエリクソンのいいましたアイデンティティということば[…]は考えだすとわからなくなるのですね。
お互いに話をしているとわかっているような気がするんだけれども、ちょっとわからないところがある。とうとう誰かがエリクソンに、これは一言にしていうとどういうことですかと訊くと、エリクソンは苦笑いをしながら、いや実は自分もはっきりわからないんだと言った(笑)、というジョークみたいな話があります[…]。
つまり、アイデンティティというのは、みんなが普通の客観的な科学で使う概念というものではない。あることについて、できるだけかっちりと概念を決めてことばで定義し、それを使って論理的に一つの学問を構築するというのはわかりやすいのですけれども、われわれのようなこういう深層心理学をやっているものは、そういう概念として把握できない、いくらつかんでも何か残るという、そういう不思議なことばを発明して、そしてそれを使いながらみんないっしょに考えていく、そういうことをやっているわけです。

そしてここでは無粋(?)なことに「できるだけかっちりと概念を決めてことばで定義」することをやっていこうと思うわけですが、まずはここまでの基本的な話を踏まえた上で、アイデンティティという言葉にまつわるこうした曖昧さはどこから来るのかということをさしあたりの問いにして、学術論文の概説に移りましょう。
さて、ここで僕がとりあげたいのは村澤和多里の「E.H.エリクソンとP.L.バーガーによるアイデンティティ論の検討 ー青年期の理解と援助に向けてー」という論文です。バーガーって誰だよ、となると思いますが、実は僕も寡聞にして知りませんでした。その説明をうっちゃっても概説には差し支えないのですが、一応調べた情報を述べておくと、彼はアメリカの社会学者だそうです。社会学を専門に勉強なさっている方にはお馴染みの名前かもしれません。
ともあれ、本題に話を戻すと、本論文は基本的にアイデンティティという共通の言葉を巡る、エリクソンとバーガーの理解の違いを比較するものです。というかそこが僕にとっては重要ポイントです(ちなみに先回りして結論をいってしまうと、論者によればこの違いは歴史的文脈を相対的な視点から顧慮しているかどうか、ということにあるようですが、ここらへんのことは追い追いまた詳しく説明することにします)。
この論文を始めるにあたって、まず論者は、エリクソンアイデンティティをめぐる議論が、青年期理解のために考えられたものであるということに注意を促します。歴史的な背景をいえば、そこにはそもそも中産階級の問題でしかなかった青年期の問題が、産業の複雑化や、経済的発展に伴って、大衆の、つまり多くの人にとっての問題になったこと、それによってあらためてこうした青年期の問題を理解する必要性が高まったという事情があります。社会状況の変化に応じて、青年期に経験される様々な心の葛藤や屈託、そしてときにその表現として出てくる若者文化、または反社会的行為などをどう理解するか、という問いに答えることが大切になったわけです。
論者は、エリクソンの理論のユニークさは、こうした理解をするにあたって、「青年期の混乱状態を逸脱行為とは見ず、あくまでも社会的な文脈との間で進行するプロセスとして、それを位置づけようとしたところ」にあるといいます。簡単にいってしまえば、青年期とは自己と社会との距離感をうまく掴めない時期です。そして、そんな時期にあって試行錯誤しながら、自分なりに社会との関わり方を見つけようという過渡期の表現として、ある種の心理や行為、文化が生まれる、ということでしょう。
さて、こうした背景を踏まえると、エリクソンアイデンティティ論には、青年期における二つの相反する側面についての洞察が前提とされているということがわかるでしょう。青年は、一方では社会に適応していかなければならない。しかし他方では、こうした社会の既存のあり方に対する反発心のようなものもある。この二つの矛盾のあいだでどう自分のあり方を塩梅していくかということが、青年期に(少なくともこの理論が考えられた時代の)多くの人々が抱える共通の課題といえなくもなさそうです。
このような文脈から、まずアイデンティティとは、こうしたある種の発達の段階において危機にさらされ、確立されるものである、と定義できます。しかしこれはエリクソンアイデンティティ論が語ったことの一側面にしか過ぎません。
論者によれば、エリクソン的なアイデンティティ概念には、もう一つの側面があります。それはライフサイクル(子どもの頃、青年期、社会人としてバリバリ働いてる時期、定年退職してからの時期などなど…)に応じて変化し続ける不断の運動としてのアイデンティティの側面です。要するに、青年期に一回確立したらそれではい終了、というのがアイデンティティではないわけですね。いやそれもそのときのアイデンティティには違いないのでしょうが、やはり歳をとるなかで、また時代の変化にあわせて、(かりにアイデンティティなるものがあるとすれば)アイデンティティを変えていかなければいけないというのは当然なわけで、そうしたアイデンティティの変化の運動そのものがまたアイデンティティとして考えられる。静的な側面と動的な側面があるわけです。
このあと、人間の心の発達の段階やモラトリアムの時代ごとの社会的な形態についてもっと突っ込んだ細かい議論はあるわけですが、ここまでを踏まえたところでそれは割愛して、論者の問題提起に一足飛びに移りましょう。ここで論者が指摘するのは、エリクソンにおける歴史的・社会的な相対化の不十分さです。ひらたくいえば、それは、彼の理論は20世紀のある時期のアメリカという非常に限定された時代・場所における青年期のかたちを(そしてともすれば青年期そのものを)あまりに一般化・普遍化しすぎた、ということです。
では、青年期やアイデンティティのことを歴史・社会的な側面から捉えることはできないだろうか。こうした問いに基づいて論者が参照するのが、次に紹介されるバーガーのアイデンティティ論になります。
まずバーガーのアイデンティティ論を説明するにあたっては、この立論が彼の社会構築主義的な立場に依るところが多いということに注目しておきます。論者の要約によれば、社会構築主義とは「現実(リアリティ)がコミュニケーションの中で構築される」という考え方です。たとえば、ある何人かのあいだで共有されていただけの決まりごとやルーティンなどが他の人に伝達されたり子供に継承されたりすると、それがある社会のなかでの慣習法、しきたりになったりする(制度化)。これが制度として客観的に立ち現れてくるようになると(対象化)、その枠組みなしには人は現実を体験しえなくなる(内在化)。ようはコミュニーケーションから制度が生まれ、それが社会に生きる人々の現実になる、ということなのかもしれません。
このような意味で、バーガーにおける個人と社会の関係は、相互作用的なものです。個人同士のやりとりが社会を形成すると同時に、形成された社会が個人のあり方に大きな影響をも与える。なんというかこういう身もふたもない言い方をするとすごい当たり前の話っぽいですが、ともあれこの考え方がアイデンティティ論にまで敷衍されると、やはりエリクソンのそれと似通ってくるわけですね。エリクソンも社会と個人の関係ということを考える。
そしてまたエリクソンアイデンティティ論とバーガーのそれの違いも、ここに顕著に現れます。論者によれば、アイデンティティの安定について、エリクソンは個人のなかの一貫性がそれを可能にしていると考えているのに対し、バーガーのほうは社会の圧力がそれを可能にしていると考えているようです。「エリクソンの描く青年が内的な一貫性をめぐって苦悩しているのに対して、バーガーの描く人間は外部からの与えられる状況への定義に締め付けられているのである」。
さらにバーガーは、アイデンティティの変化をめぐって、エリクソンが基盤としている精神分析の療法についても、面白い見解を示しているようです。アイデンティティの変化は、バーガーによれば、社会の変化に強く影響を受けた結果としてありますが、これはいいかえれば、イデオロギーの変化にともなう変化でもあります。そしてバーガーは、このイデオロギーの変化という側面が、精神分析療法にもあるといいます。もちろん精神病や神経症といった心に関わる病、症状は、歴史・社会状況に左右されるものですし、それを心の「病気」だとか「異常」だとかいうふうに決めるのも、社会の規範なわけですね。たとえばヒステリーは現在ではほとんど見られなくなったそうですが、それは現代が昔に比べ、性の問題について抑圧的でないからだといえます。そして精神分析療法は、こうした社会制度に規定されたことによって患者の精神に生じたある特定の状態を、社会に適応したかたちに作り変えるという作業ともいえる。しかし、それは患者がイデオロギーを脱したということを意味するのではなくて、別のイデオロギーに移動したということを意味するわけです、というか、少なくともバーガーはそう考えたようです。そしてそのイデオロギーとは、バーガーにとって、精神分析医の心が持つ枠内でのイデオロギーに他ならない。
こういう図式的な構図を描くとややエリクソンにたいして不誠実な気はしますが、ともあれこのように、エリクソンにあってはそれが主題化されず予め肯定された上でアイデンティティの問題が考えられているところの精神分析療法が、バーガーにおいては相対化されているというのは、踏まえておくべき点でしょう。そしてそこから次のような問いの違いが生まれてくることになります。

バーガーにも現代人がアイデンティティに関する問題意識を抱いているという認識があるのだが、問いの立て方は、エリクソンとはだいぶ違う。エリクソンにおいては、目的としてのアイデンティティが先にあり、なぜそれが確立できないのか、どのように確立していくものなのかという問いが探求されていた。これに対してバーガーにおいては、なぜ現代人はこれほどまでにアイデンティティにこだわるのかという問いに転換されており、さらにそれが歴史的な文脈において探求されることで相対化されている。

そしてこの探求の結果としては、前近代と近代における主体のあり方の違い、という馴染み深い話が出てきます。すなわち、前近代においては社会において個人にあらゆる選択の自由がなく、なおかつ共同体のなかで各々にある程度の役割が定められていたわけですが、近代以後はそれが自由になったり、高度な産業化によって個人が機械部品のように匿名化されることで、自分というものの根拠が不安定になった、というストーリーですね。つまり社会の安定を求めれば個人の自由はある程度抑制されてしまうが、それゆえに自らがどのように生きるべきか迷わずに済んだところを、個人の自由を求めると社会が流動化し共同体の基盤が崩れ、個人々々が匿名化していくうえに、人は与えられた自由のなかで困惑する、という現象が起こるわけです。こうした議論は資本主義経済の仕組み、産業構造の変化などとも合わせて論じなければ説得的にならないのですが、ともあれこれについてはここでは割愛したいと思います。

2,

いろいろ省いた部分はありますが、ひとまず論文の概説は終えたことにしたいと思います。念のためもう一度まとめておきましょう。エリクソンにおいてアイデンティティとは個人と社会との関わり方を模索するなかで形成されるものです。しかしエリクソンのこの議論はある限定された歴史的・社会的な状況におけるアイデンティティの問題を普遍化しすぎたきらいがある。そこでバーガーの議論が参照され、むしろなぜアイデンティティの問題が現代に重要視されるのかという問いが立てられる。その考察の結果として出てきたのが、前近代と近代以後の社会条件の違いである。社会が流動化し、個人の自由が尊重されると、一人一人がかけがえのなさを失ったり、その自由の前に困惑したりすることになる。そこでそういった問題が出てきてしまう。
さて、ふつうはここまでを踏まえたところで、どちらが正しいとか正しくないとかいう議論が続くのでしょうが、ここではそういったことはしないことにします。なぜなら、そういった議論や判断をおこなうためにはもっとこのあたりの議論について勉強しなければならないからです。でもそこまでのことをするつもりはない。そこでこれからは感想というか、アイデンティティの問題を僕なりの言葉や考えで引き受けておきたいと思います(なお、以下、アイデンティティについての定義の話は終わり、僕のぐだぐだした要領を得ない喋りが続くことになるので、人によってはここで引き返してもらったほうがよいかもしれません)。
そこでまずはバーグの議論を再び普遍化というか、形式化してしまいましょう。すると、アイデンティティと近代以後、という歴史的な意味でのアイデンティティ議論は、自由と必然、あるいは可能性と現実性という形式の二元論に還元することができます。どういうことでしょうか。
まず可能性と現実性、自由と必然といった言葉が、それぞれ選択という問題に関わることを押さえておきましょう。たとえば、自由であり、選択可能であるということは、いいかえれば選択の根拠を自分に持ってくるしかないということです(もちろんこれは選択に根拠がなければならないということではありませんが)。しかし根拠というものはつねに他なるものを規定するものですから、自分で自分を規定するというのは難しい。何かを選択する欲望を作るためにも、なにかの文脈に依存する必要がある。だから、たとえば世の中のために生きたいという発想などは、選択の根拠に他人の欲望を据えるという、ひとつの選択の方法としてある。その生き方を自ら選ぶのだというふうにして、でもその根拠は他から持ってくる。
そして、この点、つまり根拠をどう持ってくるかという点では、共同体の方が圧倒的に楽です。共同体が職を、生き方を、決めてくれる。自分は考えなくて済む。その限定の中で、自分はこうでしかあり得なかった(必然)というふうな自分を生きることができる。自分らしさとは、逆説的にも、実は過去や、他人や、社会に根拠づけられるものであったりする。
これはいいかえれば、人は何かに限定されなければ、なにも選べないということです。そしてこれをまた別の角度から照射すれば、自分が限定されない存在であると考えたければ、可能性に逃げればいいということでもあります。現実には何にもなれない代わりに、幻想つまり可能性のなかでは、自分は何にでもなれる、あるいはああしていればなれたはずだった、とかいうふうに想像することができる。そしてこの思考は「もしも」というふうな、仮定や可能性を考えるようなものの考え方を前提としています(もしもあのときあの人と付き合っていれば、もしもあのときあそこで逃げなければ、…)。
だからある意味で、共同体から自由な社会へという発想を形式にまで還元すれば、そうした移行が、こういう逃避の欲望に支えられているといることもあるでしょう(もちろん実際の歴史的な状況はもっと複雑だったと思いますが)。このようにバーガーの議論を形式化すれば、こういう自由-必然、可能性-現実性という軸が見えてくる気がします。

3,

実は、こうしたことは、僕は以前にも一度考えたことがありました。それこそ河合先生の本を読んでいたときに考えたという気がします。しかしそのときにはまだ見えていないことも多かった。
たとえば、そのとき考えていたのは、僕のある癖が、まさにこの可能性への逃避なのではないかということです。その癖というのは、懐疑癖です。ではなぜ懐疑癖が可能性への逃避なのか。それは、懐疑が、つねに判断の保留としてあるからです。
判断するということは、ある意味では恐ろしいことです。なぜならば、どんな判断も、つねにそれが具体的なものである以上、誤りの可能性を含んでいるからです(ちなみに、ここでいう判断というのは、正誤についての判断というよりもーーそれはそれで微妙な話なのですが今は脇に置いておきたいと思いますーー、善悪についての判断などをさしています)。そのようにして判断によって自分の立場を確定するということは、自分を現実の場におき、有限化することでもある。
もちろん、僕がそうした判断についてつねに慎重でいたいと思い、懐疑してきたのには、別のまともな理由もあるでしょう。たとえば、善悪についての判断をあまりに性急に、また粗雑におこなうことには、誰かを傷つける危険性が伴います。だから僕は善意から、そういう判断について慎重にならざるを得なかった、ということもできるでしょう。しかし、自分がなぜそのような癖を持っているかということは原理的には自分ではわからないことです。わからない以上は、こんなふうに自分に都合のいい解釈をするだけでなく、いろんな可能性を検討してみる必要がある。するとやはり、懐疑癖が可能性への逃避に支えられているというのはありそうなことに思えます。
ともあれ、昔の僕が考えていたのはこういうことでした。では最近の僕はといえば、このことをコミュニケーションの問題として考えていたりします。
たとえば、僕はコミュニケーションが苦手ですが、この苦手意識は実は中学校のころに始まっています。
小学校低学年から中学年くらいまで、僕は冗談をいったり、友達とふざけたりするのが好きでした。しかし中学校に入るかその前あたりから、そういうふうにして人と笑ったり喋ったりしているときに、ふと、そうした状況をもう一人の冷めた自分が眺めているような、そんな意識を覚えるようになりました。人によってはこれを自意識というかもしれません。
これが中学校に入るとますます酷くなり、いつしか自分がどういうふうに振舞っていいかよくわからなくなってしまった。そしてこれと軌を一にするように冗談もいえなくなってしまった。
なぜこんなことが起こったのか。色々な原因があるでしょう。それでもあえて一つあげるならば、それは、僕が人を笑わせるのが好きだったからではないかと思います。たとえば冗談をいうには、まず自分がいる状況から身を引いて、それについて意外な視点からコメントを加えなければなりません。しかし状況から身を引くということは、状況のなかにいる自分と、それを引いて見ている自分が分裂してしまうということでもあります。そして後者の視点からみれば、どんな状況もある程度他人事に見える。たとえば「内輪受け」という言葉がありますが、これはその内輪=仲間内のノリの外にいる人が、そのノリについていけず、それを冷めた態度で揶揄するようなときにも使われますね。いわばこの時の僕の状況は、(揶揄することこそないものの)このような内輪受けについていけない状態にいたわけです。
さて、とりあえずこのような内輪のノリに疑いを抱かず浸っていることを、ここでは「内在」と呼んでおきましょう。そしてその外側にいることを、「超越」と呼んでおくことにしましょう。
このような言葉を使うと、この当時の僕は、状況に内在しながら、それを同時に超越しようとしてしまっていた、といえるわけです。そしてこのことは懐疑の問題にも完全につながります。なぜなら、懐疑とは、まさしく状況を超越しようとすることだからです。たとえば内輪のノリに内在しているとき、僕はそのノリが別の仕方で見える(外からみればつまらないかもしれない)ということを知りませんが、それと同じように、判断をし、それを確信しているときにも、僕はその判断について判断することはできない、つまり判断に内在してしまっているわけです。それでは外野から冷ややかな目で見られるかもしれないし間違うかもしれない。それがいやならあくまで疑うしかないし、ノリの外に出ようとするしかない。このようなわけで、少なくとも判断についてのみいえば、僕は、そこからあくまで超越することで、可能性のなかに逃避し、その可能性のなかでのみ自分の優位性を確保しようとしていたのかもしれないわけです。
そしてそれをコミュニケーションの問題として語り直せば、僕は別のあらゆる内輪の可能性に逃避することで、内輪に内在してしまったときに別の界隈から冷めた目で見られるかもしれないリスクから免れていたということになるのかもしれない。
しかし、そのツケは、振る舞いについての判断エラーとして、そしてその結果としての挙動不審やぎこちなさとして帰結してしまうことになります。それは僕がちゃんと「超越」できたわけではないということを意味するでしょう。僕は一方では超越しようとしましたが、そのように超越しようとした自分自身はどうしようもなく状況に内在している。そしてそのなかで僕が迷っている間に、はやめに自分の振る舞いのタイプや判断を確定させ、それを用いてコミュニケーションの経験を積んだ人々は、とっくにコミュニケーションの玄人になっており、他方の僕はそのなかで打ち解けない、挙動不審な、ヘンな奴として位置付けられてしまう。そしてそのような自己認識がますます振る舞いをおかしなほうに空転させてしまう…。
おそらく少なくない人が多かれ少なかれこれと似たような経験をしているでしょう。そしてそれについて悩んだこともあるかもしれません。そうした人々にとって次なる問題は、その話がどうアイデンティティと関係するかということでしょう。

4,

先ほど、僕は、ふつうにコミュニケーションができている人たちのことを、「はやめに自分の振る舞いのタイプや判断を確定させ、それを用いてコミュニケーションの経験を積んだ玄人」だといいました。ここで注目すべきは、「振る舞いのタイプ」という言葉と、「はやめに確定させる」という文句の「はやめに」と「確定させる」です。
たとえば、エリクソンアイデンティティを社会と自己の擦り合わせの中で作られていくものだと考えました。それはいいかえれば、自分が何者であるのかということを、社会の視線を考慮しながら、決定するということでもあります。そしてこの決定までにはタイムリミットがあります。たとえば現行の日本の教育制度に則って生きていくと、ふつう高校を卒業する頃には進路が決まっていないといけないわけです。もちろん、人によって個人差はありますし、多少はやかったり遅れたりしても取り返しがつくことはあるかもしれませんが、基本的には進路決定が遅れれば遅れるほど色んな道が絶たれていくように思われる。こうしたある種の〆切に急かされるかたちで、人々は自分が何者かを決めざるを得なくなっていくという側面があります。さらにそれは畢竟、自分はどういう動機に基づいてどういう仕事をするつもりだとかいったことを他人に説明できるようになる、自分と自分の言葉を社会化・一般化していくということでもある(たとえば言葉にできぬ悲しみを感じたとき、あなたのその悲しみはあなた固有の悲しみかもしれませんが、それを人に伝えるときには、悲しみというレディメイドの言葉を使うしかなく、その時点であなたの悲しみは社会的・一般的悲しみとして流通し始めてしまいます)。卑近な例をあげれば就活においてESを書くという作業はまさにそれにあたるわけですが、これなどは決定と急ぎの最たる例です。なにしろはやく始めないと〆切に間に合わないし、ほかの就活生に枠を取られてしまうわけですから。このように、自分が何者かを急いで決定するということと、振る舞いのタイプを早めに確定するということは似ている。
そのようなわけでこれはコミュニケーションの場面においても起こっていることだという気がするのです。たとえば僕たちは、ある人と話しているときに「こんなふうな喋り方をする奴、いるよな」と思うことがあります。実際のところ、人は千差万別のはずなのに、よくよく聞いてみると、抑揚や、喋り方がそっくりな人というのはいっぱいいます。このようなことが起こるのは、おそらく、人が自分の喋り方を、以前自分が聞いたある喋り方の型を記憶し、それらをコラージュして作ったり、相手によってそれらを使い分けているからでしょう。その意味で、コミュニケーションとは、少なくとも形式面においては、常にかつてなされた別の誰かと誰かのコミュニケーションの反復なのかもしれないわけです。
そうすると、いいかえればこのコラージュをどのようにおこなうかということを決定することは、自分を相手に対してどのように見せるかということを決定することでもある。そしてそこに時間(急ぎ)の問題が関わっているときに僕の問題が見えてくる。つまり、相手に合わせて自分をどう見せるかを決定していく、そういう作業について、僕はミクロな視点でもマクロな視点でも躊躇ってしまい、それゆえに出遅れてしまっているのではないか。そしてそれが致命的な結果を招いているのではないか。
では、そうしたアイデンティティやコミュニケーションにおける非決定と遅れが可能性への逃避とその結果にほかならないとするなら、それはつまり何から逃避していることになるのか。
それはまず第一に、ここで散々繰り返してきたように、必然性あるいは現実性あるいは有限性から、でしょう。しかし別の観点からすれば、それは内在することからの逃避でもあります。最近の僕のはやりは、これをさらにゲームに内在することからの逃避だと考えてみるという考え方です。すると、僕は他人とおこなうゲームのなかで、その共同ルールに沿って戦いたくないがために、ルールを疑ったり、ルールの裏をかいたりするために、超越しようとしているといいかえられる。しかし他人と生きていく以上、そのゲームの外へは逃げられない。だから実際にはゲームを超越したつもりでそこに内在してしまっており、この内在において、そのような人間はゲームに負けざるをえない。
考えてみれば僕は昔から他人と戦ったり、傷ついたり、傷つけたりするのが嫌いで仕方がなかった。しかしそうも言ってられないような状況になってきており、この「状況になってきている」ということには、とりもなおさず時間(急ぎ)の問題が関わってくる。さらにここには応答可能性=責任の問題が関わっている。では僕はどうすべきなのか。いまだにそれはよくわかっていません。なにしろ自分が何年も何年も避けてきたことを、今更やろうというわけですから、カンもないし体もそういうふうにできていない。しかしともあれなんとかしなければどうしようもないだろう。そしてそういう実践の問題とは別に、表象や文化について考えるというような観点から、このゲームという比喩を愚直にアナログ/デジタルゲームにおいて考えてみたらどうだろうか、などともぼんやり思っていたり。なんだか混乱した語り方しかできませんが、近頃はこんなことを考えます。

5,

最後は自分ではなく、ある別の人のことについて、この議論の視点から語りたいと思います。というのもこの人の事例は僕のそれと正反対に思えるからです。
その男性は両親との関係に問題を抱えていました。父親はすこし人格に問題がある人だったようで、男性に対して愛がなかったわけではないようですが、彼は父からときおり人格攻撃ではないかというような言葉を言われたそうです。そして母親の方も、そんな父から彼を庇ってくれなかった。
そしてこの両親は非常にエリート志向の強い人たちでもあったようで、実際この父親は優秀な人でしたから、彼はそんな家庭に育って、そのような価値観に触れながら、つねにその価値観からして満たすべき基準を満たしていない自分に対する劣等感を抱いていた。そしていわゆるメランコリー親和型に近い人格を形成してしまった。
ところで、よく鬱病患者は、自分が○○をできないからダメだ、○○でないからダメだ、というようなことを考えがちなようです。彼にもそのような癖がありました。なにかと他人と比較しては、自分の能力や状態が劣っていることを嘆いていて、よく自己卑下をしていた。一方、僕は彼に共感できるところもありながら、根底でこの人と僕は異なるという気持ちをどこかで持っていた。
最近、僕はぼんやりと上述のようなことを考えるなかで、その違いを言葉にできるような気がしてきました。おそらく、ここで問題になっているのは自己肯定感です。
僕が彼と自分の違いを感じたのは、まず、彼が○○でないということと、だから自分はダメだということを、短絡していることに共感できなかったからでした。僕にとっては、僕がこういう学歴を持っているとか、こういう職業についているとか、こんなことができるといったことは、僕の自尊心とそこまで決定的な関係を持っていなかったからです。いいかえれば、そうしたことはあくまで僕が何であるかということに過ぎないであって、それと僕がそれ自体で肯定されてよい存在であるということとは、完全には関わらない。もちろん、僕も自分がなんであるか、ありたいかという点において至らず落ち込むことはありますが、それとこれとは話は別で、そのような自己嫌悪や落ち込みの最中においても、根底において僕は自分を肯定している。
しかし、彼の場合はそうではなく、自分がどうであるかということと、自分がそれ自体肯定されるべき存在であるかどうかということが、強くつながってしまっている。それがおそらく僕と彼の違いです。
では、その二つの違いはどのような性質のものなのか。
このことを、アイデンティティの議論から考えてみましょう。アイデンティティとは、今の僕の考えでは、社会と自分の折衝のなかで生まれる妥協点のことです。そしてこのことを踏まえると、僕と彼について次のようなことが言えるでしょう。まず、僕はこの妥協点を探る作業において、社会の要請するあり方に対して自分を合わせるのに難儀している。一方で彼の方では、自分のあるべきあり方が社会(あるいは他人)が要請するそれに短絡してしまっているため、それとは別に自分を肯定することができずにいる。たぶん両者にはこのような違いがあるのでしょう。
しかしこうした議論は、なおも細かく検討する余地のあることでしょう。たとえばこうしたことはフロイトのメランコリー論とはどのように関連づけられるのか…。
ともあれここらへんで、とりとめもないおしゃべりはやめておくことにします。

規定と反省ーー作品を論じるということあるいは考えるということ

0,

とあるところで自分の研究について発表する機会があって、人に批判された。その批判の内容は、作品について語る際、それに用いる枠組みと作品との対応関係がちゃんととれていない、というものである。つまり簡単にいえば、たんなる雑な当てはめだということだ。
作品論を展開する際、ふつう、人は作品についてある理論的な枠組みを使う。それが哲学であれ、社会学であれ、精神分析であれ、あるいはなにかしらの一般論であれ、そうすることが多いだろう。つまり、作品論には、論じられる作品と、作品を論じるための枠組みがある。そして、そのときには、作品は枠組みによってその意味を規定されるということができる。
たとえば、ある物語の展開について「これは抑圧されたものの回帰だ」といえば、それは精神分析の「抑圧」という術語と、それをめぐる議論の枠組みによって、作品を規定しているということができる。
しかしここで問題なのは、このような作品論がその作品についての論ではなく、枠組みが枠組みについて語っている論になってしまう危険性を秘めているということである。というよりも、僕の考え方では、作品論とはつねにこのように、枠組みの自分語りにならざるをえない。どういうことか。
ここでかりに、枠組みが当てはめでない場合を考えてみよう。するとそれは、作品自体がその枠組みの反証となるような場合である、と考えることができる。そして作品自体がその論の枠組みの反証であるならば、枠組みは妥当性を失う。つまりそれに依拠していた作品論自体の妥当性が失われてしまう。したがって、規定の細かさ粗さの違いはあれ、もし作品とそれを論じる枠組みの確固とした関係を維持したいならば、作品における枠組みの一貫性を脅かしうる要素はなかったことにするしかない。
ともあれ、おそらく批判者が僕の論についていいたかったのは、この枠組みの自分語り的な性格が、僕の議論に見られたからだろう。
その批判の是非はともあれ、これはかなり根本的な問題である。そしてそれについては以前から僕も考えていた。その考えを、この際、ここにまとめておこうと思う。

1,
先ほど、僕は、作品論には、論じられる作品と、作品を論じるための枠組みがあり、この二つの関係は、一方が他方によって規定される関係であると述べた。実はこの規定という言葉は、カントの術語である。そしてこのカントの術語としての規定について考えることは、作品論における枠組みのことを考える上で非常に重要なことなので、ここではまずその説明をしておきたい。
規定は、カントにおいて、判断力という術語を語る際に典型的な使われ方をする。カントは判断力を人間の先天的な能力の一つとして示したが、この判断力にはいくつかの種類がある。そのうちの一つに、規定的判断力というものがある。
規定的判断力とは、ひらたくいえば、ある普遍的な法則と、現象や対象とのあいだに照応関係があるかどうかを判断する能力である。たとえば、三角形という概念に当てはまる図形を様々な図形のうちから判別し選び出せるのは、我々に規定的判断力があるからである。
さらにカントによれば、規定的判断力には、それと対照関係を持つ判断力がある。それは反省的判断力である。反省的判断力は、個別の事例から普遍的なものを発見する能力である。たとえば人Aが死に人Bが死に人Cが死ねば、そこから、「人はいつか死ぬ」という考えが導きだせる。
勘のいい方ならお気付きのように、この二つはそれぞれ演繹と帰納の話をしているように見える。そして事実それは妥当だろう。規定的判断力は普遍的なものを個別的なものに当てはめる能力であり、反省的判断力は個別的なものから普遍的なものを抽出する能力なのだから。

2,
それでは、作品をある枠組みを使って論じるということは、どちらの判断力に依拠してなされるのか。ここで、作品は個別的なものであり、枠組みは普遍的なものであると考えることができる。したがって、普遍的なものに個別的なものを当てはめるという作品論的な操作は、規定的判断力によってなされることがわかる。ということはそれは本質的に演繹的な作業である(という今の操作も僕の規定的判断力によってなされている)。
ところで演繹にはいくつかの弱点がある。そのなかでももっとも致命的なのは、演繹が大前提とした命題がもし間違っていたとしたら、その結論もまた間違っていることになる、ということである。したがって大前提は、もしある演繹についてそれを正しいと強弁したいならば、決して疑ってはならないし、その根拠について問うてはならないものとしてある。
作品論についても同じことがいえる。ある作品論についてそれを正しいとするならば、その前提となる枠組みは疑いえない。それを当てはめる作品は、したがって、この枠組みに沿うものでなければならない。そうしたことの結果として生まれるのは、枠組みが枠組み自身について語るという独我論的な空転である。規定・演繹と反省・帰納という言葉を使って先の議論を置き換えると、このような言い方になる。
実は僕は以前から作品論にかんするこういう不毛さに気づいていたし、一時期はそれで完全にうんざりしてしまったこともあった。ところが、一方で、それでもこうした作品論らしきよくわからない記事を、僕は相変わらず書き続けている。それはなぜなのか。

3,
その答えは、僕が、人は規定と反省の繰り返しで理論を研ぎ澄ましていくと考えているからである。
たとえば、ある大前提を立てるためには、どこかしらで帰納に頼らなければならない。先の「抑圧」という言葉を例にあげよう。抑圧は、精神分析の術語であるが、これは、個別具体的な神経症患者つまり個別的なデータを参考にすることによって考え出された抽象概念である。したがってそれは帰納的、反省的に考え出されたものだ。しかしそれを一度作品に当てはめるとなると、今度は抑圧という普遍的なものを大前提として、作品という個別的な事例に当てはめる必要がある。
しかし、たいがい一回こっきりの帰納で生み出された概念などというものは、しばしばあいまいなものである。たとえば道徳などという言葉はあまりに漠然としているから、それについては、個別事例を偶然的にひたすら列挙するのでなければ、様々な分類をする必要がある。いいかえれば、抽象概念にはたいがいその例外や、それに当てはまるのかもしれないが、かといって他のものと一括りにするのもどうかと思われるような個別的なものが出てくる。もしこれをなかったことにすればその抽象概念はそれ以上細かくならないし厳密にもならない。逆にそうするためにはこの例外的なものたちについて再び帰納、抽象化をおこない、細かく考える、という作業を、不断に続けなければならなくなる。そしてこの作業はいくらやっても現実の特殊なあるものには到達しない。それが言葉や理論の限界である。
ともあれ、しかしながらこうした例外に気付くには、人はたとえ荒削りな概念や枠組みであれ、それを何かに当てはめるということをしてみなければならない。それで枠組みと対象の齟齬に気づかなかったり、気づかないふりをするようならこの人の思考はそこで終わりである。もし気づけてなおかつその気づきを活かしたいと思うならばこれ幸いと、自分が立てた論の崩壊を恐れずに、その例外について考えるのが良い。そして僕はものを考えたい人だから、どちらかといえば後者の態度をとりたいと考える。もちろんたまには一つの枠組みに安住したいということはあるが。
いずれにせよ、僕がこれまでやってきたことは、ようするに、作品論を論じてはそれを自己批判し、自己批判して作り直した枠組みで作品論を論じてはまたそれを自己批判する、という反復作業である。そしてこれはある意味で作品に対する枠組みの優位関係の定立を、アイロニカルには(つまり作品論を論じる際に一時的には)やるとしても、根本的にはやらないということでもある。
むろん、この選択は作品論を論じるに際して方法的な困難を呼び寄せる。おまけに精神衛生にもよくない。しかしもしある事柄についてちゃんと考えようとするならば、この困難は避けてはならないし、甘んじてうけるべきものであろう。そしてこうした困難を避けるつもりも退けるつもりもない僕の議論が比較的当てはめに過ぎないように見えるというのは、ひとえに僕の思考力の問題もあるし、反復がまだ足りないということもあるのだろう。いずれにせよその指摘された等の理論についても、まだまだ精進が必要だということだ。

感情移入論の導入のために

エッセイです。

 

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目次
0,はじめに
1,二つの感情移入
2,感情移入の限界
3,背景と課題
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0,はじめに

ここでは、物語論の研究の一環として、感情移入について考えてきたことを、基礎的な理論として、短く、簡潔に記すこと目的とする。したがって、本エッセイは、専門知識や議論の背景をまったく知らない人でも読めることをめざして書かれている。

 

1,二つの感情移入

僕らは日常的に感情移入や共感という言葉を使う。その言葉は主に、映画、ドラマ、アニメ、漫画、小説について語る文脈で用いられる。つまりエンターテインメントを語る文脈で用いられる。
これらのコンテンツにおいて、キャラクターに感情移入できることは、それほど重要なことだと考えられている。では、感情移入できない場合にはどうなるのか。そのことを考えるにあたって、まず、この場合がどんな場合かを考えてみよう。さしあたりこれには二つのパターンがある。

 

A,キャラクターの態度や行動の理由(動機)に説得力がない。
B,キャラクターの行動が許容できない。

 

この二つは似ているが違う。A,は感情的なリアリティの問題である。それに対してB,は倫理的な問題である。キャラクターの態度・行動に説得力がなかったからといって、受け手はキャラクターを非難しない。せいぜい、たんに頭のおかしなキャラクターだと感じるか、作者の技術の拙さに対する怒り・軽蔑・笑い・呆れを持つだけだ。これがA,の場合に起こる心の動きである。一方、B,の場合には、受け手はキャラクターか作者あるいは両方を倫理的に非難したくなる。あるいはそこから怒り・軽蔑・笑い・呆れが生じる。しかし、その感情は、キャラクターの不自然さや技術の拙さよりは、倫理的な問題からくる。
たとえば、『異世界はスマートフォンとともに。』(以下『イセスマ』)というアニメがある。僕は、このアニメについての感想ブログ記事(【アニメレビュー】異世界はスマートフォンとともに 全話制覇報告 : 第B級映画レビュー小隊)を読んだことがあるのだが、ここでこのブログの書き手が示した感想はA,の典型的な例なので、ざっと紹介しておこう。
このアニメの主人公は、日本に暮らすごく普通の高校生である。ある日、彼は、神様の手違いで死ぬことになる。死後、神様は、お詫びとして、彼を異世界に転生させることにする。そこで主人公は、とあるファンタジー風の異世界に転生する。彼は、そこで出会ったヒロイン達と、冒険の旅を繰り広げる。この様子を描いたのがアニメ『イセスマ』である。
ブログ記事の作者は、この主人公をサイコパスと呼ぶ。その理由は、彼の得体の知れなさに起因する。たとえば彼は死後、自分が神様の手違いで死んでしまったことを、神様に知らされる。しかし、彼はそれをこともなげに許してしまう。まるで自分の生死がどうでもいいことであるかのように。しかし、ふつう、人にとって自分の生き死には最も重要なことがらの一つである。だから彼の態度はブログ記事の作者にとって不気味に思える。
ほかの例もある。たとえば彼は転生前の世界の話をほとんどない。家族や友人の話は一切しない。これだけでもふつうの感覚からいえば考えられない。しかし彼はさらに常軌を逸した行動をとる。彼は異世界に転生する際、神様に許可をもらって、スマートフォンを持ち込んでいる。このスマートフォンのインターネット回線はもとの世界とつながっており、ブラウジングだけはおこなうことができる。そのブラウジングをしながら、彼はさして興味もないバンドの解散ニュースにのみ言及する。他に言及するべきものはいくらでもあるはずなのにもかかわらず。
これらの理由から、ブログ記事の作者は主人公を「サイコパス」だという。もちろんこれは厳密な意味ではなく、せいぜい「人の感情を持ち合わせないもの」くらいの意味合いである。いずれにせよ、このように、当然あるべき感情を持たなかったり、逆にさしたる理由もなく過剰な熱情に突き動かされているキャラクターは、感情移入の対象にならない。これがA,のパターンである。
B,のパターンは、まず多くの場合は悪役に対して起こるものであるといえる。ふつう悪役には、受け手は、感情移入をせず、かわりに敵対心、憎しみ、怒りを抱く。そして、これらの感情は、ときに、主人公の非倫理性の隠れ蓑になる。免罪符になるといってもよい。これだけ悪いやつなのだから、倒されても文句は言えないだろう、と受け手は考える。結果として、しばしば主人公の暴力は正当化される。
ここには、単純に政治的な対立構造がある。つまり向こうを悪、こちらを善と定めたうえで、悪を叩く、善悪の二項対立がある。

 

2,感情移入の限界

さて、A,およびB,の場合に見られるこれらの感情移入の性質は、必然的に、感情移入の限界をも示している。
まず第一に、A,は「人間は自分と似たものにしか感情移入できない」という限界を示している。事実、これはなにもキャラクターや作者のみの責任ではない。キャラクターに対して感情移入が起こるかどうかは、受け手の価値観や性格に拠るところも大きいからだ。感情移入には、文脈の負荷がかかっている。
そして第二に、B,は「人間は自分にとって好ましいものにしか感情移入できない」という限界を示している。たとえば、敵が倒されても仕方ないと考えるのは、敵が悪だからである。また、主人公に感情移入できるのは、主人公がいい奴だからである。そしてあるコンテンツが貶されるときにもっともありふれているのは、そこに倫理的な非難が加えられる場合である。掲示板の書き込みでは、本人は日頃とうてい倫理的でなさそうな投稿者が、しばしば主人公の非倫理性を悪し様に非難し、そのことで作品の価値を判断している。これはたとえばハーレムラブコメに対する批判においてもっとも頻繁に見られる。
これらのことを確かめたうえで、僕たちはまた次のことをも考慮に入れなければならない。つまり、この第二の限界は、第一の限界に部分修正を強いるのである。人間は、自分に似ているキャラクターに感情移入するが、それだけではキャラクターに完全に感情移入できない。彼らはそのキャラクターに、嫌な面がない、あるいは嫌な面があったとしても、それが許容範囲に収まることを要求する。もちろん、この二つの感情移入は別々のものだと考えることはできるが、この二つが要求する条件をいずれも満たさなければ、主人公は完全な感情移入の対象にならないのである。
このことを踏まえると、感情移入という言葉の意味は、にわかにはっきりしてくる。それは、ある対象を、自分の味方・身内だと認めることである。そして味方・身内は、自分にとって好ましいものでなければならない。なぜなら、彼らは自分の写し鏡だからである。この意味で、とりわけB,の感情移入の条件は、許容できる自己像の条件でもある。そして、人は、自分のなかの許容できない要素を、自分の内側(身内、味方)ではなく、外側にあるものだと考えたがる性質を持っている。キャラクターへの感情移入が成功した場合、このようにして外側に転嫁された好ましくない要素を担うのは、敵キャラクターである。
では、感情移入が失敗した場合、そこでは何が起こっているのだろうか。その場合には、人は「そんな奴に感情移入する自分ではない」=「自分はあんな奴とは違う」と考えたがるため、キャラクターに対して、非難をするか、嘲笑うか、軽蔑するか、怒るか、呆れる。これらはいずれも、相手と自分を分かつための感情的反応である。たとえば、非難や怒りはキャラクターとの敵対を示す。嘲笑や軽蔑や呆れは、キャラクターに対する自分の優越を示す。いずれにせよ、それはある種の防衛策なのである。

以上、これらの考察から、感情移入についていくつかの性質がはっきりした。

まず、感情移入には二つの種類がある。つぎに、これらの可否はいずれも、相手が自分の身内・味方であるかどうかの判断にかかっている。そして最後に、それが失敗した場合には、受け手はキャラクターと自分を分割するために、防衛的な感情の反応を見せる。以上が、感情移入のもっとも基本的なメカニズムの仮説として、ここで立てられたものである。

 

3,背景・課題

ここでは、この理論の背景にある考えのネタばらしと、今後の課題を示しておく。これ以後議論はとくに進まないので、読みたくない方はここで読むのをやめても差し支えない。
まず「1,二つの感情移入」のアイデアは、アダム・スミス道徳感情論』に負うところが大きい。僕は一時期カントの読解を通して道徳・倫理のアプリオリな構造について考えたあと、それを再びたんなる効果として見直し、発生論的に(アポステリオリに)考え直したいと思っていた。そしてその発生論を、物語における感情移入の問題に結びつけたいと考えていた。こうした目的にとって、スミスのこの文献は非常に適切なものだった。
また、「2,感情移入の限界」は、精神分析のアイデアを借りている。たとえば、相手を自分の写し鏡として考えるというのは、ラカン鏡像段階想像界そのままだし、自分の嫌なところを相手に転嫁するという心理は、精神分析では「投影」という用語で表現される防衛機制(自分を心理的に守るための心のメカニズム)の一種である。ここには『快感原則の彼岸』『喪とメランコリー』の議論や、犠牲の議論もまた絡んでくる。
いずれにせよ、ここで試みられたのは、カント哲学と精神分析の接続であり、それをできるだけ日常的な語彙で、平易に語ることでもあった。
今後の課題は、感情移入、敵対心、怒り、嘲笑などの情動が、人とその対象がどういう位置関係にあることをしめしたり、またそれを表現したりするのか、ということを、細かく考えることである。また、こうした感情移入関係と、美的な関係の違いをどう考えるかも重要になる。たとえば、僕の考えでは、萌えとここで論じたような感情移入は明確に異なる。この違いを考えなければ、萌えアニメを見ているときの心の動きと、そうでないものを見ているときの心の動きの違いは説明できないだろう。

いずれにせよ、これらのことについては引き続き考えていきたい。

『サクラクエスト』雑感

最近知能の著しい低下を感じます。エッセイです。

 

 

最近、ア○ゾンプライムビデオ(なぜ伏字にしたのかはわからない)のせいでアニメ中毒になりつつある。最近見たものを列挙すれば、そのなかで今放映してるアニメを除いても、『Re:ゼロから始める異世界生活』『異世界はスマートフォンとともに。』『グリザイアの果実』『ゼロの使い魔』『花咲くいろは』『サクラクエスト』と、その数は結構なものになる。端的にいってこれは非常にヤバイ。具体的には読書が捗らない。しかしともあれそんな経緯があって、このごろ僕は『サクラクエスト』というアニメを見た。
結論から言うと、このアニメは個人的にすごく良い作品だった。話はとても地味で、起伏も少ないため、おもしろいか、と問われたら、「まぁ、ふつうには…」と答えるしかない。だが、そのぶん、等身大の生活感が滲んでいて、その微温感が味わい深い。そしてそんなにうまくいかない(サクセスストーリーとかじゃ全然ない)その微妙な感じがまたよい。それにくわえて、地方の抱える問題がいろんな観点から丁寧に取り上げられていて、そういう意味でも面白く、また勉強になった。
ともかくそんなわけで、僕はこの作品が気に入った。そこで、ここでは鑑賞直後の印象を忘れる前に、この作品を見て心に残ったこと、感じたことについて、思い出記録というか備忘録がわりに書いておく。そういう話を期待してる人がいるかもしれないが(いないと思うけど)、いつもみたくわけのわからない抽象的な話はしないので、それについては断っておく。

1,『サクラクエスト』とは:

とりあえずよく知らない人向けに基礎的な情報を紹介しておこう。『サクラクエスト』は、P.A.WORKSという富山にあるアニメ制作会社が作ったアニメである。P.A.WORKSといえば一般には『花咲くいろは』や『SHIROBAKO』などが有名なのではないかと思うが、実は『サクラクエスト』はこの二作とともに一つのシリーズを成している。といっても同じ話の一期、二期、三期というわけではなくて、これらの作品は「お仕事シリーズ」という系列のなかに位置付けられているものである。もちろん「お仕事シリーズ」というからには、やはりモチーフやテーマの中心に仕事が据えられているわけで、一作目の『花咲くいろは』は主人公が旅館の仲居として働く話だし、二作目の『SHIROBAKO』は未視聴だがアニメ制作に携わる人たちの話らしい(これを見てお仕事シリーズを制覇するのが来月の目標である)。では『サクラクエスト』はなんの仕事を扱うのかというと、町おこし事業みたいなやつである。
いや、町おこし事業みたいなやつというか、町おこし事業でいいのだと思うが、一概にそうともいいかねるのは、その初期設定の特異さにある。
まず主人公がその事業に携わることになった経緯から説明しよう。彼女、木春由乃は、地元から東京に出てきて、なにか特別な仕事がしたいと思っているが、具体的になにをやればいいかわからない。頑張って就活をやってみるものの、選考に臨んだ30社全てにお祈りされてしまう(この時点で僕の木春由乃ちゃんへの感情移入度はMAXである)。そんな折、彼女は以前登録した派遣会社から来たアルバイトの仕事をよくわからぬまま引き受け、その仕事場である富山県間野山市へと向かう(ちなみにこの「間野山」というネーミングはドイツ文学における教養小説の名作として名高いトーマス・マンの『魔の山』と掛けており、なんとなくここらへんから制作側の意図が垣間見える)。間野山市は寂れた地方の町で、仕事を依頼して来たのは、この町の観光協会会長である門田丑松というやたら元気なジイさん。門田は、彼がかつてこの町の観光の目玉として作った、「チュパカブラ王国」という架空の王国の2代目国王(実質的に町おこし事業のリーダー)に、一年という任期付きで、木春を任命する。もともとは人違いで呼ばれ、気乗りもしなかった木春だったが、様々な経緯があり、結局この国王としての仕事を引き受けることにする…。
このようなわけで、木春の仕事は厳密には町おこし事業というよりは「国王」である。とはいえ、やってることはほんとにただの町おこしなので、これは要するに夢見て東京にやってきて就活に落ちた新卒の女の子がひょんなことから地方にVターンしてその寂れた町の町おこしの中心的な担い手になるという、そういう話である。この時点でなんか絶妙な残念感というかほろ苦感があっていいなと僕などは思うのだが、なぜリアルタイムで放映してた去年(2017年)には見送ったのか、謎が多いところである。
とまれ、そのようなわけで、今作では木春とその五人の仲間、そして町の奮闘と変化の様子が、作中での一年という歳月をかけて描かれることになるのであった。

2,圧倒的なNHK朝の連続テレビ小説

章題がすでに完璧な出オチなのでこれ以上語ることもとくにないのだが、とりあえずなんか喋ろうと思う。
そう、まず視聴をはじめて最初に思ったのは、「このアニメ、NHKで朝にやってるあれと似てね…」という感覚だった。もともと連続テレビ小説も女性が奮闘して仕事を頑張るとか東京に出たり地方に引っ込んだりするみたいな話がやたらと多かったり、老若男女多彩なキャラクターが登場してやいのやいのやっている感じがあるが、この作品もそういう向きがなきにしもあらずである。しかしこの連続テレビ小説っぽさというのは『花咲くいろは』にも感じたことで、この感じってなんなんだろうなと漠然と考えながら見ていた。
ほんとうに漠然と見ていたのでとくに深いことはいえないのだが、一つ思ったのは、これらの作品たちの連続テレビ小説っぽさというのは、つまり一種の共同体感というか、ホーム感というか、連帯感というか、そういうものなんじゃないかなぁということだ。いいかえれば、なにかそこに社会があるなというか、人間関係があるな、という感覚である。なんじゃそりゃ、と思われるかもしれないが、僕もよく言語化できないので、ひとまずはこういうあいまいな言葉で言っておくしかない。そして逆に、では、連続テレビ小説感のしない他のアニメ(たとえばラノベ原作アニメとか日常四コマ系アニメとか)には人間関係や社会はないのかといわれればそうもいいかねる。まぁここらへんのことは、しばらく考えてみたい。

3,「時代を生きてる」幻想ってなんなのか

2,とやや関連する話だが、間野山市の人々のことを見ていて思ったのは、時代を生きてる感ってなんぞや、ということである。
たとえば、作中にえりかちゃんという生意気盛りなJCのクソガキが出てくる(でも可愛いから許す)のだが、この子は終始「こんなクソみたいな町で一生を終えるなんてゾッとする」とか「東京に行きたい」ということを言っている。そしてげんにそうして間野山を離れてしまった若者もたくさんいたらしいし、そうして東京に行ったはいいものの、夢破れてUターンしてきたキャラクターもいる。
実は、こうした人たちを見ていても、僕はしっかり共感することができなかったりする。なぜなら僕は生まれてこのかたずっと東京で育ってきて、地方にいたことがないからである。東京にいるので東京行きたいとか思ったこともないし、べつに東京もそんなによくねえよなぁとか、むしろ地方に住みたい、それこそ富山とかよくね? とか思ってきた人種である。
しかし、よくよく考えてみると、僕も積極的に東京を出たいとはあまり思えない。富山住みてえとかいうのも、結局は冗談半分にすぎない。じゃあそれってなんでなんだろうと考えると、結局時代を生きてる感につながる気がして、この感覚を通すと、えりかちゃんの気持ちもわかる気がしてくる。
まず、えりかちゃんにしろ、僕にしろ、ここではないどこかとして、ここで感じてる退屈さとは違う何かを感じさせてくれる場所として、東京や富山を考えているということはあるだろう。それはある意味でたんなる抽象的な逃避である。ここじゃなきゃある程度どこでもいいわけだから。でもそれ以上に、(東京から富山へがまずければ)都会から田舎へ、という方向の欲望と、田舎から都会へ、という方向の欲望は、それぞれ違う質を持ってもいる。
この質のことを考えていくと、一方でおそらく僕の中での田舎に行きたい欲望というのは、俗世間の流れみたいなものからドロップアウトしたいというような欲望である。まぁ一種の隠遁生活への欲望みたいなものだと考えてもらっていい(なんかこういうと田舎に失礼な気がするが、これは具体的な田舎の話というよりも、ぼくがかんがえたさいきょうの田舎とかトヤマとかの話である)。
他方でえりかちゃんの場合、作中では明言されてないけれども、彼女の都会に対する欲望のなかには、娯楽が多いとか人がいっぱいいるとかなんか今とは違った生活が待ってそうみたいな感覚のみならず、同時に、田舎にいては時代に取り残される、みたいな感覚もある気がする。そして、僕が真剣には田舎に行きたいと思えないのも、田舎にいたらえりかちゃんみたいに思うんだろうなという漠然とした予感があり、それをどこかで避けたいからではないか。つまり、僕の中にもそういう取り残されたくない感情とむしろそこからドロップアウトしていきたい感情の両方がせめぎ合っているからなのではないだろうか。
じゃあ、この時代を生きていたい感とか、時代を生きてる感ってなんなんだ、と問われると、それはなんともいいがたい、根拠薄弱な幻想と言わざるを得ない。今の時代、グローバリズムの煽りでいろんなものが均質化している一方、各々のライフスタイルやら趣味やらはやたらと細分化していて共通言語ってそんなにないし、そうでなくともそもそもやれ国民とかやれ世界市民に共通の時代自体、みたいなものはないだろう。とくに僕なんかアナクロニズムな本ばかり読んでるし、Mステとかも大昔に見るのをやめたからいまの音楽シーンとか疎いし(すでにこの発言がアナクロな疑惑がある)、テレビもアニメ以外あまり見ないし、最新テクノロジーとか新時代のビジネスとか割と疎いし、都心部の繁華街もあんま極めないで引きこもってるし、どこが時代に生きてるんだと思う。だったら田舎にいたって同じというか、ネットやテレビはあるし流行のアイテム的なものも買おうと思えばAmazonで買えるだろうし、そうした現実的な条件を勘案すれば、べつだん今と変わりはしない。にもかかわらず「東京にいれば時代からは取り残されない」「田舎は時代から取り残されている」というこの謎の確信というか確固にして無根拠きわまりない謎の幻想はどこからくるのか。まったくもって皆目見当がつかないし馬鹿馬鹿しい。しかしそういう幻想があることは拭いがたい事実である。
また、もうひとつ作中で例を出せば、何度かテレビ局の権力性がどうのみたいな話が出てくる。作中においても地方のPRにはテレビ番組での特集が効果的で、それゆえに局側が足元を見た取引をしてきたり、暴力を振るってきたりもする。それに対するオルタナティブ・メディアとしてようつべとかSNSを使うみたいな話は出てくるのだが、そこでも僕はなんとなく時代を生きてる感みたいなものを考えてしまった。たとえばものすごい古いレイアウトの、更新が10年前とかで途絶えているブログやHPにアクセスしてしまったときのあの寂寥感はなんなのか。はたまたSNSが爆発的に流行った理由とか、インターネットに対して未だにテレビが強い理由を考えるときにも、こうしたことは考えないではいられないというか、やはりそれらのサービスやメディアが強いのは、この時代を生きてる感を感じられる、そういう時間感覚を持てる媒体として、そういうものたちがあるからなのではないか。『サクラクエスト』を一年遅れで見てしまったことに寂しくなったり、『花咲くいろは』や『ゼロの使い魔』を見直して無性にノスタルジーを感じているその感覚は、そもそもこの時代を生きてる感とのズレから出てくるのではないか。そういうことを考えると、流行とか、時代を生きてる感というのは、思いの外人間にとって重要なのかもしれない、そしてそういう感覚についてもっと言葉にできるようになればいいなと、なんとなく思ったりした。

4,あと適当ななんか

結局抽象的な話になっててあれーという感じなのだが、根がそうなのでしかたないですね、こればかりは…。
最後に本編の魅力を先にあげたの以外で言っておくと、まずBUNBUNさんがキャラ原をやっているのでSAOとかのデザインが刺さる人には最高に刺さる(刺さった)。具体的には真希さんというスレンダーで黒髪ショートカットで耳が美しくてうなじが長くて泣きぼくろのちょっとダウナーなお姉さんがいるんですが、この人が最高にきます。弟になりたい。でも僕はやっぱり木春由乃ちゃんが好き。キャラクターとしては個性ないけど(これは制作側がわざとそうしている)、めっちゃかわいいです。まぁ、『花咲くいろは』の緒花もそうだけど、二クール分その物語に付き合うとなんだかすごく可愛く思えてくるんですね…。ただでさえP.A.はあまり作画が崩れないし…。
あと、丑松会長とドクと千登勢さんの老人トリオの関係性がすごくいい。あーやばいみたいな感じになる。老人になったときこういう関係が残っていたらいいなと思いました。

コミュニケーションの哲学② ーー敵対と友好

コミュ障の屈託です。なおナンバリングしてますが続き物ではありません。

 

 

前々から疑問に思っていたことがある。たとえば、よくある失恋の代表例として「優しい人どまり」というものがあるが、あの例は僕の疑問にとって非常に示唆的な気がする。なぜ優しいだけではダメなのだろうか。でもとにかく、優しいだけではダメなのだ。なぜかちょっと不良っぽいほうがカッコイイとか、ストレートな物言いをしてくれたほうが深いところまでわかりあえるとか、そういうことがあるらしい。たしかにわからなくはない。僕(ヘテロ男性)からしても、ただ優しいだけの女性にはどこか魅力が欠けるという気はする(優しくしてもらえるだけありがたいのだろうが)。とはいえ、僕自身のことをいえば、やはり好意を持つ相手にアプローチするのに、ズバズバものを言ったりからかったりするなどということはできないだろう。おそらくは慎重に接し、そのせいで「優しい人どまり」になるのがオチである。
しかし別に問題は恋愛に限った話ではない。というより、これは人間関係全般に関わる話である。僕はともかく人をからかったりイジったり煽ったりして仲良くなるというタイプのコミュニケーションをあまりやらないし、やるとしても、それはある程度仲良くなった(と思い込めた)後で初めてできることである。そして気を遣ってつかず離れずの無難なコミュニケーションをしてしまうし、そのせいなのか、なかなか打ち解けて話せるようになるまでは時間がかかったり、結局打ち解けられないというときもある(そしてこういう性分の割に、いったん打ち解けると相当図々しい人間になる)。
逆に周囲を見渡すと、なかにはそういった僕から見ればハイリスクな仕方でがんがん人と関わっていき、あっという間に心の距離を縮めてしまうような人もいる。あるいはその危険さを自覚せず、特定の相手にはたから見ればほとんどイジメみたいな絡み方をしていって、その相手から忌避されるに至ったような人もいた。もちろん人と仲良くなれるコミュニケーションの仕方という観点から考えたとき、前者は良い例といえるかもしれないし、後者は悪い例といわざるをえないかもしれないが、しかし彼らはとにもかくにも僕のようなヌルいやり方はしないし、その意味ではなんらかの強い関係を(仮に忌避というかたちであれ)相手と取り結んでいるように見える。そしてそういう人たちを見るたびに、僕は「あれは少なくとも『優しい人どまり』にはならないタイプだな」などと思ったりしてきた。自分をとりまく周囲のコミュニケーション状況を、僕はだいたいこんなふうに捉えている。
そこで見出されるのは、ある種の二つのコミュニケーション形式である。一つは、相手に気を遣ったり、相手の気持ちを忖度したりして、慎重に振る舞う形式。もう一つは、いい意味でも悪い意味でも気を遣わず、時にはからかったりイジったり煽ったりと、大胆に振る舞う形式(この段階では雑な規定になるが、とまれこういう二つの形式がある、としよう)。
ここでは、これから、ふだん人と人は誰しもがこの二様の形式でコミュニケーションしているという単純な仮定をおこなったうえで、人と人のコミュニケーションや会話の仕組みについて考えてみたいと思う。そしてそのことを通じて、なぜ「優しい人」は「優しい人どまり」なのかということを考えるヒントを得たいと思う。

1,予備的な考察:歓待とその周辺

「歓待」という言葉がある。これはふつうにはもてなしというような意味をもつ言葉だが、これを社会的な行為をあらわす概念として、よく考えていくと、その射程の広さが明らかになる。たとえば今村仁司の『交易する人間』にはこういうくだりがある。

[…]歴史的経験としての≪social≫は、何よりもまずガストフロイントシャフト(もてなし)であった。それは異邦人の歓待(コンヴィヴィアル=共同の食卓への招待)と弱者の扶助であった。そしてこれこそが≪social≫の語義として保存されてきたのである。
しかしなぜ異邦人、未知の客人の歓待が何よりも重視されたのか。それはおそらくは、異邦人の本質的な敵対的性格を想定しているからであろう。つまり歓待の動機は、単なる善意や親切だけに由来するのではないだろう。一般的にいって、異邦人の潜在的敵対性が前提にあり、その敵対を解消するための行為が歓待になる。ホストが異邦人を拒否するときには、敵対が生まれるだろうし、異邦人が歓待を拒否するときにも敵対が生まれるだろう。だからこそ、≪social≫という行為には、敵対を解消するという役割が割り当てられる。

ふつう、どこか別の国からふらっとやってきた、正体不明の他人というのは、何を考えてるかわからないので怖い。なにかこちらに害意を持っていたり、そうでないにしても結果的にこちらにとってなにかよくないことをしようとしているのかもしれないのである。したがって異邦人は異邦人であるというただそれだけの理由で敵対的性格を持つ、というか、異邦人を迎える側からすればそう見える。警戒しないわけにはいくまい。
歓待は、こうした状況にあって、お互いの敵対関係を友好関係に変えるための行為だ、と、今村は主張する。…のだが、ところでこの状況ーー何かと非常によく似ていないだろうか。いうまでもなく、初対面の相手と話すときのそれに似ているのである(というかある意味ではそのままである)。
初対面の相手と話すとき、よほど社交的な性格でない限り、人はなんとなく相手に不安を感じる。相手がどんな趣味や価値観や思惑を持つ、どんな出自の人間なのか、わからない場合が多いし、そんな人間とどんなふうに話せばいいのかわからないからである。しかしとにもかくにも一度関わることになったからには、人は、相手に対して、笑顔で接するなり、親切にするなりして、少なくとも自分には害意や忌避感はない、ということを示すのではないだろうか。これは広義の歓待行為だといえなくもない。すると、こうした初対面におけるコミュニケーションの形式は、潜在的な敵対関係を解除する行為だと考えることができる。
しかし、こうした行為は、一方では、依然としてリスクを負うものでもあるのではないだろうか。たとえばこちらが歓待の意を示しても、向こうがそれを受け取ってくれるかはわからない。はねのけるかもしれないし、こちらの好意に乗じて、なにか無礼な振る舞いをして、こちらの自尊心を傷つけてくるかもしれない。それこそ異邦人との関係ということで極端な話をすれば、歓待を受けるふりをして懐に入り込み、金品などの財産や貴重品を奪ったり、こちらを殺そうとしたりしてくることすらありうる。そしてこれは歓待そのもののもつ危険性というよりは、人と関わることそのものに潜在する危険性である、といえる。
すると、結局のところ、歓待をおこなっても、対人関係のリスクは根底では取り除かれていないことになる。それでも歓待がなされなければならないのは、友好関係を築くには、先んじて歓待を行う必要があるからである。これはたとえば仲直りのことを考えてもらえれば明白である。一度敵対関係に入った関係を友好なものにするには、どちらかが先に折れて、相手の権利を承認する必要がある。向こうに許してもらったり、受け容れてもらえるかわからなくても、そうするよりほかにはないだろう。
その意味で歓待は友好関係を築くための一種倫理的な色合いを帯びた行為だといえる。そしてそれは自分を弱い立場に敢えておく行為でもある。だが、ここで歓待をこのような意味をしか持たない行為として考えてはならない。この行為は、たしかに他者の前に身を晒し、迎え入れる側面をもつが、その一方で、脅迫と示威の側面をもまた兼ねそなえる。
この点において、歓待、謝罪、許すこと、贈与、そして承認といった言葉はほとんど同義語としてあらわれてくる。たとえば誰かを迎え入れるとき、それは同時に「こちらは友好的に接しようとしているのだから、そちらも変なことをするのはやめろ」という脅迫を含む、あるいはたとえその意図がなくともそう受け取られうるし、謝罪や許しは、「こちらはそちらの非道な行為を許し、そのうえで自分の非をも認め謝っているのだから、そちらもこちらを許し謝るべきだ」という要求としてありうる。贈与もまた同様に、何かを与えることで相手に負債感情を負わせ、返礼を要求する、あるいは少なくともそのような意味を持ちうる。さらに、これらの行為はいずれも先んじて迎え、許し、非を認めて譲り、与え、承認する存在としての自分自身を権威づける意味を持ちうる。少なくともそう受け取られかねないことは、日常の場面を思い浮かべてもらえればわかる。誰かと喧嘩して、先んじて謝られたとき、どこか屈辱的な思いをすることは、往往にしてある。
ともあれ、歓待にはこのような両義性があり、それは直接的な暴力ほど力を持ち得ないが、たしかにある種の強制力や支配力を持っているし、権威をもつ。そしてどんな意図をもって人がそれをおこなうにしても、問題は、受け手がその行為をどういう意味に受け取るかにある。ここで出てくるのが、信用の問題である。
信用の有無は、歓待という両義的な行為に直面した受け手が、それをどちらの意味にとるかということを左右する強い要因としてある。あるいはこれは謝罪の場面から考えたほうがわかりやすいかもしれない。もし相手を信用しているならば、それを(相手の意図はどうあれ)素直に謝罪の言葉として受け取ることができるだろう。逆に、もし相手を信用できなかったとするならば、それを示威や脅迫、強制と受け取るだろう。そして、こうした受け取り方を左右する信用は、さらに、相手とのこれまでのコミュニケーションの記憶、行為がなされたときの状況、行為の様子などに、少なからず左右されるものでもある。

まとめよう。
人は初対面の人(広義の異邦人)と出会うとき、そこで潜在的にリスクを負っており、そのことから両者は少なからず、潜在的に、敵対関係を持っている。それを依然としてリスクを背負いながらも解消するのが歓待という行為である。歓待は、

1,先んじて行なわなければならない
2,ある両義性をもつ
3,謝罪、許すこと、贈与、承認と、1,2,の共通点を持つ
4,それが受け手のなかでどのような意味を持つかは事前にはわからない

という性質を持っている。

2,敵対的/友好的

歓待は敵対関係を友好関係に変える。あるいはそれは友好を示すコミュニケーションの形式である。したがってそれを友好的なコミュニケーションと呼ぶことはできるだろう。しかし、ここではコミュニケーションを相互行為の一種として考えたい都合上、そうした相互行為の一片についてはとくにそれを行為と呼ぶことにする。これらのことを踏まえ、友好的な行為のことを友好的行為、それが相互に交わされる場合には、その相互行為全般を友好的コミュニケーションと呼ぶことにしよう。
ところで、僕が日頃おこなっているような、つまり「優しい」「慎重な」話し方は、この友好的行為に分類されうる。それは相手に対して少なくとも自分の方は敵対していないこと、実際そうかはともかくとして好意をさえ抱いていることを示し、相手もまたそう示すように強制する力をもつ行為だからである。
ここまでを踏まえた上で次に問題となるのは、なぜこの友好的行為「だけ」では、あるいは僕がおこなっているような意味での友好的行為では、人と打ち解けることが困難なのか、ということである。そこでまずは、逆に、僕が先ほど「いい意味でも悪い意味でも気を遣わず、時にはからかったりイジったり煽ったりと、大胆に振る舞う形式」として規定した行為について、考えてみることにしたい。
まず、この行為は、具体的には、からかい、煽り、イジり、として示される。そしてこれらの行為を抽象的にまとめると、挑発という性格が浮かび上がる。いずれの行為も、相手の落ち度や欠点を突いたり、怒りのツボをついて、相手の感情的な(とりわけ怒りや羞恥心に駆られた否定や反論などの)反応を誘うものだからである。
このような行為の形式は、先述したように、しばしばリスクを伴う。たとえば僕が先に例に挙げた知人は、決して相手のことを嫌いだったわけではなく、むしろ好意さえ抱いていたはずだが、執拗にイジってしまったがために、相手から忌避されるようになってしまった。ふつう、たとえ相手が本気でいったわけではないとわかっていたとしても、欠点や落ち度をバカにされたら、不快に感じてしまう場合があるのは仕方のないことだ。親しみを込めてからかったりイジったりしたつもりでも、それが敵対関係を呼び込んでしまう可能性はある。
そもそも、ほんらい、挑発行為とは、敵対的な行為以外のなにものでもない。それがなぜ友好的コミュニケーションの手段としてしばしば採用され、しかも友好関係にとってよい効果をもたらすのか、ということが、本エッセイで焦点となる問題であることは間違いない。この逆説的な現象が生み出される仕組みにこそ、注目しなければならないのである。
とまれ、いまあげた基本的な事実、つまりこの行為がリスクをともなう、ということから、それがほんらいならば敵対的な行為である、ということもまた導き出された。そこで、このように、相手と敵対的な関係を作ってしまうようなコミュニケーションのことを敵対的コミュニケーションと呼び、さらにその一片を敵対的行為と名付けることにしたい(なお、厳密には、コミュニケーションや行為は、友好的-敵対的というふうに厳密に分けることはできない。先述したように、そしてこれから詳論するように、コミュニケーションの場において言葉や行為はつねに複数の意味を持ちうるからである。だが、ここではまず便宜的にこれを分割しておいて、議論を進める)。
この敵対的行為は、友好的行為と、対照される性質を持っている。たとえば友好的行為において贈与行為があり、贈与行為が人に何かを与えるという性質をもつとするならば、一方で敵対的行為は、相手から何かを奪ったり、相手やその大切なものを傷つけるという性質を持っている、といえるだろう。戦争、虐待、掠奪、強盗、殺人、といった行為においては、人々は、誰かの何かを確実に奪ったり、毀損したり、傷つけたりしている。イジり、煽り、からかいなどは、大げさにいえば、相手の自尊心を傷つける行為だといえるだろう。
さらに、友好的行為と敵対的行為には重要な共通点がある。それはそれらの行為がいずれも反作用を呼ぶ力を持っているということである。
反作用などといっても、これはべつだん難しい話ではない。ようするに、敵対的行為の場合にはそれに対してやられたらやり返すとか、奪われたものを取り返すという形式をとる応酬が、友好的行為の場合にはそれに対してお礼をするという形式をとる応酬が、それぞれになされるのは、経験的にも納得できることだろう。そしてそこでは、贈り物の内容とか、奪われた金品などの物理的な品が云々されるばかりでなく、感情のやりとりも同時になされる。
このような点でこの二つの行為の形式がいずれも反作用を誘発することは間違いない。しかしそれらの応酬はまたそれぞれに異なる性質を持ってもいる。その性質の差異は、人間が自己中心的な存在であると考えなければ説明できない。
人間は、誰もが自分を深く愛している(自己嫌悪でさえ自己愛を前提しなければ説明できない心理機制である)し、自分こそ世界で一番大切に扱われなければならないと考えているが、その感覚を抑圧しなければ、社会を形成することはできない。そこで誰もがお互いを尊重しようという考えが生まれるが、これは贈与や歓待によってはじめて可能になる。そしてそれは一時的には自らを他者よりも劣位に置く行為だから、かならずその補償として、今度は自分が優位に置かれること、尊重されることを求める。このように、時差のなかで各々が代わる代わる尊重されるのが贈与-返礼の形式であるが、この時差を廃棄し、つねにお互いが同じだけ尊重されている=同じだけ尊重されていないという状態をよしとするのが平等や対称性の思想である。たとえ結果的に(事後的に)平等が実現されているように見えても、贈与-返礼は非対称性をもつ。贈与-返礼を平等原理のコミュニケーション形式だというふうに考えるのは、時差・時間をなきものにしたときにのみ可能になる規定だが、これこそが贈与-返礼の形式と事後的な観点から考えられた観念的な平等を実存的な観点から決定的にわかつものなのだから、それらを同一視してしまうと、贈与の実存的意味が見えなくなるのである。しかしともあれ、このような非対称性が結果的に対称性に到達した(返礼された)ときには、そこでは両者の緊張関係は、とりあえず、不完全ではあるが、解消された、ということになる。一方で敵対的行為の応酬はこの緊張関係を持続させたり強化させたりする。
さて、このようなわけで、友好的コミュニケーションは緊張を(相手への不信のなかに残しつつも)弛緩させることを目的とするし、その結果においては平等が実現される=相互行為の原動力となる過剰がなくなってしまうが、敵対的コミュニケーションはむしろ緊張感を強くしたり、相互行為を激化させる傾向にある。事実、友好的コミュニケーションのかたちをとりながらその実敵対的であるようなポトラッチは、返礼の際の上乗せ=過剰によって、相手のさらなる反作用を誘う。
したがって、もし贈与の示威的な性質などを勘案しないとするならば、贈与-返礼のコミュニケーション形式にくらべて、たとえば略奪-報復などの形式は、緊張度と持続力の強い感情的関係をそなえるものであるし、そこでは贈与-返礼の場合よりも、感情がより剥き出しにされるということはいえる。たとえば、人はからかわれたらムキになってそれを否定しようとしたり、やり返したりしようとするものだろう。またそのようなからかう主体とからかわれた側のその関係性は、相手に対する報いに過剰分が上乗せされ続ける限り、すなわち闘争が終わるまでは(興醒めしない限り)持続させることができる。ひらたくいえば、「からかう→そんなんじゃないと否定する→その否定をさらにからかいで否定する」というパターンの連続で、会話を続けることができる。しかし逆に感謝をお互いにしあうコミュニケーションは、何度もやれるものではない。どこか空々しくなってきて、続かない。
また、このような敵対的行為のなかでも、からかいは、特殊な作用をも持っている。ふつう、人が誰かをからかうときは、その相手の揚げ足をとったり、欠点を突いたりするときに、揚げ足とりの原因となった言動や欠点を誇張し、カリカチュアライズすることが肝要である。すると、それは単純に滑稽の効果をも生むことができる。そのようにして描いた戯画がよっぽど相手にとって侮辱的でない限りは、それは苦笑交じりの笑いを誘うことができる。
以上のことから、滑稽さおよび強い反応を誘発し敵対=闘争関係を作り出す効果が、敵対的行為とりわけからかいなどにはあることがわかる。

3,からかいにおけるレベル分割と犠牲の不完全なシステム

次に、からかいが他の敵対的行為、つまり戦争などとどう違うのかを考えたい。
まず、戦争においては、人々は生死をかけて真剣に戦っている。ところがからかいにおいてはそうではない。からかいにおいては、人は確かに相手に攻撃をするのだけれども、ふざけて攻撃をしているのであり、本気ではない。その意味でからかいはトランプなどのゲームやちゃんばらごっこに似ている。
したがってそれは遊戯としての敵対的コミュニケーションであり、それが見かけ上敵対的であるとしても、本当のところは「僕はあなたに親しみを感じている」ということを示している。つまり、戦争は真面目かつ敵対的であるが、からかいは不真面目かつ敵対的なであるという違いがある。この性質から、からかいは受け手において少なくとも矛盾する二つの意味を持つ可能性がある。
しかし、上述のように、それがあきらかに冗談であるとしても、それを何度も繰り返されれば、人はイラついてくる。そして、両者が十分に信頼関係を結んでいなかった場合、行為者のパフォーマンスが拙い場合(たとえば言葉が強すぎたり表情や身振りなどで十分にふざけているとわからせることができない場合)、受け手が「冗談が通じない」タイプの人間だった場合、などは、行為者の意図は失敗することになる。行為者の意図が成功するためには、行為者が少なくとも意識上ではメタレベルとして設定したであろう「本当の」意味(僕はいまふざけていて、君をバカにしているが、ほんとうは君に親しみを感じているのであり、君は僕が君を攻撃しているフリをしてふざけているのにたいして、反撃するフリをしてふざけてほしい)を読み解く場所に、受け手も来てくれるのでなければならない。
ここから、からかいにおいては、ある種のメタレベルとオブジェクトレベルの不完全な分割がなされていることがわかる。つまり、彼らがからかったりからかわれたりしているときに攻撃されているのは、実はからかわれているその人そのものではない。そのときからかわれているのは、からかわれた人の戯画(カリカチュア)であり、いわばからかわれた人をパロディしたキャラクターなのである。この架空の戯画、架空のキャラクターを攻撃することで、からかう側は、からかわれる側への直接攻撃を避ける。そしてからかわれる側も、このことによって、ほんとうに傷つき、侮辱されることを回避することができる。
したがって、からかいは、本質的に三者構造で成り立つ。それはたとえば、社会学やコミュニケーション論においてスケープゴート、哲学や現代思想で犠牲というキーワードから論じられるシステムと似ている。これらの理論をひらたくいえば、それはこういうことだ。人は共同体を作るとき、その外部に忌避すべきものを置き、それを排除し、忌み嫌い、この排除や嫌忌を媒介することで紐帯する。その意味でそれは外部にあるように見えて、共同体存続のシステムのなかに組み込まれている。このような外部にあると考えられているものこそは、犠牲であり、スケープゴートである。これは卑近な例でいえば、女子グループ内で交わされる陰口の対象や、ホモソーシャルな男性共同体における同性愛嫌悪やミソジニー(女性嫌悪)が標的とするゲイと女性である。
からかいは、このような犠牲となる戯画を作り出して、それを攻撃する。しかし、この二つのシステムの決定的な違いは、犠牲のシステムにおいては、内部と外部がほとんど完全に分割されている(とはいえこれも実は不完全である)のに対して、からかいのシステムにおいては、内部(からかう人とからかわれる人)と外部(からかわれる人の戯画)が十分に分割されていないという点にある。からかいのコミュニケーションにおいては、人々は同じ相手を攻撃するわけではなく、パロディ元となったからかわれる側は、その攻撃に対して異議申し立てをする。からかいはからかわれる側を内部と外部に二重所属させながら、内部性を強調するコミュニケーションの形式であり、いいかえればどちらかといえば友好的(内部的)な、しかし敵対的(外部的)でもあるような、コミュニケーションの形式である。だからそこにはリスクが伴う。戯画は、決して矩をこえた滑稽さや醜さを持ってはならず、本人と完全に一致してはならない。このような重層的な相互作用を通して、人々はからかいのコミュニケーションを成立させているのである(もちろん実際のところは、どのようなコミュニケーションの当事者たちもこの二重所属性を持つ。そしてこのような二重所属性ないしは分割不可能性こそが、コミュニケーションのリスク一般を、そしてその裏面としての友好可能性一般をも規定しているのだといえる)。

4,信用の逆説・ストーカーとストローク

最後に、からかいのコミュニケーション形式がなぜ人と人を打ち解けさせる機能を持つのかについて考える。
僕の考えによれば、からかいがこのような功を奏する理由は二つある。一つ目は、それが信用に関わるからである。これについては以前ツンデレ論で書いた文章を引用しよう。

[…]いわゆるイキリオタクと呼ばれる人種は、自分がイキっていることを自覚していないがゆえに、笑いの対象になる。ところでイキるというのは、一種の示威行動であり、また痛々しいものでもあるから、好ましいおこないではない。したがって、彼らのイキりは(偽装の試みであるとはいえ、同時に)好ましくない素朴さなのだ。だがこうした人種に対して、僕たちは懐疑を持つだろうか。すなわち、彼らは敢えてイキったふりをしているだけで、本当は僕たちに笑いを提供してくれていて、そうして笑っている僕たちを尻目に密かにほくそ笑んでいるのではないか、などという疑いを持つものであろうか。むろん、そのような疑いを持つことは稀だろう。なぜなら、人間はふつう、そんなことのために自分を悪く見せようなどとは考えないからである。
 だが、逆に、いつもニコニコしていて、善良で、優しい人間に対しては、僕たちは疑いを持ってしまうものではないだろうか。なぜなら、人間はふつう、自分を良く見せたり、好かれようとするものであり、そのためならば、たとえそうすることが苦痛であり、本意に反することであっても、自分を偽装することが往々にしてあるからである(人間にとって本意とはなにかということを考えだすと、それはそれで難しい話なのだが)。むろん、このような疑いを持たない場合には、突然そのことを突きつけられることもある。これがギャップ萎えであるが、それは要するに裏切られたという感情なのであり、裏切りとは、信頼の無根拠性=偽装の偏在的かつ潜在的な可能性の提示である(「奴は本心では何を思っているかわかったもんじゃない」)。したがって、それは素朴さというよりも、むしろ偽装可能性の露出なのだ。
 ともあれそのようなわけで、僕たちは、誰かのおこないが好ましくないときには、それを疑わず、誰かのおこないが好ましいときには、それを疑ってしまうという、哀れな性質をもっている。そして仮に好ましくない素朴さがまったく予期しないかたちで露呈したとしても、その素朴さは偽装可能性として、いわば素朴とは正反対のものとしてもたらされてしまう。しかし、露出した好ましさというのは偽装の及ぶところではないから、僕たちはこのような状態(ギャップ)によって、始めてその好ましさを信じうるのであり、これを素朴と呼ぶのだ。

「いつもニコニコしていて、善良で、優しい人」とは、本エッセイの言葉でいいかえれば、コミュニケーション戦略として限りなく敵対的でないような友好的行為をとる人のことである。そしてそうした人が疑わしいのは、「人間はふつう、自分を良く見せたり、好かれようとするものであり、そのためならば、たとえそうすることが苦痛であり、本意に反することであっても、自分を偽装することが往々にしてあ」り、また人は誰しも自分本位で、その限りにおいて他人への攻撃性を持っていることを、我々が知っているからである。そしてこのような攻撃性をひた隠しにしている人間は、端的にいって信用できない。ときに人は優しい嘘よりも過酷な真実を好むが、それはひとつには、そのことがこのような信用の問題に関わるからである。
その点、からかいはある意味で露悪的であり、受け手への攻撃性を露わにするので、過酷ではあるが真実味を帯びている。一方でそれに返す側も、冗談半分ではありながらも、自分の素の感情を剥き出しにしている。だからこそ逆に、あまりにお互いがそれを冗談として弁えすぎ、ただ敵対的な装いをしているにすぎないということを露骨に出しているようなからかいのコミュニケーションは、どこか白々しく、無意味に思える。その点で、逆説的なことに、コミュニケーションにおいてはときに敵対関係が信頼関係を作るのである。
その意味で、からかいは、信用を回復したり確認したりするための手段としてある。
二つ目の理由は、先述したように、敵対的コミュニケーションが、友好的コミュニケーションよりも強度と持続力のあるコミュニケーションだからである。それはまず単純に会話を潤す。僕はコミュニケーションの哲学①で、かんたんにいえば会話は適度に充実していてしかも持続していなければならないといったが、敵対的コミュニケーションはこの条件について友好的コミュニケーションよりも優れているのである。
そしてこの強度については、TA(交流分析)の理論から根拠づけすることができる。TAにはストロークという概念があり、これはたとえばストーカーの心理を説明する。
TAにおける人間観は、身もふたもない言い方をすれば、人はコミュニケーションを欲するという人間観である。よく愛の反対は憎悪ではなく無関心だ、ということがいわれるが、その意味では、TA的人間にとって一番つらいのは誰も自分に構ってくれない、無関心状態である。この人は、無関心でいられるよりは、罵られようと、貶されようと、まだそっちのほうがマシだというふうに考える。ストロークは、このような罵られ、貶しや、感謝、愛情表現なども含めた、人が人に関わるときの行為全般を指す概念である。この点から考えれば、ストーカーが嫌われても疎んじられても相手に付きまとうのは、不思議ではない。ストーカーが相手に付きまとうのは、まさにそれゆえ、つまり、嫌悪であれ忌避であれ、そこに相手との感情的関係を持つことができるからである。この点から敵対的コミュニケーションを考えたときには、それは、たとえ不快な感情であれ、強烈な感情の関係を持つことができるという利点を持っている、といえる。ここに敵対的コミュニケーションの功がある。
しかし、最後に僕なりの考えを述べておけば、人間はコミュニケーションが好きだという人間観のみで人のコミュニケーションの仕組みを語ることはできない。人は人を恋しがるが、同時に孤独をも好むからである。そしてむしろ僕の実感に近いのは、人と関わることは疲れるし、外傷的である、という考え方である。だから、僕が友好的コミュニケーションに徹してきたのは、そうした外傷的な関係を避けるためだったといってもいいだろう。しかし人と打ち解けるためには、自分から相手への、あるいは相手から自分への敵対感情や攻撃性をうまく使わなければならない。社会は友愛によっても結ばれているかもしれないし、そういう考え方はヒューマニストを喜ばせるが、敵対感情もまた社会を作る。それはたんに競争関係や闘争関係を作るというだけではなく、友好関係のスパイスとして、友愛を支えるのである。ここに暴力の積極的意味があるのではないかと、僕は考える。

5,課題

このコミュニケーション論は、対人コミュニケーションに感じている躓きという実存的な問題意識と、物語論における面白さについての問題意識、そして日常4コマやSS、Twitterで投稿されるショート漫画で見られるような、キャラクターたちの絡みに感じる快楽を分析したいという問題意識から考えられている。
しかし、これら全ての問題意識に対して、この理論は十分に応えていない。まず今回の議論は、対人コミュニケーションのなかでも生の会話を経験的データとして考えられたものだが、これはもちろんコミュニケーションの一形式にすぎない。たとえば手紙、SNS、メール、LINE、掲示板などでのやりとりは、こんなふうにリアルタイムで感情を交わし合うわけではないから、もっと別の理論を考える必要がある。ようするに僕はパロールについては考えたがエクリチュールについてはろくに考えていない。しかし、そのヒントはコミュニケーションの哲学①にあるのではないかと思う。
ここで僕が考えた会話モデルは、完全に僕のコミュニケーションの特性を反映しているもので、この特性を持ったコミュニケーションにおいては、お互いの感情のやりとりをあまり介さずに、会話を持続させることができる。この特性とは何か。まず、僕はもともと理論的な話に快楽を覚えるタイプであり、そこからこの議論型接続というモデルを考えている。そしてこのモデルの一番の利点は、相手との感情のやりとりがなくても、理論は理論の必然性に沿って語り続けることができるというところにある。もちろん、人はふだんそこまで論理的に喋れるわけではないが、ともあれなにか目的に向かって理屈らしいことをしゃべっている間は、会話は続く。これはエクリチュールの会話の形式に適合的だという気はする。
次にキャラクターの絡みに感じる快楽を、この理論は十分に説明できない。なぜなら、キャラクターと読者の関係は向かい合った人と人との関係とは違うし、キャラクターは人とは違うからである。たとえば、僕は修羅場スキーなので、ラブコメでほかのヒロインと主人公の関係に対してやきもちを焼いているヒロインを見てると思わずにやにやしてしまうし、それを本気にせずに楽しむことができるが、たいがいこういうとき、ヒロインは真剣に怒っている。だからからかいのコミュニケーション形式に見られるようなレベル分割が、ここではもっと違う形で起こっているといえる。これについては現段階でも仮説はあるが、あまりに煮詰まっていないので、詳細は省く。
ほかにも色々不満点はあるが、それについては今後の課題としたい。とまれ、贈与論の研究の成果をひとまずまとめたということにして、ここでの議論は終わりにする。