かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

コミュニケーションの哲学①――議論と雑談

コミュ障の屈託です。なおナンバリングしてますが続き物ではありません。
 
 
以前、僕は会話の持続について文章を書き、noteで公開したことがある。本記事は、ようするに、その過去の文章を一部直して転載したものである。この転載を行った理由は、別にもう一つ新しい会話についてのエッセイを書くにあたって、同じような仕事をこちらのブログにもまとめておこうと思いたったからだ。ともあれ、ここでは、その記事について、今の自分の頭で論旨を整理する意味も込めて、要約を書いておく。
まず、僕はその記事で、議論型の接続(必然型の接続ないしは論理型の接続)と雑談型の接続(偶然型の接続と非論理型の接続)という言葉を使って会話のメカニズムの一部を切り出そうとした。したがってこれからその二つの言葉について説明したい。
人と人は話すときにある共通の話題やテーマを設定することがあるが、これは議論の場ではある明確な目的に関係することが多い。たとえば、会社で、予算をどういうふうに使うべきかということを話し合うときには、予算の使い道を決めるという特定の目的がある。さて、これを話し合う場で、もし誰かが急に自分の趣味の話を始めたり、人生論を語り始めたり、政談をし始めたらどうだろうか。ふつう、人はそれをTPOに反したおこないとして迷惑がるだろう。議論においては、そこで設定された目的(上の例では予算の使い道を決めるという目的)に沿って話をすることが肝要であり、僕は、このような目的に沿って相手に話をしたり、それに返答することを、議論型の接続と呼んだ。
議論型の接続は、合目的的に(目的に沿って)話を進めるタイプの話し方だから、そこにはしっかりとした意味がある。その点で、それは無駄なおしゃべりの仕方とは異なることがわかる。しかしそれは目的を達成するためのコミュニケーションの仕方だし、少なくともそう装われるから、目的を達成した段階で、会話は終了してしまう。したがって議論型の接続は(なにか難解な話でもしているのでない限り)終わりに向かっていくし、いつか終わる。
もちろん会議などの場ではそれでいいかもしれないし、いつまでも終わらない会議ほど苦痛なものはない。しかしたとえば友人などと話している場合は、話の内容がどうとかいう以前にともに楽しい時間を過ごすことが目的なのだから、会話が終わって気まずい沈黙が流れるのは避けたいところである(もちろん関係性によってはお互い沈黙していてもいいような場合もあるだろうが)。したがって、雑談の場では議論型の接続だけではない、なにか別の話し方が必要になる。
そこで僕が考えたのが雑談型の接続というものなのだが、これには先ほど例に挙げたTPOを弁えない唐突な話題を挟む、などがその一例として数えられる。この話し方は、文脈を無視したり、本題(今の話題)をそれて脇道に入り、連想から思いつきのことを話したり、新しい話題をぽんと持ってきたりする話し方で、合目的的ではない。しかし、この話し方は会話が終わりに向かうことを、会話の力点をずらすことで阻止したり、新しく会話を始めたりできるという長所を持っている。しかし逆にそれをやり過ぎると会話が成立しなくなってしまうし、自分たちのおしゃべりの無意味さに興が醒めたりするかもしれない
いずれにせよ、人と話すときは、こういった二つのタイプの話し方を塩梅しながら使う、ということが、会話を続ける上では重要になるだろう。とまれ、これがこの記事の、大まかな内容である(ちなみに、ここで名前をなぜか伏せた思想家は柄谷行人野矢茂樹ゲオルク・ジンメルです)。
 
☆(以下転載記事)


エッセイです。

こう、とりあえず書きあげてから、めんどくさいコミュ障が延々と独り言をつぶやいているみたいだな、と思い、その通りだったことに気が付いて愕然としました。自分のまとめ用に書き始めたものなので、結論めいたものは出ません。過程を楽しんでいただければさいわいです。
なおつらつら書いただけなのでとくに決まったトピックはなかったのですが、

・議論のあるべき姿ってなんだ
・雑談ってなんなんだ
・僕はなんでコミュ障なんだ

こんな感じのことを書いております。

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先日、僕のTwitterのタイムラインに、こんなツイートが回ってきた。

https://twitter.com/sakaki7539518/status/830193879336919040/photo/1

ここで取り沙汰されている上野千鶴子の文章はTwitter上でかなりの人々に言及されており、賛否両論あるが、どちらかといえば旗色が悪い印象をうける。その内容は、人口問題からアプローチして、今後の日本の在り方を考えるという主旨のもので、おおまかにいえば、①現状分析(前提)、②分析した現状を踏まえた提言(主張)という二つの部分に分けられる。まず①から説明すると、上野によれば、このまま人口が減り続ければ日本は衰退するが、これを解決するには二つの方法がある。一つは自然増(出産と子育て)であり、一つは社会増(移民受け容れ)である。だが、両方ともが現実的でないため、日本は衰退を選ぶしかない。あとは「どのように衰退するか」が問題であるという。

そこで議論は②に移行する。その提言というのが「平等に貧しくなればいい」というものだ。具体的には所得の再分配機能を強化するということである。だが問題は、こうした社会民主的な政策を実行に移すことのできる政党が日本には存在しないということだ。したがって、希望はNPOなどの民間団体に託される(ここらへんの因果関係はよくわからないし、記事内では因果関係を明言しているようにも見えないので、誰か詳しい方がいたら訂正お願いします)。

この意見について、まず僕の感想を述べておく。①現状分析についてだが、まず自然増(出産と子育て)は無理だと思う。出生率を改善していく試みはいろんなところでなされているようだが、さまざまな側面での障害があり、これを解きほぐしていくのは容易でなく、時間がかかる。逆に言えば、こちらは今すぐにでも取り組み始めるべき長期的な課題なのかもしれない。社会増(移民受け容れ)についてはわからない。個人的なことをいえば、僕は移民がたくさん日本に入ってくることに忌避感を覚えるが、ばあいによっては我慢できるかもしれない(もちろんこれは心情レベルの話であり、義務としては、そしてできることならば気持ちの上でも、受け容れたいし、受け容れたいと思えるようになりたい、とは思う)。「ばあいによっては」というのは、雇用の機会を奪われた(と感じた)ときや、公共マナーに関する価値観の違いによって不愉快な気持ちにさせられたときなど、実際の利害衝突の場面に出くわしたとき、僕が彼らをどう思うかわからないということだ。そうでなくとも抽象的なレベルでなんとなく移民が怖くてムカつくという連中は多いだろう。こういう感情はバカにできない。このことをふまえ、さらにアメリカやイギリスの前例をふまえると、なにかしらの対策を講じなければ、日本も似たようなことになると考えるべきだと思う。そして僕はその対策を考案することができない。

つぎに、②提言についてだが、これは何一つわからない。僕が意見ではなく感想を述べるといったのはこういうわけだ。意見を述べるにしても、僕は知識や考えがあまりになさすぎる。

ではなぜこういう話題を取り扱う気になったのかというと、それはこの件を通じて議論の仕組みというものに個人的な興味をもったからだ。

端的にいえば、今回の炎上(?)でみられた様々な反応のうちほとんどは、議論や、批判の名に値しない。ことわっておくが、僕はべつだんそれを非難しているわけではない。SNSでのコメントにまともな議論や批判を求めてもしかたないからだ(とはいえそういうコメントのひとつひとつが集団の意見を醸成していくのかもしれないから、軽んじるべきではないのかもしれないが、この問題は今回は脇に置く)。むしろ僕が興味を持ったのは、ある意見が示されたとき、どうして人はそこにとんちんかんな答えを返してしまうことがあるのか、ということである。したがって、ここではこのことについて考えてみたいと思う。

その前に、とりあえず僕がチェックした範囲で見られた反応をいくつかのパターンにわけて示す。具体的なツイートが読みたいというばあいは、togetterで確認してほしい(この文章を読んでいる時期によっては、twitterで「上野千鶴子」と検索するのもいいだろう)。

さて、僕がみたところでは、これらの反応にはおおまかにわけて5つのパターンがある。

1,上野本人の属性に言及したり、議論の批判にかこつけてレッテル貼りや攻撃をおこなうパターン(老人は~、元大学教員は~、団塊世代は~、左翼は~、多文化共生を否定する排外主義者、現状追認の敗北主義者、社会学者は役に立たない)。

2,①前提の「移民受け容れはできない」を批判するパターン(「移民受け容れはできる」ので、そこから考え直すべき)

3,②主張の「平等に貧しく」を批判するパターン(「平等に貧しく」はなれない、「平等に貧しく」には問題がある、まだ経済成長はできる)

4,おおむね賛同

5,その他(上野千鶴子がこうなった傾向を分析する、彼女のような立場(権威あるフェミニスト、左翼etc...)の人がこのような発言したことの影響を心配する、など)

もっと細かく分けることもできるのだろうが、今回はやめておく。僕がとりわけ取り上げたいのは、1,(レッテル貼りと攻撃)である。なぜなら、ほかの2,~4,とくらべたとき、これと5,(その他)だけが彼女の文章で提起された問題に直接応じていないからである。もっとも、5,は最初から応答をする気がないのだと思うが、それに対して、1,のパターンには上野の意見に対して反対の立場を表明しようとする意志がうかがえる。だが、ほかのパターンとくらべてもわかるように、1,だけは上野の議論の内容に即した反対意見になっていない。僕はさきほど「議論や、批判の名に値しない」といったが、これはこの1,のパターンを指す。

問題なのは、1,のパターンだけが、上野の意見に応じようとして「失敗」していることである。これは、僕にはあきらかに「間違っている」ように見える。この「間違っている」というのは、倫理的な意味(こんなことをやってはいけない)ではなく、「コミュニケーションになっていない」ということだ。だが、そもそも僕のこの「間違っている」「失敗」という感覚は、いったいどこからくるのだろうか。1,のパターンの人々は、ただ上野をけなしたかっただけかもしれない。だとすれば彼らの目的は達せられているのだから「間違って」はいないことになる。

おそらく、僕がこのような判断を下しているその基準というのは、それが「本題」に即した応答なのかどうかという基準なのだ。いいかえれば、僕は、もし上野の意見に対して立場を表明したいと思うならば、上野本人ではなく、上野の意見について言及すべきだと考えているのである。

実際、こうした攻撃は建設的ではない。上野を攻撃したところで日本の現状が変わるわけではないからだ。そもそも彼女がポジション・トークをしていようがいまいが、それはどうでもいいことである。しかしこのばあいの「どうでもいい」という判断は、「日本の今後の在り方を考えるのが本題ならば」という条件を前提としている。彼女の言うことにムカついた人間には、どうでもいいことでは済まされない。

したがって、ここで僕とそうした層とのあいだに、すれ違いが生じているのかもしれない。僕にとって、上野の意見に対する応答は「日本は今後どうあればいいか」という議題に沿っておこなわれなければならない。一方、彼らにとっては、上野への応答は上野を非難するものでなければならない。

だが、僕は僕と彼らのあいだでなにがすれ違っており、なにがすれ違っていないのかを、もっと細かい語り方で語れると思う。それをこれから語ることにするが、そのためにも、ここでまずはっきり言っておきたいことがある。それは、今回にかぎっていえば、僕は彼らより、僕の立場の方が正しいと考えている、ということだ。その正当性は、上野に対する僕と彼らの応答の、その前提となっている欲望について考えたとき、あきらかである。いいかえれば、僕たちがなにを欲望し、その欲望の実現のためにどうすればいいか、ということを考えたとき、僕は僕のやりかたのほうがすぐれていると思う。

僕は、日本の現状がどうであるかにかかわらず、それなりに幸せに生きたいと考えている。むろん「幸せ」ということについては哲学的に考えねばならないが、それは脇に置く。ともあれ、その欲望の実現のためには、僕だけが幸せになるわけにはいかない。べつに、博愛精神や、隣人愛だけから言っているのではない。僕が社会に生きている以上、社会がうまく機能しなければ、僕の生活も成り立たないから言っているのである。だからといって、成り立たなくなった社会(祖国)を捨てて外国に逃げるという発想も、僕はしたくない(やむをえなくなったらそうするかもしれないし、そうせざるをえない人(移民や難民)を非難しているわけではない)。僕は祖国愛を否定しないが、これもナショナリズムとは違う。広い視野と長い目で見たとき、そんなことをやっていたら世界中が荒廃するからだ。どこにも生活をいとなむ場所がなくなったらいやだし、僕は未来の世代にそんな世界を押し付けたくない。これは自然な人情である。

したがって、僕は単純な祖国愛から、そして論理的な理由から、日本にはまともな生活を営めるような国であってほしいと考える。個人的には今より多少質が落ちても構わないが、それはまた人によるだろう。ともあれ、日本の今後の在り方については、僕にとって他人事ではない。だからといって、特別に何をしているわけでもないが、こういう問題提起がなされたときぐらいはちゃんと考えたいと思っている。

そして、おそらくはこうした文脈を多少なりとも共有しているという意味で、僕は上野とも、1,のパターンの反応を示した人々とも、コミュニケーションができる見込みが高い、と考える。それはいったいどういうことなのか。

そのまえに、ここで僕のいうコミュニケーションの概念について、少し説明をしておきたい。これは実は、ある哲学者が語ったコミュニケーション論に依拠している。

彼は、「最初、コミュニケーションは命がけの飛躍だが、ひとたびそれが成立するとその起源(飛び越なければいけない深淵がある)が忘れ去られてしまう」というようなことをいっている。そしてそのような事態を、売る-買うという関係性によって説明する。

たとえば、貨幣のない環境で、ある二人(A,B)の人間が出会うとする。Aには欲しいものがあるが、それを自力で得る手段がない。しかし、偶然にもBがそれを持っているとする。そこで、AはBに物々交換を持ち掛けようとするが、Aは自身が示すものにBが価値を見い出してくれ、「それ」と交換してくれるかわからない。このときAは「売り手」の立ち場にたち、「命がけの飛躍」を強いられている。

しかし、いったん彼らのあいだで交換が成立し、そこにいっぱい人がやってきて、やがて集団で生活を営むようになるとする。すると、そこではまもなく交換を効率化するために、「貨幣」が生まれるかもしれない。そうすることで、それぞれの物は貨幣と代えられるようになり、そこには数量化された価値体系が生まれる。しかし、こうした起源を忘れてしまうと、物にあらかじめ価値自体といったようなものが宿っていると錯覚してしまう。いいかれば、物の価値をはかる、唯一の基準があるかのように思い込んでしまう。

だが、最初のやりとりをみればわかるように、ほんらいそんなものはなく、交換(売買)行為とは「命がけの飛躍」である。共同体も貨幣もない環境にいた二人のあいだには、共通の価値基準がないからだ。それは、物々交換が成立したあとに見出されたにすぎない。物aと物bの価値は等しい(したがって交換できる)という基準など、交換の成立以前にはない。さらにいえば、そのような基準はつねに無根拠(不安定)なのである。だから、AはBに交換をもちかけるとき、「自分が差し出す品に価値を見いだしてくれるだろうか(=交換が成立するだろうか)」と、不安になるはずなのだ。しかし実践してみるよりほかに「それ」を手に入れる方法はない。そのような実践はつねに暗中模索=「命がけの飛躍」である。

これを売買のコミュニケーションではなく、言葉のコミュニケーションに置き換えてみたい。いまここで話題になっている上野の意見は、上野が「売った」(呼びかけた)ものである。そしてこれを読んだ人々は、それを「買う」(応答する)ことができる(もちろん、聞くのと、読むのとではまた変わってくる。だがここではひとまずその違いを捨象したいと思う)。

ところで、このような上野の意見を「買う」人間とは、いったいどのような人間なのか。それは、「日本は今後どうあればいいか」という問題意識をもっている人間である、と考えることができるだろう。そしてそのような人々の応答にふたたび上野が返答をよこせば、その都度コミュニケーションは成立する。だが、ほんとうにそうだろうか。

彼女の意見を「買う」人間が、「日本は今後どうあればいいか」という問題意識をもっている人間「だけ」だという考えは疑うべきである。なぜならば、5,(その他)のパターンのように反応する者や、「反論したいから」という理由で反応するものがいるかもしれないからだ。そして、最大の問題は、上野がそもそも「日本は今後どうあればいいか」という問題意識をもってこのようなことを書いたという保証が、どこにもないことだ。これは、上野がそう証言しても変わらない。彼女が放った呼びかけ(意見)の「意味」は、買い手が勝手に決めるものだからだ(もちろん、その決めつけに彼女が訂正をくわえたり、賛成するかたちで応答しなおす、ということは考えられる)。さらにいえば、上野自身にもそのような「意味」はわからない。根本的には、買い手にも売り手にも「意味」などわかりようがない。

さきほど、僕が「コミュニケーションができる見込みが高い」というあいまいな表現を使ったのは、こういうわけがあるからだ。僕たちは上野の意見を勝手な読み方で読めばいいし、勝手に反応すればいい。そしてそのどれもが無根拠である。だが(したがって)、僕はこうしてなされた取引の痕跡に、ある欲望を読みとりたいと思う。1,のパターンの反応をしめしたものたちは、おそらく上野の意見を「日本はもうだめだが、私には関係ない」という「意味」に読み取り、ムカついたのである。したがって、彼らのムカつきには「日本をどうにかしたい」という欲望が前提されている、と推測することは、理にかなったことだ。ところで、僕もおそらくそのような欲望を持っている。だから、彼らと僕のあいだにはコミュニケーションが接続される可能性がある。

こうした欲望を実現する方法を考えるとき、上野の意見に対し、どのような反応をすべきなのだろうか。あるいは、上野の呼びかけ行為の「意味」を、どのように読むべきなのだろうか。僕は、やはりこれを「老人」や「団塊の世代」や「元大学教員」の無責任な放言などではなく、一つの意見として読むべきであり、理想としてはその①前提と②主張に対し、問題点を指摘するなり、わからないところは問いかけるなりしてみるべきだと考える。

ひるがえって、もしこれを単なる戯言や放言の類だと考えて怒るだけに終わるならば、いつまでたっても現状は変わらない。その現状は、彼女の分析を真に受けるならば悪化する方向に舵をきっている。これを否認し、なかったことにしても、現実は現実としてある。ばあいによっては、「平等に貧しく」なるどころではなくなるかもしれない。

論点をまとめたい。僕と1,のパターンの反応をおこなったものは、まず文脈(欲望)を共有している可能性が高いように思える。したがって、それぞれの反応の仕方の優劣を、その欲望の実現という観点(基準)から比べて考えることができる。感情的な反応をしては建設的な議論にはならず、建設的な議論ができなければ、事態は悪化する。これは僕らの欲望という観点から考えた時、好ましくない。よって、僕のやりかたのほうがすぐれている。

ちなみに、ここにはいくつかべつの問題がある。たとえば、議論が、その結果としてかえって悪化を呼び込むことがあるばあいを考えなければならない。つまり、建設的であるはずの議論が、感情的に反応したときには起こらなかったような、より最悪の事態を招くことになるかもしれないのである。パンドラの箱を開ける前には、その箱に何が入っているのかわからない。これは本質的に偶然性の問題であるが今は措く。ともあれここで示したかったのは、両者のスタンスの相対性である。僕は相対主義者ではないが、これは単純な倫理の問題として示しておく必要があると感じた。

次に、ここでとりだしたことを、さらに追って考えてみたい。

僕はさきほど彼らのコミュニケーションを「感情的だ」といった。いいかえればこれは「非論理的」であることを意味する。

たとえば、ある人はこういっている。

「「もう少し論理的に話せよ」と言うかわりに「思いつきで喋るんじゃない」なんて言い方をすることもできそうですが、これ、なかなかおもしろいです。ちょっと道草くってもいいでしょうか。なんで、「思いつきで喋る」ことがすなわち「非論理的に話す」ことになるのか。(中略)

 たとえば、「映画見に行こうよ」と誘っておいて、相手が「何か見たいのある?」と聞き返してきたときに、「映画」で連想したのか、最近見なくなった女優の話なんかはじめる。相手もつきあって「前は人気あったけどねー」とか言うと、「そうそう、それでさ」とか言って、落ち目になったお笑い芸人の話になって、そういえば、うちのクラスにおもしろいやつがいてさ、このまえなんか、と話はどんどん変わっていき、いつのまにか豚の角煮の話になって、角煮の入った中華まんじゅうに話は移ろうかいうところ、「で、今日どうするのよ?」と相手がしびれをきらす。で、返ってきた答えが、「マジ天気いいし、海、行こっか」。思わず、こういう男とはつきあうんじゃないっと言いたくなりますが、まあ、これなんかは「思いつきで喋ってる」と言える例になってるのだと思います。楽しそうですけどね。

 それに対して、「何か見たいのある?」と聞かれて、「***とかおもしろそうじゃん」と、ちゃんと映画の題名を答えるなら、「思いつきで喋ってる」とは言われません。(中略)

 つまり、「思いつきで喋る」というのは、ある意味でたいていの場合が思いつきで喋ってるのですけれど、その中でもとくにそれまでの発言(自分のであれ、ひとのであれ)を無視して、その場で思いついたことを勝手気ままに喋るということのようです。そしてその点が、「非論理的」と言われることにもなるわけです。

 逆に、「論理的」というのは、それまでの発言ときっちり関係づけて次の発言をすることだといえるでしょう」

 

 

もし、僕と上野と彼らが文脈を共有しているならば、その文脈にそった「話題」に対し、「きっちりと関係づけて」応答するのが「論理的」であるということだ。逆に、「話題」から、上野個人への攻撃へと応答の方向がズレるとき、それは「非論理的」である。

いいかえれば、僕は上野とその目的(「今後の日本はどうあるべきかを考える」)にかなった応答の仕方をするべきだと考えている。だが、このような考え方が、必ずしもすべてのコミュニケーションにおいて「正解」になるわけではない。

ためしに、ここにあがっている会話の例の「話題」を考えてみればよい。彼らの会話の目的は、「なんの映画を見に行くか」である、と考えられる。しかしこれはおそらく間違っている。彼らの目的は、むしろ話すことそのものにある。付き合いたてのカップルについてよく言うように、彼らは「どこでなにをしていても楽しい」のである。

ここでかりに彼らが目的にかなった会話をしてみるとしよう。おそらく、その会話はすぐに途絶えてしまう。合目的的な会話は目的が達成されれば交わされる必要がない。合理的に話せば話すほど、会話は終わりやすくなる。それでは話し続けることができない。

このようなことを踏まえて、ためしに僕のような会話のつなげかたを、「議論型の接続」と名付け、1,のパターンの人々や、上記のカップルの会話のつなげかたのことを、「雑談型の接続」と名付けてみよう。

雑談型の接続は、おそらくつねに(相手の提示する)目的を間違えたり、倒錯することで生じる接続の型である。そしてそれは、無意識におこなわれることが多い。1,のパターンの人々は、上野と共有している(はずの)話題=目的から逸れて、彼女個人の攻撃を目的としてしまう。しかし、彼らはそれを意識していない。いっぽう、カップルの会話は最初から会話そのものに目的をもつ。だが、彼らはこんなことを考えながら話しているわけではない。だから「しびれをきらす」こともありうる。

しかし、「目的」から「逸れる」ことと、「目的」が「違う」ことを、同一視していいのだろうか。これを検討するためには、なぜカップルの片方が「しびれをきらす」のかということについて考える必要がある。

ところで、このような「雑談」のことを、ある社会学者が「社交」「遊戯」というふうに言っている。彼によれば、ふつう、人がコミュニケーションをするときには「目的」がある。だが、関わること自体を「目的」とするとき、そのコミュニケーションは「社交」「遊戯」になる。これをべつの言葉に置き換えて、「形式(手段)」と「内容(目的)」の分離というふうにもいう。僕が雑談型の接続を「倒錯」といったのは、このようなわけによる。

ここには「目的」こそが会話の「内容」である、という暗黙の前提がある。だからこそ僕も目的が逆立した会話を「倒錯」と呼んだ。いいかえれば、これは、会話の「始まり」と「終わり」に関わる問題である。この問題は、「雑談」「遊戯」の本質的な難しさを示す。

たとえば、ここにAという人間と、Bという人間がいる。Aは自分がどういう言葉を発するかを、Bの出方次第で決めようとしている。逆にBは自分がどういう言葉を発するかを、Aの出方次第で決めようとしている。少し考えればわかることだが、これではいつまでたってもコミュニケーションが始まらない。では、コミュニケーションを始めるにはどうすればよいのだろうか。

ここに、例として二通りの解答を与えることができる。一つは、彼らの振る舞いを、価値・規範・文化が決定するというものである。いいかえれば、これは文脈のことである。「この場合、どういうふうにふるまうのが適切か」というきっかけや決まりごとがあれば、彼らはその通りに振る舞えばよい。たとえば、AとBが同じ商社の重役どうしで、「来期の売り上げを伸ばすにはどうすればいいか」ということを考えなければならない、とすればどうだろうか。彼らは会社から与えられた課題について話し合えばよい。つまり「合目的的」に話せばよいのである。

だが、この解答にはある問題がある。それは、これが二人のあいだに文脈ができた「あと」の話だということだ。げんに、AとBとは、価値・規範・文化を共有していないかもしれない。つまり、彼らのふるまいを決定づけるきっかけがあたえられていないかもしれない。だとすれば、もう一つの解答は、AかBが片方に「とりあえず接続してみる」という「暗中模索」の実践によってしか状況は打開されない、という話になる。

実はこれは、さきほどの物々交換のたとえと似ている。後者の解答に沿うならば、AないしBは、まったく偶然的に接続をしなければならない。偶然的である以上、会話が接続される保証はない。投げかけた相手に「お前とは話したくない」と言われたら会話は成り立たないし、目的がズレるかもしれないからだ。つまり、売買が成立するかどうかもわからない。いっぽう、きっかけや決まりごとがある場合、人は容易に接続することができる。それは必然的な接続であり、交換がほぼ確実に成立する。あとは目的を目印にして各々の手を指しあえばよい。

このたとえをふまえればわかるように、人がある会話について「内容」があるというとき、この会話には目的があり、会話をする必然性があるといっている。そして会話の必然性とは、会話の他律性のことである。いいかえれば、会話の必然性は外から与えられる。たとえば、片思いの相手に話しかけようとするとき、どうでもいい用事をわざと作って話しかける、ということがある。もちろん、話したいから話しかけるのである。だが、相手がこちらと「話したい」と思っているかどうかわからない(買ってくれるかどうかわからない)以上、自分は偶然的接続=命がけの飛躍を強いられる。だから、この深淵に橋を架けるために、外から「意味」「目的」「内容」を持ってきて、接続を必然的にする。それが用事を作るということである。

だが、もしこの「目的」に会話が到達してしまったら、会話は「終わり」を迎えてしまう。会話は相手にとって手段に過ぎないかもしれず、建前上、自分にとってもそうだということになっているからだ。だから、会話を、その内容=目的からズラす必要がある。これが雑談型の接続である。だが、これは意図して雑談をしようとしたときに限って、意識的になされる。したがって、雑談型の接続は「ズレる」接続なのだが、それは「わざとズラす」場合と「ズレてしまう」場合がある。

これは本質的に「関係のない話」「非論理的な接続」をするということであり、ばあいによっては失礼である。実際、いつまでも用事の話が終わらなければ、相手はいらいらするだろう。いいかえれば、「内容(目的)」が実は「形式(手段)」に過ぎないことが徐々に実感され、会話を続けること自体が空疎に思えてくる。なぜならば、会話を「続ける」必然性も、その会話の「内容」によって保証されているからである。

もちろん、どんな会話も、どんな目的も、ほんらい空疎なものである。しかし、それを意識するかしないかという違いは大きい。空疎性の実感(虚無感)は、気まずさを招く。いいかえれば、気まずさとは虚無の認識にほかならない。そして、議論型の接続も、雑談型の接続も、ほうっておけばこの虚無に至る。議論型の接続は「終わらせる」ことで、雑談型の接続は「内容の空疎性(形式性)を自覚させる」ことで。

「しびれをきらす」ことは、気まずさとはまた違う。だが、虚無を不快に思うという点で、共通している。実際、しびれをきらしたのは、「関係のない話」ばかりをしたからであろう。

したがって、雑談型の接続、という言葉も、正確ではないように思える。なぜなら雑談とは、内容があるように見せかける、という、つかずはなれずのコミュニケーションを意味するからである。それは論理(必然)と非論理(偶然)のあいだを往還する曲芸に近い。したがって、さきほどの接続分類はこのように言い直すべきである。すなわち、議論型の接続ではなく論理(必然)型の接続と、あるいはまた雑談型の接続ではなく非論理(偶然)型の接続、と。

雑談は「内容」(意味、目的)を求める人ほど困難に思うコミュニケーション形式である。彼らはそのような曲芸に向いていない。あくまで論理的であろうとするならば、雑談は早晩虚無的になる。その意識は、彼ないし彼女の身振りに現れる。それが相手に伝わることで、雑談の場は崩壊してしまう。

なぜ彼らはそこまで論理的になってしまうのか。それは彼らが臆病だからに他ならない。だがこれは循環論法的である。なぜなら、論理的であればあるほど、彼らは雑談の無内容に気付きやすくなり、無内容に気付きやすくなるほどコミュニケーションの本来的な偶然性(深淵)が意識され、深淵が意識されるほど、臆病にならざるを得ないからだ。臆病になれば、より論理的になる。それは、コミュニケーションの安全性(気まずさの回避)を保とうとするからだ。コミュニケーションの安全性を確保するためには、それが持続する理由=目的を外からもってくればいい。いいかえれば、彼らは会話を必然化しようとする。だからこそ、彼らは議論が好きだが、雑談が苦手なのだ。論理的であることが彼らを臆病にし、臆病であることが彼らを論理的にする。それは「深淵」から逃げる回路である。

だが、それは必ずしも非論理的な人間が勇敢であることを意味しない。臆病さのことを勇敢さと勘違いすることがあるように、無思慮のことを勇敢さと勘違いすることもよくあることだ。むしろ勇敢は最初からそのようなものとしてあるのかもしれない。

臆すことなく非論理的な接続をおこなえるとき、人はそもそも「深淵」に気付いていないか、忘却している。彼らは自分の呼びかけに、相手が応えてくれると信じている。相手は自分が考えるようにものを考え、感じるように感じるだろうと思っている。あるいは自分は相手のことを理解していると思っている。

偶然的(無目的)に関わりながらもこうした状態を維持するためには、異質なものに出会ったとき、それをなかったことにすればよい。自分の価値観のなかに取り込んでしまうか、感情的に否認すればよい。つまり、自分を一方的な「買い手」の立場にしてしまえばいい。

たとえば、ここに「なんでもいいあえる家族」がいるとする。そしてその母親が自分のことを「なんでもいいあえる家族」の「やさしいお母さん」だと思い込んでいるとする。しかし、娘が彼女に「うちはなんでもいいあえる家族ではないし、お母さんは優しくない」というとする。母親はこのとき、自分の「深淵」なき家族、「深淵」なき自己像を否定されている。むしろ、それこそが彼女を「深淵」に直面させる事態である。そこで、彼女が次のように返すとする。「わたしは知ってるわ。○○ちゃんはいい子だから、ほんとうはそんなことを思っていないってことを。ほら、ほんとうに思っていることをいいなさい」。こうすることで、母親は優位な「買い手」に回ることができる。いいかえれば、娘が「売った」言葉の意味を、母親は勝手に決め=自分の価値観のなかに取り込み、娘と母親のあいだの「深淵」をなかったことにしている。娘が意味を訂正することを不可能にしている。

しかし、むろん、娘の言葉の「ほんとうの」意味など誰にも決めることなどはできない。母親はもちろん、娘にとってもそうだ。もし意味が安定する可能性がある(もちろん不可能ではあるが)とすれば、それは、コミュニケーションをしている当事者同士が、お互いに対して論理的=倫理的であるときだけだ。それは「勝手に意味を決めない」ということであり、「一方的な立法者にならない」ということである。

しかし、感情的になると、こうした倫理が欠けてしまいやすい。議論が途中から喧嘩にすりかわるようなとき、たいていは倫理の欠如が原因となっているように思える。たとえば、「お前はこう言ったが、それはよくないことだ」といわれたときに、「そもそも俺はそんなことは言ってない」だとか「そんな意味で言ったんじゃない」という応酬をすることはよくあるし、よくされる。しかし、この場合に意味を決めつけているのは、前者なのか、後者なのか。誰にもわからない。だからこそ、少しずつ二人の言葉の意味をすり合わせていくしかない。だが、彼らが「自分が正しい」と思っている限りは、いつまでも意味は大きくぶれ続けるだろう。なぜなら、議論とは「何が正しいのか」などの共通の目的に向けてなされるものだからだ。しかしこの場合、両者の目的は「自分が正しく相手が間違っていることを相手に認めさせる」であり、その意味でお互いの目的は合意されていない(目的が「ズレて」いる)。その限りにおいて、彼らは非議論的な接続をおこない続ける。言葉は自分にとって都合が良く、相手にとって都合の悪い意味しか持たない。

おそらく、上野を感情的に攻撃しても、何も変わらないというのは、本質的にはこういうことではないか。議論=合目的的コミュニケーションをちゃんとした方法でやろうとしたら、「自分が正しいかどうか」「相手が間違っているかどうか」ということは、いったんカッコに入れられなければならない。しかし、それでもそれは自身の沽券に関わる。議論とは、未だ達せざる目的に向かうためのコミュニケーションだからだ。そのコミュニケーション形式は、必ず自分に「変われ」と要請してくる。今の自分では達成できない目的があり、そこに到達しようとするならば、自分が変わるしかない(正確には、自分が使ってきた言葉を変えるしかない)。いいかえれば、それは自己否定である。普通人は、他人に否定などされたくない。だが、議論が成り立っているとき、自分は「他人に」否定されているわけではない。論理的な接続の応手をたがいに続ける中で、自分の考えが変化をこうむることがあるという、それだけのことにすぎない。それでも耐えがたいときは、相手を攻撃するしかない。その接続をおこなったときから、目的がズレて、人は変化の可能性を捨てる。これが議論のモードが喧嘩のモードに移行するときの構造だろう。(しかしそうなってしまうのもやむをえないことではある。それほどこういうコミュニケーションの仕方はむずかしいのだろう)

だが、勘違いしてはならないのは、徹頭徹尾合目的的な議論をしたからといって、そこで出た結論が正しいということはできない、ということだ。そのような結論は、常に間違っている。もし実りある議論なるものが成立しうる可能性があるとすれば、それはひとえに、目的にたどり着けず、たえず自己否定にさらされるきりのない作業を、どれだけ辛抱強く続けうるか、という点にかかっている。

 

アルバイトをしていて思ったこと(学習と保守性)

エッセイです。

 

 

僕は長い間ひとつのアルバイトを続けている。飲食店の厨房業務である。入りたての頃は物覚えが悪く、先輩にどやされたこともよくあった。しかし今は職場のなかでもかなりのベテランで、当然、平均以上には仕事ができる。

しかし、僕は新人の頃、自分が先輩方に迷惑をかけてしまったことを、いまだによく覚えている。それを覚えているからこそ、新人がまごついているのをみても、怒ることはほとんどない。しかし、もちろん、自身にもそうした時代があったことをすっかり忘れて、新人に強くあたる人もいる。その理由は、たいがい新人の物覚えの悪さにある。
そういう経験のなかで、僕は「人はなにかについて、一度では覚えないどころか、何度やってもなかなか覚えない」ということを学んだ。知識としてというよりも、一つの実感として、学んだのである。そして、この数年来、そのことの意味について、なんとなく考えるようになった。これは、わかってみれば、思想的にも人生訓的にもまったく新しい話ではないのだが、その考えをまとめがわりにここに書いておこうと思う。
いま「思想的にも新しくない」といったが、実はこうした問題は色んな人がすでに論じている。たとえば、フロイトがそうだ。この問題は彼の記憶や意識をめぐる議論のなかでもあるし、幼児期の外傷的な体験の影響の強さの議論にもある。それからフロイトの最重要テーマの一つである死の欲動や反復の問題は、あきらかにこうした学習の問題と関わっている(たとえば人は英単語を覚えるために、何度も暗記練習を反復しなければならない)。また、疾病利得という考え方も関連するだろう。疾病利得というのは、神経症や精神病から得られる利益のことであり、患者が治りたがらない、病に固執する原因となるものである。
疾病利得などは、ある意味では病を、それを反復することの好みの面から考えることを可能にする。人は病から癒えたいのかもしれないが、同時に、病みつきにもなりたいのだ、と考えてみる。これを学習に置き換えて考えると、人は学びたい(変わりたい)のかもしれないが、同時に、学ぶことが嫌いでもあるのだ(変わりたくないのだ)と考えることができる。教えられたことをすぐに忘れてしまうのは、ここから考えれば、ニーチェが指摘したような忘却のある種の能動性からくるものだといえる。このことは前に論じた『勉強の哲学』でも書いてあったことだ。
もちろん、これは意識レベルでの欲望の話だけをしているのではない。単純に、人間の身体がそれに抵抗するということもある。たとえばホメオスタシスという言葉があるが、人は生物レベルでできるだけ同じ状態を反復しようとする。しかし反復は同一性の円環的な回帰(まったく同じことをぐるぐる繰り返すこと)ではなく、つねにズレを孕むものなので、否応なく人は変わっていってしまう。たとえば毎日食事をするにしても内容や時間は違ったりする。しかし逆にいえば、そこに学習のチャンスがある。
人が変わろうと思ってもなかなか変われないのは、こういう生物的、生理的な側面に依るところが大きく、それを無視してすぐに変わろうとしたり、そうあることを他人に求めたりするのは無茶である。
また人は変化を好むし簡単に変われるという世界観で構築された社会においては、あるいはそういうふうなつもりはなくてもそうなってしまったような社会においては、人は苦しむことになる(人はたしかに変化を好むが、これは人の一側面でしかない)。人は変化を反復することは苦手で、どうしても反復を反復してしまう。確かに、今の自分を変えれば、諦めていた可能性を手にすることはできるかもしれないが、そうした可能性というのは、かりにそれが具体的なかたちをとっていたとしても、今と未来の差異のなかにだけある実態のない幻想であることがしばしばで、何ものにでもなれるという考え方は、可能性への逃避でしかない。そして誰もが何ものにでもなれるような(しかし実態としてはそんなふうにはなれないような)社会というのは、かならずその幻想(人はすぐに何にでもなれる)と現実(人はすぐには変われないし、何ものにでもなれるというわけではない)の埋めがたいギャップのなかで歪みを生む。たとえば即戦力の人材や入れ替え可能な人材を求める企業体質は必ずその企業に(ひいては社会全体に)限界をもたらすが、その限界を乗り越えるためには、教育には手間もコストもかかるしリスクもあるが、それは人間が人間と生きていくために欠かせないことなのだ、と考えるしかない(そして現行の社会では、機械を使えばいいという発想にも限界があるだろう)。『勉強の哲学』の千葉さんがいいたいのは、基本的に、こういうことなのではないかと思う。
そういう意味での、ある種の能動的な保守性というものと学習とは、根本的にかち合う。だから手っ取り早いものをどうしても求めたくなる。僕は可能性の逃避を批判したが、実は、僕が一番そういう逃げを打ちたがる人間なのである。もし人間にこのような能動的な保守性というものがあるとするならば、学習は地道で小さな毎日の努力の積み重ね(反復)であるほかない。しかしそれは目に見える大きな報酬や成果を期待できるものではないから、僕は最近までそういうものになかなか取り掛かる気になれなかった。でも、最近はこういうことを考えるなかで、無意味に思える小さな出来事の大切さにやっと気がついた。何を当たり前のことを、といわれるかもしれない。たしかに、幼い頃からきちんと努力をしてきた人にとっては、ある意味でそれは「反復」されてきた、当たり前のことなのかもしれない。でも、僕にはそういうコツコツとした積み重ねによって何かを得てきた経験があまりに今まで少なく、それを理解するまでに、これだけの年月がかかった。だが、だいぶ遅くなったとはいえ、こういうことに気がつけてよかったと思う。

雑記03(過去と物語の時間)

最後にちょこっとだけ『東京レイヴンズ』『Re:ゼロから始める異世界生活』『魔法少女まどか☆マギカ』『Fate/stay night』セイバールートについて言及します。これはメモ書きというかアイデア出しの段階ですが、ここから論旨を詰めていきたい…。

 

 

欲望について考えていると、かならずどこかで障害に突き当たる。たとえば、欲望を欠如から説明したり(プラトン)、二つに分けたり否定や承認と闘争から説明する(ヘーゲル)考え方は、ある程度欲望の構造を説明してくれる気がするし、ある程度説得的である。とはいえ、それはこの僕がなぜ他ならぬこの欲望を抱くのかを説明してはくれない。たとえば、僕は最近自分にゾンビ美少女萌え(ただし二次元に限る)があるということに気がついた(あるいは、開発された?)。しかし、なぜ僕はゾンビではなくゾンビ美少女が好きなのだろうか。そしてなぜ僕は男ではなく女が好きなのだろうか。はたまた、こういった要素要素に分けて考えるべきではなく、ゾンビ美少女という一つの総体について、考えてみるべきなのか…それにしても、なぜ僕はメガネ美少女が好きではないのか。どちらが好きでも不思議はないはずだ。ではなぜ僕の欲望はこういうかたちをとっていて、こういった対象と結びついているのだろうか…。こういった欲望の具体的なあり方を説明するのは非常に困難である。

ところでフロイトの欲望についての考え方は、こういった疑問に示唆を与えてくれる。その考え方を示す命題のなかでも、この文脈において重要なものは、三つある。一つ目は、「欲望の目標と対象は違う」という命題。二つ目は、「欲望の対象とは過去のそれの再現前である」という命題。最後に、「無意識に時間はない」という命題。
まず一つ目の命題は、欲望のかたちは学習の産物であることを示す。欲望にとっては、目標は満足を得ることであり、その手段、つまり対象は、あるいはどのように満足を得るかということはある程度どうでもいい。だから欲望と対象の結びつきは、必然的ではない。
次の命題は、この一つ目の命題を考えたときに生じる疑問、つまり、欲望と対象の結びつきが必然的でないとするならば、どのように人は特定の対象を欲望するようになるかという問いに示唆を与える。人はその欲望を満足させたとき、その満足の経験を学習し、そのときたまたま知覚したもののなかに自分を満足させてくれるものがあったのかもしれない、とだいたいの「あたり」をつける。そしてこの最初の経験の後から、それを欲望するようになる。
ここで重要なのは、そのあたりをつけた何か(たとえば精神分析的にはしばしば母)がいなくなったりなくなったりしたときに、それを再び見いだすことができなければ、人は欲望を満たすことができないかもしれない、ということである。そこで人はある対象を見いだし、それを存在する/しないという形式で判断するようになる。
しかし、この対象は、当然ながら、いつまでも同じわけではない。というか、厳密にいえば、この移ろいゆく世界にあって、何一つとして同じものはない。母親は老いるし、あの時のこれと、いまこの時のこれは、同じこれという言葉で言われるものだとしても、違うものである。だから(少なくとも欲望の)対象を見いだすというのは、基本的には最初の満足の経験のときの「それ」の「それらしさ」を、そのときの「それ」ではないこのときの「それ」、あるいは別の「あれ」に見いだすということである(たとえば異なる時期におけるAという人に、あるいはAと似たBという人に)。フロイトの言葉を借りるなら、それは対象の発見ではなく、再発見としてある。
そして、第三の命題は、こうした欲望のかたちの主因、原初の体験を説明する。無意識に時間はない、というのは、いいかえれば、無意識において時間は過ぎ去らない、ということである。無意識には過ぎ去らない過去(幼年期の体験)が刻印されている。ではこの体験はなぜいつまでも過去ならざる過去として終生にわたって効力を発揮するのか。それは、ある程度歳をとってからよりも、幼い頃の方が、人はあらゆる影響を被りやすい状態にあり、それだけにそのときの経験が決定的になりやすいからである。だからそのときの経験は良かれ悪しかれ、以後のあり方を決定的に規定するという意味で、トラウマティックな出来事である。だから、それは抑圧されなければならない。
しかし、こうした仮説の枠組みにおいても、結局欲望の原因への遡行は、無意識というブラックボックスにたどり着くことになってしまう。では、こうした原因を意識に、経験可能なところにもたらそうと試みるときには何が起こるのか。
まず一つには、循環的、自己原因的な体系、外部からの一撃を欠いた、変化しない、閉じた系の理論が作られるのではないだろうか。そしてそれは基本的には共時的なものだが、これを通時化し、このかたちを生き直そうとするときには、物語が立ち上がる。
たとえば、ハリウッド映画の脚本の方法論には、バックグラウンドストーリーという概念がある。バックグラウンドストーリーとは、物語の主人公が抱える過去の経験であり、それはたいていトラウマ的なものか、未精算なものか、失敗の経験としてある。そしてそれは物語開始時点での主人公の行動を規定している。そこに物語を動かすきっかけとなる問題が起こり、主人公はその問題を解決するために、問題の系をなす様々な状況に関わることになる。そしてそこで主人公の目的を妨げるのは、たいがいバックグラウンドストーリーのそれと似たような状況、あるいはそのなかで繰り返される主人公の(この苦い過去の経験以来の)行動様式である。失恋の痛手を負った人は恋に踏み出すことができない。夢に挫折した人は挑戦すべきところで躊躇する。それはピンチにも思えるが、やり直すチャンスでもある。もしその状況を克服したならば、苦い過去の経験をもまた克服することができる(と主人公自身にとっては考えられる)からである。
つまり、バックグラウンドストーリーとは、無意識の過去を意識に還元したときに生じるものであり、そのような意味での始原だといえる。そして無意識においては流れなかった時間は、物語において動き始め、しかもそこでは、その意味づけが変化を被るという信じられない出来事が起こる(というよりその動きが物語である)。そのような動きはまさしく過去の再現前として体験されるのである。
このような意味での無意識の意識化は、しばしば物語では、忘れられた、あるいは否認されていた記憶の想起として表現される。たとえばギャルゲーにおける、主人公が忘れていた幼馴染との約束など。あるいは、忘れていた罪の記憶や、覚えていながら反故にしていた、ないしは宙吊りにしていた約束事などもそうだ。そしてそれらが思い出されない、忘れられるときには、それがときに純粋贈与の悲劇というかたちをとることもある。
例を挙げよう。たとえば以前に論じた『東京レイヴンズ』では、土御門夜光の功績と過ちによって背負わされた過去の遺産が、土御門家と陰陽師たちにのしかかっており、春虎はそれを最初「召命拒否」している。これは過去の記憶を継承することの否認として考えることができるが、それを彼が認めたとき、物語の時間は動き出す。過去は欲望の原因を贈与し、物語的な意味における時間を与える。
こうした過去の生き直し、あるいは負債の弁済や貸し分の取り立てとしての物語の極北にあるのはループ時間ものであり、たとえば『Re:ゼロから始める異世界生活』はその典型としてある(ナツキスバルはトラウマ的な過去を反復しながら文字通りの意味でもそれを再び生き直して乗り越える)。しかしそこで彼がエミリアに対して行った「贈与」は、エミリアには意識されない。だからそれはほとんど純粋贈与に近づくのだが、純粋贈与(返礼を求めない贈与)はふつう人間のなせるわざではない。だからこれに耐えられないスバルは(王都編で)エミリアに貸しの返却を執拗に求めることになる。これは記憶のないエミリアにとっては関係妄想にしか思えない。ここには物語にとってもっとも根本的なディスコミュニケーションの形式がある。
逆に、純粋贈与が物語の時間を終わらせるとき、それは悲劇になる。たとえば『魔法少女まどか☆マギカ』では、まどかがヴェイユのいう「消え去ること」「不在」の贈与をおこなうことで、ほむらを除いた誰の記憶にも残らなくなってしまう。純粋贈与とは、このようにして、無差異=無関心=自由を他者に与えることである。しかし、それが記憶されている限り、物語はその潜在的な動力をまだ使い切ってはいない。この残された動力=時間は、唯一まどかを記憶しているほむらが語る=生きることになる(これが『叛逆の物語』である)。
最後に、このような生き直しが、ほんらいたった一つの過去を対象化し生き直すことによって、表象化し、一般化し、忘れてしまうことに抵抗する態度がある。「一度あったことはなかったことにはできない」というこの態度を、ループ物語批判の態度として堅持したのは、『Fate/stay night』のセイバールートにおける衛宮士郎である。彼は過去をなかったことにしようとして無限に聖杯戦争への参加を繰り返す(ループする)セイバーに対して、反対の立場をとる。彼にとって外傷的な経験である冬木市の大火災は、決してやり直すことのできないもの、彼が背負うべきものとして引き受けられなければならないものだった。

雑記02(超越と無関心)

いろんな研究と並行してラカンについて勉強しているので、そのことについての覚書。独学かつ俄かなので概念の理解の妥当性については保証しかねます。

 

 

シェーマLにおいて、小文字の他者たちの軸(a-a')における鏡像的闘争は、もう一つの軸(他者A-主体S)に横切られることで、中断される。このことが意味するのは、欲望を大文字の他者(A)へと向け変えることが、個別具体的なそこにいる人との関係を無関心化することを意味する、ということである。もちろん、これは不可逆的な段階なのではないし、その両者はまったく断絶したそれぞれの局面においてあるわけでもないだろう。こうした軸それぞれは、反省によってはじめて見出される。実際にはこの二つは混交しており、それはボメロオの環の図式からもいえることである。とはいえ、こうした考えを持ち込むことは非常に有用である。
たとえば、これはスペクタクル論に接続されうる。ドゥボールによれば、スペクタクルに関する最も重要な命題は、スペクタクルは人々を分離したまま統合する、というものだ。ひらたくいえば、人々はスペクタクルという同じものを見ているが、その各々が関わりあうというわけではない。たとえば貨幣がそうだ。誰もが可能性の権化として貨幣を欲しがるし、それはインターナショナルな市場を開き、物の広範な交換=コミュニケーションを可能にするが、人と人はそのなかで結びつかない(もちろんこうした理論と現実は違う。たとえば取引や売買の場にあって、相手はただ金と物のやりとりをする媒介としてあるだけではない。実際にはそこで情が同時に交わされるのであり、このことについての良し悪しはともかく、それをあまり過小に評価すべきでないことだけは確かである)。
それからまた、これは倫理・道徳の話にも結びつく。ときには博愛主義者が誰よりも酷薄に思われる。それよりは経験的・個別的な愛、あわれみ、そういったもののほうが人々を結びつけるだろう(もちろんこの場合もここで考えられている博愛主義は理論的なものである。現実には、博愛主義者も個別的な愛を抱いてしまう)。
このように、シェーマLの図式をうまく使えば、超越にとりつかれることと、無関心との関係を考えることができる。身もふたもない言い方をすれば、コミュ障のことがわかる。そしてこうした無関心と関心の差異を考えることはまた、物語におけるコミュニケーション=相互行為の局面を、その構造を明らかにすることにもつながるはずだ。

雑記01(贈与と時間)

メモがわりに。

 

 

贈与と交換の違いのひとつは、時間という観点から考えたときに明らかになる。
交換するとき、私たちは物と物を即座に取り替えるから、貸し借りはほとんどないようなものである。これは(クレジットカードでの支払いなどの形式を除けば)基本的には貸借というよりは売買のほうに位置付けられる行為だといえるだろう。
ところが贈与に際しては、物と物が行き交うまでに時間差がある。もっともここで僕がいいたいのは、純粋贈与ではなくて、返礼を前提とする贈与の話である。こういう贈与の場合、ある人Aがある人Bに物を贈与したあと、BはAにそのお返しをしなければならないと考え、そうするのだが、それがなされるのは何かをもらった瞬間ではなく、もっとあとである。そしてモースらの研究が示す通り、あるところでは、こうした贈与と返礼の形式を保つために、誰かから何かをもらった際、わざと返礼を一定期間遅延させる(というのもそうしなければそれは交換になってしまうから)、という慣習が成り立っていた。それはなぜか、といえば、おそらくはそれが共同体の持続に関わるからだろう。つまり、こうした互酬の形式において重要なのは、屈辱、負い目、感謝などの感情が、彼らをそのあいだ結びつけている、ということである。ここで生まれた時間差の内実は、差異=関心であり、共同体の持続とはこの感情的関係の持続だといえるかもしれない。そしてこの感情的関係は、社会的関係のひとつの側面をなすだろう(ここでいう社会的関係とは、人がそれによって対人的に自立不可能になるようなものである)。
そして、このことから考えれば、逆に交換の場においては、人はあたかも互いに自立した主体のようにしてお互いに関わるかもしれない。交換は観念的に考えれば、もはやその直後から、彼らの関係がなくなる、清算済みになるような形式であり、交換が終わったあとは、彼らはお互いに対して無関心=無差異になる。
ところで、レヴィナスは倫理的な態度を、他者に対し無関心=無差異でいられないことだ、というふうにいった。僕が最近贈与と交換について考えはじめた動機も、実はこの倫理と無関心=無差異の問題、そしてコミュニケーションの問題に、それらのモチーフが深く関わると考えたからである。
たとえば、純粋贈与と無差異=無関心。倫理的な贈与を、送り手が返礼を期待せず、また受け手がその行為に対して返礼しようと思わないようなものだと考えるならば、そもそも贈与は送り手にも受け手にも贈与として意識されてはならない。このような贈与の不可能性についてはいくつか議論がなされているようだが、それに影響を被る前に、僕はひとまずこのことについて自分の考えをまとめておきたい。
たとえば、倫理的行為とはこのような純粋贈与であると考えるときに、仮にそれが不可能だとして、せめてそれに近いものをおこなおう、としたときには、人は自分の行為を、相手に返礼しなければという負い目を負わせないようなものにしなければならない。そのためには、相手にそれがそのような意味を持ちうる行為だったとか、あるいはそのような行為がなされたということ自体を意識させなければいい。これはたとえば、誰かが落とした持ち物を、こっそりその人のコートのポケットに戻しておくとか、まったく善意などの意図はなく、結果的に相手を利するに過ぎない行為をしているかのように振舞っておくとか、そういうふうなことである。
また、かりに送り手がそうしなかったとしても、受け手の側が恩知らずであったり、忘恩していたりする場合にも、これは成り立つ。そしてこのような文脈から、この場合についても、前者の場合(送り手が贈与してないかのように贈与する場合)についても、興味深い事実が指摘できる。つまり、これらの場合には返礼の感情は受け手にないのだから、送り手は受け手にとって、少なくともその贈与行為に関しては、まさしく無差異=無関心な関係にあるのだ。したがってこれらの場合において受け手は想像的には誰の助けもなしに、自由=自立していられる。ひるがえっていえば、倫理的であることは、これらの場合、相手を自由にしておくことを意味するのだが、それはまた無関心=無差異をも意味するので、(かりに相互的な感情や行為のやり取りを関係というならば)関係、そしてコミュニケーションと呼ばれているあのよくわからない状況をも不成立にするかもしれないのである。
以上のことから、無関心=無差異には、交換の無差異=無関心と、擬純粋贈与や忘恩・恩知らずによる無差異=無関心、少なくともこの二つの形式がある。そしてこのような意味から捉えたときの純粋贈与は、シモーヌ・ヴェイユが消え去ること、不在といったときの倫理的なあり方に近いという気がする。消え去ること、不在とは、まさにあたかも贈らなかったかのようにして贈ることだ、といえるからである。
もし倫理的行為が可能だとしたら、その可能性は交換ではなく贈与のほうにあるのだろうか。むろん贈与には交換と違って時差がある。そこから、(場合によっては誰かが自分に対し決定的に先んじており、自分は遅れているが故に)先んじようとすること、まず自分からしようとすることの倫理性も帰結されるのかもしれない。しかしまだここらへんのことについては考えがうまくまとまっていないし、深まってもいないので、言及しないでおく。

 

追記

 

物語はいつも過去と関わるが、この過去は、しばしば忘れられていたりする。それはなぜなのか。この忘却の問題は、ここで述べた忘恩の問題に関わるはずである。多くの場合、物語において、この過去は思い出されずにはいられない。そしてこの想起が、忘れられていた負債を呼び起こし、物語に差異=関心の時間を与える場合がある。たとえば恩知らずな子供と、無償の贈与をそれと知られずおこなっていた親の物語、など。あるいは誰かがいなくなった後で、かつてその人が与えてくれたものに気づいたときの、取り返しのつかなさをめぐる喪失についての物語、など。

『夜廻』の眼(補遺:『東京レイヴンズ』における犠牲の役割)

1月末までになんか載せたいなと思ってたんですが無理でした。とりあえずまとまってないですがネタを放出しておきたいと思います。

0,

PSVitaで遊べるゲームに『夜廻』というものがあります。この作品はホラーゲームで、行方不明になったお姉ちゃんのために、小さな少女が化け物の徘徊する夜の街を探索するというものなのですが、先日そのゲームの実況動画を見ていて気になることがありました(以下ネタバレを含みます)。
それはこのゲームの終盤も終盤。少女がトンネルの向こうの神社に寝かされていた姉を見つけ出し、街にある彼女たちの家へと戻る最中のことです。この帰り道もなかばというところで、突然少女の顔から血が飛び散ってしまうという場面がありました。
ゲーム画面を見てもらえればわかりますが、このゲームのキャラクターは基本的に低い頭身で作られていて(昔のポケモンドラクエを想像していただければいいと思います)、血が飛び散ったとか、こういう動作をしたということはわかっても、それが詳しくはどういったことなのかがよくわからないことがあります。そういうわけで、僕は最初この場面がなんだったのかよくわからず、後日ホラーゲー好きの知り合いに解説を乞うことにしました。
彼の弁では、こうです。まずトンネルの向こう側は、この作品世界では冥界にあたる。したがって主人公のお姉さんは、すでに死にかけていたことになるのですが、そこに生者である主人公が入っていって、これを連れ出すのは、本来ならルール違反になってしまうわけです。そこでこのルール違反を許してもらう(目をつぶってもらう)代わりに、少女は片目を代償として支払わねば(目をつぶさなければ)ならなかった。こういうわけで、問題の場面で彼女の顔から血が出たというのは、要するに眼球が奪われたのだか、潰されたのだかしたときの出血だった、ということらしいのです。
なんというか、これはすごく古典的な構図だなという感じがしますね。似たような展開・モチーフ・世界観が、神話や古代悲劇などのいたるところに散見される気がします。いえ、実際のところ僕が真っ先に思い浮かべたのは『鋼の錬金術師』の人体錬成と真理の門だったのですが…ともあれ、こういう代償の論理によって、少女は冥界から姉を伴って無事生還することができたわけです。
本題はここからです。ここで僕は今この記事を読んでいるあなたに訊いてみたいことがあるのですが、冥界から人一人を取り戻してくるのに、眼球一つで済むというのは、なんだか天秤の針が狂っているという気がしませんか? 少なくとも僕はそう感じるわけです。あるいはもっといってしまえば、そもそも眼球で交換できるとか、あるいは他の何かと取引できるとか、死(あるいは半死に?)というのはそういう類のものなのなのでしょうか…。こういうふうな疑問がある。
もちろん、これは『夜廻』に対する批判というわけではありません。僕はこの作品を(実況動画で見ただけとはいえ)面白いなぁ、魅力的だなぁ、と思ったし、この展開自体にも文句はありません。ただ、ここではこの作品から僕が得た死についての取引のおかしさというテーマを、一般的な話として考えてみたいのです。ハガレン風にいえば、死についての取引において等価交換できるその等価物とはいったいなんなのか。
先日からしばらくこのことについて考えていたのですが、なんとなくそのことについて考えてみたので、ここで文章にしておきたいと思います。倫理学について勉強なさっている方にとっては、既知の話かもしれません。

1,

まずは、『夜廻』の主人公の行為はどんなものだといえるか、考えてみましょう。
それを考えるにあたっては、キューブラ・ロスという人が死の五段階説という面白い話をしています。彼女によれば、人は自らの死を五段階の過程を通じて受け容れていく。その五段階とは、否認、怒り、取引、抑鬱、受容、の五段階である。
まず、否認の段階では、人は自分が死ぬはずがない、何かの間違いだ、と、死を否定します。現実を認めることができないわけですね。
そして次の怒りの段階では、現実を認めはするものの、感情のレベルで受け容れられていない状態といっていいでしょう。なんでこんなことが起こるのだ、こんな不条理が許されてなるものか、という心理です。
それが第三段階になると、取引を始める。誰と? たとえば神様と、ですね。自分はこれこれこういういいことをしてるから、助けてくれとか、見逃してくれとか、延期してくれとか、そういうふうなことを考えるわけです。
そして第四段階に入ると、否認はできない、怒っても無駄、取引は無効、現実は取りつく島もない、というわけで、塞ぎこんでしまいます。はやい話が鬱になる。
しかし最後の段階になると、この現実を認識の上でも感情の上でも受け容れ、諦める。こういうふうにして人は死をようやっと受け容れることができる(もちろんできない場合もあります)。
僕が注意を促したいのは、このうちの第三段階、すなわち取引の心理機制です。なぜなら、勘のいい方はお気づきかもしれませんが、この取引というのは、まさしく『夜廻』において、主人公が、姉を助けるためにおこなったことだといえるからです。この文脈に沿っていえば、彼女は冥界と取引をして、自分の目と引き換えに、姉を死から救ったのだ、といえる。
むろん、ロスも言っているように、現実においてはそんなことはできないわけです。でも、フィクションの世界ならできる。それからもう一つ、宗教の世界でも、こういうことが試みられてきたわけですね。
たとえば、原始宗教の儀式では、供物や生贄と引き換えに、自然や神と様々な取引をおこなっている。それからまた、それは一神教などについてもいえる。善行を積む代わりに、死ぬのはいいとして、死後は天国に連れていってくれとか、最後の日には復活させてくれとか、そういう取引をする。むろんその有効性については確かめようがないのですが、しかし少なくとも死についていえば、いくら取引をしても、これらの手段では避けようがないようです。
ともあれ、とにかく死とか、それをもたらす災厄などに直面させられたときに、しばしば人は霊的な存在と取引をおこなって、それらのできごとから守ってもらったり、見逃してもらったり、そのあとの救いを求めたりする。こういうことがいえるわけですね。

2,

人は死や、災厄に見舞われたり、見舞われそうになると、どうにかしてそれを避けるために、霊的な存在と取引をおこなおうとすることがある。
この点で『夜廻』の主人公の行為は明白に取引だといえるわけですが、もちろんそれだけではなにもわからない。もっとこの行為を厳密に考えるには、取引の性質について細かく考える必要があるでしょう。
たとえば、僕がロスの説や、宗教を例に出して考えた取引のかたちは、あくまで取引している本人自身が救われるためのものですね。しかし『夜廻』の主人公のそれは違うのであって、そこで問題になるのは姉という他人の死です。
そこで、他人の死が取引にどう関わるかをもう一度考えてみましょう。すると、ここで犠牲と負債の問題が出てくるのです。いったいどういうことなのでしょうか。
まず、原始宗教について考えてみましょう。原始宗教の取引的な色合いを持った儀式のスタイルといえば、供儀のそれですね。供儀では、動物や穀物、そしてときには人の命までが捧げられて、神との取引がおこなわれていました。そこで犠牲になっているのは、取引している本人ではなく、なにか他のものです。
しかし、ある程度罪の意識が生まれてくると、こうしたことは許されないような気がしてくる。そして問題の位相は売買(これを捧げるから助けてくれ)から貸借(借りがあるから返さねばならない)にずれていく。そこにおいて犠牲と負債の関係が生まれてくる。
たとえば、人間のなかには不条理を負債として捉えなおす考え方があります。なぜ自分はなんのいわれもなくこんな目に遭わねばならないのか…このようなことを考えているとき、人は苦みのなかにあります。そしてこのような場合においてとくに注目すべきは、この苦しみが二重の苦しみだということです。つまり、それは、不幸そのものに対する苦しみというだけではなくて、それがなんの意味もなく、ただあるということ、その不条理に対する苦しみでもある。苦しみそのものよりは、むしろそこになんの意味もないということが苦しい。
すると、苦しみそのものは避けられないとしても、どうにかそれに意味を与えよう、道理をつけようということになってきます。そこで人は、自分がいわれなくこんな目に遭っている、という前提を疑い始めるわけです。ほんとうに自分にはなんの落ち度もなかったのだろうか。罪はなかったのだろうか。いや、きっと自分は何かをしたに違いない。しかし、なにを?
このときに考え出されるものこそが、かつて自分の身代わりになって死んだ誰かがいた、自分の身代わりになって不幸を負った誰かがいた、という仮説でしょう。いわば誰かが自分の犠牲になったわけです。自分はその人に対して負債を負っているのであり、それを清算しなければならない。今負っている苦しみは、そうした弁済作業の一環、不足分の返済なのだ、というわけです。だからそれを払い終え、貸しを多く作った暁には救いを…というわけですね。こういう取引の形式がある。
そしてこうした考え方は、たとえば被害者バッシングの論理とも背中合わせです。これはなぜかというと、人のものの考え方には「世界公平仮説」と呼ばれる信念が埋め込まれていて、それがこの負債感情を引き起こしもすれば、被害者を叩く感情をも引き起こすからです。世界公平仮説とは、世界は公平につくられている、という仮説ですが、ここにはもちろん世界は公平でなければならないという要求が前提されているのであり、ここにおいては要求(〜ねばならない)と事実(〜である)の短絡が起こっている。その結果、誰かが不幸な目に遭ったということは、それは因果応報なのであり、その人物になにか落ち度や罪があったに違いない、という論理が形成されることになる…。そうじゃないと勘定があわない。意味が、条理が、世界から失われてしまう。それだけは避けなければならない。だからそんな目に遭っているのはあなた自身のせいなのだ。こういうことになるわけです。

3,

ところで、僕はこれまで取引、売買、貸借、負債、弁済、勘定、などといった、経済的な比喩を使ってきました。こうした道徳的な道理にまつわる経済的な性質については、ニーチェという哲学者が指摘しています。また一方で、欲望や愛について経済的な比喩で語っている人もいます。それはフロイトです。
フロイトは、欲望や愛のことをリビドーという言葉で語っていますが、フロイトのリビドー理論は、「経済論的に」(これはフロイト自身の表現です)考えられています。さそして彼によれば愛とはリビドーの特定の対象への固着であり、そこに人はリビドーを投資しているというわけです。
このことをわかりやすくするために、ここでものを失くしたときのことを考えてみましょう。たとえばあなたのコートのポケットの底が知らぬ間に破けていて、そのなかに突っ込んでいた目薬をどこかに落としてきてしまった。さて、あなたはこれを探そうと思うでしょうか。また買えばいいやと思うのではないでしょうか。
しかしこれがたとえば懐中時計だったらどうでしょう。この場合には必死に探すはずです。そしてこのようにしてものを探す理由の一つは、懐中時計が高かったからでしょう。
それからまた、ギャンブラーの心理を考えてみてもいいかもしれません。パチンコにもう何万も突っ込んでいる。しかし天井もこなければあたりも引かない。ここでやめておけば損失分は今の額で抑えられる。しかし次の投資で、負けが帳消しになり、あわよくば勝てたりなんかしちゃったら…このとき、ギャンブラーをさらなる課金へと駆り立てるのは、もしかしたらもう少し粘れば大当たりが出るかもしれないのに、ここで帰ってしまったら、今までの投資分、すなわち負け分が無駄になってしまうんじゃないかという考えですね。
なんというか、すごく身もふたもない即物的な話なのですが、愛情はこういう性質を少なからず持っている。今までリビドーを投資していたぶん、それを失くすとすごく悲しい気持ちになったり、どうにかしてそれを取り戻そうとか、失ったことに埋め合わせをつけようとする。たとえば、恋人と別れたときに、鬱になったり、今まで愛していたはずの相手のことを罵倒し、おとしめて、「自分が失ったものは、最初から価値のないものだったんだ」と自分に言い聞かせようとしたり、戦争が長引いて、誰ももう命のやりとりなんかしたくないのに、ここでやめたら今まで死んでいった人々の死が無駄になってしまうと考えて戦い続けてしまったり…こういった例は枚挙にいとまがありません。
いずれにせよこういう感情の経済を考えていくと、物語というのがすごくわかりやすくなる場合が多い。そして『夜廻』の主人公を駆り立てるのも、姉への愛=投資と、彼女への負債感情です。彼女はまず姉のことを愛しているわけですし、またのちに彼女自身が独白するところによると、彼女の落ち度のせいで、姉は冥界に連れていかれることになる。愛(投資)と罪悪感(負債感情)。このふたつが主人公を動かすことになる。

4,

ここまで考えてみると、いよいよ『夜廻』における取引のおかしさがどこに由来しているのかがわかります。
まず、これまで、僕は経済と道徳、そして愛の関係を語ってきました。そこからいえることは、こうした感情の経済市場に、ふつう、世界は参入してこないということです。
僕たちが、もし少しでも世界というものについて基本的な知識を持ち、それを直視する勇気を持ち、そしてあくまでその知識に準拠して世界を見ようとするならば、世界にはどうやら人間が世界公平仮説などのモデルで考えるような意味や条理などはなさそうだ、ということがわかります(とはいえ、僕は、べつだんこうした世界観が宗教的なそれより優れていて、正しい、と主張するつもりはありません)。しかし反対に、ロスのいう取引は、世界をある人格や、そうでなくとも、人間に似た何かとして見なさなければ成立しないものであることがわかるでしょう。いいかえれば、あたりまえですが、取引というのは、コミュニケーション可能な存在(これは必ずしも人間である必要はありません)との間にしか成り立ちえないわけです。というか、そういうコミュニケーション可能性を前提としているのが経済だといっていいし、そこで行われていることはコミュニケーションそのものです。
そもそも世界は取引に応じる気がない。だから取引の条件だとか、死の取引価格などは示してくれない。そんな、取引の相手になり得ないものを無理矢理に擬人化したときに神話が生まれ、冥界が生まれる。それはある意味で世界の資本主義化であり、人間化です。でも僕は少なからず世界がそういうふうにできてないことを知っている。だからこそ『夜廻』の取引はなんだかおかしな気がするわけです。たぶん、それは眼球でも、靴下でも、人一人の命でも、同じことでしょう。

5,

ここで終わっても良かったというか、そうするつもりだったのですが、最近『東京レイヴンズ』というラノベの一巻を読んで考えたことを、補遺がわりにメモしておきたいと思います。あらすじなどは必要以上には解説しないので、気になった方は読んでみてください。

まず、『東京レイヴンズ』第一巻には様々な死と犠牲、取引の主題が出てくることを指摘しておきたいと思います。一つ目は、主人公・土御門春虎の中学時代からの友人であり、実は式神という人外の存在だった北斗の、自己犠牲による死(この死はのちに意表をつく形で埋め合わされるのですが)。そして、この巻において主人公たちと利害対立する存在、大蓮寺鈴鹿の、死んだ兄を、自分を身代わりに蘇生させようとする試み。このうち前者の事柄について、ここでは軽く触れておきます(後者についてもいろいろ論点があるのですが、とうぶん結論が出ないと思うので、割愛します)。

北斗の死について。この死は、物語において二つの役割を担っています。一つは春虎の危機からの脱出という役割。そしてもう一つは、春虎の応答のきっかけという役割です。
この二つの役割について解説する前に、北斗の死についての状況を整理しましょう。まず、主人公の土御門春虎は、安倍晴明の末裔にあたる存在です。彼の家、土御門家は、したがって陰陽師の世界において由緒正しい名門なのですが、反面、差別を受けているようなところもある。その理由は土御門夜光という彼の先祖筋の陰陽師にあります。彼は戦前の生まれで、現代の陰陽道の体系を作り上げた偉大な人物なのですが、彼が戦後まもなく、焼け跡の残る東京の土地で試みた大規模な儀式の影響で、その後霊災といわれる霊的な災害が、東京において頻発するようになります。彼の犯したこの罪によって、土御門家は非難の目に晒されることになるわけです。
とはいえ、春虎自身は土御門家のなかでも分家の人間であり、本人曰く才能もないとのことで、陰陽師になる気はなかった。北斗はなんども春虎に陰陽師になれと、不可解なほどに勧める(この理由は最後まで読めば明らかになります)のですが、春虎は「今いる日常を壊したくない」と、ずっとこれを拒否し続ける。
とはいえ、そういう因縁があるわけですから、結局は彼も陰陽師絡みの事件に巻き込まれることになります。そこで登場するのが大蓮寺鈴鹿鈴鹿は幼くして陰陽師のトップである「十二神将」の一人になった存在で、その才能と技術と、そして土御門夜光が試みたという呪術儀式で、彼女にとって大切だった、今は亡き兄のことを、蘇らせようとします。そのため彼女は、その術の成功例といわれている春虎の幼馴染・土御門夏目と、儀式に必要や土御門家の祭壇を狙います。
とはいえ、そう簡単にことは運びません。そもそも死者を蘇生させる術は禁術に指定されており、その禁を破ろうとする彼女に対しては、陰陽師を統括する組織から、刺客が差し向けられているからです。そこで鈴鹿も応戦を余儀なくされる。そしてそんな鈴鹿の手から、春虎は夏目を、夏目は祭壇を守ろうとする。
こういう構図があって、くだんの場面は刺客たちを倒した鈴鹿と、春虎が対面するところです。春虎は力勝負では鈴鹿には及ぶべくもないので、そんなことをしても兄は喜ばない、と説得を試みます。さいわい鈴鹿もまるきり話が通じないわけではなく、いささかのためらいを見せますが、そこですでに自分の願望を否定される苛立ちから、彼女は興奮しています。そこに折り悪しく倒された刺客の一人が不意打ちを仕掛けようとしますが、彼女はこれに対して、勢い余って過剰な力で応じてしまいます。その直撃を食らったらこの刺客が死んでしまう…そう考えた春虎は彼を助けるべく走りよりますが、タイミングからして、彼がその直撃を代わりに受けるほかないような状況でした。
そこに現れたのが、北斗です。春虎のことが好きだった北斗は、春虎をかばい、彼の代わりにその直撃を受け止めて、致命傷を負ってしまう。そして、そこで彼女が実は式神とよばれる陰陽師に使役される存在だったことがわかるのです。
本エッセイにとって興味深いのは、ここからです。春虎は北斗の死に衝撃を受けますが、そのことによってまた、過去に夏目と交わし、しかし反故にしてきた約束を果たすことにします。彼は、北斗がこうなったのは、自分が土御門という家の宿命から、それが自分の一部でもあったのに、逃げ続けていたからだと考える。そして、拒否していた呪術の道に進むこと(これがほとんど夏目との約束だったのですが)を決意するのです。
実はこの一連の流れは、神話にはよくある構造です。それをジョーゼフ・キャンベルなどは「召命拒否」というふうに呼んでいます。
ふつう、人は、主人公というのは能動的でアクティヴな存在だと考えています。しかしよくみてみると、これが実は違うということがわかる。たとえば、『Fate/staynight』のアーチャーは、英雄のことを「いつも何かが終わった後に現れて事後処理をしていく掃除屋だ」といっていますが、まさにこれが主人公に当てはまります。主人公がまず行動を始めるのではなく、主人公は何かが起こってしまった後でやっと、その起こってしまったことに対して、埋め合わせや取り返しをするために、動く。「ヒーローは遅れて参上する」のです。
それにまた多くの物語の序盤においては、主人公は、どこかに赴くことを嫌がっている。それをキャンベルは「召命拒否」といっていて、春虎は事実「日常を守りたい」がために、陰陽師の世界に進むことを拒否しているわけです。しかし、彼は土御門家に生まれたという宿命、土御門夜光の犯した罪の負債、夏目との約束などといったものたちによって呼びかけられている(召喚されている)のであり、彼はそれに応答しない限りにおいて、自分の応答能力=責任(responsibility)を否定している。
じゃあ、そうした主人公を動かすにはどうすればいいか。やはりそれは、主人公からなにかが奪われるという契機がなければなりません。これが主人公に行動のきっかけをあたえる。それが『東京レイヴンズ』第一巻においては、北斗の死にあたるわけです。そこで春虎は負債、自分の代わりに誰かが犠牲になったという負債を負わされているのです。
しかし、同時にこの場面は、物語の別側面をも示します。ふつう物語は問題を解決するための一連のシークエンスとして考えることができますが、そこにおいて問題が緊張をもって具体化する場面とは、危機や葛藤の場面です。ある力とある力がせめぎ合っていて、あるいは何かが危機にさらされていて、膠着状態ないしはこのままではまずいという状態にある。そしてこの場面を打破し次の展開へと繋げるには、物語は、そこに第三の要素、贈与者の贈与を持ち込まなければなりません。
この贈与は、様々なかたちをとります。具体的なアイテム、過去の記憶…そしてその贈与の仕方によって、その後の展開も変わってくる。
たとえば、ある魔物に襲われて、主人公が倒されそうになったとき、謎の人物が現れて、助けてくれる、といった場合には、その人物と合流して、そこでまた人間関係の葛藤を繰り広げたり、新たな情報を得ることになったりします。また、何かのアイテムや記憶が与えられた場合には、そのアイテムを使ったり、記憶を思い出したり、その記憶のなかにあった謎を解くことで、状況が打破されたりします。
そしてもうひとつのパターンとして、なにかが犠牲になるということがある。たとえば有名なのは「俺を置いて先に行け!」ですね。あとは、敵の野望のカギを握る存在が仲間にいて、敵の実力に味方たちが敵わないとき、その仲間が自分を売り渡す代わりに仲間を助けてくれ、と頼む場合などもそうです(これは僕が最近見た『ゼノブレイド2』というゲームにあった展開です)。
で、北斗の犠牲は、上のような危機の場にあって、主人公・春虎に対する贈与としての意味を持つわけです。犠牲が贈与の役割を持ち、そのことで春虎を債務者にする。この負債の責任を引き受ける形で、春虎の物語が始まる。こうした小さな物語(危機→贈与→解決)の流れが、大きな物語の構造(召喚の辞退(日常への固執)→応答(非日常への出立))へと自然と組み込まれているわけです。
さて、最後に少し精神分析的な話をしておきたいと思います。
フロイトは、後年になって死の欲動という概念を考えました。死の欲動は様々な比喩や定義で語られ、複雑な意味を持っている概念ですが、このエッセイの文脈では、さしあたり人を死の方へとさし向ける欲動だといっておきましょう。
そして次に重要なのは、この死の欲動が、フロイトの理論の中では良心を司るとされる、超自我のエネルギーになりうるということです。このときにフロイトが考えているのは、鬱病神経症の患者に見られる過剰で暴力的な自責感や道徳感情であり、そこにみられるある種の自分自身へと向けられたサディズムのイメージです。
ところで、物語論においては、日常→非日常→日常という三つの流れで神話や英雄譚を考える構造があり、この非日常の世界はしばしば死の世界でもあります。冥界へ下ったり、死の危機に瀕したり…そういった死の世界から、生の世界へとなにかのために赴き、なにかを持ち帰って帰ってくる。こういう構造を物語に見る人々がいたわけです。
この話をフロイト超自我理論につなげ、さらに北斗の犠牲の問題に繋げると、面白いことが言えます。まず北斗の死は春虎に負債の感情、超自我的な良心、責任意識をもたらし、彼を自ら死地へと赴かせる。『夜廻』でも同様ですね。こうした物語は、ある意味では道徳感情を利用して、主人公を死の方へと赴かせているのかもしれません。そして僕の見立てでは、こうした側面から英雄崇拝の美学の一般的な形式が、物語構造に沿って、語れるのではないかと思います。

笑いについて

0,

先日、M-1グランプリ(お笑い芸人たちがトーナメント方式で漫才の出来を競う番組)を見ていて、ふと気がついたことがあった。それは観客たちの笑い声が生じるタイミングに関することで、よく観察(聴察?)してみると、ほとんどの場合彼らはボケの冒頭ないしクライマックスで笑うか、ツッコミとほぼ同時、あるいは直後に、笑うことがわかる。これはどうやらほとんど一般的な現象のようだ。
むろん、これはお笑い好きの人にとっては自明のことかもしれない。ふつう漫才はボケ→ツッコミという基本形を繰り返して進行するものなのだから、その各々のタイミングで笑いが生じるというのは当たり前、べつにことさらこうして大げさに取り上げる必要はないだろう、というわけである。
だがこれはよく考えてみると不思議なことだ。むろん、僕とてボケで誰かが笑う、というのはなんとなくわかる。それはボケてる人がおかしいからだろう。だが、ツッコミと同時、あるいはその直後に笑うというパターンについてはどのように考えるべきか。このことは少し考えてみれば、そう単純な話でないということがわかる。ここで試みに決勝でのとろサーモンの漫才の例を出そう。彼らの漫才は、道でぶつかった通行人に対するツッコミの不満話から始まる。この不満に共感を求めるツッコミに対し、ボケが「そんなのは流れに身を任せればいいんだ」と切り返してみせると、「じゃあやってみろ」とツッコミは売り言葉に買い言葉で応酬、そこからもしボケがそのときのツッコミの立場だったら、というシュミレーションをおこなうことになる。さて、この場面のクライマックスにおいて笑いの対象になるのは、明らかにこのボケが通行人にぶつかったときの対処の仕方のおかしさなのであって、もしこれだけが彼らの漫才においておかしみを誘うものであるならば、観客はツッコミを必要としないだろう(事実ここではボケだけで笑いが成立する)。にもかかわらず、別の場面では、しばしば観客はボケの最中にはあまり笑うことがなく、ツッコミとほぼ同時か、後になって、点的に、堰を切ったようにしてどっと笑うことがある。ではこうした場合においてツッコミはなんの役割を果たしているのか。なぜボケのみで漫才が完結しない場合があるのか。

 

1,

まずこの問いに答える下準備のために、いったん文学論に迂回しよう。文学論というと怪訝に思われるかもしれないが、そう面倒な話でもないから、しばらく付き合ってもらいたい。
取り上げたいのはコリン・マッケイブジェイムズ・ジョイス論(『ジェイムズ・ジョイスと言語革命』)である。ジョイスは『ユリシーズ』などの長編で知られる20世紀を代表する小説家の一人だが、マッケイブは彼をアイロニーという観点から(も)論じるにあたって、彼の文学に対立する古典的リアリズムのテクストという概念を持ち出し、この代表格にジョージ・エリオットを据える(ここでの<テクスト>については、さしあたり小説のことだと考えてもらってよい)。こうしてジョイス-エリオットという対立軸が敷かれるわけである。ここではジョイスアイロニージョイスアイロニー、エリオットのアイロニーを古典的アイロニーと呼んでおこう。
ではこのジョイスアイロニー、古典的アイロニーとはそれぞれなんなのか。まず古典主義的アイロニーから説明しよう。まずマッケイブ本人の言を引く(面倒だったら読み飛ばしてもらってもいい)。

 

古典的アイロニーは、いま目の前にある文と、テクストが示した現実をもとに想定されるしかるべき文との距離のうちに設定される。闇夜のようなダグレー氏の無知蒙昧がミドルマーチからほど遠からぬところに存在しているからといって、それが読者をいささかも途惑わせたりしないのは、ミドルマーチの街の明かりが、テクストそれ自体のまばゆいばかりの明かりによって名ばかりのものになっているからである。
 ジョージ・エリオットは、このうえなく透明な言語をつかえば現実なるものを提示・検証することができると信じている。
 (コリン・マッケイブジェイムズ・ジョイスと言語革命』P.26)

 

これだけ読むとマッケイブは終始ジョイスの側に立ってポジショントークをしているように見えるけれども、彼の名誉のために言っておけば、その評価はそこまで単純素朴なものではなく、エリオットのテクストが、必ずしも一貫して古典主義的リアリズムの文法に貫かれているわけでないことを、彼は明言している。とまあ、そこらへんのことや、ここでエリオットの作品『ミドルマーチ』についてなされている具体的な言及を抜きにして、概要だけ述べるとするならば、古典的アイロニーとは、小説の登場人物の行動や人格に対して、地の文が皮肉をいうこと、そしてそこから生まれる滑稽の効果を指す。この場合、登場人物の自己認識と、その実態においては、あるズレが生じている。たとえば、自分のことを教養豊かだと思っている登場人物が、実際には教養のない人物であった場合、地の文はこのことについて「この男は、なんと教養豊かだったことだろう!」とかなんとかいう。すると、読者の側ではこの皮肉のほんとうの意味がわかるわけで、地の文とともにこの人物を嗤うことができる。これが古典的アイロニーである。
ざっと説明すればこのようなものだが、しかしこの古典的アイロニーにはもう一つ重要な成立要件がある。それは地の文がなんにせよ、ある価値判断の基準を、皮肉をいう前にあらかじめ読み手に与えているということである。たとえばこの場合では「教養深いとはどういうことか」ということを、地の文が前もって読者に語っていなければ、読み手はその登場人物がどういう人物なのかを自分で判断するしかないのだから、唐突に「この男は、なんと教養豊かだったことだろう!」などと言われても、それって皮肉? 本音? と迷ってしまうわけである。つまりここでは価値基準すなわちコードがあらかじめ読者と地の文のあいだで共有されていなければならない。
これに対して、ジョイスアイロニーはこうしたコードの不在そのものであり、したがってアイロニーは読者の読者自身に対するアイロニー(懐疑)となる。たとえば、先ほど僕は、もし地の文によって前もって価値基準が与えられていなかったら、読者は登場人物が教養豊かなのかどうかを判断できない、といった。いうなれば、まさにこの状況がジョイスアイロニーの状況である。
さて、するとどうなるか。この状況下で、読者は最初、登場人物の行為を自分なりに批評しようとする。たとえばこいつは正しい、こいつは紋切り型のことしか言っていない、など。しかし、そのようなことをしているうちに、やがて読者は根本的な懐疑に襲われる。私は彼を正しいというが、それはなぜなのか。そもそもその正しさを判断する基準の、さらに高次の判断基準はなんなのか。そういう判断をよく考えず下す自分のその在り方こそ、自分が嗤った紋切り型そのものではないのか。かくして、読者は自己認識と実態とのあいだのズレを思考するように迫られる。これがジョイスアイロニーである。

 

ジョイスの書法は一連の言説をいわば複写するだけであり、それゆえわれわれはテクストを書き直し、秩序づけるのに自分自身の言説に依拠せざるをえない。この個人的書き直しがあからさまになるのは、われわれが自分の言説を支配的言説として位置づけるほかないからである。テクストがわれわれの代わりにこの状況を引き受けてくれたりはしない。そして自分の言説をテクストに押し付けていることに気づいたとたん、われわれは自分の言説のなかの紋切り型の存在にも気づかされるわけである。[…]『ダブリン市民』は、このメタ言語の欠落を通して、[…]終わりなきアイロニーを生成する。
(コリン・マッケイブジェイムズ・ジョイスと言語革命』P.44)

 

この二つは何が違うのか。まず、ここで押さえておくべき相違点は二つである。
一つは、古典的アイロニーにおいては、読者の、登場人物に対する優位性が確保されているのに対して、ジョイスアイロニーにおいては、読者の優位性がもはや確保できないこと。これをアイロニーにおける主体性の相違と呼んでおく。
もう一つは、古典的アイロニーにおいては、読者と地の文の仲間関係が成立しているのに対して、ジョイスアイロニーではこれが成立していないこと。この場合の仲間関係とは、コードを共有している関係であると考えてもらいたい。そしてこのことを、ここでは共同体性といっておこう。
主体性と共同体性における、古典的アイロニーと、ジョイスアイロニーの違い。これを確認したところで、いよいよ漫才におけるツッコミについて話を進めていこう。

 

2,

古典的アイロニージョイスアイロニーは、まず読者が主体性を確保できるかどうかという点において、そして次に読者と地の文の共同体性を確保できるかどうかという点において、違いをもつ。前者は主体性と共同体性を確保することができる。反対に後者はできない。
この文学論を、ここでさらに千葉雅也の『勉強の哲学』の勉強論に接続してみよう。そのことで文学におけるアイロニーと漫才におけるツッコミを接続しよう。
『勉強の哲学』は勉強について哲学的に論じた本である。そしてその議論の中心的な命題をひらたく述べれば、「勉強とはノリから浮いたあとで、別のノリに移行することである」というものである。
では、それはどういうことなのか。
まずは勉強が始まるきっかけから説明する。ふつう、人は周囲のノリにある程度合わせて生きている。つまりコードに合わせて生きている。たとえば、「仕事にはやり甲斐がなくてはならない」という命題がある。この命題を自明の前提=コードとして、みんなが喋っているとする。これが普通の状態である。
では、そこへ、ふとこういう呟きを投げてみたらどうだろうか。「なんでやり甲斐がなきゃいけないわけ?」「君たち、そういうことをいうやつらに踊らされてるんじゃないの?」ーーこう問われた人たちは、怒るかもしれないし、しらけるかもしれないし、呟いた人を軽蔑するかもしれない。反応はまちまちだろう。確かなことは、彼らがとにかく以前のように無邪気にそれを前提にしてなにかを語ることはできなくなる、ということである。千葉によれば、このような前提=コードのひっくり返し、問い直しこそ、勉強の始まりに他ならない。
これを千葉はツッコミと呼び、さらにアイロニーと言い換える。周囲のノリから一歩引いて、「それ、実はおかしいんじゃないの」とツッコミを入れること。このことによって、疑問が生まれ、考えることが始まる。
しかしこのツッコミには問題もある。千葉によれば、コードは本来無根拠なもの、なんとなくで成り立っているものだから、その根拠を問い、この問いに対して答えとして提出された根拠の根拠を問い…とやっていくと、極端な懐疑のなかに落ち込んでしまう。それはあたかも、ジョイスアイロニーに見舞われた読者のように。というよりむしろ、その二つは根本的に同質の現象である。
だから、千葉はアイロニーだけでもいけない、という。アイロニーに囚われている限り、なにも考えることはできないから。そこで出てくるのが、ユーモアという概念である。ユーモアとは、ボケとも言い換えられるもので、コードをツッコミのように破壊するのではなく、ズラす事を意味する。
このことを説明するにあたっては千葉自身が本著において提示している例え話を引こう。

 

 たとえば、友達の恋愛について噂話をしている。
 AがBにひどいことを言って、それで別れそうになったけど、結局よりを戻し、でもまたトラブルがあって、どうのこうの……。「Aってそういうとこヤバいよね」、「最悪だわ」、「Bは我慢してたらまずいよ」などと、Aを非難し、Bを心配する流れになっている。
 ここでは、二人の関係を、「恋愛において人はこうあるべき」という、道徳的と言えるようなコードによって解釈しているわけです。
 そこで、こんな発言が出るとする……「うーん、それってさ、音楽なんじゃない?」
 これは、ズレているというか、「スベって浮いている」感じがすると思うんですが、まずこれをユーモアの例とします。これは、自覚的な発言であると想定します。
 ズレた見方が、「連想」的に出てきている。
(千葉雅也『勉強の哲学』PP.92-93)

 

こうした連想的なズレが、新しい話題への接続となる。このズレによって、別の視点から物事を考えられるようになる。
また、千葉によれば、さらにこのユーモアは、拡張的ユーモアと、縮減的ユーモアに分けることができる。先の例は、話が延々と多方向に接続されていく=拡張されていくので、拡張的ユーモアといえる。一方で縮減的ユーモアとは、ある話題に深く閉じるボケで、必要以上に細かい話などを指す。このボケの必要以上さは、その語りが、なにか必要があって、意味があっておこなわれているのではなく、それを語りたいという欲望によって駆動されていることを示す。必要があって喋るのではなく、喋りたいから喋ること、このことに前提されている欲望。この欲望を、千葉は享楽と呼ぶ。この説明が分かりづらいという場合は、ややステレオタイプな例にはなるが、オタクの過剰な語りに象徴されているようなそれを思い浮かべてもらえればいい。
さて、こうしたユーモアの作用が、なぜ勉強に必要なのか。それはアイロニーが陥るナンセンス(無限の懐疑)から、有限性へと折り返すためである。これはユーモアへの折り返しといわれる。が、勉強はこの折り返しによって単純にアイロニー→ユーモアと進行すればよい、というものではなく、アイロニー→拡張的ユーモア、と折り返した後で、さらに縮減的ユーモアを経由し、いい塩梅で、このユーモアに再びアイロニーを突きつけて…というふうに進めていかなければならない(アイロニー→拡張的ユーモア→縮減的ユーモア→アイロニー'→…)。

 

 (1)アイロニーからはじめ、その過剰化をせずにユーモアへ転回し、
 (2)そして、ユーモアの過剰化を防ぐために、形態の享楽を利用する。
 (3)さらに、[…]享楽の硬直化を防ぐために、アイロニカルにその分析をする。
(千葉雅也『勉強の哲学』P.119)

 

 

つまり、1,あるノリから浮いて(アイロニー)、2,別のノリに出航し(拡張的ユーモア)、3,だがそれだけでは航海が延々と繰り返されてしまい、どこにも落ち着けないので、どこかで止まるために、意味のない過剰な欲望、享楽によってあるノリに碇を下ろす=ノる(縮減的ユーモア)。この三段階を基本とし、ちょうどいい加減でアイロニーを入れて、もう一度反復する。かくして、勉強とは、一サイクル分について語るならば、「ノリから浮いたあとで、別のノリに移行すること」、別の言葉で言い換えるなら、「深追いしたあとで、目移りし、深追いと目移りだけではなにもできないので、ほどほどのところで自分なりのこだわりに注目してみること」なのである。

 

4,

勉強とは、ツッコミをいれ、ツッコミすぎてナンセンスになるところでボケ、ボケすぎて別のナンセンスにいたらないところで別のボケ方をすること、その反復で成り立つ。
むろん『勉強の哲学』においては、もっとほかにも細かく面白い話がなされる。が、ここでは必要な議論は切り出したということで、要約に一区切りをつけよう。ここからは千葉の議論を借りるかたちで、漫才におけるツッコミの役割を考える。そのためにまず必要なのは、千葉の用語の等置関係を丸パクリすることである。
ここではしたがって、ボケ=ユーモア、ツッコミ=アイロニーという等式を受け入れる。すると、漫才におけるツッコミを、アイロニーということができるのであり、千葉によればそれは「ノリから浮くこと」となる。
だが、果たして本当にそうだろうか。もう一度よく考えてみよう。ふつう、漫才において、ボケはおかしみのあるキャラクターを演じたり、言行をおこなう役割を担う。それに対してツッコミは、これを「それはおかしい」と指摘することで、観客たちを笑わせる。ここには、ボケ=異常/ツッコミ=正常という図式で整理できるような状況がある、といえよう。
しかしながら、ふつう「ノリから浮くこと」というと、むしろ異常なのはツッコむ側である。なぜって、ふつうは周囲のノリにあわせることこそが「正常」なのだから。
こうした話を踏まえると、どうやらなにか齟齬があるらしいということがわかる。なぜ千葉の議論におけるツッコミと、漫才におけるツッコミは全く真逆の意味を持ってしまうのか。なぜ千葉的ツッコミは異常で、漫才的ツッコミは正常なのか(なお、これ以降千葉的ツッコミのことを、哲学的ツッコミと呼ぶことにする)。
この答えはシンプルである。それは、千葉が勉強を哲学モデル、すなわち「ツッコミ→ボケ」の順序で考えているのに対し、漫才モデルの構造は「ボケ→ツッコミ」の順序をもつからである。ここに根本的な問題があるのだ。
まず、千葉のツッコミは、本来ボケがないところに、ボケを見出す行為としてある。したがってそれは正常の自明性から身を引き離して、コードを別の仕方で眺めることに他ならない。そしてこの哲学的懐疑は、一旦始まるとキリがない、ということは、千葉の議論に沿って既に述べた通りだし、それとジョイスアイロニーの共通性についてもついでながら指摘しておいた。ここに現れるのは、誰がボケてるのかすらわからない、というナンセンス(コードなし)の地平である。そしてこの地平においては、正常/異常の秩序そのものが転倒されてしまう。この哲学的ツッコミの地平においては、人は主体性も、共同性も確保することができない。つまりこれはジョイスアイロニーと近いものではあるが、逆に古典的アイロニーとは正反対のものであり、ここで漫才的ツッコミと哲学的ツッコミが、古典的アイロニージョイスアイロニーの関係とパラレルにあるのではないかということが予想される。
そこで、試みに古典的アイロニーと、漫才におけるツッコミを要する笑いの成立過程を、各々に文章化してみよう。
まず先ほど僕はこう述べた。古典的アイロニーにおいて、地の文はまず価値判断の基準(コード)を設定する。そのうえで、この価値判断に照らして嗤うべき振る舞い/在り方を登場人物におこなわせる/させる。最後に、地の文は、これについて本来の意味(こんな振る舞いはバカげている)と逆のことを誇張して述べる(「その振る舞いはなんて素晴らしいのだろう!」)。ここに皮肉の効果が生じる。
つぎに漫才の構図について、正常/異常という言葉を使いつつ表現してみる。まず、観客とのあいだに共有されている正常/異常のコードがある。そのうえで、ボケがこのコードに照らして異常な振る舞いをする。最後に、ツッコミは、共有されているコードに沿って、ボケの異常性を指摘する。すると笑いが強化される。
この二つを並べてみると、ほとんど相似の関係にあることがわかる。したがって漫才は、古典主義的アイロニーと相似の関係にあり、またジョイスアイロニーと古典的アイロニーの関係と、勉強(哲学)と漫才の関係も、相似の関係にある、ということにしよう。実際、漫才においては、主体性が確保されている(正常/異常の秩序は転倒されない)ばかりでなく、共同体性もまた確保されている(ツッコミと観客のノリの共有)。
以上、ここまでの議論を踏まえれば、漫才におけるツッコミがなんなのか、そしてなぜそれが必要なのかを語ることができるだろう。哲学的ツッコミは、意味や根拠を解体してしまう。逆に漫才的ツッコミは、従来のコードに依存して、意味や根拠を(不完全にではあるが)定める。したがって次のようなことが言える。ツッコミは笑いの根拠を定め、強化する。おそらくボケがうまく機能すれば、観客はボケだけでも勝手に笑っただろう。だがツッコミが正常さを見せつけることで、ボケの異常さはますます際立ち、それだけますます笑えるものとなる、こういう関係があるのではないだろうか。だから漫才的ツッコミは、必ずしも笑いの原因にはならないが、その笑いを補足的に強化する。とはいえ、これはとろサーモンの漫才の特徴なのであって、なんとも意味づけしがたい(=どう笑っていいかわからない)ボケに対して、意味を与えてやることによって、あきらかに笑いに寄与するようなツッコミもあることだろう。ともかくそれは、古典的アイロニーにおける地の文と似た仕方で、状況について注釈する役割を持つ。漫才的ツッコミは、このような点において、哲学的ツッコミと対照することができるのである。

 

5,

ここで話が終わってもいいのだが、最後にもう少しだけ遠くまで行こう。ここでは応用編として、以上の議論から得られた認識を、暴力の考察に用いてみたいのである。
そのため、まずはイジリという形式の笑いの取り方について考えてみよう。イジリは基本的にボケた人にツッコミを入れて笑いを取るという点において漫才と共通するが、漫才と異なるのは、ボケが天然ボケだということである。この天然ボケは天然物であるがゆえに発掘されないと笑いの対象にならない場合があるわけだから、イジリにおけるツッコミは、漫才におけるツッコミよりもより本質的な役割、ボケの明確化という役割を担うことになる。
また、この二つのツッコミにはもう一つ別の相違点もある。人はわざと馬鹿にされるように振舞っている時には、自分はこれをわざと、あえてやっているのだ、という自意識の優位性を確保できるために、ツッコミをされても滅多に侮辱されたと感じることはない。だが、そうでないときに喰らうツッコミはほとんど不意打ちに等しく、そこではボケ側は自分の優位性を確保できない。
このようにイジリという側面からツッコミを考えるとき、そこにはツッコミの暴力性が端的に現れる。ツッコミはなんにせよ猛威を振るう力である。ここでのツッコミは正常な側から異常者の異常性を指摘して、自分たちのコード(正常とはこういうもので、異常とはこういうものだ)に無理やり組み込んでしまう。いいかえれば自分のルールに引きずり込んでしまう。
しかし、この暴力には別の側面もある。たとえば、イジリとは基本的に、イジられる側にイジる側が少なからず好意を持っている場合になされる。これがイジリとイジメを、イジる側において分ける基準となるもの――むろんこれとイジられる側がイジリをどうとらえるかは別問題である――だが、そのことによって彼らは本来異常な=仲間外れになるはずの相手を、仲間のうちに引き込んでいるといってもいい。
人はイジられているうちが華で、シリアスに異常者扱いされている場合には、イジられすらしない、という話もある(極端な話をすれば、シリアスな局面においては、この扱いはレイシズムや排外主義につながるかもしれない)。だが、いいかえればこれは、先にあげたイジリ的ツッコミの暴力の特性、つまり「コードに無理やり組み込む」「ルールに引きずり込む」の別の側面であるともいえる。ある意味で、仲間内に引きずりこむとは、ルールに引きずり込むことだからである。
ここから、漫才的ツッコミ、イジり的ツッコミのもつ暴力の性質を、次のように一般化できるだろう。これらのツッコミの暴力とは、既存の体制や秩序を維持し、強化する性質を持つ。イジり的ツッコミとは、維持する暴力、融和させる暴力である。
ここまでくれば、逆に、哲学的ツッコミに暴力性はあるのか、あるとすればそれはどんな暴力か、ということに答えるのは、そう難しくはない。哲学的ツッコミは、正常の自明性をひっくり返してしまう、つまり破壊するものである。それは場を白けさせてしまう。人々をばらばらにしてしまう。その意味での暴力性を持っている。だから哲学的ツッコミとは、体制を破壊する性質を持つ、破壊する暴力、離散させる暴力だということができるだろう。
維持する暴力と、破壊する暴力。融和する暴力と、離散させる暴力。保守的暴力と革新的暴力。ツッコミの二元論は、さしあたりこのような暴力の二元論に接続することができる。

 

 

<参考文献>
千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』2017年、文藝春秋

デリダ,ジャック『エクリチュールと差異』上巻、若桑毅他訳、1997年、法政大学出版
フロイトジークムント『自我論集』中山元訳、1996年、筑摩書房
――『エロス論集』中山元訳、1997年、筑摩書房
――『幻想の未来/文化への不満』中山元訳、2007年、光文社
――『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』中山元訳、2011年、光文社
マッケイブ,コリン『ジェイムズ・ジョイスと言語革命』加藤幹郎訳、1991年、筑摩書房
リクール,ポール『フロイトを読む 解釈学試論』久米博訳、1982年、新曜社