かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

オタ活まとめ01(2018)

友人に影響を受けて今年見た・読んだ作品の総括などすることにしました。いや、やっぱこういう言語化・歴史化作業大事だよね、ということで…。

 

 

◯2018年アニメ

冬クール

ヴァイオレット・エヴァーガーデン

 京アニ堀口悠紀子キャラデザの影響からいいかげん脱したほうがいいんじゃないかとか思うわけですが、それはともかくやはりこの作品。京アニクオリティは毎度のことなのですが、それでもやはり映像がすごくきれい。とはいえ最後まで見てはいません(という作品が以後めっちゃでてきます)。

 本作は郵便局とか代筆の話なので、なんかこう(某大陸哲学的に)いろいろ面白い話だなあと思ったのですが、なんかいい話だなーで終わってしまった感。覚えてるエピソードもあまりありません。なんか泣いたりしたんですが、やっぱり涙活的コンテンツ消費は話を忘れますよね。カタルシスー。

 マジレスをするとこの作品はちゃんと腰を据えて見るべきでした…。

学園ベビーシッターズ

 地元の友人に勧められて見たのですが、見はじめてまっさきに僕の胸にこみあげたのは、コンテンツの内容云々よりも、「友人、おまえどうした…?」という困惑の思いでした。どうやら虎太郎くんにほだされたらしいのですが、ちっちゃい男の子のかわいさにほっこりして少女マンガ原作アニメを見てしまうようなハートウォーミングな人間だったとは露知らず…もっとこう、ゲームのやり込みに血肉を捧げてハートウォーミングのハの字もなくなった荒んだオタクの成れの果てみたいなやつかと思っていました(言い過ぎ)。人って長年の友人でも知らない意外な一面を持っていますよね。

 で、本編について一応言っておくと、これは僕は全話見てます。やっぱり少女マンガって肌に合うんだよなあ、とか思いつつ。こどもたちも可愛いし、ヒロインも男たちもいいやつらだし、なんか優しい世界だなあと思いました。優しい世界に浸っているだけではいかんなあ、とも思いましたが。あと個人的に狼谷兄弟のお母さんというか狼谷先生がめっっっっっっちゃ好みなんですけど、わかってくれる人いますかね…?

ダーリン・イン・ザ・フランキス

 途中までしか見てないですね、これも…いや全話見る気はあります。

 これは後述する『SSSS.グリッドマン』とおんなじで、エヴァの影響が露骨だし、色が綺麗だし、A-1とTriggerが組んでやったという点ですごく興味深いし、(かつてエウレカセブンアネモネが好きで好きでたまらなかった中学生時代を過ごしたので)ゼロツー可愛すぎるし、いいアニメなんですが、やっぱ僕シリアスものは一気見したい人で、こういうのって週放送でみるのつらいんですよね…。

 実はこの作品についてはいろいろ論点があって超面白かったので、三島由紀夫の『文化防衛論』とかフロイトの『快感原則の彼岸』とか伊藤計劃の『ハーモニー』とかと絡めつつめちゃ壮大な作品論を作る予定があったんですが、なんかそういう三島がどうとかフロイトがどうみたいなことをいってタームとか使って賢しらな論を書いてもなんかドン引きみたいになるし、まあ書かなくていいかみたいな気になってるのですが、ただ作品論というか考察記事そのものについてはそういう話は全部抜きにしてコンテンツのなかのはなしだけを丁寧に掘り下げつつ書ければなあとぼんやり考えています。そのためにCONTINUEのダリフラ特集号も買いました。これが「全話見る気はあります」の意味です。

 でも、この作品で僕が個人的に好きなのは上述のこともそうですが、やっぱりいちばんは田中将賀のキャラクターデザインなのかなと。なんか『あの花』くらいの時期の田中将賀はぜんぜん好きでなかったというかむしろなんだよこのぬぼーんとした顔ともにょっとした線の髪の毛はよう! とか思ってたんですが、『じょしらく』あたりからだんだんと、「あれ…なんかよくね?」となりだし、『君の名は。』とか本作とかのキャラデザに至ってはどストライクな感じで、あーなんか絶妙なバランスで成り立っていてほんとうに美しいなあと思いました。とくにゼロツーが。

BEATLESS

 僕の友人たちがすごいハマり、本作のレイシアというヒロインを参照しながら(?)「常勝ヒロイン」なる謎の概念を生み出してたりしていたアニメ。僕は常勝ヒロインなるものの外延も内包もよくわからないしその魅力もよくわからないので、逆に興味があって、そういう意味ではその最たる例が出ている本作も見なければならないのですが、紅霞が退場する手前までしか見てないんですね…。あとTwitterのTLで僕が観測しているべつの界隈、伊藤計劃あたりの日本SFとか機龍警察シリーズを好きな人たちが最初集まってできたと思われる謎の界隈(探ヘク界隈)などはいかにも好きそうな話だなとか思いながら見ていました。

 そのうち見たい。

ゆるキャン△

 みんなゆるキャン△好きだよねーという感じで見ていました。なんか全体的に作りが丁寧だしキャラクターも可愛かった記憶があるのですが、なぜか切ってしまった。見てもいいし見なくてもいいみたいな作品だったのかもしれません。個人的にはしまりんが好きです。

 春クール

ヒナまつり

 このアニメほんとにいったいなにがやりたかったんですか?(いったいなにがやりたいのかわからないアニメが好きな厄介オタク並みの感想)

 無駄にいい作画とナンセンスギャグと独特の世界観に引き込まれたのかなんなのか、結局最終話まで見てしまったのですが、あえてその最大の魅力を言語化するなら描かれている人種が面白いということになるのかもしれません。繁華街のバーテンとかヤクザとかホームレスとか、なんかそういうちょっと周縁的な人たち? が多かった気はします。とはいえ、中学生とかその学校の先生とかも出てきたりしたんですが。

 あと主人公のヒナをはじめとした劇中に出てくるクズどもの描写が妙に生々しくて、この原作者の人間観と人生が気になりました。

 夏クール

 あそびあそばせ

 Twitterでなんども言っていますがこういうアニメを好きになるような人間は品性下劣であり、来し方を振り返って自分がなぜそんな人間になってしまったのかということをしっかりと悔い改めるべきではないかと思う。とはいえ全話見てしまったしめっちゃ好きでした。まあこういうね、なんか好きなものをあえてけなしていくタイプの一周回った称賛はかっこ悪いしよくないなとは思うんですが、でもやっぱりこの手の好みを自信満々に公然と口にするのは良くないと思う。なのでブログでこっそりひねった表現で表明せざるを得ない。

 個別のエピソードは覚えていませんが、やっぱアポクリン汗腺のくだりは試されている気がしました。というのも、僕は実はここ数年「ふつう不快なものが好きなものとセットで出されると、人はその不快なものを組み合わせや錯覚で好きになってしまうのではないか」説を個人的な仮説として半信半疑で提唱していたのですが、どうやらこれが当たっているかもしれないと、今回オリヴィア(好きなもの)+アポクリン汗腺(ふつう不快なもの)の組み合わせを繰り返し鑑賞しているうちに思ってしまったわけですね。つまり「あれ、ワキガ美少女いいのでは…?」という…やっぱりこういうふうな下劣な人間になってしまうのでこのアニメはほんとうによくないんだなあと思います。

 個人的にはオリヴィア兄妹と華子の喪女ネタおよび木野日菜さんの体当たり演技が大好きです。二期があったら絶対見るぞ!

少女☆歌劇レヴュースタァライト

 わかります。

 というか僕はやっぱり輪るピングドラムが大好きで、あとあれのキャラソンアルバムというかHHHのカヴァーアルバムはガチ名盤だと思うしああいう音楽ばかりが巷に溢れていれば僕の音楽生活ももっと楽しいものになっただろうなくらいのものなんですが、それはともかくとして、やっぱりイクニ節を受け継いだスタッフが制作した作品なので、やっぱりある程度は好きなんですね。ただ、これはtwitterで友人と話していても思ったというか、これは二人の一致した見解なんですが、なぜかそこまで好きになりきれなかった。百合だし、色綺麗だし、作画安定してるし、キャラデザいいし、微妙にループものでもあるし、イクニ節だし、好きな要素しかないんですが…これはいつか考えてみるべき問題かもしれません。

 あと僕は「わかります」より「バナナイス!」の方が好きです。ばななちゃん凛々しいのに可愛くて最強すぎないですか? 身長が高いのもいいよね。

 秋クール

SSSS.グリッドマン

 いわずとしれた今年度最高峰の百合作品。尊い~。…Citrus? やがて君になる? いや、知らんがな(*政治的に正しい注釈をしておくと貶す意図はありません)。

 後半になってからがすっごい面白いよなあ、と思ったら、なんかすっごい少数派の意見なんですねこれは。エヴァのパクリで意味不明とか言われてるけど、逆にエヴァの呪縛に囚われないでオタクやってる奴らってなにが楽しくてアニメ見てるんですか? ちょっと僕には理解できないですね。

 

 まあそれはともかくとして、この作品の物語については上記の別の記事で書いてるんでこれ以上言及しないとして、それ以外の魅力をあげると、やはり色がビビッドで綺麗ですね、第一に。色が綺麗な画面を作るアニメって全般的に信用できると思うんですよ。アニマスとかね。

 それから、僕は(なかばオッサンの領域に片足を突っ込んだ)男の子なんですけど、残念ながら合体!とかメカに興奮する人間ではないので、グリッドマンや怪獣のデザインなり動きなりがどうみたいなのってあんまり見ることができていなくてですね(公式twitterではいろいろそこらへんのこだわりについて書かれていたりCG作画を担当なさった会社? のpostがRTされていたりして面白かったです)、どちらかといえば作劇の雰囲気というか、あの高校生たちのけだるい感じとか、リアルっぽい会話劇がなんともいえずよいなあとか思ってみていました。ただああいう作りかたって先が気になるタイプの作劇の仕方とどうしても噛み合わない気がするというか、だからやっぱ一旦切っちゃったというところがありますね。これは僕が悪い。

 あと一つ気になったのが、たまになんか演出が変だなと思う時があって、怪獣とグリッドマンが戦っている時に流れる音楽がやけにしらけた感じがしたというか、そのタイミングでそれ流されても僕別に熱くならないけど…みたいな音楽の使い方が多かった気がします。なんでだろう。まあ熱くなって欲しかったかどうかはわからないんですけどね。

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない

 まず文句からいうとやっぱりいくら冗談でも空気読めててあえて空気読まないんだとしてもセクハラはよくないと思うよ咲太というのがあります。ただでさえ美少女ゲーム方式ハーレムラノベ方式なわけだし。やっぱり女の子を男の子主人公が救う構図ってただでさえウエメセなわけじゃないですか。なんかそういうのでセクハラ…いや当人たちの信頼関係が成り立ってるならいいのかもしれませんが。

 とはいえ、僕は結局そういう構図を前提しつつも真剣に悩んだりなんだりしている美少女ゲームやハーレムラノベが好きだし、その点では青ブタって真面目に作られてるなぁ感じるし、そういうところがこのアニメの好きなところだったりします。

 それから作画方面について言及すると、このアニメはキャラクターデザインがすごい。何がすごいかというと、溝口ケージの原作絵をめっちゃアニメ向きに美しく作ってるんですよ。プロポーションもいいし顔もいいし線もいい。何年か前にさくら荘がアニメ化されて、あれはあれでいいと思うんですけど、今回のキャラデザは完璧だと思います。そんなわけで今回あらたに田村里美という固有名詞を覚えたんですが、この人はヴァルヴレイヴの作監とかやってたんですね(作画wiki仕入れた浅い知識)。

 そしてヒロインの話をすると、やっぱり僕は桜島麻衣先輩が素直に好きです。なんかこれはポンコツだからとか陰キャだからとかそーいうしょうもない一周回った嗜好ではなく、お姉さんで大人っぽくて綺麗で、だけど恋愛にはうといからそっち方面ではちょっと隙があって可愛いといった要素があるからで、これマジで理想の彼女じゃないですかと素朴に思うわけです。まあでもこういうのいないからね、ちゃんと現実見ていこうね。

ゾンビランドサガ

 いくつか個人的に供給に飢えているものがあって、たとえばTSおよびTSFものとかそうで、けんぷファーとかあんまよくないし、俺ツイも作画崩壊がひどいという、なぜかTSおよびTSF方面のものって供給少ないしクオリティもよくないものが多いんですよね。で、そういう個人的に供給ねえなーと思うもののひとつにゾンビ美少女ものというのがあって、パッと思いつくのが『さんかれあ』ぐらいという(ほかにもあるけど)。なお、僕は正統派ゾンビ好きにとっては発狂ものだと思うんですがゾンビとかどうでもよくてゾンビ美少女が好きなだけなので、ロメロとかは全く見てません(もしかしてここでロメロとか言い出すのがにわかだったり? こわい)。見なきゃなあとかは思うんですが。とりあえずユリイカのゾンビ特集号は買ったので、これで勉強しようかなと思います。

 で、そんなわけで『ゾンビランドサガ』です。ただはっきりいってこのアニメには期待を裏切られました。やっぱり僕の本作品についての初めての体験って(当たり前だけど)1話だったわけで、あの1話が好きだったからこそ続きを見たのだし、あの1話の感じで全てが進行してくれたらよかったんですが、残念ながらそうではなかった。

 ただ、やっぱり見ていくとそういうことではなかったんだなというか、この作品っていうのはいろんなものがごったまぜになっていて、毎週何をやるのかわからないところが面白かったんだなと。そういう意味では、当初の期待とは別の意味でものすごく楽しめたし、なんか作品の出来とか関係なく(これは出来が悪いという意味ではないです)、純粋に好きだなあという世界になっていて、これはなんだろうか、愛着みたいなものが湧いてきた感じでした。今となっては全てのキャラクターが愛おしいです。

 ところでシリーズ全体の構成について話をすると、僕の感覚では、このアニメは全12話を1/2・3・4・5/6・7・8・9/10・11・12というふうに区切ることができるかなと。1話はまず出オチ芸ですね。それから5話までは比較的ギャグ要素が多く、各キャラの絡みを見せたりするところが多かった。それから6~9話は一部キャラの過去掘り下げ回。そして10~12話はさくらの過去に絡めてクライマックスを作り、伏せられていた謎を明かしたり、伏線の一部を回収して終了、といったような感じでしょうか。僕が本作のなかであまり好きではないのは3話と9話で、他は大体横並びぐらいで好きですが、やはり一押しはtwitterでも一部で話題になった5話の幸太郎と愛ちゃんの絡みです。この回の種田梨沙の「はいはいサガジェンヌサガジェンヌ」と舌打ちはなんだか不思議と人を惹きつけるものがあるし、その前後の流れも妙に心に残るものだった。なんかたまにこういう何がいいんだかわからないんだけど妙に心に残る場面ってありますよね。もう180度違う例なので申し訳ないのですが、個人的にそれだなと思う別の例をあげておくと、『ゴッドファーザー』の最初のやつの、マーロン・ブランドが孫と追いかけっこしてる時に死んじゃうシーンです。あれはなんか奇妙に印象に残っている。というか、そういうことを最初に言ったのは大学の友人なので、僕はそういう目でこの場面を見ているだけなのかもしれないですが、それはともかく…。

 それで『ゾンビランドサガ』にはいろいろ魅力があると思うのですが、それをあえて一言でいってしまえば、ごった煮感、雑居感なのかな、と思います。

 たとえば、迂闊にも魚拓をとってないのでここで引用することはできないんですが、境監督がtwitterで、「やっぱり人の感情って意外と正反対に思えるものでも同居しうるものだし、人って悲しいだけの時とか、楽しいだけの時ってない。今回の作品ではそういう発想を演出に反映させている」的なことを言っていて、ああそうかこれは監督がわかってやってたことなんだ、と感動した記憶があります。これって一体何のことかというと、たとえば12話でライブに臨む気概を失ってしまったさくらに「あなたがいたからこれまでやってこれたんです」的なことをいいつつ良さげなムードを醸してほかのメンバーが励まそうとしたくだりがあったんですね。まーこれマジでよくある展開だなというか流れだよなあというのはよくアニメを見る人なら(とりわけアイドルアニメには多いと思う)わかってくれると思うんですが、ところが『ゾンビランドサガ』ってそういう流れをばっと断ってしまうんですよね。「いや、そういうのいいから」みたいなことをさくらがいうわけです。要するに、ひとつのムードに収束していきそうな時に、つねにそこに流されていないキャラがいたり、別のムードが侵入してきていたりして、それが『ゾンビランドサガ』特有の泣いていいのか笑っていいのかわからんみたいな空気を作り出している。他の例を出せば愛ちゃんとかリリィの死因とかがこれですね。たぶんこれ、ふつうの視聴者は困惑するし、そういう場合人ってしばしば「いやこれは泣ける話なんだ」「いやこれは笑える話なんだ」って、一つの解釈コードというか、一つの解釈ムード? にコンテンツ理解を収束させようとする傾向があると思うんですが、この作品ってそういうのをバラしちゃうんですよ。そもそもゾンビ美少女というのがそういう存在で、生きてるか死んでるのかわからんし、可愛いけど不気味だし。それからたとえばよく死後ネタをメンバーがいうわけですね。「死ぬ気で頑張れ!」「いやもう死んでるから」みたいな。こういうナンセンスギャグにあらわれる収束できないいろんなコードやいろんなムードのごった煮、雑居というのが、このコンテンツでは様々なところに散りばめられている。僕はこれが『ゾンビランドサガ』の一番の魅力だと思っています。これさっきのエヴァ語りにも通じるんですが。

 とはいえ、やっぱりこの作品はいくつか問題がある。ひとつは脚本がたまに雑なこと。それからもう一つは作画が安定しない。とくにたまに手や指の描写がいやそれ手じゃないでしょ、みたいなのがあるなあと。でも深川さんのキャラ原はもうこれすっごい言われていることだと思いますが最高です。

 あとゆうぎリリィ尊いとかモブが素晴らしいとか純子のイケボ好きとかいろいろ言いたいことはあるんですが、これ以上語ると長くなりすぎるのでやめます…。『ゾンビランドサガ』はいいぞ。

ひもてはうす

 てさぐれとかああいうのが好きな人ならまず間違いなく好きだと思われる短時間ナンセンスギャグ3DCGアニメ枠。声優がキャラをロールプレイしつつほぼ素で喋るいつものパートもありました。

 とにかく小ネタが多かったし、唐突な展開もあったりして、その実験感が面白い作品ではあったのですが、後半は若干失速気味だったかな。

 なんか見たい見たいとも思わずなんとなく見てしまった不思議なアニメでした。EDでの他アニメ作品のキャラクターのコスプレをひもてはうすの面々がおこなっている映像を見ながら毎回作品名を当てては大はしゃぎするバカなオタクをやれたのは楽しかったです。

 

◯その他アニメ(こっちは最後まで見たアニメだけ載せます)

PSYCHO-PASS(一期のみ)

  いやなんかすごい面白かったし、天野明のキャラ原すこだなあと思ったのですが、なんか作画がなあ、と。

 虚淵玄って社会をどう描くんだろという興味を持って見たのですが、その当初の興味を忘れて完全に普通に見てました。でもなんていうか、設定とか話の運びとか、やっぱりユートピアにみせかけたディストピア、みたいな近未来社会を描くときのSFのいつもの感じだなという感じで、個人的にはそこまで面白みを感じなかったかもしれない。いやもっとこのコンテンツならではのユニークな視点や面白さがあるんだよ! という人がいたら教えていただけるともっと面白く見られるかも。

 やっぱりあんまり面白くなかった原因の一つには槙島聖護の設定の問題があって、この人めっちゃ社会の異分子でカリスマのあるかっこいい奴みたいに描かれてるんですが、語ってることは超古典的で、新奇でも特異でもなんでもないんですよね。ようするにこの社会って全部シビュラシステムが人の人生を決めてくれるしそれが最善だとみんな思ってるので個人の主体的な選択の意志が意味なくなっちゃったよねっていう社会で、槙島聖護はそれに対していややっぱ個人の主体的な意志でしょみたいな話をしているわけですが、僕としてはそういう問題なのかなぁとか思ってしまったところがあります(とはいえ本作を分析してるわけではないのでとくに代替案みたいなのは出せないんですが)。でもよくよく考えていくとたぶんいろいろ面白い論点が引き出せるはずだし、これはたんに僕がこの作品をちゃんと見れてないからなんだろうなとも思うので、評価は保留という感じでしょうか。

 あと1クール目のOPがかっこよすぎる。

サクラクエスト

 これは別の記事でも書きましたがあの記事はダメですね…というかここのほとんどの記事がジャンクパーツみたいなものばっかりなんですが…。

 そこでも書いた気がするのでもしかしたら繰り返しになるかもしれませんが、このアニメはPAが作っているお仕事シリーズ的な名前のシリーズものの三作品の一つで、ほかには『花咲くいろは』とか『SHIROBAKO』とかそうそうたるタイトルが並んでいるなか、一番地味でそしておそらくBD売上枚数的な意味でも地味なのが本作です。とはいえ、僕はAIRClannadKanonでもKanonが一番好きだったりする変な奴なので、見ていない『SHIROBAKO』はともかく、『花咲くいろは』と比べるとこっちのほうが好きだったりします。ただ『花咲くいろは』自体がものすごい好きな作品なので、これは「お前が弱かったんじゃない、俺が強すぎたんだ…」的なあれですね。でもたぶんこの意見は少数派で、ほとんどのひとは『花咲くいろは』のほうがいいというんじゃないかと思われます。

 じゃあなんで僕がそんなにこの作品に惹かれるのかというと、やはり各キャラクターの抱えている悩みがリアルだったというのがあるのと、その悩みが明確に解決されないところですね。個人的にはやっぱり問題がばっとはっきり提示されて、それがバシッと具体的に解決してはい終わり! みたいな作品が好きでないので、こう、うじうじ悩んだり時にその問題が日常の生活のなかで保留にされたりあいまいにされたりしながらも、様々なきっかけのなかでキャラクターが少しずつその問題に対する向き合い方を身につけていくみたいな、そういう話が好きなのですが、サクラクエストはまさしくそういう作品で、そういう意味で好みドンピシャでした(『花咲くいろは』がそうではないということではないです)。なんかそういう作品のほうがキャラクターに血が流れているというか、息づいているなあという気がするんだよなあ。

 それからやっぱりテーマの掘り下げがこの作品は丁寧だったなという気がします。テーマの掘り下げとかナイーヴなことを言いたくないのですが、まあそれはともかく、この作品は一つには地方をどう再生するかみたいなことをテーマにしており、そこで若干のファンタジーが入ったりはするものの、基本的にはその問題をすごくしっかり扱っているなあという気がしたわけです。僕はもともと社会性があまりないのでこういう問題ってあまり興味を持ったことがなかったのですが、この作品をみてちょっといろいろ考えさせられたなと。インバウンド事業とかこの作品で初めて知った言葉でした…。

 たぶん僕が今年見たアニメのなかでなにが一番良かったかと聞かれたら、悩みながらもやはりこの作品を選びます。青ブタの監督・脚本コンビだというのもありますが(逆)。

スカイ・クロラ

 かなり前にすでに見ていて、それ以来なんとなくまた見返したいなあと思いつつ見ないでいたんですが、先日あずまんの『セカイからもっと近くに』を読んだらスカイ・クロラセカイ系の文脈で論じた論があって、あやっぱり見ないとなと思って見返した次第です。前に見たときはなんのこっちゃ、まあいつもの押井守だったなという感じでもやっとして終わったのですが、そんときは哲学とかなんかあそこらへんの難しいやつをまったく勉強してなかったので、今そういう諸々を学んだ上で、そしてあずまんの議論を読んだ上で見返したら、うわーなんだこれすげえいいじゃん、と思ってしまったという感じで、やっぱり人って意味の枠組みのなかでものを見てるし、視聴者自身がちゃんと勉強しないと作り手がどれだけ頑張っていろいろな思いを込めて作っていても受け取れないし、そういう意味で本当にこの作品は難しい作品だったんだなあなどと改めて思うとともに、頑張ってきてよかったなぁとも思ったのでした。

 唯一問題点があるとすれば、あずまんの解釈が圧倒的に正しすぎて他の枠組みで見られないということでしょうか…これ答えだなって感じでうん…。

 ただ、あずまんが言及していないところで一点面白いところがあって、それは函南くんがティーチャーという彼らがやらされてる戦争のなかでラスボスみたいな位置にいる奴を倒しにいく場面で、彼がとあるセリフをいう箇所です。なぜかこのアニメときどきキャラの喋りが英語になる(コンバットシーンでは必ずなる)したぶん設定上は常に英語で喋ってると思うんですが、ともかく英語で喋る時には字幕が下に出るんですね。で、そういうとき、基本的にこのシーンに到るまでは、僕が聞いていた限りでは、そんなに(英語)音声と(日本語)字幕とで大きく翻訳的に表現が乖離することってなかったんですが、ところがこのシーンでの函南くんのセリフは音声と字幕とで全然言ってることが違うんです。具体的にどうずれているかというと、日本語字幕では「ティーチャーを撃墜する」なのが、音声では「I kill my father.」になっている。でそこに同一の意味を読み取っていくと、ようするにティーチャーは父なんだと、これは父殺しの物語であり、それに失敗しながらも反復し続ける物語なんだと、そういうことが明白に言われているということになるわけです。

 で、僕はデリダエクリチュールは父殺しであるみたいな話は読んでいないからよくわからないんですが、少なくとも物語論上の父殺しの意義っていのは明白です。ようするにそれは、ある不条理な状況を主人公たちに強いている、つまり彼らが物語のなかで解決すべき問題を構成している象徴的な一点を突破するということにほかならない。そしてセカイ系の感性っていうのは、こういう点を見出せないというか、それがあまりに強すぎるというか、いいかえれば社会だの個人だのの特定の問題を解決したって世界そのものは救済できないし、それが救済できなきゃもはやなんの意味もないような、そういうステージに我々の時代はきているんだみたいな、ざっくりいってそういう感性みたいなもののことなので、ああやっぱりこれそういう話なんだなと、そういうことを思いながら見た作品だったのでした。

 あとやっぱり西尾鉄也の服のシワがすこすぎるんだよなぁ。ナルトが原点なので…。

ストライク・ザ・ブラッド

 すごく面白かったんですけど僕的には語ることはあんまりないタイプのアニメでした()。見てスカッとして忘れちゃったやつですね…よくない(よくないのか?)。

Re:ゼロから始める異世界生活

 これは放映してた時にも見てたんですが途中からつらくなって見るのやめてました(豆腐メンタルなので)。でもやっぱこれフロイトとか考えるのにいいんじゃないかとか考え始め、頑張って見たという次第です(謎)。

 なんか見終わったときにはいろいろ語れることもあったのでしょうが、今となってはないですね。どうしても最近見終わったアニメのほうが色々語れる。ただ、なんかレムが都合のいい女すぎないですか????? というキレとラムのほうが可愛いのになんで世の中の人間はみんなレム可愛いとかいってるんですか????? というキレがあった気がします。

 あとやっぱりこの作者マゾですよね。やっぱヒロイン救いたい願望とマゾヒズムって関係あると思うんですよ。というか僕はここ数年そういうことしか考えてない節がある。

◯特撮(これも最後まで見たものだけ記載)

仮面ライダー鎧武

 やっぱ虚淵玄最高なんだよなぁと思った作品。これ僕的には虚淵作品の中でまどマギとかとおんなじくらい好きな作品です。そしてやはり虚淵玄の魅力っていうのはその独特のめんどくさい観念的な台詞回しの応酬にあるなということを再認識した作品でもあります。

 結構、話自体の構成も綺麗で、小さな共同体同士の小競り合いから始まり、大企業との戦いに移行し、最後に世界を滅ぼす力をめぐる争いに到るというステップを踏んで進行するという感じですんごい美しいんですが、そうしたステップを踏んでいく中でいろんなことを考えながら自分の生き様を見つけ貫こうとするキャラクターたちもまた魅力的でしょうがない。これはまたサクラクエスト式のキャラクター造形とは違った描き方だと思いますが。とくに僕が好きなのは仮面ライダー龍玄(高杉真宙が演じています)で、この人の闇落ちがめっちゃ綺麗なんですよね(謎の褒め言葉)。綺麗な闇落ちを見たい方、仮面ライダー鎧武は必見ですよ。

 ただ、結末自体はそんな好きでもないかもしれない。虚淵作品はやっぱりセカイ系的というか、圧倒的で根本的な不条理を物語上に仕掛けられたある一つの特異点を使うことで内破するとかそれに失敗してぐぬぬってなるみたいな話が多い(まどマギとかF/Zとか)のですが、今回もそういうやつで、禁断の果実がそれにあたる。ただ僕は最近そういう虚淵的崇高が昔ほど好きでなくなっているので、昔見ていたら結末に対する評価は全然違ったかもしれません。

 あと鎧武の格好については個人的には最初のオレンジアームズが一番好きでした。ゲネシスドライバーより戦極ドライバー派です。

◯映画(なんか色々見すぎたので覚えているやつだけ記載)

イェルマ(秋頃視聴)

 もともとガルシア・ロルカの戯曲が原作で、それを現代風に脚色して上演した劇を映像で撮ったものを映画として配給しているみたいなちょっと複雑すぎてよくわかんないやというコンテンツです。僕の狭いアンテナだと絶対こういうのは発見できないと思うんですが、友人のサブカルクソ女が教えてくれたので見に行きました。

 おもな感想としては二つあって、両方とも作品の内容に踏み込んだものでないのであれなんですが、まず一つは劇の喋りって映像で見てるとよくはいってこないなということです。生で演劇とか見に行ったことがないわけではないのでそのときの経験に照らして考えると、やっぱり生で見てるときにはたいがいセリフってふつうに聞き取れているんですが、劇場で見ると最初ちょっと早すぎてついていけなかった。少なくとも最初はすこし困惑した。いや字幕というのもあると思いますが、もしかすると日本語音声でも同じことが起こるかもしれない。

 それからもう一つは、演劇ってけっこう感情的に疲れるなというので、映画っていうてそこまで感情がぶわっと揺さぶられることってないと思うんですが、演劇の場合(内容のショッキングさもひとつの原因ではあるけど)やはり役者の演技がすんごいエモーショナルなので、心にキてしまうんですね。これ生だったらすごい疲れただろうなと思うと、なかなか新鮮な体験だなあ、と思いました

 でもこの作品は二度は見たくない…めちゃつらい…。

ウィッチ(夏頃視聴?)

 ホラー映画が地味に好きなのであーまたなんかみたいなと思って見たらとんでもなく良い作品でした。17世紀のアメリカが舞台になっているのですが、その世界観を演出するための舞台もろもろの作り込みがすごいし、エイリアンだのサメだのでうぎゃー! というよりかは、じわじわと嫌な気分になってくる系、みんながだんだん狂っていく系のホラーで、すごく独特でおもしろかったです。Jホラーともまた違うというか、これは割と新しい恐怖体験なんじゃないかなと(そうでもない?)。それからちょっと耽美系だったかな?

 わりと向こうの人たちが見るといろんな文脈から問題意識を喚起されるような作りになっていたらしく、僕は残念ながらほんとうにそういう教養がなくてわからなかったのですが、そういう意味でも面白いと感じる人はいるかもしれません。僕も一応魔女論とか一時期勉強してたんですけどね…。 

ディア・ハンター(冬頃視聴)

 実は『SSSS.グリッドマン』の記事で真面目とか不真面目とか書いてるあれが間接的にディア・ハンター論になっているのですが、それはなぜかというと、この作品ではデニーロ演じる主人公にとって鹿狩りの意味がベトナム戦争の経験を通して変わってしまうからです。彼はベトナム戦争で敵国の兵士の捕虜になり、彼らのロシアンルーレット遊びの犠牲者にされるのですが、ここではまさしく真面目と不真面目が重ねられている。彼はその前までは鹿狩り(鹿の命を奪う行為だが、同時に遊びでもある)をたんなる遊びとして楽しむことができていたのに、この経験のあとではこれができなくなっている(重ね合わされている)。そしてそれは彼がベトナム戦争で心の傷を負ったがために、故郷の街に帰ってきてもなぜか帰ってきた感じがしないという、その感じと結びついているように思えます。

 見る前はわりと話が複雑なのかと上映時間から察して予測していたのですが、どちらかというと筋自体はシンプルで、そのかわりものすごく場面場面の描写が丁寧で、これは映画館で見ないと一生見ない奴だな…と思いながら見ました。いややっぱ刺激とか速度がないとものが見られないというのは悲しいことですね。でもそういう意味では今回4K上映というがっぷり四つに組んで見る機会が与えられてほんとうによかった。あと有名な劇中のBGMが美しいですね。

プラダを着た悪魔(冬頃視聴)

 これは記事がすでにあるので省略します。

 

 小説編と漫画編とドラマ編とかやろうとしたんですがもう無理ってなったのでやめます。これつらすぎる。力尽きた。

 

 

 

『SSSS.グリッドマン』最終話を見て意味不明だった視聴者に捧げるぼくがかんがえたさいきょうの『SSSS.グリッドマン』について(『SSSS.グリッドマン』最終話周辺考察記事)

 

『SSSS.グリッドマン』のアカネと六花があまりに尊かったので考察記事を書きました。最終話が意味不明だった方はとりあえず僕の話を聞いてくれ。「はじめに」は面倒なら飛ばしても大丈夫です。

 

  • はじめに
  • 1,そもそもアカネはどのような問題を抱えていたのか?−−「退屈」な世界
  • 2,なぜアカネは退屈しているのか?−−「人間」と「神様」のはざまで
  • 3,アカネはいかにして救われたのか?−−「友達」の定義

はじめに

 先日(2018年12月某日)、『SSSS.グリッドマン』の最終話が放映された。本作は円谷プロが二十年近く前に制作した特撮作品『電光超人グリッドマン』の設定を一部引き継いだアニメ作品で、主人公・響裕太とグリッドマンが合体し、街を脅かす怪獣と戦う姿を描いた変身ヒーローものである…といいたいところなのだが、本作にはこのように説明したのでは語りつくせない特性がある。というのも、原作にしろ『SSSS.グリッドマン』にしろ、これらの作品はその主題のひとつに、ヴィラン側の少年少女をどう救うか、というものがあるからだ。まず前提から説明しておくと、両作は大雑把にいって三つの敵と戦っている。まず、①実際に電子空間などで暴れる怪獣。そしてあとの二つは、②その怪獣を作り出す少年少女と、③それをそそのかしている黒幕である。『SSSS.グリッドマン』においては新条アカネというキャラクターがこの②にあたる敵なわけだが、この②に該当する敵、すなわち彼女だけは、敵であると同時に救うべき対象としても描かれることになる。それはなぜかといえば、第一にそれがグリッドマンというコンテンツのコンセプトだからだし、第二にグリッドマン側の陣営、とりわけそのなかでも宝多六花にとってはアカネは同級生であり友人だからで、第三に、怪獣を作り出しているのは彼女の心の闇であり、そしてそれによって彼女もまた苦しめられている(そしてそれをグリッドマンたちは放っておけない)からである。したがって物語はいかにしてアカネが救われるのかということをめぐって展開することになり、その点で『SSSS.グリッドマン』は裕太やグリッドマンの活躍を単純に描くのみならず、アカネのキャラクター描写にもそれなりの比重を置いている。これが本作が単純な変身ヒーローものといいがたい理由である。

 とはいえ、最初からそういうものかな、と思ってしまえば、ある程度本作のスタンスははっきりしており、その点で何をやろうとしているのかについてはかなりわかりやすい。ようするに、本作を(あくまでこれは一つの見方であるが)「新条アカネが怪獣とグリッドマンの戦いを通して救われる物語」としてみる視点を持っておけば、本作のどこをみればいいのかがわかる。つまり、アカネがどんなことで悩んでおり、それがどのような問題を引き起こし、それに対してグリッドマンたちがどのような答えを提示するのか、そういうことを見ていけばいいわけだ。そしてそのような視点で見ればいいんじゃないか、というようなコンセンサスは、少なくともTwitterにおいては、大量RTされていたpostの内容からも、視聴者のあいだである程度共有されていたのではないかというふうに思う。

 ところが、にもかかわらず、実際に最終話が放映されたあとのTwitterでの反応を見てみると、そこには絶賛の声などもある一方、少なからず「意味不明」という形容をしたものも見られた。もちろんそこから意味不明だからダメ、とバッサリ切り捨てたもの、様々な考察記事を読んでなんとなく意味を解釈していったものなど、立場はいろいろあったが、少なくとも彼らの見解はある一点において、つまり最終話を見て「意味不明だ」と思ったという点において共通するのである。

 では僕はどうだったかといえば、僕も実は最初見てよく意味がわからなかった。もちろん12話でやりたいことをやろうとかなり内容を圧縮したせいもあったのだろうし、はたまた僕がちょっと前まで6話くらいでいったん見るのをやめていたのもあったのかもしれないが、やはり(それが意図的であれそうでないのであれ)説明不足感は否めず、見終わった後でも、ぼんやりとやりたいことはわかったものの、「で、結局これアカネはどうなったんだろう…」と困惑したことは否めない。とにかくまず展開そのものが複雑だったし、興味深いが消化しきれない論点もものすごくたくさん示されたし、伏線が回収されるにつれて設定をどう整合的に考えたものかもわからなくなったし、アカネがどういう悩みを持っていたのかといったことについては具体的な過去エピソードやそれについての語りといった明示的なやりかたでは描写されず、映像や断片的なセリフのはしばしから推測するしかないようなものだった。とにかくいろんな理由があって、本作は「わかりにくい」作品になっている。

 しかしながら、最終話を見終わったあと、dアニメストアで放映された過去のエピソードなどを見返して半日ほど過ごしているうち、やがて僕のなかでなんとなくアカネというキャラクターについてのイメージができてきた。そしてそれにともなって、これが『SSSS.グリッドマン』が描いていたことなんじゃないかという、僕なりのぼんやりとした考えもできてきた。前置きが長くなったが、以下のくだりでは、そのことについて少し書いてみようと思う。

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キャラクターとカリスマ

一時期、物語論の研究で、ひたすら脚本のハウツー本とか小説創作論とかシナリオハウツー本とかを図書館で渉猟していたことがあった。そんな時期に見つけた文献の一つに感情で書くなんたらとかいうものがあって、これはざっくりいえば、三幕構成とか起承転結とか構造面の話ばっかしてないで、その話を実際に楽しむ受け手の気持ちを考えることから話を作っていこうぜ、みたいなコンセプトの本である(と記憶している)。

そのなかで、すごく印象に残っているものがある。いわく、その本によれば、魅力的なキャラクター(という表現だったかは定かでないが)には三つのタイプがある。一つ目は、なさけないタイプである。こういうタイプのキャラクターを見ると、受け手は(描き方を間違えるとイラつくだけだが、大半は)応援したくなってしまう。二つ目は、等身大のタイプである。こういうタイプのキャラクターは受け手にとって自分が共感できることが多いため、魅力的である。三つ目は、超人的な力などをもったヒーローのタイプである。こういうタイプのキャラクターはその力やカリスマで受け手の憧れの対象となるから魅力的である。云々。

なんというか、この分類は一見、意味がないようにも思える。それはあたかもあの常套句、つまり「世の中には二種類の人がいる。○○な人と、☆☆な人である」というあれと似ている。一見意味深長だが、考えてみると馬鹿げている。いやそれはそう分類したらなんだってそうだろうけど、だからなんなのという話になってしまう。

とはいえ、僕としてはこれを読んだとき、ここには結構理論的に興味深いものがあるのではないかと、そう直観した。理由はわからない。でもなんとなくこの考えは面白そうだな、と思ったのである。僕の経験上、物事を考える上で心が動かされたアイデアというのは、それがそのときにはたとえどんなにくだらなく思えるものであったとしても、後々になって活きてくるものである。そんなわけで、僕はこの直観と経験則に従い、しばらくこの考えをその素朴な形のままで、頭の片隅に留めておいた。そして留めておいたまま、数年が経過した。

そんな折、先日、千葉さんのツイートでフロイトのカリスマ論についての言及があり、ふとその話とこの話がつながるということがあった。フロイトのカリスマ論というのは管見の限りまとまった論考としてはないが、「ナルシシズム入門」(「ナルシシズムの導入のために」)の一部にそのような記述がある。それは子供、動物、フィクションにおける犯罪者などのカリスマという限定的な対象について述べているものに過ぎないが、おそらく多少の限定は無視できるような射程の論理である。

フロイトによれば、人は誰しも幼児のときに万能感やそれに基づいた幻想(不死の幻想や、自分の思いや考えが現実に影響を及ぼす)を持っているが、それは成長の過程で(物理的な脅威や社会的な脅威によって)「去勢」を被る。しかし、それは完全に失われるわけではなく、かわりに別の万能に思われる存在、たとえば父に委託され、以後人はこの父のお眼鏡にかなう人間になることを通じて、原初の万能感を回復しようとする。このうち、前者の万能感を一次的ナルシシズム、後者の万能感を二次的ナルシシズムないしは自我理想という。そしてフロイトによれば、カリスマのある魅力的な存在というのは、このような意味でのナルシシズムを残しているようにみえる存在のことなのである。「子供の魅力の多くは、そのナルシシズム、自己満足性、近づきがたさによるものである。また、われわれのことなど眼中にないようにみえる動物たち、たとえば猫や大型の禽獣などの魅力もこれと同じ根拠で生まれるのである。あるいは、詩的な作品に描かれた極悪な犯罪者や諧謔家が読者の興味をそそるのは、こうした人物には、自分の自我を貶めるようなすべてのものを遠ざけておくナルシシズム的な一貫性があるためである。あたかもこうした人物は、われわれがすでに捨て去ってしまった幸福な心的状態を維持し、リビドーが傷つけられない状態を保持していることを、われわれは羨むかのようである」(フロイトジークムント「ナルシシズム入門」『エロス論集』中山元編訳、筑摩書房、pp.255-256)。

これを読み直して僕がすぐに思い出したのは、とはいえ、くだんのハウツー本ではなく、『プラダを着た悪魔』である。僕は別のエッセイで、このなかのミランダという女性が主人公に対して父として振舞っていたと述べたが、このミランダにはあきらかにこのような意味でのカリスマがある(という描かれ方をしている)。たとえば、彼女は他者の視線を気にせず(他者の視線を気にしないということは、精神分析的には象徴界が機能していないこと、したがって去勢されていないことを意味する)傲岸不遜に振る舞い、女王として君臨しているが、周りの人々はその振る舞いにもかかわらず、彼女を畏れると同時にファッション界を牽引する第一人者として崇敬してもいる。

しかし、本論の文脈で興味深いのは、実はこのミランダが、一度だけ父のレベルから母-子のレベルに降りてきたことがある、ということである。この母-子のレベルとはどういうものかというと、それはこの文脈では、お互いがお互いに対して共感や同情の対象になりうる関係である(理論的厳密さを期するならばこのようにいうにはもう少し理論的な手続きが必要なのだが、ここではそれは省く)。もともと、僕の精神分析理解では父と母、ラカン的にいえば象徴界想像界は分割不可能なものであり、さらにいえば鏡像的・想像的な関係(母-子)においては相手は同情の対象になりうる(人は完全に非対称な存在、つまり絶対的な父に対しては哀れみや同情の念を抱きづらいものではないだろうか)。したがってこのようなレベルにミランダが降りてきたというのは、彼女が主人公の同情・共感の対象になったということを意味する。

それは、彼女と主人公とその仕事仲間たちが、パリコレのためにフランスに出張したときのことである。夜のホテルで仕事の打ち合わせをしていたとき、ミランダは話の流れで主人公に私的な打ち明け話をする(これまでのミランダの主人公に対する振る舞いを見てきた受け手は、この時点で軽い感動を覚える。というか僕が覚えた)。実はそのようなことは前の場面ですでにほのめかされていたのだが、ミランダは夫とのあいだに持ち上がった離婚話や、それがいざ現実のものとなったとき、世間の口さがない人々の口の端にのぼることで、娘たちが傷つくのではないかということに悩んでいた。彼女は珍しく弱気になっていたおり、そのことを主人公に打ち明けてしまい、主人公はとたんにミランダに対して同情的になってしまう。実はこのミランダの弱みを見てしまったことが主人公を終盤の展開においてある行動に駆り立てるのだが、それはともかくとして、ここで興味深いのは、この父としてのミランダと母としてのミランダが、それぞれの側面において、主人公を魅了してしまうということである。

すでに何を言いたいのかはお分かりだと思うが、僕がここでいいたいのは、これはキャラクターに感情移入する受け手の普遍的な心理なのではないかということであり、それはさきほどのハウツー本に書かれていたことであり、さらにそれはフロイトの理論の文脈に引きつけて考えられるのではないかということである。

この文脈でさらに考えてみたいのは、アニメのキャラクターの振る舞いである。僕は前から幼児的万能感の幻想のうち、思ったことが現実になるというものについては、異能力のことを考えていたのだが、それとは別に、キャラクターの振る舞いについては、ナルシシズム論とカリスマ論の点から考えつつ、それを現今のオタクカルチャーがもつ感情移入のシステムの特性として考えられるのではないかという気がする。この振る舞いというのは、他者の視線の意識が機能していないようにみえる振る舞いのことで、これは僕は以前からしばしば感じていたことだが、日本のアニメや漫画、ラノベのなかでも、特定のコンテンツにおける特定のキャラクター間のコミュニケーションにおいては、相手の気持ちを読むことで生じる逡巡や、相手の脅威性を推し量ることで生じる恐怖などが描かれない場合があり、それがリアリティの点からすれば明らかに不自然に思える場合でも、作劇が成立してしまっているようなことがある気がする。これはいま具体例を挙げることができないのだが、たとえばFateシリーズのギルガメッシュのようなキャラクターの振る舞いがそうなのかもしれない。いずれにせよ、そういうものを実際に参照することで、このあたりのことをもっと掘り下げていくと、面白い発見があるだろう。

『プラダを着た悪魔』とハラスメント

最近、ふと思い立って『プラダを着た悪魔』のDVDをレンタルショップで借りたのだが、見るやいなや、その内容にちょっとびっくりさせられてしまった。ネタバレを極力避けてその内容というのを掻い摘んで説明すると、まず本作はメリル・ストリープ演じるミランダという鬼編集長が取り仕切る超一流のファッション雑誌の編集部に、アン・ハサウェイ演じるアンドレアが彼女付きのアシスタントとして着任するところから始まる。このアンドレアはキャリアを積むためにこの求人に応募をしたのだが、もともとは別の雑誌で働きたかった女性で、ファッションには一切興味がなかった。そのようなわけで、彼女は最初、職場で矢継ぎ早に飛び交う業界用語や固有名詞についていけず指示通りに動けなかったり、ダサい服装を貶されたり、編集長に冷たくあたられたりと、つらい思いをすることになる。しかし、当初キャリアのために就いた一時的な職場に過ぎないと割り切ってファッションから距離を置いていた彼女は、次第にその業界の人たちがファッションにかける情熱を知ることで感化され、彼女なりにそこでの仕事に本腰を入れていくようになる。するともともと有能だった彼女は、徐々に職場で認められていくようになるのだが、もちろんそこで大団円と相成るわけはなく、そうすると今度は私生活での人間関係に亀裂が走るようになる。と、このあともいろいろな話は続くのだが、これ以上話していくとあらすじを全て語ってしまいかねないので、ひとまずこのあたりで止めておこう。それで冒頭の話に戻ると、筆者がこの話を見て驚いたのは、このミランダという人物(鬼編集長)が映画のなかで魅力的な人物として扱われていたからである。

昨今、全世界的にリベラルの価値観が浸透しており、もちろんそのバックラッシュも起こってはいるわけだが、それはともかく日本でも徐々に(その良し悪しはともかく)LGBTがどうという話が語られるようになっていたり、有名人や政治家、スポーツ業界の人々のハラスメントが告発され、大きくとりあげられるようになった。いまやこの世の中はなんらかの非対称な立場に立脚して人が抑圧的に振舞うことを許さない。筆者がこの映画でのミランダの扱いが驚くべきものだといったのはこういう全世界的な風潮を踏まえてのことで、この女性はその魅力的な人物という扱いにもかかわらず、また同時に「非対称な立場に立脚して」「抑圧的に振る舞う」ハラスメント体質な人物の典型としても描かれていたのである。僕はこれを比較的最近の映画だと記憶していたのだが、wikipediaで調べてみると、やはり公開は2006年とのこと。12年前といえば、19世紀末ごろから始まる映画の歴史のなかでいえばとかそういうことを抜きにしてもそんなに昔のこととはいいがたい。しかしその「比較的最近」から12年でこうも感覚が変わってしまったのである。そのことに改めて気づかされたとき、僕はwikipediaを開いたスマホを片手に持ったまま、しばし隔世の感に打たれてしまった。

 


ところで、この映画を見ていて、もうひとつ気づいたことがある。それはハラスメントというものが一体何を意味しているかということである。

まず、この映画の物語自体は、それほど注意をして見ていなくとも、なんとなく社会で働いていくことの大変さ、たとえばそこで自分らしく生きていくことの大変さとか、仕事と私生活のバランスをとることの大変さとか、そういうものを描いていることがわかる。それは要するに人が現代において社会化するということにまつわる一般的な問題でもあると思うが、そのように社会で生きていくというのは、たとえば精神分析的にいえば父の敷く法に従って生きていくことでもあるわけで、この映画の場合、その父を象徴するような存在というのは、もちろんこのミランダである(もちろんここでの父という言葉は実際の性別とは関係ない)。アンドレアは父たるミランダの抑圧的なやり方によって不本意な振る舞いを強いられるが、それに耐えながらともに仕事をしていくなかで彼女の素晴らしさを知り、成長もする。しかしまたそのことによって同時に、やはり仕事やミランダのやり方が自分には合わないということにも気づかされる。したがって、アンドレアは二つのこと、つまりミランダへの尊敬と規範、ミランダへの反感と規範に沿わない自分という二つのあいだで葛藤することになる。

これはまた昨今それが認められていないところの、古典的な成熟の図式でもあるといえるだろう。父の抑圧に対する葛藤よって、はじめて自分を知る(と錯覚する)ことができ、それによってなすべき振る舞いがわかる。そしてそのときには人はこの父殺しなり離反なりを通して、別の仕方で、別の父のもとで社会化することができる。もちろんそれを成し得ないときには(伊藤整か誰かが定義していたような意味での)悲劇が待っていることもあるし、この葛藤がない、つまり規範と馴染めてしまうなら、人はわざわざ物語られるようなこともない人生を生きていけるわけであるが。

ともあれ、そういういくつかのバリエーションは措くとしても、人が社会で生きていく上で生じるそういう葛藤というのは、本作ではそういう古典的な図式によって表現されているわけである。しかし、これはもちろん、非対称的な関係が、そしてそこで抑圧的に振る舞うものの権威が社会で認められている限りにおいて成り立つ図式だから、現代においては人はこのようなアンビヴァレンツな葛藤によって自らを「発見」することはできず、どちらかといえばアンビギュアス(あいまい)な状態に置かれることになるだろう。するといつまでも身の置き所が定まらず、自分はこれでいいのだろうかとさまよってしまうことになる。したがってハラスメントなき自由な社会とは、自分がなりたいような自分になれる(ということになっている)し、そのような自己像を示せといってくる社会でありながら、その実自分が何になりたいのかよくわからなくなりやすい社会でもあるといえる。こういうことはべつだん新しい認識でもなんでもないのだが、僕は『プラダを着た悪魔』の物語構造をぼんやりととらえるなかで、はじめてハラスメントと呼ばれているもののこうした現代的な意味に気づいたのである。

とはいえ、ここで注意すべきなのは、世の中からハラスメントをどんどこ駆逐していったからといって、社会からそういう非対称な構造というのがなくなるわけではないということである。だから結局ここで抑圧されたものはべつのところで回帰してくるわけで、それはおそらく、一方では自分らしく生きよ、とうたう社会でありながら、その自分らしさが結局はその社会の承認する限りにおいての自分らしさであるというようなダブルバインドにおいて人が陥るような葛藤を生み出すだろう。結局、非対称な構造は変わらないまま、その上から発せられる命令の内実だけが変わり、そしてそのことによって以前の葛藤は形を変えてしつこく残り続けているのである。

なんだかこうしてみると僕が今の社会のあり方を批判することでハラスメントを擁護しているようだが、べつにそういうことが言いたいわけではない。そもそも僕はハラスメント体質の人間が心底嫌いである。ただそういう個人的な感情の一方で、やはりハラスメント(と呼ばれがちなもの)の効用というものもそれなりにあるということは認めるしかないわけで、ただハラスメントは悪だと鸚鵡返しに繰り返し、その意味を知ろうとしないうちは、少なくともこの社会の実態はそのようにハラスメントを糾弾することでその人が作ろうとしている社会とはずれたものであり続けるだろう、と思うのである。

 


最後に。べつに『プラダを着た悪魔』のことが語りたかったわけではなく、そこから気づいたことを語りたかったのだけど、それだけで終わってしまうのもなんなので。『プラダを着た悪魔』、すごく面白かったです。あとこれは今年のどっかで『オーシャンズ8』を見て思ったことでもあるけど、アン・ハサウェイはキュートにも見えるし美しくも見える不思議な魅力を持った人だなぁと、あらためて思ったのでした。

好きでいるための努力

大昔に『化物語』を読んだとき、強烈に印象に残ったことがある。それは八九寺真宵の「好きなものを好きでいるために努力することは不純なことではなく大事なことなんだ」という旨のセリフだ。

一方には、ほんとうに好きならば、それを好きでいるために努力する必要なんてない、したがって好きであろうとし続けることは不純だ、といったたぐいの考えがありうる。そして真宵のこの発言は、そういう立場に対して、ほんとうにそうなのだろうかと、問いかけ直すようなものである。

現在、僕の手元に『化物語』はなく、確認が取れないため、もちろんこういうことを真宵が言ったかどうか、あるいはこういう文脈の話だったのかは定かでなく、僕の記憶違いの可能性も大いにありうる。ただ、僕にとって重要なのは、その発言の有無や真偽よりも、その内容だ。好きなものを好きでいるということはどういうことなのか。そのために努力は必要なのか。この問いそのものが妥当なものなのかはともかく、それを通じて考えられようとしているものは、とても深い問題なのではないかというのが、僕なりの直観だ。

ところで、こういうことをことさらに今とりあげるのは、僕が最近、まさに好きなものを好きでい続けるために努力する必要を感じたことがあったからだ。その好きなものとはアニメである。

実は最近、アニメを見ることに飽きつつあった。理由はよくわからない。ただ敢えてそれを挙げるとすれば、いくつかあげられないこともない。たとえば、アニメにお定まりの文法みたいなものに食傷しているというのがひとつ、それからこれは数年前から薄々感じていたことではあるが、毎クール毎クール数十本単位でコンテンツがひたすら濫造され、それらのほとんどがクールが過ぎ去るとともに潮が引くように忘れ去られるという状況の過剰なスピード感なりバカバカしさなりについていけなくなってきたというのがひとつ(もっとも、これは作り手が考えなしに作りまくってるとか、消費者が馬鹿みたいに消費しまくってるからこうなってるというよりは、市場そのものの構造的な問題なのだろう)、最後にこれは非常につまらない理由ではあるが、僕もそろそろ歳だしなと感じているというのがひとつ。あと多少これもまた馬鹿げた話だが、僕の集中力の低下もあるいは要因の一つかもしれない。

ともかく、それで最近はアメリカ文学(チャンドラー、アーヴィング、キング)やアクション映画の方に関心が行っているという次第で、アニメはこれきりとうぶん見なくてもいいかもしれないと思いかけていた。そして後に述べるような理由でモチベーションは再燃したし、今期(2018年秋クール)はさいわい『ゾンビランドサガ』のおかげで楽しくオタ活できているのだが、それでも来期はどうなっているかわからない。

そしてこれはどうやら僕だけに起こっている現象でもないらしい。たとえば地元でよくあう友人などは、かつては中学生時代にそのクール毎に放映されているアニメをめぐってともに雑談に花を咲かせたものだが、いまやそのモチベーションはほとんどないらしい。それにTwitterをぐるりと見回してみても、社会人になったのを機にとか、なんとなくとか、その他様々な理由で、アニメを見なくなっていく人は多いように見受けられる。もちろん、それらを共通の現象として一括りにできるかどうかは大いに疑問だが、まぁそういった人は一定数いるわけだ。

もちろん、僕もそういった人たちの大多数のように、なんとなくでアニメから撤退、アニオタ(そもそも僕はアニオタだったのかわからないが)は廃業! というふうにしても良いのかもしれない。

でも、十代の前半から後半にかけてあれだけ熱中し、いろんな問題を抱えつつも付き合ってきた趣味なりライフスタイルなりを、今になって、こんなかたちでやめてしまうというのも、なんだか寂しい話である(僕はこの手の詮無い感傷に固執して道を踏み外すことが少なくないが、それはそれとして)。それで僕は最近、アニメを好きでい続けるために、努力をすることにした。

たとえば、最新話を1話1話見終わるたびに、自分なりに面白かったところ、見応えがあったところ、そしてその箇所から感じたことなどをできるかぎり具体的に、Twitter言語化したり、人の感想を検索して読むようにした。もともと僕はなにごとにつけ言語化や感想の共有というものを軽蔑していた時期があったので、そういうことに慣れ親しんでこなかったというようなこともあり、そういう作業は苦手だったのだが、それを繰り返していくうち、だんだんとそのコンテンツに漠然と感じていた魅力が焦点を結ぶようになり、それが視聴継続のモチベーションになった。

また、別の例を挙げれば、こういうところがもしかしたら僕がアニオタらしからぬ? ところなのかもしれないが、僕は今までアニメ雑誌やwebの記事なんかをろくすっぽ読んだことがなかった。それを最近になって、別の記事で書いた雑誌への興味も手伝って、多少チェックするようになった。またweb記事の情報を拾うため、作品毎の宣伝用Twitter公式アカウントのツイートをしっかり追うようにした。

すると、そこでやはり自分が今まで読まなかったようなものを読む機会が増える。たとえば声優へのインタビュー記事がそれである。もともと、僕はスタッフはともかく、キャスト(声優)がそのコンテンツについてどう考えているかということにはほとんど興味がなかったのだが、それを読んでいるうちにだんだんと面白いと感じるようになった。作り手として作品に携わっている人たちの作品解釈、キャラクター解釈を読むことを通して、作品の魅力を新たに意識したりそれを語る新たな語彙を得られるということはもちろんだが、かれらがどのように試行錯誤し、考えながら演技に臨んでいるかということを知ると、そこで言及されていた具体的な場面を見直すために、一度見たエピソードを復習する機会にもなった。

もちろん、こうしたことは、ふつうのアニオタ(アニメ好き?)は当たり前のようにやっていることなのかもしれない。しかし、僕にとってこうしたことはひどく新鮮な体験だったので、こんなふうに一工夫すれば、こんなにもコンテンツは楽しめるようになるのか、とびっくりした。それとともに、自分が今までいかにテキトーにコンテンツと関わってきたのかに気づき、それもまた大きな驚きとなった。

では、そのテキトーさとはなんだったのか。それはひとつには、細部への(アイロニカルなという意味ではなく、素直な)こだわりや、そういうこだわりを持っている自分の感覚への無関心だろう。また他方では、それは、欲望の文脈をしっかり多様化していく作業の欠如だったのだろう。人は何かを好きになるとき、その好きを意識し感覚していなければならないし、その好きは様々な文脈を絡めることで多様化していくことができる(そしてそういう意味ではアニメ以外のほかのジャンルにも色々と手を出しがちな僕の傾向は良いものなのかもしれない)。すごく大雑把な話をすれば、僕が今まで怠ってきたのは、その二つだったのではないかと思われる。

隈、陰キャ、三白眼、ゾンビ

とくに突っ込んだ話はしません。きわめて私的な話になっています。

 

 

誰にでも変わった趣味嗜好のひとつやふたつはあるものだ。もちろん、僕にも例外なくそんな趣味嗜好が存在する。

それに最初に気づいたのは、大学生の頃だったと思う。僕はある日、『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』の不破氷菓や、『リトルウィッチアカデミア』のスーシィに異常に惹かれている自分に気がついた。そしてその共通点を探っていった結果、そこから「隈がある」「陰キャ」「偏執的で変人」といった要素を見出すに至った。

そうして振り返ってみると、またべつに二人ばかり似たようなキャラクターに心当たりがあることに気がつく。それは『とある科学の超電磁砲』の木山春生であり、『じょしらく』の暗落亭苦来である。後者は不破氷菓とならべるとキャストが後藤沙緒里という別の線も見いだせるのだが(なお僕は後藤沙緒里の声が大好きであり、またこれはきわめて個人的な見解であるため必ずしも多くの同意を得られるとは思わないが、彼女については『咲』のすこやんが至高のハマり役だと考えている)、いずれも、僕が高校生の頃に萌えていたキャラクターであった。

断っておくが、僕はもちろんマイナー性癖持ってるオレ、みたいなサブカルクソ野郎的自意識を持ち合わせてはいないし、ましてやそのような魂胆からことさらにこういったキャラクターたちを称揚しているというわけではない。たんに、このキャラ可愛いな、あのキャラ素敵だな、という経験的なデータが積み重なった結果、ある日こうした嗜好を帰納的に理解するに至ったというだけの話である。

それにしても、なぜ僕は斯様な奇妙な嗜好をもつにいたったのか。それはおそらく、小中時代のデスノートの読みすぎに起因している。

僕が小学生だった当時、巷ではデスノートが爆発的に流行っており、周りにそのタイトルを知らないクラスメイトはいなかったといっていい。僕も多少遅れてではあるが、なんかのきっかけでこのコンテンツに接する運びとなり、たちまち小畑健のおそろしく上手い絵や、大場つぐみの独特の長広舌とケレン味にノックアウトされてしまうこととなった(大場つぐみのしょーもないミソジニーにはここでは目をつぶっておく)。

そして、とりわけこのデスノートのなかで僕が好きだったキャラクターは、(これは当時デスノートに熱中したほとんどの人がそうだったと思うが)夜神月ではなくLであり、ニアであり、メロだった。なにしろこの三人は一癖も二癖もあり、各々に見せ場があり、最高にかっこいい。その時期、僕は何かに憑かれたように隈がある三白眼のキャラクターの顔を自由帳やコピー用紙に描きまくっていたが、これは明らかにこのお三方のせいである(ちなみに、現在の僕には三白眼萌えもある。具体的には『僕のヒーローアカデミア』の耳郎ちゃんは梅雨ちゃんと並んでヒロアカ屈指のヒロインだと思うし、『だがしかし』のキャラデザは全般に刺さるし

、神のみの小阪ちひろのアニメ版キャラデザの瞳の部分が新しいクールで大きくなったときには、それは深い悲しみを覚えた)。

そう、どうやら僕の隈萌え・陰キャ萌え・そしてここに足してもいいならば三白眼萌えのルーツは、ここにあるらしい。これ以外にこれといった心当たりがないのである。

しかしここで疑問なのは、かりにこのような仮説が正しいとして、ではなぜ男キャラに対して抱いていた美学的な感情が、後年によりにもよって美少女萌えに転化しているのか、ということである。僕はお三方を魅力的だとは思っても、彼らにときめいたことはない。ではなぜそれが性別の壁を超え、萌えに結びついているのか。これは非常に大きな謎である。

そして最近、この嗜好は、ゾンビ美少女萌えにまで至ってしまった。『ゾンビランドサガ』もそうだが、『さんかれあ』が気になってしょうがないし、前は人間に戻って欲しいと考えていた気がする『東京レイヴンズ』の夏目も、これは実質ゾンビなのでゾンビのままの方がいいかも…と思い始めてしまっている。そしてこれは単体で唐突に生まれてしまった嗜好ではなく、陰キャ萌えや隈萌えと結びついていると思うのだ。これは論理的な話ではなく、事実として、そのような属性を持つキャラクターたちに抱いているこのえもいわれぬ感情に近いものを、ゾンビ美少女たちに対しても感じるのである。

とはいえ、僕はロメロを見たこともないただの俄ホラー映画好きだし、今まで別にゾンビをどうと思ったこともなかったのだから、これについてはデスノートのような特定のルーツを仮説として提示できるわけでもなく、なぜ自分がこうなったのかはよくわからない。今一部で流行っている『ゾンビランドサガ』の放映より前にはもうこうなっていたから、これがきっかけというわけでもないらしい。

人間、自分のことほど案外よくわかっていないものだが、そうした自身にまつわる様々な謎のなかでは、最近はもっぱらこうした嗜好に関心を抱いている。これはそんな関心に基づき自分の嗜好について考えるための、備忘録がわりの文章である。

雑誌について

僕ぐらいの世代の人間には珍しくないのだろうが、僕は雑誌に興味を持ったことがなかった。ジャンプ漫画は単行本派で、本誌をコンビニで立ち読みしたり買って読んだりすることもない。サブカルチャー・思想・文学・読書文化など、僕が好きそうな分野の専門誌にしても、自分が興味ある話題が特集されているものでさえ、買うのをためらい、実際見送ることが少なくない。

なぜこんなにも雑誌と縁遠いのか。まず、自分が興味ないことが書いてある紙面の分までお金を払いたくない。そして一冊ができるだけそれの扱う話題においてまとまった体裁をとっていた方が良い。連載は断片的で嫌なので、完成したあとで、単行本になったものを買って一気に読みたい。そしてなによりもインターネットやテレビなどのメディアのほうが馴染みがあり、金がかからず、速くて便利である。

と、このように、理由をあらためて挙げてみると言えることは色々あるわけなのだが、おそらくこうした理由はおしなべて僕のある特定の気質によるところが大きいのではないかと思う。その気質とは、放っておくと自分の文脈だけで生きがちな気質、つまり身もふたもない言い方をすれば引きこもり気質である。

たとえば、ふつう会話というのは、会話の相手との過ごす時間を楽しむものであって、もちろんその内容もある程度は大切だが、それが主だった目的ではない。したがって話題というのはそれに対して無関心でもいけないが、かといって過剰に関心を抱いたり、そこからあらぬ方向へ深掘りを始め暴走するようなこともあまり良くないような、そういう性質のものである。つまり会話において重要なのはどんな話題についてもそこそこの関心を持っておくことにほかならない。

ところが、自分の文脈で生きがちな人間というのは、自分が考えたいことや好きなことには強い関心を抱くが、そうでないことには淡白であり、こうした話し方を好まない。それを雑談型に対して、議論型の人間といってもいいだろう。この手の輩は雑談をするよりも議論をしたり、あるいは一人でものを考えたりする方が向いている。まぁこういうふうな生き方を多くの人が構造的に強いられているということは(たとえばポスト・モダンとかタコツボ化とかインターネットの普及だとかいうキーワードを使うことで)もちろん言えるのだろうし、それは実際妥当なのだろうが、そういう構造的な規定であれ僕の生来の気質であれ、いずれにせよ事実としてあるのは僕が今のところはそういう人間であるということである。

それで雑誌のことをあらためて考えてみると、なるほど、これほど雑談とか人の会話と近い媒体もないという気がする。なにかこちらで特集をやっているかと思えば、別のところでは連載があったり、全然違う話題でインタビューや対談をやっている連中がいる。そしてそれらはなんとなくの方向性を与えられてはいるものの、断片的でまとまりがない。こんなふうな雑誌の特徴を鑑みてみると、もちろん違うところもあるが、なんとなく会話に似ている気がする。だから僕は雑誌に今まで興味を持てなかったのかもしれない。僕は自分が好きな特集だけを全ページにわたってやってほしいのであり、それ以外はどうでもいいという読者なのだ。そしてそれはようするに単行本を買って読みたい人間ということに他ならない(もちろん嫌いな単行本もある。それはいうまでもなくアンソロジーだ)。

ところが、最近ゆえあって雑誌に関わる機会が多くなり、雑誌には雑誌の、それなりの面白みがあることに気がつくようになった。

たとえば雑誌の衰退にはインターネットが関わっているともされるが、インターネットと雑誌は当然ながらメディアとしての性質が違う。僕はメディア論に昏いのでこれは素人考えに過ぎないが、その素人考えによれば、インターネットは雑誌に対してライブ感がありすぎるか、なさすぎる。ここでライブ感という言葉を事細かに概念規定する気はないが、さしずめ、「今この時のこの場をみんなと共有してる感」とでもいっておく。一方でインターネットは、今この時を持たないし、みんなと場を共有できない。Google検索はかつてつまり過去に作られたページをずらりと表示しているだけであり、そこへのアクセスは個人個人がおこなう。他方で、SNSでのアニメ実況や掲示板、またチャット機能つきの生放送の動画配信サービスなどは、まさに今この時この場をみんなで共有するためのものだが、そのみんなは数の上でも質の上でも(つまり共有している話題の上でも)限定されていたり、集まりがその場限りであることもある。

ところが雑誌というのはすぐに廃刊になるものもあるけれども、今残っているものはかなりの長期スパンで定期的に情報を発信し続けているし、そこにはその分野内とはいえさまざまな話題に関心をもつ人が集まってくる。そしてバックナンバーはその時々の時事的なものをも取り入れながらも残っていくわけだから、それはアーカイブとしての機能をも果たすことになる。うまく言えないのだが、そこでは共時的であれ通時的であれみんなが共有できる文脈の絡まりが作られているような気がするのである。それは即時的で狭いライブ感とも、孤独で強い文脈を持ち、アナクロニズムなアクセスとも違うものである気がするのである。

と、こんな話をインターネットを使って発信するのもどうかと思うのだが、最近は、こういうイメージをなんとなく抱きながら、もっぱらインターネットとの対比において、雑誌ならではの面白さというのを考えることが多い。もっと文献を読みしっかりと考えればそれなりに正確で意義のあることが言えそうなのだが、とにかく現段階でいえるのは、雑誌文化がこのまま廃れるのはなんだかあんまり良くないのではないか、ということである。その直観がうまく言語化できるようになったら、またこのあたりのことについて書いてみたい。