かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

雑記05(偶然について)

最近ぼんやりと二つの偶然の違いについて考えている。

一方で、三島由紀夫スピノザがいうように、世界はくまなく必然的な因果法則から成っているため、偶然とは単に人間の認識の不十分さによる錯覚にすぎない(ほんとうは全て必然だ)、というようなときの偶然がある。

他方で、それとは別に、ほとんど無意味という言葉と同義語で使われるような偶然というものがあるのであり、この場合は偶然の対義語である必然も、有意味という言葉と結びつく。そしてこの場合の意味とは、人の感情と密接に結びついた概念であるらしい。僕が最近興味を抱くのはこちらの偶然である。

たとえば、人がなにか不条理な出来事に襲われたときに、「どうしてこのような出来事が起こったのか」と問わざるを得なくなることがある。それはおそらく、その出来事によって生じさせられた過剰な感情のけりがつけられないからだ。このいわば処理し得ない余剰としての感情をどこへ向ければいいかわからないときに、このような疑問が発せられるのであって、その場合、「この出来事はしかじかの物理的原因によって生じた」という答えは、それこそ問うた本人にとってなんの意味も持たない。なぜならこの場合問うた人が知りたいのは、物理的にどのような因果関係でその出来事が起こったのかということではなく、なぜよりにもよってこんな不条理な目に他でもない自分が遭わなければならないのかということだからである。

それは誰に降りかかっても良かったはずなのだが、なぜか自分に降りかかった。そして人はそこになんの意味もないということを認めることが難しいらしい。言い換えれば、この問いはすでに出来事に対するその意味の要求なのであり、にもかかわらずその出来事に(因果応報とか神の試練とかいった)さしたる意味がないとき、人はそれを偶然的な出来事と呼ぶ。

では、逆にそれが必然的であるということはどういうことか。もちろんそれは意味があるということである。しかしこの意味があるというのは、一体具体的にはどういうことなのか。それは、余剰分の感情の始末をつける、つまり感情を特定の対象に向け、それを行動によって消費するための物語がそこに見出せるということである。たとえばそれが誰かのせいなら、その誰かに怒りの矛先を向け、罵倒するなり殴るなりすればいい。そうすればすっきりするだろう。それが自分の罪によるというならば、その償いをすればいい。そうすればいつかこの埋め合わせがなされるかもしれないと思えるだろう。重要なのは余剰分の感情を消費すること、滞留したエネルギーを行動を通じて放出することなのだ。そういうエコノミーの関係を(その実効性や合理性にかかわりなく)対象と作れるかどうかが、感情的な存在としての人間にとっては重要なのだろう。

その意味では、出来事が偶然的であるとは、その感情をどこにも向けることができず、自分がそれに対してなにもなし得ないということなのかもしれない。

雑記04(視線)

人間とそれ以外の動物を区分けしたり、人間性のある(あるいは本来的な)人間とそうでない人間を区別するときに、反省の有無を持ち出す論法は、様々な分野で見られる。つまり、自分を意識する存在こそが人間であり、そうでないものは自分を意識しない。こういうふうな発想がある。

ところで自分を意識するというのは、ある意味ではなにかの視線を意識するということでもある。たとえばそれが具体的な相手であり、この相手に嫌われたくないと思えば、人はその相手の眼を想定して自分を見て、この想定された視線をよりどころに、自らを相手の価値観に適うような人間として演出する。

しかしそれが現実には存在せず自分の心においてのみあるような抽象的かつ究極的かつ理想的な存在であるとすれば、どうだろうか。またさらにこの理想的存在が、この人物を四六時中間断なくその心の奥底までをもくまなく見張り、そしてこの人物に対してこの存在自身の比類ない状態に到達するよう要請してくるとしたらどうだろうか。するとまずこの人物が取り組まなければならないのは、その一貫した内面の構築と、到達不可能な理想への絶え間ない漸近の試みである。視線は常に隈なく監視しているのだから、具体的な人物の前にいるときのように、その場限りうわべだけをとりつくろってよしとするわけにはいかない。いかなるときも、心の底から、そのような存在でなければならない。こうしてこの視線は一貫した内面の構築を要求する。それはそこから発生する外的振る舞いがつねに理想的でありうるような、理想的かつ一貫した内面を構築することを要求する。

ところが、この人物は、その存在が要求してくる内面および行為における一貫性や理想性の把持がとうてい人間のなせるわざではないために、結局のところこの試みに失敗するだろう。するとこの人物はそのような弱い自分を詰り、責め、罪悪感に苦しまざるを得なくなるだろう。

この理想的存在とは結局のところこの人物自身が作り上げたものなのだから、この存在の要求は、この人物自身の要求でもある。この人物は自らに理想的であることと、一貫的であることを要求する。そしてその結果生まれてくるのが内面である。しかしこうした内面なるものを行為の手前に想定するのは倒錯だろう。

この倒錯的な内面を生み出す一貫性を要求してくるような視線は、しかし、それ以外の視線を排他的に退けるものではない。というより、もちろんそうした排他性をそれは持っているのだが、ふつう人はこの視線に対して自分自身をうまくごまかしながら、たとえばもっと具体的な視線に合わせて自分を変えるということをやる。しかし前者の視線は自分に対して欺かれているから、それでもこの人物は自分が依然として一貫的だと思い込むことができる。

この後者の視線に合わせすぎれば自己同一性は崩れて混沌とするが、前者に合わせ過ぎてもその場での適合的な振る舞いができなくなるだろう。

このような点で、理想自我と自我理想の違いが考えられるかもしれないのだが、これは結局のところ視線の内実の違いである。ただ、この常にくまなく見張る視線は、ふつうはそこまで徹底化されずに欺かれるのであり、ところがこの欺きが周到に回避されると、この視線は徹底したものになる。ここまでくると、人は自分について一貫性を意識するがあまり、かえって自分が一貫していないことを知ってしまう。そこに不安が生じる。比喩的な不眠状態が生じる。この不眠において、「ある」という状態が意識される。

Re:ポンコツ ポンコツ萌えを考えるために

本エッセイは、はてなブログポンコツ - ゔぁみのじゆうちょうに触発され、書かれたものである。ここでは、ポンコツ萌えの当事者として、いわば患者自身の手からなる症例報告とでもいうべきものをおこない、それと同時に、来たるべきポンコツ萌え論のための論点を書き散らしておこうと思う。



・きっかけ


最初に自分がポンコツ美少女に萌えるということに気がついたのは、『ラブライブ!』を見たときだったと思う。

このアニメは、スクールアイドル(学校の代表として活躍する現役高校生アイドルのことをさす)なる概念が存在する架空の現代日本を舞台にした作品で、主人公の高坂穂乃果は現役女子高生、自分の高校の廃校を阻止するために、このスクールアイドルになることを決意する。そんな彼女とその仲間たちが、ときにさまざまな困難にぶつかりながらも、スクールアイドルの頂点を目指して奮励努力する様子が、一期二期の計二十数話を通して描かれる、それがこのアニメ『ラブライブ!』である。

本作はいわゆるアイドルもののアニメだから、魅力的なヒロインが多数登場するのだが、僕はそのなかでもとりわけ矢澤にこというキャラクターに惹かれた。この子は穂乃果の先輩だが、見た目はメンバーの誰よりもロリっぽく、その容姿を意識してか年甲斐もなく髪をツインテールにしている。重度のアイドルオタクで、一度は自分自身スクールアイドルを目指し、一年時にグループを結成するものの、彼女のガチすぎる温度に他のメンバーはついていけず、結果、彼女は孤立、グループは解散してしまう。このような側面(重度のアイドルオタク)と過去(スクールアイドル活動の挫折)のために、彼女は当初、スクールアイドルとしては素人同然のくせにかつての自分たちより楽しそうに和気藹々と活動をしている穂乃果たちに対し、感情的に対立することになる。とはいえ結局なんやかんやあって最終的には彼女も穂乃果たちのメンバーに加わることになるのだが、その後劇中では隙のある言動行動やそれらの空回りによってコミカルな役どころを演じる場面が目立つようになり、僕はそういう彼女のポンコツぶりを、気がついたら少なからず愛おしく感じるに至っていたというわけなのである。

 
・僕のポンコツ萌えと一般的ポンコツ萌えのズレ


矢澤にこのほかにも、僕が好きなポンコツ美少女はいる。たとえば、最近のアニメでいえば『この素晴らしき世界に祝福を!』のアクア。『ガヴリールドロップアウト』のガヴリールやサターニャ。

だが、インターネットの記事をいくつか調べてみると、アクアはともかく、サターニャなどは一般には「ポンコツ萌え」や「ポンコツかわいい」とは呼ばれず、アホの子と呼ばれるようだ。それにガヴリールはポンコツ萌えの対象ではないらしく、僕のいうポンコツ萌えが世間のそれとはズレるところもあるようだ。

逆に、それらの記事を読むと、いくつかあきらかに僕が萌えない例や、僕のポンコツ萌えの実状と齟齬をきたす定義をしているものもある。たとえばこれらだ。

 

ポンコツかわいいとは (ポンコツカワイイとは) ニコニコ大百科 スマートフォン版!

ポンコツ (ぽんこつ)とは【ピクシブ百科事典】


上の記事では、『ガールズ&パンツァー』の河嶋桃が例に挙げられているが、僕はむしろ彼女を苦手に思っている。それから、いずれの記事でもポンコツ萌えをギャップ萌えの一種として定義しようとしている向きがあるが、僕にとって、ギャップ萌えはポンコツ萌えを本質的に規定する条件ではない。たとえば、アクアやサターニャは大概つねにぐだぐだなので、一見すると優秀というわけでもないし、肝心なところでミスするとかいうことはない。むしろアクアなどは、そのたびに彼女のはたらきのせいでカズマが借金を負わされたりなんなりしてはいるものの、ピンチのときは比較的いい活躍をしている気がする。

とはいえ、だからといって、僕は「これらの記事のポンコツ萌え定義は間違っているし、実例もなんだかおかしいので、こいつらは根本的にポンコツ萌えをわかってない」などというつもりはない。むしろこの場合、世の中には僕のようなパターンのポンコツ萌え、つまり非ギャップ萌え的なポンコツ萌えをするものと、ギャップ萌え的なポンコツ萌えをするものとが、両方いる、と考えるべきだろう。そして、そうなるとつぎに、ではそもそも両者の萌えを自明の前提としてともにポンコツ萌えというカテゴリーに放り込んでいいのかどうかということが問題になってくる。ただ、たしかに議論を実際に詰めていくうえではこれはいずれがっぷり四つに組んでとりかからねばならない問題ではあるのだろうが、ここはそういう場ではないし、現状、両者にはキャラの言動行動態度諸々の隙なり空回りぶりなりに萌えるという点において一致は見られるわけで、こういった点から、ここではとりあえずはこれらをともにポンコツ萌えと呼ぶことにして満足したことにしておく。


ポンコツ萌えの自己分析

 
ネット記事でのポンコツ萌えの定義やその実例が必ずしも僕の実感に完全に符合するわけではないことが明らかになったところで、ここで僕のポンコツ萌えがどのような性質のものなのかを軽く考えてみる。そのような作業に際して個人的に有用だと思われるのは以下二つの論点である。


1,<残念>と美少女=オタク説

2,イキリとイジリ


1,<残念>と美少女=オタク説:

まず前者の<残念>について説明しよう。これは評論家のさやわかがその著書『10年代文化論』で2010年代の若者文化を言い表すために用いたキーワードである。

彼はまずこの本のなかで、最近(本著作が書きおろされた2014年ごろ)「残念」という言葉の使われ方が変わってきたことに注意を促している。ふつう、残念というと、ネガティヴな意味で使われることが多い。ところが…


  たとえば、僕がたまたま買った雑誌『TV Bros.』(東京ニュース通信社)2013年No.23で、昨年大ヒットしたNHKの朝ドラ『あまちゃん』の巻頭特集をやっていた。そこでドラマのチーフ演出である井上剛がインタビューを受けていて、その記事の見出しにこう書いてあった。


  「残念」という言い方の中にものすごい愛情があるドラマをやりたかった

 
  つまり井上も、残念という言葉の使い方に通常ならざる思いを込めているというわけだ。[…]

  最近、こうして形容詞的に「残念」という言葉が使われるのをあちこちで見かける。しかも否定的な意味のときもあるけれど、「残念なイケメン」とか「残念な美人」みたいに、相手の欠点をチャームポイントのように暖かく受け入れるものが多いようだ。

 
このように、残念という言葉の使われ方は、もとの意味を損なわないまま、ポジティヴな価値判断を示す形容の表現としても用いられるようになっている、というのである。

このあと、さやわかはニコ動やサブカルチャーと残念の関係を様々に語っていくのだが、そこでとくに僕の印象に残ったものは三つある。

一つは、「残念な美人」のニコニコ大百科の記事が引用され、その例として『とある科学の超電磁砲』の木山春生が挙げられていたことだ。これは実は僕にはものすごくわかる感覚である。つまり僕はまさしく木山春生に「萌え」た視聴者の一人なわけだが、その魅力のひとつはやはり彼女の残念さにあったように思う(もちろん、もともと不破氷菓のようなキャラに対する隈萌えとか陰キャ萌えがあったというのもあるが)。そしてこれはうまく説明できないのだが、僕が木山先生を好きな理由と、ポンコツ美少女に萌えてしまう理由は、どこかでつながっているという気がする。

第二に印象に残ったのは、『僕は友達が少ない』が残念系ライトノベルとして挙げられていたことである。これは僕も以前読んでいたものだが、たしかにこのラノベが一時期流行った理由のひとつには、そういった残念の感覚による鑑賞の構造があったように思う。まず第一に、主人公やヒロインはみんなコミュ障で人格的に問題があり、ぼっちで残念であり、彼ら自身はそれを切実に悩んでいるのかもしれないが、作者としてはそれをこの作品を楽しむひとつのポイント、つまり笑えるポイントとして描いているわけである。第二に、これを受け手がどう受容するかといえば、こういうラノベを読むオタクというのは(たとえば当時の僕みたいに)大概コミュ障だったりするから、彼らにとっては、そこにシンパシーを感じるとともに、それを笑いに変えることで、少なくともその瞬間だけは自身のそんな残念さをゆるく肯定できたというところがあったのかもしれない。まぁ、僕は少なくともそうだったというだけで、他の人のことはわからないけど。

さて、最後に印象に残ったのは、この著書の終章の章題が、「残念な日本の私」になっていたことである。これはあきらかに小説家の大江健三郎ノーベル文学賞を受賞した際に、その授賞式で行なったスピーチ「あいまいな日本の私」や、そのパロディ元である同じくノーベル文学賞作家の川端康成のスピーチ「美しい日本の私」のパロディなわけだが、ここにはそれなりに深い意味があったように思うのである。

どういうことか。僕は以前べつのところで川端文学について分析したことがあり、その際に「悲しみ」の美学がどのようなものであるかを考察したことがあった。そこでは宮台真司河合隼雄柄谷行人の議論を借りてそれなりに七面倒な議論をしたわけなのだが、それは簡単にいえばこういうことである。つまり、まず悲しみは怒りと対置される。それらはともに自分にとって不条理に思える出来事に直面した際の感情なのだが、怒りはその出来事に対する反抗の表現であるのに対し、悲しみはその出来事に対する受容の表現である。したがって悲しみの美学にはある種の保守性の弊害や、その不条理に置かれた自己の状況そのものを美化して感傷に浸ってしまったり、あいまいにしてしまうことによる弊害がある。たとえば大江が「あいまいな」というときのこのあいまいとは、まさしくこのような意味でのあいまいさであり、それを大江は批判したことで知られているのだが、このような弊害は<残念>にもあるように思われる。つまり、それは真面目に深刻に考えられたときには克服されてしかるべきかもしれない欠点や問題を、コミカルなものや微笑ましいものにしてしまうことによって現状追認してしまう効果を持ちうる。もちろんそうしたいがために若者は<残念>を美学として嗜好するのであり、これは彼らの保守性、物事に対する向き合えなさ、現状追認性を表しているのだなどというつもりはないが、これはこと僕自身についてのみいえば少なからず言えることだという気もする。

ということで、話は美少女=オタク説に移るわけである。これはべつにさやわかが提唱しているとか、あるいはほかの評論家なりなんなりが提唱しているとかいうものではなく、僕自身がなんとなく温めていてまだ十分に考えることができていない考えである。その内容はシンプルなもので、つまりオタクが萌える二次元美少女というのは、全員が全員そうでないにしても、少なからずそのオタク自身に似ているのではないか、というものである。ある意味で萌えとは(精神分析的な意味ではなく、一般的な意味での)ナルシシズムではないのかというのが、この説の根底にある発想だ。

その線で行くと、僕が矢澤にこやサターニャやガヴリールやアクアに萌えるのは、そこに自分と同じ「残念さ」「ポンコツさ」を見ているからだ、ということは言えるかもしれないわけで、実際これは自分語りになってしまうので詳細は割愛するが、彼女らと僕には似たところがよくあるということは、我ながら思うことがあるわけである。そしてこのような萌えの構造は先ほど僕が仮説として立てた『はがない』に対するオタクたちの受容の構造とも少なからず相似するわけで、これがもし妥当だとするならば、ポンコツ萌えについて考える際には、ポンコツ美少女に萌えるオタクたち自身のポンコツさについても考える必要があるわけだ。

ただし、もちろんこれとはべつのラインでポンコツ美少女を考える必要もある。たとえば、以前僕はツンデレ萌えについて、そこに受け手とツンデレ美少女のあいだの非対称的な関係を見たわけだが、このような関係性はポンコツ萌えをあらわすときのオタクたちの表現の仕方にも少なからず見られるように思う。すると、もしかしたら受け手とキャラクター両方がポンコツというかたちのみならず、キャラクターだけがポンコツで、受け手はそれに対し優位性を持っているという構造が見られる場合もあり、ではそれらの違いは各々の受容のどういう違いを意味するかだとか、それらの構造が一緒くたになってポンコツ萌えが成立してるパターンはないのかとか、そういうことが考えられなければならなくなる可能性がある。


2,イキリとイジリ:

しかしこれもかなり理論的に難しい仕事だと思うので、ここでは脇に置いて、とりあえずその後者の構造つまりキャラクターだけがポンコツで受け手はそれに対して優位性をもっているという場合に目を向けておこう。

ここで僕が注意を促したいのは、ポンコツ萌えするオタクたちがポンコツ美少女に対しどのような愛情表現をおこなっているかということである。たとえば先ほどあげた『ゔぁみのじゆうちょう』では、このブログの作者は、次のようなことを言っていた。

 
まぁいつものごとく新キャラが出るたびにツイッターでは新キャラを元にした二次創作的な漫画がポンポン投稿されるわけだが,こいつは新キャラのくせにストーリーでは碌に(全く)活躍せず終わったのでネットでは所謂”ポンコツ属性”を推した二次創作が多く見受けられたように感じる.

 

勿論それには需要もあり何百何千とRTされていたのだが個人的にはこういうキャラの愛され方はあんまり好きじゃない.絢瀬絵里ポンコツアイドルだなんだでツイッターで同じようにもてはやされてた時にも同じことを感じた(これは前に書いたことがある気がする)


ここでいう「こいつ」というのは『Fate/Grand Order』というスマートフォンゲームに出てくる「岡田以蔵」(歴史上の実際の岡田以蔵をモデルにしている)というキャラクターで、このキャラクターは先日のイベントで初登場し実装されたわけなのだが、そのシナリオでのイキリっぷりとそのイキリに見合わないポンコツっぷりを見るにつけプレイヤーたちがこれをイジりはじめ、以蔵に焦点をあてた二次創作ショート漫画がまたたくまに増殖、Twitterで散見されるようになった。ここではそれらをいちいち紹介することはしないが、基本的にはこうした漫画にはいくつかのパターンがあり、たとえば「以蔵がわしは天才剣士じゃーとイキリ散らしている→ほかのキャラクターとくに宮本武蔵柳生但馬守宗矩などの明らかに格上な剣士が登場する→彼らに以蔵が突っかかるor彼らの技を以蔵が見る→以蔵がビビる」などといったものは、今ならおそらく検索をかければ大量に見つけることができる。いずれにせよそこでおこなわれているのは以蔵に対するある種の「イジリ」であり、このブログの作者によれば、『ラブライブ!』の絢瀬絵里ポンコツぶりが話題になった時も、同様のことがTwitter上でおこなわれたという。そしてこれはポンコツ萌え(ちなみに以蔵にも萌えた)当事者だからわかることなのだが、このイジリはなんなのかというと、結局のところキャラクターに対する一種の愛情表現なのである。

しかしイジリというのはある意味ではイジメに近いもの、相手の欠点を指摘してあれこれというものではあるわけだから、それをはたから見て不快に思う人はいるし、それに配慮しながら愛情表現を行う必要はある、ということは、先ほどリンクを貼ったインターネット記事にも書かれている。そうした政治的配慮の必要性からもわかるように、こうしたイジリというかたちでの愛情表現には少なからずサディスティックなところやキャラクターに対する受け手の優位関係を示すところがあるようにも思われ、これはまた以前おこなったからかいの構造の分析などともつきあわせて考えていく必要があるだろう。

しかしともかく(という撤退と迂回ばかりで申し訳ないが)、こうした話はまた一旦脇に置いて、そこで次にこのイジリを成立させるキャラクター側の要因にフォーカスしてみよう。もちろんイジリは弱点や欠点や隙を指摘することで成り立つ行為なわけなのだから、ある程度キャラクターの側がそういうものを示さなければ成り立たない行為であるだろう。そうしたことを踏まえて僕があらためて思ったのは、こうした受容のされ方をしているキャラクターはいずれも、少なからずイキったり調子に乗ったり気取ったりしているところがある、ということである。

たとえば以蔵はいうまでもないが、サターニャや矢澤にこの場合も、もはや劇中内での他キャラクターからの扱われ方やイジられ方からしてこの調子である。サターニャは調子に乗ってるのを、散々おだてられたあげくガヴリールにいいように利用されたりラフィエルのおもちゃにされたりする。また矢澤にこは利用されたりだとかおもちゃにされたりだとかすることこそそんなにないものの、そういった言動行動を他キャラクターにあっさりスルーされたり、呆れられたりするというパターンで受け手の笑いを誘うことが多い(この点において僕は『ラブライブ!サンシャイン』で矢澤にこの衣鉢を継いでいるのは津島善子だと強く確信している)。このように、ポンコツ萌えの対象となるキャラクターのその隙の類型のなかには、少なからず調子に乗っている・イキっている・気取っている、があることがわかる。なお気取っているというのはここに挙げた例ではうまく説明できないかもしれないが、知っている方は『僕のヒーローアカデミア』の青山優雅と蛙吹梅雨ちゃんの初期の絡みを思い浮かべてもらいたい(ただし個人的には青山はポンコツ萌えの対象ではない)。


以上、これまでポンコツ萌えをめぐっていくつか当事者としての実感や、論点を、備忘録がわりに書きつけてきた。そのなかでいくつか肝要な問いは挙げられた気がするが、今回は各々に深入りをせず、むしろ話題を広げたり繋げたりすることを試みた。こういう書き方をしたことはあまりなかったのだが、思いのほか頭を整理する準備作業としては役立ったように感じる。これからも折を見てこうした書き方である話題を扱うということをしてみてもいいかもしれない。そんなふうに考えた。

わからない感覚について

最近ぜんぜんブログを更新していなかった気がしたので、定期的に更新する義務もないのだけれども、このまま書かないと永遠に書かない気がしてそれはちょっと自分にとって損失だなという気がしたので、何かを書くことにした。こういう経緯があってなかば書くために書いた話なので、これはオチのある話というよりはたんなる近況報告みたいなものである。

 


たとえば東浩紀の本を読むと、どの本であれ、「~かもしれない」とか、偶然とかの問題が頻繁に語られている。ほかの本を読んでいても、たまにこういったことが話題になることがある。実は僕はこの手の話題を読むたびにある種の困惑を感じてきた。

僕は好んで人文書といわれる類の本を読む。とくに哲学や精神分析の本を読む。それは、たぶんひとつには、単純に知的な意味で面白いからだ。しかし、それ以外の理由もある。そういったものを読んでいると、自分が今まで漠然と感じてきた生きづらさの構造が的確に説明されているという箇所に出会うことがあり、その出会いがなにかの解決や救済になるわけでもないのだが、感動を呼ぶ、ということがある。もちろん、そういった個人的な感動はそれはそれとして、その説明が的確なものかということについてはちゃんと批判的に読まなければならないわけで、その意味ではあるいみそういう感動は危険なのだが、とまれ、なんにせよそういうふうな感動があるにはあって、僕はそれを感じるためにそういったものを読んでいる節がある。

ところで、そういった共感ができる、ということは、そういう本を読むときには意外と助けになることが多い。語り口がいかに抽象的であろうと、そこで語られている思想なりなんなりはある程度はこの著者の人生経験を参照して作られたものなわけだから、その参照元に思いがいたるならば、その分だけその発想がわかり、整合的に読みやすくなるということが、たしかにあるのだ。だから、こうした本を読むに際してその気持ちや発想がわかるというのは、もちろんそこにナルシシズムを投影してしまうという危険はあるけれども、ある程度は大事なことではないかと、個人的には思うわけである。

そこで話は最初に戻る。僕がなぜ上述のような話題が出てくるたびに困るのか。それは、かれらがそこで語ってくれている実存的な感覚が、僕にはよくわからないからだ。それは僕からすれば、そうした感覚をもとに作られた思想を、細かいレベルで、さまざまな文脈で読むということができないかもしれないということを意味する気がする。そして、それは僕が考えたいことを考えるにあたって結構致命的なことだという気がする。

そんなわけで、最近、僕はそういう感覚や発想を分かりたいと思い、そうしたことを扱っていると思しき小説を読んでいる。今読んでいるのは東の『クォンタム・ファミリーズ』で、これはそういうことを抜きにしても、今のところ、ものすごく面白い。

それから、その前には柴崎友香の『わたしがいなかった街で』という小説を読んだ。これは夫と彼の不倫がきっかけで離婚した30代半ばの女性と、彼女の知り合いの妹の話だ。前者の女性、砂羽は、東京で運輸業を営む会社の契約社員としてはたらき、家ではよく戦争もののドキュメンタリーを見ている。彼女もやはり偶然に関する問いを抱えている。たとえば、この小説は最初こんなふうに始まる。

 


一九四五年の六月まで祖父が広島のあの橋のたもとにあったホテルでコックをしていたことをわたしが知ったときには、祖父はもう死んでいた。

 


この「あの橋」というのは祖父がかつて彼女にその思い出を語って聞かせたところの橋で、この橋が位置していたのは、ちょうど原爆の爆心地の近くだった。だからもし祖父がこの六月の時期にコックをやめてよそに越していなかったら、祖父は死に、彼女もまた生まれていなかったかもしれない。この「かもしれない」と、とはいえ、現実はげんにこのようにしてある、ということのあいだで、彼女はその意味を問わざるをえなくなる。

こうした問いは、彼女によって、小説内でのあらゆるものごとに対して発せられる。たとえば遠い場所での戦争のドキュメンタリー映像を見ているとき、彼女は「なぜこの場所にいたのがわたしではなく、彼らなのか」と考えるし、ある日偶然以前の職場の人間とすれ違ったとき、「この偶然にはなにか意味があるのではないか」ということを考えてしまう。

少し寄り道をすれば、こういう感覚は柴崎が別の作品でも頻繁に描く感覚と、どこかで通底する気もする。最近、僕はこの人の作品を連続して読んでいたのだが、これはちょうどその三冊目の作品で、その前に読んだ二冊では、いずれも写真と実物、瓜二つの人物、十年前の自分と今の自分、といった二つのものたちのあいだにあるズレや同一性に対する登場人物たちのさまざまな感情的な体験(驚き、違和感、喜び、などなど)が繰り返し描写されていた。たぶん、これは他の作品でもずっと描かれている感覚なのだろうけれども、こうした感覚と、上述の感覚は、それこそ身もふたもない言い方をすれば反復とか不気味なものとか、そういうテーマと、ともに関係するという気がするのである。

まぁそれはともかくとして、とにかく僕はこういう感覚がやはりわからない。あるいはそういう感覚そのものはあるかもしれないのだが、それを十分に自分のなかで抽象化したり構造化したりして把握することができていない。たとえば、「なぜあそこにいるのが私ではなく、彼らだったのか」という問いの意味は、僕にはよくわからない。たぶん僕ならこういう問いに対して、そこには何の意味もない、と考え、それを危機的なことだと思わないし、そうした問いをある実存的な要請の表現としても、つまりレトリカルクエスチョンとしても、共感を持って理解することができない。

しかし一方で、反実仮想的な発想は僕とてよくするのであり、そもそもそういう発想は人間にとって不可避的なものにも思える。つまりもしあのときこうしていたら、とか、もしかしたらあの人の立場に僕がいたかもしれない、ということは、僕だって考える。しかしそれがなぜ現実がそのようでしかありえないということに対する疑義、そのようであることの意味に対する問いにつながるのかが、よくわからない。それが歯がゆい。

これが理論的な問題なのか、たんに感覚的な問題なのかはわからない。理論的、というのは、もちろん実存的な感覚というのはひとつには感情の問題ではあるが、それ以上にそれをどう考えるかという発想や論理構造の問題でもあるからだ。しかし、おそらく、僕にはその両方が今欠けているのだと思う。

だから、むしろ僕のいまの主要な関心は、そうした問いを問うてしまうそうした感覚やそれを成立させる論理構造が、なぜ僕にはないのか、ということになりつつある。とくに『わたしがいなかった街で』の主人公の気持ちや発想は僕にはほとんど分かる気がする(などと軽率にいうべきではないのかもしれないが、素朴な実感としてはそう思う)だけに、そこでなにか一気に突き放される感じがする。たとえばこうしたふと挟まれるコミュ障っぽい感覚はすごい分かる気がするのだ。

 


有子でも、加藤美奈でもいい。チューナーになってくれる人がいないとき、他人と何モードで話せばいいかわからない、と前に有子に説明したことを思い出す。

 


これ以外にも、若干被害妄想めいた対人不安があるとか、人との話し方がわからないとか、他人への興味がどうしても希薄になりがちだとか、にも関わらず人と関わりたくてもどかしいとか、そういったことに対する漠然とした屈託の感覚は分かる気がするし、そういう人がそういうドキュメンタリー映像を延々と見てしまう感覚、みたいなのも、なんとなく、分かる気がする。にもかかわらず、そうした確率や可能性や偶然に関する意味の問いを彼女をして問わせしめるその気持ちだけがよくわからない。

つらつらと喋ってきたが、このようなわけで、最近はこの妙な感覚の欠落をめぐってものを考えていることが多い。こんな感じなので、もしこれを読んで、「そういう話が出てくるものといえば、こういう作品があるな」という心当たりがある人がいれば、ジャンルを問わず教えてもらえるとありがたいです。

 

人生と夢

1,


三島由紀夫は認識と行動という二元論を終生唱えていた。そしてそれはそれ自身彼の葛藤の表現でもあった。この葛藤というのは、簡単にいえば、なにかを意識することと、それを生きているということのあいだにある、埋めがたいズレに苦しむことである。ひとつ断っておけば、これは古くから哲学的な問題として考えられてきたので、べつだん三島が最初に考えたわけではない。ある意味でそれは彼個人のというよりも、哲学的な生のありかたの基本的な形式である。したがって三島はこのような意味での哲学的な生を生きたのだといえる。

たとえば、小説家自身である彼に言わせれば、小説家にとって唯一アクチュアルなのは(つまり行動的なのは)、作品を作るという行為である。このことはそのまま芸術と人生という二元論の問題につながっていく。人生というのは、まさにふつう人がそれを生きているところのものである。ところが、芸術家というのは、それを表現するために、それについて観察=意識しなければならない存在である。さらにこのとき、芸術家は人生からデタッチメントした(人生を生きていない)状況にあるといえる。

ところで、なにかをその都度決定したり判断したり決断したりするということは、一種の狂気である(たとえばキルケゴールは決断とは狂気であるといっている)。しかしなんの見地からして狂気なのか。意識の見地からである。意識にとって、あらゆる判断の作業はエラーに陥る。たとえば道徳的な行為とはなんなのかということは誰にもわからない。もちろん、ふつう、人はほとんど意識せずに善いことをおこなえる。目の前に困っている人がいたら、その人を助けようと思ったり、哀れみを抱いたりするということは、ふつうのこととしてある。そしてそう思うことと、そう思ったことでその人を実際に助けることのあいだには、ほとんど障害がない。しかし一度そこで道徳的な正しさとは何かと考え始めると、人はそれについて何もなしえなくなる。そして、このようなことは、自分が今まさになそうとしていることについて意識することから始まるのである(実際には何もしなかったということをせざるをえないし、この、生きていないつもりなのに実際には生きているという問題は根本的な問題なのだが)。

つまり三島にとっては、認識する(それを意識する)限りは行動する(それを生きる)ことはできず、まさに芸術家=小説家とはそのようなズレを生きる存在である。しかし、少なくとも、小説家は作品を作るそのときにおいては、具体的な題材や筋について決断している。だから小説家にとっては小説を作るということだけがアクチュアルなこと(それを生きるということ)となる。


2,


それにしてもなぜ人はなにかを意識するとき、判断エラーに陥るのだろうか。それはおそらく様々な可能性に脅かされるからである。

たとえば小説を作ることすらできなくなった小説家のことを考えてみよう。そのとき、小説家はなにに苦しんでいるのだろう。おそらくどの題材を選べばいいかわからないということに苦しんでいるのである。たとえば主人公は男でもいいし女でもいいだろう。この主人公はギャンブルに溺れてもいいし堅実に生きてもいいし恋に落ちてもいいだろう。しかしなぜそれを選択するのかという根拠を問うと、なぜだかはわからなくなる。彼ないし彼女はどんな可能性も選びうる。だから逆になにも選べない。では、そんな小説家がなにかを選べるようになるとしたら、それはどんな場合なのか。それは、ある特定の価値観や対象に彼の心が投資=備給しているときだけだ。

別の例を出せば、これはコミュニケーションにおいてもそうだ。自分が相手になにかをいうとき、その意味や効果は、相手がそのときどんな状況にある、どんな人間かによって異なる。しかし自分はもちろん相手について多くのことを理解してはいない。だから自分がこれからいおうとしていることは、様々な意味にとられる可能性がある。そのなかにもし自分にとって好ましくない可能性があるとすれば、人はそれをいいたくてもいえなくなる。もしそれがいえることがあるとすれば、それは、彼ないし彼女がその可能性を意識していないときか、意識していてなおそれをいうことで相手とうまくコミュニケーションができる可能性に賭けることを決めるときだけである。つまりそれが危ない橋だと気づいていないか、気づいていてなお危ない橋を渡ることを決めたときだけ、それをなしうる。

だから論理的にのみ考えられたときには、人はいつまでも決断しえない。つねに様々な可能性に脅かされるからである。もし決断しうるとしたら、それは、狂気や、強い欲望によるしかない。しかしもう一つ、別のファクターもある。それは時間に関わるファクターである。

ジャック・ラカンは三人の囚人の寓話というものを使って、この時間という要素の効果を説明している。その寓話とは次のようなものだ。ある三人の囚人がいる。彼らはあるとき、監獄長に、特定の条件を満たすことで釈放してやるといわれる。その条件とは、あるゲームに勝利することである。とうぜん外に出たい三人は、このゲームに参加することにする。

このゲームは次のようなものである。まず、囚人たちの背中には、五枚の円盤のなかから選び出された円盤が、一枚ずつ貼り付けられている。三人の囚人たちの背中にそれぞれ一枚貼り付けられたわけだから、貼り付けられている円盤の枚数は計三枚であり、残りは二枚である。さて、この五枚の円盤は、実は、色分けされている。その内訳は白三枚の黒二枚で、囚人たちは自分の背中に貼り付けられた円盤の色も、残りの円盤の色も知ることができない(実際には全員の背中に白い円盤が貼り付けられている)。彼らが知りうるのは残り二人の背中に貼られた円盤の色のみである。この状況下で自分の背中に貼られた円盤の色が白と黒のどちらなのかをいちはやく監獄長に言い、なおかつ当てたものが、ゲームの勝者である。ただしお互いに情報をやりとりしたり、相談したり、サインを送ったりすることはできない。

このようなゲームを行ったところ、囚人たちはしばらく逡巡し、それから同時に監獄長のもとに駆け出して、「自分の背中の円盤の色は白だ」といった。

さて、このときなにが起こったのか。

ラカンによればこうである。まず、囚人たちは、「自分がもし黒だったら」と考える。仮にそのうちの一人をA、残り二人をそれぞれB、Cと呼ぶことにしよう。さてAは自分が黒であるという仮定をもとに、次のように考える。

もし自分が黒であったら、BとCは黒い円盤と白い円盤を見ているはずだ。次に、もし彼らのうちの一人が「自分が黒であったら」という推測をしていたならば、その段階でこの一人は、残りの一人が二枚の黒い円盤を見ており、そこから自分の円盤は白だと結論するはずだと推測するはずである。すると、この推測者(BかC)にとって、この残った一人は即座に駆け出さなければならないのだが、げんにこの一人はそうしない。さてもしここまで推測を進めたなら、推測者は、この段階で、「ということは、自分は白なのだ」と考え、監獄長のもとへ駆け出すだろう。同様の推測をこの二人のそれぞれがしうるはずなのだから、自分(A)を除く二人は、もし自分が黒であれば、即座に自分が白だと判断して駆け出すはずである。しかしそうしないということは、私は白なのだ。早く駆けだそう。……

しかしながら、これは純粋に論理的に考えられた場合には、なしえない推論である。なぜなら、Aがこう判断しうるには、彼がBとCが自分の背中の円盤を見、駆け出さないということを見る、という、経験的データを得る時間が必要だからである。したがって、もし彼らのうち誰かが彼の判断よりもはやく駆け出した場合には、彼の推測はそのことだけで破綻することになる。したがって彼は一刻もはやく自分の推測の正しさを確保するために駆け出さなければならない。彼は判断(自分の円盤の色が白だと理論的根拠はなくとも決定し、それを監獄長に言うという判断)をせよと急き立てられている。

問題はここからである。この寓話において、三人の囚人たちは同時に監獄長のもとにおもむき、正解することができた。ということは、無事に彼らは釈放されることができたのだろう。しかしもし彼らのうち誰かが残り二人にたいして出遅れて遅れてしまったとしたら、彼はどうなったのだろう。

まず、この寓話のレベルでいえば、彼は囚人にとどまるということになるだろう。しかしラカンがこの寓話でいわんとしたことを踏まえるならば、このことの意味するところはなにになるのか。

まず、この寓話全体が精神分析的に意味しているのは、人がいかにして社会化するかということである。精神分析的には、人が言葉を使ったり、社会に適応したりするということは、去勢されることで可能になる。そこでまずは社会化について語るために去勢の説明をしよう。一般に、去勢とは男性器が切除されることをさすが、もちろん精神分析の去勢とはこういうものではない。精神分析において男性器とは幼児的な万能感の比喩であり、人はそうした万能感を挫かれることで社会に参入するのである。

これはたとえば、勉強のことである。いまの社会においては、人は、やりたいことをやるためには、経済力を持たねばならない。そのためにはいい企業に勤めるというのが一つの有力な選択肢である。では、いい企業に勤めるためにはどうすればいいか。勉強をしていい大学に行かなければならない、というのが、一つの答えになる。

しかし、そもそも自分の欲望と、勉強とのあいだには、本来、何の必然的なつながりもない。ではなぜそんなことをしなければならないのか。それは、人が社会に、そしてそのルールのなかに生きているからである。人間の(無意識の)なかにある幼児的な万能感は、自分の欲望は誰がどういおうと叶えられるし、そうであるべきだと信じている。しかし現実にそうするわけにはいかない。なにかが欲しいからといって、それを盗んだり、奪ったりすることは許されない。だから願望を叶えるためには、社会の要求に応えるかたちをとって、やりたくもないことをやるという作業に一度迂回する必要がある。こういう第三者的なもの(社会)の敷く法に屈すること、このことを去勢という。

ところで、三人の囚人たちの寓話は社会化に関わる話なのであった。そしてこの場合、急き立てられて他の囚人と同時あるいはかれらに先んじて監獄長のもとに赴いた囚人は、この社会化を成功させた者だと考えることができる。ということはこの囚人は去勢を受け容れたことを意味する。ではこの囚人はこの寓話において、どのように去勢されたのか。まずは取り残された囚人ではなく、出し抜いたこの囚人のことを考えてみよう。

まず、この囚人にとって去勢は、監獄長にこのゲームに服することを強いられ、それを受け容れたところから始まっている。さらにそれが決定的になるのは、この囚人が急き立てられて、論理的根拠なしに、自らの背中の円盤の色を判断したときである。これを社会化という観点から読みかえれば、彼は社会というゲームのルールに巻き込まれ、それに参加することを決めてしまった人々との競り合いの中で急き立てられることで、無根拠に自分が何者であるかを確定したときに、去勢を受け容れたということになる。

では、取り残された人はどうなるのか。彼は論理(根拠の底を求める思考)のなかで判断エラーに陥り、社会にたいして自分が何者であるかを確定できなかったものである。ようするに、彼は社会化されることができなかったのだ。

この急き立ての比喩は、一見非常に思弁的に思える。しかしこれは身近な問題でもある。

たとえば、就活のことを考えてみよう。就活においては、人は自分がどの分野のどのような職種や業界のどのような仕事に就くのか、示すことを求められる。さらにその判断と自分の今までのありかたとの必然的な繋がりを物語ることを余儀なくされる。しかし、そのときには、彼は、自分がほかの仕事にもつきえた可能性を捨てざるを得ないだろう。そして自分がレディメイドの言葉や社会的な枠組みによって一意的に規定されるような存在ではないということを、あえて無視するか忘れるしかないだろう。さらに就活のしくみそのものは、こうした規定を促す〆切、明確に自分を何者か決めずに済むモラトリアム期間の刻限(急き立ての原因)として機能している。

逆にいえば、もし自分が何者であるかを社会に対して規定し示すことができないならば、人は牢獄に留まり続けることになる。ところで牢獄とは、非社会的な存在を社会の内部で隔離しておくための場所なのであった。取り残された囚人とは、社会に適応できなかったもののことである。


3,


しかし、無根拠になにかを判断するあるいは自分の判断の根拠の底を疑わないということは、自分の判断に決定的な盲点を抱え込むということである。この盲点を抱え込むことがいやならば(つまり去勢を拒否するならば)、人は人生において判断し続けるつまり生きるのではなく、人生から引いてそれを意識するしかない。とはいえそれは原理的には不可能なことである。なぜなら、人は人生を意識し同時にそのなかで生きているからである。この意識を悩みだと考えても同じである。悩みつづけることは人を社会の周縁へと追いやっていく。

最後に僕がここで考えておきたいのは、この人生に悩むということと、人生を生きるということを、夢という概念と突き合わせてどう考えればいいのかということだ。

ここで僕は人生を生きるということを、夢と等置することがどこまでできるのか、ということを考えてみたい。ここでいう夢とは、「人生とは儚い夢のようなものだ」という一般論におけるような夢でもあるが、精神分析的な意味での夢も含む。

精神分析における夢とは、ひとことでいえば、人の幼児的願望が前面に出てくるものである。たとえばフロイトはそれを一次過程への退行と呼ぶ。

フロイトにとって、人間は基本的に幻想の中に生きている存在であるが、この存在は、同時に、現実を捉える手段をも持ち合わせている。それは術語でいえば、一次過程と二次過程をあわせもつ存在である、ということだ。では一次過程と二次過程とはなにか。

人はなにかの対象を通じて満足を得たとき、このことを記憶するが、この記憶は厄介なものでもある。なぜならば、フロイトによれば、人はこの記憶を思い出すことを通じて、いわば記憶という実体を持たない幻想によっても、自分を満足させることができるからである。それは生命維持の観点からすれば危険なことである。なぜなら、たとえば飢餓の状態にあるときに、現実を省みずに食事の幻想だけを見ていたら、そのうち死んでしまうからである。幻想による願望充足の試みは幻滅に終わる。したがってある対象が出現したとき、人は、それがほんとうに現実のものなのかどうか、そしてそれが以前自分に満足をもたらしてくれたものと同じかどうかを判断しなければならない。対象とそこから得られる満足という点からすれば、このような現実吟味と対象の同一性の判断の機能を司るものこそが二次過程である。一次過程においては、人は幻想と現実の区別がつかないので、二次過程はこの一次過程を抑圧することによって人を現実に適応できるようにする。

ところが、人が寝ているときには、この二次過程の抑圧は弱まって、一次過程が前面にでてくる。このときに見るのが夢である。このような考え方は、しばしば人が夢の中にいるときにはそれを夢だと気付けないことがあるという、経験的なデータに基づくものだと思われる。

ところで、人が何かの同一性を判断するというとき、そこには言葉=語の機能が働いているということがわかる。なぜなら、人が流動する連続的な世界に、同一性を保つ非連続な対象を見出すのは、ひとえに言葉の機能に依るからである。そしてこの場合言葉は、ある対象について語ろうとする言葉として機能している。つまり語と物が分離している。

この議論に関連して、夢についてフロイトは面白いことを言っている。いわく夢においては、登場人物が喋る言葉には意味がない。それは夢を見ている本人のなかにあった、昼間のやりとりの記憶を、そのまま持ってきたり組み合わせたりしたものに過ぎないのである。

このことはなにを意味するか。夢においては言葉がなにかを意味する語としてではなく、たんなる物としてあつかわれていることがわかる。つまりそれは~についての言葉というよりも、そのような言葉があったならばそれがそれについて語ったであろうところの物、つまり~になっているのである。

これはいいかえれば、夢においては語の次元がないこと、あるいは二次過程が機能していないことを意味する。さらにそれは、なにかについて意識する意識の次元がないことをも意味するのである。

もちろん、厳密には、人は夢を意識して見ていることがありうるし、そこで言われた言葉に意味を見出して反応してしまうこともありうる。しかしもちろんフロイトの考える夢は、二次過程が完全になくなってしまった意識状態のことを意味するわけではないから、おそらくこのときには、緩和された二次過程が働いていたものと考えることができる。

いずれにせよ、このような意味で、なにかについて意識する次元が確保されない状態が夢だとするならば、まさしく人生を生きるということは夢を見ることに他ならないということになる。それでは人生について悩む(意識する)ということは、一方で、醒めていることを意味するのだろうか。つまり、社会に適応している多くの人はただ夢を見、悩んでいる時にだけ、目覚めていると言えるのだろうか。

おそらく、そうではないだろう。これはただちに人生を生きるということもまた目覚めているということなのだとか、人生に悩むということもまた夢を見ているということなのだということを意味するわけではない。というよりも、重要なのは、根本的に、目覚めているということと、眠っているということの区別をつけるのは原理的にはできない、ということである。

しかし、それにしても思うのは、醒めてあろうとしながらも、決断し社会化するということは、ある種のアイロニーを抜きにすればいかにして可能か、ということである。急き立てを使うのはひとつだろうし、欲望をうまく作るというのもそうだろう。しかしそれもなんだか違う気がしないでもない。また、これはある種、文系的な学問の知をどのように一般社会へ流通させればよいかという問題でもあるだろう(そうする必要があるかどうかというメタな問題はまた別としても)。この場合、世の中は夢をみすぎているのだ、といっても詮無いことである。多数者の夢こそが社会の現実を形成しているのだし、それにそれは非本質的に過ぎないものにみえながら、実はそれなくしては本質的なものすら成り立たないような、そういう性格のものだからである。

アイデンティティとその周辺

昔書いて途中でやめた原稿に自分語りをくわえたエッセイになります。

 

 

アイデンティティという言葉はよく人口に膾炙した言葉ですが、そのルーツを知っている人は意外と少ないのではないかと思います。ふつうに使われている言葉ほど、そういう傾向がある気がします。いちいちそんなものの意味や起源を問いはしない。実は、アイデンティティというのはもともとは一般的な言葉ではなくて、エリック・エリクソンという人が考えた、精神分析の術語、専門用語です。日本では、批評家の江藤淳がこの人の理論を応用したことで有名(?)です。
と、偉そうに言ってはみたものの、僕もその内実を詳しく知りませんし、エリクソンの本も読んだことがありません。しかしここではエリクソンアイデンティティ概念についてさしあたってciniiで拾った学術論文を参考にしつつ、その気軽なレビュー記事を書くという形式で、なにか述べてみたいと思います。なんだか無責任きわまる文章ではありますが、インターネット上の、それも匿名の個人が、なかば独り言というか、自分用のメモがわりに使っているようなブログの記事ということで、どうかご寛恕願いたいと思います。

1,

ここではとりあえずその学術論文の内容を僕なりに咀嚼した概説をしていきたいと思いますが、そのまえに一応、アイデンティティという言葉の一般的な意味を確認しておきましょう。さっきの話の続きみたいになりますが、やはり日常的にとは言わないまでも、人がよく使う言葉ほど、意外と定義が各々で食い違ったりするものですから…。
ではあらためて、アイデンティティとはなにか。僕の理解では、これは、一般的には、その人がその人であるということの根幹を支えるようなものです。たとえば僕は心身ともに男(ととりあえずいって僕の日常生活には支障ない)で、ヘテロセクシャル(異性愛者)で、日本人ですが、こういったことのうちのどれかが、僕にとっては重要なものでありえ、それが揺らぐと心がぐらついてしまう、そんな場合に、そのようなものを指してアイデンティティ、というようです。そしてそんな揺らぎが致命的になると、「アイデンティティ・クライシス」(日本語に訳せば自己同一性の危機)なんていうふうにもいいますね。
そしてついでながら僕個人とこの言葉の付き合いについても説明しておくと、僕は昔から性格が捻くれていますから、以前はアイデンティティという概念をはなから疑ってかかっていました。というのも、日本人だとか、異性愛者だとか、男性だとかいったものが、自分の核にあるとは言い難いと、感じていたからです。さらにいえば、そもそも核などというものを考えること自体、ばかげている。かりに核についてのそもそも論は置くとしても、少なくとも男性だのなんだのといったものはいわば僕の属性に過ぎないのであって、そういうものをいくら列挙したところで僕の核とやらにはたどり着きはしない。そんなふうに思っていました(もちろん今は多少違う見解を持っています)。
とはいえ、実はもともとの(つまりエリクソンの術語としての)アイデンティティというのはこのころの僕がイメージしていたような、簡単な概念ではない。たとえば河合隼雄というとある臨床心理学者がいうところによると、エリクソン自身、この言葉の意味をよくわかっていなかったそうで、これは本当かはわかりませんが、とりあえず河合先生のいうことをここに載せておきましょう。

このエリクソンのいいましたアイデンティティということば[…]は考えだすとわからなくなるのですね。
お互いに話をしているとわかっているような気がするんだけれども、ちょっとわからないところがある。とうとう誰かがエリクソンに、これは一言にしていうとどういうことですかと訊くと、エリクソンは苦笑いをしながら、いや実は自分もはっきりわからないんだと言った(笑)、というジョークみたいな話があります[…]。
つまり、アイデンティティというのは、みんなが普通の客観的な科学で使う概念というものではない。あることについて、できるだけかっちりと概念を決めてことばで定義し、それを使って論理的に一つの学問を構築するというのはわかりやすいのですけれども、われわれのようなこういう深層心理学をやっているものは、そういう概念として把握できない、いくらつかんでも何か残るという、そういう不思議なことばを発明して、そしてそれを使いながらみんないっしょに考えていく、そういうことをやっているわけです。

そしてここでは無粋(?)なことに「できるだけかっちりと概念を決めてことばで定義」することをやっていこうと思うわけですが、まずはここまでの基本的な話を踏まえた上で、アイデンティティという言葉にまつわるこうした曖昧さはどこから来るのかということをさしあたりの問いにして、学術論文の概説に移りましょう。
さて、ここで僕がとりあげたいのは村澤和多里の「E.H.エリクソンとP.L.バーガーによるアイデンティティ論の検討 ー青年期の理解と援助に向けてー」という論文です。バーガーって誰だよ、となると思いますが、実は僕も寡聞にして知りませんでした。その説明をうっちゃっても概説には差し支えないのですが、一応調べた情報を述べておくと、彼はアメリカの社会学者だそうです。社会学を専門に勉強なさっている方にはお馴染みの名前かもしれません。
ともあれ、本題に話を戻すと、本論文は基本的にアイデンティティという共通の言葉を巡る、エリクソンとバーガーの理解の違いを比較するものです。というかそこが僕にとっては重要ポイントです(ちなみに先回りして結論をいってしまうと、論者によればこの違いは歴史的文脈を相対的な視点から顧慮しているかどうか、ということにあるようですが、ここらへんのことは追い追いまた詳しく説明することにします)。
この論文を始めるにあたって、まず論者は、エリクソンアイデンティティをめぐる議論が、青年期理解のために考えられたものであるということに注意を促します。歴史的な背景をいえば、そこにはそもそも中産階級の問題でしかなかった青年期の問題が、産業の複雑化や、経済的発展に伴って、大衆の、つまり多くの人にとっての問題になったこと、それによってあらためてこうした青年期の問題を理解する必要性が高まったという事情があります。社会状況の変化に応じて、青年期に経験される様々な心の葛藤や屈託、そしてときにその表現として出てくる若者文化、または反社会的行為などをどう理解するか、という問いに答えることが大切になったわけです。
論者は、エリクソンの理論のユニークさは、こうした理解をするにあたって、「青年期の混乱状態を逸脱行為とは見ず、あくまでも社会的な文脈との間で進行するプロセスとして、それを位置づけようとしたところ」にあるといいます。簡単にいってしまえば、青年期とは自己と社会との距離感をうまく掴めない時期です。そして、そんな時期にあって試行錯誤しながら、自分なりに社会との関わり方を見つけようという過渡期の表現として、ある種の心理や行為、文化が生まれる、ということでしょう。
さて、こうした背景を踏まえると、エリクソンアイデンティティ論には、青年期における二つの相反する側面についての洞察が前提とされているということがわかるでしょう。青年は、一方では社会に適応していかなければならない。しかし他方では、こうした社会の既存のあり方に対する反発心のようなものもある。この二つの矛盾のあいだでどう自分のあり方を塩梅していくかということが、青年期に(少なくともこの理論が考えられた時代の)多くの人々が抱える共通の課題といえなくもなさそうです。
このような文脈から、まずアイデンティティとは、こうしたある種の発達の段階において危機にさらされ、確立されるものである、と定義できます。しかしこれはエリクソンアイデンティティ論が語ったことの一側面にしか過ぎません。
論者によれば、エリクソン的なアイデンティティ概念には、もう一つの側面があります。それはライフサイクル(子どもの頃、青年期、社会人としてバリバリ働いてる時期、定年退職してからの時期などなど…)に応じて変化し続ける不断の運動としてのアイデンティティの側面です。要するに、青年期に一回確立したらそれではい終了、というのがアイデンティティではないわけですね。いやそれもそのときのアイデンティティには違いないのでしょうが、やはり歳をとるなかで、また時代の変化にあわせて、(かりにアイデンティティなるものがあるとすれば)アイデンティティを変えていかなければいけないというのは当然なわけで、そうしたアイデンティティの変化の運動そのものがまたアイデンティティとして考えられる。静的な側面と動的な側面があるわけです。
このあと、人間の心の発達の段階やモラトリアムの時代ごとの社会的な形態についてもっと突っ込んだ細かい議論はあるわけですが、ここまでを踏まえたところでそれは割愛して、論者の問題提起に一足飛びに移りましょう。ここで論者が指摘するのは、エリクソンにおける歴史的・社会的な相対化の不十分さです。ひらたくいえば、それは、彼の理論は20世紀のある時期のアメリカという非常に限定された時代・場所における青年期のかたちを(そしてともすれば青年期そのものを)あまりに一般化・普遍化しすぎた、ということです。
では、青年期やアイデンティティのことを歴史・社会的な側面から捉えることはできないだろうか。こうした問いに基づいて論者が参照するのが、次に紹介されるバーガーのアイデンティティ論になります。
まずバーガーのアイデンティティ論を説明するにあたっては、この立論が彼の社会構築主義的な立場に依るところが多いということに注目しておきます。論者の要約によれば、社会構築主義とは「現実(リアリティ)がコミュニケーションの中で構築される」という考え方です。たとえば、ある何人かのあいだで共有されていただけの決まりごとやルーティンなどが他の人に伝達されたり子供に継承されたりすると、それがある社会のなかでの慣習法、しきたりになったりする(制度化)。これが制度として客観的に立ち現れてくるようになると(対象化)、その枠組みなしには人は現実を体験しえなくなる(内在化)。ようはコミュニーケーションから制度が生まれ、それが社会に生きる人々の現実になる、ということなのかもしれません。
このような意味で、バーガーにおける個人と社会の関係は、相互作用的なものです。個人同士のやりとりが社会を形成すると同時に、形成された社会が個人のあり方に大きな影響をも与える。なんというかこういう身もふたもない言い方をするとすごい当たり前の話っぽいですが、ともあれこの考え方がアイデンティティ論にまで敷衍されると、やはりエリクソンのそれと似通ってくるわけですね。エリクソンも社会と個人の関係ということを考える。
そしてまたエリクソンアイデンティティ論とバーガーのそれの違いも、ここに顕著に現れます。論者によれば、アイデンティティの安定について、エリクソンは個人のなかの一貫性がそれを可能にしていると考えているのに対し、バーガーのほうは社会の圧力がそれを可能にしていると考えているようです。「エリクソンの描く青年が内的な一貫性をめぐって苦悩しているのに対して、バーガーの描く人間は外部からの与えられる状況への定義に締め付けられているのである」。
さらにバーガーは、アイデンティティの変化をめぐって、エリクソンが基盤としている精神分析の療法についても、面白い見解を示しているようです。アイデンティティの変化は、バーガーによれば、社会の変化に強く影響を受けた結果としてありますが、これはいいかえれば、イデオロギーの変化にともなう変化でもあります。そしてバーガーは、このイデオロギーの変化という側面が、精神分析療法にもあるといいます。もちろん精神病や神経症といった心に関わる病、症状は、歴史・社会状況に左右されるものですし、それを心の「病気」だとか「異常」だとかいうふうに決めるのも、社会の規範なわけですね。たとえばヒステリーは現在ではほとんど見られなくなったそうですが、それは現代が昔に比べ、性の問題について抑圧的でないからだといえます。そして精神分析療法は、こうした社会制度に規定されたことによって患者の精神に生じたある特定の状態を、社会に適応したかたちに作り変えるという作業ともいえる。しかし、それは患者がイデオロギーを脱したということを意味するのではなくて、別のイデオロギーに移動したということを意味するわけです、というか、少なくともバーガーはそう考えたようです。そしてそのイデオロギーとは、バーガーにとって、精神分析医の心が持つ枠内でのイデオロギーに他ならない。
こういう図式的な構図を描くとややエリクソンにたいして不誠実な気はしますが、ともあれこのように、エリクソンにあってはそれが主題化されず予め肯定された上でアイデンティティの問題が考えられているところの精神分析療法が、バーガーにおいては相対化されているというのは、踏まえておくべき点でしょう。そしてそこから次のような問いの違いが生まれてくることになります。

バーガーにも現代人がアイデンティティに関する問題意識を抱いているという認識があるのだが、問いの立て方は、エリクソンとはだいぶ違う。エリクソンにおいては、目的としてのアイデンティティが先にあり、なぜそれが確立できないのか、どのように確立していくものなのかという問いが探求されていた。これに対してバーガーにおいては、なぜ現代人はこれほどまでにアイデンティティにこだわるのかという問いに転換されており、さらにそれが歴史的な文脈において探求されることで相対化されている。

そしてこの探求の結果としては、前近代と近代における主体のあり方の違い、という馴染み深い話が出てきます。すなわち、前近代においては社会において個人にあらゆる選択の自由がなく、なおかつ共同体のなかで各々にある程度の役割が定められていたわけですが、近代以後はそれが自由になったり、高度な産業化によって個人が機械部品のように匿名化されることで、自分というものの根拠が不安定になった、というストーリーですね。つまり社会の安定を求めれば個人の自由はある程度抑制されてしまうが、それゆえに自らがどのように生きるべきか迷わずに済んだところを、個人の自由を求めると社会が流動化し共同体の基盤が崩れ、個人々々が匿名化していくうえに、人は与えられた自由のなかで困惑する、という現象が起こるわけです。こうした議論は資本主義経済の仕組み、産業構造の変化などとも合わせて論じなければ説得的にならないのですが、ともあれこれについてはここでは割愛したいと思います。

2,

いろいろ省いた部分はありますが、ひとまず論文の概説は終えたことにしたいと思います。念のためもう一度まとめておきましょう。エリクソンにおいてアイデンティティとは個人と社会との関わり方を模索するなかで形成されるものです。しかしエリクソンのこの議論はある限定された歴史的・社会的な状況におけるアイデンティティの問題を普遍化しすぎたきらいがある。そこでバーガーの議論が参照され、むしろなぜアイデンティティの問題が現代に重要視されるのかという問いが立てられる。その考察の結果として出てきたのが、前近代と近代以後の社会条件の違いである。社会が流動化し、個人の自由が尊重されると、一人一人がかけがえのなさを失ったり、その自由の前に困惑したりすることになる。そこでそういった問題が出てきてしまう。
さて、ふつうはここまでを踏まえたところで、どちらが正しいとか正しくないとかいう議論が続くのでしょうが、ここではそういったことはしないことにします。なぜなら、そういった議論や判断をおこなうためにはもっとこのあたりの議論について勉強しなければならないからです。でもそこまでのことをするつもりはない。そこでこれからは感想というか、アイデンティティの問題を僕なりの言葉や考えで引き受けておきたいと思います(なお、以下、アイデンティティについての定義の話は終わり、僕のぐだぐだした要領を得ない喋りが続くことになるので、人によってはここで引き返してもらったほうがよいかもしれません)。
そこでまずはバーグの議論を再び普遍化というか、形式化してしまいましょう。すると、アイデンティティと近代以後、という歴史的な意味でのアイデンティティ議論は、自由と必然、あるいは可能性と現実性という形式の二元論に還元することができます。どういうことでしょうか。
まず可能性と現実性、自由と必然といった言葉が、それぞれ選択という問題に関わることを押さえておきましょう。たとえば、自由であり、選択可能であるということは、いいかえれば選択の根拠を自分に持ってくるしかないということです(もちろんこれは選択に根拠がなければならないということではありませんが)。しかし根拠というものはつねに他なるものを規定するものですから、自分で自分を規定するというのは難しい。何かを選択する欲望を作るためにも、なにかの文脈に依存する必要がある。だから、たとえば世の中のために生きたいという発想などは、選択の根拠に他人の欲望を据えるという、ひとつの選択の方法としてある。その生き方を自ら選ぶのだというふうにして、でもその根拠は他から持ってくる。
そして、この点、つまり根拠をどう持ってくるかという点では、共同体の方が圧倒的に楽です。共同体が職を、生き方を、決めてくれる。自分は考えなくて済む。その限定の中で、自分はこうでしかあり得なかった(必然)というふうな自分を生きることができる。自分らしさとは、逆説的にも、実は過去や、他人や、社会に根拠づけられるものであったりする。
これはいいかえれば、人は何かに限定されなければ、なにも選べないということです。そしてこれをまた別の角度から照射すれば、自分が限定されない存在であると考えたければ、可能性に逃げればいいということでもあります。現実には何にもなれない代わりに、幻想つまり可能性のなかでは、自分は何にでもなれる、あるいはああしていればなれたはずだった、とかいうふうに想像することができる。そしてこの思考は「もしも」というふうな、仮定や可能性を考えるようなものの考え方を前提としています(もしもあのときあの人と付き合っていれば、もしもあのときあそこで逃げなければ、…)。
だからある意味で、共同体から自由な社会へという発想を形式にまで還元すれば、そうした移行が、こういう逃避の欲望に支えられているといることもあるでしょう(もちろん実際の歴史的な状況はもっと複雑だったと思いますが)。このようにバーガーの議論を形式化すれば、こういう自由-必然、可能性-現実性という軸が見えてくる気がします。

3,

実は、こうしたことは、僕は以前にも一度考えたことがありました。それこそ河合先生の本を読んでいたときに考えたという気がします。しかしそのときにはまだ見えていないことも多かった。
たとえば、そのとき考えていたのは、僕のある癖が、まさにこの可能性への逃避なのではないかということです。その癖というのは、懐疑癖です。ではなぜ懐疑癖が可能性への逃避なのか。それは、懐疑が、つねに判断の保留としてあるからです。
判断するということは、ある意味では恐ろしいことです。なぜならば、どんな判断も、つねにそれが具体的なものである以上、誤りの可能性を含んでいるからです(ちなみに、ここでいう判断というのは、正誤についての判断というよりもーーそれはそれで微妙な話なのですが今は脇に置いておきたいと思いますーー、善悪についての判断などをさしています)。そのようにして判断によって自分の立場を確定するということは、自分を現実の場におき、有限化することでもある。
もちろん、僕がそうした判断についてつねに慎重でいたいと思い、懐疑してきたのには、別のまともな理由もあるでしょう。たとえば、善悪についての判断をあまりに性急に、また粗雑におこなうことには、誰かを傷つける危険性が伴います。だから僕は善意から、そういう判断について慎重にならざるを得なかった、ということもできるでしょう。しかし、自分がなぜそのような癖を持っているかということは原理的には自分ではわからないことです。わからない以上は、こんなふうに自分に都合のいい解釈をするだけでなく、いろんな可能性を検討してみる必要がある。するとやはり、懐疑癖が可能性への逃避に支えられているというのはありそうなことに思えます。
ともあれ、昔の僕が考えていたのはこういうことでした。では最近の僕はといえば、このことをコミュニケーションの問題として考えていたりします。
たとえば、僕はコミュニケーションが苦手ですが、この苦手意識は実は中学校のころに始まっています。
小学校低学年から中学年くらいまで、僕は冗談をいったり、友達とふざけたりするのが好きでした。しかし中学校に入るかその前あたりから、そういうふうにして人と笑ったり喋ったりしているときに、ふと、そうした状況をもう一人の冷めた自分が眺めているような、そんな意識を覚えるようになりました。人によってはこれを自意識というかもしれません。
これが中学校に入るとますます酷くなり、いつしか自分がどういうふうに振舞っていいかよくわからなくなってしまった。そしてこれと軌を一にするように冗談もいえなくなってしまった。
なぜこんなことが起こったのか。色々な原因があるでしょう。それでもあえて一つあげるならば、それは、僕が人を笑わせるのが好きだったからではないかと思います。たとえば冗談をいうには、まず自分がいる状況から身を引いて、それについて意外な視点からコメントを加えなければなりません。しかし状況から身を引くということは、状況のなかにいる自分と、それを引いて見ている自分が分裂してしまうということでもあります。そして後者の視点からみれば、どんな状況もある程度他人事に見える。たとえば「内輪受け」という言葉がありますが、これはその内輪=仲間内のノリの外にいる人が、そのノリについていけず、それを冷めた態度で揶揄するようなときにも使われますね。いわばこの時の僕の状況は、(揶揄することこそないものの)このような内輪受けについていけない状態にいたわけです。
さて、とりあえずこのような内輪のノリに疑いを抱かず浸っていることを、ここでは「内在」と呼んでおきましょう。そしてその外側にいることを、「超越」と呼んでおくことにしましょう。
このような言葉を使うと、この当時の僕は、状況に内在しながら、それを同時に超越しようとしてしまっていた、といえるわけです。そしてこのことは懐疑の問題にも完全につながります。なぜなら、懐疑とは、まさしく状況を超越しようとすることだからです。たとえば内輪のノリに内在しているとき、僕はそのノリが別の仕方で見える(外からみればつまらないかもしれない)ということを知りませんが、それと同じように、判断をし、それを確信しているときにも、僕はその判断について判断することはできない、つまり判断に内在してしまっているわけです。それでは外野から冷ややかな目で見られるかもしれないし間違うかもしれない。それがいやならあくまで疑うしかないし、ノリの外に出ようとするしかない。このようなわけで、少なくとも判断についてのみいえば、僕は、そこからあくまで超越することで、可能性のなかに逃避し、その可能性のなかでのみ自分の優位性を確保しようとしていたのかもしれないわけです。
そしてそれをコミュニケーションの問題として語り直せば、僕は別のあらゆる内輪の可能性に逃避することで、内輪に内在してしまったときに別の界隈から冷めた目で見られるかもしれないリスクから免れていたということになるのかもしれない。
しかし、そのツケは、振る舞いについての判断エラーとして、そしてその結果としての挙動不審やぎこちなさとして帰結してしまうことになります。それは僕がちゃんと「超越」できたわけではないということを意味するでしょう。僕は一方では超越しようとしましたが、そのように超越しようとした自分自身はどうしようもなく状況に内在している。そしてそのなかで僕が迷っている間に、はやめに自分の振る舞いのタイプや判断を確定させ、それを用いてコミュニケーションの経験を積んだ人々は、とっくにコミュニケーションの玄人になっており、他方の僕はそのなかで打ち解けない、挙動不審な、ヘンな奴として位置付けられてしまう。そしてそのような自己認識がますます振る舞いをおかしなほうに空転させてしまう…。
おそらく少なくない人が多かれ少なかれこれと似たような経験をしているでしょう。そしてそれについて悩んだこともあるかもしれません。そうした人々にとって次なる問題は、その話がどうアイデンティティと関係するかということでしょう。

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先ほど、僕は、ふつうにコミュニケーションができている人たちのことを、「はやめに自分の振る舞いのタイプや判断を確定させ、それを用いてコミュニケーションの経験を積んだ玄人」だといいました。ここで注目すべきは、「振る舞いのタイプ」という言葉と、「はやめに確定させる」という文句の「はやめに」と「確定させる」です。
たとえば、エリクソンアイデンティティを社会と自己の擦り合わせの中で作られていくものだと考えました。それはいいかえれば、自分が何者であるのかということを、社会の視線を考慮しながら、決定するということでもあります。そしてこの決定までにはタイムリミットがあります。たとえば現行の日本の教育制度に則って生きていくと、ふつう高校を卒業する頃には進路が決まっていないといけないわけです。もちろん、人によって個人差はありますし、多少はやかったり遅れたりしても取り返しがつくことはあるかもしれませんが、基本的には進路決定が遅れれば遅れるほど色んな道が絶たれていくように思われる。こうしたある種の〆切に急かされるかたちで、人々は自分が何者かを決めざるを得なくなっていくという側面があります。さらにそれは畢竟、自分はどういう動機に基づいてどういう仕事をするつもりだとかいったことを他人に説明できるようになる、自分と自分の言葉を社会化・一般化していくということでもある(たとえば言葉にできぬ悲しみを感じたとき、あなたのその悲しみはあなた固有の悲しみかもしれませんが、それを人に伝えるときには、悲しみというレディメイドの言葉を使うしかなく、その時点であなたの悲しみは社会的・一般的悲しみとして流通し始めてしまいます)。卑近な例をあげれば就活においてESを書くという作業はまさにそれにあたるわけですが、これなどは決定と急ぎの最たる例です。なにしろはやく始めないと〆切に間に合わないし、ほかの就活生に枠を取られてしまうわけですから。このように、自分が何者かを急いで決定するということと、振る舞いのタイプを早めに確定するということは似ている。
そのようなわけでこれはコミュニケーションの場面においても起こっていることだという気がするのです。たとえば僕たちは、ある人と話しているときに「こんなふうな喋り方をする奴、いるよな」と思うことがあります。実際のところ、人は千差万別のはずなのに、よくよく聞いてみると、抑揚や、喋り方がそっくりな人というのはいっぱいいます。このようなことが起こるのは、おそらく、人が自分の喋り方を、以前自分が聞いたある喋り方の型を記憶し、それらをコラージュして作ったり、相手によってそれらを使い分けているからでしょう。その意味で、コミュニケーションとは、少なくとも形式面においては、常にかつてなされた別の誰かと誰かのコミュニケーションの反復なのかもしれないわけです。
そうすると、いいかえればこのコラージュをどのようにおこなうかということを決定することは、自分を相手に対してどのように見せるかということを決定することでもある。そしてそこに時間(急ぎ)の問題が関わっているときに僕の問題が見えてくる。つまり、相手に合わせて自分をどう見せるかを決定していく、そういう作業について、僕はミクロな視点でもマクロな視点でも躊躇ってしまい、それゆえに出遅れてしまっているのではないか。そしてそれが致命的な結果を招いているのではないか。
では、そうしたアイデンティティやコミュニケーションにおける非決定と遅れが可能性への逃避とその結果にほかならないとするなら、それはつまり何から逃避していることになるのか。
それはまず第一に、ここで散々繰り返してきたように、必然性あるいは現実性あるいは有限性から、でしょう。しかし別の観点からすれば、それは内在することからの逃避でもあります。最近の僕のはやりは、これをさらにゲームに内在することからの逃避だと考えてみるという考え方です。すると、僕は他人とおこなうゲームのなかで、その共同ルールに沿って戦いたくないがために、ルールを疑ったり、ルールの裏をかいたりするために、超越しようとしているといいかえられる。しかし他人と生きていく以上、そのゲームの外へは逃げられない。だから実際にはゲームを超越したつもりでそこに内在してしまっており、この内在において、そのような人間はゲームに負けざるをえない。
考えてみれば僕は昔から他人と戦ったり、傷ついたり、傷つけたりするのが嫌いで仕方がなかった。しかしそうも言ってられないような状況になってきており、この「状況になってきている」ということには、とりもなおさず時間(急ぎ)の問題が関わってくる。さらにここには応答可能性=責任の問題が関わっている。では僕はどうすべきなのか。いまだにそれはよくわかっていません。なにしろ自分が何年も何年も避けてきたことを、今更やろうというわけですから、カンもないし体もそういうふうにできていない。しかしともあれなんとかしなければどうしようもないだろう。そしてそういう実践の問題とは別に、表象や文化について考えるというような観点から、このゲームという比喩を愚直にアナログ/デジタルゲームにおいて考えてみたらどうだろうか、などともぼんやり思っていたり。なんだか混乱した語り方しかできませんが、近頃はこんなことを考えます。

5,

最後は自分ではなく、ある別の人のことについて、この議論の視点から語りたいと思います。というのもこの人の事例は僕のそれと正反対に思えるからです。
その男性は両親との関係に問題を抱えていました。父親はすこし人格に問題がある人だったようで、男性に対して愛がなかったわけではないようですが、彼は父からときおり人格攻撃ではないかというような言葉を言われたそうです。そして母親の方も、そんな父から彼を庇ってくれなかった。
そしてこの両親は非常にエリート志向の強い人たちでもあったようで、実際この父親は優秀な人でしたから、彼はそんな家庭に育って、そのような価値観に触れながら、つねにその価値観からして満たすべき基準を満たしていない自分に対する劣等感を抱いていた。そしていわゆるメランコリー親和型に近い人格を形成してしまった。
ところで、よく鬱病患者は、自分が○○をできないからダメだ、○○でないからダメだ、というようなことを考えがちなようです。彼にもそのような癖がありました。なにかと他人と比較しては、自分の能力や状態が劣っていることを嘆いていて、よく自己卑下をしていた。一方、僕は彼に共感できるところもありながら、根底でこの人と僕は異なるという気持ちをどこかで持っていた。
最近、僕はぼんやりと上述のようなことを考えるなかで、その違いを言葉にできるような気がしてきました。おそらく、ここで問題になっているのは自己肯定感です。
僕が彼と自分の違いを感じたのは、まず、彼が○○でないということと、だから自分はダメだということを、短絡していることに共感できなかったからでした。僕にとっては、僕がこういう学歴を持っているとか、こういう職業についているとか、こんなことができるといったことは、僕の自尊心とそこまで決定的な関係を持っていなかったからです。いいかえれば、そうしたことはあくまで僕が何であるかということに過ぎないであって、それと僕がそれ自体で肯定されてよい存在であるということとは、完全には関わらない。もちろん、僕も自分がなんであるか、ありたいかという点において至らず落ち込むことはありますが、それとこれとは話は別で、そのような自己嫌悪や落ち込みの最中においても、根底において僕は自分を肯定している。
しかし、彼の場合はそうではなく、自分がどうであるかということと、自分がそれ自体肯定されるべき存在であるかどうかということが、強くつながってしまっている。それがおそらく僕と彼の違いです。
では、その二つの違いはどのような性質のものなのか。
このことを、アイデンティティの議論から考えてみましょう。アイデンティティとは、今の僕の考えでは、社会と自分の折衝のなかで生まれる妥協点のことです。そしてこのことを踏まえると、僕と彼について次のようなことが言えるでしょう。まず、僕はこの妥協点を探る作業において、社会の要請するあり方に対して自分を合わせるのに難儀している。一方で彼の方では、自分のあるべきあり方が社会(あるいは他人)が要請するそれに短絡してしまっているため、それとは別に自分を肯定することができずにいる。たぶん両者にはこのような違いがあるのでしょう。
しかしこうした議論は、なおも細かく検討する余地のあることでしょう。たとえばこうしたことはフロイトのメランコリー論とはどのように関連づけられるのか…。
ともあれここらへんで、とりとめもないおしゃべりはやめておくことにします。

規定と反省ーー作品を論じるということあるいは考えるということ

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とあるところで自分の研究について発表する機会があって、人に批判された。その批判の内容は、作品について語る際、それに用いる枠組みと作品との対応関係がちゃんととれていない、というものである。つまり簡単にいえば、たんなる雑な当てはめだということだ。
作品論を展開する際、ふつう、人は作品についてある理論的な枠組みを使う。それが哲学であれ、社会学であれ、精神分析であれ、あるいはなにかしらの一般論であれ、そうすることが多いだろう。つまり、作品論には、論じられる作品と、作品を論じるための枠組みがある。そして、そのときには、作品は枠組みによってその意味を規定されるということができる。
たとえば、ある物語の展開について「これは抑圧されたものの回帰だ」といえば、それは精神分析の「抑圧」という術語と、それをめぐる議論の枠組みによって、作品を規定しているということができる。
しかしここで問題なのは、このような作品論がその作品についての論ではなく、枠組みが枠組みについて語っている論になってしまう危険性を秘めているということである。というよりも、僕の考え方では、作品論とはつねにこのように、枠組みの自分語りにならざるをえない。どういうことか。
ここでかりに、枠組みが当てはめでない場合を考えてみよう。するとそれは、作品自体がその枠組みの反証となるような場合である、と考えることができる。そして作品自体がその論の枠組みの反証であるならば、枠組みは妥当性を失う。つまりそれに依拠していた作品論自体の妥当性が失われてしまう。したがって、規定の細かさ粗さの違いはあれ、もし作品とそれを論じる枠組みの確固とした関係を維持したいならば、作品における枠組みの一貫性を脅かしうる要素はなかったことにするしかない。
ともあれ、おそらく批判者が僕の論についていいたかったのは、この枠組みの自分語り的な性格が、僕の議論に見られたからだろう。
その批判の是非はともあれ、これはかなり根本的な問題である。そしてそれについては以前から僕も考えていた。その考えを、この際、ここにまとめておこうと思う。

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先ほど、僕は、作品論には、論じられる作品と、作品を論じるための枠組みがあり、この二つの関係は、一方が他方によって規定される関係であると述べた。実はこの規定という言葉は、カントの術語である。そしてこのカントの術語としての規定について考えることは、作品論における枠組みのことを考える上で非常に重要なことなので、ここではまずその説明をしておきたい。
規定は、カントにおいて、判断力という術語を語る際に典型的な使われ方をする。カントは判断力を人間の先天的な能力の一つとして示したが、この判断力にはいくつかの種類がある。そのうちの一つに、規定的判断力というものがある。
規定的判断力とは、ひらたくいえば、ある普遍的な法則と、現象や対象とのあいだに照応関係があるかどうかを判断する能力である。たとえば、三角形という概念に当てはまる図形を様々な図形のうちから判別し選び出せるのは、我々に規定的判断力があるからである。
さらにカントによれば、規定的判断力には、それと対照関係を持つ判断力がある。それは反省的判断力である。反省的判断力は、個別の事例から普遍的なものを発見する能力である。たとえば人Aが死に人Bが死に人Cが死ねば、そこから、「人はいつか死ぬ」という考えが導きだせる。
勘のいい方ならお気付きのように、この二つはそれぞれ演繹と帰納の話をしているように見える。そして事実それは妥当だろう。規定的判断力は普遍的なものを個別的なものに当てはめる能力であり、反省的判断力は個別的なものから普遍的なものを抽出する能力なのだから。

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それでは、作品をある枠組みを使って論じるということは、どちらの判断力に依拠してなされるのか。ここで、作品は個別的なものであり、枠組みは普遍的なものであると考えることができる。したがって、普遍的なものに個別的なものを当てはめるという作品論的な操作は、規定的判断力によってなされることがわかる。ということはそれは本質的に演繹的な作業である(という今の操作も僕の規定的判断力によってなされている)。
ところで演繹にはいくつかの弱点がある。そのなかでももっとも致命的なのは、演繹が大前提とした命題がもし間違っていたとしたら、その結論もまた間違っていることになる、ということである。したがって大前提は、もしある演繹についてそれを正しいと強弁したいならば、決して疑ってはならないし、その根拠について問うてはならないものとしてある。
作品論についても同じことがいえる。ある作品論についてそれを正しいとするならば、その前提となる枠組みは疑いえない。それを当てはめる作品は、したがって、この枠組みに沿うものでなければならない。そうしたことの結果として生まれるのは、枠組みが枠組み自身について語るという独我論的な空転である。規定・演繹と反省・帰納という言葉を使って先の議論を置き換えると、このような言い方になる。
実は僕は以前から作品論にかんするこういう不毛さに気づいていたし、一時期はそれで完全にうんざりしてしまったこともあった。ところが、一方で、それでもこうした作品論らしきよくわからない記事を、僕は相変わらず書き続けている。それはなぜなのか。

3,
その答えは、僕が、人は規定と反省の繰り返しで理論を研ぎ澄ましていくと考えているからである。
たとえば、ある大前提を立てるためには、どこかしらで帰納に頼らなければならない。先の「抑圧」という言葉を例にあげよう。抑圧は、精神分析の術語であるが、これは、個別具体的な神経症患者つまり個別的なデータを参考にすることによって考え出された抽象概念である。したがってそれは帰納的、反省的に考え出されたものだ。しかしそれを一度作品に当てはめるとなると、今度は抑圧という普遍的なものを大前提として、作品という個別的な事例に当てはめる必要がある。
しかし、たいがい一回こっきりの帰納で生み出された概念などというものは、しばしばあいまいなものである。たとえば道徳などという言葉はあまりに漠然としているから、それについては、個別事例を偶然的にひたすら列挙するのでなければ、様々な分類をする必要がある。いいかえれば、抽象概念にはたいがいその例外や、それに当てはまるのかもしれないが、かといって他のものと一括りにするのもどうかと思われるような個別的なものが出てくる。もしこれをなかったことにすればその抽象概念はそれ以上細かくならないし厳密にもならない。逆にそうするためにはこの例外的なものたちについて再び帰納、抽象化をおこない、細かく考える、という作業を、不断に続けなければならなくなる。そしてこの作業はいくらやっても現実の特殊なあるものには到達しない。それが言葉や理論の限界である。
ともあれ、しかしながらこうした例外に気付くには、人はたとえ荒削りな概念や枠組みであれ、それを何かに当てはめるということをしてみなければならない。それで枠組みと対象の齟齬に気づかなかったり、気づかないふりをするようならこの人の思考はそこで終わりである。もし気づけてなおかつその気づきを活かしたいと思うならばこれ幸いと、自分が立てた論の崩壊を恐れずに、その例外について考えるのが良い。そして僕はものを考えたい人だから、どちらかといえば後者の態度をとりたいと考える。もちろんたまには一つの枠組みに安住したいということはあるが。
いずれにせよ、僕がこれまでやってきたことは、ようするに、作品論を論じてはそれを自己批判し、自己批判して作り直した枠組みで作品論を論じてはまたそれを自己批判する、という反復作業である。そしてこれはある意味で作品に対する枠組みの優位関係の定立を、アイロニカルには(つまり作品論を論じる際に一時的には)やるとしても、根本的にはやらないということでもある。
むろん、この選択は作品論を論じるに際して方法的な困難を呼び寄せる。おまけに精神衛生にもよくない。しかしもしある事柄についてちゃんと考えようとするならば、この困難は避けてはならないし、甘んじてうけるべきものであろう。そしてこうした困難を避けるつもりも退けるつもりもない僕の議論が比較的当てはめに過ぎないように見えるというのは、ひとえに僕の思考力の問題もあるし、反復がまだ足りないということもあるのだろう。いずれにせよその指摘された等の理論についても、まだまだ精進が必要だということだ。