かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

好きでいるための努力

大昔に『化物語』を読んだとき、強烈に印象に残ったことがある。それは八九寺真宵の「好きなものを好きでいるために努力することは不純なことではなく大事なことなんだ」という旨のセリフだ。

一方には、ほんとうに好きならば、それを好きでいるために努力する必要なんてない、したがって好きであろうとし続けることは不純だ、といったたぐいの考えがありうる。そして真宵のこの発言は、そういう立場に対して、ほんとうにそうなのだろうかと、問いかけ直すようなものである。

現在、僕の手元に『化物語』はなく、確認が取れないため、もちろんこういうことを真宵が言ったかどうか、あるいはこういう文脈の話だったのかは定かでなく、僕の記憶違いの可能性も大いにありうる。ただ、僕にとって重要なのは、その発言の有無や真偽よりも、その内容だ。好きなものを好きでいるということはどういうことなのか。そのために努力は必要なのか。この問いそのものが妥当なものなのかはともかく、それを通じて考えられようとしているものは、とても深い問題なのではないかというのが、僕なりの直観だ。

ところで、こういうことをことさらに今とりあげるのは、僕が最近、まさに好きなものを好きでい続けるために努力する必要を感じたことがあったからだ。その好きなものとはアニメである。

実は最近、アニメを見ることに飽きつつあった。理由はよくわからない。ただ敢えてそれを挙げるとすれば、いくつかあげられないこともない。たとえば、アニメにお定まりの文法みたいなものに食傷しているというのがひとつ、それからこれは数年前から薄々感じていたことではあるが、毎クール毎クール数十本単位でコンテンツがひたすら濫造され、それらのほとんどがクールが過ぎ去るとともに潮が引くように忘れ去られるという状況の過剰なスピード感なりバカバカしさなりについていけなくなってきたというのがひとつ(もっとも、これは作り手が考えなしに作りまくってるとか、消費者が馬鹿みたいに消費しまくってるからこうなってるというよりは、市場そのものの構造的な問題なのだろう)、最後にこれは非常につまらない理由ではあるが、僕もそろそろ歳だしなと感じているというのがひとつ。あと多少これもまた馬鹿げた話だが、僕の集中力の低下もあるいは要因の一つかもしれない。

ともかく、それで最近はアメリカ文学(チャンドラー、アーヴィング、キング)やアクション映画の方に関心が行っているという次第で、アニメはこれきりとうぶん見なくてもいいかもしれないと思いかけていた。そして後に述べるような理由でモチベーションは再燃したし、今期(2018年秋クール)はさいわい『ゾンビランドサガ』のおかげで楽しくオタ活できているのだが、それでも来期はどうなっているかわからない。

そしてこれはどうやら僕だけに起こっている現象でもないらしい。たとえば地元でよくあう友人などは、かつては中学生時代にそのクール毎に放映されているアニメをめぐってともに雑談に花を咲かせたものだが、いまやそのモチベーションはほとんどないらしい。それにTwitterをぐるりと見回してみても、社会人になったのを機にとか、なんとなくとか、その他様々な理由で、アニメを見なくなっていく人は多いように見受けられる。もちろん、それらを共通の現象として一括りにできるかどうかは大いに疑問だが、まぁそういった人は一定数いるわけだ。

もちろん、僕もそういった人たちの大多数のように、なんとなくでアニメから撤退、アニオタ(そもそも僕はアニオタだったのかわからないが)は廃業! というふうにしても良いのかもしれない。

でも、十代の前半から後半にかけてあれだけ熱中し、いろんな問題を抱えつつも付き合ってきた趣味なりライフスタイルなりを、今になって、こんなかたちでやめてしまうというのも、なんだか寂しい話である(僕はこの手の詮無い感傷に固執して道を踏み外すことが少なくないが、それはそれとして)。それで僕は最近、アニメを好きでい続けるために、努力をすることにした。

たとえば、最新話を1話1話見終わるたびに、自分なりに面白かったところ、見応えがあったところ、そしてその箇所から感じたことなどをできるかぎり具体的に、Twitter言語化したり、人の感想を検索して読むようにした。もともと僕はなにごとにつけ言語化や感想の共有というものを軽蔑していた時期があったので、そういうことに慣れ親しんでこなかったというようなこともあり、そういう作業は苦手だったのだが、それを繰り返していくうち、だんだんとそのコンテンツに漠然と感じていた魅力が焦点を結ぶようになり、それが視聴継続のモチベーションになった。

また、別の例を挙げれば、こういうところがもしかしたら僕がアニオタらしからぬ? ところなのかもしれないが、僕は今までアニメ雑誌やwebの記事なんかをろくすっぽ読んだことがなかった。それを最近になって、別の記事で書いた雑誌への興味も手伝って、多少チェックするようになった。またweb記事の情報を拾うため、作品毎の宣伝用Twitter公式アカウントのツイートをしっかり追うようにした。

すると、そこでやはり自分が今まで読まなかったようなものを読む機会が増える。たとえば声優へのインタビュー記事がそれである。もともと、僕はスタッフはともかく、キャスト(声優)がそのコンテンツについてどう考えているかということにはほとんど興味がなかったのだが、それを読んでいるうちにだんだんと面白いと感じるようになった。作り手として作品に携わっている人たちの作品解釈、キャラクター解釈を読むことを通して、作品の魅力を新たに意識したりそれを語る新たな語彙を得られるということはもちろんだが、かれらがどのように試行錯誤し、考えながら演技に臨んでいるかということを知ると、そこで言及されていた具体的な場面を見直すために、一度見たエピソードを復習する機会にもなった。

もちろん、こうしたことは、ふつうのアニオタ(アニメ好き?)は当たり前のようにやっていることなのかもしれない。しかし、僕にとってこうしたことはひどく新鮮な体験だったので、こんなふうに一工夫すれば、こんなにもコンテンツは楽しめるようになるのか、とびっくりした。それとともに、自分が今までいかにテキトーにコンテンツと関わってきたのかに気づき、それもまた大きな驚きとなった。

では、そのテキトーさとはなんだったのか。それはひとつには、細部への(アイロニカルなという意味ではなく、素直な)こだわりや、そういうこだわりを持っている自分の感覚への無関心だろう。また他方では、それは、欲望の文脈をしっかり多様化していく作業の欠如だったのだろう。人は何かを好きになるとき、その好きを意識し感覚していなければならないし、その好きは様々な文脈を絡めることで多様化していくことができる(そしてそういう意味ではアニメ以外のほかのジャンルにも色々と手を出しがちな僕の傾向は良いものなのかもしれない)。すごく大雑把な話をすれば、僕が今まで怠ってきたのは、その二つだったのではないかと思われる。

隈、陰キャ、三白眼、ゾンビ

とくに突っ込んだ話はしません。きわめて私的な話になっています。

 

 

誰にでも変わった趣味嗜好のひとつやふたつはあるものだ。もちろん、僕にも例外なくそんな趣味嗜好が存在する。

それに最初に気づいたのは、大学生の頃だったと思う。僕はある日、『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』の不破氷菓や、『リトルウィッチアカデミア』のスーシィに異常に惹かれている自分に気がついた。そしてその共通点を探っていった結果、そこから「隈がある」「陰キャ」「偏執的で変人」といった要素を見出すに至った。

そうして振り返ってみると、またべつに二人ばかり似たようなキャラクターに心当たりがあることに気がつく。それは『とある科学の超電磁砲』の木山春生であり、『じょしらく』の暗落亭苦来である。後者は不破氷菓とならべるとキャストが後藤沙緒里という別の線も見いだせるのだが(なお僕は後藤沙緒里の声が大好きであり、またこれはきわめて個人的な見解であるため必ずしも多くの同意を得られるとは思わないが、彼女については『咲』のすこやんが至高のハマり役だと考えている)、いずれも、僕が高校生の頃に萌えていたキャラクターであった。

断っておくが、僕はもちろんマイナー性癖持ってるオレ、みたいなサブカルクソ野郎的自意識を持ち合わせてはいないし、ましてやそのような魂胆からことさらにこういったキャラクターたちを称揚しているというわけではない。たんに、このキャラ可愛いな、あのキャラ素敵だな、という経験的なデータが積み重なった結果、ある日こうした嗜好を帰納的に理解するに至ったというだけの話である。

それにしても、なぜ僕は斯様な奇妙な嗜好をもつにいたったのか。それはおそらく、小中時代のデスノートの読みすぎに起因している。

僕が小学生だった当時、巷ではデスノートが爆発的に流行っており、周りにそのタイトルを知らないクラスメイトはいなかったといっていい。僕も多少遅れてではあるが、なんかのきっかけでこのコンテンツに接する運びとなり、たちまち小畑健のおそろしく上手い絵や、大場つぐみの独特の長広舌とケレン味にノックアウトされてしまうこととなった(大場つぐみのしょーもないミソジニーにはここでは目をつぶっておく)。

そして、とりわけこのデスノートのなかで僕が好きだったキャラクターは、(これは当時デスノートに熱中したほとんどの人がそうだったと思うが)夜神月ではなくLであり、ニアであり、メロだった。なにしろこの三人は一癖も二癖もあり、各々に見せ場があり、最高にかっこいい。その時期、僕は何かに憑かれたように隈がある三白眼のキャラクターの顔を自由帳やコピー用紙に描きまくっていたが、これは明らかにこのお三方のせいである(ちなみに、現在の僕には三白眼萌えもある。具体的には『僕のヒーローアカデミア』の耳郎ちゃんは梅雨ちゃんと並んでヒロアカ屈指のヒロインだと思うし、『だがしかし』のキャラデザは全般に刺さるし

、神のみの小阪ちひろのアニメ版キャラデザの瞳の部分が新しいクールで大きくなったときには、それは深い悲しみを覚えた)。

そう、どうやら僕の隈萌え・陰キャ萌え・そしてここに足してもいいならば三白眼萌えのルーツは、ここにあるらしい。これ以外にこれといった心当たりがないのである。

しかしここで疑問なのは、かりにこのような仮説が正しいとして、ではなぜ男キャラに対して抱いていた美学的な感情が、後年によりにもよって美少女萌えに転化しているのか、ということである。僕はお三方を魅力的だとは思っても、彼らにときめいたことはない。ではなぜそれが性別の壁を超え、萌えに結びついているのか。これは非常に大きな謎である。

そして最近、この嗜好は、ゾンビ美少女萌えにまで至ってしまった。『ゾンビランドサガ』もそうだが、『さんかれあ』が気になってしょうがないし、前は人間に戻って欲しいと考えていた気がする『東京レイヴンズ』の夏目も、これは実質ゾンビなのでゾンビのままの方がいいかも…と思い始めてしまっている。そしてこれは単体で唐突に生まれてしまった嗜好ではなく、陰キャ萌えや隈萌えと結びついていると思うのだ。これは論理的な話ではなく、事実として、そのような属性を持つキャラクターたちに抱いているこのえもいわれぬ感情に近いものを、ゾンビ美少女たちに対しても感じるのである。

とはいえ、僕はロメロを見たこともないただの俄ホラー映画好きだし、今まで別にゾンビをどうと思ったこともなかったのだから、これについてはデスノートのような特定のルーツを仮説として提示できるわけでもなく、なぜ自分がこうなったのかはよくわからない。今一部で流行っている『ゾンビランドサガ』の放映より前にはもうこうなっていたから、これがきっかけというわけでもないらしい。

人間、自分のことほど案外よくわかっていないものだが、そうした自身にまつわる様々な謎のなかでは、最近はもっぱらこうした嗜好に関心を抱いている。これはそんな関心に基づき自分の嗜好について考えるための、備忘録がわりの文章である。

雑誌について

僕ぐらいの世代の人間には珍しくないのだろうが、僕は雑誌に興味を持ったことがなかった。ジャンプ漫画は単行本派で、本誌をコンビニで立ち読みしたり買って読んだりすることもない。サブカルチャー・思想・文学・読書文化など、僕が好きそうな分野の専門誌にしても、自分が興味ある話題が特集されているものでさえ、買うのをためらい、実際見送ることが少なくない。

なぜこんなにも雑誌と縁遠いのか。まず、自分が興味ないことが書いてある紙面の分までお金を払いたくない。そして一冊ができるだけそれの扱う話題においてまとまった体裁をとっていた方が良い。連載は断片的で嫌なので、完成したあとで、単行本になったものを買って一気に読みたい。そしてなによりもインターネットやテレビなどのメディアのほうが馴染みがあり、金がかからず、速くて便利である。

と、このように、理由をあらためて挙げてみると言えることは色々あるわけなのだが、おそらくこうした理由はおしなべて僕のある特定の気質によるところが大きいのではないかと思う。その気質とは、放っておくと自分の文脈だけで生きがちな気質、つまり身もふたもない言い方をすれば引きこもり気質である。

たとえば、ふつう会話というのは、会話の相手との過ごす時間を楽しむものであって、もちろんその内容もある程度は大切だが、それが主だった目的ではない。したがって話題というのはそれに対して無関心でもいけないが、かといって過剰に関心を抱いたり、そこからあらぬ方向へ深掘りを始め暴走するようなこともあまり良くないような、そういう性質のものである。つまり会話において重要なのはどんな話題についてもそこそこの関心を持っておくことにほかならない。

ところが、自分の文脈で生きがちな人間というのは、自分が考えたいことや好きなことには強い関心を抱くが、そうでないことには淡白であり、こうした話し方を好まない。それを雑談型に対して、議論型の人間といってもいいだろう。この手の輩は雑談をするよりも議論をしたり、あるいは一人でものを考えたりする方が向いている。まぁこういうふうな生き方を多くの人が構造的に強いられているということは(たとえばポスト・モダンとかタコツボ化とかインターネットの普及だとかいうキーワードを使うことで)もちろん言えるのだろうし、それは実際妥当なのだろうが、そういう構造的な規定であれ僕の生来の気質であれ、いずれにせよ事実としてあるのは僕が今のところはそういう人間であるということである。

それで雑誌のことをあらためて考えてみると、なるほど、これほど雑談とか人の会話と近い媒体もないという気がする。なにかこちらで特集をやっているかと思えば、別のところでは連載があったり、全然違う話題でインタビューや対談をやっている連中がいる。そしてそれらはなんとなくの方向性を与えられてはいるものの、断片的でまとまりがない。こんなふうな雑誌の特徴を鑑みてみると、もちろん違うところもあるが、なんとなく会話に似ている気がする。だから僕は雑誌に今まで興味を持てなかったのかもしれない。僕は自分が好きな特集だけを全ページにわたってやってほしいのであり、それ以外はどうでもいいという読者なのだ。そしてそれはようするに単行本を買って読みたい人間ということに他ならない(もちろん嫌いな単行本もある。それはいうまでもなくアンソロジーだ)。

ところが、最近ゆえあって雑誌に関わる機会が多くなり、雑誌には雑誌の、それなりの面白みがあることに気がつくようになった。

たとえば雑誌の衰退にはインターネットが関わっているともされるが、インターネットと雑誌は当然ながらメディアとしての性質が違う。僕はメディア論に昏いのでこれは素人考えに過ぎないが、その素人考えによれば、インターネットは雑誌に対してライブ感がありすぎるか、なさすぎる。ここでライブ感という言葉を事細かに概念規定する気はないが、さしずめ、「今この時のこの場をみんなと共有してる感」とでもいっておく。一方でインターネットは、今この時を持たないし、みんなと場を共有できない。Google検索はかつてつまり過去に作られたページをずらりと表示しているだけであり、そこへのアクセスは個人個人がおこなう。他方で、SNSでのアニメ実況や掲示板、またチャット機能つきの生放送の動画配信サービスなどは、まさに今この時この場をみんなで共有するためのものだが、そのみんなは数の上でも質の上でも(つまり共有している話題の上でも)限定されていたり、集まりがその場限りであることもある。

ところが雑誌というのはすぐに廃刊になるものもあるけれども、今残っているものはかなりの長期スパンで定期的に情報を発信し続けているし、そこにはその分野内とはいえさまざまな話題に関心をもつ人が集まってくる。そしてバックナンバーはその時々の時事的なものをも取り入れながらも残っていくわけだから、それはアーカイブとしての機能をも果たすことになる。うまく言えないのだが、そこでは共時的であれ通時的であれみんなが共有できる文脈の絡まりが作られているような気がするのである。それは即時的で狭いライブ感とも、孤独で強い文脈を持ち、アナクロニズムなアクセスとも違うものである気がするのである。

と、こんな話をインターネットを使って発信するのもどうかと思うのだが、最近は、こういうイメージをなんとなく抱きながら、もっぱらインターネットとの対比において、雑誌ならではの面白さというのを考えることが多い。もっと文献を読みしっかりと考えればそれなりに正確で意義のあることが言えそうなのだが、とにかく現段階でいえるのは、雑誌文化がこのまま廃れるのはなんだかあんまり良くないのではないか、ということである。その直観がうまく言語化できるようになったら、またこのあたりのことについて書いてみたい。

雑記05(偶然について)

最近ぼんやりと二つの偶然の違いについて考えている。

一方で、三島由紀夫スピノザがいうように、世界はくまなく必然的な因果法則から成っているため、偶然とは単に人間の認識の不十分さによる錯覚にすぎない(ほんとうは全て必然だ)、というようなときの偶然がある。

他方で、それとは別に、ほとんど無意味という言葉と同義語で使われるような偶然というものがあるのであり、この場合は偶然の対義語である必然も、有意味という言葉と結びつく。そしてこの場合の意味とは、人の感情と密接に結びついた概念であるらしい。僕が最近興味を抱くのはこちらの偶然である。

たとえば、人がなにか不条理な出来事に襲われたときに、「どうしてこのような出来事が起こったのか」と問わざるを得なくなることがある。それはおそらく、その出来事によって生じさせられた過剰な感情のけりがつけられないからだ。このいわば処理し得ない余剰としての感情をどこへ向ければいいかわからないときに、このような疑問が発せられるのであって、その場合、「この出来事はしかじかの物理的原因によって生じた」という答えは、それこそ問うた本人にとってなんの意味も持たない。なぜならこの場合問うた人が知りたいのは、物理的にどのような因果関係でその出来事が起こったのかということではなく、なぜよりにもよってこんな不条理な目に他でもない自分が遭わなければならないのかということだからである。

それは誰に降りかかっても良かったはずなのだが、なぜか自分に降りかかった。そして人はそこになんの意味もないということを認めることが難しいらしい。言い換えれば、この問いはすでに出来事に対するその意味の要求なのであり、にもかかわらずその出来事に(因果応報とか神の試練とかいった)さしたる意味がないとき、人はそれを偶然的な出来事と呼ぶ。

では、逆にそれが必然的であるということはどういうことか。もちろんそれは意味があるということである。しかしこの意味があるというのは、一体具体的にはどういうことなのか。それは、余剰分の感情の始末をつける、つまり感情を特定の対象に向け、それを行動によって消費するための物語がそこに見出せるということである。たとえばそれが誰かのせいなら、その誰かに怒りの矛先を向け、罵倒するなり殴るなりすればいい。そうすればすっきりするだろう。それが自分の罪によるというならば、その償いをすればいい。そうすればいつかこの埋め合わせがなされるかもしれないと思えるだろう。重要なのは余剰分の感情を消費すること、滞留したエネルギーを行動を通じて放出することなのだ。そういうエコノミーの関係を(その実効性や合理性にかかわりなく)対象と作れるかどうかが、感情的な存在としての人間にとっては重要なのだろう。

その意味では、出来事が偶然的であるとは、その感情をどこにも向けることができず、自分がそれに対してなにもなし得ないということなのかもしれない。

雑記04(視線)

人間とそれ以外の動物を区分けしたり、人間性のある(あるいは本来的な)人間とそうでない人間を区別するときに、反省の有無を持ち出す論法は、様々な分野で見られる。つまり、自分を意識する存在こそが人間であり、そうでないものは自分を意識しない。こういうふうな発想がある。

ところで自分を意識するというのは、ある意味ではなにかの視線を意識するということでもある。たとえばそれが具体的な相手であり、この相手に嫌われたくないと思えば、人はその相手の眼を想定して自分を見て、この想定された視線をよりどころに、自らを相手の価値観に適うような人間として演出する。

しかしそれが現実には存在せず自分の心においてのみあるような抽象的かつ究極的かつ理想的な存在であるとすれば、どうだろうか。またさらにこの理想的存在が、この人物を四六時中間断なくその心の奥底までをもくまなく見張り、そしてこの人物に対してこの存在自身の比類ない状態に到達するよう要請してくるとしたらどうだろうか。するとまずこの人物が取り組まなければならないのは、その一貫した内面の構築と、到達不可能な理想への絶え間ない漸近の試みである。視線は常に隈なく監視しているのだから、具体的な人物の前にいるときのように、その場限りうわべだけをとりつくろってよしとするわけにはいかない。いかなるときも、心の底から、そのような存在でなければならない。こうしてこの視線は一貫した内面の構築を要求する。それはそこから発生する外的振る舞いがつねに理想的でありうるような、理想的かつ一貫した内面を構築することを要求する。

ところが、この人物は、その存在が要求してくる内面および行為における一貫性や理想性の把持がとうてい人間のなせるわざではないために、結局のところこの試みに失敗するだろう。するとこの人物はそのような弱い自分を詰り、責め、罪悪感に苦しまざるを得なくなるだろう。

この理想的存在とは結局のところこの人物自身が作り上げたものなのだから、この存在の要求は、この人物自身の要求でもある。この人物は自らに理想的であることと、一貫的であることを要求する。そしてその結果生まれてくるのが内面である。しかしこうした内面なるものを行為の手前に想定するのは倒錯だろう。

この倒錯的な内面を生み出す一貫性を要求してくるような視線は、しかし、それ以外の視線を排他的に退けるものではない。というより、もちろんそうした排他性をそれは持っているのだが、ふつう人はこの視線に対して自分自身をうまくごまかしながら、たとえばもっと具体的な視線に合わせて自分を変えるということをやる。しかし前者の視線は自分に対して欺かれているから、それでもこの人物は自分が依然として一貫的だと思い込むことができる。

この後者の視線に合わせすぎれば自己同一性は崩れて混沌とするが、前者に合わせ過ぎてもその場での適合的な振る舞いができなくなるだろう。

このような点で、理想自我と自我理想の違いが考えられるかもしれないのだが、これは結局のところ視線の内実の違いである。ただ、この常にくまなく見張る視線は、ふつうはそこまで徹底化されずに欺かれるのであり、ところがこの欺きが周到に回避されると、この視線は徹底したものになる。ここまでくると、人は自分について一貫性を意識するがあまり、かえって自分が一貫していないことを知ってしまう。そこに不安が生じる。比喩的な不眠状態が生じる。この不眠において、「ある」という状態が意識される。

Re:ポンコツ ポンコツ萌えを考えるために

本エッセイは、はてなブログポンコツ - ゔぁみのじゆうちょうに触発され、書かれたものである。ここでは、ポンコツ萌えの当事者として、いわば患者自身の手からなる症例報告とでもいうべきものをおこない、それと同時に、来たるべきポンコツ萌え論のための論点を書き散らしておこうと思う。



・きっかけ


最初に自分がポンコツ美少女に萌えるということに気がついたのは、『ラブライブ!』を見たときだったと思う。

このアニメは、スクールアイドル(学校の代表として活躍する現役高校生アイドルのことをさす)なる概念が存在する架空の現代日本を舞台にした作品で、主人公の高坂穂乃果は現役女子高生、自分の高校の廃校を阻止するために、このスクールアイドルになることを決意する。そんな彼女とその仲間たちが、ときにさまざまな困難にぶつかりながらも、スクールアイドルの頂点を目指して奮励努力する様子が、一期二期の計二十数話を通して描かれる、それがこのアニメ『ラブライブ!』である。

本作はいわゆるアイドルもののアニメだから、魅力的なヒロインが多数登場するのだが、僕はそのなかでもとりわけ矢澤にこというキャラクターに惹かれた。この子は穂乃果の先輩だが、見た目はメンバーの誰よりもロリっぽく、その容姿を意識してか年甲斐もなく髪をツインテールにしている。重度のアイドルオタクで、一度は自分自身スクールアイドルを目指し、一年時にグループを結成するものの、彼女のガチすぎる温度に他のメンバーはついていけず、結果、彼女は孤立、グループは解散してしまう。このような側面(重度のアイドルオタク)と過去(スクールアイドル活動の挫折)のために、彼女は当初、スクールアイドルとしては素人同然のくせにかつての自分たちより楽しそうに和気藹々と活動をしている穂乃果たちに対し、感情的に対立することになる。とはいえ結局なんやかんやあって最終的には彼女も穂乃果たちのメンバーに加わることになるのだが、その後劇中では隙のある言動行動やそれらの空回りによってコミカルな役どころを演じる場面が目立つようになり、僕はそういう彼女のポンコツぶりを、気がついたら少なからず愛おしく感じるに至っていたというわけなのである。

 
・僕のポンコツ萌えと一般的ポンコツ萌えのズレ


矢澤にこのほかにも、僕が好きなポンコツ美少女はいる。たとえば、最近のアニメでいえば『この素晴らしき世界に祝福を!』のアクア。『ガヴリールドロップアウト』のガヴリールやサターニャ。

だが、インターネットの記事をいくつか調べてみると、アクアはともかく、サターニャなどは一般には「ポンコツ萌え」や「ポンコツかわいい」とは呼ばれず、アホの子と呼ばれるようだ。それにガヴリールはポンコツ萌えの対象ではないらしく、僕のいうポンコツ萌えが世間のそれとはズレるところもあるようだ。

逆に、それらの記事を読むと、いくつかあきらかに僕が萌えない例や、僕のポンコツ萌えの実状と齟齬をきたす定義をしているものもある。たとえばこれらだ。

 

ポンコツかわいいとは (ポンコツカワイイとは) ニコニコ大百科 スマートフォン版!

ポンコツ (ぽんこつ)とは【ピクシブ百科事典】


上の記事では、『ガールズ&パンツァー』の河嶋桃が例に挙げられているが、僕はむしろ彼女を苦手に思っている。それから、いずれの記事でもポンコツ萌えをギャップ萌えの一種として定義しようとしている向きがあるが、僕にとって、ギャップ萌えはポンコツ萌えを本質的に規定する条件ではない。たとえば、アクアやサターニャは大概つねにぐだぐだなので、一見すると優秀というわけでもないし、肝心なところでミスするとかいうことはない。むしろアクアなどは、そのたびに彼女のはたらきのせいでカズマが借金を負わされたりなんなりしてはいるものの、ピンチのときは比較的いい活躍をしている気がする。

とはいえ、だからといって、僕は「これらの記事のポンコツ萌え定義は間違っているし、実例もなんだかおかしいので、こいつらは根本的にポンコツ萌えをわかってない」などというつもりはない。むしろこの場合、世の中には僕のようなパターンのポンコツ萌え、つまり非ギャップ萌え的なポンコツ萌えをするものと、ギャップ萌え的なポンコツ萌えをするものとが、両方いる、と考えるべきだろう。そして、そうなるとつぎに、ではそもそも両者の萌えを自明の前提としてともにポンコツ萌えというカテゴリーに放り込んでいいのかどうかということが問題になってくる。ただ、たしかに議論を実際に詰めていくうえではこれはいずれがっぷり四つに組んでとりかからねばならない問題ではあるのだろうが、ここはそういう場ではないし、現状、両者にはキャラの言動行動態度諸々の隙なり空回りぶりなりに萌えるという点において一致は見られるわけで、こういった点から、ここではとりあえずはこれらをともにポンコツ萌えと呼ぶことにして満足したことにしておく。


ポンコツ萌えの自己分析

 
ネット記事でのポンコツ萌えの定義やその実例が必ずしも僕の実感に完全に符合するわけではないことが明らかになったところで、ここで僕のポンコツ萌えがどのような性質のものなのかを軽く考えてみる。そのような作業に際して個人的に有用だと思われるのは以下二つの論点である。


1,<残念>と美少女=オタク説

2,イキリとイジリ


1,<残念>と美少女=オタク説:

まず前者の<残念>について説明しよう。これは評論家のさやわかがその著書『10年代文化論』で2010年代の若者文化を言い表すために用いたキーワードである。

彼はまずこの本のなかで、最近(本著作が書きおろされた2014年ごろ)「残念」という言葉の使われ方が変わってきたことに注意を促している。ふつう、残念というと、ネガティヴな意味で使われることが多い。ところが…


  たとえば、僕がたまたま買った雑誌『TV Bros.』(東京ニュース通信社)2013年No.23で、昨年大ヒットしたNHKの朝ドラ『あまちゃん』の巻頭特集をやっていた。そこでドラマのチーフ演出である井上剛がインタビューを受けていて、その記事の見出しにこう書いてあった。


  「残念」という言い方の中にものすごい愛情があるドラマをやりたかった

 
  つまり井上も、残念という言葉の使い方に通常ならざる思いを込めているというわけだ。[…]

  最近、こうして形容詞的に「残念」という言葉が使われるのをあちこちで見かける。しかも否定的な意味のときもあるけれど、「残念なイケメン」とか「残念な美人」みたいに、相手の欠点をチャームポイントのように暖かく受け入れるものが多いようだ。

 
このように、残念という言葉の使われ方は、もとの意味を損なわないまま、ポジティヴな価値判断を示す形容の表現としても用いられるようになっている、というのである。

このあと、さやわかはニコ動やサブカルチャーと残念の関係を様々に語っていくのだが、そこでとくに僕の印象に残ったものは三つある。

一つは、「残念な美人」のニコニコ大百科の記事が引用され、その例として『とある科学の超電磁砲』の木山春生が挙げられていたことだ。これは実は僕にはものすごくわかる感覚である。つまり僕はまさしく木山春生に「萌え」た視聴者の一人なわけだが、その魅力のひとつはやはり彼女の残念さにあったように思う(もちろん、もともと不破氷菓のようなキャラに対する隈萌えとか陰キャ萌えがあったというのもあるが)。そしてこれはうまく説明できないのだが、僕が木山先生を好きな理由と、ポンコツ美少女に萌えてしまう理由は、どこかでつながっているという気がする。

第二に印象に残ったのは、『僕は友達が少ない』が残念系ライトノベルとして挙げられていたことである。これは僕も以前読んでいたものだが、たしかにこのラノベが一時期流行った理由のひとつには、そういった残念の感覚による鑑賞の構造があったように思う。まず第一に、主人公やヒロインはみんなコミュ障で人格的に問題があり、ぼっちで残念であり、彼ら自身はそれを切実に悩んでいるのかもしれないが、作者としてはそれをこの作品を楽しむひとつのポイント、つまり笑えるポイントとして描いているわけである。第二に、これを受け手がどう受容するかといえば、こういうラノベを読むオタクというのは(たとえば当時の僕みたいに)大概コミュ障だったりするから、彼らにとっては、そこにシンパシーを感じるとともに、それを笑いに変えることで、少なくともその瞬間だけは自身のそんな残念さをゆるく肯定できたというところがあったのかもしれない。まぁ、僕は少なくともそうだったというだけで、他の人のことはわからないけど。

さて、最後に印象に残ったのは、この著書の終章の章題が、「残念な日本の私」になっていたことである。これはあきらかに小説家の大江健三郎ノーベル文学賞を受賞した際に、その授賞式で行なったスピーチ「あいまいな日本の私」や、そのパロディ元である同じくノーベル文学賞作家の川端康成のスピーチ「美しい日本の私」のパロディなわけだが、ここにはそれなりに深い意味があったように思うのである。

どういうことか。僕は以前べつのところで川端文学について分析したことがあり、その際に「悲しみ」の美学がどのようなものであるかを考察したことがあった。そこでは宮台真司河合隼雄柄谷行人の議論を借りてそれなりに七面倒な議論をしたわけなのだが、それは簡単にいえばこういうことである。つまり、まず悲しみは怒りと対置される。それらはともに自分にとって不条理に思える出来事に直面した際の感情なのだが、怒りはその出来事に対する反抗の表現であるのに対し、悲しみはその出来事に対する受容の表現である。したがって悲しみの美学にはある種の保守性の弊害や、その不条理に置かれた自己の状況そのものを美化して感傷に浸ってしまったり、あいまいにしてしまうことによる弊害がある。たとえば大江が「あいまいな」というときのこのあいまいとは、まさしくこのような意味でのあいまいさであり、それを大江は批判したことで知られているのだが、このような弊害は<残念>にもあるように思われる。つまり、それは真面目に深刻に考えられたときには克服されてしかるべきかもしれない欠点や問題を、コミカルなものや微笑ましいものにしてしまうことによって現状追認してしまう効果を持ちうる。もちろんそうしたいがために若者は<残念>を美学として嗜好するのであり、これは彼らの保守性、物事に対する向き合えなさ、現状追認性を表しているのだなどというつもりはないが、これはこと僕自身についてのみいえば少なからず言えることだという気もする。

ということで、話は美少女=オタク説に移るわけである。これはべつにさやわかが提唱しているとか、あるいはほかの評論家なりなんなりが提唱しているとかいうものではなく、僕自身がなんとなく温めていてまだ十分に考えることができていない考えである。その内容はシンプルなもので、つまりオタクが萌える二次元美少女というのは、全員が全員そうでないにしても、少なからずそのオタク自身に似ているのではないか、というものである。ある意味で萌えとは(精神分析的な意味ではなく、一般的な意味での)ナルシシズムではないのかというのが、この説の根底にある発想だ。

その線で行くと、僕が矢澤にこやサターニャやガヴリールやアクアに萌えるのは、そこに自分と同じ「残念さ」「ポンコツさ」を見ているからだ、ということは言えるかもしれないわけで、実際これは自分語りになってしまうので詳細は割愛するが、彼女らと僕には似たところがよくあるということは、我ながら思うことがあるわけである。そしてこのような萌えの構造は先ほど僕が仮説として立てた『はがない』に対するオタクたちの受容の構造とも少なからず相似するわけで、これがもし妥当だとするならば、ポンコツ萌えについて考える際には、ポンコツ美少女に萌えるオタクたち自身のポンコツさについても考える必要があるわけだ。

ただし、もちろんこれとはべつのラインでポンコツ美少女を考える必要もある。たとえば、以前僕はツンデレ萌えについて、そこに受け手とツンデレ美少女のあいだの非対称的な関係を見たわけだが、このような関係性はポンコツ萌えをあらわすときのオタクたちの表現の仕方にも少なからず見られるように思う。すると、もしかしたら受け手とキャラクター両方がポンコツというかたちのみならず、キャラクターだけがポンコツで、受け手はそれに対し優位性を持っているという構造が見られる場合もあり、ではそれらの違いは各々の受容のどういう違いを意味するかだとか、それらの構造が一緒くたになってポンコツ萌えが成立してるパターンはないのかとか、そういうことが考えられなければならなくなる可能性がある。


2,イキリとイジリ:

しかしこれもかなり理論的に難しい仕事だと思うので、ここでは脇に置いて、とりあえずその後者の構造つまりキャラクターだけがポンコツで受け手はそれに対して優位性をもっているという場合に目を向けておこう。

ここで僕が注意を促したいのは、ポンコツ萌えするオタクたちがポンコツ美少女に対しどのような愛情表現をおこなっているかということである。たとえば先ほどあげた『ゔぁみのじゆうちょう』では、このブログの作者は、次のようなことを言っていた。

 
まぁいつものごとく新キャラが出るたびにツイッターでは新キャラを元にした二次創作的な漫画がポンポン投稿されるわけだが,こいつは新キャラのくせにストーリーでは碌に(全く)活躍せず終わったのでネットでは所謂”ポンコツ属性”を推した二次創作が多く見受けられたように感じる.

 

勿論それには需要もあり何百何千とRTされていたのだが個人的にはこういうキャラの愛され方はあんまり好きじゃない.絢瀬絵里ポンコツアイドルだなんだでツイッターで同じようにもてはやされてた時にも同じことを感じた(これは前に書いたことがある気がする)


ここでいう「こいつ」というのは『Fate/Grand Order』というスマートフォンゲームに出てくる「岡田以蔵」(歴史上の実際の岡田以蔵をモデルにしている)というキャラクターで、このキャラクターは先日のイベントで初登場し実装されたわけなのだが、そのシナリオでのイキリっぷりとそのイキリに見合わないポンコツっぷりを見るにつけプレイヤーたちがこれをイジりはじめ、以蔵に焦点をあてた二次創作ショート漫画がまたたくまに増殖、Twitterで散見されるようになった。ここではそれらをいちいち紹介することはしないが、基本的にはこうした漫画にはいくつかのパターンがあり、たとえば「以蔵がわしは天才剣士じゃーとイキリ散らしている→ほかのキャラクターとくに宮本武蔵柳生但馬守宗矩などの明らかに格上な剣士が登場する→彼らに以蔵が突っかかるor彼らの技を以蔵が見る→以蔵がビビる」などといったものは、今ならおそらく検索をかければ大量に見つけることができる。いずれにせよそこでおこなわれているのは以蔵に対するある種の「イジリ」であり、このブログの作者によれば、『ラブライブ!』の絢瀬絵里ポンコツぶりが話題になった時も、同様のことがTwitter上でおこなわれたという。そしてこれはポンコツ萌え(ちなみに以蔵にも萌えた)当事者だからわかることなのだが、このイジリはなんなのかというと、結局のところキャラクターに対する一種の愛情表現なのである。

しかしイジリというのはある意味ではイジメに近いもの、相手の欠点を指摘してあれこれというものではあるわけだから、それをはたから見て不快に思う人はいるし、それに配慮しながら愛情表現を行う必要はある、ということは、先ほどリンクを貼ったインターネット記事にも書かれている。そうした政治的配慮の必要性からもわかるように、こうしたイジリというかたちでの愛情表現には少なからずサディスティックなところやキャラクターに対する受け手の優位関係を示すところがあるようにも思われ、これはまた以前おこなったからかいの構造の分析などともつきあわせて考えていく必要があるだろう。

しかしともかく(という撤退と迂回ばかりで申し訳ないが)、こうした話はまた一旦脇に置いて、そこで次にこのイジリを成立させるキャラクター側の要因にフォーカスしてみよう。もちろんイジリは弱点や欠点や隙を指摘することで成り立つ行為なわけなのだから、ある程度キャラクターの側がそういうものを示さなければ成り立たない行為であるだろう。そうしたことを踏まえて僕があらためて思ったのは、こうした受容のされ方をしているキャラクターはいずれも、少なからずイキったり調子に乗ったり気取ったりしているところがある、ということである。

たとえば以蔵はいうまでもないが、サターニャや矢澤にこの場合も、もはや劇中内での他キャラクターからの扱われ方やイジられ方からしてこの調子である。サターニャは調子に乗ってるのを、散々おだてられたあげくガヴリールにいいように利用されたりラフィエルのおもちゃにされたりする。また矢澤にこは利用されたりだとかおもちゃにされたりだとかすることこそそんなにないものの、そういった言動行動を他キャラクターにあっさりスルーされたり、呆れられたりするというパターンで受け手の笑いを誘うことが多い(この点において僕は『ラブライブ!サンシャイン』で矢澤にこの衣鉢を継いでいるのは津島善子だと強く確信している)。このように、ポンコツ萌えの対象となるキャラクターのその隙の類型のなかには、少なからず調子に乗っている・イキっている・気取っている、があることがわかる。なお気取っているというのはここに挙げた例ではうまく説明できないかもしれないが、知っている方は『僕のヒーローアカデミア』の青山優雅と蛙吹梅雨ちゃんの初期の絡みを思い浮かべてもらいたい(ただし個人的には青山はポンコツ萌えの対象ではない)。


以上、これまでポンコツ萌えをめぐっていくつか当事者としての実感や、論点を、備忘録がわりに書きつけてきた。そのなかでいくつか肝要な問いは挙げられた気がするが、今回は各々に深入りをせず、むしろ話題を広げたり繋げたりすることを試みた。こういう書き方をしたことはあまりなかったのだが、思いのほか頭を整理する準備作業としては役立ったように感じる。これからも折を見てこうした書き方である話題を扱うということをしてみてもいいかもしれない。そんなふうに考えた。

わからない感覚について

最近ぜんぜんブログを更新していなかった気がしたので、定期的に更新する義務もないのだけれども、このまま書かないと永遠に書かない気がしてそれはちょっと自分にとって損失だなという気がしたので、何かを書くことにした。こういう経緯があってなかば書くために書いた話なので、これはオチのある話というよりはたんなる近況報告みたいなものである。

 


たとえば東浩紀の本を読むと、どの本であれ、「~かもしれない」とか、偶然とかの問題が頻繁に語られている。ほかの本を読んでいても、たまにこういったことが話題になることがある。実は僕はこの手の話題を読むたびにある種の困惑を感じてきた。

僕は好んで人文書といわれる類の本を読む。とくに哲学や精神分析の本を読む。それは、たぶんひとつには、単純に知的な意味で面白いからだ。しかし、それ以外の理由もある。そういったものを読んでいると、自分が今まで漠然と感じてきた生きづらさの構造が的確に説明されているという箇所に出会うことがあり、その出会いがなにかの解決や救済になるわけでもないのだが、感動を呼ぶ、ということがある。もちろん、そういった個人的な感動はそれはそれとして、その説明が的確なものかということについてはちゃんと批判的に読まなければならないわけで、その意味ではあるいみそういう感動は危険なのだが、とまれ、なんにせよそういうふうな感動があるにはあって、僕はそれを感じるためにそういったものを読んでいる節がある。

ところで、そういった共感ができる、ということは、そういう本を読むときには意外と助けになることが多い。語り口がいかに抽象的であろうと、そこで語られている思想なりなんなりはある程度はこの著者の人生経験を参照して作られたものなわけだから、その参照元に思いがいたるならば、その分だけその発想がわかり、整合的に読みやすくなるということが、たしかにあるのだ。だから、こうした本を読むに際してその気持ちや発想がわかるというのは、もちろんそこにナルシシズムを投影してしまうという危険はあるけれども、ある程度は大事なことではないかと、個人的には思うわけである。

そこで話は最初に戻る。僕がなぜ上述のような話題が出てくるたびに困るのか。それは、かれらがそこで語ってくれている実存的な感覚が、僕にはよくわからないからだ。それは僕からすれば、そうした感覚をもとに作られた思想を、細かいレベルで、さまざまな文脈で読むということができないかもしれないということを意味する気がする。そして、それは僕が考えたいことを考えるにあたって結構致命的なことだという気がする。

そんなわけで、最近、僕はそういう感覚や発想を分かりたいと思い、そうしたことを扱っていると思しき小説を読んでいる。今読んでいるのは東の『クォンタム・ファミリーズ』で、これはそういうことを抜きにしても、今のところ、ものすごく面白い。

それから、その前には柴崎友香の『わたしがいなかった街で』という小説を読んだ。これは夫と彼の不倫がきっかけで離婚した30代半ばの女性と、彼女の知り合いの妹の話だ。前者の女性、砂羽は、東京で運輸業を営む会社の契約社員としてはたらき、家ではよく戦争もののドキュメンタリーを見ている。彼女もやはり偶然に関する問いを抱えている。たとえば、この小説は最初こんなふうに始まる。

 


一九四五年の六月まで祖父が広島のあの橋のたもとにあったホテルでコックをしていたことをわたしが知ったときには、祖父はもう死んでいた。

 


この「あの橋」というのは祖父がかつて彼女にその思い出を語って聞かせたところの橋で、この橋が位置していたのは、ちょうど原爆の爆心地の近くだった。だからもし祖父がこの六月の時期にコックをやめてよそに越していなかったら、祖父は死に、彼女もまた生まれていなかったかもしれない。この「かもしれない」と、とはいえ、現実はげんにこのようにしてある、ということのあいだで、彼女はその意味を問わざるをえなくなる。

こうした問いは、彼女によって、小説内でのあらゆるものごとに対して発せられる。たとえば遠い場所での戦争のドキュメンタリー映像を見ているとき、彼女は「なぜこの場所にいたのがわたしではなく、彼らなのか」と考えるし、ある日偶然以前の職場の人間とすれ違ったとき、「この偶然にはなにか意味があるのではないか」ということを考えてしまう。

少し寄り道をすれば、こういう感覚は柴崎が別の作品でも頻繁に描く感覚と、どこかで通底する気もする。最近、僕はこの人の作品を連続して読んでいたのだが、これはちょうどその三冊目の作品で、その前に読んだ二冊では、いずれも写真と実物、瓜二つの人物、十年前の自分と今の自分、といった二つのものたちのあいだにあるズレや同一性に対する登場人物たちのさまざまな感情的な体験(驚き、違和感、喜び、などなど)が繰り返し描写されていた。たぶん、これは他の作品でもずっと描かれている感覚なのだろうけれども、こうした感覚と、上述の感覚は、それこそ身もふたもない言い方をすれば反復とか不気味なものとか、そういうテーマと、ともに関係するという気がするのである。

まぁそれはともかくとして、とにかく僕はこういう感覚がやはりわからない。あるいはそういう感覚そのものはあるかもしれないのだが、それを十分に自分のなかで抽象化したり構造化したりして把握することができていない。たとえば、「なぜあそこにいるのが私ではなく、彼らだったのか」という問いの意味は、僕にはよくわからない。たぶん僕ならこういう問いに対して、そこには何の意味もない、と考え、それを危機的なことだと思わないし、そうした問いをある実存的な要請の表現としても、つまりレトリカルクエスチョンとしても、共感を持って理解することができない。

しかし一方で、反実仮想的な発想は僕とてよくするのであり、そもそもそういう発想は人間にとって不可避的なものにも思える。つまりもしあのときこうしていたら、とか、もしかしたらあの人の立場に僕がいたかもしれない、ということは、僕だって考える。しかしそれがなぜ現実がそのようでしかありえないということに対する疑義、そのようであることの意味に対する問いにつながるのかが、よくわからない。それが歯がゆい。

これが理論的な問題なのか、たんに感覚的な問題なのかはわからない。理論的、というのは、もちろん実存的な感覚というのはひとつには感情の問題ではあるが、それ以上にそれをどう考えるかという発想や論理構造の問題でもあるからだ。しかし、おそらく、僕にはその両方が今欠けているのだと思う。

だから、むしろ僕のいまの主要な関心は、そうした問いを問うてしまうそうした感覚やそれを成立させる論理構造が、なぜ僕にはないのか、ということになりつつある。とくに『わたしがいなかった街で』の主人公の気持ちや発想は僕にはほとんど分かる気がする(などと軽率にいうべきではないのかもしれないが、素朴な実感としてはそう思う)だけに、そこでなにか一気に突き放される感じがする。たとえばこうしたふと挟まれるコミュ障っぽい感覚はすごい分かる気がするのだ。

 


有子でも、加藤美奈でもいい。チューナーになってくれる人がいないとき、他人と何モードで話せばいいかわからない、と前に有子に説明したことを思い出す。

 


これ以外にも、若干被害妄想めいた対人不安があるとか、人との話し方がわからないとか、他人への興味がどうしても希薄になりがちだとか、にも関わらず人と関わりたくてもどかしいとか、そういったことに対する漠然とした屈託の感覚は分かる気がするし、そういう人がそういうドキュメンタリー映像を延々と見てしまう感覚、みたいなのも、なんとなく、分かる気がする。にもかかわらず、そうした確率や可能性や偶然に関する意味の問いを彼女をして問わせしめるその気持ちだけがよくわからない。

つらつらと喋ってきたが、このようなわけで、最近はこの妙な感覚の欠落をめぐってものを考えていることが多い。こんな感じなので、もしこれを読んで、「そういう話が出てくるものといえば、こういう作品があるな」という心当たりがある人がいれば、ジャンルを問わず教えてもらえるとありがたいです。