かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

キャラクターとカリスマ

一時期、物語論の研究で、ひたすら脚本のハウツー本とか小説創作論とかシナリオハウツー本とかを図書館で渉猟していたことがあった。そんな時期に見つけた文献の一つに感情で書くなんたらとかいうものがあって、これはざっくりいえば、三幕構成とか起承転結とか構造面の話ばっかしてないで、その話を実際に楽しむ受け手の気持ちを考えることから話を作っていこうぜ、みたいなコンセプトの本である(と記憶している)。

そのなかで、すごく印象に残っているものがある。いわく、その本によれば、魅力的なキャラクター(という表現だったかは定かでないが)には三つのタイプがある。一つ目は、なさけないタイプである。こういうタイプのキャラクターを見ると、受け手は(描き方を間違えるとイラつくだけだが、大半は)応援したくなってしまう。二つ目は、等身大のタイプである。こういうタイプのキャラクターは受け手にとって自分が共感できることが多いため、魅力的である。三つ目は、超人的な力などをもったヒーローのタイプである。こういうタイプのキャラクターはその力やカリスマで受け手の憧れの対象となるから魅力的である。云々。

なんというか、この分類は一見、意味がないようにも思える。それはあたかもあの常套句、つまり「世の中には二種類の人がいる。○○な人と、☆☆な人である」というあれと似ている。一見意味深長だが、考えてみると馬鹿げている。いやそれはそう分類したらなんだってそうだろうけど、だからなんなのという話になってしまう。

とはいえ、僕としてはこれを読んだとき、ここには結構理論的に興味深いものがあるのではないかと、そう直観した。理由はわからない。でもなんとなくこの考えは面白そうだな、と思ったのである。僕の経験上、物事を考える上で心が動かされたアイデアというのは、それがそのときにはたとえどんなにくだらなく思えるものであったとしても、後々になって活きてくるものである。そんなわけで、僕はこの直観と経験則に従い、しばらくこの考えをその素朴な形のままで、頭の片隅に留めておいた。そして留めておいたまま、数年が経過した。

そんな折、先日、千葉さんのツイートでフロイトのカリスマ論についての言及があり、ふとその話とこの話がつながるということがあった。フロイトのカリスマ論というのは管見の限りまとまった論考としてはないが、「ナルシシズム入門」(「ナルシシズムの導入のために」)の一部にそのような記述がある。それは子供、動物、フィクションにおける犯罪者などのカリスマという限定的な対象について述べているものに過ぎないが、おそらく多少の限定は無視できるような射程の論理である。

フロイトによれば、人は誰しも幼児のときに万能感やそれに基づいた幻想(不死の幻想や、自分の思いや考えが現実に影響を及ぼす)を持っているが、それは成長の過程で(物理的な脅威や社会的な脅威によって)「去勢」を被る。しかし、それは完全に失われるわけではなく、かわりに別の万能に思われる存在、たとえば父に委託され、以後人はこの父のお眼鏡にかなう人間になることを通じて、原初の万能感を回復しようとする。このうち、前者の万能感を一次的ナルシシズム、後者の万能感を二次的ナルシシズムないしは自我理想という。そしてフロイトによれば、カリスマのある魅力的な存在というのは、このような意味でのナルシシズムを残しているようにみえる存在のことなのである。「子供の魅力の多くは、そのナルシシズム、自己満足性、近づきがたさによるものである。また、われわれのことなど眼中にないようにみえる動物たち、たとえば猫や大型の禽獣などの魅力もこれと同じ根拠で生まれるのである。あるいは、詩的な作品に描かれた極悪な犯罪者や諧謔家が読者の興味をそそるのは、こうした人物には、自分の自我を貶めるようなすべてのものを遠ざけておくナルシシズム的な一貫性があるためである。あたかもこうした人物は、われわれがすでに捨て去ってしまった幸福な心的状態を維持し、リビドーが傷つけられない状態を保持していることを、われわれは羨むかのようである」(フロイトジークムント「ナルシシズム入門」『エロス論集』中山元編訳、筑摩書房、pp.255-256)。

これを読み直して僕がすぐに思い出したのは、とはいえ、くだんのハウツー本ではなく、『プラダを着た悪魔』である。僕は別のエッセイで、このなかのミランダという女性が主人公に対して父として振舞っていたと述べたが、このミランダにはあきらかにこのような意味でのカリスマがある(という描かれ方をしている)。たとえば、彼女は他者の視線を気にせず(他者の視線を気にしないということは、精神分析的には象徴界が機能していないこと、したがって去勢されていないことを意味する)傲岸不遜に振る舞い、女王として君臨しているが、周りの人々はその振る舞いにもかかわらず、彼女を畏れると同時にファッション界を牽引する第一人者として崇敬してもいる。

しかし、本論の文脈で興味深いのは、実はこのミランダが、一度だけ父のレベルから母-子のレベルに降りてきたことがある、ということである。この母-子のレベルとはどういうものかというと、それはこの文脈では、お互いがお互いに対して共感や同情の対象になりうる関係である(理論的厳密さを期するならばこのようにいうにはもう少し理論的な手続きが必要なのだが、ここではそれは省く)。もともと、僕の精神分析理解では父と母、ラカン的にいえば象徴界想像界は分割不可能なものであり、さらにいえば鏡像的・想像的な関係(母-子)においては相手は同情の対象になりうる(人は完全に非対称な存在、つまり絶対的な父に対しては哀れみや同情の念を抱きづらいものではないだろうか)。したがってこのようなレベルにミランダが降りてきたというのは、彼女が主人公の同情・共感の対象になったということを意味する。

それは、彼女と主人公とその仕事仲間たちが、パリコレのためにフランスに出張したときのことである。夜のホテルで仕事の打ち合わせをしていたとき、ミランダは話の流れで主人公に私的な打ち明け話をする(これまでのミランダの主人公に対する振る舞いを見てきた受け手は、この時点で軽い感動を覚える。というか僕が覚えた)。実はそのようなことは前の場面ですでにほのめかされていたのだが、ミランダは夫とのあいだに持ち上がった離婚話や、それがいざ現実のものとなったとき、世間の口さがない人々の口の端にのぼることで、娘たちが傷つくのではないかということに悩んでいた。彼女は珍しく弱気になっていたおり、そのことを主人公に打ち明けてしまい、主人公はとたんにミランダに対して同情的になってしまう。実はこのミランダの弱みを見てしまったことが主人公を終盤の展開においてある行動に駆り立てるのだが、それはともかくとして、ここで興味深いのは、この父としてのミランダと母としてのミランダが、それぞれの側面において、主人公を魅了してしまうということである。

すでに何を言いたいのかはお分かりだと思うが、僕がここでいいたいのは、これはキャラクターに感情移入する受け手の普遍的な心理なのではないかということであり、それはさきほどのハウツー本に書かれていたことであり、さらにそれはフロイトの理論の文脈に引きつけて考えられるのではないかということである。

この文脈でさらに考えてみたいのは、アニメのキャラクターの振る舞いである。僕は前から幼児的万能感の幻想のうち、思ったことが現実になるというものについては、異能力のことを考えていたのだが、それとは別に、キャラクターの振る舞いについては、ナルシシズム論とカリスマ論の点から考えつつ、それを現今のオタクカルチャーがもつ感情移入のシステムの特性として考えられるのではないかという気がする。この振る舞いというのは、他者の視線の意識が機能していないようにみえる振る舞いのことで、これは僕は以前からしばしば感じていたことだが、日本のアニメや漫画、ラノベのなかでも、特定のコンテンツにおける特定のキャラクター間のコミュニケーションにおいては、相手の気持ちを読むことで生じる逡巡や、相手の脅威性を推し量ることで生じる恐怖などが描かれない場合があり、それがリアリティの点からすれば明らかに不自然に思える場合でも、作劇が成立してしまっているようなことがある気がする。これはいま具体例を挙げることができないのだが、たとえばFateシリーズのギルガメッシュのようなキャラクターの振る舞いがそうなのかもしれない。いずれにせよ、そういうものを実際に参照することで、このあたりのことをもっと掘り下げていくと、面白い発見があるだろう。