かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

雑記04(視線)

人間とそれ以外の動物を区分けしたり、人間性のある(あるいは本来的な)人間とそうでない人間を区別するときに、反省の有無を持ち出す論法は、様々な分野で見られる。つまり、自分を意識する存在こそが人間であり、そうでないものは自分を意識しない。こういうふうな発想がある。

ところで自分を意識するというのは、ある意味ではなにかの視線を意識するということでもある。たとえばそれが具体的な相手であり、この相手に嫌われたくないと思えば、人はその相手の眼を想定して自分を見て、この想定された視線をよりどころに、自らを相手の価値観に適うような人間として演出する。

しかしそれが現実には存在せず自分の心においてのみあるような抽象的かつ究極的かつ理想的な存在であるとすれば、どうだろうか。またさらにこの理想的存在が、この人物を四六時中間断なくその心の奥底までをもくまなく見張り、そしてこの人物に対してこの存在自身の比類ない状態に到達するよう要請してくるとしたらどうだろうか。するとまずこの人物が取り組まなければならないのは、その一貫した内面の構築と、到達不可能な理想への絶え間ない漸近の試みである。視線は常に隈なく監視しているのだから、具体的な人物の前にいるときのように、その場限りうわべだけをとりつくろってよしとするわけにはいかない。いかなるときも、心の底から、そのような存在でなければならない。こうしてこの視線は一貫した内面の構築を要求する。それはそこから発生する外的振る舞いがつねに理想的でありうるような、理想的かつ一貫した内面を構築することを要求する。

ところが、この人物は、その存在が要求してくる内面および行為における一貫性や理想性の把持がとうてい人間のなせるわざではないために、結局のところこの試みに失敗するだろう。するとこの人物はそのような弱い自分を詰り、責め、罪悪感に苦しまざるを得なくなるだろう。

この理想的存在とは結局のところこの人物自身が作り上げたものなのだから、この存在の要求は、この人物自身の要求でもある。この人物は自らに理想的であることと、一貫的であることを要求する。そしてその結果生まれてくるのが内面である。しかしこうした内面なるものを行為の手前に想定するのは倒錯だろう。

この倒錯的な内面を生み出す一貫性を要求してくるような視線は、しかし、それ以外の視線を排他的に退けるものではない。というより、もちろんそうした排他性をそれは持っているのだが、ふつう人はこの視線に対して自分自身をうまくごまかしながら、たとえばもっと具体的な視線に合わせて自分を変えるということをやる。しかし前者の視線は自分に対して欺かれているから、それでもこの人物は自分が依然として一貫的だと思い込むことができる。

この後者の視線に合わせすぎれば自己同一性は崩れて混沌とするが、前者に合わせ過ぎてもその場での適合的な振る舞いができなくなるだろう。

このような点で、理想自我と自我理想の違いが考えられるかもしれないのだが、これは結局のところ視線の内実の違いである。ただ、この常にくまなく見張る視線は、ふつうはそこまで徹底化されずに欺かれるのであり、ところがこの欺きが周到に回避されると、この視線は徹底したものになる。ここまでくると、人は自分について一貫性を意識するがあまり、かえって自分が一貫していないことを知ってしまう。そこに不安が生じる。比喩的な不眠状態が生じる。この不眠において、「ある」という状態が意識される。