かんぼつの雑記帳

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人生と夢

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三島由紀夫は認識と行動という二元論を終生唱えていた。そしてそれはそれ自身彼の葛藤の表現でもあった。この葛藤というのは、簡単にいえば、なにかを意識することと、それを生きているということのあいだにある、埋めがたいズレに苦しむことである。ひとつ断っておけば、これは古くから哲学的な問題として考えられてきたので、べつだん三島が最初に考えたわけではない。ある意味でそれは彼個人のというよりも、哲学的な生のありかたの基本的な形式である。したがって三島はこのような意味での哲学的な生を生きたのだといえる。

たとえば、小説家自身である彼に言わせれば、小説家にとって唯一アクチュアルなのは(つまり行動的なのは)、作品を作るという行為である。このことはそのまま芸術と人生という二元論の問題につながっていく。人生というのは、まさにふつう人がそれを生きているところのものである。ところが、芸術家というのは、それを表現するために、それについて観察=意識しなければならない存在である。さらにこのとき、芸術家は人生からデタッチメントした(人生を生きていない)状況にあるといえる。

ところで、なにかをその都度決定したり判断したり決断したりするということは、一種の狂気である(たとえばキルケゴールは決断とは狂気であるといっている)。しかしなんの見地からして狂気なのか。意識の見地からである。意識にとって、あらゆる判断の作業はエラーに陥る。たとえば道徳的な行為とはなんなのかということは誰にもわからない。もちろん、ふつう、人はほとんど意識せずに善いことをおこなえる。目の前に困っている人がいたら、その人を助けようと思ったり、哀れみを抱いたりするということは、ふつうのこととしてある。そしてそう思うことと、そう思ったことでその人を実際に助けることのあいだには、ほとんど障害がない。しかし一度そこで道徳的な正しさとは何かと考え始めると、人はそれについて何もなしえなくなる。そして、このようなことは、自分が今まさになそうとしていることについて意識することから始まるのである(実際には何もしなかったということをせざるをえないし、この、生きていないつもりなのに実際には生きているという問題は根本的な問題なのだが)。

つまり三島にとっては、認識する(それを意識する)限りは行動する(それを生きる)ことはできず、まさに芸術家=小説家とはそのようなズレを生きる存在である。しかし、少なくとも、小説家は作品を作るそのときにおいては、具体的な題材や筋について決断している。だから小説家にとっては小説を作るということだけがアクチュアルなこと(それを生きるということ)となる。


2,


それにしてもなぜ人はなにかを意識するとき、判断エラーに陥るのだろうか。それはおそらく様々な可能性に脅かされるからである。

たとえば小説を作ることすらできなくなった小説家のことを考えてみよう。そのとき、小説家はなにに苦しんでいるのだろう。おそらくどの題材を選べばいいかわからないということに苦しんでいるのである。たとえば主人公は男でもいいし女でもいいだろう。この主人公はギャンブルに溺れてもいいし堅実に生きてもいいし恋に落ちてもいいだろう。しかしなぜそれを選択するのかという根拠を問うと、なぜだかはわからなくなる。彼ないし彼女はどんな可能性も選びうる。だから逆になにも選べない。では、そんな小説家がなにかを選べるようになるとしたら、それはどんな場合なのか。それは、ある特定の価値観や対象に彼の心が投資=備給しているときだけだ。

別の例を出せば、これはコミュニケーションにおいてもそうだ。自分が相手になにかをいうとき、その意味や効果は、相手がそのときどんな状況にある、どんな人間かによって異なる。しかし自分はもちろん相手について多くのことを理解してはいない。だから自分がこれからいおうとしていることは、様々な意味にとられる可能性がある。そのなかにもし自分にとって好ましくない可能性があるとすれば、人はそれをいいたくてもいえなくなる。もしそれがいえることがあるとすれば、それは、彼ないし彼女がその可能性を意識していないときか、意識していてなおそれをいうことで相手とうまくコミュニケーションができる可能性に賭けることを決めるときだけである。つまりそれが危ない橋だと気づいていないか、気づいていてなお危ない橋を渡ることを決めたときだけ、それをなしうる。

だから論理的にのみ考えられたときには、人はいつまでも決断しえない。つねに様々な可能性に脅かされるからである。もし決断しうるとしたら、それは、狂気や、強い欲望によるしかない。しかしもう一つ、別のファクターもある。それは時間に関わるファクターである。

ジャック・ラカンは三人の囚人の寓話というものを使って、この時間という要素の効果を説明している。その寓話とは次のようなものだ。ある三人の囚人がいる。彼らはあるとき、監獄長に、特定の条件を満たすことで釈放してやるといわれる。その条件とは、あるゲームに勝利することである。とうぜん外に出たい三人は、このゲームに参加することにする。

このゲームは次のようなものである。まず、囚人たちの背中には、五枚の円盤のなかから選び出された円盤が、一枚ずつ貼り付けられている。三人の囚人たちの背中にそれぞれ一枚貼り付けられたわけだから、貼り付けられている円盤の枚数は計三枚であり、残りは二枚である。さて、この五枚の円盤は、実は、色分けされている。その内訳は白三枚の黒二枚で、囚人たちは自分の背中に貼り付けられた円盤の色も、残りの円盤の色も知ることができない(実際には全員の背中に白い円盤が貼り付けられている)。彼らが知りうるのは残り二人の背中に貼られた円盤の色のみである。この状況下で自分の背中に貼られた円盤の色が白と黒のどちらなのかをいちはやく監獄長に言い、なおかつ当てたものが、ゲームの勝者である。ただしお互いに情報をやりとりしたり、相談したり、サインを送ったりすることはできない。

このようなゲームを行ったところ、囚人たちはしばらく逡巡し、それから同時に監獄長のもとに駆け出して、「自分の背中の円盤の色は白だ」といった。

さて、このときなにが起こったのか。

ラカンによればこうである。まず、囚人たちは、「自分がもし黒だったら」と考える。仮にそのうちの一人をA、残り二人をそれぞれB、Cと呼ぶことにしよう。さてAは自分が黒であるという仮定をもとに、次のように考える。

もし自分が黒であったら、BとCは黒い円盤と白い円盤を見ているはずだ。次に、もし彼らのうちの一人が「自分が黒であったら」という推測をしていたならば、その段階でこの一人は、残りの一人が二枚の黒い円盤を見ており、そこから自分の円盤は白だと結論するはずだと推測するはずである。すると、この推測者(BかC)にとって、この残った一人は即座に駆け出さなければならないのだが、げんにこの一人はそうしない。さてもしここまで推測を進めたなら、推測者は、この段階で、「ということは、自分は白なのだ」と考え、監獄長のもとへ駆け出すだろう。同様の推測をこの二人のそれぞれがしうるはずなのだから、自分(A)を除く二人は、もし自分が黒であれば、即座に自分が白だと判断して駆け出すはずである。しかしそうしないということは、私は白なのだ。早く駆けだそう。……

しかしながら、これは純粋に論理的に考えられた場合には、なしえない推論である。なぜなら、Aがこう判断しうるには、彼がBとCが自分の背中の円盤を見、駆け出さないということを見る、という、経験的データを得る時間が必要だからである。したがって、もし彼らのうち誰かが彼の判断よりもはやく駆け出した場合には、彼の推測はそのことだけで破綻することになる。したがって彼は一刻もはやく自分の推測の正しさを確保するために駆け出さなければならない。彼は判断(自分の円盤の色が白だと理論的根拠はなくとも決定し、それを監獄長に言うという判断)をせよと急き立てられている。

問題はここからである。この寓話において、三人の囚人たちは同時に監獄長のもとにおもむき、正解することができた。ということは、無事に彼らは釈放されることができたのだろう。しかしもし彼らのうち誰かが残り二人にたいして出遅れて遅れてしまったとしたら、彼はどうなったのだろう。

まず、この寓話のレベルでいえば、彼は囚人にとどまるということになるだろう。しかしラカンがこの寓話でいわんとしたことを踏まえるならば、このことの意味するところはなにになるのか。

まず、この寓話全体が精神分析的に意味しているのは、人がいかにして社会化するかということである。精神分析的には、人が言葉を使ったり、社会に適応したりするということは、去勢されることで可能になる。そこでまずは社会化について語るために去勢の説明をしよう。一般に、去勢とは男性器が切除されることをさすが、もちろん精神分析の去勢とはこういうものではない。精神分析において男性器とは幼児的な万能感の比喩であり、人はそうした万能感を挫かれることで社会に参入するのである。

これはたとえば、勉強のことである。いまの社会においては、人は、やりたいことをやるためには、経済力を持たねばならない。そのためにはいい企業に勤めるというのが一つの有力な選択肢である。では、いい企業に勤めるためにはどうすればいいか。勉強をしていい大学に行かなければならない、というのが、一つの答えになる。

しかし、そもそも自分の欲望と、勉強とのあいだには、本来、何の必然的なつながりもない。ではなぜそんなことをしなければならないのか。それは、人が社会に、そしてそのルールのなかに生きているからである。人間の(無意識の)なかにある幼児的な万能感は、自分の欲望は誰がどういおうと叶えられるし、そうであるべきだと信じている。しかし現実にそうするわけにはいかない。なにかが欲しいからといって、それを盗んだり、奪ったりすることは許されない。だから願望を叶えるためには、社会の要求に応えるかたちをとって、やりたくもないことをやるという作業に一度迂回する必要がある。こういう第三者的なもの(社会)の敷く法に屈すること、このことを去勢という。

ところで、三人の囚人たちの寓話は社会化に関わる話なのであった。そしてこの場合、急き立てられて他の囚人と同時あるいはかれらに先んじて監獄長のもとに赴いた囚人は、この社会化を成功させた者だと考えることができる。ということはこの囚人は去勢を受け容れたことを意味する。ではこの囚人はこの寓話において、どのように去勢されたのか。まずは取り残された囚人ではなく、出し抜いたこの囚人のことを考えてみよう。

まず、この囚人にとって去勢は、監獄長にこのゲームに服することを強いられ、それを受け容れたところから始まっている。さらにそれが決定的になるのは、この囚人が急き立てられて、論理的根拠なしに、自らの背中の円盤の色を判断したときである。これを社会化という観点から読みかえれば、彼は社会というゲームのルールに巻き込まれ、それに参加することを決めてしまった人々との競り合いの中で急き立てられることで、無根拠に自分が何者であるかを確定したときに、去勢を受け容れたということになる。

では、取り残された人はどうなるのか。彼は論理(根拠の底を求める思考)のなかで判断エラーに陥り、社会にたいして自分が何者であるかを確定できなかったものである。ようするに、彼は社会化されることができなかったのだ。

この急き立ての比喩は、一見非常に思弁的に思える。しかしこれは身近な問題でもある。

たとえば、就活のことを考えてみよう。就活においては、人は自分がどの分野のどのような職種や業界のどのような仕事に就くのか、示すことを求められる。さらにその判断と自分の今までのありかたとの必然的な繋がりを物語ることを余儀なくされる。しかし、そのときには、彼は、自分がほかの仕事にもつきえた可能性を捨てざるを得ないだろう。そして自分がレディメイドの言葉や社会的な枠組みによって一意的に規定されるような存在ではないということを、あえて無視するか忘れるしかないだろう。さらに就活のしくみそのものは、こうした規定を促す〆切、明確に自分を何者か決めずに済むモラトリアム期間の刻限(急き立ての原因)として機能している。

逆にいえば、もし自分が何者であるかを社会に対して規定し示すことができないならば、人は牢獄に留まり続けることになる。ところで牢獄とは、非社会的な存在を社会の内部で隔離しておくための場所なのであった。取り残された囚人とは、社会に適応できなかったもののことである。


3,


しかし、無根拠になにかを判断するあるいは自分の判断の根拠の底を疑わないということは、自分の判断に決定的な盲点を抱え込むということである。この盲点を抱え込むことがいやならば(つまり去勢を拒否するならば)、人は人生において判断し続けるつまり生きるのではなく、人生から引いてそれを意識するしかない。とはいえそれは原理的には不可能なことである。なぜなら、人は人生を意識し同時にそのなかで生きているからである。この意識を悩みだと考えても同じである。悩みつづけることは人を社会の周縁へと追いやっていく。

最後に僕がここで考えておきたいのは、この人生に悩むということと、人生を生きるということを、夢という概念と突き合わせてどう考えればいいのかということだ。

ここで僕は人生を生きるということを、夢と等置することがどこまでできるのか、ということを考えてみたい。ここでいう夢とは、「人生とは儚い夢のようなものだ」という一般論におけるような夢でもあるが、精神分析的な意味での夢も含む。

精神分析における夢とは、ひとことでいえば、人の幼児的願望が前面に出てくるものである。たとえばフロイトはそれを一次過程への退行と呼ぶ。

フロイトにとって、人間は基本的に幻想の中に生きている存在であるが、この存在は、同時に、現実を捉える手段をも持ち合わせている。それは術語でいえば、一次過程と二次過程をあわせもつ存在である、ということだ。では一次過程と二次過程とはなにか。

人はなにかの対象を通じて満足を得たとき、このことを記憶するが、この記憶は厄介なものでもある。なぜならば、フロイトによれば、人はこの記憶を思い出すことを通じて、いわば記憶という実体を持たない幻想によっても、自分を満足させることができるからである。それは生命維持の観点からすれば危険なことである。なぜなら、たとえば飢餓の状態にあるときに、現実を省みずに食事の幻想だけを見ていたら、そのうち死んでしまうからである。幻想による願望充足の試みは幻滅に終わる。したがってある対象が出現したとき、人は、それがほんとうに現実のものなのかどうか、そしてそれが以前自分に満足をもたらしてくれたものと同じかどうかを判断しなければならない。対象とそこから得られる満足という点からすれば、このような現実吟味と対象の同一性の判断の機能を司るものこそが二次過程である。一次過程においては、人は幻想と現実の区別がつかないので、二次過程はこの一次過程を抑圧することによって人を現実に適応できるようにする。

ところが、人が寝ているときには、この二次過程の抑圧は弱まって、一次過程が前面にでてくる。このときに見るのが夢である。このような考え方は、しばしば人が夢の中にいるときにはそれを夢だと気付けないことがあるという、経験的なデータに基づくものだと思われる。

ところで、人が何かの同一性を判断するというとき、そこには言葉=語の機能が働いているということがわかる。なぜなら、人が流動する連続的な世界に、同一性を保つ非連続な対象を見出すのは、ひとえに言葉の機能に依るからである。そしてこの場合言葉は、ある対象について語ろうとする言葉として機能している。つまり語と物が分離している。

この議論に関連して、夢についてフロイトは面白いことを言っている。いわく夢においては、登場人物が喋る言葉には意味がない。それは夢を見ている本人のなかにあった、昼間のやりとりの記憶を、そのまま持ってきたり組み合わせたりしたものに過ぎないのである。

このことはなにを意味するか。夢においては言葉がなにかを意味する語としてではなく、たんなる物としてあつかわれていることがわかる。つまりそれは~についての言葉というよりも、そのような言葉があったならばそれがそれについて語ったであろうところの物、つまり~になっているのである。

これはいいかえれば、夢においては語の次元がないこと、あるいは二次過程が機能していないことを意味する。さらにそれは、なにかについて意識する意識の次元がないことをも意味するのである。

もちろん、厳密には、人は夢を意識して見ていることがありうるし、そこで言われた言葉に意味を見出して反応してしまうこともありうる。しかしもちろんフロイトの考える夢は、二次過程が完全になくなってしまった意識状態のことを意味するわけではないから、おそらくこのときには、緩和された二次過程が働いていたものと考えることができる。

いずれにせよ、このような意味で、なにかについて意識する次元が確保されない状態が夢だとするならば、まさしく人生を生きるということは夢を見ることに他ならないということになる。それでは人生について悩む(意識する)ということは、一方で、醒めていることを意味するのだろうか。つまり、社会に適応している多くの人はただ夢を見、悩んでいる時にだけ、目覚めていると言えるのだろうか。

おそらく、そうではないだろう。これはただちに人生を生きるということもまた目覚めているということなのだとか、人生に悩むということもまた夢を見ているということなのだということを意味するわけではない。というよりも、重要なのは、根本的に、目覚めているということと、眠っているということの区別をつけるのは原理的にはできない、ということである。

しかし、それにしても思うのは、醒めてあろうとしながらも、決断し社会化するということは、ある種のアイロニーを抜きにすればいかにして可能か、ということである。急き立てを使うのはひとつだろうし、欲望をうまく作るというのもそうだろう。しかしそれもなんだか違う気がしないでもない。また、これはある種、文系的な学問の知をどのように一般社会へ流通させればよいかという問題でもあるだろう(そうする必要があるかどうかというメタな問題はまた別としても)。この場合、世の中は夢をみすぎているのだ、といっても詮無いことである。多数者の夢こそが社会の現実を形成しているのだし、それにそれは非本質的に過ぎないものにみえながら、実はそれなくしては本質的なものすら成り立たないような、そういう性格のものだからである。