かんぼつの雑記帳

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規定と反省ーー作品を論じるということあるいは考えるということ

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とあるところで自分の研究について発表する機会があって、人に批判された。その批判の内容は、作品について語る際、それに用いる枠組みと作品との対応関係がちゃんととれていない、というものである。つまり簡単にいえば、たんなる雑な当てはめだということだ。
作品論を展開する際、ふつう、人は作品についてある理論的な枠組みを使う。それが哲学であれ、社会学であれ、精神分析であれ、あるいはなにかしらの一般論であれ、そうすることが多いだろう。つまり、作品論には、論じられる作品と、作品を論じるための枠組みがある。そして、そのときには、作品は枠組みによってその意味を規定されるということができる。
たとえば、ある物語の展開について「これは抑圧されたものの回帰だ」といえば、それは精神分析の「抑圧」という術語と、それをめぐる議論の枠組みによって、作品を規定しているということができる。
しかしここで問題なのは、このような作品論がその作品についての論ではなく、枠組みが枠組みについて語っている論になってしまう危険性を秘めているということである。というよりも、僕の考え方では、作品論とはつねにこのように、枠組みの自分語りにならざるをえない。どういうことか。
ここでかりに、枠組みが当てはめでない場合を考えてみよう。するとそれは、作品自体がその枠組みの反証となるような場合である、と考えることができる。そして作品自体がその論の枠組みの反証であるならば、枠組みは妥当性を失う。つまりそれに依拠していた作品論自体の妥当性が失われてしまう。したがって、規定の細かさ粗さの違いはあれ、もし作品とそれを論じる枠組みの確固とした関係を維持したいならば、作品における枠組みの一貫性を脅かしうる要素はなかったことにするしかない。
ともあれ、おそらく批判者が僕の論についていいたかったのは、この枠組みの自分語り的な性格が、僕の議論に見られたからだろう。
その批判の是非はともあれ、これはかなり根本的な問題である。そしてそれについては以前から僕も考えていた。その考えを、この際、ここにまとめておこうと思う。

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先ほど、僕は、作品論には、論じられる作品と、作品を論じるための枠組みがあり、この二つの関係は、一方が他方によって規定される関係であると述べた。実はこの規定という言葉は、カントの術語である。そしてこのカントの術語としての規定について考えることは、作品論における枠組みのことを考える上で非常に重要なことなので、ここではまずその説明をしておきたい。
規定は、カントにおいて、判断力という術語を語る際に典型的な使われ方をする。カントは判断力を人間の先天的な能力の一つとして示したが、この判断力にはいくつかの種類がある。そのうちの一つに、規定的判断力というものがある。
規定的判断力とは、ひらたくいえば、ある普遍的な法則と、現象や対象とのあいだに照応関係があるかどうかを判断する能力である。たとえば、三角形という概念に当てはまる図形を様々な図形のうちから判別し選び出せるのは、我々に規定的判断力があるからである。
さらにカントによれば、規定的判断力には、それと対照関係を持つ判断力がある。それは反省的判断力である。反省的判断力は、個別の事例から普遍的なものを発見する能力である。たとえば人Aが死に人Bが死に人Cが死ねば、そこから、「人はいつか死ぬ」という考えが導きだせる。
勘のいい方ならお気付きのように、この二つはそれぞれ演繹と帰納の話をしているように見える。そして事実それは妥当だろう。規定的判断力は普遍的なものを個別的なものに当てはめる能力であり、反省的判断力は個別的なものから普遍的なものを抽出する能力なのだから。

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それでは、作品をある枠組みを使って論じるということは、どちらの判断力に依拠してなされるのか。ここで、作品は個別的なものであり、枠組みは普遍的なものであると考えることができる。したがって、普遍的なものに個別的なものを当てはめるという作品論的な操作は、規定的判断力によってなされることがわかる。ということはそれは本質的に演繹的な作業である(という今の操作も僕の規定的判断力によってなされている)。
ところで演繹にはいくつかの弱点がある。そのなかでももっとも致命的なのは、演繹が大前提とした命題がもし間違っていたとしたら、その結論もまた間違っていることになる、ということである。したがって大前提は、もしある演繹についてそれを正しいと強弁したいならば、決して疑ってはならないし、その根拠について問うてはならないものとしてある。
作品論についても同じことがいえる。ある作品論についてそれを正しいとするならば、その前提となる枠組みは疑いえない。それを当てはめる作品は、したがって、この枠組みに沿うものでなければならない。そうしたことの結果として生まれるのは、枠組みが枠組み自身について語るという独我論的な空転である。規定・演繹と反省・帰納という言葉を使って先の議論を置き換えると、このような言い方になる。
実は僕は以前から作品論にかんするこういう不毛さに気づいていたし、一時期はそれで完全にうんざりしてしまったこともあった。ところが、一方で、それでもこうした作品論らしきよくわからない記事を、僕は相変わらず書き続けている。それはなぜなのか。

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その答えは、僕が、人は規定と反省の繰り返しで理論を研ぎ澄ましていくと考えているからである。
たとえば、ある大前提を立てるためには、どこかしらで帰納に頼らなければならない。先の「抑圧」という言葉を例にあげよう。抑圧は、精神分析の術語であるが、これは、個別具体的な神経症患者つまり個別的なデータを参考にすることによって考え出された抽象概念である。したがってそれは帰納的、反省的に考え出されたものだ。しかしそれを一度作品に当てはめるとなると、今度は抑圧という普遍的なものを大前提として、作品という個別的な事例に当てはめる必要がある。
しかし、たいがい一回こっきりの帰納で生み出された概念などというものは、しばしばあいまいなものである。たとえば道徳などという言葉はあまりに漠然としているから、それについては、個別事例を偶然的にひたすら列挙するのでなければ、様々な分類をする必要がある。いいかえれば、抽象概念にはたいがいその例外や、それに当てはまるのかもしれないが、かといって他のものと一括りにするのもどうかと思われるような個別的なものが出てくる。もしこれをなかったことにすればその抽象概念はそれ以上細かくならないし厳密にもならない。逆にそうするためにはこの例外的なものたちについて再び帰納、抽象化をおこない、細かく考える、という作業を、不断に続けなければならなくなる。そしてこの作業はいくらやっても現実の特殊なあるものには到達しない。それが言葉や理論の限界である。
ともあれ、しかしながらこうした例外に気付くには、人はたとえ荒削りな概念や枠組みであれ、それを何かに当てはめるということをしてみなければならない。それで枠組みと対象の齟齬に気づかなかったり、気づかないふりをするようならこの人の思考はそこで終わりである。もし気づけてなおかつその気づきを活かしたいと思うならばこれ幸いと、自分が立てた論の崩壊を恐れずに、その例外について考えるのが良い。そして僕はものを考えたい人だから、どちらかといえば後者の態度をとりたいと考える。もちろんたまには一つの枠組みに安住したいということはあるが。
いずれにせよ、僕がこれまでやってきたことは、ようするに、作品論を論じてはそれを自己批判し、自己批判して作り直した枠組みで作品論を論じてはまたそれを自己批判する、という反復作業である。そしてこれはある意味で作品に対する枠組みの優位関係の定立を、アイロニカルには(つまり作品論を論じる際に一時的には)やるとしても、根本的にはやらないということでもある。
むろん、この選択は作品論を論じるに際して方法的な困難を呼び寄せる。おまけに精神衛生にもよくない。しかしもしある事柄についてちゃんと考えようとするならば、この困難は避けてはならないし、甘んじてうけるべきものであろう。そしてこうした困難を避けるつもりも退けるつもりもない僕の議論が比較的当てはめに過ぎないように見えるというのは、ひとえに僕の思考力の問題もあるし、反復がまだ足りないということもあるのだろう。いずれにせよその指摘された等の理論についても、まだまだ精進が必要だということだ。