かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

アルバイトをしていて思ったこと(学習と保守性)

エッセイです。

 

 

僕は長い間ひとつのアルバイトを続けている。飲食店の厨房業務である。入りたての頃は物覚えが悪く、先輩にどやされたこともよくあった。しかし今は職場のなかでもかなりのベテランで、当然、平均以上には仕事ができる。

しかし、僕は新人の頃、自分が先輩方に迷惑をかけてしまったことを、いまだによく覚えている。それを覚えているからこそ、新人がまごついているのをみても、怒ることはほとんどない。しかし、もちろん、自身にもそうした時代があったことをすっかり忘れて、新人に強くあたる人もいる。その理由は、たいがい新人の物覚えの悪さにある。
そういう経験のなかで、僕は「人はなにかについて、一度では覚えないどころか、何度やってもなかなか覚えない」ということを学んだ。知識としてというよりも、一つの実感として、学んだのである。そして、この数年来、そのことの意味について、なんとなく考えるようになった。これは、わかってみれば、思想的にも人生訓的にもまったく新しい話ではないのだが、その考えをまとめがわりにここに書いておこうと思う。
いま「思想的にも新しくない」といったが、実はこうした問題は色んな人がすでに論じている。たとえば、フロイトがそうだ。この問題は彼の記憶や意識をめぐる議論のなかでもあるし、幼児期の外傷的な体験の影響の強さの議論にもある。それからフロイトの最重要テーマの一つである死の欲動や反復の問題は、あきらかにこうした学習の問題と関わっている(たとえば人は英単語を覚えるために、何度も暗記練習を反復しなければならない)。また、疾病利得という考え方も関連するだろう。疾病利得というのは、神経症や精神病から得られる利益のことであり、患者が治りたがらない、病に固執する原因となるものである。
疾病利得などは、ある意味では病を、それを反復することの好みの面から考えることを可能にする。人は病から癒えたいのかもしれないが、同時に、病みつきにもなりたいのだ、と考えてみる。これを学習に置き換えて考えると、人は学びたい(変わりたい)のかもしれないが、同時に、学ぶことが嫌いでもあるのだ(変わりたくないのだ)と考えることができる。教えられたことをすぐに忘れてしまうのは、ここから考えれば、ニーチェが指摘したような忘却のある種の能動性からくるものだといえる。このことは前に論じた『勉強の哲学』でも書いてあったことだ。
もちろん、これは意識レベルでの欲望の話だけをしているのではない。単純に、人間の身体がそれに抵抗するということもある。たとえばホメオスタシスという言葉があるが、人は生物レベルでできるだけ同じ状態を反復しようとする。しかし反復は同一性の円環的な回帰(まったく同じことをぐるぐる繰り返すこと)ではなく、つねにズレを孕むものなので、否応なく人は変わっていってしまう。たとえば毎日食事をするにしても内容や時間は違ったりする。しかし逆にいえば、そこに学習のチャンスがある。
人が変わろうと思ってもなかなか変われないのは、こういう生物的、生理的な側面に依るところが大きく、それを無視してすぐに変わろうとしたり、そうあることを他人に求めたりするのは無茶である。
また人は変化を好むし簡単に変われるという世界観で構築された社会においては、あるいはそういうふうなつもりはなくてもそうなってしまったような社会においては、人は苦しむことになる(人はたしかに変化を好むが、これは人の一側面でしかない)。人は変化を反復することは苦手で、どうしても反復を反復してしまう。確かに、今の自分を変えれば、諦めていた可能性を手にすることはできるかもしれないが、そうした可能性というのは、かりにそれが具体的なかたちをとっていたとしても、今と未来の差異のなかにだけある実態のない幻想であることがしばしばで、何ものにでもなれるという考え方は、可能性への逃避でしかない。そして誰もが何ものにでもなれるような(しかし実態としてはそんなふうにはなれないような)社会というのは、かならずその幻想(人はすぐに何にでもなれる)と現実(人はすぐには変われないし、何ものにでもなれるというわけではない)の埋めがたいギャップのなかで歪みを生む。たとえば即戦力の人材や入れ替え可能な人材を求める企業体質は必ずその企業に(ひいては社会全体に)限界をもたらすが、その限界を乗り越えるためには、教育には手間もコストもかかるしリスクもあるが、それは人間が人間と生きていくために欠かせないことなのだ、と考えるしかない(そして現行の社会では、機械を使えばいいという発想にも限界があるだろう)。『勉強の哲学』の千葉さんがいいたいのは、基本的に、こういうことなのではないかと思う。
そういう意味での、ある種の能動的な保守性というものと学習とは、根本的にかち合う。だから手っ取り早いものをどうしても求めたくなる。僕は可能性の逃避を批判したが、実は、僕が一番そういう逃げを打ちたがる人間なのである。もし人間にこのような能動的な保守性というものがあるとするならば、学習は地道で小さな毎日の努力の積み重ね(反復)であるほかない。しかしそれは目に見える大きな報酬や成果を期待できるものではないから、僕は最近までそういうものになかなか取り掛かる気になれなかった。でも、最近はこういうことを考えるなかで、無意味に思える小さな出来事の大切さにやっと気がついた。何を当たり前のことを、といわれるかもしれない。たしかに、幼い頃からきちんと努力をしてきた人にとっては、ある意味でそれは「反復」されてきた、当たり前のことなのかもしれない。でも、僕にはそういうコツコツとした積み重ねによって何かを得てきた経験があまりに今まで少なく、それを理解するまでに、これだけの年月がかかった。だが、だいぶ遅くなったとはいえ、こういうことに気がつけてよかったと思う。