かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

雑記01(贈与と時間)

メモがわりに。

 

 

贈与と交換の違いのひとつは、時間という観点から考えたときに明らかになる。
交換するとき、私たちは物と物を即座に取り替えるから、貸し借りはほとんどないようなものである。これは(クレジットカードでの支払いなどの形式を除けば)基本的には貸借というよりは売買のほうに位置付けられる行為だといえるだろう。
ところが贈与に際しては、物と物が行き交うまでに時間差がある。もっともここで僕がいいたいのは、純粋贈与ではなくて、返礼を前提とする贈与の話である。こういう贈与の場合、ある人Aがある人Bに物を贈与したあと、BはAにそのお返しをしなければならないと考え、そうするのだが、それがなされるのは何かをもらった瞬間ではなく、もっとあとである。そしてモースらの研究が示す通り、あるところでは、こうした贈与と返礼の形式を保つために、誰かから何かをもらった際、わざと返礼を一定期間遅延させる(というのもそうしなければそれは交換になってしまうから)、という慣習が成り立っていた。それはなぜか、といえば、おそらくはそれが共同体の持続に関わるからだろう。つまり、こうした互酬の形式において重要なのは、屈辱、負い目、感謝などの感情が、彼らをそのあいだ結びつけている、ということである。ここで生まれた時間差の内実は、差異=関心であり、共同体の持続とはこの感情的関係の持続だといえるかもしれない。そしてこの感情的関係は、社会的関係のひとつの側面をなすだろう(ここでいう社会的関係とは、人がそれによって対人的に自立不可能になるようなものである)。
そして、このことから考えれば、逆に交換の場においては、人はあたかも互いに自立した主体のようにしてお互いに関わるかもしれない。交換は観念的に考えれば、もはやその直後から、彼らの関係がなくなる、清算済みになるような形式であり、交換が終わったあとは、彼らはお互いに対して無関心=無差異になる。
ところで、レヴィナスは倫理的な態度を、他者に対し無関心=無差異でいられないことだ、というふうにいった。僕が最近贈与と交換について考えはじめた動機も、実はこの倫理と無関心=無差異の問題、そしてコミュニケーションの問題に、それらのモチーフが深く関わると考えたからである。
たとえば、純粋贈与と無差異=無関心。倫理的な贈与を、送り手が返礼を期待せず、また受け手がその行為に対して返礼しようと思わないようなものだと考えるならば、そもそも贈与は送り手にも受け手にも贈与として意識されてはならない。このような贈与の不可能性についてはいくつか議論がなされているようだが、それに影響を被る前に、僕はひとまずこのことについて自分の考えをまとめておきたい。
たとえば、倫理的行為とはこのような純粋贈与であると考えるときに、仮にそれが不可能だとして、せめてそれに近いものをおこなおう、としたときには、人は自分の行為を、相手に返礼しなければという負い目を負わせないようなものにしなければならない。そのためには、相手にそれがそのような意味を持ちうる行為だったとか、あるいはそのような行為がなされたということ自体を意識させなければいい。これはたとえば、誰かが落とした持ち物を、こっそりその人のコートのポケットに戻しておくとか、まったく善意などの意図はなく、結果的に相手を利するに過ぎない行為をしているかのように振舞っておくとか、そういうふうなことである。
また、かりに送り手がそうしなかったとしても、受け手の側が恩知らずであったり、忘恩していたりする場合にも、これは成り立つ。そしてこのような文脈から、この場合についても、前者の場合(送り手が贈与してないかのように贈与する場合)についても、興味深い事実が指摘できる。つまり、これらの場合には返礼の感情は受け手にないのだから、送り手は受け手にとって、少なくともその贈与行為に関しては、まさしく無差異=無関心な関係にあるのだ。したがってこれらの場合において受け手は想像的には誰の助けもなしに、自由=自立していられる。ひるがえっていえば、倫理的であることは、これらの場合、相手を自由にしておくことを意味するのだが、それはまた無関心=無差異をも意味するので、(かりに相互的な感情や行為のやり取りを関係というならば)関係、そしてコミュニケーションと呼ばれているあのよくわからない状況をも不成立にするかもしれないのである。
以上のことから、無関心=無差異には、交換の無差異=無関心と、擬純粋贈与や忘恩・恩知らずによる無差異=無関心、少なくともこの二つの形式がある。そしてこのような意味から捉えたときの純粋贈与は、シモーヌ・ヴェイユが消え去ること、不在といったときの倫理的なあり方に近いという気がする。消え去ること、不在とは、まさにあたかも贈らなかったかのようにして贈ることだ、といえるからである。
もし倫理的行為が可能だとしたら、その可能性は交換ではなく贈与のほうにあるのだろうか。むろん贈与には交換と違って時差がある。そこから、(場合によっては誰かが自分に対し決定的に先んじており、自分は遅れているが故に)先んじようとすること、まず自分からしようとすることの倫理性も帰結されるのかもしれない。しかしまだここらへんのことについては考えがうまくまとまっていないし、深まってもいないので、言及しないでおく。

 

追記

 

物語はいつも過去と関わるが、この過去は、しばしば忘れられていたりする。それはなぜなのか。この忘却の問題は、ここで述べた忘恩の問題に関わるはずである。多くの場合、物語において、この過去は思い出されずにはいられない。そしてこの想起が、忘れられていた負債を呼び起こし、物語に差異=関心の時間を与える場合がある。たとえば恩知らずな子供と、無償の贈与をそれと知られずおこなっていた親の物語、など。あるいは誰かがいなくなった後で、かつてその人が与えてくれたものに気づいたときの、取り返しのつかなさをめぐる喪失についての物語、など。