かんぼつの雑記帳

ほとんど個人用メモ。アニメ・哲学などを扱ったエッセイを投稿しています。

『夜廻』の眼(補遺:『東京レイヴンズ』における犠牲の役割)

1月末までになんか載せたいなと思ってたんですが無理でした。とりあえずまとまってないですがネタを放出しておきたいと思います。

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PSVitaで遊べるゲームに『夜廻』というものがあります。この作品はホラーゲームで、行方不明になったお姉ちゃんのために、小さな少女が化け物の徘徊する夜の街を探索するというものなのですが、先日そのゲームの実況動画を見ていて気になることがありました(以下ネタバレを含みます)。
それはこのゲームの終盤も終盤。少女がトンネルの向こうの神社に寝かされていた姉を見つけ出し、街にある彼女たちの家へと戻る最中のことです。この帰り道もなかばというところで、突然少女の顔から血が飛び散ってしまうという場面がありました。
ゲーム画面を見てもらえればわかりますが、このゲームのキャラクターは基本的に低い頭身で作られていて(昔のポケモンドラクエを想像していただければいいと思います)、血が飛び散ったとか、こういう動作をしたということはわかっても、それが詳しくはどういったことなのかがよくわからないことがあります。そういうわけで、僕は最初この場面がなんだったのかよくわからず、後日ホラーゲー好きの知り合いに解説を乞うことにしました。
彼の弁では、こうです。まずトンネルの向こう側は、この作品世界では冥界にあたる。したがって主人公のお姉さんは、すでに死にかけていたことになるのですが、そこに生者である主人公が入っていって、これを連れ出すのは、本来ならルール違反になってしまうわけです。そこでこのルール違反を許してもらう(目をつぶってもらう)代わりに、少女は片目を代償として支払わねば(目をつぶさなければ)ならなかった。こういうわけで、問題の場面で彼女の顔から血が出たというのは、要するに眼球が奪われたのだか、潰されたのだかしたときの出血だった、ということらしいのです。
なんというか、これはすごく古典的な構図だなという感じがしますね。似たような展開・モチーフ・世界観が、神話や古代悲劇などのいたるところに散見される気がします。いえ、実際のところ僕が真っ先に思い浮かべたのは『鋼の錬金術師』の人体錬成と真理の門だったのですが…ともあれ、こういう代償の論理によって、少女は冥界から姉を伴って無事生還することができたわけです。
本題はここからです。ここで僕は今この記事を読んでいるあなたに訊いてみたいことがあるのですが、冥界から人一人を取り戻してくるのに、眼球一つで済むというのは、なんだか天秤の針が狂っているという気がしませんか? 少なくとも僕はそう感じるわけです。あるいはもっといってしまえば、そもそも眼球で交換できるとか、あるいは他の何かと取引できるとか、死(あるいは半死に?)というのはそういう類のものなのなのでしょうか…。こういうふうな疑問がある。
もちろん、これは『夜廻』に対する批判というわけではありません。僕はこの作品を(実況動画で見ただけとはいえ)面白いなぁ、魅力的だなぁ、と思ったし、この展開自体にも文句はありません。ただ、ここではこの作品から僕が得た死についての取引のおかしさというテーマを、一般的な話として考えてみたいのです。ハガレン風にいえば、死についての取引において等価交換できるその等価物とはいったいなんなのか。
先日からしばらくこのことについて考えていたのですが、なんとなくそのことについて考えてみたので、ここで文章にしておきたいと思います。倫理学について勉強なさっている方にとっては、既知の話かもしれません。

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まずは、『夜廻』の主人公の行為はどんなものだといえるか、考えてみましょう。
それを考えるにあたっては、キューブラ・ロスという人が死の五段階説という面白い話をしています。彼女によれば、人は自らの死を五段階の過程を通じて受け容れていく。その五段階とは、否認、怒り、取引、抑鬱、受容、の五段階である。
まず、否認の段階では、人は自分が死ぬはずがない、何かの間違いだ、と、死を否定します。現実を認めることができないわけですね。
そして次の怒りの段階では、現実を認めはするものの、感情のレベルで受け容れられていない状態といっていいでしょう。なんでこんなことが起こるのだ、こんな不条理が許されてなるものか、という心理です。
それが第三段階になると、取引を始める。誰と? たとえば神様と、ですね。自分はこれこれこういういいことをしてるから、助けてくれとか、見逃してくれとか、延期してくれとか、そういうふうなことを考えるわけです。
そして第四段階に入ると、否認はできない、怒っても無駄、取引は無効、現実は取りつく島もない、というわけで、塞ぎこんでしまいます。はやい話が鬱になる。
しかし最後の段階になると、この現実を認識の上でも感情の上でも受け容れ、諦める。こういうふうにして人は死をようやっと受け容れることができる(もちろんできない場合もあります)。
僕が注意を促したいのは、このうちの第三段階、すなわち取引の心理機制です。なぜなら、勘のいい方はお気づきかもしれませんが、この取引というのは、まさしく『夜廻』において、主人公が、姉を助けるためにおこなったことだといえるからです。この文脈に沿っていえば、彼女は冥界と取引をして、自分の目と引き換えに、姉を死から救ったのだ、といえる。
むろん、ロスも言っているように、現実においてはそんなことはできないわけです。でも、フィクションの世界ならできる。それからもう一つ、宗教の世界でも、こういうことが試みられてきたわけですね。
たとえば、原始宗教の儀式では、供物や生贄と引き換えに、自然や神と様々な取引をおこなっている。それからまた、それは一神教などについてもいえる。善行を積む代わりに、死ぬのはいいとして、死後は天国に連れていってくれとか、最後の日には復活させてくれとか、そういう取引をする。むろんその有効性については確かめようがないのですが、しかし少なくとも死についていえば、いくら取引をしても、これらの手段では避けようがないようです。
ともあれ、とにかく死とか、それをもたらす災厄などに直面させられたときに、しばしば人は霊的な存在と取引をおこなって、それらのできごとから守ってもらったり、見逃してもらったり、そのあとの救いを求めたりする。こういうことがいえるわけですね。

2,

人は死や、災厄に見舞われたり、見舞われそうになると、どうにかしてそれを避けるために、霊的な存在と取引をおこなおうとすることがある。
この点で『夜廻』の主人公の行為は明白に取引だといえるわけですが、もちろんそれだけではなにもわからない。もっとこの行為を厳密に考えるには、取引の性質について細かく考える必要があるでしょう。
たとえば、僕がロスの説や、宗教を例に出して考えた取引のかたちは、あくまで取引している本人自身が救われるためのものですね。しかし『夜廻』の主人公のそれは違うのであって、そこで問題になるのは姉という他人の死です。
そこで、他人の死が取引にどう関わるかをもう一度考えてみましょう。すると、ここで犠牲と負債の問題が出てくるのです。いったいどういうことなのでしょうか。
まず、原始宗教について考えてみましょう。原始宗教の取引的な色合いを持った儀式のスタイルといえば、供儀のそれですね。供儀では、動物や穀物、そしてときには人の命までが捧げられて、神との取引がおこなわれていました。そこで犠牲になっているのは、取引している本人ではなく、なにか他のものです。
しかし、ある程度罪の意識が生まれてくると、こうしたことは許されないような気がしてくる。そして問題の位相は売買(これを捧げるから助けてくれ)から貸借(借りがあるから返さねばならない)にずれていく。そこにおいて犠牲と負債の関係が生まれてくる。
たとえば、人間のなかには不条理を負債として捉えなおす考え方があります。なぜ自分はなんのいわれもなくこんな目に遭わねばならないのか…このようなことを考えているとき、人は苦みのなかにあります。そしてこのような場合においてとくに注目すべきは、この苦しみが二重の苦しみだということです。つまり、それは、不幸そのものに対する苦しみというだけではなくて、それがなんの意味もなく、ただあるということ、その不条理に対する苦しみでもある。苦しみそのものよりは、むしろそこになんの意味もないということが苦しい。
すると、苦しみそのものは避けられないとしても、どうにかそれに意味を与えよう、道理をつけようということになってきます。そこで人は、自分がいわれなくこんな目に遭っている、という前提を疑い始めるわけです。ほんとうに自分にはなんの落ち度もなかったのだろうか。罪はなかったのだろうか。いや、きっと自分は何かをしたに違いない。しかし、なにを?
このときに考え出されるものこそが、かつて自分の身代わりになって死んだ誰かがいた、自分の身代わりになって不幸を負った誰かがいた、という仮説でしょう。いわば誰かが自分の犠牲になったわけです。自分はその人に対して負債を負っているのであり、それを清算しなければならない。今負っている苦しみは、そうした弁済作業の一環、不足分の返済なのだ、というわけです。だからそれを払い終え、貸しを多く作った暁には救いを…というわけですね。こういう取引の形式がある。
そしてこうした考え方は、たとえば被害者バッシングの論理とも背中合わせです。これはなぜかというと、人のものの考え方には「世界公平仮説」と呼ばれる信念が埋め込まれていて、それがこの負債感情を引き起こしもすれば、被害者を叩く感情をも引き起こすからです。世界公平仮説とは、世界は公平につくられている、という仮説ですが、ここにはもちろん世界は公平でなければならないという要求が前提されているのであり、ここにおいては要求(〜ねばならない)と事実(〜である)の短絡が起こっている。その結果、誰かが不幸な目に遭ったということは、それは因果応報なのであり、その人物になにか落ち度や罪があったに違いない、という論理が形成されることになる…。そうじゃないと勘定があわない。意味が、条理が、世界から失われてしまう。それだけは避けなければならない。だからそんな目に遭っているのはあなた自身のせいなのだ。こういうことになるわけです。

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ところで、僕はこれまで取引、売買、貸借、負債、弁済、勘定、などといった、経済的な比喩を使ってきました。こうした道徳的な道理にまつわる経済的な性質については、ニーチェという哲学者が指摘しています。また一方で、欲望や愛について経済的な比喩で語っている人もいます。それはフロイトです。
フロイトは、欲望や愛のことをリビドーという言葉で語っていますが、フロイトのリビドー理論は、「経済論的に」(これはフロイト自身の表現です)考えられています。さそして彼によれば愛とはリビドーの特定の対象への固着であり、そこに人はリビドーを投資しているというわけです。
このことをわかりやすくするために、ここでものを失くしたときのことを考えてみましょう。たとえばあなたのコートのポケットの底が知らぬ間に破けていて、そのなかに突っ込んでいた目薬をどこかに落としてきてしまった。さて、あなたはこれを探そうと思うでしょうか。また買えばいいやと思うのではないでしょうか。
しかしこれがたとえば懐中時計だったらどうでしょう。この場合には必死に探すはずです。そしてこのようにしてものを探す理由の一つは、懐中時計が高かったからでしょう。
それからまた、ギャンブラーの心理を考えてみてもいいかもしれません。パチンコにもう何万も突っ込んでいる。しかし天井もこなければあたりも引かない。ここでやめておけば損失分は今の額で抑えられる。しかし次の投資で、負けが帳消しになり、あわよくば勝てたりなんかしちゃったら…このとき、ギャンブラーをさらなる課金へと駆り立てるのは、もしかしたらもう少し粘れば大当たりが出るかもしれないのに、ここで帰ってしまったら、今までの投資分、すなわち負け分が無駄になってしまうんじゃないかという考えですね。
なんというか、すごく身もふたもない即物的な話なのですが、愛情はこういう性質を少なからず持っている。今までリビドーを投資していたぶん、それを失くすとすごく悲しい気持ちになったり、どうにかしてそれを取り戻そうとか、失ったことに埋め合わせをつけようとする。たとえば、恋人と別れたときに、鬱になったり、今まで愛していたはずの相手のことを罵倒し、おとしめて、「自分が失ったものは、最初から価値のないものだったんだ」と自分に言い聞かせようとしたり、戦争が長引いて、誰ももう命のやりとりなんかしたくないのに、ここでやめたら今まで死んでいった人々の死が無駄になってしまうと考えて戦い続けてしまったり…こういった例は枚挙にいとまがありません。
いずれにせよこういう感情の経済を考えていくと、物語というのがすごくわかりやすくなる場合が多い。そして『夜廻』の主人公を駆り立てるのも、姉への愛=投資と、彼女への負債感情です。彼女はまず姉のことを愛しているわけですし、またのちに彼女自身が独白するところによると、彼女の落ち度のせいで、姉は冥界に連れていかれることになる。愛(投資)と罪悪感(負債感情)。このふたつが主人公を動かすことになる。

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ここまで考えてみると、いよいよ『夜廻』における取引のおかしさがどこに由来しているのかがわかります。
まず、これまで、僕は経済と道徳、そして愛の関係を語ってきました。そこからいえることは、こうした感情の経済市場に、ふつう、世界は参入してこないということです。
僕たちが、もし少しでも世界というものについて基本的な知識を持ち、それを直視する勇気を持ち、そしてあくまでその知識に準拠して世界を見ようとするならば、世界にはどうやら人間が世界公平仮説などのモデルで考えるような意味や条理などはなさそうだ、ということがわかります(とはいえ、僕は、べつだんこうした世界観が宗教的なそれより優れていて、正しい、と主張するつもりはありません)。しかし反対に、ロスのいう取引は、世界をある人格や、そうでなくとも、人間に似た何かとして見なさなければ成立しないものであることがわかるでしょう。いいかえれば、あたりまえですが、取引というのは、コミュニケーション可能な存在(これは必ずしも人間である必要はありません)との間にしか成り立ちえないわけです。というか、そういうコミュニケーション可能性を前提としているのが経済だといっていいし、そこで行われていることはコミュニケーションそのものです。
そもそも世界は取引に応じる気がない。だから取引の条件だとか、死の取引価格などは示してくれない。そんな、取引の相手になり得ないものを無理矢理に擬人化したときに神話が生まれ、冥界が生まれる。それはある意味で世界の資本主義化であり、人間化です。でも僕は少なからず世界がそういうふうにできてないことを知っている。だからこそ『夜廻』の取引はなんだかおかしな気がするわけです。たぶん、それは眼球でも、靴下でも、人一人の命でも、同じことでしょう。

5,

ここで終わっても良かったというか、そうするつもりだったのですが、最近『東京レイヴンズ』というラノベの一巻を読んで考えたことを、補遺がわりにメモしておきたいと思います。あらすじなどは必要以上には解説しないので、気になった方は読んでみてください。

まず、『東京レイヴンズ』第一巻には様々な死と犠牲、取引の主題が出てくることを指摘しておきたいと思います。一つ目は、主人公・土御門春虎の中学時代からの友人であり、実は式神という人外の存在だった北斗の、自己犠牲による死(この死はのちに意表をつく形で埋め合わされるのですが)。そして、この巻において主人公たちと利害対立する存在、大蓮寺鈴鹿の、死んだ兄を、自分を身代わりに蘇生させようとする試み。このうち前者の事柄について、ここでは軽く触れておきます(後者についてもいろいろ論点があるのですが、とうぶん結論が出ないと思うので、割愛します)。

北斗の死について。この死は、物語において二つの役割を担っています。一つは春虎の危機からの脱出という役割。そしてもう一つは、春虎の応答のきっかけという役割です。
この二つの役割について解説する前に、北斗の死についての状況を整理しましょう。まず、主人公の土御門春虎は、安倍晴明の末裔にあたる存在です。彼の家、土御門家は、したがって陰陽師の世界において由緒正しい名門なのですが、反面、差別を受けているようなところもある。その理由は土御門夜光という彼の先祖筋の陰陽師にあります。彼は戦前の生まれで、現代の陰陽道の体系を作り上げた偉大な人物なのですが、彼が戦後まもなく、焼け跡の残る東京の土地で試みた大規模な儀式の影響で、その後霊災といわれる霊的な災害が、東京において頻発するようになります。彼の犯したこの罪によって、土御門家は非難の目に晒されることになるわけです。
とはいえ、春虎自身は土御門家のなかでも分家の人間であり、本人曰く才能もないとのことで、陰陽師になる気はなかった。北斗はなんども春虎に陰陽師になれと、不可解なほどに勧める(この理由は最後まで読めば明らかになります)のですが、春虎は「今いる日常を壊したくない」と、ずっとこれを拒否し続ける。
とはいえ、そういう因縁があるわけですから、結局は彼も陰陽師絡みの事件に巻き込まれることになります。そこで登場するのが大蓮寺鈴鹿鈴鹿は幼くして陰陽師のトップである「十二神将」の一人になった存在で、その才能と技術と、そして土御門夜光が試みたという呪術儀式で、彼女にとって大切だった、今は亡き兄のことを、蘇らせようとします。そのため彼女は、その術の成功例といわれている春虎の幼馴染・土御門夏目と、儀式に必要や土御門家の祭壇を狙います。
とはいえ、そう簡単にことは運びません。そもそも死者を蘇生させる術は禁術に指定されており、その禁を破ろうとする彼女に対しては、陰陽師を統括する組織から、刺客が差し向けられているからです。そこで鈴鹿も応戦を余儀なくされる。そしてそんな鈴鹿の手から、春虎は夏目を、夏目は祭壇を守ろうとする。
こういう構図があって、くだんの場面は刺客たちを倒した鈴鹿と、春虎が対面するところです。春虎は力勝負では鈴鹿には及ぶべくもないので、そんなことをしても兄は喜ばない、と説得を試みます。さいわい鈴鹿もまるきり話が通じないわけではなく、いささかのためらいを見せますが、そこですでに自分の願望を否定される苛立ちから、彼女は興奮しています。そこに折り悪しく倒された刺客の一人が不意打ちを仕掛けようとしますが、彼女はこれに対して、勢い余って過剰な力で応じてしまいます。その直撃を食らったらこの刺客が死んでしまう…そう考えた春虎は彼を助けるべく走りよりますが、タイミングからして、彼がその直撃を代わりに受けるほかないような状況でした。
そこに現れたのが、北斗です。春虎のことが好きだった北斗は、春虎をかばい、彼の代わりにその直撃を受け止めて、致命傷を負ってしまう。そして、そこで彼女が実は式神とよばれる陰陽師に使役される存在だったことがわかるのです。
本エッセイにとって興味深いのは、ここからです。春虎は北斗の死に衝撃を受けますが、そのことによってまた、過去に夏目と交わし、しかし反故にしてきた約束を果たすことにします。彼は、北斗がこうなったのは、自分が土御門という家の宿命から、それが自分の一部でもあったのに、逃げ続けていたからだと考える。そして、拒否していた呪術の道に進むこと(これがほとんど夏目との約束だったのですが)を決意するのです。
実はこの一連の流れは、神話にはよくある構造です。それをジョーゼフ・キャンベルなどは「召命拒否」というふうに呼んでいます。
ふつう、人は、主人公というのは能動的でアクティヴな存在だと考えています。しかしよくみてみると、これが実は違うということがわかる。たとえば、『Fate/staynight』のアーチャーは、英雄のことを「いつも何かが終わった後に現れて事後処理をしていく掃除屋だ」といっていますが、まさにこれが主人公に当てはまります。主人公がまず行動を始めるのではなく、主人公は何かが起こってしまった後でやっと、その起こってしまったことに対して、埋め合わせや取り返しをするために、動く。「ヒーローは遅れて参上する」のです。
それにまた多くの物語の序盤においては、主人公は、どこかに赴くことを嫌がっている。それをキャンベルは「召命拒否」といっていて、春虎は事実「日常を守りたい」がために、陰陽師の世界に進むことを拒否しているわけです。しかし、彼は土御門家に生まれたという宿命、土御門夜光の犯した罪の負債、夏目との約束などといったものたちによって呼びかけられている(召喚されている)のであり、彼はそれに応答しない限りにおいて、自分の応答能力=責任(responsibility)を否定している。
じゃあ、そうした主人公を動かすにはどうすればいいか。やはりそれは、主人公からなにかが奪われるという契機がなければなりません。これが主人公に行動のきっかけをあたえる。それが『東京レイヴンズ』第一巻においては、北斗の死にあたるわけです。そこで春虎は負債、自分の代わりに誰かが犠牲になったという負債を負わされているのです。
しかし、同時にこの場面は、物語の別側面をも示します。ふつう物語は問題を解決するための一連のシークエンスとして考えることができますが、そこにおいて問題が緊張をもって具体化する場面とは、危機や葛藤の場面です。ある力とある力がせめぎ合っていて、あるいは何かが危機にさらされていて、膠着状態ないしはこのままではまずいという状態にある。そしてこの場面を打破し次の展開へと繋げるには、物語は、そこに第三の要素、贈与者の贈与を持ち込まなければなりません。
この贈与は、様々なかたちをとります。具体的なアイテム、過去の記憶…そしてその贈与の仕方によって、その後の展開も変わってくる。
たとえば、ある魔物に襲われて、主人公が倒されそうになったとき、謎の人物が現れて、助けてくれる、といった場合には、その人物と合流して、そこでまた人間関係の葛藤を繰り広げたり、新たな情報を得ることになったりします。また、何かのアイテムや記憶が与えられた場合には、そのアイテムを使ったり、記憶を思い出したり、その記憶のなかにあった謎を解くことで、状況が打破されたりします。
そしてもうひとつのパターンとして、なにかが犠牲になるということがある。たとえば有名なのは「俺を置いて先に行け!」ですね。あとは、敵の野望のカギを握る存在が仲間にいて、敵の実力に味方たちが敵わないとき、その仲間が自分を売り渡す代わりに仲間を助けてくれ、と頼む場合などもそうです(これは僕が最近見た『ゼノブレイド2』というゲームにあった展開です)。
で、北斗の犠牲は、上のような危機の場にあって、主人公・春虎に対する贈与としての意味を持つわけです。犠牲が贈与の役割を持ち、そのことで春虎を債務者にする。この負債の責任を引き受ける形で、春虎の物語が始まる。こうした小さな物語(危機→贈与→解決)の流れが、大きな物語の構造(召喚の辞退(日常への固執)→応答(非日常への出立))へと自然と組み込まれているわけです。
さて、最後に少し精神分析的な話をしておきたいと思います。
フロイトは、後年になって死の欲動という概念を考えました。死の欲動は様々な比喩や定義で語られ、複雑な意味を持っている概念ですが、このエッセイの文脈では、さしあたり人を死の方へとさし向ける欲動だといっておきましょう。
そして次に重要なのは、この死の欲動が、フロイトの理論の中では良心を司るとされる、超自我のエネルギーになりうるということです。このときにフロイトが考えているのは、鬱病神経症の患者に見られる過剰で暴力的な自責感や道徳感情であり、そこにみられるある種の自分自身へと向けられたサディズムのイメージです。
ところで、物語論においては、日常→非日常→日常という三つの流れで神話や英雄譚を考える構造があり、この非日常の世界はしばしば死の世界でもあります。冥界へ下ったり、死の危機に瀕したり…そういった死の世界から、生の世界へとなにかのために赴き、なにかを持ち帰って帰ってくる。こういう構造を物語に見る人々がいたわけです。
この話をフロイト超自我理論につなげ、さらに北斗の犠牲の問題に繋げると、面白いことが言えます。まず北斗の死は春虎に負債の感情、超自我的な良心、責任意識をもたらし、彼を自ら死地へと赴かせる。『夜廻』でも同様ですね。こうした物語は、ある意味では道徳感情を利用して、主人公を死の方へと赴かせているのかもしれません。そして僕の見立てでは、こうした側面から英雄崇拝の美学の一般的な形式が、物語構造に沿って、語れるのではないかと思います。