かんぼつの雑記帳

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東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』における憐れみと観光客の道徳性について

「憐れみ」とは何か? 『ゲンロン0』を読んで - うなぎのブログ

この記事に触発されてなんとなく僕も『ゲンロン0』についての個人的な見解の一部を書いてみようと思いました。たぶん僕の読み方の方はありきたりなものになると思うのですが、対照していただけると面白いのではないかと。読解の一助になればさいわいです。

 

※なお、本エッセイは東浩紀『ゲンロン0』と上記記事を読んだ方を対象としていますので、それぞれの内容について細かい説明はおこないません。ご了承ください。

 

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 『ゲンロン0』の論旨のまとめについては引用記事を作成した方が非常にわかりやすくまとめてくださっているので、ここでは割愛するとして、さっそく『ゲンロン0』における憐れみの分析をおこないたいと思います。


 ここでまず引いておきたいのは、引用記事のこの箇所です。

 

 先の憐れみをめぐるグローバリストとナショナリストの分断の事例とは、本来非意志であるところの憐れみという感情が、リベラルの「他者を憐れむべきだ」という命法の中に、言い換えれば意志の中に投げ込まれてしまったがために生じた事態であるように思える。
 この事例ではグローバリストが他者を憐れむことを意志し、直接に連帯することへと使用してしまったがために分断が起こった。しかし、観光客の哲学では憐れみはあくまでも誤配される。その誤配を通してこそ、人々は事後的に連帯することが可能になる。

 

 これは國分功一郎の『中動態の世界』を引き合いに出して憐れみの両義性について論じた箇所ですが、ここでの能動態-中動態の項と能動態-受動態の項の関係は、東の議論を経由する形で、カント哲学の構図に置き換えることもできるでしょう。
 東はしばしば「マクロな視点では数量化できるがミクロな視点ではかけがえのない個性を持っている存在」として人間を考える(二重の)視点について語ります。ここでいうマクロな視点というのは、たとえばビッグデータのような統計にあらわれる、ある指向性をもった運動として人間を捉える捉え方です。またミクロな視点でというのは、ようするに、僕たち一人一人の個人的な視点から見た人間を人間として捉える捉え方です。
 これをカント哲学の用語で置き換えれば、現象界の人間(マクロ視点の人間)と自由界の人間(ミクロ視点の人間)というふうにいえる。さらにこれは理論と実践の違いでもあります。人間は理論認識においては、所詮ある構造のなかで運命に従って動かされているに過ぎない(マクロ的人間観)。だが、人間はそれを嫌だと思い、構造にとらわれないで、自発的に、自由に生きたいとも考える(ミクロ的人間観)。カントはこうして人間の人間自身に対する矛盾する二つの人間観(理論的人間観と実践的人間観)を示します。
 さて、こういうふうなことをいわれると、ふつう、人は前者を後者に無理やりごまかして統合しようとするか、後者を幻想だとバカにしてシニシズムに陥る(いじけて高二病になる)でしょう。しかしカントは人間は理論的な現実(自由意志などない世界)のなかで、できるかぎり実践的に(自分を自由意志のある主体とみなして)生きるべきだと説きます。これは、道徳的な要求でもあります。なぜなら、自由意志がない世界では自分の行為は運命によって決まっているのだから、そこに責任は生じませんが、自分に自由意志があるとみなすと、その行為の原因は自分にあり、必然的にそこから責任が生じるからです。したがってカントにとって実践とは道徳のことなのです。
 ものすごく簡略化していえば、それはようするにこういうことです。「理想は実現できない=現実的なものではない。だが現実に生きながら理想を目指してしまう、その人間の性質は現実的である。したがって、人間は現実のみに拘泥してもいけないし、理想を実現できると考えてもいけない。人間は理想を実現できないことを肝に銘じながら、それでも現実のなかで理想を目指すべきである」。


 さて、以上の議論を踏まえて、ふたたび引用記事の議論を見てみることにします。まず、國分の能動態-中動態的人間観と能動態-受動態的人間観は、それぞれ強引に置き換えれば東のマクロ的人間観とミクロ的人間観につながる。そして東のマクロ的人間観とミクロ的人間観は、カントの理論的人間観と実践的人間観につながる。
さらにここから、カントの道徳哲学の文脈で、憐れみをとらえなおしてみたいと思います。
 カントの道徳哲学は、ふつう、合理的な道徳哲学に分類されます。合理的な道徳哲学とは、経験的な道徳哲学と相反するものですが、ここではまず経験的な道徳哲学の立場がどんなものかを説明したいと思います。
 経験的な道徳哲学とは、ひらたくいえば、道徳は時代や場所や文化、個人個人の価値観などによって変わると考える立場です。したがって、この立場において、普遍的な道徳などというものは存在しません。
 一方の合理的な道徳哲学とは、道徳に普遍性を求めようとする立場です。したがって、この立場においては、時代とか場所とか文化とか個人の価値観に関係なく、絶対的な道徳があるのだ、というふうに考えます。
 どちらも一歩間違えれば危険な考え方ではありますが、ともあれカントは後者の立場に立ちます。このような立場に立ったうえで、カントは、僕たちのおこないが常に普遍的といいうるような道徳性を持っているかどうかという検証を怠らないこと、このことをまず普遍的なきまり(根本法則)として定めます。ようするにそれは、普遍的道徳を目指すことを普遍的な道徳的態度としろ、すなわち「理想(普遍的道徳)は実現できないが、これを目指せ(つねに既成の道徳が本当に道徳的なのかどうか疑いつづけろ)」、このような考え方です。
 こういう考え方をしたカントが、道徳に感情は禁物と考えるのは無理もないことです。なぜなら、道徳はこの場合普遍的なものでなければならず、感情は気まぐれ(経験的)なものだからです。だから、カントにとって純粋な道徳とは非感情的なもの、いいかえれば、自分の感情とは関係なく行われなければならないものです。それはエゴイスティックな感情を克服するのが道徳なのだという単純な話ではありません。それは憐れみやその場の正義感に端を発する道徳行為についてもいえることだったりします。たとえば、浦沢直樹の漫画作品に『MONSTER』というものがありますが、この漫画の主人公は、医師として救った患者が後年殺人鬼になってしまうことに苦悩します。僕たちはしばしば人を職業意識や同情や正義感から助けますが、その結果が最終的にどう転ぶかはわからない。こういうことまで考えて徹底的に悩み、疑え、これがカントの立場です。


 とすると、憐れみを強調する東と道徳の非感情的な普遍性を強調するカントの立場は、このような観点においては、対立することになるのでしょうか。僕の考えでは、それは違います。もちろん二者の関係はまったく同じではないですが、少なくとも対立的ではないと考えます。


 このことを考える鍵は、カントの道徳哲学に存在するあるねじれにあります。そのねじれとは、尊敬の感情の考察に見られるねじれです。
 カントによれば、道徳は非感情的なものです。しかし、カントは同時に、人間は道徳的に生きようとしてしまう性質をもっている、ともいう。これは考えてみればおかしな話です。なぜなら、道徳的に生きようするという人間のあり方は、どう考えても感情的なものだからです。
 したがって、道徳の非感情性を主張したカントでさえも、道徳の基盤に感情を持ってこざるを得ないのです。その感情は、カントの語彙では、尊敬の感情とよばれます。ここでただちに疑問になるのは、尊敬というのは誰に対する尊敬なのか、ということですが、ここでの尊敬は人間には向けられていません。それはカントの言葉でいえば道徳的法則、ひらたくいえば普遍的な道徳に対する尊敬心なのです。
 カントによれば、人間は誰しも普遍的な道徳に対する尊敬心を持っています。しかし、それはやはりカントの道徳哲学では二次的な役割しか与えられません。それは道徳的であることをめざすきっかけにはなってよいが、あくまで道徳は最終的には義務(非感情的なもの)として遂行されなければならない、と、カントはこういうふうにいいます。
ようするに、カントにとって、尊敬の感情とは、経験的な道徳哲学と合理的な道徳哲学を架橋するねじれた橋なのです。
 このことを、憐れみの概念をふまえたアレンジをくわえて説明させてください。たとえば、僕があるところで困っている人に出会うとする。そしてその人に憐れみの感情をいだく。そうすると、それと同時的にかどうか、あるいは同時的というような言葉の表現がふさわしいかどうかはわかりませんが、ともあれ僕の心にはさまざまな感情とともに、道徳心(尊敬の感情)もまた去来するでしょう。すると、次に何が起こるか。この尊敬の感情は、まずは自分以外の感情に反抗し、次いで自分自身に反抗することになります。ここに他の感情と尊敬の感情の違いが認められます。つまり、他の感情はただ感情そのものでしかないのですが、尊敬の感情だけは感情そのものに反抗し、普遍的な道徳(非感情的な道徳)を指向する、例外的かつ反感情的な性質をもっている。すくなくともカントは尊敬の感情をこのように定義し、感情的な道徳が非感情的な道徳につながる契機をみる。いいかえれば、こうやって整理すれば、経験的な道徳哲学と合理的な道徳哲学は逆説的な仕方で架橋されうるし、それぞれの弱点が解消されるかもしれない。カントの道徳哲学は、こんなふうに考えるとよいと思うのです。

 

 ここまでの議論をふまえると、ひとまずナショナリストとリベラルの対立は、経験的な道徳(感情的な道徳)と合理的な道徳(非感情的な道徳)の対立というふうに整理し直すことができるでしょう。それでは、このような対立があちらこちらでおこっている世界において、観光客はどのような役目を果たすのでしょうか。
 観光客は、観光以前には、憐れみを基点とする経験的道徳の申し子であり、動物です。したがって、もし彼らが一つ所にとどまるならば、近くの人たちとは連帯できるが、遠くの人たちとは連帯できないかもしれない。しかし経験的な道徳は、外に対しては、容易に暴力に転化しうるものです。それは「みんな」に対しては適応されるが、「みんなの外」に対しては適応されないどころか、場合によっては外の連中を排斥し、傷つけ、極論殺すことすら正当化しうる。したがって、観光しない動物的人間は、容易に排外主義的ナショナリストになってしまうし、彼らはリベラルの「正しさ」(宮台真司の言葉を借りれば、正しいが気持ちよくないこと)に耳を貸そうとはしない(というより、普遍的正しさを押し付けているだけのリベラルは、本質的にこういった排外主義的ナショナリストと同じです)。
 しかし、それが観光に出かけ、そこで外の人々と触れたらどうなるか。そこにはもしかしたら共感や憐れみが生じてしまうでしょう。そうすると、観光客はいくつもの憐れみのあいだで引き裂かれることになる。彼らは素朴な経験的道徳主義にはとどまれなくなってしまうでしょう。
 ところで、この引き裂かれの経験は、カントがその批判哲学の方法論としても、道徳哲学の肝としても、もっとも重要視したものです。カントは普遍的道徳を目指すことを普遍的な道徳的態度とすることこそが、道徳だと考えた。それはようするに、いくつもの正しさのなかで迷い続け、悩み続け、疑い続けることそのものが、道徳的であるということです。しかしまずはそのような多面的な想像力を発動させるきっかけが必要になります。そこで重要になるのが移動(観光)です。
 東は『ゲンロン0』のなかでカントの『永遠平和のために』を引いていますが、この引用の意味は、このような文脈から考えるととてもわかりやすいと思います。カントにとって、道徳哲学は普遍的なもの、非感情的(理性的)なものでなければならなかったが、そのきっかけになるのは感情だった。その基本理論は『実践理性批判』や『判断力批判』における崇高論で論じられているが、その具体的な方法論は、『永遠平和のために』において提唱されている。これを現代的なプラットフォームのなかで具体的なかたちに落とし込もうとすると、観光産業が浮かびあがってくる。このようなつながりを想定して読んでみると、『ゲンロン0』における観光客概念の実践的な意味が考えやすいのではないでしょうか。