かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

雑記06(倒錯とか、夢見りあむとか)

フロイトの有名な言葉に「倒錯は神経症の陰画である」というものがある。最近僕はなんとなくその言葉が気になり始めている。

 


一般的に倒錯というと色んなものがあるが、基本的にフロイトのいう倒錯には二つの特徴があるように思う(最近フロイトのテクストを読んでないのでうろ覚えだけど)。一つは、それが子供の欲望だということ。そしてもう一つは、それが生殖に結びつかないということだ。

もっとも、この二つはフロイトの理論では一つの特徴だといってしまっていいかもしれない。なぜなら子供とは、フロイトの理論においては、生殖とは関係ない性的な欲望をいっぱい持ってる存在のことだからだ。いいかえれば、生まれたばかりの嬰児は多形倒錯的。それが長じるにつれて、生殖に適応的な欲望を持つようになる。それは少し論理的飛躍があるように見えるけれども、人が幼児期の欲望を抑圧する=神経症的になることで、社会に適応していくということをも意味する。

 


だから、フロイトにとって、少なくとも性的な意味で倒錯的であるということは、生殖に適応的でないということを意味する。今こんなことを言えば大問題だが、同性愛もそうだし、アナルセックスやフェチなどもそこに入る。でもそれを必ずしも差別的な意味で受け取ることはない。たとえばその論理をひっくりかえせば、ふつう人は倒錯しているのであり、その観点から見れば、むしろ生殖に適応的な欲望を持つ大人、普通神経症者、社会的存在こそ無理をしている、倒錯的だ、とも言い得るからだ。

そしてこれは僕の考えでは、フロイトの有名な概念、つまり無意識とも関係の深い話である。僕らは無意識に、意識や、意識が作り出したふつうの人間観や社会通念では理解できない不思議な欲望をいっぱい抱えている。それはたとえば「人とは生命を保ち、繁殖することを目的とする存在である」というような人間理解を超えるものだ。

ともあれ、そういう人間理解、つまり神経症的な人間理解から見て、それはどうしても倒錯に映ってしまう。倒錯は神経症が抑圧したもの、それによって意識には理解しがたく、疎遠なものになったものを示す。倒錯は神経症の陰画というのは、こういう意味だと僕は思う。わからんけど。

 


ともあれ倒錯的な欲望というのは、基本的に非合理的に見えるものだ。そして僕が最近考えているのは、倒錯をこういう広い意味で考えることだ。倒錯はたんに生殖という目的に照らしておかしな欲望のことだけでなく、任意の目的に照らしておかしな欲望のことも示し得る概念だ、と考える。そうすると、いろんなことを考えるいいきっかけというか、ひとつの参照項ができるんじゃないかと思うわけである。

 


たとえば、別のところでざっくり述べた夢見りあむ問題。また、人はなぜ病気や病人を、合理的な理解を超えてなお美学的に嗜好するのかという問題。このあたりのことを細かく考えていくと、ニーチェとかハイデガーが考えようとしていたことや、カントの崇高をどう捉えるかということ、フロイトのプロブレマティックな概念である死の欲動をどう扱うかということについても、さまざまなヒントが得られるのではないか。最近はそんな風にまったりのんびりと倒錯について考えている。