かんぼつの雑記帳

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『Fate/Grand Order 徳川廻天迷宮大奥』感想

Fate/Grand Order』というゲームがある。かの有名なFateシリーズのうちの一作で、幾万とあるスマートフォン向けアプリゲームのなかでもかなりの人気タイトルとして知られているものである。その最大の特徴はなんといっても壮大なシナリオで、その執筆陣には奈須きのこを始め、多くの有名作家が起用されている。

 

実は、僕も、一年半ほど前からではあるが、このゲームをずっとやってきたユーザーの一人である。本編のシナリオからサーヴァントの育成からはてはSNSの二次創作まで、このコンテンツには長らく楽しませてもらっているし、これまでのイベントも、最低でもシナリオの全クリ、イベント礼装の交換、星4フォウくんと伝承結晶の回収くらいはやってきた。

 

しかし、そんな僕でも、今回の大奥イベントにはほとほとうんざりさせられた。もちろんシナリオは面白かったし、報酬も悪くない。しかし多くのユーザーが言及していたように、とにかくロード時間が長かった。もしアプデで改善されなかったら、途中で投げ出して、シナリオをクリアすることすらできなかっただろう。

 

とはいえいざ最後までやってみると、やはりシナリオは終わりまで読めてよかったと思ったし、そのストーリーを通して改めて考えさせられたこともあった。ここではそのことを備忘録がわりに書いておきたい。とりあげたいのは、本シナリオにおけるカーマと春日局の対比である。

 

神話上、あるいは実際の歴史上のこの二方がどういうふうな性格の持ち主だったかはさておくとしても、今回のイベントでの二人(一方は神だったりビーストだったりするのだが、とりあえず面倒なので一人、二人と数えておく)は、異なる愛のかたちをもつものたちとして描写されていた。一方のカーマは、どこまでも相手を甘やかしてしまう。他方で春日局は、相手が成長できるよう、ときには厳しいこともいう。

 

こういう二人のスタンスは、たとえば春日局のこんなセリフに現れる。

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春日局は、カーマの愛は成長を見守る愛ではない、という。なぜならカーマの愛は、相手を甘やかすことしかできないからであり、そしてその愛が世界を覆うとき、愛し合うということができなくなってしまうからである。

 

しかし、見方によっては、その意味において、カーマの愛は完璧なものなのだとも言える。

 

そもそも、なぜ人は甘やかされるだけではいけないのか。それは強くならなければならないからである。では、なぜ愛し合わなければならないのか。それは弱いからである。人が愛ゆえにときに人に厳しく接するとき、あるいは人と人が愛し合うとき、そこに前提されているのは、世界というものの厳しさ−−つまりそこでは平和だとか生だとかいったものはつねに闘いのなかで勝ち取られなければならないということ、そしてそういう世界にあって、闘い続け、勝ち続けるためには、人はあまりに弱く、それゆえにときとして強さ(成長)を求め、他人を求めなければならないということである。そういったことを考えるとき、もしカーマが永遠に人を庇護してくれ、愛してくれるとするならば、そのときカーマの愛がひとつの救いになることは間違いない。カーマはそういう強さだとか人と人のあいだの愛だとかいったものが必要とされるその前提条件そのもの(世界の厳しさ)を取り除いてくれるからだ。

 

しかし、それでも、そういう選択肢を提示されて、人がそれは何か間違っている気がする、と思ってしまうのは、それがこの世には存在しないユートピアだからというだけではなく、おそらくそのユートピアがある種のニヒリズムと通じているからである。たしかにそのような愛は望ましいかもしれないが、それをいったん受け容れてしまえば、そのような愛の望ましさそのもの、意味そのものがなくなってしまう。それはたとえば、生きていることそのものに苦しみの根源があるのだから、苦しみの最終的な解決は死にしかない、というような考え方とほとんど同じである。救済とか、永遠とか、愛とかいったものと、そういった無とか死が奇妙な一致を示す地点、カーマの示す地点とはこういう地点だといえる。それは第1部でゲーティアが示した地点とそう変わりがない。

 

思えば、FGOのシナリオが執拗に描き続けているのは、このような、そこに至ることで人の生そのものが意味をなさなくなるような救済に対する反抗だといえる。そしてそういう反抗は、たとえばカーマの快楽の愛に対して、春日局の、ときに崇高で、ときに残酷な「強くあれ」という愛を擁護する形をとる。もちろん、それはカーマからすれば倒錯的に映るかもしれないが(「どこまで痛いのが好きなんですか、人間って!」)、とにもかくにも人が生きなければならないのはそのような倒錯であり、そういう倒錯のもとにおける、還元不可能なズレなのだろう。

 

ところで、僕はこういう物語を読むと、いつも伊藤計劃SF小説『ハーモニー』を思い出す。この作品の終わりにおいてもやはり、最後に、そこに至ることでなにもかもが意味を失うユートピア(意識と葛藤のない自明の愛の世界)が示されるからだ。だから、ユートピアを携えてこちらへと手を差し伸べてくる存在があらわれるたびに、僕は御冷ミァハを連想してしまう。

 

人はミァハやカーマが差し出した手をとるべきなのだろうか。僕にはその答えはわからないが、直感的にいえば、今回のイベントでカルデアの面々が出した答えもまた、とても危ういものだとは思う。その厳しさが、ときには人を追い詰めることもあるからだ。

 

人がそういうさまざまな愛のあいだで、自分に対して、また他人に対して、優れたバランスを保ち続ける方法はないものだろうか。今回のシナリオをやりながら、改めてそんなことを考えた。