かんぼつの雑記帳

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前世の記憶

このまえ、友人と『聖剣使いの禁呪詠唱』という、一部でネタ扱いされている? アニメを見る機会があった。禁呪詠唱は、メタフィジカルと呼ばれる怪物から人類を守るセイバーの戦いを描いたラノベ原作アニメで、このセイバーというのは、前世の記憶と(メタフィジカルと戦うための)能力を引き継いでいることを特徴とする。主人公もまた前世の記憶をもつセイバーの見習い(学生)だが、つうじょう一人のセイバーが一つの前世しか持たないのに対して、主人公は二つの前世を持つ。そのため、ふつうは一人一役しかこなせないような役割を、二役分こなせるのが主人公の強みとなる。

このアニメを見ていて改めて思ったのは、物語と記憶の関係である。以前どこかの記事でも書いた気がするけれど、記憶というのは、物語においては、しばしば物語を始動したり、行き詰まった状況を打開する鍵となる。たとえば、禁呪詠唱では、主人公が毎回前世の記憶を思い出すことで敵に対する対処法(前世で使っていた技など)を繰り出せるようになるが、こういう意味で、記憶の忘却と想起は、物語を進める鍵となるわけである。

それと関連するのかはわからないが、それにつけて禁呪詠唱を見ながら僕が考えさせられたのは、前世の記憶と、現世の記憶を踏まえた上で、主人公やほかのセイバーたちは、「自分」というものをどのように考えているのかということだ。あまりそういう問題を積極的に扱おうという気配はこのアニメには見受けられないし、そういうことをしなくてもいい作品なのだとは思うが、この問題は(脱構築などと関わる)かなり哲学的なものでもあるわけで、そのあたりのことをこういう具体的な作品から考えるとどういう事が言えるのか、そのことが改めて気になった。

たとえば、おそらく前回の記事で扱ったであろう東京レイヴンズの土御門春虎も、夜光の記憶が侵入してくることでキャラが変わっていくわけだし、それから別の作品でいくと、Dグレアレン・ウォーカーもまたネアの記憶の侵入に苛まれるわけだが、後者の例において、記憶の侵入は、キャラクターの自己同一性にかなり深刻な影響を及ぼしている。

さらにこの視点から見てみると、異能力もときにその使用によって、人のアイデンティティを掘り崩してしまうような、複数的な記憶の侵入をもたらす。たとえばサクラダリセットにおいて、未来視能力、リセット能力、記憶の書き換え能力、他の能力に抵抗してあらゆる記憶を保持し続ける能力といったものは、ときとして、自分と他人、現在と未来、リセット前とリセット後、書き換え前と書き換え後などの異なる時間軸や可能世界や人々についての複数の記憶たちの混在を能力者にもたらす(そしてこういう混在のなかにあってどんな記憶も決して忘れえないという能力を持つ浅井ケイが倫理的に振る舞いたがるということには、かなり深い意味が込められているように思う)。その場合の記憶の侵入(想起や捏造もふくむ)は、ときにキャラクター自身が自分についてなんとなくであれ了解している自己同一性をばらばらにしてしまう。そしてそれはいつも複数の記憶たちが前後で入り乱れたり、あるいは同時に存在したりといった、時間的なズレないしは同時性によって、キャラクターを翻弄する。

でも、これは前世の記憶を持っていたり、世界を三日間ぶんリセットできたり、未来の他人の記憶を覗くことができたり、あらゆる事象を改変する能力のメタレベルに立ってすべての記憶を保持し続けることのできる、そんな特異な設定をもつフィクション上の人物にだけ起こることではない。どんな人でも、記憶というあったのかなかったのかもわからない過去についての情報や、想像という、未来の可能性としてありえはするかもしれないが、いまだここにないもの、あるのかないのかわからないものが好き勝手なタイミングで侵入してくることによって、つねにいまここにある自分というものについての理解をかきまわされてしまう無気味な経験に開かれているからである。

そういう問題が物語のなかで扱われるとき、それはどういう展開を生み出すのか。たとえば、(前世の記憶の想起などによって)そういう無気味な経験にキャラクターが襲われ、それが問題となるとき、キャラクターはそれに対してどう対処するのか。精神分析的な意味での抑圧や排除といった語彙や、既存の物語論によって、それを説明することはできるのか。もしできないとすれば、それをあらためてどう捉えればいいのか。ここ一年ほど、物語について考えているときには、つねにこういうことが念頭にある気がする。