かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

考えるということ

はじめに

 あけましておめでとうございます。といっても、もう年明けから半月以上経ってるので新年感は皆無ですが。

 それで新年一発目の記事では、ものを考えるってどういうことだろうということについて書いておきたいと思います。まあ、所詮素人考えではあるのですが、一応これでも色々本を読んできて、自分なりにテーマや問いを立ててものを考えてきた人間ではあるので、考えるということについて人並み以上には経験してると思うし、そこから言えることがあるかな、と。

 で、なんでこういう記事を唐突に書こうと思ったかという経緯をいちおう説明しておきますと、実は年始に『リズと青い鳥』を見てどっぷりハマってしまって−−今更かよ!といわれれば「はい…」というしかないんですが、それはともかくハマってしまって、−−それで一本このアニメについて考察記事を書こうと思ったんですよね。

 でも、いろいろ書いているうちに、この作品の難しさとか、それを論じるにあたって採ろうとした方法の難しさとかに辟易としてきてしまって、結局、いまこっちの執筆作業についてはお休みすることにしたわけです。いや、ユーフォの二期とともになんども見比べたり、場面ごとの概要を全部書き出したりしてめっちゃ頑張ったんですけどね、書けませんでしたね…ただ、それはいいとしても、これでなんにも書かないとまたこのブログについての個人的な目標として掲げていた月一更新が怪しくなっちゃうなーという感じだったので、じゃあせっかくだし『リズと青い鳥』論でぶちあたっていた、ものを論じるとか考えるってことの難しさについて、前から考えていたことを書いておくかな、と、こういう次第です。

 とはいえ、ただやみくもに「考えるとは何か」みたいなテーマをドヤッと出しても、まあ強そうだなとは思うんですが、ちょっと扱うのが難しいよなーとか思ったので、とりあえずここでは的を絞って「文系思考とはなにか」ということを考えてみることにします。いや、これも大きいテーマではあると思うし「そもそも文系とか理系とかそういう区別がだな…」と反感を持たれる方がいるのも重々承知ではあるのですが、これはとりあえずのテーマ設定ということで、勘弁してもらえれば。

文系あるあるから考える

 では、あらためて、文系思考とは何か。これについてはいろんな切り口があると思います。でも、ここではひとまず「文系あるある」から、文系ってどういうふうにものを考えてるの、ということを考えるという、ちょっと変わったアプローチをとることにします。

 その「文系あるある」というのは、文系学問好きにまつわる「あるある」、彼らと固有名詞にまつわる「あるある」です。どういうことかというと文系の、ちょっと難しめな本を読んでいる人たちって、大半が固有名詞をすんごい楽しそうに使います。「マルクスが〜」とか、「カントの〜は〜」とか、「小林秀雄の〜」とか、「漱石というのは〜」とかいうときって、なんか文系の人たちって活き活きしている。とにかくめっちゃ固有名詞(とかタームとか)が大好きなんですよね。

 そして、だいたい彼らにはそれぞれ、そのなかでも特権的な位置を占める固有名詞があります。たとえばマルクスが好きな人たちというのはそれぞれに「ぼくのかんがえたさいきょうのマルクス像」を持っていて、それぞれ同じ人の書いた同じ本を読んでいるにも関わらず、そこに書かれている事柄に対する力点の置き方が違ったりする。たとえばある人は物象化論を重視するし、ある人は価値形態論を重視する。こういうことがままあります。

 でも、こういう特権視というのは好意的な例、つまりその固有名詞に対して好意的な例についてのみ見られるわけではありません。なかには特権的な非難の対象になる固有名詞もあります。しかもしばしば見られるパターンとして興味深いのは、そういう非難の対象になる特権的な固有名詞というのが、実はその人にとって以前は好意的な固有名詞だったりすることがある、ということです。

 これ、エビデンスをここで示せるような話ではないのですが、実際文系にはよくある話です。特定の思想家に惹かれ、その人の本を読み、その主張に夢中になる。果ては伝記や、全集にしか入っていないような文章まで読み尽くし、この人こそはと思い、自分なりのその人像を心のなかに構築する。しかししばらく経つと、その思想の瑕疵が目についてきたりして、ある時期を境にこれまでの態度を一変、この固有名詞を激しく非難するようになる。それからさらに一定の時期が経つと、もはや自分はこの人を超えたのだという超然とした態度をとる。そしてこれら一連の流れを新しいマイブームの対象となっている固有名詞に対しても繰り返す。−−もちろん、こういう一連の態度というのをはなからバカらしいと思う人もいるだろうし、こういう自分に途中から気づいてちょっとみっともないな、と思う人もいるでしょうが、たぶんこういうことをしている自分に一生気づかないタイプの人もいます。しかしともあれ、多くはすでに没しており、伝記や本人の著作からしかその人を窺い知れないような、そういう人に対して、こういう強い愛憎こもごもの感情を抱く文系というのはそれなりにいるわけです。

 じゃあそういうことをえらっそーに分析するお前自身はどうなんだよといわれると、実は僕もこういう気持ちはよくわかります。僕の場合、強い非難をすることはありませんが、しかしその思想家に夢中になるというのはあります。そしてそこにはおそらく外野からみれば気持ち悪くて仕方ないような、自己投影の心理があることも事実です。たとえば僕はこのブログではフロイトの話ばかりしていますが、もともとは三島由紀夫という小説家が好きで、僕の考えの多くは、この人から教わったもの、あるいはこの人の考え方の批判的な吟味から出てきています。そういう意味では僕にとって「三島由紀夫」はひとつの特権的な固有名詞であり、今後どれだけ思想的に離反しようと、かけがえのないお師匠様の名前です。一時期は、この人こそ、僕が知りたいと思っていることの答えを知ってる人なんだ、この人こそ僕が感じてきた生きづらさとか世界に対する違和感を明確に言葉にしてくれている人なんだ、と思っていました(たぶんこんな感じで三島由紀夫に自己投影をする人はわりかし多いと思います)。

 だから、僕はこういう人たちの気持ちがわかります。でも一方で、こういう人たちを直感的に間違っていると思う人たちもいるはずだと思うし、その気持ちもまた、よく理解できます。たとえばそういう人たちは、こういう固有名詞に執着する人に対して、公平でないとか、客観的でないとか、そういうふうなことを感じるのではないでしょうか。そして、その感覚の前提には、ものを考えるということは公平で、客観的な営みでなければならないという命題がある。だからこそ、固有名詞に執着して公平性を見失うのはおかしい、どんな思想についても、ある程度距離をとるべきだ、という考えが出てくる。そしてこれはたしかに、納得できる考え方です。

 しかし、残念ながら、僕の考えでは、おそらく文系的思考においては、はなからそういう「公平さ」とか「客観性」みたいなものを不可能にしてしまうような感情や欲望が前提されています。しかもそれは純粋な思考にあとからくっついた不純物とかではなくて、そもそもその思考を可能にするものそのものであるか、あるいはそういうものに由来するものです。それを馬鹿馬鹿しいといって切り捨てるのは簡単ですが、ここではどうして文系的な思考がそうなってしまうのかについて、もう少し突っ込んで考えてみたいと思います。

転移

 そのため、ここでは「転移」という概念を使ってこのあたりのことを考えるとっかかりにしてみたいと思います。この転移というのは(またかよという感じですが)もともと精神分析の概念で、フロイト神経症治療の際に使った言葉です。フロイトによれば、神経症患者は治療の場面に臨んで、相反する二つの気持ちを持っています。一つは神経症から治りたいという気持ちであり、もう一つは神経症から治りたくないという気持ちです。そしてその後者の気持ちから、患者は治療の際に分析医の治療行為に抵抗を見せる。その一つが転移です。こういう文脈での転移は、分析医と患者の関係における過去の人間関係の反復、たとえば両親との関係の反復現象を指します。たとえば陰性転移とかいうと、分析医を父と見立てた患者が、父に対して抱いている敵愾心を、分析医に対して向けてくるわけです。

 ただ、これは分析医にとって必ずしも有害なものではなく、むしろフロイトはこれぞ神経症治療に欠かせないものだと考えます。フロイトはまず転移が起こらなければ、精神分析的な治療プロセスは始まらないと考えた。

 でも、こういうフロイト的な転移の話はここではいったん脇に置いて、続いてはこの概念がのちのち他の精神分析家によってどういうふうに捉え直されたのかってことをここで見ておきたいと思います。そこで紹介したいのがラカンという人の解釈で、ラカンによれば転移というのは分析医を「知っていると想定される主体」として見做すことです。この場合の「知っている」というのは、患者の症状がどのように構成されているのかを「知っている」ということですね。

 といっても、なんのことかわからないかもしれないので、少し迂回して、神経症症状に見られる典型的な構造をここで説明しておきます。神経症とひとくちにいっても様々な種類のものがありますが、ここで簡略的にそのメカニズムを説明すると、神経症というのは「抑圧」という心の仕組みによって生じるとされます。抑圧というのは、患者がある対象にある欲望を向けていることを、患者自身の意識にのぼらないようにする仕組みです。なぜそんなことをするのかといえば、もちろんそういう欲望を患者が認めたくないからですね。しかし、どんなに抑圧しようと、欲望のエネルギーそのものはなかったことにできないので、それはまた形を変えて別のところに出てくる。これが神経症症状としてあらわれる。

 これだけでも抽象的でよくわからないかもしれないので、くわえてフロイト自身の例をあげておきたいと思います。『精神分析入門』で、フロイトは、ある夫人の妄想について語ります。この女性は53歳で、30年前に恋愛結婚した夫とのあいだに二人の子供をもうけ、幸せな家庭生活を送っていました。ところがある日、この女性のもとにある匿名の手紙が来たことをきっかけに、彼女の生活は一変してしまいます。

 その手紙の内容というのは、彼女の夫が、ある若い娘と恋愛関係にあるということを報せる手紙でした。しかし、なぜそのような手紙が急に彼女のもとにきたのか。これについてフロイトは次のように説明しています。

くわしく経過を話せば、だいたい次のとおりです。彼女には一人の小間使いがいました。察するところ、彼女はこの小間使いと頻繁すぎるくらいに内輪話をしていたらしいのです。この小間使いは、夫が経営する工場内にいるある娘に対して憎悪に満ちた敵意をいだいていました。それは、この娘が自分よりも育ちが悪かったにもかかわらず、自分よりずっと出世していたからです。その娘は女中奉公に出ないで、実業教育を受け、この工場にはいったのですが、召集による人手不足のため、いい地位に昇進してしまったのです。彼女は今は、この工場の中で寝起きし、あらゆる紳士たちと交際して、「お嬢さん」とさえ呼ばれていました。人生の競争に遅れをとった小間使いは、当然、昔の友人に対してあらゆる陰口をきくようになったのです。ある日のこと、夫人はお客に来ていた一人の老紳士のことを、この小間使いと話し合いました。この紳士が、奥さんと別居して、別の女性と関係をもっていたことは、誰知らぬものとてなかったのです。婦人は、どうしてそんなふうになったのか自分にもわからないのですが、突然、夫にそんな恋愛関係があったりしたらほんとうに恐ろしいことでしょうねと言ってしまったのです。するとその翌日、わざと字体を変えた匿名の手紙が舞いこみ、呪うべき昨日の話と同じことを知らせてよこしたのです。彼女は、この手紙は意地の悪い小間使いのつくりごとだと推察しました。おそらくそれは当っていたでしょう。というのは、小間使いが憎んでいたあの「お嬢さん」が夫の愛人だとされていたのですから。フロイト 1977,PP.418-419

 そのようなわけで、この手紙は、その前日の夫人の発言を聞いた小間使いが、敵視する「お嬢さん」を陥れるために書いた手紙だったわけです。小間使いは、このことで夫人が夫に対して怒り、夫がことを荒立てないために「お嬢さん」を解雇してしまえば、しめたものだ、ぐらいに思っていたのかもしれません。

 いずれにせよ、夫人はこういう小間使いの企みを見抜き、しかもそれは実際におそらく正しいわけです。しかし、奇妙なことに、彼女はそれがわかっていたにも関わらず、ひどく取り乱してしまいます。そして夫にそのことを問いただし、否定され、自分自身客観的な状況からやはりそれは事実ではなさそうだと納得したあとにも、彼女はずっと嫉妬妄想にとり憑かれます。「お嬢さん」の名前を聞いたり思い出したりすると、反射的に邪推や非難の気持ちが生じてしまうのです。

 では、フロイトは、こういう夫人の症状をどのように考えるのでしょうか。彼はまず、彼女の嫉妬妄想が手紙の件を必ずしも原因としているわけではないと考えます。フロイトはここで前日の小間使いと夫人とのやりとりに注意を促します。彼女は「どうしてそんなふうになったのか自分にもわからない」が、「突然、夫にそんな恋愛関係があったりしたらほんとうに恐ろしいことでしょうねと言ってしまった」。これを考えようによっては、彼女が小間使いに手紙を書くことを思いつかせようとしていたと捉えることもできるでしょう。そこでフロイトは、彼女の妄想は手紙の件ではじめて生じたのではなく、むしろその最初から念頭にあったことだといいます。

 では、そういう妄想はどこからきたのか。ここで彼は分析セッションのあいだ、彼女が彼女の娘婿に対する恋心を抱いているらしい様子を示したこと、そしてそれを本人は意識していないか、わずかにしか意識していないことを見抜き、これに注目します(実はこの娘婿はそもそも彼女の治療をフロイトに依頼してきた依頼人でもありました)。そしてこのような彼女の無意識的な欲望を踏まえ、フロイトは次のように結論します。彼女は実は、娘婿に恋心を抱いていた。しかしその気持ちは、貞淑な良き妻という、夫人が自らをそこに一致させたいと考えている理想的な規範に反し、彼女の良心による呵責を生み出してしまう。したがってそのような抑圧された無意識的な欲望に対する良心の呵責を和らげるために、彼女は、夫の方こそ若い娘に恋心を抱いているのだ、という妄想を作り上げたのである。

 ここには、先ほど僕が抽象的に説明したことの全貌が出揃っています。患者は自分の欲望を認めたくないがためにそれを抑圧してしまう。しかしその欲望自体は消えるわけではないので、その欲望と抑圧の葛藤の結果が別のかたちで、一見不合理な症状となってあらわれる。これが神経症の基本的なメカニズムです。

 それで、話をふたたび転移のそれに戻しましょう。ラカン的転移概念によれば、患者は分析医を「知っていると想定される主体」としている。そしてその場合の「知っている」とは、患者の症状がどのように構成されているのかということを「知っている」ということなのでした。ところで、今までの説明であきらかになったように、患者の症状を構成しているのは、患者自身が認めたくないと考えている欲望と、それの抑圧です。したがって、患者が分析医に「転移」を起こすとき、患者はそこで分析医が患者の無意識的な欲望を知っていると考えているわけです。

 しかし、そもそもそれは分析医しか知りえないことなのかというと、そうではありません。たしかに、本人の意識にのぼっているということを「知っている」という言葉の意味として定義するなら、患者はもちろん自分の欲望を知らないわけですが、逆にいえば、そもそもその欲望は患者自身のものなのですから、無意識においては、患者はその欲望を「知っている」わけです。そして、患者はそのことを自分自身の分析医に対する行動によって示してしまう。

 たとえば、フロイトの論文のなかでも僕が大好きな論文に「否定」というタイトルのものがあります。この冒頭でフロイトは、次のようなことをいいます。

「この夢の人物は誰かとお尋ねですが、母ではありません」。われわれは「それは他ならぬ母である」と訂正する。分析の際には、否定を無視して、患者の思いついた内容だけを自由に取り出すのである。患者が「この人物は母ではないかと思いついたのですが、この思いつきをそのまま認める気にはなれないのです」と言っていると考えるわけである。フロイト 1996,P.295,太字部分は引用元では傍点

 この例において、分析医は「この夢の人物はあなたのお母さまですか?」などとは訊いていません。たんに、「この夢の人物は誰ですか?」と訊いているだけです。それにもかかわらず、なぜ患者はよりにもよってわざわざ特定の人物に言及して、これはその人物ではないなどと言わなければならないのでしょうか。こういうおかしさに、分析医は注目するわけです。そしてそもそもこういう患者の反応は、分析医が自分の欲望を知っているのだと想定した上で、「きっと分析医はこう言わせようとしているに違いないから、それを先回りして否定することでバレないようにしよう」というふうに立ち回る抑圧のシステムがなければありえません。したがってラカン的な転移の内実は、このような場面で明かされることになります。

父との関係あるいは考えるということの難しさ

 ここまでを説明したところで、この文章の本筋にやっと入ることができます。

 今までかんたんに説明してきたラカンの「転移」概念ですが、これを別のアプローチから考えると、また別の様相が見えてきます。そして実はそのアプローチから「転移」を考えることこそが、文系思考のことを考えるための大きな手がかりになると、僕は考えています。では、そのようなアプローチとはなにか。それは、ここで患者が分析医を「父」としてみなしている、と考えてみるアプローチです。

 ここでいう「父」とは、先ほどフロイトの「転移」について僕が述べた時に例に出したような実際の「父親」のことではありません。そもそも精神分析的な意味での「父」とは、メタルールを知っており、担っていると神経症者が想定する存在のことを指します。ここでいう「メタルール」とは、ルールのルール、ルールの王のことです。

 たとえば、精神分析の概念のなかでもっとも有名なエディプス・コンプレックスの図式について考えてみます。エディプス・コンプレックスの図式とは、古代ギリシア悲劇『オイディプス王』のあらすじからヒントを得て作られた図式で、息子はおしなべて、無意識において父を殺し、母を犯したいと考えているという欲望を持っているが、その欲望を貫こうとすると父親に去勢されてしまうため、その葛藤によって苦しむ、というような図式のことだと考えてもらっていいと思います。

 まずここで注目すべきは、父の非対称性です。父は息子に対して上位(メタレベル)に立っていて、息子は無力なため、父に敵いません。しかし、父はそのような恐ろしい存在であると同時に、その万能性によって、息子を条件付きで他の外的な脅威から守ってくれる存在でもあります。その条件とは、彼の敷く法に従うことなのですが、これはたとえば道徳的な法だったりします。世の中にはときに公平世界仮説という「世の中は因果応報でできていて、良いことをする人間は幸せになり、悪いことをする人間はひどい目にあう」というルールを信憑している人たちがいますが、彼らはどこかにそういう法に従う限り、自分たちを死や病や偶然的な不幸から守ってくれる存在がいると、あるいはそういうルールはちゃんと世界において機能しているのだと、そういうふうに信じようとしているわけです。したがって精神分析的な表現を使えば、彼らはそういう意味での父の傘下にあるといえる。

 こういう理解でいえば、父とはまずもって、世界(良い人でもひどい目に合い、悪い人でも幸せになることがある世界)の無意味さ、不条理さ、偶然性から、子を守ってくれる存在であるわけです。そしてこの「偶然性」という部分に注目すると、これ以外の説明図式でも、父を説明することができる。たとえばスピノザという哲学者は「世界は必然的な因果法則に貫かれており、それが偶然に見えるのは、単に人がものを知らないからだ」というふうに受け取れるようなことを言っていますが、こういう偶然-必然の軸から考えると、ここでいう「父」はさっきの転移の対象、つまり「知っていることを想定される主体」のイメージに近くなってくるかもしれません。ラカンはこれを次のように説明します。まず、子は最初母に全面的に依存していて、衣食住や排泄の世話などを頼りきっている。したがって母親にはつねにそばにいてほしい。しかし、母はしばしば自分のそばからいなくなってしまううえ、それがなぜなのか子にはわからない。そこで子は母のこの現前と不在の「偶然性」の法則をなんとかしてつかもうと推測をめぐらせ、結局母の欲望の対象としての「父」にたどり着く。ここでは「父」は、(道徳的な因果応報といった)目的因的な必然性を世界に与える存在ではなく、(科学的な因果関係といった)作用因的な必然性を掌握する存在です。

 いずれにせよ、このようにして、精神分析的な「父」とは、子が彼に従うかぎりにおいて世界の偶然性(より精神分析的にいえば「寄る辺なさ」)にルールを与え、子を守ってくれる存在です。そしてこういう存在として患者は分析医をみなす(転移する)。−−この構図、何かに似てはいないでしょうか。

 僕がこういう長ったらしい説明を経ていいたかったのは、結局そのことです。つまり、おそらく文系の人たちがしばしば固有名詞にこだわってしまうのは、このような意味での「父」として、その固有名詞で名指されるある一個人に「転移」を起こしてしまうからです。

 もちろん、こういうことをいうと、すぐさま次のような反論が飛んでくることは予想できます。つまりそれは、「いや、それはそもそも神経症患者に当てはまることであって、一般の人には当てはまらないんじゃないの」というものです。しかし精神分析的には、そもそも人は基本的に「神経症的」なのであり、それが症状として出るかどうかの境目は、(たとえば社会的な)規範と自分の欲望がどれだけ折り合えているかどうかとかいった具体的な状況に依存したものにすぎない。したがって、ここで僕がふつうの人をさして「神経症的」ということにも、ある程度の正当性はあるわけです。

 それで話を戻すと、やっぱり「生きる意味ってなんなんだ」とか「この社会は何かおかしい、なんでみんなこんな社会に適応できるんだ」とかいった文系的な疑問を持つ人のなかには、つねに何か世界に対する違和感や苛立ちを持っていたり、自分自身の考え方からくる生きづらさを感じている人が多い(しかもこういう気持ちがあるということは、意外と思想書を読む上ですごく有利だったりします。そもそもこういう違和感がなければ抱けない問いや、その違和感を構成している前提としての理屈があらかじめ自分の側にあることで、なぜその思想家がこういうことや、そのことのつぎにあんなことをわざわざ書かなければならないのかということがわかる、少なくともわかった気になれたりするからです)。そしてそういう人たちは、世の中の人が受け容れたり、受け容れたフリをしているルールを懐疑しているし、それを受け容れるフリさえうまくできない。とはいえ、まったくルールのない世界というものには、人は耐えられない。だからこそある特定の個人に、この違和感や苛立ちや生きづらさの法則を、そして世界のありうべき姿を知っている「父」を見出したくなるのではないでしょうか。

 そして、実はこういう意味での「父」は、精神分析的には、「ボクはすごいんだ」という幼児的万能感を人が諦めたあとで、それを委託している対象でもあります(正確にはこれを「二次的ナルシシズム」とか、「自我理想」とか、「超自我」というふうにいいます)。そしてこのナルシシズムのシステムは、フロイトにとって人が妙に他人に魅了されてしまうあの現象、つまり「カリスマ」のシステムでもあります。たとえば僕の例でいえば、僕は一時期三島由紀夫に対して転移し、カリスマを見出していたということになるわけです。

 しかし、先ほどもいったように、このシステムは裏に暴力性をつねに潜ませています。なぜなら息子はつねに「父を殺したい」からです。すごくいやな言い方をすればボクこそが一番なんだと思いたいし、猿山の大将になりたい。だからこそ、自分が「父」と仰ぐ存在のいってることに少しでも瑕疵が見えてくると、掌を返したように攻撃的になる。抑えられていた父殺しの欲望が噴出してきてしまう。こういう関係にある限り、子にとって父は偉大な父であるか、従うに値しない、殺してしまっていい父のいずれかでしかない。

 でも、そういう欲望は、必ずしも悪いものとは限りません。なぜなら、そうした転移は世界に対して一貫的な説明体系を与えたいという欲望がなければ成立しないからです。そもそもなぜそういう人たちの転移の対象となる思想家たちが優れているのかといえば、それは彼らがそれなりの長くて複雑な因果関係を用いて、世界の仕組みや、そのなかで一見関係ないように思える諸々の出来事の関係を語って見せたからだと僕は考えています。その意味で知るということは、QであるとかQでなければならないという誰かが出した結論や一般論をその根拠を問わず鸚鵡返しに繰り返すことではなく、なぜならばPだから、そしてそのPは〜だから、というふうに、長い系列を説明できるようになることではないでしょうか。そして彼らは転移によって、固有名詞の残した様々な発言のあいだに関係を想定し、発見し、因果関係の網を構築していく。するとなんとなくそうした思想家の考えていることの究極原理というか、核というか、そこから彼らの様々な命題が派生してくるような思考のイメージ、あるいは公理の絡まりみたいなものが見えてくる。こうして転移の欲望によって、人は自分なりの知を構築できるようになる。

 そしてこれは僕がアニオタだから思うことなのかもしれませんが、こういうのって、ちょっとキャラクターの解釈と似ているようなところがあると思います。たとえば僕が『リズと青い鳥』論で問題にしようとしたのは、ひとつには『リズと青い鳥』の希美、つまり山田尚子的(厳密に言えばアニメは集団制作なので監督の意図にそのすべてを還元することはできませんが、ここではとりあえずそうしておきます)希美と、『響け!ユーフォニアム』本編の希美のあいだのズレでした。そこで僕は山田尚子のキャラクター解釈はありうるが間違っていると考えたわけですが、そういう考えがそもそも起こり得たのは、僕のほうにも希美というキャラクターの一貫性が想定されており、そこで僕と山田尚子のあいだの「解釈違い」が起こったからです。

 しかし、その一貫性は目に見えるものではないし、どこまでもイメージにとどまらざるをえないものです。そこにあるのは、映像に映ったキャラクターの言動や行動だけです。それと同じことが思想家にもいえます。思想家というのは、違う問題について、違う語彙で、しかし抽象化すれば同じに見えるようなことをしばしば語ります。しかしそれがその思想家の「内面」において抽象化すれば同じであり、そういう思考原理から全てを一貫的に語っていたということを示す証拠はどこにもない。そもそもその「内面」がその固有名詞と転移関係にある読者の錯覚にすぎないかもしれないわけです。そしてその読者が思っているほど、一人の人間が言ったり書いたりすることの一貫性というのはなかったりするものです。

 したがって、転移関係が対象の「内面」に一貫性とルールの理解者としての理想像を強く想定する限り、その欲望はかならず想定された一貫性のほころびや、その説明図式で説明できないものごとへの気づきを生み出してしまう。繰り返しになりますが、そこから父殺しまではあと一歩です。そして今度はそういう「間違った」相手を殺して自分が一番になりたいがため、転移していたという事実を認めたくないがため、自分とこいつは違うということを示したいがために、強い非難をしたり、冷笑的な姿勢をとるようになる。しかしその失望を通して、人ははじめて自分が転移関係にある限りにおいて捉えられていたそのような不完全な枠組みから抜け出すことができる。その繰り返しによってその人の考えは洗練されたものになっていく。

 とはいえ、これまで散々擁護しておきながらも、やはり僕はこういう転移関係によってものを考えるということを良いことだとは言い切れません。僕はこういう人たちの気持ちがわかる気がする一方で、その手のひら返しの身振りに嫌悪感を抱いてきました。なぜなら、そういう身振りが不誠実であるということもさることながら(というかそれは結構本質的なことだと思うのですが、それはともかく)、結局ものを考えるということにおいて不利にはたらくと思うからです。

 そもそも、こうした人たち(もちろん部分的には僕も含まれます)がものを考えるのは、自分たちのナルシシズムを守りたいというのもさることながら、もうひとつには、先述したように、自分や社会や世界に対する違和感からでしょう。そしてそれは少なからず倫理的な意識からでてくる違和感であるはずです。自分はどうすれば正しく生きられるのか、どうすれば世界はこんなひどいものでなくなるのか、どうすれば社会に生きる人たちはお互いに暴力を振るわないですむのか。そういうことを考えたとき、少なからず人は、(先に出した夫人の例のように)現実を直視したくないがあまりに他人に対する暴力を振るう人々や、そういう暴力を制度化し、自明視し、良心の呵責を覚えることのないこの社会の状況に怒りを感じてきたはずです。かりにそういう怒りや救世願望が子供じみたメサイア・コンプレックスやヒロイズムから出てくるものだとしても、いやだからこそ、人は自分がそういうことをやっているかどうかに対してつねに懐疑的でなければならないし、その見地からすれば、一度は自分が感化された父を殺して、自らの思想的出自そのものを否認するような身振りは、自分が怒りを向けてきたもののそれの再演でしかありません。しかし、そのことに自覚的でないかぎり、人は自分がやってることと自分が怒りを向けている人たちがやっていることの類似性を捉え損ない、その意味で自らの思考を裏切ることになってしまいます。僕がその手の手のひら返しが嫌なのは、そうすることによって、そもそも思考とはつねにたえざる自己批判とある種の暴力の批判であるはずなのに、それが無批判に自己肯定とそのことによる暴力にリンクしてしまうからです。もちろん、そうした自己肯定や暴力はつねに考えるということにつきまとうことですが、それと簡単に馴れ合うべきではない。

 いずれにせよ、こんなふうな「転移」や「父殺し」による思考パターンというのは、その手の思考を駆動する条件であると同時に、それを裏切ってしまうものでもあります。そしてこういうふうな文系特有の思考のありかたこそが、論壇などでよくありがちな前の世代の「父」を殺すことで自らの名を挙げようというふうなホモソーシャル的マウンティング合戦の繰り返しを生むのだと、僕は考えます。もちろん、人の考えを鵜呑みにして、ずっとその枠のなかでものを考え、そこに安住したいがために、その説明図式のほころびや、それの反証となるような経験的なデータを無視するよりは、それはいいことなのかもしれません。そしてそういう界隈には、そういう戦闘を好む人たちがいるのも、そういう購買層がそういう出来事が生じうる場所そのものを支える一部であることもわかります。しかしそれはものを考えるということにときに不利に働くし、ものを考える際には、つねにそういうことを自覚していなければいけない。ものを考えるということの難しさは、そういうところにあるんだろうなと思っています。

参考文献

フロイト,ジグムント(1977)『精神分析入門』上巻,高橋義孝他訳,新潮社

同上(1996)『自我論集』竹田青嗣編,中山元訳,筑摩書房