かんぼつの雑記帳

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『SSSS.グリッドマン』最終話を見て意味不明だった視聴者に捧げるぼくがかんがえたさいきょうの『SSSS.グリッドマン』について(『SSSS.グリッドマン』最終話周辺考察記事)

 

『SSSS.グリッドマン』のアカネと六花があまりに尊かったので考察記事を書きました。最終話が意味不明だった方はとりあえず僕の話を聞いてくれ。「はじめに」は面倒なら飛ばしても大丈夫です。

 

はじめに

 先日(2018年12月某日)、『SSSS.グリッドマン』の最終話が放映された。本作は円谷プロが二十年近く前に制作した特撮作品『電光超人グリッドマン』の設定を一部引き継いだアニメ作品で、主人公・響裕太とグリッドマンが合体し、街を脅かす怪獣と戦う姿を描いた変身ヒーローものである…といいたいところなのだが、本作にはこのように説明したのでは語りつくせない特性がある。というのも、原作にしろ『SSSS.グリッドマン』にしろ、これらの作品はその主題のひとつに、ヴィラン側の少年少女をどう救うか、というものがあるからだ。まず前提から説明しておくと、両作は大雑把にいって三つの敵と戦っている。まず、①実際に電子空間などで暴れる怪獣。そしてあとの二つは、②その怪獣を作り出す少年少女と、③それをそそのかしている黒幕である。『SSSS.グリッドマン』においては新条アカネというキャラクターがこの②にあたる敵なわけだが、この②に該当する敵、すなわち彼女だけは、敵であると同時に救うべき対象としても描かれることになる。それはなぜかといえば、第一にそれがグリッドマンというコンテンツのコンセプトだからだし、第二にグリッドマン側の陣営、とりわけそのなかでも宝多六花にとってはアカネは同級生であり友人だからで、第三に、怪獣を作り出しているのは彼女の心の闇であり、そしてそれによって彼女もまた苦しめられている(そしてそれをグリッドマンたちは放っておけない)からである。したがって物語はいかにしてアカネが救われるのかということをめぐって展開することになり、その点で『SSSS.グリッドマン』は裕太やグリッドマンの活躍を単純に描くのみならず、アカネのキャラクター描写にもそれなりの比重を置いている。これが本作が単純な変身ヒーローものといいがたい理由である。

 とはいえ、最初からそういうものかな、と思ってしまえば、ある程度本作のスタンスははっきりしており、その点で何をやろうとしているのかについてはかなりわかりやすい。ようするに、本作を(あくまでこれは一つの見方であるが)「新条アカネが怪獣とグリッドマンの戦いを通して救われる物語」としてみる視点を持っておけば、本作のどこをみればいいのかがわかる。つまり、アカネがどんなことで悩んでおり、それがどのような問題を引き起こし、それに対してグリッドマンたちがどのような答えを提示するのか、そういうことを見ていけばいいわけだ。そしてそのような視点で見ればいいんじゃないか、というようなコンセンサスは、少なくともTwitterにおいては、大量RTされていたpostの内容からも、視聴者のあいだである程度共有されていたのではないかというふうに思う。

 ところが、にもかかわらず、実際に最終話が放映されたあとのTwitterでの反応を見てみると、そこには絶賛の声などもある一方、少なからず「意味不明」という形容をしたものも見られた。もちろんそこから意味不明だからダメ、とバッサリ切り捨てたもの、様々な考察記事を読んでなんとなく意味を解釈していったものなど、立場はいろいろあったが、少なくとも彼らの見解はある一点において、つまり最終話を見て「意味不明だ」と思ったという点において共通するのである。

 では僕はどうだったかといえば、僕も実は最初見てよく意味がわからなかった。もちろん12話でやりたいことをやろうとかなり内容を圧縮したせいもあったのだろうし、はたまた僕がちょっと前まで6話くらいでいったん見るのをやめていたのもあったのかもしれないが、やはり(それが意図的であれそうでないのであれ)説明不足感は否めず、見終わった後でも、ぼんやりとやりたいことはわかったものの、「で、結局これアカネはどうなったんだろう…」と困惑したことは否めない。とにかくまず展開そのものが複雑だったし、興味深いが消化しきれない論点もものすごくたくさん示されたし、伏線が回収されるにつれて設定をどう整合的に考えたものかもわからなくなったし、アカネがどういう悩みを持っていたのかといったことについては具体的な過去エピソードやそれについての語りといった明示的なやりかたでは描写されず、映像や断片的なセリフのはしばしから推測するしかないようなものだった。とにかくいろんな理由があって、本作は「わかりにくい」作品になっている。

 しかしながら、最終話を見終わったあと、dアニメストアで放映された過去のエピソードなどを見返して半日ほど過ごしているうち、やがて僕のなかでなんとなくアカネというキャラクターについてのイメージができてきた。そしてそれにともなって、これが『SSSS.グリッドマン』が描いていたことなんじゃないかという、僕なりのぼんやりとした考えもできてきた。前置きが長くなったが、以下のくだりでは、そのことについて少し書いてみようと思う。

1,そもそもアカネはどのような問題を抱えていたのか?−−「退屈」な世界

 

 まず『SSSS.グリッドマン』の物語を読み解くために、本作をどういう視点で見るかということを、ある程度はっきりさせておく。「はじめに」でも述べたとおり、まず本作は「新条アカネが怪獣とグリッドマンの戦いを通して救われる物語」として見ることができる。ここではこういう視点から、つまり『SSSS.グリッドマン』を新条アカネの救済の物語として見る視点から見ていく。なお、これから先の文章は本作を全話視聴した方が読むことを前提として書いていくことにする。したがって文章の流れで最低限の説明を導入しなければならないような箇所を除いては、設定やあらすじについては説明しないし、逆にそうしなければならないときにはネタバレに配慮しないでそうするので、手間にはなるが、未視聴の方は全話見るなり、wikiニコニコ大百科で知識を補う等して対応してほしい。

 ということで本題に戻る。まず繰り返すと、ここでは『SSSS.グリッドマン』を「新条アカネが怪獣とグリッドマンの戦いを通して救われる物語」として読んでいくわけだが、そのためにはまず、アカネがそもそも何から救われなければならないのか、いいかえれば、アカネがどういう問題を抱えていたのかを明らかにする必要があるだろう。そもそもアニメ本編のわかりにくさは、このことが明示的に描写されていない点にある。したがってまずはこのことについて考えてみる。

 そのために、ここではある有力な解釈のひとつを参照しよう。この解釈とは、OP楽曲「UNION」の歌詞の一部とOPアニメ映像の対応に対して与えられたものである。実は放映がはじまった最初の頃、TwitterでOPアニメ映像のこの箇所に注目があつまり、それについて記したpostが大量RTされていた。ここで参照したい解釈はこのpostのものなのだが、とはいえ、さっきこれを引用しようと思ってTwitterで検索したところ、残念ながらすでにどこかに埋もれてしまっていたので、ここに載せることはできなかった。ただ、そこで言及されていた箇所というのは、具体的に示すことができる。それは、楽曲でいえばサビの終わりにくる「君を退屈から救いに来たんだ」というくだりである。これがOPアニメ映像では、ちょうど教室の窓から空を見ていたアカネのもとにグリッドマンがあらわれるタイミングで流れるため、これに対してそのくだんのpostでは、「退屈」していた「君」は「アカネ」であり、その「君」を「グリッドマン」が「救いに来た」のだと解釈しているわけである。

グリッドマンはアカネを退屈から救おうとしている」。まずはこの解釈をいったん引き受けておこう。しかしこれでは、まだアカネの問題はいまいち明確になっていない。なぜアカネは退屈しているのか。そのなにが問題なのか。そしてそれを最終話のあのような展開でなぜ「救った」といえるのか。こうしたことを考えなければならない。

2,なぜアカネは退屈しているのか?−−「人間」と「神様」のはざまで

 

 そこで次に、なぜアカネは退屈しているのかということを考えてみる。そのことについて考えるには、アカネがどういうキャラクターなのかを今一度考えてみなければならないだろう。

 改めて、そもそも新条アカネとはどういうキャラクターなのか。これについてはいくつか、物語中盤までおおよそ一貫してみられる特徴を挙げることができる。だがそういったもろもろをあえてひとつの言葉でまとめるとすれば、それは「幼稚」の一言に尽きるだろう。少しでも自分の思い通りにいかないこと、気に障ることがあると、その原因になった他のキャラクターをすぐに排除しようとする。そしてそのときには、人の命を奪うということの重みをまったく感じていない(そもそもその命がアカネの創造物だから、仕方ないのかもしれないが)。グリッドマンが彼女のそうしたおこないの邪魔をするようになってからも、この傾向はなくならない。グリッドマンに負けるとすぐにふてくされ、物に当たったり(数えてないが結局作中で何回ぐらいパソコン画面を蹴り割ったのだろう…)、自分が作った怪獣(アンチくん)に八つ当たりしたりする。一瞬、グリッドマンと戦うのが「楽しくなってきた」といいながらも、やはり連敗が続くと、今度は周囲に八つ当たりしたり怒ったりする代わりに、若干抑うつ気味になる。しまいにはなんとなく作品内で暗黙のルール化していたと思しき「アクセスフラッシュに必要なジャンクを壊さない」「裕太を直接攻撃しない」というタブーを破って直接彼を殺害しジャンクを壊そうとする。ようするに、ここでいう「幼稚」というのは、「自分の思い通りにいくのが当たり前だと思っていて、思い通りにいかない事態に直面すると、すぐに癇癪を起こしたり極端に落ち込んで自分のなかに閉じこもってしまう状態」として考えることができるだろう。

 僕がこういうアカネの特徴をふまえて思うのは、結局アカネが「退屈」しているのは、彼女がこのような意味で「幼稚」だからではないか、ということである。どういうことか。

 順を追って説明する。まず、ここで9話「夢・想」への注目を促したい。この話でアカネは「バジャック」という怪獣の能力を使い、裕太、六花、将を、それぞれの夢の世界に閉じ込めようとする。そしてその夢の世界に自ら干渉し、彼らの理想を実現することで、彼らを無力化しようとする。

 この話は、ある意味ではこれまでのエピソードと同じパターンを踏襲している。アカネが自分の「思い通りにならないもの」を排除するために怪獣を開発し、それにグリッドマン陣営が対抗する。こういう構図そのものはかわらない。とはいえ、それまでのエピソードとは異なるところもある。まずひとつめは、ここにおいてアカネが物理的にではなく、精神的に、彼らに、それも三人それぞれに干渉していることである。ふたつめは、その干渉において、アカネが彼らを殺してしまうのではなく、懐柔しようとしているところである。だからこそ、このエピソードでは、アカネの人間らしい一面、彼女の弱さが垣間見える。彼女はこれまでのように絶対的な力を振るい、誰に対しても同情せず同情されることも求めない、無感動で気まぐれな神様ではない。彼女はこのエピソードで、自分が同意され、承認され、共感されることを求めている。僕は先ほど彼女が「彼らの理想を実現することで、彼らを無力化」しようとしたと述べたが、この意味ではこの表現は間違っている。むしろ彼女が彼らに見せている夢のなかで実現しようとしている理想とは、彼女自身の理想にほかならない。

 だが、そのような試みが意味をなさないことは、これまでの話でわかりきっている。なぜなら、アカネの夢の世界=なんでも彼女の思い通りにいく世界とは、すでに彼女が作った街において実現しているはずであり、彼らはそれまでの8話を通して、彼女のそんな夢に異議を唱え続けてきたからである。だから、このエピソードはそれまでのエピソードを、そして『SSSS.グリッドマン』の世界を象徴的に描き出したものでもある。そしてそれまでのエピソードとこのエピソードが根本的に異なっているところは、そこでアカネが彼らに「わかってもらおうと」しているという点にしかない。そして同時に、この一点が決定的なのである。彼女はこれまでと違い、思い通りにいかない存在を排除しようとはしない。その存在にわかってもらおうとする。認めてもらおうとする。だが、その結論ははっきりしている。

 たとえば裕太とアカネが夢のなかで言葉を交わす、次のようなくだりがある。

 

「なにか、ずっと忘れてる気がする」

「記憶喪失なんだから当たり前じゃん」

「そうなんだけど、足りないんだよ」

「…なにが?」

「うまくいえないんだけど…」

『そんなのどうだってよくない?』

「楽しかったらそれでいいじゃん」

「そうじゃなくて…やらなくちゃいけないことがある気がするんだ」

「…それって私より大事なこと?」

「いや、アカネにとって大事なことは…俺にしかできない、俺の…やるべきことは…」

『ダメ!』

(TRIGGER/雨宮哲/長谷川圭一 2018,EP.9, 13:37-13:46) 

 

「…これは、夢だ。時計は返すよ」

「ずっと夢ならいいって思わない?」

「夢だから目覚めるんだよ。みんな同じ。それは、新条さんも」

「私はずっと夢を見ていたいんだ」

「俺はそっちにはいけない。グリッドマンが呼んでるから」

(TRIGGER/雨宮哲/長谷川圭一 2018,EP.9,16:20-16:52)

 

 ほかの二人も同様に、こんなふうにして、アカネにとって、そして三人にとっても多かれ少なかれ心地よい世界を拒否し、目覚めることを選ぶ。彼女はそんな彼らの選択にうろたえることしかできない。

 ところで、これまでのエピソードと9話とのこのような共通点と相違点を、いかにしてとらえるべきだろうか。より具体的にアカネというキャラクターを考えるために的を絞っていいかえれば、中盤までの彼女の気まぐれで身勝手で、それでいて絶対的な、Twitterで「純粋悪」と表現されていたようなありかた、ある意味で神様然としたありかたと、こうした9話以降の、弱く、他のキャラクターに理解してもらおうとし、拒絶されてうろたえる人間的な彼女は、まったく違うキャラクターなのだろうか。

 僕の考えではそうではない。むしろ9話では、8話までのアカネがそのように振舞っていた原因が、そこにおいて露呈されているのではないかと考える。9話において彼女はほとんどはじめて同情される必要のない「神様」の領域から、対等の相手に承認をもとめる「人間たち」の領域へと降りてきている。そしてそのことによって、彼女の夢が力ずくでなければ(神様の力を使わなければ)他者に受け容れられないこと、そしてそれができないときに彼女が哀れなほど狼狽し、孤独を感じ、弱ってしまうことが示される。彼女はここで明確に傷ついている。だが、それは彼女がはじめて体験したことなのだろうか。おそらくそれは違うだろう。むしろ事態は逆である。

 ここで僕は、劇中で明示されていないある仮説を導入してみることを提案する。その仮説とは、かつて彼女が「人間」だったという仮説、この街が作られる前に彼女が「人間」として傷つき、その結果として「神様」として君臨することなったのではないかという仮説である。これを一段上の立場に立つこと、俯瞰的になること、あるいは絶対者になることといいかえてもいい。いずれにせよ、このような語られざる「前史」を仮に想定すると、8話までの彼女と9話の彼女の姿に一貫性を見ることができるようになる。ようするに、9話の彼女の姿とは、彼女が「神様」になるまでの「前史」における彼女の姿なのであり、8話の彼女は、そのような「人間」としての彼女を、「かつて」、克服したのである。「人間」から「神様」へ。対等の立場から、非対称の立場へ。かつてそのような移行があったのだが、その移行においては立場が変化しただけで、アカネ自身は根本的に変わっていない、一貫しているのである。

 そして、このことを踏まえることで、ここでまた新たな疑問が生まれる。それは、そのような「移行」が、はたして本当に「克服」だったのだろうか、という疑問、それは問題の最終的かつ不可逆的な「解決」であり、グリッドマンたちはそれに無粋な横槍を入れ、彼女を乗り越えられるべきだった「前史」に引き戻しただけなのだろうか、という疑問である。僕の考えでは、そうではない。むしろかつてそこで克服され解決されたかにみえた「問題」は、別のところでふたたび形を変えて回帰している。グリッドマンたちがどうにかしようとしているアカネの問題とは、まさにそれなのである。

 その問題の本質は、この決定的な9話以後、彼女のなかで意味を変えてしまったあるひとつの「設定」に注目することで明らかになるだろう。その「設定」とは、8話「対・立」において、六花とアカネがともにバスで下校する場面で明らかにされたものである。この場面での二人のやりとりを引いておく。

 

「響君から聞いたよ。問川たちを殺したのアカネだったんだね」

「私じゃない。私の怪獣がそうしたってだけ」

「…ずっとそういうことして黙ってたの?」

「この街は怪獣で回っている。調整しなくちゃいけないの。…てか、六花ってそんなに問川たちと仲よかったっけ?」

「仲良くもないし悪くもない」

「じゃあいてもいなくても一緒じゃん」

「一緒じゃない」

「じゃあ私を殺したら? そしたら全部解決じゃん」

「それは解決じゃないから」

「ふふ、やっぱ六花はいいよ、他の子とはちょっと違う。私の近くにいるべき人」

「私を…」

「神様と仲良くするのはいや? 私が何をしても六花は私のことを嫌いになれないよ。私が六花をそう設定したんだから。ここに住む人はみんな私のことを好きになるようになってる。だから私と六花は友達なんだよ」

「私はアカネの友達として生まれたの?」

「私の友達として私の怪獣から作られたんだよ?」

(TRIGGER/雨宮哲/長谷川圭一 2018,EP.8,13:10-14:48)

 

 ここにおいて、つまり9話以前の段階においては、この「ここに住む人はみんな」アカネのことを「好きになる」という「設定」は、アカネに対する六花の友情に対する、アカネの絶対的な信頼の根拠になっている。六花はいくらアカネのやっていることを間違っていると感じても、アカネのことを嫌いになることはできない。なぜならアカネが六花をそう設定したから。だから六花はアカネの絶対的な友達。ここにおいて、アカネの「設定」は、こんなふうに受け止められている。つまり彼女自身にとって肯定的なものである。

 ところが、11話「決・戦」になると、つまり9話以後になると、その意味は真逆になる。たとえば次のようなくだりがある。

 

「何しにきたの?」

「探してたんだよアカネを」

「響君のことでしょ。早く私を殺さないからこんなことになるんだよ」

(TRIGGER/雨宮哲/長谷川圭一 2018,EP.11,20:02-20:15)

 

 まず、この場面ではすでに裕太がアカネにカッターナイフで刺されているのだが、ここでの「私を殺さないからこんなことになる」の「こんなこと」は、そのことである。それを踏まえた上で、先に引用した8話のさるくだりで、アカネが「私を殺したら? そしたら全部解決じゃん」と述べていたことを想起されたい。もはやいうまでもないことだが、ここでいわれる「私を殺さないから」の文脈は、8話でのこの発言を踏まえなければ理解できない。したがって、11話でのこの六花とアカネのやりとりは、8話のやりとりの続きなのである。このことを押さえながら、続くやりとりを見てみる。

 

「なんで、アカネはそんなことばっか」

「仕方ないじゃん[…]。ついてこないでよ。私のことバカな神様だと思ってるんでしょ」

「…アカネ」

「街の人たちのところに帰ればいいじゃん! 六花には関係ないじゃん!」

「関係なくないよ! なんだよその言い方! 私は…アカネと違って神様じゃないけど、私はアカネを友達だと思ってる!」

「だからそれは、…私が六花をそう設定しただけなんだって! 友達だって思い込んでるだけなんだよ!」

(TRIGGER/雨宮哲/長谷川圭一 2018,EP.11,20:15-21:16)

 

 ここでは、もはや「設定」の意味が真逆になっている。9話以前、つまり「神様」のアカネにとって、その「設定」は、彼女と六花の絶対的な友情を信じることができる根拠だった。ところが9話以後、つまり「人間」のアカネにとって、その「設定」は、むしろ彼女と六花の友情を疑わしくする根拠になっている。本作の視聴者が決して見逃してはならないのは、このような「設定」に付随している両義性である。なぜなら、彼女の問題の本質は、こうした「設定」の両義性に注目することでしか、見出せないものだからである。どういうことか。

 彼女は語られざる前史において、「人間」として傷つき、「神様」になることを選んだ。しかしそれでは根本的な問題は解決されていなかった。彼女は「人間」から「神様」になることで、思い通りにならないものや人がいて、怖くてつらくて悲しい世界から、なんでも思い通りになる、楽で苦しみのない自分だけの世界を手に入れた。しかし、そのような選択のために、彼女はある代償を支払わなければならなかったのである。その世界には、たとえどれだけ物が溢れ、どれだけ人がいるように見えても、彼女一人しかいない。彼女はその世界でひとりぼっちである。なんでも思い通りになる世界とは、孤独な世界、誰もそこにおらず、したがって誰を愛することも誰に愛されることもできない世界なのである。

 彼女はそれを自ら選ぶことで、今度は逆に、その孤独に苦しめられることになった。

 しかし、彼女の苦しみは、孤独という言葉にだけ集約できるものではない。そのような世界、何一つ自分の予想を外れた出来事は起こらない世界にたった一人でいるということが、いったいどのようなことか、想像してみてほしい。人から向けられる好意さえ、自明のもの、当たり前のものに過ぎない。そんな全てが当たり前の孤独でやりきれない世界を、人はなんと呼ぶだろうか。そんな世界をこそ、人は「退屈」と呼ぶのではないだろうか。

 ここまできたところで、あらためて最初に提示した問いを思い出してみる。僕がここでまず提示したのは、「なぜアカネは退屈しているのか 」という問いだった。今ならば、この問いに答えを与えることができるだろう。なぜアカネは退屈しているのか−−それは彼女が「神様」だからである。したがって、彼女がそこから救われなければならないところの「退屈」な世界とは、傷つき苦しむことがないかわりに驚きや喜びもない、ひとりぼっちの「神様」の世界にほかならない。だとすれば、9話以後、彼女がグリッドマンたちの奮闘によって「人間」に引き戻されたことには、なにかしらの肯定的な意味があると言えないだろうか。

3,アカネはいかにして救われたのか?−−「友達」の定義

 

 実は、その「意味」は、アカネ本人の行動や言動から、無意識的であれ意識的であれ、すでに示されていたことである。たとえば先ほども述べたように、彼女はグリッドマンたちとの戦いを一時的には楽しんでいた。それはなぜか。このことを考えるヒントは、10話「崩・壊」のとある場面で、崩壊した街の一角に佇むアカネと、アンチくんのやりとりから拾うことができる。

 

「なぜ、怪獣である俺に命を与えた」

「君はもう怪獣じゃないよ」

「なぜだ」

「怪獣は人の気持ちを読んだりしないから。君は私を探してたでしょ。怪獣は人に都合を合わせたりしないよ。いるだけで人の日常を奪ってくれる、それが怪獣。私は人間みたいな怪獣は好きじゃない。ほら、その目。人間みたいな目、してる」

「お前の目は…」

「見ないでよ。どこでも、好きなところいきなよ」

(TRIGGER/雨宮哲/長谷川圭一 2018,EP.10,14:33-15:14)

 

 彼女にとって怪獣は「いるだけで人の日常を奪ってくれる」存在である。それはおそらく彼女の「退屈」な日常にとってもそうだったはずだ。事実、彼女は人が死に、街が壊れる様を見て、楽しそうに笑っていた。そしてこの感覚は彼女に怪獣を作らせ続けてきたアレクシス・ケリヴにも見られる。彼は最終話で次のように言った。

 

「もとよりこの世界には何もなかった。だが、怪獣を与えられたアカネくんの理想の街は育ち、また破壊をした」

「理想の街を破壊するだと!」

「彼女はあらゆるイレギュラーやここで生まれた命までコントロールできない。だからこそ怪獣が必要だったのだ。その繰り返しを続け、私は心を満たしたかった」

(TRIGGER/雨宮哲/長谷川圭一 2018,EP.12,10:27-10:58) 

 

 アレクシスは無限の命を持っているが、そのことによって虚無感を感じていた。そこには変化がない。だからこそ、破壊と創造の繰り返しによって、つまりある物事の相対的な変化によって、自分が「生きている」ということを感じたかった。そしてそれは、つねにアカネにとってもアレクシスにとっても一種のゲーム、「遊び」に過ぎないものだった。アレクシスは死なない。アカネは神様で、直接手を下すことなく、部屋から怪獣が活躍する様を、スクリーン越しに眺めるだけだ。だから、そこでは命のやり取りがおこなわれているけれども、彼らはそれを自らの命なり万能感なりは絶対に脅かされることのない、それなりにスリルのあるショーとして楽しむことができていた。しかし、もちろん一方的な殺戮ショーばかりを続けているのではやはり「退屈」である。だからグリッドマンを「攻略」するのが「面白い」と感じるアカネの気持ちには、すでに「退屈」から抜け出したいという気持ちが表されている。

 ところで、本来「遊び」、つまり「不真面目」なことと、「真面目」なことに、境界はない。そこにスリルを求める限り、たとえそれが遊びのつもりであっても、人はそこにかならず危険を、そして命のやり取りを招き寄せてしまう。だからそれがいったんスリルのあるショーから自分の万能感を脅かす脅威との戦いに転じてくると、アカネは露骨にムキになり、狼狽し、ときにはそのすべてにうんざりすることになる。そこには、彼女の思い通りになるもの(万能感と裏腹の退屈)と思い通りにならないもの(スリルの楽しみと裏腹の不快感)の微妙な重ねあわせがある。ゲームは現実の痛みを含まなければゲームとして成立しない(楽しむことができない)が、それは同時にゲームの楽しみを奪う危険性を持つ。そしてそのような両義性こそが彼女の奥底に潜んでいた弱さをむき出しにさせ、一人の「人間」にするきっかけをあたえる。では、そもそもその両義性をこのゲームにもたらすものとは一体なにか。それは、「コントロールできない」「イレギュラー」や「ここで生まれた命」、つまり彼女の「思い通り」にならない「異物」なのである。

 とはいえ、これらの存在は全面的にアカネの「異物」というわけではない。もちろん、グリッドマンや新世紀中学生は外部からきた「イレギュラー」でアカネの創造物ではないが、それでも彼らがアカネの全面的な敵ではなく、彼女の味方をしようとしているところは随所で描かれる。また「ここで生まれた命」はそもそもアカネの創造物であり、当初は彼女の「思い通り」になるように設計されたはずである。このように、彼女の退屈な世界に刺激をもたらすのは、つねに両義的な意味を持った異物、異物は異物でも「親しい異物」とでもいうべきものなのである。

 そして、このほかの場面でも、実はアカネはこのことに気が付いている。たとえば8話でのアカネと六花のくだりをふたたび思い返してもらいたい。そこでアカネは六花を「やっぱ[…]いい」「他の子とはちょっと違う」と形容している。なぜアカネにとって六花は「他の子とはちょっと違う」「いい」友達なのか。それは、彼女がここでそう意識していたように、六花が絶対に彼女との友情を裏切らないからではない。むしろ彼女が六花を「いい」と思うのは、六花が彼女の友達であり、そのうえさらに、たとえ友達相手であっても、友達が間違ったことをしていたらそれに対して正面から異議を唱えることのできる存在だからだ。それはアカネにとって少しだけ思い通りになるが、完全には思い通りにならない存在であり、後者の要素によって、彼女の「退屈」な日常に生き生きとした刺激を与えてくれる。そして最終話においてはこのようなテーゼ、つまり「アカネにとっての「親しい異物」だけが彼女を「神様」の「退屈」な世界から救うことができる」が貫かれ、様々な角度で描かれている。

 まず、グリッドマンや新世紀中学生についてはいうまでもない。彼らはもともとアカネにとりついたアレクシスを捕まえ、アカネを彼の呪縛から解き放つためにやってきた。アカネはアレクシスと組んでいる限り思うがままに振る舞うことができるが、彼といる限りひとりぼっちである。だからグリッドマンたちの敵対行動は、同時に救済の意味をも持つ。

 そして彼らがそもそもアカネの世界に干渉することができたのがなぜなのかを考えたとき、ここでも、裕太という存在が、アカネにとって「親しい異物」であることがわかる。たとえば最終話の終盤、「なんで裕太にグリッドマンが宿っちゃったんだろう」(TRIGGER/雨宮哲/長谷川圭一 2018,EP.12,21:54-21:58)という将の疑問に対して、六花が「んー響くんアカネのとなりの席だったし」(TRIGGER/雨宮哲/長谷川圭一 2018,EP.12,21:59-22:02)と答え、「多分それだけじゃないと思うけど」(TRIGGER/雨宮哲/長谷川圭一 2018,EP.12,22:04-22:07)と付け足したあとに挿入されるカットがある。それは裕太とアカネの隣り合う二つの席が真正面から映され横並びになったカットで、右側のアカネの席では、アカネを何人ものクラスメイトが取り巻いている。一方左側の席には、裕太の机の上に腰を下ろして気だるげにしている将と、頬杖をついてあらぬ方向をみている裕太がいる。次のカットでは、裕太の視線の先がうつされ、そこには六花がいる。その六花が何かに気づいてこちらの画面を見返してくると、続く切り返しで裕太はさりげなく視線をそらす。この視線のやりとりには、裕太が六花に片想いをしていることがそれとなく示唆されており、これはこれまでのエピソードを見てきた視聴者にとっては自明なのだが、そのような映像が上のようなやりとりのあとに挿入されていることの意味は大きい。つまり、裕太とはアカネにとって自分の方だけを見ていてくれない、好きでいてくれない存在、アカネよりも大切な人のことを想っている、「思い通りにならない」存在なのであり、だからこそ、グリッドマンは彼に宿ることができたのである。本作の放映が開始されてまもなく、Twitterにも「これは六花と裕太とアカネの三角関係の話なんだ」という旨の解釈をした人がいたが、これはまた一面では当たっているのかもしれない。

 さらに、アンチくんの重要性もまた忘れてはならないだろう。彼は最初からアカネの作った怪獣のなかで異色の「失敗作」である。アカネの指示に従わず、自分の勝手な流儀で動き回って状況をかき回し、自分の存在根拠を自ら疑い、問いただし、そのことで「怪獣」から「人間」になってしまう。彼はいるだけでアカネの「日常を」遊びの範囲で「奪ってくれる」存在であるどころか、その安寧を全面的に脅かす。しかしながら、最終的には、ほかのどの怪獣でもない彼だけが、アカネを救おうとしてくれる。

 そして最後に、アカネを救ううえでもっとも重要な役割を果たしたといえるのは、六花である。彼女はアカネを好きになるように「設定」され、そのことを11話で自らも引き受けてしまう(「私はアカネの友達…私はそれ以外に生まれてきた意味なんていらないよ」(TRIGGER/雨宮哲/長谷川圭一 2018,EP.11,21:16-21:22))。その意味で彼女ほどアカネにとって都合のいい存在もいない。だが、同時に、彼女ほどアカネにとって鬱陶しく、お節介なキャラクターも他にいない。彼女はアカネのしたことを繰り返し許されないことだといい、彼女に対して怒る。彼女の心に深々と踏み込んでくる。だがそれは彼女がアカネを憎み、敵だと考えているからではない。そのようなアカネにとっての六花の「思い通りにならなさ」は、アカネが彼女に求めているものから切り離すことができない。

 そんな六花のアカネに対するあり方が明確に表されているのは、最終話の終盤も終盤、アカネが彼女自身の作った世界から去っていく場面である。ここで六花は、以前のエピソードでアカネのために買って以来渡し損ねていたプレゼントを、彼女に渡すことになる。以下はそれに続くやりとりである。

 

「定期入れ…どっかいっちゃえってこと」

「違うよ。どこへいっても、私と一緒」

「うん…」

「アカネはさあ、どこへ行ったって堂々としてないと。私たちの神様なんだから」

「うん、そうする」

「だから神様、最後にお願い聞いてくれませんか?」

「うん」

「私はアカネと一緒にいたい。どうかこの願いが、ずっと叶いませんように」

(TRIGGER/雨宮哲/長谷川圭一 2018,EP.12,17:19-18:13) 

 

 とりわけ最後のセリフには、六花のアカネに対する想い、六花とアカネの関係性が見事に示されている。六花は一方で、アカネにとって、「思い通り」の存在、彼女を愛してくれる存在である(「私はアカネと一緒にいたい」)。しかし他方で、彼女はそれゆえに、アカネにとって、彼女に別れをうながす、「思い通りにならない」存在でもある(「どうかこの願いが、ずっと叶いませんように」)。彼女はアカネが「神様」の世界を出ていくべきだと考えている。そうすることが本当にアカネのためになる、アカネの救いになると思っているからだ。そしてその発想は、たんなるアカネの創造物にとどまるならば、生まれてこないものであるはずである。最初、たしかに六花はアカネに作られ、アカネを愛するように設定された。しかしそのようにして生まれた彼女はアカネが「コントロールできない」存在になってしまった。そしてそのことによって、彼女はアカネに施された「設定」を徹底的に貫徹し、そのことでかえってそれに背いている。この逆説によって、アカネははじめて六花の友情を本当の意味で「信じる」ことができる。結局、彼女はアカネにとってもっとも「親しい異物」、つまり一番の友達だったのである。

 とはいえ−−この物語は別れに、「(ひとりの)神様」の世界から「人間たち(神様たち)」の世界への不可逆的な移行に終わるのだろうか。そうではない。ここで注目すべきは最終話のエンドロールの後の場面である。そこには短い実写の映像が挿入されている。まずカメラはどこかの部屋の一角に置かれた「定期入れ」を大写しにし、そこからパンして、窓辺のベッドで眠る一人の少女の姿を映し出す。それからいくつかのカットを挟んで、最後に作品は彼女が目を醒ますところで終わる。もし彼女をアカネだと考えていいならば、この場面の意味はいっけんわかりやすい。つまり、これは彼女が「神様」の世界でのまどろみから旅立ち、「人間たち」の世界へと目醒めた場面にほかならないのである。そういう解釈を一方に置いたうえで、ここでは先の引用での「定期入れ」の意味を再び思い出してもらいたい。六花はアカネの「定期入れ…どっかいっちゃえってこと」という解釈を否定して、「どこへいっても、私と一緒」と返す。これを素直に受け取るならば、この定期入れは六花の代わり、ということになる。とするならば、おそらく最初に大写しになった定期入れは六花がアカネにプレゼントしたものだから、六花の願いはここではいまだに「叶って」いない。ということは、先ほどの解釈とは違い、アカネはまだ「目醒め」てはいないことになる。

 しかし、そもそもそのような「目醒め」は可能なのだろうか。むしろ人は誰しも、「神様」と「人間たち」の世界を、「夢」と「現実」の世界を、つねに同時に二つ、持っているものではないだろうか。その意味では、アカネの「目醒め」とは、完全に「人間たち」の世界で生きられるようになるということを意味するわけではない。そうではなく、彼女がほんとうの意味でそこから「目醒め」るべきなのは、片方の世界だけで生きていこうとすること、それでいいと思ってしまうこと、そのようなもうひとつの「夢」なのだ。だから、六花のプレゼント(「どこへいっても、私と一緒」)と願い(「この願いが、ずっと叶いませんように」)は、一見矛盾した二種類のエール、その意味でまさしく六花のアカネに対する両義性を体現したエールだと受け取るべきだろう。

 

 以上、ここまで僕は、自分なりの『SSSS.グリッドマン』解釈を示してきた。最後にここで無粋にはなるが、まとめをしておこう。

 ここではまずこの作品を「新条アカネが怪獣とグリッドマンの戦いを通して救われる物語」として捉え、そのことをふまえたうえで、アカネがそこから救われなければならないものを「退屈」とした。この「退屈」という苦しみは、彼女が「人間たち」の世界に傷つき、「神様」の世界に閉じこもったことで生じた苦しみである。彼女は「神様」の世界で「思い通り」に振る舞うことができたが、そのような世界には苦しみもないが喜びもなく、彼女はひとりぼっちである。それではそんな彼女を、グリッドマンたちはいかにして救ったのか。彼らは、彼女に対して「親しい異物」=友達として接することによって、彼女を「神様」の世界から「人間たち」の世界へと送り出し、彼女がその二つの世界をともに生きることに「覚醒」することを後押しすることで、彼女を救ったのである。

 とはいえ、最後に個人的な横槍を入れておくと、やはりアカネのやったことは許されるべきではないし、それを無視してこの物語を無批判に肯定することは、将が自らその代表を名乗っているところの「一般人」の物語をなきものにすることになる。彼らにも彼らの苦しみがあったはずである。たとえそれが作り物であっても、そこで体験された苦しみは嘘ではない(そもそもこの作品をふつうに受け取るならば、偽物(仮想のキャラクター)/本物(実在の人物)という二項対立はこの作品において成立していない)。それを忘れるべきではない。それだけは留意しておかなければならないだろう。

 なお、ここで引用したセリフはすべてdアニメストアでストリーミング視聴しつつ手打ちした。「漢字・カタカナ・ひらがな、促音の有無、句読点、3点リーダーなどの表記の解釈が違う!」といった場合があるかもしれないが、ご容赦いただきたい。