かんぼつの雑記帳

ほとんど個人用メモ。アニメ・哲学などを扱ったエッセイを投稿しています。

『プラダを着た悪魔』とハラスメント

最近、ふと思い立って『プラダを着た悪魔』のDVDをレンタルショップで借りたのだが、見るやいなや、その内容にちょっとびっくりさせられてしまった。ネタバレを極力避けてその内容というのを掻い摘んで説明すると、まず本作はメリル・ストリープ演じるミランダという鬼編集長が取り仕切る超一流のファッション雑誌の編集部に、アン・ハサウェイ演じるアンドレアが彼女付きのアシスタントとして着任するところから始まる。このアンドレアはキャリアを積むためにこの求人に応募をしたのだが、もともとは別の雑誌で働きたかった女性で、ファッションには一切興味がなかった。そのようなわけで、彼女は最初、職場で矢継ぎ早に飛び交う業界用語や固有名詞についていけず指示通りに動けなかったり、ダサい服装を貶されたり、編集長に冷たくあたられたりと、つらい思いをすることになる。しかし、当初キャリアのために就いた一時的な職場に過ぎないと割り切ってファッションから距離を置いていた彼女は、次第にその業界の人たちがファッションにかける情熱を知ることで感化され、彼女なりにそこでの仕事に本腰を入れていくようになる。するともともと有能だった彼女は、徐々に職場で認められていくようになるのだが、もちろんそこで大団円と相成るわけはなく、そうすると今度は私生活での人間関係に亀裂が走るようになる。と、このあともいろいろな話は続くのだが、これ以上話していくとあらすじを全て語ってしまいかねないので、ひとまずこのあたりで止めておこう。それで冒頭の話に戻ると、筆者がこの話を見て驚いたのは、このミランダという人物(鬼編集長)が映画のなかで魅力的な人物として扱われていたからである。

昨今、全世界的にリベラルの価値観が浸透しており、もちろんそのバックラッシュも起こってはいるわけだが、それはともかく日本でも徐々に(その良し悪しはともかく)LGBTがどうという話が語られるようになっていたり、有名人や政治家、スポーツ業界の人々のハラスメントが告発され、大きくとりあげられるようになった。いまやこの世の中はなんらかの非対称な立場に立脚して人が抑圧的に振舞うことを許さない。筆者がこの映画でのミランダの扱いが驚くべきものだといったのはこういう全世界的な風潮を踏まえてのことで、この女性はその魅力的な人物という扱いにもかかわらず、また同時に「非対称な立場に立脚して」「抑圧的に振る舞う」ハラスメント体質な人物の典型としても描かれていたのである。僕はこれを比較的最近の映画だと記憶していたのだが、wikipediaで調べてみると、やはり公開は2006年とのこと。12年前といえば、19世紀末ごろから始まる映画の歴史のなかでいえばとかそういうことを抜きにしてもそんなに昔のこととはいいがたい。しかしその「比較的最近」から12年でこうも感覚が変わってしまったのである。そのことに改めて気づかされたとき、僕はwikipediaを開いたスマホを片手に持ったまま、しばし隔世の感に打たれてしまった。

 


ところで、この映画を見ていて、もうひとつ気づいたことがある。それはハラスメントというものが一体何を意味しているかということである。

まず、この映画の物語自体は、それほど注意をして見ていなくとも、なんとなく社会で働いていくことの大変さ、たとえばそこで自分らしく生きていくことの大変さとか、仕事と私生活のバランスをとることの大変さとか、そういうものを描いていることがわかる。それは要するに人が現代において社会化するということにまつわる一般的な問題でもあると思うが、そのように社会で生きていくというのは、たとえば精神分析的にいえば父の敷く法に従って生きていくことでもあるわけで、この映画の場合、その父を象徴するような存在というのは、もちろんこのミランダである(もちろんここでの父という言葉は実際の性別とは関係ない)。アンドレアは父たるミランダの抑圧的なやり方によって不本意な振る舞いを強いられるが、それに耐えながらともに仕事をしていくなかで彼女の素晴らしさを知り、成長もする。しかしまたそのことによって同時に、やはり仕事やミランダのやり方が自分には合わないということにも気づかされる。したがって、アンドレアは二つのこと、つまりミランダへの尊敬と規範、ミランダへの反感と規範に沿わない自分という二つのあいだで葛藤することになる。

これはまた昨今それが認められていないところの、古典的な成熟の図式でもあるといえるだろう。父の抑圧に対する葛藤よって、はじめて自分を知る(と錯覚する)ことができ、それによってなすべき振る舞いがわかる。そしてそのときには人はこの父殺しなり離反なりを通して、別の仕方で、別の父のもとで社会化することができる。もちろんそれを成し得ないときには(伊藤整か誰かが定義していたような意味での)悲劇が待っていることもあるし、この葛藤がない、つまり規範と馴染めてしまうなら、人はわざわざ物語られるようなこともない人生を生きていけるわけであるが。

ともあれ、そういういくつかのバリエーションは措くとしても、人が社会で生きていく上で生じるそういう葛藤というのは、本作ではそういう古典的な図式によって表現されているわけである。しかし、これはもちろん、非対称的な関係が、そしてそこで抑圧的に振る舞うものの権威が社会で認められている限りにおいて成り立つ図式だから、現代においては人はこのようなアンビヴァレンツな葛藤によって自らを「発見」することはできず、どちらかといえばアンビギュアス(あいまい)な状態に置かれることになるだろう。するといつまでも身の置き所が定まらず、自分はこれでいいのだろうかとさまよってしまうことになる。したがってハラスメントなき自由な社会とは、自分がなりたいような自分になれる(ということになっている)し、そのような自己像を示せといってくる社会でありながら、その実自分が何になりたいのかよくわからなくなりやすい社会でもあるといえる。こういうことはべつだん新しい認識でもなんでもないのだが、僕は『プラダを着た悪魔』の物語構造をぼんやりととらえるなかで、はじめてハラスメントと呼ばれているもののこうした現代的な意味に気づいたのである。

とはいえ、ここで注意すべきなのは、世の中からハラスメントをどんどこ駆逐していったからといって、社会からそういう非対称な構造というのがなくなるわけではないということである。だから結局ここで抑圧されたものはべつのところで回帰してくるわけで、それはおそらく、一方では自分らしく生きよ、とうたう社会でありながら、その自分らしさが結局はその社会の承認する限りにおいての自分らしさであるというようなダブルバインドにおいて人が陥るような葛藤を生み出すだろう。結局、非対称な構造は変わらないまま、その上から発せられる命令の内実だけが変わり、そしてそのことによって以前の葛藤は形を変えてしつこく残り続けているのである。

なんだかこうしてみると僕が今の社会のあり方を批判することでハラスメントを擁護しているようだが、べつにそういうことが言いたいわけではない。そもそも僕はハラスメント体質の人間が心底嫌いである。ただそういう個人的な感情の一方で、やはりハラスメント(と呼ばれがちなもの)の効用というものもそれなりにあるということは認めるしかないわけで、ただハラスメントは悪だと鸚鵡返しに繰り返し、その意味を知ろうとしないうちは、少なくともこの社会の実態はそのようにハラスメントを糾弾することでその人が作ろうとしている社会とはずれたものであり続けるだろう、と思うのである。

 


最後に。べつに『プラダを着た悪魔』のことが語りたかったわけではなく、そこから気づいたことを語りたかったのだけど、それだけで終わってしまうのもなんなので。『プラダを着た悪魔』、すごく面白かったです。あとこれは今年のどっかで『オーシャンズ8』を見て思ったことでもあるけど、アン・ハサウェイはキュートにも見えるし美しくも見える不思議な魅力を持った人だなぁと、あらためて思ったのでした。