かんぼつの雑記帳

ほとんど個人用メモ。アニメ・哲学などを扱ったエッセイを投稿しています。

雑誌について

僕ぐらいの世代の人間には珍しくないのだろうが、僕は雑誌に興味を持ったことがなかった。ジャンプ漫画は単行本派で、本誌をコンビニで立ち読みしたり買って読んだりすることもない。サブカルチャー・思想・文学・読書文化など、僕が好きそうな分野の専門誌にしても、自分が興味ある話題が特集されているものでさえ、買うのをためらい、実際見送ることが少なくない。

なぜこんなにも雑誌と縁遠いのか。まず、自分が興味ないことが書いてある紙面の分までお金を払いたくない。そして一冊ができるだけそれの扱う話題においてまとまった体裁をとっていた方が良い。連載は断片的で嫌なので、完成したあとで、単行本になったものを買って一気に読みたい。そしてなによりもインターネットやテレビなどのメディアのほうが馴染みがあり、金がかからず、速くて便利である。

と、このように、理由をあらためて挙げてみると言えることは色々あるわけなのだが、おそらくこうした理由はおしなべて僕のある特定の気質によるところが大きいのではないかと思う。その気質とは、放っておくと自分の文脈だけで生きがちな気質、つまり身もふたもない言い方をすれば引きこもり気質である。

たとえば、ふつう会話というのは、会話の相手との過ごす時間を楽しむものであって、もちろんその内容もある程度は大切だが、それが主だった目的ではない。したがって話題というのはそれに対して無関心でもいけないが、かといって過剰に関心を抱いたり、そこからあらぬ方向へ深掘りを始め暴走するようなこともあまり良くないような、そういう性質のものである。つまり会話において重要なのはどんな話題についてもそこそこの関心を持っておくことにほかならない。

ところが、自分の文脈で生きがちな人間というのは、自分が考えたいことや好きなことには強い関心を抱くが、そうでないことには淡白であり、こうした話し方を好まない。それを雑談型に対して、議論型の人間といってもいいだろう。この手の輩は雑談をするよりも議論をしたり、あるいは一人でものを考えたりする方が向いている。まぁこういうふうな生き方を多くの人が構造的に強いられているということは(たとえばポスト・モダンとかタコツボ化とかインターネットの普及だとかいうキーワードを使うことで)もちろん言えるのだろうし、それは実際妥当なのだろうが、そういう構造的な規定であれ僕の生来の気質であれ、いずれにせよ事実としてあるのは僕が今のところはそういう人間であるということである。

それで雑誌のことをあらためて考えてみると、なるほど、これほど雑談とか人の会話と近い媒体もないという気がする。なにかこちらで特集をやっているかと思えば、別のところでは連載があったり、全然違う話題でインタビューや対談をやっている連中がいる。そしてそれらはなんとなくの方向性を与えられてはいるものの、断片的でまとまりがない。こんなふうな雑誌の特徴を鑑みてみると、もちろん違うところもあるが、なんとなく会話に似ている気がする。だから僕は雑誌に今まで興味を持てなかったのかもしれない。僕は自分が好きな特集だけを全ページにわたってやってほしいのであり、それ以外はどうでもいいという読者なのだ。そしてそれはようするに単行本を買って読みたい人間ということに他ならない(もちろん嫌いな単行本もある。それはいうまでもなくアンソロジーだ)。

ところが、最近ゆえあって雑誌に関わる機会が多くなり、雑誌には雑誌の、それなりの面白みがあることに気がつくようになった。

たとえば雑誌の衰退にはインターネットが関わっているともされるが、インターネットと雑誌は当然ながらメディアとしての性質が違う。僕はメディア論に昏いのでこれは素人考えに過ぎないが、その素人考えによれば、インターネットは雑誌に対してライブ感がありすぎるか、なさすぎる。ここでライブ感という言葉を事細かに概念規定する気はないが、さしずめ、「今この時のこの場をみんなと共有してる感」とでもいっておく。一方でインターネットは、今この時を持たないし、みんなと場を共有できない。Google検索はかつてつまり過去に作られたページをずらりと表示しているだけであり、そこへのアクセスは個人個人がおこなう。他方で、SNSでのアニメ実況や掲示板、またチャット機能つきの生放送の動画配信サービスなどは、まさに今この時この場をみんなで共有するためのものだが、そのみんなは数の上でも質の上でも(つまり共有している話題の上でも)限定されていたり、集まりがその場限りであることもある。

ところが雑誌というのはすぐに廃刊になるものもあるけれども、今残っているものはかなりの長期スパンで定期的に情報を発信し続けているし、そこにはその分野内とはいえさまざまな話題に関心をもつ人が集まってくる。そしてバックナンバーはその時々の時事的なものをも取り入れながらも残っていくわけだから、それはアーカイブとしての機能をも果たすことになる。うまく言えないのだが、そこでは共時的であれ通時的であれみんなが共有できる文脈の絡まりが作られているような気がするのである。それは即時的で狭いライブ感とも、孤独で強い文脈を持ち、アナクロニズムなアクセスとも違うものである気がするのである。

と、こんな話をインターネットを使って発信するのもどうかと思うのだが、最近は、こういうイメージをなんとなく抱きながら、もっぱらインターネットとの対比において、雑誌ならではの面白さというのを考えることが多い。もっと文献を読みしっかりと考えればそれなりに正確で意義のあることが言えそうなのだが、とにかく現段階でいえるのは、雑誌文化がこのまま廃れるのはなんだかあんまり良くないのではないか、ということである。その直観がうまく言語化できるようになったら、またこのあたりのことについて書いてみたい。