かんぼつの雑記帳

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雑記05(偶然について)

最近ぼんやりと二つの偶然の違いについて考えている。

一方で、三島由紀夫スピノザがいうように、世界はくまなく必然的な因果法則から成っているため、偶然とは単に人間の認識の不十分さによる錯覚にすぎない(ほんとうは全て必然だ)、というようなときの偶然がある。

他方で、それとは別に、ほとんど無意味という言葉と同義語で使われるような偶然というものがあるのであり、この場合は偶然の対義語である必然も、有意味という言葉と結びつく。そしてこの場合の意味とは、人の感情と密接に結びついた概念であるらしい。僕が最近興味を抱くのはこちらの偶然である。

たとえば、人がなにか不条理な出来事に襲われたときに、「どうしてこのような出来事が起こったのか」と問わざるを得なくなることがある。それはおそらく、その出来事によって生じさせられた過剰な感情のけりがつけられないからだ。このいわば処理し得ない余剰としての感情をどこへ向ければいいかわからないときに、このような疑問が発せられるのであって、その場合、「この出来事はしかじかの物理的原因によって生じた」という答えは、それこそ問うた本人にとってなんの意味も持たない。なぜならこの場合問うた人が知りたいのは、物理的にどのような因果関係でその出来事が起こったのかということではなく、なぜよりにもよってこんな不条理な目に他でもない自分が遭わなければならないのかということだからである。

それは誰に降りかかっても良かったはずなのだが、なぜか自分に降りかかった。そして人はそこになんの意味もないということを認めることが難しいらしい。言い換えれば、この問いはすでに出来事に対するその意味の要求なのであり、にもかかわらずその出来事に(因果応報とか神の試練とかいった)さしたる意味がないとき、人はそれを偶然的な出来事と呼ぶ。

では、逆にそれが必然的であるということはどういうことか。もちろんそれは意味があるということである。しかしこの意味があるというのは、一体具体的にはどういうことなのか。それは、余剰分の感情の始末をつける、つまり感情を特定の対象に向け、それを行動によって消費するための物語がそこに見出せるということである。たとえばそれが誰かのせいなら、その誰かに怒りの矛先を向け、罵倒するなり殴るなりすればいい。そうすればすっきりするだろう。それが自分の罪によるというならば、その償いをすればいい。そうすればいつかこの埋め合わせがなされるかもしれないと思えるだろう。重要なのは余剰分の感情を消費すること、滞留したエネルギーを行動を通じて放出することなのだ。そういうエコノミーの関係を(その実効性や合理性にかかわりなく)対象と作れるかどうかが、感情的な存在としての人間にとっては重要なのだろう。

その意味では、出来事が偶然的であるとは、その感情をどこにも向けることができず、自分がそれに対してなにもなし得ないということなのかもしれない。