かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

Re:ポンコツ ポンコツ萌えを考えるために

本エッセイは、はてなブログポンコツ - ゔぁみのじゆうちょうに触発され、書かれたものである。ここでは、ポンコツ萌えの当事者として、いわば患者自身の手からなる症例報告とでもいうべきものをおこない、それと同時に、来たるべきポンコツ萌え論のための論点を書き散らしておこうと思う。



・きっかけ


最初に自分がポンコツ美少女に萌えるということに気がついたのは、『ラブライブ!』を見たときだったと思う。

このアニメは、スクールアイドル(学校の代表として活躍する現役高校生アイドルのことをさす)なる概念が存在する架空の現代日本を舞台にした作品で、主人公の高坂穂乃果は現役女子高生、自分の高校の廃校を阻止するために、このスクールアイドルになることを決意する。そんな彼女とその仲間たちが、ときにさまざまな困難にぶつかりながらも、スクールアイドルの頂点を目指して奮励努力する様子が、一期二期の計二十数話を通して描かれる、それがこのアニメ『ラブライブ!』である。

本作はいわゆるアイドルもののアニメだから、魅力的なヒロインが多数登場するのだが、僕はそのなかでもとりわけ矢澤にこというキャラクターに惹かれた。この子は穂乃果の先輩だが、見た目はメンバーの誰よりもロリっぽく、その容姿を意識してか年甲斐もなく髪をツインテールにしている。重度のアイドルオタクで、一度は自分自身スクールアイドルを目指し、一年時にグループを結成するものの、彼女のガチすぎる温度に他のメンバーはついていけず、結果、彼女は孤立、グループは解散してしまう。このような側面(重度のアイドルオタク)と過去(スクールアイドル活動の挫折)のために、彼女は当初、スクールアイドルとしては素人同然のくせにかつての自分たちより楽しそうに和気藹々と活動をしている穂乃果たちに対し、感情的に対立することになる。とはいえ結局なんやかんやあって最終的には彼女も穂乃果たちのメンバーに加わることになるのだが、その後劇中では隙のある言動行動やそれらの空回りによってコミカルな役どころを演じる場面が目立つようになり、僕はそういう彼女のポンコツぶりを、気がついたら少なからず愛おしく感じるに至っていたというわけなのである。

 
・僕のポンコツ萌えと一般的ポンコツ萌えのズレ


矢澤にこのほかにも、僕が好きなポンコツ美少女はいる。たとえば、最近のアニメでいえば『この素晴らしき世界に祝福を!』のアクア。『ガヴリールドロップアウト』のガヴリールやサターニャ。

だが、インターネットの記事をいくつか調べてみると、アクアはともかく、サターニャなどは一般には「ポンコツ萌え」や「ポンコツかわいい」とは呼ばれず、アホの子と呼ばれるようだ。それにガヴリールはポンコツ萌えの対象ではないらしく、僕のいうポンコツ萌えが世間のそれとはズレるところもあるようだ。

逆に、それらの記事を読むと、いくつかあきらかに僕が萌えない例や、僕のポンコツ萌えの実状と齟齬をきたす定義をしているものもある。たとえばこれらだ。

 

ポンコツかわいいとは (ポンコツカワイイとは) ニコニコ大百科 スマートフォン版!

ポンコツ (ぽんこつ)とは【ピクシブ百科事典】


上の記事では、『ガールズ&パンツァー』の河嶋桃が例に挙げられているが、僕はむしろ彼女を苦手に思っている。それから、いずれの記事でもポンコツ萌えをギャップ萌えの一種として定義しようとしている向きがあるが、僕にとって、ギャップ萌えはポンコツ萌えを本質的に規定する条件ではない。たとえば、アクアやサターニャは大概つねにぐだぐだなので、一見すると優秀というわけでもないし、肝心なところでミスするとかいうことはない。むしろアクアなどは、そのたびに彼女のはたらきのせいでカズマが借金を負わされたりなんなりしてはいるものの、ピンチのときは比較的いい活躍をしている気がする。

とはいえ、だからといって、僕は「これらの記事のポンコツ萌え定義は間違っているし、実例もなんだかおかしいので、こいつらは根本的にポンコツ萌えをわかってない」などというつもりはない。むしろこの場合、世の中には僕のようなパターンのポンコツ萌え、つまり非ギャップ萌え的なポンコツ萌えをするものと、ギャップ萌え的なポンコツ萌えをするものとが、両方いる、と考えるべきだろう。そして、そうなるとつぎに、ではそもそも両者の萌えを自明の前提としてともにポンコツ萌えというカテゴリーに放り込んでいいのかどうかということが問題になってくる。ただ、たしかに議論を実際に詰めていくうえではこれはいずれがっぷり四つに組んでとりかからねばならない問題ではあるのだろうが、ここはそういう場ではないし、現状、両者にはキャラの言動行動態度諸々の隙なり空回りぶりなりに萌えるという点において一致は見られるわけで、こういった点から、ここではとりあえずはこれらをともにポンコツ萌えと呼ぶことにして満足したことにしておく。


ポンコツ萌えの自己分析

 
ネット記事でのポンコツ萌えの定義やその実例が必ずしも僕の実感に完全に符合するわけではないことが明らかになったところで、ここで僕のポンコツ萌えがどのような性質のものなのかを軽く考えてみる。そのような作業に際して個人的に有用だと思われるのは以下二つの論点である。


1,<残念>と美少女=オタク説

2,イキリとイジリ


1,<残念>と美少女=オタク説:

まず前者の<残念>について説明しよう。これは評論家のさやわかがその著書『10年代文化論』で2010年代の若者文化を言い表すために用いたキーワードである。

彼はまずこの本のなかで、最近(本著作が書きおろされた2014年ごろ)「残念」という言葉の使われ方が変わってきたことに注意を促している。ふつう、残念というと、ネガティヴな意味で使われることが多い。ところが…


  たとえば、僕がたまたま買った雑誌『TV Bros.』(東京ニュース通信社)2013年No.23で、昨年大ヒットしたNHKの朝ドラ『あまちゃん』の巻頭特集をやっていた。そこでドラマのチーフ演出である井上剛がインタビューを受けていて、その記事の見出しにこう書いてあった。


  「残念」という言い方の中にものすごい愛情があるドラマをやりたかった

 
  つまり井上も、残念という言葉の使い方に通常ならざる思いを込めているというわけだ。[…]

  最近、こうして形容詞的に「残念」という言葉が使われるのをあちこちで見かける。しかも否定的な意味のときもあるけれど、「残念なイケメン」とか「残念な美人」みたいに、相手の欠点をチャームポイントのように暖かく受け入れるものが多いようだ。

 
このように、残念という言葉の使われ方は、もとの意味を損なわないまま、ポジティヴな価値判断を示す形容の表現としても用いられるようになっている、というのである。

このあと、さやわかはニコ動やサブカルチャーと残念の関係を様々に語っていくのだが、そこでとくに僕の印象に残ったものは三つある。

一つは、「残念な美人」のニコニコ大百科の記事が引用され、その例として『とある科学の超電磁砲』の木山春生が挙げられていたことだ。これは実は僕にはものすごくわかる感覚である。つまり僕はまさしく木山春生に「萌え」た視聴者の一人なわけだが、その魅力のひとつはやはり彼女の残念さにあったように思う(もちろん、もともと不破氷菓のようなキャラに対する隈萌えとか陰キャ萌えがあったというのもあるが)。そしてこれはうまく説明できないのだが、僕が木山先生を好きな理由と、ポンコツ美少女に萌えてしまう理由は、どこかでつながっているという気がする。

第二に印象に残ったのは、『僕は友達が少ない』が残念系ライトノベルとして挙げられていたことである。これは僕も以前読んでいたものだが、たしかにこのラノベが一時期流行った理由のひとつには、そういった残念の感覚による鑑賞の構造があったように思う。まず第一に、主人公やヒロインはみんなコミュ障で人格的に問題があり、ぼっちで残念であり、彼ら自身はそれを切実に悩んでいるのかもしれないが、作者としてはそれをこの作品を楽しむひとつのポイント、つまり笑えるポイントとして描いているわけである。第二に、これを受け手がどう受容するかといえば、こういうラノベを読むオタクというのは(たとえば当時の僕みたいに)大概コミュ障だったりするから、彼らにとっては、そこにシンパシーを感じるとともに、それを笑いに変えることで、少なくともその瞬間だけは自身のそんな残念さをゆるく肯定できたというところがあったのかもしれない。まぁ、僕は少なくともそうだったというだけで、他の人のことはわからないけど。

さて、最後に印象に残ったのは、この著書の終章の章題が、「残念な日本の私」になっていたことである。これはあきらかに小説家の大江健三郎ノーベル文学賞を受賞した際に、その授賞式で行なったスピーチ「あいまいな日本の私」や、そのパロディ元である同じくノーベル文学賞作家の川端康成のスピーチ「美しい日本の私」のパロディなわけだが、ここにはそれなりに深い意味があったように思うのである。

どういうことか。僕は以前べつのところで川端文学について分析したことがあり、その際に「悲しみ」の美学がどのようなものであるかを考察したことがあった。そこでは宮台真司河合隼雄柄谷行人の議論を借りてそれなりに七面倒な議論をしたわけなのだが、それは簡単にいえばこういうことである。つまり、まず悲しみは怒りと対置される。それらはともに自分にとって不条理に思える出来事に直面した際の感情なのだが、怒りはその出来事に対する反抗の表現であるのに対し、悲しみはその出来事に対する受容の表現である。したがって悲しみの美学にはある種の保守性の弊害や、その不条理に置かれた自己の状況そのものを美化して感傷に浸ってしまったり、あいまいにしてしまうことによる弊害がある。たとえば大江が「あいまいな」というときのこのあいまいとは、まさしくこのような意味でのあいまいさであり、それを大江は批判したことで知られているのだが、このような弊害は<残念>にもあるように思われる。つまり、それは真面目に深刻に考えられたときには克服されてしかるべきかもしれない欠点や問題を、コミカルなものや微笑ましいものにしてしまうことによって現状追認してしまう効果を持ちうる。もちろんそうしたいがために若者は<残念>を美学として嗜好するのであり、これは彼らの保守性、物事に対する向き合えなさ、現状追認性を表しているのだなどというつもりはないが、これはこと僕自身についてのみいえば少なからず言えることだという気もする。

ということで、話は美少女=オタク説に移るわけである。これはべつにさやわかが提唱しているとか、あるいはほかの評論家なりなんなりが提唱しているとかいうものではなく、僕自身がなんとなく温めていてまだ十分に考えることができていない考えである。その内容はシンプルなもので、つまりオタクが萌える二次元美少女というのは、全員が全員そうでないにしても、少なからずそのオタク自身に似ているのではないか、というものである。ある意味で萌えとは(精神分析的な意味ではなく、一般的な意味での)ナルシシズムではないのかというのが、この説の根底にある発想だ。

その線で行くと、僕が矢澤にこやサターニャやガヴリールやアクアに萌えるのは、そこに自分と同じ「残念さ」「ポンコツさ」を見ているからだ、ということは言えるかもしれないわけで、実際これは自分語りになってしまうので詳細は割愛するが、彼女らと僕には似たところがよくあるということは、我ながら思うことがあるわけである。そしてこのような萌えの構造は先ほど僕が仮説として立てた『はがない』に対するオタクたちの受容の構造とも少なからず相似するわけで、これがもし妥当だとするならば、ポンコツ萌えについて考える際には、ポンコツ美少女に萌えるオタクたち自身のポンコツさについても考える必要があるわけだ。

ただし、もちろんこれとはべつのラインでポンコツ美少女を考える必要もある。たとえば、以前僕はツンデレ萌えについて、そこに受け手とツンデレ美少女のあいだの非対称的な関係を見たわけだが、このような関係性はポンコツ萌えをあらわすときのオタクたちの表現の仕方にも少なからず見られるように思う。すると、もしかしたら受け手とキャラクター両方がポンコツというかたちのみならず、キャラクターだけがポンコツで、受け手はそれに対し優位性を持っているという構造が見られる場合もあり、ではそれらの違いは各々の受容のどういう違いを意味するかだとか、それらの構造が一緒くたになってポンコツ萌えが成立してるパターンはないのかとか、そういうことが考えられなければならなくなる可能性がある。


2,イキリとイジリ:

しかしこれもかなり理論的に難しい仕事だと思うので、ここでは脇に置いて、とりあえずその後者の構造つまりキャラクターだけがポンコツで受け手はそれに対して優位性をもっているという場合に目を向けておこう。

ここで僕が注意を促したいのは、ポンコツ萌えするオタクたちがポンコツ美少女に対しどのような愛情表現をおこなっているかということである。たとえば先ほどあげた『ゔぁみのじゆうちょう』では、このブログの作者は、次のようなことを言っていた。

 
まぁいつものごとく新キャラが出るたびにツイッターでは新キャラを元にした二次創作的な漫画がポンポン投稿されるわけだが,こいつは新キャラのくせにストーリーでは碌に(全く)活躍せず終わったのでネットでは所謂”ポンコツ属性”を推した二次創作が多く見受けられたように感じる.

 

勿論それには需要もあり何百何千とRTされていたのだが個人的にはこういうキャラの愛され方はあんまり好きじゃない.絢瀬絵里ポンコツアイドルだなんだでツイッターで同じようにもてはやされてた時にも同じことを感じた(これは前に書いたことがある気がする)


ここでいう「こいつ」というのは『Fate/Grand Order』というスマートフォンゲームに出てくる「岡田以蔵」(歴史上の実際の岡田以蔵をモデルにしている)というキャラクターで、このキャラクターは先日のイベントで初登場し実装されたわけなのだが、そのシナリオでのイキリっぷりとそのイキリに見合わないポンコツっぷりを見るにつけプレイヤーたちがこれをイジりはじめ、以蔵に焦点をあてた二次創作ショート漫画がまたたくまに増殖、Twitterで散見されるようになった。ここではそれらをいちいち紹介することはしないが、基本的にはこうした漫画にはいくつかのパターンがあり、たとえば「以蔵がわしは天才剣士じゃーとイキリ散らしている→ほかのキャラクターとくに宮本武蔵柳生但馬守宗矩などの明らかに格上な剣士が登場する→彼らに以蔵が突っかかるor彼らの技を以蔵が見る→以蔵がビビる」などといったものは、今ならおそらく検索をかければ大量に見つけることができる。いずれにせよそこでおこなわれているのは以蔵に対するある種の「イジリ」であり、このブログの作者によれば、『ラブライブ!』の絢瀬絵里ポンコツぶりが話題になった時も、同様のことがTwitter上でおこなわれたという。そしてこれはポンコツ萌え(ちなみに以蔵にも萌えた)当事者だからわかることなのだが、このイジリはなんなのかというと、結局のところキャラクターに対する一種の愛情表現なのである。

しかしイジリというのはある意味ではイジメに近いもの、相手の欠点を指摘してあれこれというものではあるわけだから、それをはたから見て不快に思う人はいるし、それに配慮しながら愛情表現を行う必要はある、ということは、先ほどリンクを貼ったインターネット記事にも書かれている。そうした政治的配慮の必要性からもわかるように、こうしたイジリというかたちでの愛情表現には少なからずサディスティックなところやキャラクターに対する受け手の優位関係を示すところがあるようにも思われ、これはまた以前おこなったからかいの構造の分析などともつきあわせて考えていく必要があるだろう。

しかしともかく(という撤退と迂回ばかりで申し訳ないが)、こうした話はまた一旦脇に置いて、そこで次にこのイジリを成立させるキャラクター側の要因にフォーカスしてみよう。もちろんイジリは弱点や欠点や隙を指摘することで成り立つ行為なわけなのだから、ある程度キャラクターの側がそういうものを示さなければ成り立たない行為であるだろう。そうしたことを踏まえて僕があらためて思ったのは、こうした受容のされ方をしているキャラクターはいずれも、少なからずイキったり調子に乗ったり気取ったりしているところがある、ということである。

たとえば以蔵はいうまでもないが、サターニャや矢澤にこの場合も、もはや劇中内での他キャラクターからの扱われ方やイジられ方からしてこの調子である。サターニャは調子に乗ってるのを、散々おだてられたあげくガヴリールにいいように利用されたりラフィエルのおもちゃにされたりする。また矢澤にこは利用されたりだとかおもちゃにされたりだとかすることこそそんなにないものの、そういった言動行動を他キャラクターにあっさりスルーされたり、呆れられたりするというパターンで受け手の笑いを誘うことが多い(この点において僕は『ラブライブ!サンシャイン』で矢澤にこの衣鉢を継いでいるのは津島善子だと強く確信している)。このように、ポンコツ萌えの対象となるキャラクターのその隙の類型のなかには、少なからず調子に乗っている・イキっている・気取っている、があることがわかる。なお気取っているというのはここに挙げた例ではうまく説明できないかもしれないが、知っている方は『僕のヒーローアカデミア』の青山優雅と蛙吹梅雨ちゃんの初期の絡みを思い浮かべてもらいたい(ただし個人的には青山はポンコツ萌えの対象ではない)。


以上、これまでポンコツ萌えをめぐっていくつか当事者としての実感や、論点を、備忘録がわりに書きつけてきた。そのなかでいくつか肝要な問いは挙げられた気がするが、今回は各々に深入りをせず、むしろ話題を広げたり繋げたりすることを試みた。こういう書き方をしたことはあまりなかったのだが、思いのほか頭を整理する準備作業としては役立ったように感じる。これからも折を見てこうした書き方である話題を扱うということをしてみてもいいかもしれない。そんなふうに考えた。