かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

わからない感覚について

最近ぜんぜんブログを更新していなかった気がしたので、定期的に更新する義務もないのだけれども、このまま書かないと永遠に書かない気がしてそれはちょっと自分にとって損失だなという気がしたので、何かを書くことにした。こういう経緯があってなかば書くために書いた話なので、これはオチのある話というよりはたんなる近況報告みたいなものである。

 


たとえば東浩紀の本を読むと、どの本であれ、「~かもしれない」とか、偶然とかの問題が頻繁に語られている。ほかの本を読んでいても、たまにこういったことが話題になることがある。実は僕はこの手の話題を読むたびにある種の困惑を感じてきた。

僕は好んで人文書といわれる類の本を読む。とくに哲学や精神分析の本を読む。それは、たぶんひとつには、単純に知的な意味で面白いからだ。しかし、それ以外の理由もある。そういったものを読んでいると、自分が今まで漠然と感じてきた生きづらさの構造が的確に説明されているという箇所に出会うことがあり、その出会いがなにかの解決や救済になるわけでもないのだが、感動を呼ぶ、ということがある。もちろん、そういった個人的な感動はそれはそれとして、その説明が的確なものかということについてはちゃんと批判的に読まなければならないわけで、その意味ではあるいみそういう感動は危険なのだが、とまれ、なんにせよそういうふうな感動があるにはあって、僕はそれを感じるためにそういったものを読んでいる節がある。

ところで、そういった共感ができる、ということは、そういう本を読むときには意外と助けになることが多い。語り口がいかに抽象的であろうと、そこで語られている思想なりなんなりはある程度はこの著者の人生経験を参照して作られたものなわけだから、その参照元に思いがいたるならば、その分だけその発想がわかり、整合的に読みやすくなるということが、たしかにあるのだ。だから、こうした本を読むに際してその気持ちや発想がわかるというのは、もちろんそこにナルシシズムを投影してしまうという危険はあるけれども、ある程度は大事なことではないかと、個人的には思うわけである。

そこで話は最初に戻る。僕がなぜ上述のような話題が出てくるたびに困るのか。それは、かれらがそこで語ってくれている実存的な感覚が、僕にはよくわからないからだ。それは僕からすれば、そうした感覚をもとに作られた思想を、細かいレベルで、さまざまな文脈で読むということができないかもしれないということを意味する気がする。そして、それは僕が考えたいことを考えるにあたって結構致命的なことだという気がする。

そんなわけで、最近、僕はそういう感覚や発想を分かりたいと思い、そうしたことを扱っていると思しき小説を読んでいる。今読んでいるのは東の『クォンタム・ファミリーズ』で、これはそういうことを抜きにしても、今のところ、ものすごく面白い。

それから、その前には柴崎友香の『わたしがいなかった街で』という小説を読んだ。これは夫と彼の不倫がきっかけで離婚した30代半ばの女性と、彼女の知り合いの妹の話だ。前者の女性、砂羽は、東京で運輸業を営む会社の契約社員としてはたらき、家ではよく戦争もののドキュメンタリーを見ている。彼女もやはり偶然に関する問いを抱えている。たとえば、この小説は最初こんなふうに始まる。

 


一九四五年の六月まで祖父が広島のあの橋のたもとにあったホテルでコックをしていたことをわたしが知ったときには、祖父はもう死んでいた。

 


この「あの橋」というのは祖父がかつて彼女にその思い出を語って聞かせたところの橋で、この橋が位置していたのは、ちょうど原爆の爆心地の近くだった。だからもし祖父がこの六月の時期にコックをやめてよそに越していなかったら、祖父は死に、彼女もまた生まれていなかったかもしれない。この「かもしれない」と、とはいえ、現実はげんにこのようにしてある、ということのあいだで、彼女はその意味を問わざるをえなくなる。

こうした問いは、彼女によって、小説内でのあらゆるものごとに対して発せられる。たとえば遠い場所での戦争のドキュメンタリー映像を見ているとき、彼女は「なぜこの場所にいたのがわたしではなく、彼らなのか」と考えるし、ある日偶然以前の職場の人間とすれ違ったとき、「この偶然にはなにか意味があるのではないか」ということを考えてしまう。

少し寄り道をすれば、こういう感覚は柴崎が別の作品でも頻繁に描く感覚と、どこかで通底する気もする。最近、僕はこの人の作品を連続して読んでいたのだが、これはちょうどその三冊目の作品で、その前に読んだ二冊では、いずれも写真と実物、瓜二つの人物、十年前の自分と今の自分、といった二つのものたちのあいだにあるズレや同一性に対する登場人物たちのさまざまな感情的な体験(驚き、違和感、喜び、などなど)が繰り返し描写されていた。たぶん、これは他の作品でもずっと描かれている感覚なのだろうけれども、こうした感覚と、上述の感覚は、それこそ身もふたもない言い方をすれば反復とか不気味なものとか、そういうテーマと、ともに関係するという気がするのである。

まぁそれはともかくとして、とにかく僕はこういう感覚がやはりわからない。あるいはそういう感覚そのものはあるかもしれないのだが、それを十分に自分のなかで抽象化したり構造化したりして把握することができていない。たとえば、「なぜあそこにいるのが私ではなく、彼らだったのか」という問いの意味は、僕にはよくわからない。たぶん僕ならこういう問いに対して、そこには何の意味もない、と考え、それを危機的なことだと思わないし、そうした問いをある実存的な要請の表現としても、つまりレトリカルクエスチョンとしても、共感を持って理解することができない。

しかし一方で、反実仮想的な発想は僕とてよくするのであり、そもそもそういう発想は人間にとって不可避的なものにも思える。つまりもしあのときこうしていたら、とか、もしかしたらあの人の立場に僕がいたかもしれない、ということは、僕だって考える。しかしそれがなぜ現実がそのようでしかありえないということに対する疑義、そのようであることの意味に対する問いにつながるのかが、よくわからない。それが歯がゆい。

これが理論的な問題なのか、たんに感覚的な問題なのかはわからない。理論的、というのは、もちろん実存的な感覚というのはひとつには感情の問題ではあるが、それ以上にそれをどう考えるかという発想や論理構造の問題でもあるからだ。しかし、おそらく、僕にはその両方が今欠けているのだと思う。

だから、むしろ僕のいまの主要な関心は、そうした問いを問うてしまうそうした感覚やそれを成立させる論理構造が、なぜ僕にはないのか、ということになりつつある。とくに『わたしがいなかった街で』の主人公の気持ちや発想は僕にはほとんど分かる気がする(などと軽率にいうべきではないのかもしれないが、素朴な実感としてはそう思う)だけに、そこでなにか一気に突き放される感じがする。たとえばこうしたふと挟まれるコミュ障っぽい感覚はすごい分かる気がするのだ。

 


有子でも、加藤美奈でもいい。チューナーになってくれる人がいないとき、他人と何モードで話せばいいかわからない、と前に有子に説明したことを思い出す。

 


これ以外にも、若干被害妄想めいた対人不安があるとか、人との話し方がわからないとか、他人への興味がどうしても希薄になりがちだとか、にも関わらず人と関わりたくてもどかしいとか、そういったことに対する漠然とした屈託の感覚は分かる気がするし、そういう人がそういうドキュメンタリー映像を延々と見てしまう感覚、みたいなのも、なんとなく、分かる気がする。にもかかわらず、そうした確率や可能性や偶然に関する意味の問いを彼女をして問わせしめるその気持ちだけがよくわからない。

つらつらと喋ってきたが、このようなわけで、最近はこの妙な感覚の欠落をめぐってものを考えていることが多い。こんな感じなので、もしこれを読んで、「そういう話が出てくるものといえば、こういう作品があるな」という心当たりがある人がいれば、ジャンルを問わず教えてもらえるとありがたいです。