かんぼつの雑記帳

ほとんど個人用メモ。アニメ・哲学などを扱ったエッセイを投稿しています。

アイデンティティとその周辺

昔書いて途中でやめた原稿に自分語りをくわえたエッセイになります。

 

 

アイデンティティという言葉はよく人口に膾炙した言葉ですが、そのルーツを知っている人は意外と少ないのではないかと思います。ふつうに使われている言葉ほど、そういう傾向がある気がします。いちいちそんなものの意味や起源を問いはしない。実は、アイデンティティというのはもともとは一般的な言葉ではなくて、エリック・エリクソンという人が考えた、精神分析の術語、専門用語です。日本では、批評家の江藤淳がこの人の理論を応用したことで有名(?)です。
と、偉そうに言ってはみたものの、僕もその内実を詳しく知りませんし、エリクソンの本も読んだことがありません。しかしここではエリクソンアイデンティティ概念についてさしあたってciniiで拾った学術論文を参考にしつつ、その気軽なレビュー記事を書くという形式で、なにか述べてみたいと思います。なんだか無責任きわまる文章ではありますが、インターネット上の、それも匿名の個人が、なかば独り言というか、自分用のメモがわりに使っているようなブログの記事ということで、どうかご寛恕願いたいと思います。

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ここではとりあえずその学術論文の内容を僕なりに咀嚼した概説をしていきたいと思いますが、そのまえに一応、アイデンティティという言葉の一般的な意味を確認しておきましょう。さっきの話の続きみたいになりますが、やはり日常的にとは言わないまでも、人がよく使う言葉ほど、意外と定義が各々で食い違ったりするものですから…。
ではあらためて、アイデンティティとはなにか。僕の理解では、これは、一般的には、その人がその人であるということの根幹を支えるようなものです。たとえば僕は心身ともに男(ととりあえずいって僕の日常生活には支障ない)で、ヘテロセクシャル(異性愛者)で、日本人ですが、こういったことのうちのどれかが、僕にとっては重要なものでありえ、それが揺らぐと心がぐらついてしまう、そんな場合に、そのようなものを指してアイデンティティ、というようです。そしてそんな揺らぎが致命的になると、「アイデンティティ・クライシス」(日本語に訳せば自己同一性の危機)なんていうふうにもいいますね。
そしてついでながら僕個人とこの言葉の付き合いについても説明しておくと、僕は昔から性格が捻くれていますから、以前はアイデンティティという概念をはなから疑ってかかっていました。というのも、日本人だとか、異性愛者だとか、男性だとかいったものが、自分の核にあるとは言い難いと、感じていたからです。さらにいえば、そもそも核などというものを考えること自体、ばかげている。かりに核についてのそもそも論は置くとしても、少なくとも男性だのなんだのといったものはいわば僕の属性に過ぎないのであって、そういうものをいくら列挙したところで僕の核とやらにはたどり着きはしない。そんなふうに思っていました(もちろん今は多少違う見解を持っています)。
とはいえ、実はもともとの(つまりエリクソンの術語としての)アイデンティティというのはこのころの僕がイメージしていたような、簡単な概念ではない。たとえば河合隼雄というとある臨床心理学者がいうところによると、エリクソン自身、この言葉の意味をよくわかっていなかったそうで、これは本当かはわかりませんが、とりあえず河合先生のいうことをここに載せておきましょう。

このエリクソンのいいましたアイデンティティということば[…]は考えだすとわからなくなるのですね。
お互いに話をしているとわかっているような気がするんだけれども、ちょっとわからないところがある。とうとう誰かがエリクソンに、これは一言にしていうとどういうことですかと訊くと、エリクソンは苦笑いをしながら、いや実は自分もはっきりわからないんだと言った(笑)、というジョークみたいな話があります[…]。
つまり、アイデンティティというのは、みんなが普通の客観的な科学で使う概念というものではない。あることについて、できるだけかっちりと概念を決めてことばで定義し、それを使って論理的に一つの学問を構築するというのはわかりやすいのですけれども、われわれのようなこういう深層心理学をやっているものは、そういう概念として把握できない、いくらつかんでも何か残るという、そういう不思議なことばを発明して、そしてそれを使いながらみんないっしょに考えていく、そういうことをやっているわけです。

そしてここでは無粋(?)なことに「できるだけかっちりと概念を決めてことばで定義」することをやっていこうと思うわけですが、まずはここまでの基本的な話を踏まえた上で、アイデンティティという言葉にまつわるこうした曖昧さはどこから来るのかということをさしあたりの問いにして、学術論文の概説に移りましょう。
さて、ここで僕がとりあげたいのは村澤和多里の「E.H.エリクソンとP.L.バーガーによるアイデンティティ論の検討 ー青年期の理解と援助に向けてー」という論文です。バーガーって誰だよ、となると思いますが、実は僕も寡聞にして知りませんでした。その説明をうっちゃっても概説には差し支えないのですが、一応調べた情報を述べておくと、彼はアメリカの社会学者だそうです。社会学を専門に勉強なさっている方にはお馴染みの名前かもしれません。
ともあれ、本題に話を戻すと、本論文は基本的にアイデンティティという共通の言葉を巡る、エリクソンとバーガーの理解の違いを比較するものです。というかそこが僕にとっては重要ポイントです(ちなみに先回りして結論をいってしまうと、論者によればこの違いは歴史的文脈を相対的な視点から顧慮しているかどうか、ということにあるようですが、ここらへんのことは追い追いまた詳しく説明することにします)。
この論文を始めるにあたって、まず論者は、エリクソンアイデンティティをめぐる議論が、青年期理解のために考えられたものであるということに注意を促します。歴史的な背景をいえば、そこにはそもそも中産階級の問題でしかなかった青年期の問題が、産業の複雑化や、経済的発展に伴って、大衆の、つまり多くの人にとっての問題になったこと、それによってあらためてこうした青年期の問題を理解する必要性が高まったという事情があります。社会状況の変化に応じて、青年期に経験される様々な心の葛藤や屈託、そしてときにその表現として出てくる若者文化、または反社会的行為などをどう理解するか、という問いに答えることが大切になったわけです。
論者は、エリクソンの理論のユニークさは、こうした理解をするにあたって、「青年期の混乱状態を逸脱行為とは見ず、あくまでも社会的な文脈との間で進行するプロセスとして、それを位置づけようとしたところ」にあるといいます。簡単にいってしまえば、青年期とは自己と社会との距離感をうまく掴めない時期です。そして、そんな時期にあって試行錯誤しながら、自分なりに社会との関わり方を見つけようという過渡期の表現として、ある種の心理や行為、文化が生まれる、ということでしょう。
さて、こうした背景を踏まえると、エリクソンアイデンティティ論には、青年期における二つの相反する側面についての洞察が前提とされているということがわかるでしょう。青年は、一方では社会に適応していかなければならない。しかし他方では、こうした社会の既存のあり方に対する反発心のようなものもある。この二つの矛盾のあいだでどう自分のあり方を塩梅していくかということが、青年期に(少なくともこの理論が考えられた時代の)多くの人々が抱える共通の課題といえなくもなさそうです。
このような文脈から、まずアイデンティティとは、こうしたある種の発達の段階において危機にさらされ、確立されるものである、と定義できます。しかしこれはエリクソンアイデンティティ論が語ったことの一側面にしか過ぎません。
論者によれば、エリクソン的なアイデンティティ概念には、もう一つの側面があります。それはライフサイクル(子どもの頃、青年期、社会人としてバリバリ働いてる時期、定年退職してからの時期などなど…)に応じて変化し続ける不断の運動としてのアイデンティティの側面です。要するに、青年期に一回確立したらそれではい終了、というのがアイデンティティではないわけですね。いやそれもそのときのアイデンティティには違いないのでしょうが、やはり歳をとるなかで、また時代の変化にあわせて、(かりにアイデンティティなるものがあるとすれば)アイデンティティを変えていかなければいけないというのは当然なわけで、そうしたアイデンティティの変化の運動そのものがまたアイデンティティとして考えられる。静的な側面と動的な側面があるわけです。
このあと、人間の心の発達の段階やモラトリアムの時代ごとの社会的な形態についてもっと突っ込んだ細かい議論はあるわけですが、ここまでを踏まえたところでそれは割愛して、論者の問題提起に一足飛びに移りましょう。ここで論者が指摘するのは、エリクソンにおける歴史的・社会的な相対化の不十分さです。ひらたくいえば、それは、彼の理論は20世紀のある時期のアメリカという非常に限定された時代・場所における青年期のかたちを(そしてともすれば青年期そのものを)あまりに一般化・普遍化しすぎた、ということです。
では、青年期やアイデンティティのことを歴史・社会的な側面から捉えることはできないだろうか。こうした問いに基づいて論者が参照するのが、次に紹介されるバーガーのアイデンティティ論になります。
まずバーガーのアイデンティティ論を説明するにあたっては、この立論が彼の社会構築主義的な立場に依るところが多いということに注目しておきます。論者の要約によれば、社会構築主義とは「現実(リアリティ)がコミュニケーションの中で構築される」という考え方です。たとえば、ある何人かのあいだで共有されていただけの決まりごとやルーティンなどが他の人に伝達されたり子供に継承されたりすると、それがある社会のなかでの慣習法、しきたりになったりする(制度化)。これが制度として客観的に立ち現れてくるようになると(対象化)、その枠組みなしには人は現実を体験しえなくなる(内在化)。ようはコミュニーケーションから制度が生まれ、それが社会に生きる人々の現実になる、ということなのかもしれません。
このような意味で、バーガーにおける個人と社会の関係は、相互作用的なものです。個人同士のやりとりが社会を形成すると同時に、形成された社会が個人のあり方に大きな影響をも与える。なんというかこういう身もふたもない言い方をするとすごい当たり前の話っぽいですが、ともあれこの考え方がアイデンティティ論にまで敷衍されると、やはりエリクソンのそれと似通ってくるわけですね。エリクソンも社会と個人の関係ということを考える。
そしてまたエリクソンアイデンティティ論とバーガーのそれの違いも、ここに顕著に現れます。論者によれば、アイデンティティの安定について、エリクソンは個人のなかの一貫性がそれを可能にしていると考えているのに対し、バーガーのほうは社会の圧力がそれを可能にしていると考えているようです。「エリクソンの描く青年が内的な一貫性をめぐって苦悩しているのに対して、バーガーの描く人間は外部からの与えられる状況への定義に締め付けられているのである」。
さらにバーガーは、アイデンティティの変化をめぐって、エリクソンが基盤としている精神分析の療法についても、面白い見解を示しているようです。アイデンティティの変化は、バーガーによれば、社会の変化に強く影響を受けた結果としてありますが、これはいいかえれば、イデオロギーの変化にともなう変化でもあります。そしてバーガーは、このイデオロギーの変化という側面が、精神分析療法にもあるといいます。もちろん精神病や神経症といった心に関わる病、症状は、歴史・社会状況に左右されるものですし、それを心の「病気」だとか「異常」だとかいうふうに決めるのも、社会の規範なわけですね。たとえばヒステリーは現在ではほとんど見られなくなったそうですが、それは現代が昔に比べ、性の問題について抑圧的でないからだといえます。そして精神分析療法は、こうした社会制度に規定されたことによって患者の精神に生じたある特定の状態を、社会に適応したかたちに作り変えるという作業ともいえる。しかし、それは患者がイデオロギーを脱したということを意味するのではなくて、別のイデオロギーに移動したということを意味するわけです、というか、少なくともバーガーはそう考えたようです。そしてそのイデオロギーとは、バーガーにとって、精神分析医の心が持つ枠内でのイデオロギーに他ならない。
こういう図式的な構図を描くとややエリクソンにたいして不誠実な気はしますが、ともあれこのように、エリクソンにあってはそれが主題化されず予め肯定された上でアイデンティティの問題が考えられているところの精神分析療法が、バーガーにおいては相対化されているというのは、踏まえておくべき点でしょう。そしてそこから次のような問いの違いが生まれてくることになります。

バーガーにも現代人がアイデンティティに関する問題意識を抱いているという認識があるのだが、問いの立て方は、エリクソンとはだいぶ違う。エリクソンにおいては、目的としてのアイデンティティが先にあり、なぜそれが確立できないのか、どのように確立していくものなのかという問いが探求されていた。これに対してバーガーにおいては、なぜ現代人はこれほどまでにアイデンティティにこだわるのかという問いに転換されており、さらにそれが歴史的な文脈において探求されることで相対化されている。

そしてこの探求の結果としては、前近代と近代における主体のあり方の違い、という馴染み深い話が出てきます。すなわち、前近代においては社会において個人にあらゆる選択の自由がなく、なおかつ共同体のなかで各々にある程度の役割が定められていたわけですが、近代以後はそれが自由になったり、高度な産業化によって個人が機械部品のように匿名化されることで、自分というものの根拠が不安定になった、というストーリーですね。つまり社会の安定を求めれば個人の自由はある程度抑制されてしまうが、それゆえに自らがどのように生きるべきか迷わずに済んだところを、個人の自由を求めると社会が流動化し共同体の基盤が崩れ、個人々々が匿名化していくうえに、人は与えられた自由のなかで困惑する、という現象が起こるわけです。こうした議論は資本主義経済の仕組み、産業構造の変化などとも合わせて論じなければ説得的にならないのですが、ともあれこれについてはここでは割愛したいと思います。

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いろいろ省いた部分はありますが、ひとまず論文の概説は終えたことにしたいと思います。念のためもう一度まとめておきましょう。エリクソンにおいてアイデンティティとは個人と社会との関わり方を模索するなかで形成されるものです。しかしエリクソンのこの議論はある限定された歴史的・社会的な状況におけるアイデンティティの問題を普遍化しすぎたきらいがある。そこでバーガーの議論が参照され、むしろなぜアイデンティティの問題が現代に重要視されるのかという問いが立てられる。その考察の結果として出てきたのが、前近代と近代以後の社会条件の違いである。社会が流動化し、個人の自由が尊重されると、一人一人がかけがえのなさを失ったり、その自由の前に困惑したりすることになる。そこでそういった問題が出てきてしまう。
さて、ふつうはここまでを踏まえたところで、どちらが正しいとか正しくないとかいう議論が続くのでしょうが、ここではそういったことはしないことにします。なぜなら、そういった議論や判断をおこなうためにはもっとこのあたりの議論について勉強しなければならないからです。でもそこまでのことをするつもりはない。そこでこれからは感想というか、アイデンティティの問題を僕なりの言葉や考えで引き受けておきたいと思います(なお、以下、アイデンティティについての定義の話は終わり、僕のぐだぐだした要領を得ない喋りが続くことになるので、人によってはここで引き返してもらったほうがよいかもしれません)。
そこでまずはバーグの議論を再び普遍化というか、形式化してしまいましょう。すると、アイデンティティと近代以後、という歴史的な意味でのアイデンティティ議論は、自由と必然、あるいは可能性と現実性という形式の二元論に還元することができます。どういうことでしょうか。
まず可能性と現実性、自由と必然といった言葉が、それぞれ選択という問題に関わることを押さえておきましょう。たとえば、自由であり、選択可能であるということは、いいかえれば選択の根拠を自分に持ってくるしかないということです(もちろんこれは選択に根拠がなければならないということではありませんが)。しかし根拠というものはつねに他なるものを規定するものですから、自分で自分を規定するというのは難しい。何かを選択する欲望を作るためにも、なにかの文脈に依存する必要がある。だから、たとえば世の中のために生きたいという発想などは、選択の根拠に他人の欲望を据えるという、ひとつの選択の方法としてある。その生き方を自ら選ぶのだというふうにして、でもその根拠は他から持ってくる。
そして、この点、つまり根拠をどう持ってくるかという点では、共同体の方が圧倒的に楽です。共同体が職を、生き方を、決めてくれる。自分は考えなくて済む。その限定の中で、自分はこうでしかあり得なかった(必然)というふうな自分を生きることができる。自分らしさとは、逆説的にも、実は過去や、他人や、社会に根拠づけられるものであったりする。
これはいいかえれば、人は何かに限定されなければ、なにも選べないということです。そしてこれをまた別の角度から照射すれば、自分が限定されない存在であると考えたければ、可能性に逃げればいいということでもあります。現実には何にもなれない代わりに、幻想つまり可能性のなかでは、自分は何にでもなれる、あるいはああしていればなれたはずだった、とかいうふうに想像することができる。そしてこの思考は「もしも」というふうな、仮定や可能性を考えるようなものの考え方を前提としています(もしもあのときあの人と付き合っていれば、もしもあのときあそこで逃げなければ、…)。
だからある意味で、共同体から自由な社会へという発想を形式にまで還元すれば、そうした移行が、こういう逃避の欲望に支えられているといることもあるでしょう(もちろん実際の歴史的な状況はもっと複雑だったと思いますが)。このようにバーガーの議論を形式化すれば、こういう自由-必然、可能性-現実性という軸が見えてくる気がします。

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実は、こうしたことは、僕は以前にも一度考えたことがありました。それこそ河合先生の本を読んでいたときに考えたという気がします。しかしそのときにはまだ見えていないことも多かった。
たとえば、そのとき考えていたのは、僕のある癖が、まさにこの可能性への逃避なのではないかということです。その癖というのは、懐疑癖です。ではなぜ懐疑癖が可能性への逃避なのか。それは、懐疑が、つねに判断の保留としてあるからです。
判断するということは、ある意味では恐ろしいことです。なぜならば、どんな判断も、つねにそれが具体的なものである以上、誤りの可能性を含んでいるからです(ちなみに、ここでいう判断というのは、正誤についての判断というよりもーーそれはそれで微妙な話なのですが今は脇に置いておきたいと思いますーー、善悪についての判断などをさしています)。そのようにして判断によって自分の立場を確定するということは、自分を現実の場におき、有限化することでもある。
もちろん、僕がそうした判断についてつねに慎重でいたいと思い、懐疑してきたのには、別のまともな理由もあるでしょう。たとえば、善悪についての判断をあまりに性急に、また粗雑におこなうことには、誰かを傷つける危険性が伴います。だから僕は善意から、そういう判断について慎重にならざるを得なかった、ということもできるでしょう。しかし、自分がなぜそのような癖を持っているかということは原理的には自分ではわからないことです。わからない以上は、こんなふうに自分に都合のいい解釈をするだけでなく、いろんな可能性を検討してみる必要がある。するとやはり、懐疑癖が可能性への逃避に支えられているというのはありそうなことに思えます。
ともあれ、昔の僕が考えていたのはこういうことでした。では最近の僕はといえば、このことをコミュニケーションの問題として考えていたりします。
たとえば、僕はコミュニケーションが苦手ですが、この苦手意識は実は中学校のころに始まっています。
小学校低学年から中学年くらいまで、僕は冗談をいったり、友達とふざけたりするのが好きでした。しかし中学校に入るかその前あたりから、そういうふうにして人と笑ったり喋ったりしているときに、ふと、そうした状況をもう一人の冷めた自分が眺めているような、そんな意識を覚えるようになりました。人によってはこれを自意識というかもしれません。
これが中学校に入るとますます酷くなり、いつしか自分がどういうふうに振舞っていいかよくわからなくなってしまった。そしてこれと軌を一にするように冗談もいえなくなってしまった。
なぜこんなことが起こったのか。色々な原因があるでしょう。それでもあえて一つあげるならば、それは、僕が人を笑わせるのが好きだったからではないかと思います。たとえば冗談をいうには、まず自分がいる状況から身を引いて、それについて意外な視点からコメントを加えなければなりません。しかし状況から身を引くということは、状況のなかにいる自分と、それを引いて見ている自分が分裂してしまうということでもあります。そして後者の視点からみれば、どんな状況もある程度他人事に見える。たとえば「内輪受け」という言葉がありますが、これはその内輪=仲間内のノリの外にいる人が、そのノリについていけず、それを冷めた態度で揶揄するようなときにも使われますね。いわばこの時の僕の状況は、(揶揄することこそないものの)このような内輪受けについていけない状態にいたわけです。
さて、とりあえずこのような内輪のノリに疑いを抱かず浸っていることを、ここでは「内在」と呼んでおきましょう。そしてその外側にいることを、「超越」と呼んでおくことにしましょう。
このような言葉を使うと、この当時の僕は、状況に内在しながら、それを同時に超越しようとしてしまっていた、といえるわけです。そしてこのことは懐疑の問題にも完全につながります。なぜなら、懐疑とは、まさしく状況を超越しようとすることだからです。たとえば内輪のノリに内在しているとき、僕はそのノリが別の仕方で見える(外からみればつまらないかもしれない)ということを知りませんが、それと同じように、判断をし、それを確信しているときにも、僕はその判断について判断することはできない、つまり判断に内在してしまっているわけです。それでは外野から冷ややかな目で見られるかもしれないし間違うかもしれない。それがいやならあくまで疑うしかないし、ノリの外に出ようとするしかない。このようなわけで、少なくとも判断についてのみいえば、僕は、そこからあくまで超越することで、可能性のなかに逃避し、その可能性のなかでのみ自分の優位性を確保しようとしていたのかもしれないわけです。
そしてそれをコミュニケーションの問題として語り直せば、僕は別のあらゆる内輪の可能性に逃避することで、内輪に内在してしまったときに別の界隈から冷めた目で見られるかもしれないリスクから免れていたということになるのかもしれない。
しかし、そのツケは、振る舞いについての判断エラーとして、そしてその結果としての挙動不審やぎこちなさとして帰結してしまうことになります。それは僕がちゃんと「超越」できたわけではないということを意味するでしょう。僕は一方では超越しようとしましたが、そのように超越しようとした自分自身はどうしようもなく状況に内在している。そしてそのなかで僕が迷っている間に、はやめに自分の振る舞いのタイプや判断を確定させ、それを用いてコミュニケーションの経験を積んだ人々は、とっくにコミュニケーションの玄人になっており、他方の僕はそのなかで打ち解けない、挙動不審な、ヘンな奴として位置付けられてしまう。そしてそのような自己認識がますます振る舞いをおかしなほうに空転させてしまう…。
おそらく少なくない人が多かれ少なかれこれと似たような経験をしているでしょう。そしてそれについて悩んだこともあるかもしれません。そうした人々にとって次なる問題は、その話がどうアイデンティティと関係するかということでしょう。

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先ほど、僕は、ふつうにコミュニケーションができている人たちのことを、「はやめに自分の振る舞いのタイプや判断を確定させ、それを用いてコミュニケーションの経験を積んだ玄人」だといいました。ここで注目すべきは、「振る舞いのタイプ」という言葉と、「はやめに確定させる」という文句の「はやめに」と「確定させる」です。
たとえば、エリクソンアイデンティティを社会と自己の擦り合わせの中で作られていくものだと考えました。それはいいかえれば、自分が何者であるのかということを、社会の視線を考慮しながら、決定するということでもあります。そしてこの決定までにはタイムリミットがあります。たとえば現行の日本の教育制度に則って生きていくと、ふつう高校を卒業する頃には進路が決まっていないといけないわけです。もちろん、人によって個人差はありますし、多少はやかったり遅れたりしても取り返しがつくことはあるかもしれませんが、基本的には進路決定が遅れれば遅れるほど色んな道が絶たれていくように思われる。こうしたある種の〆切に急かされるかたちで、人々は自分が何者かを決めざるを得なくなっていくという側面があります。さらにそれは畢竟、自分はどういう動機に基づいてどういう仕事をするつもりだとかいったことを他人に説明できるようになる、自分と自分の言葉を社会化・一般化していくということでもある(たとえば言葉にできぬ悲しみを感じたとき、あなたのその悲しみはあなた固有の悲しみかもしれませんが、それを人に伝えるときには、悲しみというレディメイドの言葉を使うしかなく、その時点であなたの悲しみは社会的・一般的悲しみとして流通し始めてしまいます)。卑近な例をあげれば就活においてESを書くという作業はまさにそれにあたるわけですが、これなどは決定と急ぎの最たる例です。なにしろはやく始めないと〆切に間に合わないし、ほかの就活生に枠を取られてしまうわけですから。このように、自分が何者かを急いで決定するということと、振る舞いのタイプを早めに確定するということは似ている。
そのようなわけでこれはコミュニケーションの場面においても起こっていることだという気がするのです。たとえば僕たちは、ある人と話しているときに「こんなふうな喋り方をする奴、いるよな」と思うことがあります。実際のところ、人は千差万別のはずなのに、よくよく聞いてみると、抑揚や、喋り方がそっくりな人というのはいっぱいいます。このようなことが起こるのは、おそらく、人が自分の喋り方を、以前自分が聞いたある喋り方の型を記憶し、それらをコラージュして作ったり、相手によってそれらを使い分けているからでしょう。その意味で、コミュニケーションとは、少なくとも形式面においては、常にかつてなされた別の誰かと誰かのコミュニケーションの反復なのかもしれないわけです。
そうすると、いいかえればこのコラージュをどのようにおこなうかということを決定することは、自分を相手に対してどのように見せるかということを決定することでもある。そしてそこに時間(急ぎ)の問題が関わっているときに僕の問題が見えてくる。つまり、相手に合わせて自分をどう見せるかを決定していく、そういう作業について、僕はミクロな視点でもマクロな視点でも躊躇ってしまい、それゆえに出遅れてしまっているのではないか。そしてそれが致命的な結果を招いているのではないか。
では、そうしたアイデンティティやコミュニケーションにおける非決定と遅れが可能性への逃避とその結果にほかならないとするなら、それはつまり何から逃避していることになるのか。
それはまず第一に、ここで散々繰り返してきたように、必然性あるいは現実性あるいは有限性から、でしょう。しかし別の観点からすれば、それは内在することからの逃避でもあります。最近の僕のはやりは、これをさらにゲームに内在することからの逃避だと考えてみるという考え方です。すると、僕は他人とおこなうゲームのなかで、その共同ルールに沿って戦いたくないがために、ルールを疑ったり、ルールの裏をかいたりするために、超越しようとしているといいかえられる。しかし他人と生きていく以上、そのゲームの外へは逃げられない。だから実際にはゲームを超越したつもりでそこに内在してしまっており、この内在において、そのような人間はゲームに負けざるをえない。
考えてみれば僕は昔から他人と戦ったり、傷ついたり、傷つけたりするのが嫌いで仕方がなかった。しかしそうも言ってられないような状況になってきており、この「状況になってきている」ということには、とりもなおさず時間(急ぎ)の問題が関わってくる。さらにここには応答可能性=責任の問題が関わっている。では僕はどうすべきなのか。いまだにそれはよくわかっていません。なにしろ自分が何年も何年も避けてきたことを、今更やろうというわけですから、カンもないし体もそういうふうにできていない。しかしともあれなんとかしなければどうしようもないだろう。そしてそういう実践の問題とは別に、表象や文化について考えるというような観点から、このゲームという比喩を愚直にアナログ/デジタルゲームにおいて考えてみたらどうだろうか、などともぼんやり思っていたり。なんだか混乱した語り方しかできませんが、近頃はこんなことを考えます。

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最後は自分ではなく、ある別の人のことについて、この議論の視点から語りたいと思います。というのもこの人の事例は僕のそれと正反対に思えるからです。
その男性は両親との関係に問題を抱えていました。父親はすこし人格に問題がある人だったようで、男性に対して愛がなかったわけではないようですが、彼は父からときおり人格攻撃ではないかというような言葉を言われたそうです。そして母親の方も、そんな父から彼を庇ってくれなかった。
そしてこの両親は非常にエリート志向の強い人たちでもあったようで、実際この父親は優秀な人でしたから、彼はそんな家庭に育って、そのような価値観に触れながら、つねにその価値観からして満たすべき基準を満たしていない自分に対する劣等感を抱いていた。そしていわゆるメランコリー親和型に近い人格を形成してしまった。
ところで、よく鬱病患者は、自分が○○をできないからダメだ、○○でないからダメだ、というようなことを考えがちなようです。彼にもそのような癖がありました。なにかと他人と比較しては、自分の能力や状態が劣っていることを嘆いていて、よく自己卑下をしていた。一方、僕は彼に共感できるところもありながら、根底でこの人と僕は異なるという気持ちをどこかで持っていた。
最近、僕はぼんやりと上述のようなことを考えるなかで、その違いを言葉にできるような気がしてきました。おそらく、ここで問題になっているのは自己肯定感です。
僕が彼と自分の違いを感じたのは、まず、彼が○○でないということと、だから自分はダメだということを、短絡していることに共感できなかったからでした。僕にとっては、僕がこういう学歴を持っているとか、こういう職業についているとか、こんなことができるといったことは、僕の自尊心とそこまで決定的な関係を持っていなかったからです。いいかえれば、そうしたことはあくまで僕が何であるかということに過ぎないであって、それと僕がそれ自体で肯定されてよい存在であるということとは、完全には関わらない。もちろん、僕も自分がなんであるか、ありたいかという点において至らず落ち込むことはありますが、それとこれとは話は別で、そのような自己嫌悪や落ち込みの最中においても、根底において僕は自分を肯定している。
しかし、彼の場合はそうではなく、自分がどうであるかということと、自分がそれ自体肯定されるべき存在であるかどうかということが、強くつながってしまっている。それがおそらく僕と彼の違いです。
では、その二つの違いはどのような性質のものなのか。
このことを、アイデンティティの議論から考えてみましょう。アイデンティティとは、今の僕の考えでは、社会と自分の折衝のなかで生まれる妥協点のことです。そしてこのことを踏まえると、僕と彼について次のようなことが言えるでしょう。まず、僕はこの妥協点を探る作業において、社会の要請するあり方に対して自分を合わせるのに難儀している。一方で彼の方では、自分のあるべきあり方が社会(あるいは他人)が要請するそれに短絡してしまっているため、それとは別に自分を肯定することができずにいる。たぶん両者にはこのような違いがあるのでしょう。
しかしこうした議論は、なおも細かく検討する余地のあることでしょう。たとえばこうしたことはフロイトのメランコリー論とはどのように関連づけられるのか…。
ともあれここらへんで、とりとめもないおしゃべりはやめておくことにします。