かんぼつの雑記帳

ほとんど個人用メモ。アニメ・哲学などを扱ったエッセイを投稿しています。

感情移入論の導入のために

エッセイです。

 

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目次
0,はじめに
1,二つの感情移入
2,感情移入の限界
3,背景と課題
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0,はじめに

ここでは、物語論の研究の一環として、感情移入について考えてきたことを、基礎的な理論として、短く、簡潔に記すこと目的とする。したがって、本エッセイは、専門知識や議論の背景をまったく知らない人でも読めることをめざして書かれている。

 

1,二つの感情移入

僕らは日常的に感情移入や共感という言葉を使う。その言葉は主に、映画、ドラマ、アニメ、漫画、小説について語る文脈で用いられる。つまりエンターテインメントを語る文脈で用いられる。
これらのコンテンツにおいて、キャラクターに感情移入できることは、それほど重要なことだと考えられている。では、感情移入できない場合にはどうなるのか。そのことを考えるにあたって、まず、この場合がどんな場合かを考えてみよう。さしあたりこれには二つのパターンがある。

 

A,キャラクターの態度や行動の理由(動機)に説得力がない。
B,キャラクターの行動が許容できない。

 

この二つは似ているが違う。A,は感情的なリアリティの問題である。それに対してB,は倫理的な問題である。キャラクターの態度・行動に説得力がなかったからといって、受け手はキャラクターを非難しない。せいぜい、たんに頭のおかしなキャラクターだと感じるか、作者の技術の拙さに対する怒り・軽蔑・笑い・呆れを持つだけだ。これがA,の場合に起こる心の動きである。一方、B,の場合には、受け手はキャラクターか作者あるいは両方を倫理的に非難したくなる。あるいはそこから怒り・軽蔑・笑い・呆れが生じる。しかし、その感情は、キャラクターの不自然さや技術の拙さよりは、倫理的な問題からくる。
たとえば、『異世界はスマートフォンとともに。』(以下『イセスマ』)というアニメがある。僕は、このアニメについての感想ブログ記事(【アニメレビュー】異世界はスマートフォンとともに 全話制覇報告 : 第B級映画レビュー小隊)を読んだことがあるのだが、ここでこのブログの書き手が示した感想はA,の典型的な例なので、ざっと紹介しておこう。
このアニメの主人公は、日本に暮らすごく普通の高校生である。ある日、彼は、神様の手違いで死ぬことになる。死後、神様は、お詫びとして、彼を異世界に転生させることにする。そこで主人公は、とあるファンタジー風の異世界に転生する。彼は、そこで出会ったヒロイン達と、冒険の旅を繰り広げる。この様子を描いたのがアニメ『イセスマ』である。
ブログ記事の作者は、この主人公をサイコパスと呼ぶ。その理由は、彼の得体の知れなさに起因する。たとえば彼は死後、自分が神様の手違いで死んでしまったことを、神様に知らされる。しかし、彼はそれをこともなげに許してしまう。まるで自分の生死がどうでもいいことであるかのように。しかし、ふつう、人にとって自分の生き死には最も重要なことがらの一つである。だから彼の態度はブログ記事の作者にとって不気味に思える。
ほかの例もある。たとえば彼は転生前の世界の話をほとんどない。家族や友人の話は一切しない。これだけでもふつうの感覚からいえば考えられない。しかし彼はさらに常軌を逸した行動をとる。彼は異世界に転生する際、神様に許可をもらって、スマートフォンを持ち込んでいる。このスマートフォンのインターネット回線はもとの世界とつながっており、ブラウジングだけはおこなうことができる。そのブラウジングをしながら、彼はさして興味もないバンドの解散ニュースにのみ言及する。他に言及するべきものはいくらでもあるはずなのにもかかわらず。
これらの理由から、ブログ記事の作者は主人公を「サイコパス」だという。もちろんこれは厳密な意味ではなく、せいぜい「人の感情を持ち合わせないもの」くらいの意味合いである。いずれにせよ、このように、当然あるべき感情を持たなかったり、逆にさしたる理由もなく過剰な熱情に突き動かされているキャラクターは、感情移入の対象にならない。これがA,のパターンである。
B,のパターンは、まず多くの場合は悪役に対して起こるものであるといえる。ふつう悪役には、受け手は、感情移入をせず、かわりに敵対心、憎しみ、怒りを抱く。そして、これらの感情は、ときに、主人公の非倫理性の隠れ蓑になる。免罪符になるといってもよい。これだけ悪いやつなのだから、倒されても文句は言えないだろう、と受け手は考える。結果として、しばしば主人公の暴力は正当化される。
ここには、単純に政治的な対立構造がある。つまり向こうを悪、こちらを善と定めたうえで、悪を叩く、善悪の二項対立がある。

 

2,感情移入の限界

さて、A,およびB,の場合に見られるこれらの感情移入の性質は、必然的に、感情移入の限界をも示している。
まず第一に、A,は「人間は自分と似たものにしか感情移入できない」という限界を示している。事実、これはなにもキャラクターや作者のみの責任ではない。キャラクターに対して感情移入が起こるかどうかは、受け手の価値観や性格に拠るところも大きいからだ。感情移入には、文脈の負荷がかかっている。
そして第二に、B,は「人間は自分にとって好ましいものにしか感情移入できない」という限界を示している。たとえば、敵が倒されても仕方ないと考えるのは、敵が悪だからである。また、主人公に感情移入できるのは、主人公がいい奴だからである。そしてあるコンテンツが貶されるときにもっともありふれているのは、そこに倫理的な非難が加えられる場合である。掲示板の書き込みでは、本人は日頃とうてい倫理的でなさそうな投稿者が、しばしば主人公の非倫理性を悪し様に非難し、そのことで作品の価値を判断している。これはたとえばハーレムラブコメに対する批判においてもっとも頻繁に見られる。
これらのことを確かめたうえで、僕たちはまた次のことをも考慮に入れなければならない。つまり、この第二の限界は、第一の限界に部分修正を強いるのである。人間は、自分に似ているキャラクターに感情移入するが、それだけではキャラクターに完全に感情移入できない。彼らはそのキャラクターに、嫌な面がない、あるいは嫌な面があったとしても、それが許容範囲に収まることを要求する。もちろん、この二つの感情移入は別々のものだと考えることはできるが、この二つが要求する条件をいずれも満たさなければ、主人公は完全な感情移入の対象にならないのである。
このことを踏まえると、感情移入という言葉の意味は、にわかにはっきりしてくる。それは、ある対象を、自分の味方・身内だと認めることである。そして味方・身内は、自分にとって好ましいものでなければならない。なぜなら、彼らは自分の写し鏡だからである。この意味で、とりわけB,の感情移入の条件は、許容できる自己像の条件でもある。そして、人は、自分のなかの許容できない要素を、自分の内側(身内、味方)ではなく、外側にあるものだと考えたがる性質を持っている。キャラクターへの感情移入が成功した場合、このようにして外側に転嫁された好ましくない要素を担うのは、敵キャラクターである。
では、感情移入が失敗した場合、そこでは何が起こっているのだろうか。その場合には、人は「そんな奴に感情移入する自分ではない」=「自分はあんな奴とは違う」と考えたがるため、キャラクターに対して、非難をするか、嘲笑うか、軽蔑するか、怒るか、呆れる。これらはいずれも、相手と自分を分かつための感情的反応である。たとえば、非難や怒りはキャラクターとの敵対を示す。嘲笑や軽蔑や呆れは、キャラクターに対する自分の優越を示す。いずれにせよ、それはある種の防衛策なのである。

以上、これらの考察から、感情移入についていくつかの性質がはっきりした。

まず、感情移入には二つの種類がある。つぎに、これらの可否はいずれも、相手が自分の身内・味方であるかどうかの判断にかかっている。そして最後に、それが失敗した場合には、受け手はキャラクターと自分を分割するために、防衛的な感情の反応を見せる。以上が、感情移入のもっとも基本的なメカニズムの仮説として、ここで立てられたものである。

 

3,背景・課題

ここでは、この理論の背景にある考えのネタばらしと、今後の課題を示しておく。これ以後議論はとくに進まないので、読みたくない方はここで読むのをやめても差し支えない。
まず「1,二つの感情移入」のアイデアは、アダム・スミス道徳感情論』に負うところが大きい。僕は一時期カントの読解を通して道徳・倫理のアプリオリな構造について考えたあと、それを再びたんなる効果として見直し、発生論的に(アポステリオリに)考え直したいと思っていた。そしてその発生論を、物語における感情移入の問題に結びつけたいと考えていた。こうした目的にとって、スミスのこの文献は非常に適切なものだった。
また、「2,感情移入の限界」は、精神分析のアイデアを借りている。たとえば、相手を自分の写し鏡として考えるというのは、ラカン鏡像段階想像界そのままだし、自分の嫌なところを相手に転嫁するという心理は、精神分析では「投影」という用語で表現される防衛機制(自分を心理的に守るための心のメカニズム)の一種である。ここには『快感原則の彼岸』『喪とメランコリー』の議論や、犠牲の議論もまた絡んでくる。
いずれにせよ、ここで試みられたのは、カント哲学と精神分析の接続であり、それをできるだけ日常的な語彙で、平易に語ることでもあった。
今後の課題は、感情移入、敵対心、怒り、嘲笑などの情動が、人とその対象がどういう位置関係にあることをしめしたり、またそれを表現したりするのか、ということを、細かく考えることである。また、こうした感情移入関係と、美的な関係の違いをどう考えるかも重要になる。たとえば、僕の考えでは、萌えとここで論じたような感情移入は明確に異なる。この違いを考えなければ、萌えアニメを見ているときの心の動きと、そうでないものを見ているときの心の動きの違いは説明できないだろう。

いずれにせよ、これらのことについては引き続き考えていきたい。