かんぼつの雑記帳

ほとんど個人用メモ。アニメ・哲学などを扱ったエッセイを投稿しています。

『サクラクエスト』雑感

最近知能の著しい低下を感じます。エッセイです。

 

 

最近、ア○ゾンプライムビデオ(なぜ伏字にしたのかはわからない)のせいでアニメ中毒になりつつある。最近見たものを列挙すれば、そのなかで今放映してるアニメを除いても、『Re:ゼロから始める異世界生活』『異世界はスマートフォンとともに。』『グリザイアの果実』『ゼロの使い魔』『花咲くいろは』『サクラクエスト』と、その数は結構なものになる。端的にいってこれは非常にヤバイ。具体的には読書が捗らない。しかしともあれそんな経緯があって、このごろ僕は『サクラクエスト』というアニメを見た。
結論から言うと、このアニメは個人的にすごく良い作品だった。話はとても地味で、起伏も少ないため、おもしろいか、と問われたら、「まぁ、ふつうには…」と答えるしかない。だが、そのぶん、等身大の生活感が滲んでいて、その微温感が味わい深い。そしてそんなにうまくいかない(サクセスストーリーとかじゃ全然ない)その微妙な感じがまたよい。それにくわえて、地方の抱える問題がいろんな観点から丁寧に取り上げられていて、そういう意味でも面白く、また勉強になった。
ともかくそんなわけで、僕はこの作品が気に入った。そこで、ここでは鑑賞直後の印象を忘れる前に、この作品を見て心に残ったこと、感じたことについて、思い出記録というか備忘録がわりに書いておく。そういう話を期待してる人がいるかもしれないが(いないと思うけど)、いつもみたくわけのわからない抽象的な話はしないので、それについては断っておく。

1,『サクラクエスト』とは:

とりあえずよく知らない人向けに基礎的な情報を紹介しておこう。『サクラクエスト』は、P.A.WORKSという富山にあるアニメ制作会社が作ったアニメである。P.A.WORKSといえば一般には『花咲くいろは』や『SHIROBAKO』などが有名なのではないかと思うが、実は『サクラクエスト』はこの二作とともに一つのシリーズを成している。といっても同じ話の一期、二期、三期というわけではなくて、これらの作品は「お仕事シリーズ」という系列のなかに位置付けられているものである。もちろん「お仕事シリーズ」というからには、やはりモチーフやテーマの中心に仕事が据えられているわけで、一作目の『花咲くいろは』は主人公が旅館の仲居として働く話だし、二作目の『SHIROBAKO』は未視聴だがアニメ制作に携わる人たちの話らしい(これを見てお仕事シリーズを制覇するのが来月の目標である)。では『サクラクエスト』はなんの仕事を扱うのかというと、町おこし事業みたいなやつである。
いや、町おこし事業みたいなやつというか、町おこし事業でいいのだと思うが、一概にそうともいいかねるのは、その初期設定の特異さにある。
まず主人公がその事業に携わることになった経緯から説明しよう。彼女、木春由乃は、地元から東京に出てきて、なにか特別な仕事がしたいと思っているが、具体的になにをやればいいかわからない。頑張って就活をやってみるものの、選考に臨んだ30社全てにお祈りされてしまう(この時点で僕の木春由乃ちゃんへの感情移入度はMAXである)。そんな折、彼女は以前登録した派遣会社から来たアルバイトの仕事をよくわからぬまま引き受け、その仕事場である富山県間野山市へと向かう(ちなみにこの「間野山」というネーミングはドイツ文学における教養小説の名作として名高いトーマス・マンの『魔の山』と掛けており、なんとなくここらへんから制作側の意図が垣間見える)。間野山市は寂れた地方の町で、仕事を依頼して来たのは、この町の観光協会会長である門田丑松というやたら元気なジイさん。門田は、彼がかつてこの町の観光の目玉として作った、「チュパカブラ王国」という架空の王国の2代目国王(実質的に町おこし事業のリーダー)に、一年という任期付きで、木春を任命する。もともとは人違いで呼ばれ、気乗りもしなかった木春だったが、様々な経緯があり、結局この国王としての仕事を引き受けることにする…。
このようなわけで、木春の仕事は厳密には町おこし事業というよりは「国王」である。とはいえ、やってることはほんとにただの町おこしなので、これは要するに夢見て東京にやってきて就活に落ちた新卒の女の子がひょんなことから地方にVターンしてその寂れた町の町おこしの中心的な担い手になるという、そういう話である。この時点でなんか絶妙な残念感というかほろ苦感があっていいなと僕などは思うのだが、なぜリアルタイムで放映してた去年(2017年)には見送ったのか、謎が多いところである。
とまれ、そのようなわけで、今作では木春とその五人の仲間、そして町の奮闘と変化の様子が、作中での一年という歳月をかけて描かれることになるのであった。

2,圧倒的なNHK朝の連続テレビ小説

章題がすでに完璧な出オチなのでこれ以上語ることもとくにないのだが、とりあえずなんか喋ろうと思う。
そう、まず視聴をはじめて最初に思ったのは、「このアニメ、NHKで朝にやってるあれと似てね…」という感覚だった。もともと連続テレビ小説も女性が奮闘して仕事を頑張るとか東京に出たり地方に引っ込んだりするみたいな話がやたらと多かったり、老若男女多彩なキャラクターが登場してやいのやいのやっている感じがあるが、この作品もそういう向きがなきにしもあらずである。しかしこの連続テレビ小説っぽさというのは『花咲くいろは』にも感じたことで、この感じってなんなんだろうなと漠然と考えながら見ていた。
ほんとうに漠然と見ていたのでとくに深いことはいえないのだが、一つ思ったのは、これらの作品たちの連続テレビ小説っぽさというのは、つまり一種の共同体感というか、ホーム感というか、連帯感というか、そういうものなんじゃないかなぁということだ。いいかえれば、なにかそこに社会があるなというか、人間関係があるな、という感覚である。なんじゃそりゃ、と思われるかもしれないが、僕もよく言語化できないので、ひとまずはこういうあいまいな言葉で言っておくしかない。そして逆に、では、連続テレビ小説感のしない他のアニメ(たとえばラノベ原作アニメとか日常四コマ系アニメとか)には人間関係や社会はないのかといわれればそうもいいかねる。まぁここらへんのことは、しばらく考えてみたい。

3,「時代を生きてる」幻想ってなんなのか

2,とやや関連する話だが、間野山市の人々のことを見ていて思ったのは、時代を生きてる感ってなんぞや、ということである。
たとえば、作中にえりかちゃんという生意気盛りなJCのクソガキが出てくる(でも可愛いから許す)のだが、この子は終始「こんなクソみたいな町で一生を終えるなんてゾッとする」とか「東京に行きたい」ということを言っている。そしてげんにそうして間野山を離れてしまった若者もたくさんいたらしいし、そうして東京に行ったはいいものの、夢破れてUターンしてきたキャラクターもいる。
実は、こうした人たちを見ていても、僕はしっかり共感することができなかったりする。なぜなら僕は生まれてこのかたずっと東京で育ってきて、地方にいたことがないからである。東京にいるので東京行きたいとか思ったこともないし、べつに東京もそんなによくねえよなぁとか、むしろ地方に住みたい、それこそ富山とかよくね? とか思ってきた人種である。
しかし、よくよく考えてみると、僕も積極的に東京を出たいとはあまり思えない。富山住みてえとかいうのも、結局は冗談半分にすぎない。じゃあそれってなんでなんだろうと考えると、結局時代を生きてる感につながる気がして、この感覚を通すと、えりかちゃんの気持ちもわかる気がしてくる。
まず、えりかちゃんにしろ、僕にしろ、ここではないどこかとして、ここで感じてる退屈さとは違う何かを感じさせてくれる場所として、東京や富山を考えているということはあるだろう。それはある意味でたんなる抽象的な逃避である。ここじゃなきゃある程度どこでもいいわけだから。でもそれ以上に、(東京から富山へがまずければ)都会から田舎へ、という方向の欲望と、田舎から都会へ、という方向の欲望は、それぞれ違う質を持ってもいる。
この質のことを考えていくと、一方でおそらく僕の中での田舎に行きたい欲望というのは、俗世間の流れみたいなものからドロップアウトしたいというような欲望である。まぁ一種の隠遁生活への欲望みたいなものだと考えてもらっていい(なんかこういうと田舎に失礼な気がするが、これは具体的な田舎の話というよりも、ぼくがかんがえたさいきょうの田舎とかトヤマとかの話である)。
他方でえりかちゃんの場合、作中では明言されてないけれども、彼女の都会に対する欲望のなかには、娯楽が多いとか人がいっぱいいるとかなんか今とは違った生活が待ってそうみたいな感覚のみならず、同時に、田舎にいては時代に取り残される、みたいな感覚もある気がする。そして、僕が真剣には田舎に行きたいと思えないのも、田舎にいたらえりかちゃんみたいに思うんだろうなという漠然とした予感があり、それをどこかで避けたいからではないか。つまり、僕の中にもそういう取り残されたくない感情とむしろそこからドロップアウトしていきたい感情の両方がせめぎ合っているからなのではないだろうか。
じゃあ、この時代を生きていたい感とか、時代を生きてる感ってなんなんだ、と問われると、それはなんともいいがたい、根拠薄弱な幻想と言わざるを得ない。今の時代、グローバリズムの煽りでいろんなものが均質化している一方、各々のライフスタイルやら趣味やらはやたらと細分化していて共通言語ってそんなにないし、そうでなくともそもそもやれ国民とかやれ世界市民に共通の時代自体、みたいなものはないだろう。とくに僕なんかアナクロニズムな本ばかり読んでるし、Mステとかも大昔に見るのをやめたからいまの音楽シーンとか疎いし(すでにこの発言がアナクロな疑惑がある)、テレビもアニメ以外あまり見ないし、最新テクノロジーとか新時代のビジネスとか割と疎いし、都心部の繁華街もあんま極めないで引きこもってるし、どこが時代に生きてるんだと思う。だったら田舎にいたって同じというか、ネットやテレビはあるし流行のアイテム的なものも買おうと思えばAmazonで買えるだろうし、そうした現実的な条件を勘案すれば、べつだん今と変わりはしない。にもかかわらず「東京にいれば時代からは取り残されない」「田舎は時代から取り残されている」というこの謎の確信というか確固にして無根拠きわまりない謎の幻想はどこからくるのか。まったくもって皆目見当がつかないし馬鹿馬鹿しい。しかしそういう幻想があることは拭いがたい事実である。
また、もうひとつ作中で例を出せば、何度かテレビ局の権力性がどうのみたいな話が出てくる。作中においても地方のPRにはテレビ番組での特集が効果的で、それゆえに局側が足元を見た取引をしてきたり、暴力を振るってきたりもする。それに対するオルタナティブ・メディアとしてようつべとかSNSを使うみたいな話は出てくるのだが、そこでも僕はなんとなく時代を生きてる感みたいなものを考えてしまった。たとえばものすごい古いレイアウトの、更新が10年前とかで途絶えているブログやHPにアクセスしてしまったときのあの寂寥感はなんなのか。はたまたSNSが爆発的に流行った理由とか、インターネットに対して未だにテレビが強い理由を考えるときにも、こうしたことは考えないではいられないというか、やはりそれらのサービスやメディアが強いのは、この時代を生きてる感を感じられる、そういう時間感覚を持てる媒体として、そういうものたちがあるからなのではないか。『サクラクエスト』を一年遅れで見てしまったことに寂しくなったり、『花咲くいろは』や『ゼロの使い魔』を見直して無性にノスタルジーを感じているその感覚は、そもそもこの時代を生きてる感とのズレから出てくるのではないか。そういうことを考えると、流行とか、時代を生きてる感というのは、思いの外人間にとって重要なのかもしれない、そしてそういう感覚についてもっと言葉にできるようになればいいなと、なんとなく思ったりした。

4,あと適当ななんか

結局抽象的な話になっててあれーという感じなのだが、根がそうなのでしかたないですね、こればかりは…。
最後に本編の魅力を先にあげたの以外で言っておくと、まずBUNBUNさんがキャラ原をやっているのでSAOとかのデザインが刺さる人には最高に刺さる(刺さった)。具体的には真希さんというスレンダーで黒髪ショートカットで耳が美しくてうなじが長くて泣きぼくろのちょっとダウナーなお姉さんがいるんですが、この人が最高にきます。弟になりたい。でも僕はやっぱり木春由乃ちゃんが好き。キャラクターとしては個性ないけど(これは制作側がわざとそうしている)、めっちゃかわいいです。まぁ、『花咲くいろは』の緒花もそうだけど、二クール分その物語に付き合うとなんだかすごく可愛く思えてくるんですね…。ただでさえP.A.はあまり作画が崩れないし…。
あと、丑松会長とドクと千登勢さんの老人トリオの関係性がすごくいい。あーやばいみたいな感じになる。老人になったときこういう関係が残っていたらいいなと思いました。