かんぼつの雑記帳

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コミュニケーションの哲学② ーー敵対と友好

コミュ障の屈託です。なおナンバリングしてますが続き物ではありません。

 

 

前々から疑問に思っていたことがある。たとえば、よくある失恋の代表例として「優しい人どまり」というものがあるが、あの例は僕の疑問にとって非常に示唆的な気がする。なぜ優しいだけではダメなのだろうか。でもとにかく、優しいだけではダメなのだ。なぜかちょっと不良っぽいほうがカッコイイとか、ストレートな物言いをしてくれたほうが深いところまでわかりあえるとか、そういうことがあるらしい。たしかにわからなくはない。僕(ヘテロ男性)からしても、ただ優しいだけの女性にはどこか魅力が欠けるという気はする(優しくしてもらえるだけありがたいのだろうが)。とはいえ、僕自身のことをいえば、やはり好意を持つ相手にアプローチするのに、ズバズバものを言ったりからかったりするなどということはできないだろう。おそらくは慎重に接し、そのせいで「優しい人どまり」になるのがオチである。
しかし別に問題は恋愛に限った話ではない。というより、これは人間関係全般に関わる話である。僕はともかく人をからかったりイジったり煽ったりして仲良くなるというタイプのコミュニケーションをあまりやらないし、やるとしても、それはある程度仲良くなった(と思い込めた)後で初めてできることである。そして気を遣ってつかず離れずの無難なコミュニケーションをしてしまうし、そのせいなのか、なかなか打ち解けて話せるようになるまでは時間がかかったり、結局打ち解けられないというときもある(そしてこういう性分の割に、いったん打ち解けると相当図々しい人間になる)。
逆に周囲を見渡すと、なかにはそういった僕から見ればハイリスクな仕方でがんがん人と関わっていき、あっという間に心の距離を縮めてしまうような人もいる。あるいはその危険さを自覚せず、特定の相手にはたから見ればほとんどイジメみたいな絡み方をしていって、その相手から忌避されるに至ったような人もいた。もちろん人と仲良くなれるコミュニケーションの仕方という観点から考えたとき、前者は良い例といえるかもしれないし、後者は悪い例といわざるをえないかもしれないが、しかし彼らはとにもかくにも僕のようなヌルいやり方はしないし、その意味ではなんらかの強い関係を(仮に忌避というかたちであれ)相手と取り結んでいるように見える。そしてそういう人たちを見るたびに、僕は「あれは少なくとも『優しい人どまり』にはならないタイプだな」などと思ったりしてきた。自分をとりまく周囲のコミュニケーション状況を、僕はだいたいこんなふうに捉えている。
そこで見出されるのは、ある種の二つのコミュニケーション形式である。一つは、相手に気を遣ったり、相手の気持ちを忖度したりして、慎重に振る舞う形式。もう一つは、いい意味でも悪い意味でも気を遣わず、時にはからかったりイジったり煽ったりと、大胆に振る舞う形式(この段階では雑な規定になるが、とまれこういう二つの形式がある、としよう)。
ここでは、これから、ふだん人と人は誰しもがこの二様の形式でコミュニケーションしているという単純な仮定をおこなったうえで、人と人のコミュニケーションや会話の仕組みについて考えてみたいと思う。そしてそのことを通じて、なぜ「優しい人」は「優しい人どまり」なのかということを考えるヒントを得たいと思う。

1,予備的な考察:歓待とその周辺

「歓待」という言葉がある。これはふつうにはもてなしというような意味をもつ言葉だが、これを社会的な行為をあらわす概念として、よく考えていくと、その射程の広さが明らかになる。たとえば今村仁司の『交易する人間』にはこういうくだりがある。

[…]歴史的経験としての≪social≫は、何よりもまずガストフロイントシャフト(もてなし)であった。それは異邦人の歓待(コンヴィヴィアル=共同の食卓への招待)と弱者の扶助であった。そしてこれこそが≪social≫の語義として保存されてきたのである。
しかしなぜ異邦人、未知の客人の歓待が何よりも重視されたのか。それはおそらくは、異邦人の本質的な敵対的性格を想定しているからであろう。つまり歓待の動機は、単なる善意や親切だけに由来するのではないだろう。一般的にいって、異邦人の潜在的敵対性が前提にあり、その敵対を解消するための行為が歓待になる。ホストが異邦人を拒否するときには、敵対が生まれるだろうし、異邦人が歓待を拒否するときにも敵対が生まれるだろう。だからこそ、≪social≫という行為には、敵対を解消するという役割が割り当てられる。

ふつう、どこか別の国からふらっとやってきた、正体不明の他人というのは、何を考えてるかわからないので怖い。なにかこちらに害意を持っていたり、そうでないにしても結果的にこちらにとってなにかよくないことをしようとしているのかもしれないのである。したがって異邦人は異邦人であるというただそれだけの理由で敵対的性格を持つ、というか、異邦人を迎える側からすればそう見える。警戒しないわけにはいくまい。
歓待は、こうした状況にあって、お互いの敵対関係を友好関係に変えるための行為だ、と、今村は主張する。…のだが、ところでこの状況ーー何かと非常によく似ていないだろうか。いうまでもなく、初対面の相手と話すときのそれに似ているのである(というかある意味ではそのままである)。
初対面の相手と話すとき、よほど社交的な性格でない限り、人はなんとなく相手に不安を感じる。相手がどんな趣味や価値観や思惑を持つ、どんな出自の人間なのか、わからない場合が多いし、そんな人間とどんなふうに話せばいいのかわからないからである。しかしとにもかくにも一度関わることになったからには、人は、相手に対して、笑顔で接するなり、親切にするなりして、少なくとも自分には害意や忌避感はない、ということを示すのではないだろうか。これは広義の歓待行為だといえなくもない。すると、こうした初対面におけるコミュニケーションの形式は、潜在的な敵対関係を解除する行為だと考えることができる。
しかし、こうした行為は、一方では、依然としてリスクを負うものでもあるのではないだろうか。たとえばこちらが歓待の意を示しても、向こうがそれを受け取ってくれるかはわからない。はねのけるかもしれないし、こちらの好意に乗じて、なにか無礼な振る舞いをして、こちらの自尊心を傷つけてくるかもしれない。それこそ異邦人との関係ということで極端な話をすれば、歓待を受けるふりをして懐に入り込み、金品などの財産や貴重品を奪ったり、こちらを殺そうとしたりしてくることすらありうる。そしてこれは歓待そのもののもつ危険性というよりは、人と関わることそのものに潜在する危険性である、といえる。
すると、結局のところ、歓待をおこなっても、対人関係のリスクは根底では取り除かれていないことになる。それでも歓待がなされなければならないのは、友好関係を築くには、先んじて歓待を行う必要があるからである。これはたとえば仲直りのことを考えてもらえれば明白である。一度敵対関係に入った関係を友好なものにするには、どちらかが先に折れて、相手の権利を承認する必要がある。向こうに許してもらったり、受け容れてもらえるかわからなくても、そうするよりほかにはないだろう。
その意味で歓待は友好関係を築くための一種倫理的な色合いを帯びた行為だといえる。そしてそれは自分を弱い立場に敢えておく行為でもある。だが、ここで歓待をこのような意味をしか持たない行為として考えてはならない。この行為は、たしかに他者の前に身を晒し、迎え入れる側面をもつが、その一方で、脅迫と示威の側面をもまた兼ねそなえる。
この点において、歓待、謝罪、許すこと、贈与、そして承認といった言葉はほとんど同義語としてあらわれてくる。たとえば誰かを迎え入れるとき、それは同時に「こちらは友好的に接しようとしているのだから、そちらも変なことをするのはやめろ」という脅迫を含む、あるいはたとえその意図がなくともそう受け取られうるし、謝罪や許しは、「こちらはそちらの非道な行為を許し、そのうえで自分の非をも認め謝っているのだから、そちらもこちらを許し謝るべきだ」という要求としてありうる。贈与もまた同様に、何かを与えることで相手に負債感情を負わせ、返礼を要求する、あるいは少なくともそのような意味を持ちうる。さらに、これらの行為はいずれも先んじて迎え、許し、非を認めて譲り、与え、承認する存在としての自分自身を権威づける意味を持ちうる。少なくともそう受け取られかねないことは、日常の場面を思い浮かべてもらえればわかる。誰かと喧嘩して、先んじて謝られたとき、どこか屈辱的な思いをすることは、往往にしてある。
ともあれ、歓待にはこのような両義性があり、それは直接的な暴力ほど力を持ち得ないが、たしかにある種の強制力や支配力を持っているし、権威をもつ。そしてどんな意図をもって人がそれをおこなうにしても、問題は、受け手がその行為をどういう意味に受け取るかにある。ここで出てくるのが、信用の問題である。
信用の有無は、歓待という両義的な行為に直面した受け手が、それをどちらの意味にとるかということを左右する強い要因としてある。あるいはこれは謝罪の場面から考えたほうがわかりやすいかもしれない。もし相手を信用しているならば、それを(相手の意図はどうあれ)素直に謝罪の言葉として受け取ることができるだろう。逆に、もし相手を信用できなかったとするならば、それを示威や脅迫、強制と受け取るだろう。そして、こうした受け取り方を左右する信用は、さらに、相手とのこれまでのコミュニケーションの記憶、行為がなされたときの状況、行為の様子などに、少なからず左右されるものでもある。

まとめよう。
人は初対面の人(広義の異邦人)と出会うとき、そこで潜在的にリスクを負っており、そのことから両者は少なからず、潜在的に、敵対関係を持っている。それを依然としてリスクを背負いながらも解消するのが歓待という行為である。歓待は、

1,先んじて行なわなければならない
2,ある両義性をもつ
3,謝罪、許すこと、贈与、承認と、1,2,の共通点を持つ
4,それが受け手のなかでどのような意味を持つかは事前にはわからない

という性質を持っている。

2,敵対的/友好的

歓待は敵対関係を友好関係に変える。あるいはそれは友好を示すコミュニケーションの形式である。したがってそれを友好的なコミュニケーションと呼ぶことはできるだろう。しかし、ここではコミュニケーションを相互行為の一種として考えたい都合上、そうした相互行為の一片についてはとくにそれを行為と呼ぶことにする。これらのことを踏まえ、友好的な行為のことを友好的行為、それが相互に交わされる場合には、その相互行為全般を友好的コミュニケーションと呼ぶことにしよう。
ところで、僕が日頃おこなっているような、つまり「優しい」「慎重な」話し方は、この友好的行為に分類されうる。それは相手に対して少なくとも自分の方は敵対していないこと、実際そうかはともかくとして好意をさえ抱いていることを示し、相手もまたそう示すように強制する力をもつ行為だからである。
ここまでを踏まえた上で次に問題となるのは、なぜこの友好的行為「だけ」では、あるいは僕がおこなっているような意味での友好的行為では、人と打ち解けることが困難なのか、ということである。そこでまずは、逆に、僕が先ほど「いい意味でも悪い意味でも気を遣わず、時にはからかったりイジったり煽ったりと、大胆に振る舞う形式」として規定した行為について、考えてみることにしたい。
まず、この行為は、具体的には、からかい、煽り、イジり、として示される。そしてこれらの行為を抽象的にまとめると、挑発という性格が浮かび上がる。いずれの行為も、相手の落ち度や欠点を突いたり、怒りのツボをついて、相手の感情的な(とりわけ怒りや羞恥心に駆られた否定や反論などの)反応を誘うものだからである。
このような行為の形式は、先述したように、しばしばリスクを伴う。たとえば僕が先に例に挙げた知人は、決して相手のことを嫌いだったわけではなく、むしろ好意さえ抱いていたはずだが、執拗にイジってしまったがために、相手から忌避されるようになってしまった。ふつう、たとえ相手が本気でいったわけではないとわかっていたとしても、欠点や落ち度をバカにされたら、不快に感じてしまう場合があるのは仕方のないことだ。親しみを込めてからかったりイジったりしたつもりでも、それが敵対関係を呼び込んでしまう可能性はある。
そもそも、ほんらい、挑発行為とは、敵対的な行為以外のなにものでもない。それがなぜ友好的コミュニケーションの手段としてしばしば採用され、しかも友好関係にとってよい効果をもたらすのか、ということが、本エッセイで焦点となる問題であることは間違いない。この逆説的な現象が生み出される仕組みにこそ、注目しなければならないのである。
とまれ、いまあげた基本的な事実、つまりこの行為がリスクをともなう、ということから、それがほんらいならば敵対的な行為である、ということもまた導き出された。そこで、このように、相手と敵対的な関係を作ってしまうようなコミュニケーションのことを敵対的コミュニケーションと呼び、さらにその一片を敵対的行為と名付けることにしたい(なお、厳密には、コミュニケーションや行為は、友好的-敵対的というふうに厳密に分けることはできない。先述したように、そしてこれから詳論するように、コミュニケーションの場において言葉や行為はつねに複数の意味を持ちうるからである。だが、ここではまず便宜的にこれを分割しておいて、議論を進める)。
この敵対的行為は、友好的行為と、対照される性質を持っている。たとえば友好的行為において贈与行為があり、贈与行為が人に何かを与えるという性質をもつとするならば、一方で敵対的行為は、相手から何かを奪ったり、相手やその大切なものを傷つけるという性質を持っている、といえるだろう。戦争、虐待、掠奪、強盗、殺人、といった行為においては、人々は、誰かの何かを確実に奪ったり、毀損したり、傷つけたりしている。イジり、煽り、からかいなどは、大げさにいえば、相手の自尊心を傷つける行為だといえるだろう。
さらに、友好的行為と敵対的行為には重要な共通点がある。それはそれらの行為がいずれも反作用を呼ぶ力を持っているということである。
反作用などといっても、これはべつだん難しい話ではない。ようするに、敵対的行為の場合にはそれに対してやられたらやり返すとか、奪われたものを取り返すという形式をとる応酬が、友好的行為の場合にはそれに対してお礼をするという形式をとる応酬が、それぞれになされるのは、経験的にも納得できることだろう。そしてそこでは、贈り物の内容とか、奪われた金品などの物理的な品が云々されるばかりでなく、感情のやりとりも同時になされる。
このような点でこの二つの行為の形式がいずれも反作用を誘発することは間違いない。しかしそれらの応酬はまたそれぞれに異なる性質を持ってもいる。その性質の差異は、人間が自己中心的な存在であると考えなければ説明できない。
人間は、誰もが自分を深く愛している(自己嫌悪でさえ自己愛を前提しなければ説明できない心理機制である)し、自分こそ世界で一番大切に扱われなければならないと考えているが、その感覚を抑圧しなければ、社会を形成することはできない。そこで誰もがお互いを尊重しようという考えが生まれるが、これは贈与や歓待によってはじめて可能になる。そしてそれは一時的には自らを他者よりも劣位に置く行為だから、かならずその補償として、今度は自分が優位に置かれること、尊重されることを求める。このように、時差のなかで各々が代わる代わる尊重されるのが贈与-返礼の形式であるが、この時差を廃棄し、つねにお互いが同じだけ尊重されている=同じだけ尊重されていないという状態をよしとするのが平等や対称性の思想である。たとえ結果的に(事後的に)平等が実現されているように見えても、贈与-返礼は非対称性をもつ。贈与-返礼を平等原理のコミュニケーション形式だというふうに考えるのは、時差・時間をなきものにしたときにのみ可能になる規定だが、これこそが贈与-返礼の形式と事後的な観点から考えられた観念的な平等を実存的な観点から決定的にわかつものなのだから、それらを同一視してしまうと、贈与の実存的意味が見えなくなるのである。しかしともあれ、このような非対称性が結果的に対称性に到達した(返礼された)ときには、そこでは両者の緊張関係は、とりあえず、不完全ではあるが、解消された、ということになる。一方で敵対的行為の応酬はこの緊張関係を持続させたり強化させたりする。
さて、このようなわけで、友好的コミュニケーションは緊張を(相手への不信のなかに残しつつも)弛緩させることを目的とするし、その結果においては平等が実現される=相互行為の原動力となる過剰がなくなってしまうが、敵対的コミュニケーションはむしろ緊張感を強くしたり、相互行為を激化させる傾向にある。事実、友好的コミュニケーションのかたちをとりながらその実敵対的であるようなポトラッチは、返礼の際の上乗せ=過剰によって、相手のさらなる反作用を誘う。
したがって、もし贈与の示威的な性質などを勘案しないとするならば、贈与-返礼のコミュニケーション形式にくらべて、たとえば略奪-報復などの形式は、緊張度と持続力の強い感情的関係をそなえるものであるし、そこでは贈与-返礼の場合よりも、感情がより剥き出しにされるということはいえる。たとえば、人はからかわれたらムキになってそれを否定しようとしたり、やり返したりしようとするものだろう。またそのようなからかう主体とからかわれた側のその関係性は、相手に対する報いに過剰分が上乗せされ続ける限り、すなわち闘争が終わるまでは(興醒めしない限り)持続させることができる。ひらたくいえば、「からかう→そんなんじゃないと否定する→その否定をさらにからかいで否定する」というパターンの連続で、会話を続けることができる。しかし逆に感謝をお互いにしあうコミュニケーションは、何度もやれるものではない。どこか空々しくなってきて、続かない。
また、このような敵対的行為のなかでも、からかいは、特殊な作用をも持っている。ふつう、人が誰かをからかうときは、その相手の揚げ足をとったり、欠点を突いたりするときに、揚げ足とりの原因となった言動や欠点を誇張し、カリカチュアライズすることが肝要である。すると、それは単純に滑稽の効果をも生むことができる。そのようにして描いた戯画がよっぽど相手にとって侮辱的でない限りは、それは苦笑交じりの笑いを誘うことができる。
以上のことから、滑稽さおよび強い反応を誘発し敵対=闘争関係を作り出す効果が、敵対的行為とりわけからかいなどにはあることがわかる。

3,からかいにおけるレベル分割と犠牲の不完全なシステム

次に、からかいが他の敵対的行為、つまり戦争などとどう違うのかを考えたい。
まず、戦争においては、人々は生死をかけて真剣に戦っている。ところがからかいにおいてはそうではない。からかいにおいては、人は確かに相手に攻撃をするのだけれども、ふざけて攻撃をしているのであり、本気ではない。その意味でからかいはトランプなどのゲームやちゃんばらごっこに似ている。
したがってそれは遊戯としての敵対的コミュニケーションであり、それが見かけ上敵対的であるとしても、本当のところは「僕はあなたに親しみを感じている」ということを示している。つまり、戦争は真面目かつ敵対的であるが、からかいは不真面目かつ敵対的なであるという違いがある。この性質から、からかいは受け手において少なくとも矛盾する二つの意味を持つ可能性がある。
しかし、上述のように、それがあきらかに冗談であるとしても、それを何度も繰り返されれば、人はイラついてくる。そして、両者が十分に信頼関係を結んでいなかった場合、行為者のパフォーマンスが拙い場合(たとえば言葉が強すぎたり表情や身振りなどで十分にふざけているとわからせることができない場合)、受け手が「冗談が通じない」タイプの人間だった場合、などは、行為者の意図は失敗することになる。行為者の意図が成功するためには、行為者が少なくとも意識上ではメタレベルとして設定したであろう「本当の」意味(僕はいまふざけていて、君をバカにしているが、ほんとうは君に親しみを感じているのであり、君は僕が君を攻撃しているフリをしてふざけているのにたいして、反撃するフリをしてふざけてほしい)を読み解く場所に、受け手も来てくれるのでなければならない。
ここから、からかいにおいては、ある種のメタレベルとオブジェクトレベルの不完全な分割がなされていることがわかる。つまり、彼らがからかったりからかわれたりしているときに攻撃されているのは、実はからかわれているその人そのものではない。そのときからかわれているのは、からかわれた人の戯画(カリカチュア)であり、いわばからかわれた人をパロディしたキャラクターなのである。この架空の戯画、架空のキャラクターを攻撃することで、からかう側は、からかわれる側への直接攻撃を避ける。そしてからかわれる側も、このことによって、ほんとうに傷つき、侮辱されることを回避することができる。
したがって、からかいは、本質的に三者構造で成り立つ。それはたとえば、社会学やコミュニケーション論においてスケープゴート、哲学や現代思想で犠牲というキーワードから論じられるシステムと似ている。これらの理論をひらたくいえば、それはこういうことだ。人は共同体を作るとき、その外部に忌避すべきものを置き、それを排除し、忌み嫌い、この排除や嫌忌を媒介することで紐帯する。その意味でそれは外部にあるように見えて、共同体存続のシステムのなかに組み込まれている。このような外部にあると考えられているものこそは、犠牲であり、スケープゴートである。これは卑近な例でいえば、女子グループ内で交わされる陰口の対象や、ホモソーシャルな男性共同体における同性愛嫌悪やミソジニー(女性嫌悪)が標的とするゲイと女性である。
からかいは、このような犠牲となる戯画を作り出して、それを攻撃する。しかし、この二つのシステムの決定的な違いは、犠牲のシステムにおいては、内部と外部がほとんど完全に分割されている(とはいえこれも実は不完全である)のに対して、からかいのシステムにおいては、内部(からかう人とからかわれる人)と外部(からかわれる人の戯画)が十分に分割されていないという点にある。からかいのコミュニケーションにおいては、人々は同じ相手を攻撃するわけではなく、パロディ元となったからかわれる側は、その攻撃に対して異議申し立てをする。からかいはからかわれる側を内部と外部に二重所属させながら、内部性を強調するコミュニケーションの形式であり、いいかえればどちらかといえば友好的(内部的)な、しかし敵対的(外部的)でもあるような、コミュニケーションの形式である。だからそこにはリスクが伴う。戯画は、決して矩をこえた滑稽さや醜さを持ってはならず、本人と完全に一致してはならない。このような重層的な相互作用を通して、人々はからかいのコミュニケーションを成立させているのである(もちろん実際のところは、どのようなコミュニケーションの当事者たちもこの二重所属性を持つ。そしてこのような二重所属性ないしは分割不可能性こそが、コミュニケーションのリスク一般を、そしてその裏面としての友好可能性一般をも規定しているのだといえる)。

4,信用の逆説・ストーカーとストローク

最後に、からかいのコミュニケーション形式がなぜ人と人を打ち解けさせる機能を持つのかについて考える。
僕の考えによれば、からかいがこのような功を奏する理由は二つある。一つ目は、それが信用に関わるからである。これについては以前ツンデレ論で書いた文章を引用しよう。

[…]いわゆるイキリオタクと呼ばれる人種は、自分がイキっていることを自覚していないがゆえに、笑いの対象になる。ところでイキるというのは、一種の示威行動であり、また痛々しいものでもあるから、好ましいおこないではない。したがって、彼らのイキりは(偽装の試みであるとはいえ、同時に)好ましくない素朴さなのだ。だがこうした人種に対して、僕たちは懐疑を持つだろうか。すなわち、彼らは敢えてイキったふりをしているだけで、本当は僕たちに笑いを提供してくれていて、そうして笑っている僕たちを尻目に密かにほくそ笑んでいるのではないか、などという疑いを持つものであろうか。むろん、そのような疑いを持つことは稀だろう。なぜなら、人間はふつう、そんなことのために自分を悪く見せようなどとは考えないからである。
 だが、逆に、いつもニコニコしていて、善良で、優しい人間に対しては、僕たちは疑いを持ってしまうものではないだろうか。なぜなら、人間はふつう、自分を良く見せたり、好かれようとするものであり、そのためならば、たとえそうすることが苦痛であり、本意に反することであっても、自分を偽装することが往々にしてあるからである(人間にとって本意とはなにかということを考えだすと、それはそれで難しい話なのだが)。むろん、このような疑いを持たない場合には、突然そのことを突きつけられることもある。これがギャップ萎えであるが、それは要するに裏切られたという感情なのであり、裏切りとは、信頼の無根拠性=偽装の偏在的かつ潜在的な可能性の提示である(「奴は本心では何を思っているかわかったもんじゃない」)。したがって、それは素朴さというよりも、むしろ偽装可能性の露出なのだ。
 ともあれそのようなわけで、僕たちは、誰かのおこないが好ましくないときには、それを疑わず、誰かのおこないが好ましいときには、それを疑ってしまうという、哀れな性質をもっている。そして仮に好ましくない素朴さがまったく予期しないかたちで露呈したとしても、その素朴さは偽装可能性として、いわば素朴とは正反対のものとしてもたらされてしまう。しかし、露出した好ましさというのは偽装の及ぶところではないから、僕たちはこのような状態(ギャップ)によって、始めてその好ましさを信じうるのであり、これを素朴と呼ぶのだ。

「いつもニコニコしていて、善良で、優しい人」とは、本エッセイの言葉でいいかえれば、コミュニケーション戦略として限りなく敵対的でないような友好的行為をとる人のことである。そしてそうした人が疑わしいのは、「人間はふつう、自分を良く見せたり、好かれようとするものであり、そのためならば、たとえそうすることが苦痛であり、本意に反することであっても、自分を偽装することが往々にしてあ」り、また人は誰しも自分本位で、その限りにおいて他人への攻撃性を持っていることを、我々が知っているからである。そしてこのような攻撃性をひた隠しにしている人間は、端的にいって信用できない。ときに人は優しい嘘よりも過酷な真実を好むが、それはひとつには、そのことがこのような信用の問題に関わるからである。
その点、からかいはある意味で露悪的であり、受け手への攻撃性を露わにするので、過酷ではあるが真実味を帯びている。一方でそれに返す側も、冗談半分ではありながらも、自分の素の感情を剥き出しにしている。だからこそ逆に、あまりにお互いがそれを冗談として弁えすぎ、ただ敵対的な装いをしているにすぎないということを露骨に出しているようなからかいのコミュニケーションは、どこか白々しく、無意味に思える。その点で、逆説的なことに、コミュニケーションにおいてはときに敵対関係が信頼関係を作るのである。
その意味で、からかいは、信用を回復したり確認したりするための手段としてある。
二つ目の理由は、先述したように、敵対的コミュニケーションが、友好的コミュニケーションよりも強度と持続力のあるコミュニケーションだからである。それはまず単純に会話を潤す。僕はコミュニケーションの哲学①で、かんたんにいえば会話は適度に充実していてしかも持続していなければならないといったが、敵対的コミュニケーションはこの条件について友好的コミュニケーションよりも優れているのである。
そしてこの強度については、TA(交流分析)の理論から根拠づけすることができる。TAにはストロークという概念があり、これはたとえばストーカーの心理を説明する。
TAにおける人間観は、身もふたもない言い方をすれば、人はコミュニケーションを欲するという人間観である。よく愛の反対は憎悪ではなく無関心だ、ということがいわれるが、その意味では、TA的人間にとって一番つらいのは誰も自分に構ってくれない、無関心状態である。この人は、無関心でいられるよりは、罵られようと、貶されようと、まだそっちのほうがマシだというふうに考える。ストロークは、このような罵られ、貶しや、感謝、愛情表現なども含めた、人が人に関わるときの行為全般を指す概念である。この点から考えれば、ストーカーが嫌われても疎んじられても相手に付きまとうのは、不思議ではない。ストーカーが相手に付きまとうのは、まさにそれゆえ、つまり、嫌悪であれ忌避であれ、そこに相手との感情的関係を持つことができるからである。この点から敵対的コミュニケーションを考えたときには、それは、たとえ不快な感情であれ、強烈な感情の関係を持つことができるという利点を持っている、といえる。ここに敵対的コミュニケーションの功がある。
しかし、最後に僕なりの考えを述べておけば、人間はコミュニケーションが好きだという人間観のみで人のコミュニケーションの仕組みを語ることはできない。人は人を恋しがるが、同時に孤独をも好むからである。そしてむしろ僕の実感に近いのは、人と関わることは疲れるし、外傷的である、という考え方である。だから、僕が友好的コミュニケーションに徹してきたのは、そうした外傷的な関係を避けるためだったといってもいいだろう。しかし人と打ち解けるためには、自分から相手への、あるいは相手から自分への敵対感情や攻撃性をうまく使わなければならない。社会は友愛によっても結ばれているかもしれないし、そういう考え方はヒューマニストを喜ばせるが、敵対感情もまた社会を作る。それはたんに競争関係や闘争関係を作るというだけではなく、友好関係のスパイスとして、友愛を支えるのである。ここに暴力の積極的意味があるのではないかと、僕は考える。

5,課題

このコミュニケーション論は、対人コミュニケーションに感じている躓きという実存的な問題意識と、物語論における面白さについての問題意識、そして日常4コマやSS、Twitterで投稿されるショート漫画で見られるような、キャラクターたちの絡みに感じる快楽を分析したいという問題意識から考えられている。
しかし、これら全ての問題意識に対して、この理論は十分に応えていない。まず今回の議論は、対人コミュニケーションのなかでも生の会話を経験的データとして考えられたものだが、これはもちろんコミュニケーションの一形式にすぎない。たとえば手紙、SNS、メール、LINE、掲示板などでのやりとりは、こんなふうにリアルタイムで感情を交わし合うわけではないから、もっと別の理論を考える必要がある。ようするに僕はパロールについては考えたがエクリチュールについてはろくに考えていない。しかし、そのヒントはコミュニケーションの哲学①にあるのではないかと思う。
ここで僕が考えた会話モデルは、完全に僕のコミュニケーションの特性を反映しているもので、この特性を持ったコミュニケーションにおいては、お互いの感情のやりとりをあまり介さずに、会話を持続させることができる。この特性とは何か。まず、僕はもともと理論的な話に快楽を覚えるタイプであり、そこからこの議論型接続というモデルを考えている。そしてこのモデルの一番の利点は、相手との感情のやりとりがなくても、理論は理論の必然性に沿って語り続けることができるというところにある。もちろん、人はふだんそこまで論理的に喋れるわけではないが、ともあれなにか目的に向かって理屈らしいことをしゃべっている間は、会話は続く。これはエクリチュールの会話の形式に適合的だという気はする。
次にキャラクターの絡みに感じる快楽を、この理論は十分に説明できない。なぜなら、キャラクターと読者の関係は向かい合った人と人との関係とは違うし、キャラクターは人とは違うからである。たとえば、僕は修羅場スキーなので、ラブコメでほかのヒロインと主人公の関係に対してやきもちを焼いているヒロインを見てると思わずにやにやしてしまうし、それを本気にせずに楽しむことができるが、たいがいこういうとき、ヒロインは真剣に怒っている。だからからかいのコミュニケーション形式に見られるようなレベル分割が、ここではもっと違う形で起こっているといえる。これについては現段階でも仮説はあるが、あまりに煮詰まっていないので、詳細は省く。
ほかにも色々不満点はあるが、それについては今後の課題としたい。とまれ、贈与論の研究の成果をひとまずまとめたということにして、ここでの議論は終わりにする。