かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

コミュニケーションの哲学①――議論と雑談

コミュ障の屈託です。なおナンバリングしてますが続き物ではありません。
 
 
以前、僕は会話の持続について文章を書き、noteで公開したことがある。本記事は、ようするに、その過去の文章を一部直して転載したものである。この転載を行った理由は、別にもう一つ新しい会話についてのエッセイを書くにあたって、同じような仕事をこちらのブログにもまとめておこうと思いたったからだ。ともあれ、ここでは、その記事について、今の自分の頭で論旨を整理する意味も込めて、要約を書いておく。
まず、僕はその記事で、議論型の接続(必然型の接続ないしは論理型の接続)と雑談型の接続(偶然型の接続と非論理型の接続)という言葉を使って会話のメカニズムの一部を切り出そうとした。したがってこれからその二つの言葉について説明したい。
人と人は話すときにある共通の話題やテーマを設定することがあるが、これは議論の場ではある明確な目的に関係することが多い。たとえば、会社で、予算をどういうふうに使うべきかということを話し合うときには、予算の使い道を決めるという特定の目的がある。さて、これを話し合う場で、もし誰かが急に自分の趣味の話を始めたり、人生論を語り始めたり、政談をし始めたらどうだろうか。ふつう、人はそれをTPOに反したおこないとして迷惑がるだろう。議論においては、そこで設定された目的(上の例では予算の使い道を決めるという目的)に沿って話をすることが肝要であり、僕は、このような目的に沿って相手に話をしたり、それに返答することを、議論型の接続と呼んだ。
議論型の接続は、合目的的に(目的に沿って)話を進めるタイプの話し方だから、そこにはしっかりとした意味がある。その点で、それは無駄なおしゃべりの仕方とは異なることがわかる。しかしそれは目的を達成するためのコミュニケーションの仕方だし、少なくともそう装われるから、目的を達成した段階で、会話は終了してしまう。したがって議論型の接続は(なにか難解な話でもしているのでない限り)終わりに向かっていくし、いつか終わる。
もちろん会議などの場ではそれでいいかもしれないし、いつまでも終わらない会議ほど苦痛なものはない。しかしたとえば友人などと話している場合は、話の内容がどうとかいう以前にともに楽しい時間を過ごすことが目的なのだから、会話が終わって気まずい沈黙が流れるのは避けたいところである(もちろん関係性によってはお互い沈黙していてもいいような場合もあるだろうが)。したがって、雑談の場では議論型の接続だけではない、なにか別の話し方が必要になる。
そこで僕が考えたのが雑談型の接続というものなのだが、これには先ほど例に挙げたTPOを弁えない唐突な話題を挟む、などがその一例として数えられる。この話し方は、文脈を無視したり、本題(今の話題)をそれて脇道に入り、連想から思いつきのことを話したり、新しい話題をぽんと持ってきたりする話し方で、合目的的ではない。しかし、この話し方は会話が終わりに向かうことを、会話の力点をずらすことで阻止したり、新しく会話を始めたりできるという長所を持っている。しかし逆にそれをやり過ぎると会話が成立しなくなってしまうし、自分たちのおしゃべりの無意味さに興が醒めたりするかもしれない
いずれにせよ、人と話すときは、こういった二つのタイプの話し方を塩梅しながら使う、ということが、会話を続ける上では重要になるだろう。とまれ、これがこの記事の、大まかな内容である(ちなみに、ここで名前をなぜか伏せた思想家は柄谷行人野矢茂樹ゲオルク・ジンメルです)。
 
☆(以下転載記事)


エッセイです。

こう、とりあえず書きあげてから、めんどくさいコミュ障が延々と独り言をつぶやいているみたいだな、と思い、その通りだったことに気が付いて愕然としました。自分のまとめ用に書き始めたものなので、結論めいたものは出ません。過程を楽しんでいただければさいわいです。
なおつらつら書いただけなのでとくに決まったトピックはなかったのですが、

・議論のあるべき姿ってなんだ
・雑談ってなんなんだ
・僕はなんでコミュ障なんだ

こんな感じのことを書いております。

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先日、僕のTwitterのタイムラインに、こんなツイートが回ってきた。

https://twitter.com/sakaki7539518/status/830193879336919040/photo/1

ここで取り沙汰されている上野千鶴子の文章はTwitter上でかなりの人々に言及されており、賛否両論あるが、どちらかといえば旗色が悪い印象をうける。その内容は、人口問題からアプローチして、今後の日本の在り方を考えるという主旨のもので、おおまかにいえば、①現状分析(前提)、②分析した現状を踏まえた提言(主張)という二つの部分に分けられる。まず①から説明すると、上野によれば、このまま人口が減り続ければ日本は衰退するが、これを解決するには二つの方法がある。一つは自然増(出産と子育て)であり、一つは社会増(移民受け容れ)である。だが、両方ともが現実的でないため、日本は衰退を選ぶしかない。あとは「どのように衰退するか」が問題であるという。

そこで議論は②に移行する。その提言というのが「平等に貧しくなればいい」というものだ。具体的には所得の再分配機能を強化するということである。だが問題は、こうした社会民主的な政策を実行に移すことのできる政党が日本には存在しないということだ。したがって、希望はNPOなどの民間団体に託される(ここらへんの因果関係はよくわからないし、記事内では因果関係を明言しているようにも見えないので、誰か詳しい方がいたら訂正お願いします)。

この意見について、まず僕の感想を述べておく。①現状分析についてだが、まず自然増(出産と子育て)は無理だと思う。出生率を改善していく試みはいろんなところでなされているようだが、さまざまな側面での障害があり、これを解きほぐしていくのは容易でなく、時間がかかる。逆に言えば、こちらは今すぐにでも取り組み始めるべき長期的な課題なのかもしれない。社会増(移民受け容れ)についてはわからない。個人的なことをいえば、僕は移民がたくさん日本に入ってくることに忌避感を覚えるが、ばあいによっては我慢できるかもしれない(もちろんこれは心情レベルの話であり、義務としては、そしてできることならば気持ちの上でも、受け容れたいし、受け容れたいと思えるようになりたい、とは思う)。「ばあいによっては」というのは、雇用の機会を奪われた(と感じた)ときや、公共マナーに関する価値観の違いによって不愉快な気持ちにさせられたときなど、実際の利害衝突の場面に出くわしたとき、僕が彼らをどう思うかわからないということだ。そうでなくとも抽象的なレベルでなんとなく移民が怖くてムカつくという連中は多いだろう。こういう感情はバカにできない。このことをふまえ、さらにアメリカやイギリスの前例をふまえると、なにかしらの対策を講じなければ、日本も似たようなことになると考えるべきだと思う。そして僕はその対策を考案することができない。

つぎに、②提言についてだが、これは何一つわからない。僕が意見ではなく感想を述べるといったのはこういうわけだ。意見を述べるにしても、僕は知識や考えがあまりになさすぎる。

ではなぜこういう話題を取り扱う気になったのかというと、それはこの件を通じて議論の仕組みというものに個人的な興味をもったからだ。

端的にいえば、今回の炎上(?)でみられた様々な反応のうちほとんどは、議論や、批判の名に値しない。ことわっておくが、僕はべつだんそれを非難しているわけではない。SNSでのコメントにまともな議論や批判を求めてもしかたないからだ(とはいえそういうコメントのひとつひとつが集団の意見を醸成していくのかもしれないから、軽んじるべきではないのかもしれないが、この問題は今回は脇に置く)。むしろ僕が興味を持ったのは、ある意見が示されたとき、どうして人はそこにとんちんかんな答えを返してしまうことがあるのか、ということである。したがって、ここではこのことについて考えてみたいと思う。

その前に、とりあえず僕がチェックした範囲で見られた反応をいくつかのパターンにわけて示す。具体的なツイートが読みたいというばあいは、togetterで確認してほしい(この文章を読んでいる時期によっては、twitterで「上野千鶴子」と検索するのもいいだろう)。

さて、僕がみたところでは、これらの反応にはおおまかにわけて5つのパターンがある。

1,上野本人の属性に言及したり、議論の批判にかこつけてレッテル貼りや攻撃をおこなうパターン(老人は~、元大学教員は~、団塊世代は~、左翼は~、多文化共生を否定する排外主義者、現状追認の敗北主義者、社会学者は役に立たない)。

2,①前提の「移民受け容れはできない」を批判するパターン(「移民受け容れはできる」ので、そこから考え直すべき)

3,②主張の「平等に貧しく」を批判するパターン(「平等に貧しく」はなれない、「平等に貧しく」には問題がある、まだ経済成長はできる)

4,おおむね賛同

5,その他(上野千鶴子がこうなった傾向を分析する、彼女のような立場(権威あるフェミニスト、左翼etc...)の人がこのような発言したことの影響を心配する、など)

もっと細かく分けることもできるのだろうが、今回はやめておく。僕がとりわけ取り上げたいのは、1,(レッテル貼りと攻撃)である。なぜなら、ほかの2,~4,とくらべたとき、これと5,(その他)だけが彼女の文章で提起された問題に直接応じていないからである。もっとも、5,は最初から応答をする気がないのだと思うが、それに対して、1,のパターンには上野の意見に対して反対の立場を表明しようとする意志がうかがえる。だが、ほかのパターンとくらべてもわかるように、1,だけは上野の議論の内容に即した反対意見になっていない。僕はさきほど「議論や、批判の名に値しない」といったが、これはこの1,のパターンを指す。

問題なのは、1,のパターンだけが、上野の意見に応じようとして「失敗」していることである。これは、僕にはあきらかに「間違っている」ように見える。この「間違っている」というのは、倫理的な意味(こんなことをやってはいけない)ではなく、「コミュニケーションになっていない」ということだ。だが、そもそも僕のこの「間違っている」「失敗」という感覚は、いったいどこからくるのだろうか。1,のパターンの人々は、ただ上野をけなしたかっただけかもしれない。だとすれば彼らの目的は達せられているのだから「間違って」はいないことになる。

おそらく、僕がこのような判断を下しているその基準というのは、それが「本題」に即した応答なのかどうかという基準なのだ。いいかえれば、僕は、もし上野の意見に対して立場を表明したいと思うならば、上野本人ではなく、上野の意見について言及すべきだと考えているのである。

実際、こうした攻撃は建設的ではない。上野を攻撃したところで日本の現状が変わるわけではないからだ。そもそも彼女がポジション・トークをしていようがいまいが、それはどうでもいいことである。しかしこのばあいの「どうでもいい」という判断は、「日本の今後の在り方を考えるのが本題ならば」という条件を前提としている。彼女の言うことにムカついた人間には、どうでもいいことでは済まされない。

したがって、ここで僕とそうした層とのあいだに、すれ違いが生じているのかもしれない。僕にとって、上野の意見に対する応答は「日本は今後どうあればいいか」という議題に沿っておこなわれなければならない。一方、彼らにとっては、上野への応答は上野を非難するものでなければならない。

だが、僕は僕と彼らのあいだでなにがすれ違っており、なにがすれ違っていないのかを、もっと細かい語り方で語れると思う。それをこれから語ることにするが、そのためにも、ここでまずはっきり言っておきたいことがある。それは、今回にかぎっていえば、僕は彼らより、僕の立場の方が正しいと考えている、ということだ。その正当性は、上野に対する僕と彼らの応答の、その前提となっている欲望について考えたとき、あきらかである。いいかえれば、僕たちがなにを欲望し、その欲望の実現のためにどうすればいいか、ということを考えたとき、僕は僕のやりかたのほうがすぐれていると思う。

僕は、日本の現状がどうであるかにかかわらず、それなりに幸せに生きたいと考えている。むろん「幸せ」ということについては哲学的に考えねばならないが、それは脇に置く。ともあれ、その欲望の実現のためには、僕だけが幸せになるわけにはいかない。べつに、博愛精神や、隣人愛だけから言っているのではない。僕が社会に生きている以上、社会がうまく機能しなければ、僕の生活も成り立たないから言っているのである。だからといって、成り立たなくなった社会(祖国)を捨てて外国に逃げるという発想も、僕はしたくない(やむをえなくなったらそうするかもしれないし、そうせざるをえない人(移民や難民)を非難しているわけではない)。僕は祖国愛を否定しないが、これもナショナリズムとは違う。広い視野と長い目で見たとき、そんなことをやっていたら世界中が荒廃するからだ。どこにも生活をいとなむ場所がなくなったらいやだし、僕は未来の世代にそんな世界を押し付けたくない。これは自然な人情である。

したがって、僕は単純な祖国愛から、そして論理的な理由から、日本にはまともな生活を営めるような国であってほしいと考える。個人的には今より多少質が落ちても構わないが、それはまた人によるだろう。ともあれ、日本の今後の在り方については、僕にとって他人事ではない。だからといって、特別に何をしているわけでもないが、こういう問題提起がなされたときぐらいはちゃんと考えたいと思っている。

そして、おそらくはこうした文脈を多少なりとも共有しているという意味で、僕は上野とも、1,のパターンの反応を示した人々とも、コミュニケーションができる見込みが高い、と考える。それはいったいどういうことなのか。

そのまえに、ここで僕のいうコミュニケーションの概念について、少し説明をしておきたい。これは実は、ある哲学者が語ったコミュニケーション論に依拠している。

彼は、「最初、コミュニケーションは命がけの飛躍だが、ひとたびそれが成立するとその起源(飛び越なければいけない深淵がある)が忘れ去られてしまう」というようなことをいっている。そしてそのような事態を、売る-買うという関係性によって説明する。

たとえば、貨幣のない環境で、ある二人(A,B)の人間が出会うとする。Aには欲しいものがあるが、それを自力で得る手段がない。しかし、偶然にもBがそれを持っているとする。そこで、AはBに物々交換を持ち掛けようとするが、Aは自身が示すものにBが価値を見い出してくれ、「それ」と交換してくれるかわからない。このときAは「売り手」の立ち場にたち、「命がけの飛躍」を強いられている。

しかし、いったん彼らのあいだで交換が成立し、そこにいっぱい人がやってきて、やがて集団で生活を営むようになるとする。すると、そこではまもなく交換を効率化するために、「貨幣」が生まれるかもしれない。そうすることで、それぞれの物は貨幣と代えられるようになり、そこには数量化された価値体系が生まれる。しかし、こうした起源を忘れてしまうと、物にあらかじめ価値自体といったようなものが宿っていると錯覚してしまう。いいかれば、物の価値をはかる、唯一の基準があるかのように思い込んでしまう。

だが、最初のやりとりをみればわかるように、ほんらいそんなものはなく、交換(売買)行為とは「命がけの飛躍」である。共同体も貨幣もない環境にいた二人のあいだには、共通の価値基準がないからだ。それは、物々交換が成立したあとに見出されたにすぎない。物aと物bの価値は等しい(したがって交換できる)という基準など、交換の成立以前にはない。さらにいえば、そのような基準はつねに無根拠(不安定)なのである。だから、AはBに交換をもちかけるとき、「自分が差し出す品に価値を見いだしてくれるだろうか(=交換が成立するだろうか)」と、不安になるはずなのだ。しかし実践してみるよりほかに「それ」を手に入れる方法はない。そのような実践はつねに暗中模索=「命がけの飛躍」である。

これを売買のコミュニケーションではなく、言葉のコミュニケーションに置き換えてみたい。いまここで話題になっている上野の意見は、上野が「売った」(呼びかけた)ものである。そしてこれを読んだ人々は、それを「買う」(応答する)ことができる(もちろん、聞くのと、読むのとではまた変わってくる。だがここではひとまずその違いを捨象したいと思う)。

ところで、このような上野の意見を「買う」人間とは、いったいどのような人間なのか。それは、「日本は今後どうあればいいか」という問題意識をもっている人間である、と考えることができるだろう。そしてそのような人々の応答にふたたび上野が返答をよこせば、その都度コミュニケーションは成立する。だが、ほんとうにそうだろうか。

彼女の意見を「買う」人間が、「日本は今後どうあればいいか」という問題意識をもっている人間「だけ」だという考えは疑うべきである。なぜならば、5,(その他)のパターンのように反応する者や、「反論したいから」という理由で反応するものがいるかもしれないからだ。そして、最大の問題は、上野がそもそも「日本は今後どうあればいいか」という問題意識をもってこのようなことを書いたという保証が、どこにもないことだ。これは、上野がそう証言しても変わらない。彼女が放った呼びかけ(意見)の「意味」は、買い手が勝手に決めるものだからだ(もちろん、その決めつけに彼女が訂正をくわえたり、賛成するかたちで応答しなおす、ということは考えられる)。さらにいえば、上野自身にもそのような「意味」はわからない。根本的には、買い手にも売り手にも「意味」などわかりようがない。

さきほど、僕が「コミュニケーションができる見込みが高い」というあいまいな表現を使ったのは、こういうわけがあるからだ。僕たちは上野の意見を勝手な読み方で読めばいいし、勝手に反応すればいい。そしてそのどれもが無根拠である。だが(したがって)、僕はこうしてなされた取引の痕跡に、ある欲望を読みとりたいと思う。1,のパターンの反応をしめしたものたちは、おそらく上野の意見を「日本はもうだめだが、私には関係ない」という「意味」に読み取り、ムカついたのである。したがって、彼らのムカつきには「日本をどうにかしたい」という欲望が前提されている、と推測することは、理にかなったことだ。ところで、僕もおそらくそのような欲望を持っている。だから、彼らと僕のあいだにはコミュニケーションが接続される可能性がある。

こうした欲望を実現する方法を考えるとき、上野の意見に対し、どのような反応をすべきなのだろうか。あるいは、上野の呼びかけ行為の「意味」を、どのように読むべきなのだろうか。僕は、やはりこれを「老人」や「団塊の世代」や「元大学教員」の無責任な放言などではなく、一つの意見として読むべきであり、理想としてはその①前提と②主張に対し、問題点を指摘するなり、わからないところは問いかけるなりしてみるべきだと考える。

ひるがえって、もしこれを単なる戯言や放言の類だと考えて怒るだけに終わるならば、いつまでたっても現状は変わらない。その現状は、彼女の分析を真に受けるならば悪化する方向に舵をきっている。これを否認し、なかったことにしても、現実は現実としてある。ばあいによっては、「平等に貧しく」なるどころではなくなるかもしれない。

論点をまとめたい。僕と1,のパターンの反応をおこなったものは、まず文脈(欲望)を共有している可能性が高いように思える。したがって、それぞれの反応の仕方の優劣を、その欲望の実現という観点(基準)から比べて考えることができる。感情的な反応をしては建設的な議論にはならず、建設的な議論ができなければ、事態は悪化する。これは僕らの欲望という観点から考えた時、好ましくない。よって、僕のやりかたのほうがすぐれている。

ちなみに、ここにはいくつかべつの問題がある。たとえば、議論が、その結果としてかえって悪化を呼び込むことがあるばあいを考えなければならない。つまり、建設的であるはずの議論が、感情的に反応したときには起こらなかったような、より最悪の事態を招くことになるかもしれないのである。パンドラの箱を開ける前には、その箱に何が入っているのかわからない。これは本質的に偶然性の問題であるが今は措く。ともあれここで示したかったのは、両者のスタンスの相対性である。僕は相対主義者ではないが、これは単純な倫理の問題として示しておく必要があると感じた。

次に、ここでとりだしたことを、さらに追って考えてみたい。

僕はさきほど彼らのコミュニケーションを「感情的だ」といった。いいかえればこれは「非論理的」であることを意味する。

たとえば、ある人はこういっている。

「「もう少し論理的に話せよ」と言うかわりに「思いつきで喋るんじゃない」なんて言い方をすることもできそうですが、これ、なかなかおもしろいです。ちょっと道草くってもいいでしょうか。なんで、「思いつきで喋る」ことがすなわち「非論理的に話す」ことになるのか。(中略)

 たとえば、「映画見に行こうよ」と誘っておいて、相手が「何か見たいのある?」と聞き返してきたときに、「映画」で連想したのか、最近見なくなった女優の話なんかはじめる。相手もつきあって「前は人気あったけどねー」とか言うと、「そうそう、それでさ」とか言って、落ち目になったお笑い芸人の話になって、そういえば、うちのクラスにおもしろいやつがいてさ、このまえなんか、と話はどんどん変わっていき、いつのまにか豚の角煮の話になって、角煮の入った中華まんじゅうに話は移ろうかいうところ、「で、今日どうするのよ?」と相手がしびれをきらす。で、返ってきた答えが、「マジ天気いいし、海、行こっか」。思わず、こういう男とはつきあうんじゃないっと言いたくなりますが、まあ、これなんかは「思いつきで喋ってる」と言える例になってるのだと思います。楽しそうですけどね。

 それに対して、「何か見たいのある?」と聞かれて、「***とかおもしろそうじゃん」と、ちゃんと映画の題名を答えるなら、「思いつきで喋ってる」とは言われません。(中略)

 つまり、「思いつきで喋る」というのは、ある意味でたいていの場合が思いつきで喋ってるのですけれど、その中でもとくにそれまでの発言(自分のであれ、ひとのであれ)を無視して、その場で思いついたことを勝手気ままに喋るということのようです。そしてその点が、「非論理的」と言われることにもなるわけです。

 逆に、「論理的」というのは、それまでの発言ときっちり関係づけて次の発言をすることだといえるでしょう」

 

 

もし、僕と上野と彼らが文脈を共有しているならば、その文脈にそった「話題」に対し、「きっちりと関係づけて」応答するのが「論理的」であるということだ。逆に、「話題」から、上野個人への攻撃へと応答の方向がズレるとき、それは「非論理的」である。

いいかえれば、僕は上野とその目的(「今後の日本はどうあるべきかを考える」)にかなった応答の仕方をするべきだと考えている。だが、このような考え方が、必ずしもすべてのコミュニケーションにおいて「正解」になるわけではない。

ためしに、ここにあがっている会話の例の「話題」を考えてみればよい。彼らの会話の目的は、「なんの映画を見に行くか」である、と考えられる。しかしこれはおそらく間違っている。彼らの目的は、むしろ話すことそのものにある。付き合いたてのカップルについてよく言うように、彼らは「どこでなにをしていても楽しい」のである。

ここでかりに彼らが目的にかなった会話をしてみるとしよう。おそらく、その会話はすぐに途絶えてしまう。合目的的な会話は目的が達成されれば交わされる必要がない。合理的に話せば話すほど、会話は終わりやすくなる。それでは話し続けることができない。

このようなことを踏まえて、ためしに僕のような会話のつなげかたを、「議論型の接続」と名付け、1,のパターンの人々や、上記のカップルの会話のつなげかたのことを、「雑談型の接続」と名付けてみよう。

雑談型の接続は、おそらくつねに(相手の提示する)目的を間違えたり、倒錯することで生じる接続の型である。そしてそれは、無意識におこなわれることが多い。1,のパターンの人々は、上野と共有している(はずの)話題=目的から逸れて、彼女個人の攻撃を目的としてしまう。しかし、彼らはそれを意識していない。いっぽう、カップルの会話は最初から会話そのものに目的をもつ。だが、彼らはこんなことを考えながら話しているわけではない。だから「しびれをきらす」こともありうる。

しかし、「目的」から「逸れる」ことと、「目的」が「違う」ことを、同一視していいのだろうか。これを検討するためには、なぜカップルの片方が「しびれをきらす」のかということについて考える必要がある。

ところで、このような「雑談」のことを、ある社会学者が「社交」「遊戯」というふうに言っている。彼によれば、ふつう、人がコミュニケーションをするときには「目的」がある。だが、関わること自体を「目的」とするとき、そのコミュニケーションは「社交」「遊戯」になる。これをべつの言葉に置き換えて、「形式(手段)」と「内容(目的)」の分離というふうにもいう。僕が雑談型の接続を「倒錯」といったのは、このようなわけによる。

ここには「目的」こそが会話の「内容」である、という暗黙の前提がある。だからこそ僕も目的が逆立した会話を「倒錯」と呼んだ。いいかえれば、これは、会話の「始まり」と「終わり」に関わる問題である。この問題は、「雑談」「遊戯」の本質的な難しさを示す。

たとえば、ここにAという人間と、Bという人間がいる。Aは自分がどういう言葉を発するかを、Bの出方次第で決めようとしている。逆にBは自分がどういう言葉を発するかを、Aの出方次第で決めようとしている。少し考えればわかることだが、これではいつまでたってもコミュニケーションが始まらない。では、コミュニケーションを始めるにはどうすればよいのだろうか。

ここに、例として二通りの解答を与えることができる。一つは、彼らの振る舞いを、価値・規範・文化が決定するというものである。いいかえれば、これは文脈のことである。「この場合、どういうふうにふるまうのが適切か」というきっかけや決まりごとがあれば、彼らはその通りに振る舞えばよい。たとえば、AとBが同じ商社の重役どうしで、「来期の売り上げを伸ばすにはどうすればいいか」ということを考えなければならない、とすればどうだろうか。彼らは会社から与えられた課題について話し合えばよい。つまり「合目的的」に話せばよいのである。

だが、この解答にはある問題がある。それは、これが二人のあいだに文脈ができた「あと」の話だということだ。げんに、AとBとは、価値・規範・文化を共有していないかもしれない。つまり、彼らのふるまいを決定づけるきっかけがあたえられていないかもしれない。だとすれば、もう一つの解答は、AかBが片方に「とりあえず接続してみる」という「暗中模索」の実践によってしか状況は打開されない、という話になる。

実はこれは、さきほどの物々交換のたとえと似ている。後者の解答に沿うならば、AないしBは、まったく偶然的に接続をしなければならない。偶然的である以上、会話が接続される保証はない。投げかけた相手に「お前とは話したくない」と言われたら会話は成り立たないし、目的がズレるかもしれないからだ。つまり、売買が成立するかどうかもわからない。いっぽう、きっかけや決まりごとがある場合、人は容易に接続することができる。それは必然的な接続であり、交換がほぼ確実に成立する。あとは目的を目印にして各々の手を指しあえばよい。

このたとえをふまえればわかるように、人がある会話について「内容」があるというとき、この会話には目的があり、会話をする必然性があるといっている。そして会話の必然性とは、会話の他律性のことである。いいかえれば、会話の必然性は外から与えられる。たとえば、片思いの相手に話しかけようとするとき、どうでもいい用事をわざと作って話しかける、ということがある。もちろん、話したいから話しかけるのである。だが、相手がこちらと「話したい」と思っているかどうかわからない(買ってくれるかどうかわからない)以上、自分は偶然的接続=命がけの飛躍を強いられる。だから、この深淵に橋を架けるために、外から「意味」「目的」「内容」を持ってきて、接続を必然的にする。それが用事を作るということである。

だが、もしこの「目的」に会話が到達してしまったら、会話は「終わり」を迎えてしまう。会話は相手にとって手段に過ぎないかもしれず、建前上、自分にとってもそうだということになっているからだ。だから、会話を、その内容=目的からズラす必要がある。これが雑談型の接続である。だが、これは意図して雑談をしようとしたときに限って、意識的になされる。したがって、雑談型の接続は「ズレる」接続なのだが、それは「わざとズラす」場合と「ズレてしまう」場合がある。

これは本質的に「関係のない話」「非論理的な接続」をするということであり、ばあいによっては失礼である。実際、いつまでも用事の話が終わらなければ、相手はいらいらするだろう。いいかえれば、「内容(目的)」が実は「形式(手段)」に過ぎないことが徐々に実感され、会話を続けること自体が空疎に思えてくる。なぜならば、会話を「続ける」必然性も、その会話の「内容」によって保証されているからである。

もちろん、どんな会話も、どんな目的も、ほんらい空疎なものである。しかし、それを意識するかしないかという違いは大きい。空疎性の実感(虚無感)は、気まずさを招く。いいかえれば、気まずさとは虚無の認識にほかならない。そして、議論型の接続も、雑談型の接続も、ほうっておけばこの虚無に至る。議論型の接続は「終わらせる」ことで、雑談型の接続は「内容の空疎性(形式性)を自覚させる」ことで。

「しびれをきらす」ことは、気まずさとはまた違う。だが、虚無を不快に思うという点で、共通している。実際、しびれをきらしたのは、「関係のない話」ばかりをしたからであろう。

したがって、雑談型の接続、という言葉も、正確ではないように思える。なぜなら雑談とは、内容があるように見せかける、という、つかずはなれずのコミュニケーションを意味するからである。それは論理(必然)と非論理(偶然)のあいだを往還する曲芸に近い。したがって、さきほどの接続分類はこのように言い直すべきである。すなわち、議論型の接続ではなく論理(必然)型の接続と、あるいはまた雑談型の接続ではなく非論理(偶然)型の接続、と。

雑談は「内容」(意味、目的)を求める人ほど困難に思うコミュニケーション形式である。彼らはそのような曲芸に向いていない。あくまで論理的であろうとするならば、雑談は早晩虚無的になる。その意識は、彼ないし彼女の身振りに現れる。それが相手に伝わることで、雑談の場は崩壊してしまう。

なぜ彼らはそこまで論理的になってしまうのか。それは彼らが臆病だからに他ならない。だがこれは循環論法的である。なぜなら、論理的であればあるほど、彼らは雑談の無内容に気付きやすくなり、無内容に気付きやすくなるほどコミュニケーションの本来的な偶然性(深淵)が意識され、深淵が意識されるほど、臆病にならざるを得ないからだ。臆病になれば、より論理的になる。それは、コミュニケーションの安全性(気まずさの回避)を保とうとするからだ。コミュニケーションの安全性を確保するためには、それが持続する理由=目的を外からもってくればいい。いいかえれば、彼らは会話を必然化しようとする。だからこそ、彼らは議論が好きだが、雑談が苦手なのだ。論理的であることが彼らを臆病にし、臆病であることが彼らを論理的にする。それは「深淵」から逃げる回路である。

だが、それは必ずしも非論理的な人間が勇敢であることを意味しない。臆病さのことを勇敢さと勘違いすることがあるように、無思慮のことを勇敢さと勘違いすることもよくあることだ。むしろ勇敢は最初からそのようなものとしてあるのかもしれない。

臆すことなく非論理的な接続をおこなえるとき、人はそもそも「深淵」に気付いていないか、忘却している。彼らは自分の呼びかけに、相手が応えてくれると信じている。相手は自分が考えるようにものを考え、感じるように感じるだろうと思っている。あるいは自分は相手のことを理解していると思っている。

偶然的(無目的)に関わりながらもこうした状態を維持するためには、異質なものに出会ったとき、それをなかったことにすればよい。自分の価値観のなかに取り込んでしまうか、感情的に否認すればよい。つまり、自分を一方的な「買い手」の立場にしてしまえばいい。

たとえば、ここに「なんでもいいあえる家族」がいるとする。そしてその母親が自分のことを「なんでもいいあえる家族」の「やさしいお母さん」だと思い込んでいるとする。しかし、娘が彼女に「うちはなんでもいいあえる家族ではないし、お母さんは優しくない」というとする。母親はこのとき、自分の「深淵」なき家族、「深淵」なき自己像を否定されている。むしろ、それこそが彼女を「深淵」に直面させる事態である。そこで、彼女が次のように返すとする。「わたしは知ってるわ。○○ちゃんはいい子だから、ほんとうはそんなことを思っていないってことを。ほら、ほんとうに思っていることをいいなさい」。こうすることで、母親は優位な「買い手」に回ることができる。いいかえれば、娘が「売った」言葉の意味を、母親は勝手に決め=自分の価値観のなかに取り込み、娘と母親のあいだの「深淵」をなかったことにしている。娘が意味を訂正することを不可能にしている。

しかし、むろん、娘の言葉の「ほんとうの」意味など誰にも決めることなどはできない。母親はもちろん、娘にとってもそうだ。もし意味が安定する可能性がある(もちろん不可能ではあるが)とすれば、それは、コミュニケーションをしている当事者同士が、お互いに対して論理的=倫理的であるときだけだ。それは「勝手に意味を決めない」ということであり、「一方的な立法者にならない」ということである。

しかし、感情的になると、こうした倫理が欠けてしまいやすい。議論が途中から喧嘩にすりかわるようなとき、たいていは倫理の欠如が原因となっているように思える。たとえば、「お前はこう言ったが、それはよくないことだ」といわれたときに、「そもそも俺はそんなことは言ってない」だとか「そんな意味で言ったんじゃない」という応酬をすることはよくあるし、よくされる。しかし、この場合に意味を決めつけているのは、前者なのか、後者なのか。誰にもわからない。だからこそ、少しずつ二人の言葉の意味をすり合わせていくしかない。だが、彼らが「自分が正しい」と思っている限りは、いつまでも意味は大きくぶれ続けるだろう。なぜなら、議論とは「何が正しいのか」などの共通の目的に向けてなされるものだからだ。しかしこの場合、両者の目的は「自分が正しく相手が間違っていることを相手に認めさせる」であり、その意味でお互いの目的は合意されていない(目的が「ズレて」いる)。その限りにおいて、彼らは非議論的な接続をおこない続ける。言葉は自分にとって都合が良く、相手にとって都合の悪い意味しか持たない。

おそらく、上野を感情的に攻撃しても、何も変わらないというのは、本質的にはこういうことではないか。議論=合目的的コミュニケーションをちゃんとした方法でやろうとしたら、「自分が正しいかどうか」「相手が間違っているかどうか」ということは、いったんカッコに入れられなければならない。しかし、それでもそれは自身の沽券に関わる。議論とは、未だ達せざる目的に向かうためのコミュニケーションだからだ。そのコミュニケーション形式は、必ず自分に「変われ」と要請してくる。今の自分では達成できない目的があり、そこに到達しようとするならば、自分が変わるしかない(正確には、自分が使ってきた言葉を変えるしかない)。いいかえれば、それは自己否定である。普通人は、他人に否定などされたくない。だが、議論が成り立っているとき、自分は「他人に」否定されているわけではない。論理的な接続の応手をたがいに続ける中で、自分の考えが変化をこうむることがあるという、それだけのことにすぎない。それでも耐えがたいときは、相手を攻撃するしかない。その接続をおこなったときから、目的がズレて、人は変化の可能性を捨てる。これが議論のモードが喧嘩のモードに移行するときの構造だろう。(しかしそうなってしまうのもやむをえないことではある。それほどこういうコミュニケーションの仕方はむずかしいのだろう)

だが、勘違いしてはならないのは、徹頭徹尾合目的的な議論をしたからといって、そこで出た結論が正しいということはできない、ということだ。そのような結論は、常に間違っている。もし実りある議論なるものが成立しうる可能性があるとすれば、それはひとえに、目的にたどり着けず、たえず自己否定にさらされるきりのない作業を、どれだけ辛抱強く続けうるか、という点にかかっている。