かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

雑記03(過去と物語の時間)

最後にちょこっとだけ『東京レイヴンズ』『Re:ゼロから始める異世界生活』『魔法少女まどか☆マギカ』『Fate/stay night』セイバールートについて言及します。これはメモ書きというかアイデア出しの段階ですが、ここから論旨を詰めていきたい…。

 

 

欲望について考えていると、かならずどこかで障害に突き当たる。たとえば、欲望を欠如から説明したり(プラトン)、二つに分けたり否定や承認と闘争から説明する(ヘーゲル)考え方は、ある程度欲望の構造を説明してくれる気がするし、ある程度説得的である。とはいえ、それはこの僕がなぜ他ならぬこの欲望を抱くのかを説明してはくれない。たとえば、僕は最近自分にゾンビ美少女萌え(ただし二次元に限る)があるということに気がついた(あるいは、開発された?)。しかし、なぜ僕はゾンビではなくゾンビ美少女が好きなのだろうか。そしてなぜ僕は男ではなく女が好きなのだろうか。はたまた、こういった要素要素に分けて考えるべきではなく、ゾンビ美少女という一つの総体について、考えてみるべきなのか…それにしても、なぜ僕はメガネ美少女が好きではないのか。どちらが好きでも不思議はないはずだ。ではなぜ僕の欲望はこういうかたちをとっていて、こういった対象と結びついているのだろうか…。こういった欲望の具体的なあり方を説明するのは非常に困難である。

ところでフロイトの欲望についての考え方は、こういった疑問に示唆を与えてくれる。その考え方を示す命題のなかでも、この文脈において重要なものは、三つある。一つ目は、「欲望の目標と対象は違う」という命題。二つ目は、「欲望の対象とは過去のそれの再現前である」という命題。最後に、「無意識に時間はない」という命題。
まず一つ目の命題は、欲望のかたちは学習の産物であることを示す。欲望にとっては、目標は満足を得ることであり、その手段、つまり対象は、あるいはどのように満足を得るかということはある程度どうでもいい。だから欲望と対象の結びつきは、必然的ではない。
次の命題は、この一つ目の命題を考えたときに生じる疑問、つまり、欲望と対象の結びつきが必然的でないとするならば、どのように人は特定の対象を欲望するようになるかという問いに示唆を与える。人はその欲望を満足させたとき、その満足の経験を学習し、そのときたまたま知覚したもののなかに自分を満足させてくれるものがあったのかもしれない、とだいたいの「あたり」をつける。そしてこの最初の経験の後から、それを欲望するようになる。
ここで重要なのは、そのあたりをつけた何か(たとえば精神分析的にはしばしば母)がいなくなったりなくなったりしたときに、それを再び見いだすことができなければ、人は欲望を満たすことができないかもしれない、ということである。そこで人はある対象を見いだし、それを存在する/しないという形式で判断するようになる。
しかし、この対象は、当然ながら、いつまでも同じわけではない。というか、厳密にいえば、この移ろいゆく世界にあって、何一つとして同じものはない。母親は老いるし、あの時のこれと、いまこの時のこれは、同じこれという言葉で言われるものだとしても、違うものである。だから(少なくとも欲望の)対象を見いだすというのは、基本的には最初の満足の経験のときの「それ」の「それらしさ」を、そのときの「それ」ではないこのときの「それ」、あるいは別の「あれ」に見いだすということである(たとえば異なる時期におけるAという人に、あるいはAと似たBという人に)。フロイトの言葉を借りるなら、それは対象の発見ではなく、再発見としてある。
そして、第三の命題は、こうした欲望のかたちの主因、原初の体験を説明する。無意識に時間はない、というのは、いいかえれば、無意識において時間は過ぎ去らない、ということである。無意識には過ぎ去らない過去(幼年期の体験)が刻印されている。ではこの体験はなぜいつまでも過去ならざる過去として終生にわたって効力を発揮するのか。それは、ある程度歳をとってからよりも、幼い頃の方が、人はあらゆる影響を被りやすい状態にあり、それだけにそのときの経験が決定的になりやすいからである。だからそのときの経験は良かれ悪しかれ、以後のあり方を決定的に規定するという意味で、トラウマティックな出来事である。だから、それは抑圧されなければならない。
しかし、こうした仮説の枠組みにおいても、結局欲望の原因への遡行は、無意識というブラックボックスにたどり着くことになってしまう。では、こうした原因を意識に、経験可能なところにもたらそうと試みるときには何が起こるのか。
まず一つには、循環的、自己原因的な体系、外部からの一撃を欠いた、変化しない、閉じた系の理論が作られるのではないだろうか。そしてそれは基本的には共時的なものだが、これを通時化し、このかたちを生き直そうとするときには、物語が立ち上がる。
たとえば、ハリウッド映画の脚本の方法論には、バックグラウンドストーリーという概念がある。バックグラウンドストーリーとは、物語の主人公が抱える過去の経験であり、それはたいていトラウマ的なものか、未精算なものか、失敗の経験としてある。そしてそれは物語開始時点での主人公の行動を規定している。そこに物語を動かすきっかけとなる問題が起こり、主人公はその問題を解決するために、問題の系をなす様々な状況に関わることになる。そしてそこで主人公の目的を妨げるのは、たいがいバックグラウンドストーリーのそれと似たような状況、あるいはそのなかで繰り返される主人公の(この苦い過去の経験以来の)行動様式である。失恋の痛手を負った人は恋に踏み出すことができない。夢に挫折した人は挑戦すべきところで躊躇する。それはピンチにも思えるが、やり直すチャンスでもある。もしその状況を克服したならば、苦い過去の経験をもまた克服することができる(と主人公自身にとっては考えられる)からである。
つまり、バックグラウンドストーリーとは、無意識の過去を意識に還元したときに生じるものであり、そのような意味での始原だといえる。そして無意識においては流れなかった時間は、物語において動き始め、しかもそこでは、その意味づけが変化を被るという信じられない出来事が起こる(というよりその動きが物語である)。そのような動きはまさしく過去の再現前として体験されるのである。
このような意味での無意識の意識化は、しばしば物語では、忘れられた、あるいは否認されていた記憶の想起として表現される。たとえばギャルゲーにおける、主人公が忘れていた幼馴染との約束など。あるいは、忘れていた罪の記憶や、覚えていながら反故にしていた、ないしは宙吊りにしていた約束事などもそうだ。そしてそれらが思い出されない、忘れられるときには、それがときに純粋贈与の悲劇というかたちをとることもある。
例を挙げよう。たとえば以前に論じた『東京レイヴンズ』では、土御門夜光の功績と過ちによって背負わされた過去の遺産が、土御門家と陰陽師たちにのしかかっており、春虎はそれを最初「召命拒否」している。これは過去の記憶を継承することの否認として考えることができるが、それを彼が認めたとき、物語の時間は動き出す。過去は欲望の原因を贈与し、物語的な意味における時間を与える。
こうした過去の生き直し、あるいは負債の弁済や貸し分の取り立てとしての物語の極北にあるのはループ時間ものであり、たとえば『Re:ゼロから始める異世界生活』はその典型としてある(ナツキスバルはトラウマ的な過去を反復しながら文字通りの意味でもそれを再び生き直して乗り越える)。しかしそこで彼がエミリアに対して行った「贈与」は、エミリアには意識されない。だからそれはほとんど純粋贈与に近づくのだが、純粋贈与(返礼を求めない贈与)はふつう人間のなせるわざではない。だからこれに耐えられないスバルは(王都編で)エミリアに貸しの返却を執拗に求めることになる。これは記憶のないエミリアにとっては関係妄想にしか思えない。ここには物語にとってもっとも根本的なディスコミュニケーションの形式がある。
逆に、純粋贈与が物語の時間を終わらせるとき、それは悲劇になる。たとえば『魔法少女まどか☆マギカ』では、まどかがヴェイユのいう「消え去ること」「不在」の贈与をおこなうことで、ほむらを除いた誰の記憶にも残らなくなってしまう。純粋贈与とは、このようにして、無差異=無関心=自由を他者に与えることである。しかし、それが記憶されている限り、物語はその潜在的な動力をまだ使い切ってはいない。この残された動力=時間は、唯一まどかを記憶しているほむらが語る=生きることになる(これが『叛逆の物語』である)。
最後に、このような生き直しが、ほんらいたった一つの過去を対象化し生き直すことによって、表象化し、一般化し、忘れてしまうことに抵抗する態度がある。「一度あったことはなかったことにはできない」というこの態度を、ループ物語批判の態度として堅持したのは、『Fate/stay night』のセイバールートにおける衛宮士郎である。彼は過去をなかったことにしようとして無限に聖杯戦争への参加を繰り返す(ループする)セイバーに対して、反対の立場をとる。彼にとって外傷的な経験である冬木市の大火災は、決してやり直すことのできないもの、彼が背負うべきものとして引き受けられなければならないものだった。