かんぼつの雑記帳

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雑記02(超越と無関心)

いろんな研究と並行してラカンについて勉強しているので、そのことについての覚書。独学かつ俄かなので概念の理解の妥当性については保証しかねます。

 

 

シェーマLにおいて、小文字の他者たちの軸(a-a')における鏡像的闘争は、もう一つの軸(他者A-主体S)に横切られることで、中断される。このことが意味するのは、欲望を大文字の他者(A)へと向け変えることが、個別具体的なそこにいる人との関係を無関心化することを意味する、ということである。もちろん、これは不可逆的な段階なのではないし、その両者はまったく断絶したそれぞれの局面においてあるわけでもないだろう。こうした軸それぞれは、反省によってはじめて見出される。実際にはこの二つは混交しており、それはボメロオの環の図式からもいえることである。とはいえ、こうした考えを持ち込むことは非常に有用である。
たとえば、これはスペクタクル論に接続されうる。ドゥボールによれば、スペクタクルに関する最も重要な命題は、スペクタクルは人々を分離したまま統合する、というものだ。ひらたくいえば、人々はスペクタクルという同じものを見ているが、その各々が関わりあうというわけではない。たとえば貨幣がそうだ。誰もが可能性の権化として貨幣を欲しがるし、それはインターナショナルな市場を開き、物の広範な交換=コミュニケーションを可能にするが、人と人はそのなかで結びつかない(もちろんこうした理論と現実は違う。たとえば取引や売買の場にあって、相手はただ金と物のやりとりをする媒介としてあるだけではない。実際にはそこで情が同時に交わされるのであり、このことについての良し悪しはともかく、それをあまり過小に評価すべきでないことだけは確かである)。
それからまた、これは倫理・道徳の話にも結びつく。ときには博愛主義者が誰よりも酷薄に思われる。それよりは経験的・個別的な愛、あわれみ、そういったもののほうが人々を結びつけるだろう(もちろんこの場合もここで考えられている博愛主義は理論的なものである。現実には、博愛主義者も個別的な愛を抱いてしまう)。
このように、シェーマLの図式をうまく使えば、超越にとりつかれることと、無関心との関係を考えることができる。身もふたもない言い方をすれば、コミュ障のことがわかる。そしてこうした無関心と関心の差異を考えることはまた、物語におけるコミュニケーション=相互行為の局面を、その構造を明らかにすることにもつながるはずだ。