かんぼつの雑記帳

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笑いについて

0,

先日、M-1グランプリ(お笑い芸人たちがトーナメント方式で漫才の出来を競う番組)を見ていて、ふと気がついたことがあった。それは観客たちの笑い声が生じるタイミングに関することで、よく観察(聴察?)してみると、ほとんどの場合彼らはボケの冒頭ないしクライマックスで笑うか、ツッコミとほぼ同時、あるいは直後に、笑うことがわかる。これはどうやらほとんど一般的な現象のようだ。
むろん、これはお笑い好きの人にとっては自明のことかもしれない。ふつう漫才はボケ→ツッコミという基本形を繰り返して進行するものなのだから、その各々のタイミングで笑いが生じるというのは当たり前、べつにことさらこうして大げさに取り上げる必要はないだろう、というわけである。
だがこれはよく考えてみると不思議なことだ。むろん、僕とてボケで誰かが笑う、というのはなんとなくわかる。それはボケてる人がおかしいからだろう。だが、ツッコミと同時、あるいはその直後に笑うというパターンについてはどのように考えるべきか。このことは少し考えてみれば、そう単純な話でないということがわかる。ここで試みに決勝でのとろサーモンの漫才の例を出そう。彼らの漫才は、道でぶつかった通行人に対するツッコミの不満話から始まる。この不満に共感を求めるツッコミに対し、ボケが「そんなのは流れに身を任せればいいんだ」と切り返してみせると、「じゃあやってみろ」とツッコミは売り言葉に買い言葉で応酬、そこからもしボケがそのときのツッコミの立場だったら、というシュミレーションをおこなうことになる。さて、この場面のクライマックスにおいて笑いの対象になるのは、明らかにこのボケが通行人にぶつかったときの対処の仕方のおかしさなのであって、もしこれだけが彼らの漫才においておかしみを誘うものであるならば、観客はツッコミを必要としないだろう(事実ここではボケだけで笑いが成立する)。にもかかわらず、別の場面では、しばしば観客はボケの最中にはあまり笑うことがなく、ツッコミとほぼ同時か、後になって、点的に、堰を切ったようにしてどっと笑うことがある。ではこうした場合においてツッコミはなんの役割を果たしているのか。なぜボケのみで漫才が完結しない場合があるのか。

 

1,

まずこの問いに答える下準備のために、いったん文学論に迂回しよう。文学論というと怪訝に思われるかもしれないが、そう面倒な話でもないから、しばらく付き合ってもらいたい。
取り上げたいのはコリン・マッケイブジェイムズ・ジョイス論(『ジェイムズ・ジョイスと言語革命』)である。ジョイスは『ユリシーズ』などの長編で知られる20世紀を代表する小説家の一人だが、マッケイブは彼をアイロニーという観点から(も)論じるにあたって、彼の文学に対立する古典的リアリズムのテクストという概念を持ち出し、この代表格にジョージ・エリオットを据える(ここでの<テクスト>については、さしあたり小説のことだと考えてもらってよい)。こうしてジョイス-エリオットという対立軸が敷かれるわけである。ここではジョイスアイロニージョイスアイロニー、エリオットのアイロニーを古典的アイロニーと呼んでおこう。
ではこのジョイスアイロニー、古典的アイロニーとはそれぞれなんなのか。まず古典主義的アイロニーから説明しよう。まずマッケイブ本人の言を引く(面倒だったら読み飛ばしてもらってもいい)。

 

古典的アイロニーは、いま目の前にある文と、テクストが示した現実をもとに想定されるしかるべき文との距離のうちに設定される。闇夜のようなダグレー氏の無知蒙昧がミドルマーチからほど遠からぬところに存在しているからといって、それが読者をいささかも途惑わせたりしないのは、ミドルマーチの街の明かりが、テクストそれ自体のまばゆいばかりの明かりによって名ばかりのものになっているからである。
 ジョージ・エリオットは、このうえなく透明な言語をつかえば現実なるものを提示・検証することができると信じている。
 (コリン・マッケイブジェイムズ・ジョイスと言語革命』P.26)

 

これだけ読むとマッケイブは終始ジョイスの側に立ってポジショントークをしているように見えるけれども、彼の名誉のために言っておけば、その評価はそこまで単純素朴なものではなく、エリオットのテクストが、必ずしも一貫して古典主義的リアリズムの文法に貫かれているわけでないことを、彼は明言している。とまあ、そこらへんのことや、ここでエリオットの作品『ミドルマーチ』についてなされている具体的な言及を抜きにして、概要だけ述べるとするならば、古典的アイロニーとは、小説の登場人物の行動や人格に対して、地の文が皮肉をいうこと、そしてそこから生まれる滑稽の効果を指す。この場合、登場人物の自己認識と、その実態においては、あるズレが生じている。たとえば、自分のことを教養豊かだと思っている登場人物が、実際には教養のない人物であった場合、地の文はこのことについて「この男は、なんと教養豊かだったことだろう!」とかなんとかいう。すると、読者の側ではこの皮肉のほんとうの意味がわかるわけで、地の文とともにこの人物を嗤うことができる。これが古典的アイロニーである。
ざっと説明すればこのようなものだが、しかしこの古典的アイロニーにはもう一つ重要な成立要件がある。それは地の文がなんにせよ、ある価値判断の基準を、皮肉をいう前にあらかじめ読み手に与えているということである。たとえばこの場合では「教養深いとはどういうことか」ということを、地の文が前もって読者に語っていなければ、読み手はその登場人物がどういう人物なのかを自分で判断するしかないのだから、唐突に「この男は、なんと教養豊かだったことだろう!」などと言われても、それって皮肉? 本音? と迷ってしまうわけである。つまりここでは価値基準すなわちコードがあらかじめ読者と地の文のあいだで共有されていなければならない。
これに対して、ジョイスアイロニーはこうしたコードの不在そのものであり、したがってアイロニーは読者の読者自身に対するアイロニー(懐疑)となる。たとえば、先ほど僕は、もし地の文によって前もって価値基準が与えられていなかったら、読者は登場人物が教養豊かなのかどうかを判断できない、といった。いうなれば、まさにこの状況がジョイスアイロニーの状況である。
さて、するとどうなるか。この状況下で、読者は最初、登場人物の行為を自分なりに批評しようとする。たとえばこいつは正しい、こいつは紋切り型のことしか言っていない、など。しかし、そのようなことをしているうちに、やがて読者は根本的な懐疑に襲われる。私は彼を正しいというが、それはなぜなのか。そもそもその正しさを判断する基準の、さらに高次の判断基準はなんなのか。そういう判断をよく考えず下す自分のその在り方こそ、自分が嗤った紋切り型そのものではないのか。かくして、読者は自己認識と実態とのあいだのズレを思考するように迫られる。これがジョイスアイロニーである。

 

ジョイスの書法は一連の言説をいわば複写するだけであり、それゆえわれわれはテクストを書き直し、秩序づけるのに自分自身の言説に依拠せざるをえない。この個人的書き直しがあからさまになるのは、われわれが自分の言説を支配的言説として位置づけるほかないからである。テクストがわれわれの代わりにこの状況を引き受けてくれたりはしない。そして自分の言説をテクストに押し付けていることに気づいたとたん、われわれは自分の言説のなかの紋切り型の存在にも気づかされるわけである。[…]『ダブリン市民』は、このメタ言語の欠落を通して、[…]終わりなきアイロニーを生成する。
(コリン・マッケイブジェイムズ・ジョイスと言語革命』P.44)

 

この二つは何が違うのか。まず、ここで押さえておくべき相違点は二つである。
一つは、古典的アイロニーにおいては、読者の、登場人物に対する優位性が確保されているのに対して、ジョイスアイロニーにおいては、読者の優位性がもはや確保できないこと。これをアイロニーにおける主体性の相違と呼んでおく。
もう一つは、古典的アイロニーにおいては、読者と地の文の仲間関係が成立しているのに対して、ジョイスアイロニーではこれが成立していないこと。この場合の仲間関係とは、コードを共有している関係であると考えてもらいたい。そしてこのことを、ここでは共同体性といっておこう。
主体性と共同体性における、古典的アイロニーと、ジョイスアイロニーの違い。これを確認したところで、いよいよ漫才におけるツッコミについて話を進めていこう。

 

2,

古典的アイロニージョイスアイロニーは、まず読者が主体性を確保できるかどうかという点において、そして次に読者と地の文の共同体性を確保できるかどうかという点において、違いをもつ。前者は主体性と共同体性を確保することができる。反対に後者はできない。
この文学論を、ここでさらに千葉雅也の『勉強の哲学』の勉強論に接続してみよう。そのことで文学におけるアイロニーと漫才におけるツッコミを接続しよう。
『勉強の哲学』は勉強について哲学的に論じた本である。そしてその議論の中心的な命題をひらたく述べれば、「勉強とはノリから浮いたあとで、別のノリに移行することである」というものである。
では、それはどういうことなのか。
まずは勉強が始まるきっかけから説明する。ふつう、人は周囲のノリにある程度合わせて生きている。つまりコードに合わせて生きている。たとえば、「仕事にはやり甲斐がなくてはならない」という命題がある。この命題を自明の前提=コードとして、みんなが喋っているとする。これが普通の状態である。
では、そこへ、ふとこういう呟きを投げてみたらどうだろうか。「なんでやり甲斐がなきゃいけないわけ?」「君たち、そういうことをいうやつらに踊らされてるんじゃないの?」ーーこう問われた人たちは、怒るかもしれないし、しらけるかもしれないし、呟いた人を軽蔑するかもしれない。反応はまちまちだろう。確かなことは、彼らがとにかく以前のように無邪気にそれを前提にしてなにかを語ることはできなくなる、ということである。千葉によれば、このような前提=コードのひっくり返し、問い直しこそ、勉強の始まりに他ならない。
これを千葉はツッコミと呼び、さらにアイロニーと言い換える。周囲のノリから一歩引いて、「それ、実はおかしいんじゃないの」とツッコミを入れること。このことによって、疑問が生まれ、考えることが始まる。
しかしこのツッコミには問題もある。千葉によれば、コードは本来無根拠なもの、なんとなくで成り立っているものだから、その根拠を問い、この問いに対して答えとして提出された根拠の根拠を問い…とやっていくと、極端な懐疑のなかに落ち込んでしまう。それはあたかも、ジョイスアイロニーに見舞われた読者のように。というよりむしろ、その二つは根本的に同質の現象である。
だから、千葉はアイロニーだけでもいけない、という。アイロニーに囚われている限り、なにも考えることはできないから。そこで出てくるのが、ユーモアという概念である。ユーモアとは、ボケとも言い換えられるもので、コードをツッコミのように破壊するのではなく、ズラす事を意味する。
このことを説明するにあたっては千葉自身が本著において提示している例え話を引こう。

 

 たとえば、友達の恋愛について噂話をしている。
 AがBにひどいことを言って、それで別れそうになったけど、結局よりを戻し、でもまたトラブルがあって、どうのこうの……。「Aってそういうとこヤバいよね」、「最悪だわ」、「Bは我慢してたらまずいよ」などと、Aを非難し、Bを心配する流れになっている。
 ここでは、二人の関係を、「恋愛において人はこうあるべき」という、道徳的と言えるようなコードによって解釈しているわけです。
 そこで、こんな発言が出るとする……「うーん、それってさ、音楽なんじゃない?」
 これは、ズレているというか、「スベって浮いている」感じがすると思うんですが、まずこれをユーモアの例とします。これは、自覚的な発言であると想定します。
 ズレた見方が、「連想」的に出てきている。
(千葉雅也『勉強の哲学』PP.92-93)

 

こうした連想的なズレが、新しい話題への接続となる。このズレによって、別の視点から物事を考えられるようになる。
また、千葉によれば、さらにこのユーモアは、拡張的ユーモアと、縮減的ユーモアに分けることができる。先の例は、話が延々と多方向に接続されていく=拡張されていくので、拡張的ユーモアといえる。一方で縮減的ユーモアとは、ある話題に深く閉じるボケで、必要以上に細かい話などを指す。このボケの必要以上さは、その語りが、なにか必要があって、意味があっておこなわれているのではなく、それを語りたいという欲望によって駆動されていることを示す。必要があって喋るのではなく、喋りたいから喋ること、このことに前提されている欲望。この欲望を、千葉は享楽と呼ぶ。この説明が分かりづらいという場合は、ややステレオタイプな例にはなるが、オタクの過剰な語りに象徴されているようなそれを思い浮かべてもらえればいい。
さて、こうしたユーモアの作用が、なぜ勉強に必要なのか。それはアイロニーが陥るナンセンス(無限の懐疑)から、有限性へと折り返すためである。これはユーモアへの折り返しといわれる。が、勉強はこの折り返しによって単純にアイロニー→ユーモアと進行すればよい、というものではなく、アイロニー→拡張的ユーモア、と折り返した後で、さらに縮減的ユーモアを経由し、いい塩梅で、このユーモアに再びアイロニーを突きつけて…というふうに進めていかなければならない(アイロニー→拡張的ユーモア→縮減的ユーモア→アイロニー'→…)。

 

 (1)アイロニーからはじめ、その過剰化をせずにユーモアへ転回し、
 (2)そして、ユーモアの過剰化を防ぐために、形態の享楽を利用する。
 (3)さらに、[…]享楽の硬直化を防ぐために、アイロニカルにその分析をする。
(千葉雅也『勉強の哲学』P.119)

 

 

つまり、1,あるノリから浮いて(アイロニー)、2,別のノリに出航し(拡張的ユーモア)、3,だがそれだけでは航海が延々と繰り返されてしまい、どこにも落ち着けないので、どこかで止まるために、意味のない過剰な欲望、享楽によってあるノリに碇を下ろす=ノる(縮減的ユーモア)。この三段階を基本とし、ちょうどいい加減でアイロニーを入れて、もう一度反復する。かくして、勉強とは、一サイクル分について語るならば、「ノリから浮いたあとで、別のノリに移行すること」、別の言葉で言い換えるなら、「深追いしたあとで、目移りし、深追いと目移りだけではなにもできないので、ほどほどのところで自分なりのこだわりに注目してみること」なのである。

 

4,

勉強とは、ツッコミをいれ、ツッコミすぎてナンセンスになるところでボケ、ボケすぎて別のナンセンスにいたらないところで別のボケ方をすること、その反復で成り立つ。
むろん『勉強の哲学』においては、もっとほかにも細かく面白い話がなされる。が、ここでは必要な議論は切り出したということで、要約に一区切りをつけよう。ここからは千葉の議論を借りるかたちで、漫才におけるツッコミの役割を考える。そのためにまず必要なのは、千葉の用語の等置関係を丸パクリすることである。
ここではしたがって、ボケ=ユーモア、ツッコミ=アイロニーという等式を受け入れる。すると、漫才におけるツッコミを、アイロニーということができるのであり、千葉によればそれは「ノリから浮くこと」となる。
だが、果たして本当にそうだろうか。もう一度よく考えてみよう。ふつう、漫才において、ボケはおかしみのあるキャラクターを演じたり、言行をおこなう役割を担う。それに対してツッコミは、これを「それはおかしい」と指摘することで、観客たちを笑わせる。ここには、ボケ=異常/ツッコミ=正常という図式で整理できるような状況がある、といえよう。
しかしながら、ふつう「ノリから浮くこと」というと、むしろ異常なのはツッコむ側である。なぜって、ふつうは周囲のノリにあわせることこそが「正常」なのだから。
こうした話を踏まえると、どうやらなにか齟齬があるらしいということがわかる。なぜ千葉の議論におけるツッコミと、漫才におけるツッコミは全く真逆の意味を持ってしまうのか。なぜ千葉的ツッコミは異常で、漫才的ツッコミは正常なのか(なお、これ以降千葉的ツッコミのことを、哲学的ツッコミと呼ぶことにする)。
この答えはシンプルである。それは、千葉が勉強を哲学モデル、すなわち「ツッコミ→ボケ」の順序で考えているのに対し、漫才モデルの構造は「ボケ→ツッコミ」の順序をもつからである。ここに根本的な問題があるのだ。
まず、千葉のツッコミは、本来ボケがないところに、ボケを見出す行為としてある。したがってそれは正常の自明性から身を引き離して、コードを別の仕方で眺めることに他ならない。そしてこの哲学的懐疑は、一旦始まるとキリがない、ということは、千葉の議論に沿って既に述べた通りだし、それとジョイスアイロニーの共通性についてもついでながら指摘しておいた。ここに現れるのは、誰がボケてるのかすらわからない、というナンセンス(コードなし)の地平である。そしてこの地平においては、正常/異常の秩序そのものが転倒されてしまう。この哲学的ツッコミの地平においては、人は主体性も、共同性も確保することができない。つまりこれはジョイスアイロニーと近いものではあるが、逆に古典的アイロニーとは正反対のものであり、ここで漫才的ツッコミと哲学的ツッコミが、古典的アイロニージョイスアイロニーの関係とパラレルにあるのではないかということが予想される。
そこで、試みに古典的アイロニーと、漫才におけるツッコミを要する笑いの成立過程を、各々に文章化してみよう。
まず先ほど僕はこう述べた。古典的アイロニーにおいて、地の文はまず価値判断の基準(コード)を設定する。そのうえで、この価値判断に照らして嗤うべき振る舞い/在り方を登場人物におこなわせる/させる。最後に、地の文は、これについて本来の意味(こんな振る舞いはバカげている)と逆のことを誇張して述べる(「その振る舞いはなんて素晴らしいのだろう!」)。ここに皮肉の効果が生じる。
つぎに漫才の構図について、正常/異常という言葉を使いつつ表現してみる。まず、観客とのあいだに共有されている正常/異常のコードがある。そのうえで、ボケがこのコードに照らして異常な振る舞いをする。最後に、ツッコミは、共有されているコードに沿って、ボケの異常性を指摘する。すると笑いが強化される。
この二つを並べてみると、ほとんど相似の関係にあることがわかる。したがって漫才は、古典主義的アイロニーと相似の関係にあり、またジョイスアイロニーと古典的アイロニーの関係と、勉強(哲学)と漫才の関係も、相似の関係にある、ということにしよう。実際、漫才においては、主体性が確保されている(正常/異常の秩序は転倒されない)ばかりでなく、共同体性もまた確保されている(ツッコミと観客のノリの共有)。
以上、ここまでの議論を踏まえれば、漫才におけるツッコミがなんなのか、そしてなぜそれが必要なのかを語ることができるだろう。哲学的ツッコミは、意味や根拠を解体してしまう。逆に漫才的ツッコミは、従来のコードに依存して、意味や根拠を(不完全にではあるが)定める。したがって次のようなことが言える。ツッコミは笑いの根拠を定め、強化する。おそらくボケがうまく機能すれば、観客はボケだけでも勝手に笑っただろう。だがツッコミが正常さを見せつけることで、ボケの異常さはますます際立ち、それだけますます笑えるものとなる、こういう関係があるのではないだろうか。だから漫才的ツッコミは、必ずしも笑いの原因にはならないが、その笑いを補足的に強化する。とはいえ、これはとろサーモンの漫才の特徴なのであって、なんとも意味づけしがたい(=どう笑っていいかわからない)ボケに対して、意味を与えてやることによって、あきらかに笑いに寄与するようなツッコミもあることだろう。ともかくそれは、古典的アイロニーにおける地の文と似た仕方で、状況について注釈する役割を持つ。漫才的ツッコミは、このような点において、哲学的ツッコミと対照することができるのである。

 

5,

ここで話が終わってもいいのだが、最後にもう少しだけ遠くまで行こう。ここでは応用編として、以上の議論から得られた認識を、暴力の考察に用いてみたいのである。
そのため、まずはイジリという形式の笑いの取り方について考えてみよう。イジリは基本的にボケた人にツッコミを入れて笑いを取るという点において漫才と共通するが、漫才と異なるのは、ボケが天然ボケだということである。この天然ボケは天然物であるがゆえに発掘されないと笑いの対象にならない場合があるわけだから、イジリにおけるツッコミは、漫才におけるツッコミよりもより本質的な役割、ボケの明確化という役割を担うことになる。
また、この二つのツッコミにはもう一つ別の相違点もある。人はわざと馬鹿にされるように振舞っている時には、自分はこれをわざと、あえてやっているのだ、という自意識の優位性を確保できるために、ツッコミをされても滅多に侮辱されたと感じることはない。だが、そうでないときに喰らうツッコミはほとんど不意打ちに等しく、そこではボケ側は自分の優位性を確保できない。
このようにイジリという側面からツッコミを考えるとき、そこにはツッコミの暴力性が端的に現れる。ツッコミはなんにせよ猛威を振るう力である。ここでのツッコミは正常な側から異常者の異常性を指摘して、自分たちのコード(正常とはこういうもので、異常とはこういうものだ)に無理やり組み込んでしまう。いいかえれば自分のルールに引きずり込んでしまう。
しかし、この暴力には別の側面もある。たとえば、イジリとは基本的に、イジられる側にイジる側が少なからず好意を持っている場合になされる。これがイジリとイジメを、イジる側において分ける基準となるもの――むろんこれとイジられる側がイジリをどうとらえるかは別問題である――だが、そのことによって彼らは本来異常な=仲間外れになるはずの相手を、仲間のうちに引き込んでいるといってもいい。
人はイジられているうちが華で、シリアスに異常者扱いされている場合には、イジられすらしない、という話もある(極端な話をすれば、シリアスな局面においては、この扱いはレイシズムや排外主義につながるかもしれない)。だが、いいかえればこれは、先にあげたイジリ的ツッコミの暴力の特性、つまり「コードに無理やり組み込む」「ルールに引きずり込む」の別の側面であるともいえる。ある意味で、仲間内に引きずりこむとは、ルールに引きずり込むことだからである。
ここから、漫才的ツッコミ、イジり的ツッコミのもつ暴力の性質を、次のように一般化できるだろう。これらのツッコミの暴力とは、既存の体制や秩序を維持し、強化する性質を持つ。イジり的ツッコミとは、維持する暴力、融和させる暴力である。
ここまでくれば、逆に、哲学的ツッコミに暴力性はあるのか、あるとすればそれはどんな暴力か、ということに答えるのは、そう難しくはない。哲学的ツッコミは、正常の自明性をひっくり返してしまう、つまり破壊するものである。それは場を白けさせてしまう。人々をばらばらにしてしまう。その意味での暴力性を持っている。だから哲学的ツッコミとは、体制を破壊する性質を持つ、破壊する暴力、離散させる暴力だということができるだろう。
維持する暴力と、破壊する暴力。融和する暴力と、離散させる暴力。保守的暴力と革新的暴力。ツッコミの二元論は、さしあたりこのような暴力の二元論に接続することができる。

 

 

<参考文献>
千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』2017年、文藝春秋

デリダ,ジャック『エクリチュールと差異』上巻、若桑毅他訳、1997年、法政大学出版
フロイトジークムント『自我論集』中山元訳、1996年、筑摩書房
――『エロス論集』中山元訳、1997年、筑摩書房
――『幻想の未来/文化への不満』中山元訳、2007年、光文社
――『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』中山元訳、2011年、光文社
マッケイブ,コリン『ジェイムズ・ジョイスと言語革命』加藤幹郎訳、1991年、筑摩書房
リクール,ポール『フロイトを読む 解釈学試論』久米博訳、1982年、新曜社