かんぼつの雑記帳

noteのほうで書いたものの一部をまとめておくためのブログ。アニメ・哲学などを扱ったエッセイを投稿しています。

意味と価値

ソシュールを翻訳するとき、日本語だと、たとえば「言葉の価値は示差的である」というふうにいいあらわす。ところで僕は原典(『一般言語学講義』の原書)を読んだことがないからわからないのだが、果たしてこの「価値」という言葉にあたるものは、フランス語ではなんというのだろうか。というのも、僕はいつもこの言葉に違和感を覚えてきた人間で、ちがう訳語を当てはめうるならば、その言葉を知りたい、と折に触れて思ってきたのである。まぁ、そんなのは原典を買ってきて勝手に確かめろよ、という話なのだが、これはあくまで話の枕なのでその話は脇に置くとして…。

たとえば、言葉の意味は示差的というならば、わからないまでも、まだなんとなく頷ける気がする。しかし価値となるとヘンだ。むろん、価値はときに「意味」と似た使われ方をする言葉だが、「人生に意味はあるか」というような場合に、これを単純に「人生に価値はあるか」と代置すると違和感を覚える。この違和感をたんなる言葉遣いの習慣の問題だといって切り捨てることはできないだろう(というか、習慣こそは言葉の意味やその変化および差異にとって本質的である)。ではなぜこのような違和感があるのかと考えてみると、ひとつには、単純に、価値という言葉に即物的なニュアンスがあるからかもしれない。ようするに人はつい人間の一生というものをロマンティックに考えてしまうから、それについてその意味なり価値なりを云々するときは、価値と言うよりは意味と言いたい、という気持ちがある。そして第二の理由もこれと類似するか、あるいはその言い換えに過ぎないのかもしれないが、その理由とは、価値という言葉はもっぱら量的なニュアンスを含むのに対し、人生の意味という場合、それは量化困難か、少なくともそうした量化をこのテーマについては拒否したいという欲望がはたらくということである。
ここで価値の量的なニュアンスについて云々する前に、価値と意味に共通する含意を分析し示しておかねばなるまい。価値にせよ意味にせよ、それらの意味を考える上でおそらく重要なのは、少なくともある二つのものの交換関係を考えることである。先ほどの例でいえば「人生の意味」というとき、多くの場合、人は発話内的にはたんに問いを発しているのだが、遂行的には実存的な訴えをおこなっている。人は訳も分からないままその渦中に放り込まれた自分の生が、やがて死に至ることを知る。いくら死について批判的な検討を行い、この意味を転倒しようと試みたとしても、この未来がもつ不快な意味そのものを完全に抹消することはできないだろう。そこで人はなんのために自分は生まれたのかと問わざるを得ない。では人がその人生の意味を問うとき何を与えられれば満足なのかといえば、それは自分がそのために生きるに「値する」なにものかである。これはむろん僕の個人的なイデオロギーではないことを予め断っておくが、たとえばある人が「人生の意味」が「自分の子供を生み育てること」だと考えているとすれば、その人はそれをおこなう限りにおいて自分の人生に「意味がある」と考える訳である。そもそも人生を意味/無意味で考える思考の枠組み自体がひとつの陥穽なのだという話はここではおいておくとしても、ここでこのことについて即物的な言い換えをすれば、人は自分の人生を売ってこの目的の達成に必要な諸々を購っている訳である。これはまさしく「人生」と「その意味」の交換に他ならない。
これは「言葉の意味」についても当てはまる。たとえば「この言葉の意味は?」といわれたとき、私たちは大体似たような意味の言葉を持ってきて説明する(辞書などをめくればこのあたりのことは一目瞭然である)。それは要するに、意味のわからない言葉Aは意味のわかる言葉Bと(完全に等しくとはいえないまでも)交換できるということである。
この二つの意味(言葉の意味というときの意味と人生の意味というときの意味)の意味の差異はここでは脇に置くとしても、ともあれここではある二つのものがあって、それらが互いに代置=交換可能であるという関係がある。しかしここでいう「等しい」とはなんの基準に照らした等しさなのか、それは計量可能なのかといわれると、私たちは返答に窮せざるを得ないだろう…。したがって意味という言葉が前提する交換関係は、矛盾するようだが、実はその本質的な交換不可能性(等置不可能性)、非対称性を露わにしている。
一方で価値というときにも交換関係が前提されていることは認められるのだが、この場合この二つの関係は計量可能である。たとえば経済的な語彙として「価値」という言葉を使う場合、それはただちに値段や費用対効果といった言葉を連想させるが、逆にこのような文脈で意味という言葉を使うことは稀である。したがって、たとえばある物Aは4000円分の価値を持っているなどということはおかしくないが、4000円分の意味を持っているというと途端に違和感が付きまとう。こういう文脈において意味には量的なニュアンスがないが、価値には量的なニュアンスがある、といえるのである。むろん、ここでいう価値というものにも深淵があり、実はそれは確固として自存するものではない、というのはすでに記号論貨幣論において述べられていることであるが、とはいえ価値という言葉を使う場面においては、多くの場合、この二物あるいはそれ以上のものたちのあいだの根本的な交換不可能性は問題となっていないのである。
この言葉の使い分けには、人間の、ある種の態度の違いのようなものが透けて見える。たとえば人間が自分の人生や、言葉といったものに直面した場合、そこにおいては、それらのものに等置できるものやその等置の基準自体がどこにもないということを直観しているのであって、それはある種の神秘との対面なのだ。このようにいったからといって、僕は人の生や言葉といったものを無闇に神秘化しているわけではない。あるものとあるものを交換するということを考えた時に、それらのものが神秘的に思えるような認識のモードに切り替わるかどうかの分水嶺は、たんに交換という問題について根本的な懐疑が兆すかどうかにある。したがって物の交換についてさえ、根本的にこの交換の根拠というものを疑ったならばその物の神秘性を考えざるを得ないのであるが、人はふだんはそんなふうにものごとを考えてみようとはしない。逆にいえば、人は、そんなふうに考えもしないものの価値ないし意味を語る時には価値という言葉を使い、そんなふうについ考えてしまうものの価値ないし意味を語る時には意味という言葉を使う。そしてそれはそのままある態度や感覚の表明という遂行的な言表行為でもあるのだ。
…ここでこの雑文の枕の話題について改めて蒸し返すならば、言葉の価値は示差的である、というのはやはりおかしい。それは言葉の意味ないし価値というものが僕の中で神秘的なものだからだし、量的なものでもないからだろう。しかし、今はこれ以上のことをちゃんと考えられるほど考えが徹底していないし、その徹底の仕方次第では、「やはりここは価値という言葉を使うべきだ」と考え直すことは十分にあり得る。ともあれここではその予備的考察を示すかたちで、この文章の違和感の正体のさらなる批判的検討については、宿題とすることにしようと思う。