かんぼつの雑記帳

noteのほうで書いたものの一部をまとめておくためのブログ。アニメ・哲学などを扱ったエッセイを投稿しています。

変化について

ある認識に至って、分かってみればこんなことかとか、自分は今までこんなことすら分かっていなかったのか、という経験をすることはままあるが、先日もまた僕はそのような体験をした。

それはある問いについてひとつ文章を書こうとしていたときのことである。その問いとは「なぜ人は無限に向かいながら全体性に折り返すのか」という問いであり、ありていにいえばなぜ人は理想に向かい、それを実現する代わりに、理想に向かったことでむしろ新しい過ちを犯すのか、という問いであった。むろん過ちというからにはこれは倫理とか認識論に関わる問いなのであるが、これ自体はとりたてて新しい問いでもない。そしてある意味ではこの問いについては簡単に答えることができる。たとえば、人は疑問に思ったことに答えを与えようとするが、この答えを出したとして、それが正しいかどうかをメタ的に判断することができない。これについては「自分は全てを知っているか」という問いを考えてみればすぐにわかる。したがってこれはひとつには原理的な問題なのである(と断定的に語ること自体が、むろん原理的には不可能なのかもしれない)。
それでは、この不可知論的な問題を倫理的に転回するとどうなるかといえば、それはたとえば「相手のことを知る(理解する)ことができるかどうか」という問いにつながっていく。むろんこれも原理的にはできない。だが相手のことを理解できない(現実)にもかかわらず、理解していると思いたい(理想)がために、自分は相手のことを理解しているというふうに考えてしまうと、それは相手に自分の相手像を押し付けることになったり、思い込みで相手を扱うことになるだろう。それはどう考えても非倫理的な関係の仕方なのであり、だからこそ人と人は理解しあえないという前提を崩さないままに理解しあおうとする二重の態度が必要になる。繰り返すが、もし理想ではなく現実において人と人とが理解しあえると考えてしまったら、その瞬間から理想(人と人とは理解しあえるはずだ)は過ちを、少なくともその可能性を生みだすことになる。これが無限から全体性への折り返しと僕が言ったものの一つの実例である。
とはいえ僕はそのときはこの問題を別の観点から考えていた。これもまた倫理的な話にはなるのだが、それは人が倫理を目指し、そして最終的に自分を倫理的だと思いこむことがむしろ非倫理性を招き入れるという話である(まだるっこい場合は正義を振りかざすことの傲慢さについての話題と考えてもらってもいい)。この場合、ありていに言えば倫理は理想であり、倫理的たりえない自分のあり方は現実であるが、この思い込みがどこから起こるのかと考えると、倫理とナルシシズムの矛盾撞着的な関係について思いが至った。それは以下のようなものである。
たぶん、人にはまず原初的にナルシシズム、自己愛がある。それは端的に自分を愛する感情であるが、これについてはあまりちゃんと分析してはいないから、そういうものがあるとだけざっくばらんに仮定しておく。しかし一方で人は自分がどのような存在であるかに関係ない価値基準を持っている。たとえば美醜の判断がそうだ。美しいものは、自分がそれを憎たらしく思おうが、それが自分にとって不都合なものだろうが、ときにはそれを美しいと認めざるをえないものである。むろん、ごまかしや観念によってこの判断はいくらでも揺らがされうるのだが、ある程度はそれ自身の基準の独立性を保っている。
そしてそれは倫理的判断についてもそうだろう。自分がげんに倫理的であるかどうかの判断は、自己愛的な価値判断とはある程度独立しており、本質的に自己愛の原理に抵触する。なぜなら倫理的価値判断は基本的にエゴイズムを告発するからである。むろん、自己愛とエゴイズムを単純に同一視することはできないが、それについてはここでは保留させてもらう。すると、ともあれここに一種の悲劇があるということを指摘できるだろう。というのも、人間はふつう自己愛を持つと同時に、それと自己愛の価値基準から独立した価値基準において肯定的に判断されるものとを一致させようとするからである。なんのことかわからないという場合には、自己嫌悪のことを考えてもらえばいい。人はたとえ自分を愛していても、自分が醜ければそんな自分を愛することはできず、嫌悪すらするが、この嫌悪はまさしく自己愛と美意識の両方を前提とした嫌悪なのであって、自分を愛していなければ自分が醜いことに頓着などしないし、美醜の価値判断が自分のなかに存在しなければ、自分が美的にどうであろうとそんなことは御構いなしに自分を愛するのみであり、ここからは自分を愛するという判断と美醜の判断を一致させようとする人間の一般的な心理をみてとることができるだろう。そして自己愛と美意識の一致は、少なくとも器量の美においてはある程度可能となるのだが、自己愛と倫理意識の一致はそうはいかない。なぜならば、倫理は基本的にエゴイズムを告発するものなのにもかかわらず、倫理的でありたいという欲望は「自分が」倫理的でありたいという心理であり、この点において前提から撞着し躓いている欲望だからである。自分を倫理的だと思いたがる心理は、この矛盾撞着を認められないナルシシズムに端を発するか、あるいはそれそのものなのだろう。
さてこのような倫理とナルシシズムの撞着的癒着を考えると、自己保存欲とはなんなのかということに思い至らざるをえない。自己保存欲はたんに生物的であり、ある価値規範に自己のあり方を一致させようとする欲望は自己実現的、などと考えるのは簡単だが、そのように短絡的に片付けられるものだろうか。このようなことをつらつらと考えていたときに、ふと、人は本当に生きたいのだろうか、ということに思い至った。
これはふつう自明のことだと思われている。たとえば人が飯を食ったり寝たりしたいと思うのは生きるためだし、セックスをしたいというのは種の生存のためというふうに説明できる。しかしむろんそれは目的論的かつ倒錯的な仮説なのであって、ふつう人は生きるために飯を食おうなどとは思わず、端的に食べたいから食べ、食べること自体を楽しんでいる。そこに生などという観念が入り込む余地はなく、私たちは食べることで結果的に生きながらえているにすぎない。それはたまたま生にとって好都合だということでしかない。むろんそういう目的を持った無意識の狡智とでもいうものが人間を突き動かしているのかもしれないが、おそらくその狡智とて生存を絶対唯一の原理として動いているわけではなく、かなり場当たり的で無原理ないし多数原理的なものとしてあるのだろう。
こうして考えると、人の生はかなり多義的で変化に富んだものであり、ときにはその条件(ゲームのルール)自体が変わりうるものだ。たとえばふつう人は倫理、美といったような幾つかの価値判断規準を持ち合わせているが、こうしたものが根本的に変更を被ったり、ここになにか別の基準が追加されることで、人の生のあり方がまったく別のものになる可能性があるし、この可能性に人は現実的に開かれている。その変化のなかで社会もまたまったく違うものになりうる。というか昔の人間と今の人間の不可解なまでの違いがこの観点から説明できるかもしれない。これはほんとうに面白いしワクワクする考えだ。
しかしよく考えると、こういったことは生成変化とかいった言葉でよく語られているような出来事かもしれないし、ちょっと考えればすぐにわかりそうなことで、こう思った僕はこの発見の興奮を早々に手放してしまった。それにしてもこの認識に至ったときの僕の驚きたるやすごいもので、自分が散々こういうことを考えうる示唆を与えられていたのにこうしたことを考え得なかったことにもびっくりし、認識の内容それ自体にもびっくりした。しかし認識の新奇性のようなものはどうあれこの驚きは大切なものだと思うので、今後はこのことについてもちょっと考えていきたい、と思う。