かんぼつの雑記帳

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「感情の運動」について

このまえTwitterをなんとはなしに眺めていたら、感情の運動という話題が流れてきたのだけれども、今回はそのことについて思ったことを備忘録がわりに書いておきたいと思う。このまえといっても一ヶ月ほどまえの話なのでリンクを貼れないのが残念だが、おそらくTogetterにまとめられている話だったように記憶しているから、気になった人は調べてみてほしい。逆にいえばこれから僕がおこなうその概要の紹介は記憶に基づくものなので、正確な情報ではないかもしれないということをあらかじめ断っておく。

さて、感情の運動という話題を語るに当たって、ここでは文脈を補うためにわかりやすい問題提起をしておこう。その問題提起とは、たとえば僕たちは人の身の上話(失恋話だとか…)に妙に食いついてしまうことがあるが、そしてその話を聞きながら心を動かされることに、心地よいものを感じてしまうことがあるが、これは倫理的にどうなのか、というものである。むろん、それを語る本人はいたって真剣で、その内容が失恋などであれば、おそらくは苦しみに耐えきれず、その思いを誰かに聞いてもらいたいと考えたがために、僕たちにその話を持ちかけたのではないかと思われる。しかし僕たちはそれをあたかも今流行りの「涙活」におけるメロドラマ鑑賞のごとく不謹慎に消費してはいまいか。こうしたことを批判する文脈で出てきたのが「感情の運動」という概念なのである。
僕が記憶しているところでは、この批判のあらましは、感情の運動不足と他人の身上話の涙活的消費を紐づけるものである。いわく、感情が運動不足な人は自身の感情の希薄さにうんざりし、なにか心を動かされるものを求める。そしてその好餌となるのが他人の身上話であり、彼らは親切に相談を引き受けたり、話を聞くふりをして、自分の感情の運動不足を補っているのである。だが、それはむろんそのことに苦しみ悩んでいる本人に寄り添っているのではなく、自己本位な動機に基づく行動なのだから、これは倫理的に批判されるべきであるーー。
こうした話を読みながら、なんとなく僕がこれと関連付けたのは、この意見に対する反対なり賛成なりではなく、感情を失ったオタクの問題であり、僕のコミュニケーション能力不足の問題だった。「感情を失ったオタク」というのは、いわゆる厨二病(中二病)のオタクの類型を指す言葉であり、彼らは自分自身に「感情がない」と思っている、あるいはそういうことで格好を付けている。要するにクールの美学の変種のようなものだと考えてもよい。
ただ、僕が思うに、彼らは本来は感情豊かであるはずなのに格好を付けて「感情がない」といっているのではない。彼らは事実そういう実感をもっているのではないかと思う。その根拠は僕自身の体験である。僕自身が感情を失ったオタクだったことはないが、感情がない、といいたくなるその感情の希薄さの感覚についてはなんとなく理解できるのである。それは僕が先にもうひとつあげた問題、つまり僕のコミュニケーション能力不足の問題にも通じる。
僕はよく他人の話に反応できないことがある。たとえば、「○○ってことがあったんだ!」と嬉しそうにいわれたとする。当然これに水を差すのはいいやり方ではないから、一緒に喜ぶなり、ちょっと喜び過ぎをからかうなりするのが良い手なのだろうが、そもそも僕はそうした手段をとっさに思いつけない。なぜかといえば、僕はだいたい他の人のいうことに強く共感しないし、ちょっとからかってやろうなどというユーモラスな発想というか悪戯心が希薄だからである。一番問題なのは前者で、なんにせよ物事に感情的に反応できない、反応が遅れる、というのは、会話にとっては致命的である。テンポが悪くなり、ぎくしゃくし、空気が悪くなる。しかしそれは自分にとってはどうしようもない。恐らく感情を失ったオタクたちも、ひとつにはこういう感情の希薄さあるいは遅延を指して「感情がない」といっているのではないだろうか(こういう感覚についてよくわからないという人は三島由紀夫の『金閣寺』を軽く読んでもらいたい。恐らく冒頭部で主人公がこれに似たことを「どもり」の問題として語っている)。
僕がこのことを「感情の運動」と結び付けたのは、まさしくこの感情の反応の希薄さと遅延が、感情の運動不足によって起こるからではないか、とメタフォリックに考えたからである。ようはそれは身体の比喩で考えれば、反射神経(反射神経なるものはないという話も聞くが)とか筋力がないという話なのである。しかしそうすると次に問題になるのは、それがなぜ起こるのかということだろう。どうして感情の運動不足なるものが起こるのか。
ここで改めて考えてみるべきなのは、反省とか自意識の問題であろう。フロイト風にいえば、ふつう人は快を求めるが、それでは現実に対応できないということに気づいて快さの実現を遅延させるようになる。これを反省-理性の働きとするならば、理性は最初は個々の感情に、次いで感情一般に対立するようになるだろう。正確にいえば、理性や反省を発動させるきっかけになる危機感などは、感情そのものへの背反という逆説的な権能を持つことになるし、この危機感が発動させた反省-理性はものごとを抽象一般化して考える機能を持つから、やがて警戒の対象を感情一般に広げてゆくことになるだろう。すると感情そのものがつねに警戒の対象になるから、こうした一般化を経た警戒感と反省-理性の協働を、どのような場面においても適用しようと心がける人間の心の作用は、感情の反応を遅延させる、いったんお預けにする習慣や、感情自体を抑圧する習慣をもつことになる。するとそのうち感情的な反応の能力が低下してしまう。このようにして考えてみると、なんとなく自分自身の実感にも沿う気がする。
しかし、僕は、あるいは感情を失ったオタクは、コミュニケーションの際、一体何を警戒しているのだろうか。これはおそらくだが大きく分けて二つあって、自分が他人にネガティヴな印象や評価(滑稽、失礼、無神経、馬鹿、ダサい、など…)を与えること、そして自分が他人を傷つけることである。つまり片方はナルシシズムから、もう片方は倫理からくる。しかしこの二つは淵源を異にするものなのであろうか。厨二病的なもの、ナルシシズム、倫理などは、もしかすると父権的で幼児的な万能感からくるヒロイズムに起因していたりはしないだろうか?
おりしもこれは僕が最近考えていることにも近づくのだが、これについては当分結論が出ないだろうから、ここでは疑問を提起するにとどめる。ともあれここらへんのことについて考えるときに重要な主題をもう二つほど提起してこの備忘録を締めくくろう。その二つとは、退屈と離人症という主題である。なにしろ僕たちは退屈な日常が続くと生の実感が持てなくなるものだし、その解決が実生活で叶わないならば、せめてたまには人の恋愛話を聞くなりメロドラマを観るなりして、気を紛らわしたい、と思うものなのだから。