かんぼつの雑記帳

noteのほうで書いたものの一部をまとめておくためのブログ。アニメ・哲学などを扱ったエッセイを投稿しています。

「ツンデレ」の構造 ――ツンデレ美少女にかんする予備的考察

ツンデレっていいですよね。僕はとりわけ高坂桐乃が好きです。ツンデレのうえにクソガキなんて、最高ですよね。

なお、ツンデレ概念について一般的な知識がある方は、「00:イントロダクション」を最後の太字になっている「つまるところ〜」の箇所から読んでもらっても構いません(大部分が個人的な体験談と概念の紹介にあたるため)。

目次
00:イントロダクション
01:ツンデレアイロニー
02:ツンデレと素朴
03:ツンデレとかわいい

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00:イントロダクション

 個人的な話から始めよう。
 僕は中学生時代のひところ、昼飯をメロンパンと牛乳で済ませていた。お金がなかったわけではないし、ましてやダイエットをしていたわけでもない。ようするに、それはたんなるマイブームだったのである。
 では、そもそもメロンパンがマイブームになったきっかけはなんだったのか。すでにおわかりの方も多いかもしれないが、僕はその頃『灼眼のシャナ』というラノベに出てくるシャナというヒロインが大好きで、そのキャラの好物がメロンパンだったのである。
 え、どういうこと? と思われる方もいるだろう。確かに、なぜ好きな二次元美少女の好物がメロンパンだからという理由で、毎日メロンパンを食さなければならないのか、というところの、その必然性を問われると、僕自身にもいまいち因果関係が説明できない。が、それはとにかくそういうものだとして納得してもらうしかないのである。とにかく、僕がメロンパンを好んで食していたのは、「ラノベに出てくる好きなヒロインの好物だったから」なのだ。萌え豚とはそういうものなのである。
 さて、それでは、そんな影響を受けるほどシャナが好きだったのはなぜなのか。その理由の一つは、おそらく、シャナがいわゆる「ツンデレ」であり、僕がツンデレに萌える性質を持っていた(/持っている)からだ。ツンデレとは、キャラクターの特性を指す言葉であり、萌え属性の一つである。ツンデレのキャラは好意を寄せる人物に対して、いつもはツンツンしている(刺々しい)のに、ときおりデレっとする(胸に秘めた好意をのぞかせる)。そのギャップがたまらないのである。
 僕がこの文章を書こうと思ったのは、長年疑問に思っていた自分のこのような心理について、語るための材料が揃ってきたからにほかならない。なぜ人はツンデレに萌えるのか。それはどういう心理状態なのか。つまるところ、ツンデレとはなんなのか。本文章では、このことについて、予備的な考察をしてみようと思う。ツンデレのどこがいいのかわからないという方、ツンデレに萌える自分の気持ちが我ながら謎だという方は、是非とも読んでみてほしい。

 それでは、考察を始める前に、その全体の枠組みを示しておこう。
 ここでは、ツンデレの最大の特徴をギャップ萌えであると考え、「ギャップ」と「萌え」のつながりについて、三段階にわけて考える。まず、ギャップとは何か。次に、ギャップから萌えが生じる条件はなんなのか。最後に、この場合の萌えとは、どのような意味を持っているのか。これらの考察を順次おこなうかたちで、ツンデレの魅力に迫ってみようと思う。

01:ツンデレアイロニー

 ギャップとはなにか。それも、ツンデレがみせるギャップとはなんなのか。このことについて考えるために、ここではまずアイロニーについて考えてみよう。
 アイロニーという言葉には実に複雑な哲学的含意があり、それを説明しようとすると大変面倒なことになってしまう。そこでここでは、通常の意味でいうアイロニーすなわち「皮肉」についてのみ語ることにする。
 皮肉とは、ひらたくいえば、「何かをいうことで、文字通りの意味とは違う意味のことをほのめかす」ことである。たとえば、誰かが何かについてとても的外れなことをいったとして、それに皮肉で返すとする。すると、僕たちは次のようにいうことになるわけだ。

「なるほど、君は本当に賢いんだね」

 もしこの発言を字義通りの意味にとるならば、それは「君は賢い」という意味になるだろう。だが、もしこれを皮肉として受け取るならば、その意味は真逆になる。たとえばそれは、「君は賢くない」というようなものになるはずだ。むろん、僕たちが発言に含ませたのは後者のような意味であるが、それをどう受け取るかは相手次第ということになる。

 したがって、皮肉は、一面においては、卑怯なコミュニケーション行為でもある。たとえば相手が皮肉を皮肉だと理解して、それに怒り、僕たちを非難したとする。しかしそれはあくまでほのめかされたことに過ぎないのだから、僕たちは簡単に逃げを打つことができる。「そんなつもりで言ったんじゃないんだけどな」。事実、そんなつもりで言ったかどうか、本当のところは、相手にはわからない。少なくとも、僕たちの心のなかを覗くなりして、「ほら、やっぱりそう思っていたんじゃないか」なんて指摘することはできないのである。
 このような場面について考えるために、とりわけここで考慮しておくべきポイントは、二つある。一点目は、言葉内の意味と言葉外の意味の違いという点。二点目は、意味決定の覇権(ヘゲモニー)という点である。
 まず一点目について、具体的に考えてみよう。先ほどの例では、言葉内の意味(「君は賢い」)と言葉外の意味(「君は賢くない」)があべこべになっており、そのことによって皮肉が成立したのだった。しかし、これは皮肉をいうときに限った、特殊な話ではない。意味があべこべにはならずとも、言葉内の意味と言葉外の意味が違うということは、他のコミュニケーションにおいても、しょっちゅう起こっている。
 それではまず言葉内の意味と言葉外の意味が一致する場合を考えよう。たとえば先ほどの例で、僕が相手の言ったことに心底感心したとする。すると僕はこのようにいうはずだ。

「なるほど、君は本当に賢いんだね」

 先ほどと言葉内の意味は変わらない。しかし、言葉外の意味は変わる。僕は本当に彼を褒めているのだから、僕にとっては言葉内の意味と言葉外の意味は変わらない、ということになるのだ。
 それでは、今度は別の例を出そう。たとえば、僕と誰かが僕の部屋の中で喋っているとする。おりしも季節は八月、夏の盛りである。にもかかわらず、僕たちは冷房や扇風機をつけることもなく、窓を開けることもなく、だらだらと喋っている。
 しかし流石にたまりかねたのか、話の合間に、ふと相手がこう呟く。

「この部屋、暑いなぁ」

 さて、この場合の言葉外の意味はなんなのだろうか。おそらくこれは僕に窓を開けるなり、冷房や扇風機をつけるなり、冷たい飲み物でも持ってくるなりしてくれ、といっているのではないだろうか。むろん、彼ないし彼女はたんに感想をいったに過ぎないのかもしれない。だが、この言葉が「君がこの部屋の主なんだから、この暑さをなんとかしてくれ」という意味を含んでいる可能性は大いにある。あるいはそれは「君は気が利かないな」かもしれないし、「君は寒がりなの?」かもしれないのだが。
 ともあれ、このような例を踏まえると、言葉内の意味と言葉外の意味がお互いに異なるのは、なにも皮肉をいう場合だけではない、ということがわかるだろう。
 それでは、僕たちは、言葉外の意味をどこから読み取っているのか。それはたとえば身振りや、表情や、話の流れやその場の状況、そのようなものからである。
 ここまで考えたところで、次は二点目、意味決定の覇権について考えてみよう。意味決定の覇権とは、言葉の受け手がもつ権威のことである。
たとえば、コンビニでこういう受け答えをしたことはないだろうか。

「デザートにスプーンはお付けしますか?」
「いえ、結構です」

 実は、僕は、いつもこの受け答えをするときに悩まされる。というのは、この受け答えが、相手にとって失礼になるかもしれないからだ。むろん、「結構です」「要らないです」というのは、文字通りの(言葉内の)意味では問題がないように見えるし、言葉外の意味からいっても、敬語を使っているので、相手に対して失礼には当たらないように思われる。だが、慇懃無礼という言葉が示すように、たとえ言葉が敬語であっても礼を失する場合はあるのだし、「結構」「要らない」というのはかなり強い言葉だ。実際「お気遣いは結構」とか「そんなもの、要らない」みたいな使い方をするときには、相手に対して攻撃的な意味を持つ場合もある。したがって僕がよく使うのは「大丈夫です」という言葉である。しかし、この言い方は日本語としてなにか変ではないか? …買い物をするときにいちいちこんなことを考えている奇矯な人間も、世の中にはいるのである。
 とにかく、このような場合に僕が危惧していることをまとめると、それは、「自分のいったことが、自分が意図した意味とは別の意味に受け取られること」であるといえる。このとき、僕は、相手を恐れている。これが「意味決定の覇権」(=受け手の権威性)である。
 以上の議論から推して考えるに、皮肉とは、この関係を逆倒させる戦略である。皮肉屋はまず言葉の意味を建前(言葉内の意味)と本音(言葉外の意味)に分離する。そうしておいてから、意味決定の覇権を自分の側に手繰り寄せる。いわばかれらは受け手の側(言葉の意味を決める側)に回ってしまうのである。
かくのごとき戦略的行為は、人が口論をするときによくおこなわれる。たとえば、「そんなことはいってない」「そういう意味じゃない」。しかしながら、おたがいがこういうことを始めるとコミュニケーションが破綻するのは、多くの人がよく知るところである。コミュニケーションにおいて合意なしの意味などありえず、意味なしにコミュニケーションはありえない。
 それでもなぜ人はしばしばこのような権威の奪い合いをしたがるのかといえば、それはそういう生き物だからと答えるより他に仕方ない。そういう生き物というのは、相手より優位に立とうとする、少なくとも自分の威厳を保とうとする生き物、という程度の意味である。だから、たとえば相手に対する好意などというものを赤裸々にするのは、恥ずかしいことであったり、屈辱的なことであったりするのである。いいかえれば、それは、自分が話し手=好意を認めてもらう側に立たされることに他ならない。
 さて、ここまできて、ようやく僕たちは「あのセリフ」について考える段階に立ち至った。

「べ、べつにあんたのことなんか好きじゃないんだからねっ!?」

 このとき、この言葉内の意味は、「私はあなたのことが好きではない」であるが、言葉外の意味は「私はあなたのことが好きだ」である。ここでも言葉内の意味と言葉外の意味があべこべなのだ。しかし、この現象は皮肉と単純に等置できるものなのだろうか。

 皮肉においては、言葉内の意味と、言葉外の意味は、そしてその効果は、話し手側の意識下にあった。したがって皮肉家の優位性は確保されている。ところが、ツンデレ的言明においては、言葉外の意味は、伝えたくないのにもかかわらず伝わってしまっている。したがってそれはむしろ優位性の確保の失敗を意味する。
 実は、この観点から考えると、ツンデレ的言明のこのような特徴は、むしろ皮肉をいわれる側の状態に近い。たとえば的外れな発言に対して皮肉をいわれるとき、人は苛立つ。それはなぜなのかといえば、自分では良い発言をしたと思っていたのに、実際にはそうでなかったということを突きつけられ、しかもそのような「恥ずかしい」姿が、公然のものになってしまっていることを自覚するからだ。意識によって制御できなかったものが露出しているとき、そこにはその人間の素朴な姿があらわれてしまっている。ギャップとは、畢竟このようなものにほかならない。
 これは、ツンデレ以外のギャップ萌えや、あるいはギャップ萎えについても同様である。捨て猫を拾う不良(ギャップ萌えの例)や、猫を被った腹黒美少女(ギャップ萎え)などはこのようなパターンに属する。まぁ、個人的なことをいえば猫を被った腹黒美少女はむしろギャップ萌えの対象なのだが、この議論については脇に置くとして、ここではギャップについての結論が出たところで、いったん話を締めくくろう。

 ツンデレにおけるギャップとは、隠したいと思い、普段は隠しおおせているものの、制御できない露出である。

02:ツンデレと素朴

 さきほどは、ツンデレのギャップとはどのようなものなのか、ということを明らかにした。ここからは、ギャップから萌えが生じるのはなぜなのか、ということを考えてみよう。
 そのために、ここでは「素朴」ということを考えてみよう。この言葉は、先ほどの考察においても、一度だけ用いられたものである。「意識によって制御できなかったものが露出しているとき、そこにはその人間の素朴な姿があらわれてしまっている」。つまりある人間の素朴さとは、露出することによって見出されるものなのである。それをこういいかえてもいいだろう。すなわち、素朴とは意識の装いが剥ぎ取られたときに始めて見出されるものである、と。しかもそのようにして確かめられなければならないのは、好ましくない素朴さではなく、好ましい素朴さなのである。したがって、これまでの僕の用語法とは異なるが、素朴という言葉は、そもそも肯定的なニュアンスを帯びたものである。このような仮説から、ギャップと萌えをつなぐ条件を考える、これが本章のねらいである。
 たとえば、いわゆるイキリオタクと呼ばれる人種は、自分がイキっていることを自覚していないがゆえに、笑いの対象になる。ところでイキるというのは、一種の示威行動であり、また痛々しいものでもあるから、好ましいおこないではない。したがって、彼らのイキりは(偽装の試みであるとはいえ、同時に)好ましくない素朴さなのだ。だがこうした人種に対して、僕たちは懐疑を持つだろうか。すなわち、彼らは敢えてイキったふりをしているだけで、本当は僕たちに笑いを提供してくれていて、そうして笑っている僕たちを尻目に密かにほくそ笑んでいるのではないか、などという疑いを持つものであろうか。むろん、そのような疑いを持つことは稀だろう。なぜなら、人間はふつう、そんなことのために自分を悪く見せようなどとは考えないからである。
 だが、逆に、いつもニコニコしていて、善良で、優しい人間に対しては、僕たちは疑いを持ってしまうものではないだろうか。なぜなら、人間はふつう、自分を良く見せたり、好かれようとするものであり、そのためならば、たとえそうすることが苦痛であり、本意に反することであっても、自分を偽装することが往々にしてあるからである(人間にとって本意とはなにかということを考えだすと、それはそれで難しい話なのだが)。むろん、このような疑いを持たない場合には、突然そのことを突きつけられることもある。これがギャップ萎えであるが、それは要するに裏切られたという感情なのであり、裏切りとは、信頼の無根拠性=偽装の偏在的かつ潜在的な可能性の提示である(「奴は本心では何を思っているかわかったもんじゃない」)。したがって、それは素朴さというよりも、むしろ偽装可能性の露出なのだ。
 ともあれそのようなわけで、僕たちは、誰かのおこないが好ましくないときには、それを疑わず、誰かのおこないが好ましいときには、それを疑ってしまうという、哀れな性質をもっている。そして仮に好ましくない素朴さがまったく予期しないかたちで露呈したとしても、その素朴さは偽装可能性として、いわば素朴とは正反対のものとしてもたらされてしまう。しかし、露出した好ましさというのは偽装の及ぶところではないから、僕たちはこのような状態(ギャップ)によって、始めてその好ましさを信じうるのであり、これを素朴と呼ぶのだ。
 このことについて、哲学者のイマヌエル・カントは、ずばぬけて鋭く深い洞察を示している。

[…]素朴は、人間性にとってもともと自然的であるところの誠実が、すでに我々の第二の天性となった偽装の技術に対抗して発露したところのものである。我々はまだ自分を偽る術を知らない単純さをおかしがって笑うが、しかしまたそれと同時にかかる偽装の技術を挫折させる自然な単純さを喜びもするのである。[…]しかしこういうことはほんのちょっとのあいだしか現れない現象であり、やがて偽装の技術がまたしてもこれを蔽い隠してしまうのである、それだからこれを痛ましく思う同情の念、即ち優しいいたわりの感情が同時に交じることになる。そしてこの感動は遊びとして、かかる善意の笑いと極めてよく結びつき得るし、また実際にも結びつくのが普通である。
               ――イマヌエル・カント判断力批判
 むろん、人間にとって誠実さが自然的な天性であり、偽装が二義的な天性であるかはわからない。むしろ僕たちは、素朴を論じる際、ついついこのような優劣関係を立ててしまうことそのものに、素朴という言葉がそもそも含んでいる肯定的なニュアンスの力が示されていると考えるのがよいのかもしれない。といってもこれはドイツ語の訳であるから、日本語の素朴と完全に対応するものでもないが、少なくとも僕たちが素朴というとき、素朴には肯定的なニュアンスが含まれる、と考えることは妥当である。そんなわけで、僕が先ほど用いたようないいかた、つまり好ましい素朴とか、好ましくない素朴とかいういいかたは、片や同語反復であり、片や語義矛盾なのだ、とすらいえるのだ。
 さて、これをツンデレ的露出とつきあわせて考えてみるとどうなるか。ツンデレ的露出とは、明らかかつ好ましくない偽装なのか、それとも僕たちを人間不信に陥れる偽装可能性の露出なのか、それとも素朴(好ましい本性の露出ないし隠され露出することによる好ましさの本性化)なのか。前章でも述べたとおり、ツンデレ的露出は、このうち素朴にあてはまる。だとすれば、ギャップと萌えがつながる条件とは、素朴(素朴的状況)であり、この場合の萌えとは、ひとつには、そこから生じる種々の感情の織りなす交響だといえる。
 僕たちは、これらの感情を列挙するにあたり、カントの洞察を参考にしよう。すなわち、それらは善意の笑いと、歓喜と、優しいいたわりである。ツンデレとは、かくして、人間を信じ、愛しうるものにする状況の総体、またそれを発生させる性格ないし行動特性のことなのである。

03:ツンデレとかわいい

 これまで、僕は、ツンデレ萌えの構造について論じてきた。ここからは、このようなツンデレ萌えの心理の構造をさらに考えながらも、それが一体なにを意味しているのか、ということについても考えていきたい。
 そのためにも、もう一度ツンデレ萌えの構造をおさらいしておこう。
 ツンデレ萌えとは、まずもってギャップ萌えである。この場合のギャップとは、隠したいと思い、普段は隠しおおせているものの、制御できない露出である。そしてこのようなギャップによって露出するのは、当人の素朴さである。素朴さは、それを知覚した人に、善意の笑いと、歓喜と、優しいいたわりの感情を生じさせる。したがって、ギャップと萌えのあいだに橋をわたすのは素朴なのであり、上述の感情こそが、萌えの感情の、少なくとも一部をなすものなのである。
 だが、このような分析だけでは、いわゆる普通のギャップ萌えと、ツンデレ萌えとは区別されないことになる。そこで軽く触れておきたいのが、好ましさについての考察である。
 ツンデレ萌えの好ましさと、ギャップ萌えの好ましさは、どう違うのか。ここで再び不良と捨て猫の例を挙げよう。これはなぜかよく人口に膾炙しているネタなので知らない方はいないと思うが、一応説明しておこう。個人的な脚色は加えさせてもらうが、それはおおむね次のようなシチュエーションである。
 ある学校に不良の男子生徒がいた。同じ学校に通う自分は当然彼に良いイメージを持っていなかったのだが、そんなある雨の日の下校中、ふと彼の姿を見かけることがあった。よくみると、なんと彼は、道端にいる捨て猫(ないし捨て犬)を連れて帰ろうとしているではないか。しかもそれはどうやら、猫が雨ざらしになっているのを見かねての、純粋な善意からくるおこないらしい。それを見た自分は思わずほっこりした気分になり、その不良のことが以前よりも好きになってしまったのだった。――要するに、普段は悪そうな奴が良いことをしているとなんだかすごく良い奴に見えるという、ギャップ萌えの典型的なネタである。
 この場合、「自分」は、不良のどこに好ましさを感じているのだろうか。むろんそれは、不良の善意にである。いいかえれば、彼の行為は、善を好む「自分」の意に適うものだったのだ。悪い奴だと思っていた不良が実は善良な性質をも持ち合わせていることを知り、なんとなく親しみを抱く、このようなところにこそ、「不良と捨て猫」ネタからギャップ萌えが生じる契機がある。
 これをもう一段抽象化してみる。すると、こういえるだろう。ある価値基準(たとえば善-悪)があって、普段はその価値基準に照らして好ましくない存在が、実はその「本性」において好ましい存在だったことがわかる、そのことによって、彼と「自分」とのあいだに親しみが生まれる。それは不良との和解であり、価値を介した間接的な交流なのである。
 それでは、ツンデレ萌えの場合、なにが好ましいのか。それはおそらく「関係性」から生まれる好ましさなのであり、この関係性は、サディスティックな関係性と親近する。
 ここで僕は四方田犬彦の『「かわいい」論』という書物を挙げることにしよう。四方田は、ここで、かわいいという美的カテゴリーについて多角的な分析をおこなっているが、ツンデレ萌えのことを考えるうえでもっとも重要なのは、「「かわいい」言明のヘゲモニー性」とでもいうべき議論である。
 四方田は、人が対象に対して「かわいい」というとき、そこにヘゲモニー性(覇権)が前提されていることを指摘する。ひらたくいえば、何かを「かわいい」というとき、人はその何かより優越した立場にいる。
 ところで、「ツンデレアイロニー」の章で論じた、「意味決定の覇権性」の議論を覚えているだろうか。人は相手の言葉の意味を決定する立場に立ったとき、権威をもつ。すなわちそこでは、話し手と受け手が非対称な関係に立っているのである。この二つの議論はどこか似てはいまいか。
 これらの類似性を足がかりに、かわいい対象及びツンデレ美少女において考えてみよう。かわいい対象は、しばしば、か弱さや小ささを特徴とする。したがってそれは恐るるに足らないのであり、主体(「かわいい」という側)はかわいい対象に対して優位に立てるが、その優位性はまさにその言明(「なにこれかわいい!」)によって確かなものになるのだ。
 ところで、しばしば人は弱いものに対すると、ある両価感情を誘発される。それは、庇護欲とサディズム感情である。たとえば「食べちゃいたいくらいかわいい!」という言葉を思い出してみよう。それでも納得できないというならば、アンナ・カヴァンの『氷』を読んでみるといい。そこにはか弱い少女によって誘発される庇護欲とサディズム感情の、複雑な絡み合いが示されている。
 ツンデレ美少女は、ちょうど、このような立場に立たされる。かわいい対象と違って、ツンデレ美少女は、か弱い存在とは限らない。しかしツンデレ美少女は好意を寄せる登場人物との関係において、決定的な弱みを持っている。それはむろん、その登場人物に対する好意にほかならない。僕はコンビニ店員を意味を受け取る側として恐れるが、ツンデレ美少女は、ちょうどこのような構図で、自分の好意を受け取る相手を恐れる。したがって、このような関係において、当該登場人物は、ツンデレ美少女に対し、権威を持っている。ツンデレ美少女が登場人物に好意を持っていること、そしてその非対称性が微妙な駆け引きのなかで現れること、これが鑑賞者にとって好ましいことなのである。
 ツンデレ美少女は、ふだんはツンツンしている。ようするに、ツンデレ美少女はふだんは好意の所在を宙づりにしておくため、その態度は好ましかったり、好ましくなかったりし、鑑賞者は意味の混乱のなかで酔わされる。だが、彼女がデレるとき、そこでは偽装から素朴が、そして隠されていた好意が露出し、ツンデレ美少女は劣位におかれ、無防備になる。かくしてツンデレ美少女がデレるとき、鑑賞者はツンデレ美少女に好ましさを感じ、和解する。それはツンの不調和を得たのちの調和であるだけに、いっそう強く感じられる。
 最後に、これをカントの素朴論と結びつけてみよう。ツンデレ美少女のデレに思わずにやけたり微笑ましいと思うとき、それは善意の笑いなのだが、笑いはつねに対象に対する主体の優越性を前提する。また好意の確証を得たことによって好ましさを感じるとき、それは歓喜である。さいごに、ツンデレ美少女を愛おしく思う気持ちは、優しいいたわりであり、かわいい対象に対するあの庇護欲にも類似するかもしれない。しかし、ここにおいて示される結論は複雑である。ツンデレ萌えは対象を信じうるもの、愛しうるものとする。したがってそれは調和、または和解の感覚なのだけれども、その調和ないし和解は、ツンデレ美少女の無防備性を前提とする。そしてその感覚の隣接領域にはサディズムが横たわっている。
 かくてここには、愛や調和や官能の両義性が示されるのだ。それは喜ばしいもの、快いものとして描きだされる一方で、相手を劣位に置くものとして、あるいはサディズムに通じるもの、すなわち悪としても描きだされる。ツンデレ美少女とは、このエロスの両義性のなかでゆらぐ存在なのである。