かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

作品を人と語ることについて

0,はじめに

 以前、ある記事で、僕はなにかを好きでいるためには努力をする必要があるといった。そしてその努力の具体的な内容として、好きを言語化するための作業や、コンテンツにかかっている文脈を追う作業の必要性について書いた。

 この記事は11月に書かれたものだが、実際にこういうことを思い始め、実践にうつしはじめたのは、ここからさらに遡って8月ごろになる。したがってそこから数えると、かれこれそういう「好きでいるための意識的な努力」をはじめてすでに半年弱くらいが経過したことになる。ここではその実践から考えたことを備忘録がわりに書き留めておく。以下自己分析(自分語り)になるので注意されたい。

 

1,コンテンツ/コミュニケーション

 僕がこの記事で設定した問題は、「アニメに飽きつつある現状をどうすればいいのか」というものだった。でも、人はたいがいものを考えるとき、それをいつも複数の文脈で考えているものだ。ここでは考えを文章にするにあたって、問題をとりあえずこのひとつにしぼり、その流れに沿っていろいろ書いたわけなのだけど、もちろん僕の頭にはここでは書かなかったような別の問題意識もあった。今回はその一つについて書きたいと思う。これは「僕はなぜ人と趣味を語り合えないのか」という問題意識だ。

 近頃、アニメをはじめとしたコンテンツの消費形態がかわりつつあるといわれる。こういう変化を捉えるための用語として、たとえば「コンテンツ消費/コミュニケーション消費」というものがある。コミュニケーション消費というのは、人があるコンテンツを受容するさい、コンテンツそのものというよりも、そのコンテンツを話の肴にしてコミュニケーションをとるほうを重視するような消費形態をさす言葉であるといえる。これはSNSやインターネットのようなメディアと親和的な消費形態といってよさそうだ。これが適切な例かはわからないが、たとえば『けもフレ』の受容などは、Twitterでの盛り上がりと切り離せないといえるだろうし、最近でいえば『ゾンビランドサガ』の受容などもそうだろう。一方コンテンツ消費とは、コミュニケーションのためとかではなく、たんにコンテンツを消費するような在り方だといえる。

 もちろん、おそらくこの二項関係は完全には分離しないし、重なり合うことができる。人はコンテンツを楽しみながら、それを同時にコミュニケーションのだしに使うこともできる。あるいはコミュニケーションに役立てているに過ぎなかったコンテンツに、そうしたことに関係なくハマってしまうこともある。そしてそのそれぞれに良し悪しがあることだろう。

 僕が最近思うのは、先ほどあげた「僕はなぜ人と趣味を語り合えないのか」という問題は、まさしくこの二つの消費形態「それぞれ」の「良し悪し」に関係するのではないかということである。

 そのことを説明するにあたって、まず僕がどちらの消費形態をより好む傾向にあるかということを、ここではっきりさせておこう。実は僕は昔から「コンテンツ消費」のほうの仕方でコンテンツを受容するきらいがあった。趣味嗜好は比較的ミーハーなほうだし、わかりやすいほうなのだが、かといってコンテンツを他人とコミュニケーションするために消費したことはそんなにない。だから僕は、たとえばSHISHAMOのとあるヒットソングに歌われているような「友達の話題についていくのは本当は私にとっては大変で/私が本当に好きなのは昨日のテレビじゃない」という屈託はなかった。見たくないものはそもそも見なかったからだ。

 ひとつ断っておくと、これはべつにイキリではないし、一匹オオカミや、他人と違うオレ、を気取っているわけではない。いや、そういうこともかつてはあったのかもしれないが、もはや今となってはそれはかっこつけでもなんでもない。体に染み付いた、たんなる習い性になってしまっているのである。

 しかし、こういう「コンテンツ消費」偏重には、当然SHISHAMO的屈託とちょうど裏返しの屈託がある。他人と話題を合わせるのは面倒だが、面倒くさがっていると共通の話題が少なくてコミュニケーションがしづらいという屈託である。もちろん、共通の話題がないことは必ずしもコミュニケーションにとって致命的ではない。でも、そういう、話題などに左右されない「基本的なコミュ力」なるものがないとはいえないにしても、やはり人のコミュ力はコミュニケーションの場の文脈(そこで扱われている話題や、その場にいる集団の性質)によっても大きく左右されるということは疑いえない。

 だから、まず第一に、「コンテンツ消費」偏重の問題は、「他人と話題を合わせられない」ということである。それが「なぜ人と趣味を語り合えないのか」という問題の一つを構成する。

 

2,エンタメ的/文学的

 しかし、ややこしいのは、「僕が」「人と趣味を語り合えない」理由はそれだけではないということである。ここからはまた問題がずれてくるので、そのずれについても語っておこう。

 まず、僕が先ほど立てた「コンテンツ消費」の問題は、「コミュニケーションに配慮した消費活動をしないため、人と話題が合わないこと」だというふうにまとめることができるだろう。しかし、同時に、僕は「人のコミュ力は文脈によって変わる」ともいったし、また僕自身の「趣味嗜好は比較的ミーハーなほうだし、わかりやすいほう」だともいった。だとすれば、この問題、つまり「なぜ僕は人と趣味を語り合えないのか」問題は、そもそも成り立たないことになるだろう。なぜなら、これらの前提をふまえれば、コミュニケーションに配慮した消費活動をしないことは、かならずしも共通の話題を持てず、したがってうまくコミュニケーションできないということに帰結しないからである。いいかえれば、たとえコミュニケーションに配慮しなくても、趣味が多くの人と結果的に共通するなら、話題はかみ合い、そういった問題は生じえない。そして事実、僕はスポーツとかお笑いとか、そういったものについては(ほんとうに残念なことに)ほとんど興味がなく、そういう文化圏のものを好む人とその手のことについて詳しく語り合うことができないけれど、限られた文化圏、たとえばオタクカルチャーについていえば、ほとんどのオタクが好きそうなものが好きなのである。ど直球な萌え豚アニメも好きだし、なろう系だって楽しめる。

 だが、にもかかわらず僕は今まで人とそういうコンテンツを長々と語れたことが少なかった。だからこの問題は僕が「コンテンツ消費」偏重な人間であるということだけからは説明がつかない。いいかえれば、その観点は僕がお笑いとかスポーツとかが好きな人たちとうまくコミュニケーションがとれない理由のひとつを説明するのにしか使えない。

 では、なぜ僕はオタクとあまり作品を語り合えたことがないのか。これについてはある程度はっきりしている。

 それはまず第一に、僕がアニメ(漫画やラノベでもいいが、とりあえずアニメとしておく)についてあまり語ることがないからである。そしてその「語ることがない」という気分の根底には、おそらく、ヒロインが可愛いとか、この展開が面白かったということは個人的な体験で、それはその場でそういうことを感じて楽しかった、で終わる話だ、という発想がある。事実、昔の僕は、そういうことを人としても「わかりみ」とか「それな」みたいな反応しか返せなかった。それ以上のことをわーっと語って相手にドン引きされるのが嫌だったということもあるが、それ以上に付け足すことが特にないし、そもそもヒロインのなにが可愛かったとか、どういう展開があったとかを、そんなに覚えていないからである。

 しかし、では僕はこれだけオタクをやってきて語りたい作品がなにもないのかというと、そんなことはない。たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』や『Fate/Zero』、『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。』や『Fate/Stay night』などには、たぶんに語りたい欲望を刺激されてきた。そしてそれは、碇シンジや、衛宮切嗣や、比企谷八幡や、衛宮士郎といったキャラクターが、何か実存的な問題を生きているように思え、そしてそういう問題は僕にとって重要に思えたからだ。でも、じゃあこういう作品について人と語り合えばいいじゃないかと言われると、僕はどうしてもそういう気になれない。なぜなら、そういう視点から作品について語り始めると、なんだか話題が哲学的でやけに難しいものになってしまうし、そういう話題では、基本的に人と楽しく話せないからである。哲学的なタームを出すとドン引かれるし、そういう言葉を使わないで語ろうとしても、その場ですぐに答えを出せるようなことを扱わないから、やりとりが不活発になる。そして、なんだか無駄に空気が重くなる。いいことがない。

 したがって、僕が人と作品を語り合えない問題のもう一つは、こういう二種類の作品に対する、僕の対峙の仕方に起因する。一方で、僕は萌え豚アニメや面白いアニメについて、それ以上語る必要を感じないし、そもそも内容をそんなに覚えていない。他方で、僕の印象に残っており、僕が語りたいと欲望し続けているアニメについては、それを語り始めると、楽しいコミュニケーションができなくなってしまうという問題が出てくる。

 コミュニケーションに親和的で、その場で楽しめたりすっきりできたりするが、忘れてしまうがゆえに語れない作品と、鑑賞の最中もすっきりせず、なんとなく引っかかり、それゆえに語りたい欲望を刺激し続けるが、コミュニケーションに親和的でない作品。これらを形容する言葉として、ここではさしあたり「エンタメ的/文学的」というキーワードを設定しておこう。一応ことわっておくが、もちろんこの二つは重なり合うことができるし、どちらが良いとか悪いとかいうことは、ここではいっさい問題にしていない。また、これはたんに作品をどう見るかの視点の問題に過ぎず、その意味で作品自体には「エンタメ的」も「文学的」もないともいえるが、とりあえずここではそういう議論は脇に置いて、これを作品を形容する言葉としておく。

 ともあれ、これで「僕はなぜ人と趣味を語り合えないのか」という問題を構成しているもう一つの問題が、ある程度まとめられるように思う。すなわち、それは「エンタメ的作品はコミュニケーション親和的だがそれについて語る言葉を持てず、文学的作品については語る言葉を持てるがそれがコミュニケーション親和的でない」という問題として立てることができる。

 では、この問題はどのように解決すればいいのか。その方法にはさしあたり以下のようなものがあるだろう。

 

1,エンタメ的作品については、感じた楽しい気持ちや面白いという気持ちを表現する技術を養う

2,文学的作品については、そこで感じたことについて、わかりやすい言葉で語れるようにする

 

 思うに、僕が8月からやってきたのは、この二つの実践というか、この目標に向けた実験のようなものである。

 

 一度まとめよう。

 ふたたび、僕はなぜ人と趣味を語り合えないのか。その問題を二つに分割すると、それは第一に、僕がコンテンツ消費型の人間であることの問題である(そしてこの場合に想定されている「人」は、−−こういうざっくばらんな区分に問題はあるとしても、あえてそういう区分をするならば−−非オタク的といえるだろう)。そしてそれは第二に、僕がコミュニケーション非親和的な作品に語る欲望を見出し、コミニケーション親和的な作品に語る欲望を持たないということの問題である(そしてこの場合に想定されている「人」は、「文学的」な話題に興味をほとんどもっていないオタクである)。もちろんこういう問題構成にもたぶんに問題はあるが、ひとまずはこういうことで理解しておく。

 そしてこの二つの小問題のうち、第二の問題については、僕は、作品から感じたこと考えたことを表現する技術を養うトレーニングをする(Twitterで作品のディテールについて語る厄介オタクロールプレイをするなど)ことで、それと向き合おうとしてきた。

 

3,

 最後に、こういった問題と関連して、最近考えていることがある。それはポストモダン論などで盛んに議論されている問題と関連することだ。

 この問題とは、情報供給の過多と、ライフスタイルの細分化の問題である。

 それはもっと抽象的に言えば「大きな物語」とか「大文字の他者」の衰退というふうにいえるかもしれないし、きわめて具体的に言えば、国民みんなが聴いているようなヒットソングがなくなったとか、そういう文化現象の変化からいうことができることかもしれない。いずれにせよ、今、人は昔に比べて世界がどうなっているのかとか、文化はどうなっているのかとか、そういうあらゆることの全体像を掴みづらくなっている。大量の情報を手軽に素早く入手できるようになりながらも、それをどう扱えばいいのかわからないでいる。「みんな」が誰なのかわかりづらくなっている。少なくともそういう全体像がわかり、情報の意味がわかり、「みんな」の内実がわかるという幻想が機能しなくなっている。そのなかで、人はきわめて狭い共同体や細分化された自分の趣味嗜好や欲望のなかに閉じこもっている(「タコツボ化」)。

 こういう観点から考えれば、僕もまた時代の子ということになるのかもしれない。しかしこの際、僕のありかたが僕個人の資質によるものなのか、時代によるものなのか、あるいはその両方なのかということはどうでもいい。重要なのは、こういう時代にいかにして文化を可能にするかということである。

 これは素朴な僕自身の考えで、批判的な吟味や文献渉猟をおこなって培ったものではないが、文化というのは二つの側面を持っている。一つは模倣で、もう一つはメタゲームだ。

 たとえば、誰かがいいものを作ると、それをやりたいといろんな人がその真似を始める。そうしてそれが文化のパブリック・リソースになっていく。たとえばレイモンド・チャンドラーフィリップ・マーロウを主人公とする探偵小説で編み出した独自の文体や作風は、その後の探偵小説の文体や作風を規定している。これが模倣の側面である。

 しかし、模倣は必ず陳腐化に帰結する。だから、その後の時代の作り手は、そのスタイルを「こういう感じのやつでしょ」と定義したうえで、違うことをやるようになる。そうやって作られたコンテンツは、もはやそれ自体だけで理解できるものではなく、先行するものとの関係を踏まえなければ理解できないものになっている。そこには作品レベルのみならず文化レベル(メタレベル)の文脈がかかっている。これがメタゲームの側面である。

 メタゲームのなかで成立するコンテンツは、つねに先行するスタイルを意識的に踏まえたものになっているから、歴史的・文化的であり、それ自体が帰属する(と自己規定した)文化について、自己言及している。しかしそれは外部の人間にはすぐにはわからないので、他の文化圏の人や、結局は同じことだが、後の時代の人にとっては、よくわからないものになっているかもしれない。

 それにしても、なぜメタゲームは通じなくなることがありうるのか。それは、作品が必ずしもそのゲームのルール(その作品が自らをそこに置いているところの歴史的・文化的文脈)を明示しないからである。それはあえて明示されない場合もあるし、そもそもメタゲームをおこなうに際してコンテンツの作者が行った自己規定や文化状況の定義が曖昧だったり、本人にはそれと明確に意識されていないからかもしれない。彼らはとくに自らの行為の意味を問わずなにかをしただけかもしれないし、そこで行われているのは、各人の好き勝手な創作活動かもしれない。

 ここにたとえば批評(あずまん的な意味での)と呼ばれるものの役目が出てくる。それはあえてそのルールを明示し、そこでおこなわれていることの意味を示すものである。あるいはそれは、ときにルールの捏造であることもあるかもしれない(というか常に捏造なのだろう)。だがいずれにせよ、そうやって全てのコンテンツを(暴力的に)一つの、あるいは類型化されたいくつかのゲーム、歴史、文化圏に引きずりこみ、ときに他の圏域にあると思われているものに接続すること、こういう無粋な行為を担うということが、おそらく批評の役割なのだと思う。

 それはある意味で、なにかのフィクション、全体性の幻想を語るということだ。それはもちろんこの時代において親和的でない。なぜなら、人はもはやそういう物語や幻想をナイーヴに信じられないからである。しかし、そういう意味づけの役割を担うものなければ、人は濫造され続ける供給過多なコンテンツ(情報)を語る言葉を持つことができない。

 そして、ふたたび話を戻せば、僕のアニメに対する付き合い方は、ながらくそういう状態にあったような気がする。僕は自分の趣味嗜好でしかコンテンツを摂取していないし、(これだけどっぷりつかっといてなんだという話だが)オタクカルチャーに対する自らの帰属意識に対して懐疑的で、そもそも「オタクカルチャー」などという言葉は、ありもしない領域を錯覚させ捏造するものに過ぎないと感じてきた。でも、僕は最近、そういう文化領域をかりそめにでも画定する言葉を持つために、素朴に「教養」を身につけたいと感じるようになった。この教養というのは、具体的にいえば、ガンダムを全部見るとか、SAO異世界転生の代表作を読むとか、そういうことである(どういうことだ)。そういうふうな文脈を踏まえてさえいれば、そのなかできっと、これまで漫然と見てきたコンテンツについて、語る言葉を持てるようになると思うのである。

 もちろん、必ずしも人は何かについて語らなければならないということではないし、それを僕は他人に強いるつもりもない。そもそも言語化というのは無粋なものだし、それなりに危険なものである。適当に言葉を使えば、借り物の表現でしかものを語れなくなる(どれだけ表現を洗練させても、そもそも言葉が借り物なので、結局はそうなるのだが)。しかもそういうレディメイドの表現はたいてい様々な錯覚や倒錯を含んでいる。だが、その危険性を踏まえ、なお沈黙は金ということを知った上でも、僕はやはり自分の「好き」について他人と語りたいと思う。そういう個人的な思いのうえで、僕はこういうことを考えている。

考えるということ

はじめに

 あけましておめでとうございます。といっても、もう年明けから半月以上経ってるので新年感は皆無ですが。

 それで新年一発目の記事では、ものを考えるってどういうことだろうということについて書いておきたいと思います。まあ、所詮素人考えではあるのですが、一応これでも色々本を読んできて、自分なりにテーマや問いを立ててものを考えてきた人間ではあるので、考えるということについて人並み以上には経験してると思うし、そこから言えることがあるかな、と。

 で、なんでこういう記事を唐突に書こうと思ったかという経緯をいちおう説明しておきますと、実は年始に『リズと青い鳥』を見てどっぷりハマってしまって−−今更かよ!といわれれば「はい…」というしかないんですが、それはともかくハマってしまって、−−それで一本このアニメについて考察記事を書こうと思ったんですよね。

 でも、いろいろ書いているうちに、この作品の難しさとか、それを論じるにあたって採ろうとした方法の難しさとかに辟易としてきてしまって、結局、いまこっちの執筆作業についてはお休みすることにしたわけです。いや、ユーフォの二期とともになんども見比べたり、場面ごとの概要を全部書き出したりしてめっちゃ頑張ったんですけどね、書けませんでしたね…ただ、それはいいとしても、これでなんにも書かないとまたこのブログについての個人的な目標として掲げていた月一更新が怪しくなっちゃうなーという感じだったので、じゃあせっかくだし『リズと青い鳥』論でぶちあたっていた、ものを論じるとか考えるってことの難しさについて、前から考えていたことを書いておくかな、と、こういう次第です。

 とはいえ、ただやみくもに「考えるとは何か」みたいなテーマをドヤッと出しても、まあ強そうだなとは思うんですが、ちょっと扱うのが難しいよなーとか思ったので、とりあえずここでは的を絞って「文系思考とはなにか」ということを考えてみることにします。いや、これも大きいテーマではあると思うし「そもそも文系とか理系とかそういう区別がだな…」と反感を持たれる方がいるのも重々承知ではあるのですが、これはとりあえずのテーマ設定ということで、勘弁してもらえれば。

文系あるあるから考える

 では、あらためて、文系思考とは何か。これについてはいろんな切り口があると思います。でも、ここではひとまず「文系あるある」から、文系ってどういうふうにものを考えてるの、ということを考えるという、ちょっと変わったアプローチをとることにします。

 その「文系あるある」というのは、文系学問好きにまつわる「あるある」、彼らと固有名詞にまつわる「あるある」です。どういうことかというと文系の、ちょっと難しめな本を読んでいる人たちって、大半が固有名詞をすんごい楽しそうに使います。「マルクスが〜」とか、「カントの〜は〜」とか、「小林秀雄の〜」とか、「漱石というのは〜」とかいうときって、なんか文系の人たちって活き活きしている。とにかくめっちゃ固有名詞(とかタームとか)が大好きなんですよね。

 そして、だいたい彼らにはそれぞれ、そのなかでも特権的な位置を占める固有名詞があります。たとえばマルクスが好きな人たちというのはそれぞれに「ぼくのかんがえたさいきょうのマルクス像」を持っていて、それぞれ同じ人の書いた同じ本を読んでいるにも関わらず、そこに書かれている事柄に対する力点の置き方が違ったりする。たとえばある人は物象化論を重視するし、ある人は価値形態論を重視する。こういうことがままあります。

 でも、こういう特権視というのは好意的な例、つまりその固有名詞に対して好意的な例についてのみ見られるわけではありません。なかには特権的な非難の対象になる固有名詞もあります。しかもしばしば見られるパターンとして興味深いのは、そういう非難の対象になる特権的な固有名詞というのが、実はその人にとって以前は好意的な固有名詞だったりすることがある、ということです。

 これ、エビデンスをここで示せるような話ではないのですが、実際文系にはよくある話です。特定の思想家に惹かれ、その人の本を読み、その主張に夢中になる。果ては伝記や、全集にしか入っていないような文章まで読み尽くし、この人こそはと思い、自分なりのその人像を心のなかに構築する。しかししばらく経つと、その思想の瑕疵が目についてきたりして、ある時期を境にこれまでの態度を一変、この固有名詞を激しく非難するようになる。それからさらに一定の時期が経つと、もはや自分はこの人を超えたのだという超然とした態度をとる。そしてこれら一連の流れを新しいマイブームの対象となっている固有名詞に対しても繰り返す。−−もちろん、こういう一連の態度というのをはなからバカらしいと思う人もいるだろうし、こういう自分に途中から気づいてちょっとみっともないな、と思う人もいるでしょうが、たぶんこういうことをしている自分に一生気づかないタイプの人もいます。しかしともあれ、多くはすでに没しており、伝記や本人の著作からしかその人を窺い知れないような、そういう人に対して、こういう強い愛憎こもごもの感情を抱く文系というのはそれなりにいるわけです。

 じゃあそういうことをえらっそーに分析するお前自身はどうなんだよといわれると、実は僕もこういう気持ちはよくわかります。僕の場合、強い非難をすることはありませんが、しかしその思想家に夢中になるというのはあります。そしてそこにはおそらく外野からみれば気持ち悪くて仕方ないような、自己投影の心理があることも事実です。たとえば僕はこのブログではフロイトの話ばかりしていますが、もともとは三島由紀夫という小説家が好きで、僕の考えの多くは、この人から教わったもの、あるいはこの人の考え方の批判的な吟味から出てきています。そういう意味では僕にとって「三島由紀夫」はひとつの特権的な固有名詞であり、今後どれだけ思想的に離反しようと、かけがえのないお師匠様の名前です。一時期は、この人こそ、僕が知りたいと思っていることの答えを知ってる人なんだ、この人こそ僕が感じてきた生きづらさとか世界に対する違和感を明確に言葉にしてくれている人なんだ、と思っていました(たぶんこんな感じで三島由紀夫に自己投影をする人はわりかし多いと思います)。

 だから、僕はこういう人たちの気持ちがわかります。でも一方で、こういう人たちを直感的に間違っていると思う人たちもいるはずだと思うし、その気持ちもまた、よく理解できます。たとえばそういう人たちは、こういう固有名詞に執着する人に対して、公平でないとか、客観的でないとか、そういうふうなことを感じるのではないでしょうか。そして、その感覚の前提には、ものを考えるということは公平で、客観的な営みでなければならないという命題がある。だからこそ、固有名詞に執着して公平性を見失うのはおかしい、どんな思想についても、ある程度距離をとるべきだ、という考えが出てくる。そしてこれはたしかに、納得できる考え方です。

 しかし、残念ながら、僕の考えでは、おそらく文系的思考においては、はなからそういう「公平さ」とか「客観性」みたいなものを不可能にしてしまうような感情や欲望が前提されています。しかもそれは純粋な思考にあとからくっついた不純物とかではなくて、そもそもその思考を可能にするものそのものであるか、あるいはそういうものに由来するものです。それを馬鹿馬鹿しいといって切り捨てるのは簡単ですが、ここではどうして文系的な思考がそうなってしまうのかについて、もう少し突っ込んで考えてみたいと思います。

転移

 そのため、ここでは「転移」という概念を使ってこのあたりのことを考えるとっかかりにしてみたいと思います。この転移というのは(またかよという感じですが)もともと精神分析の概念で、フロイト神経症治療の際に使った言葉です。フロイトによれば、神経症患者は治療の場面に臨んで、相反する二つの気持ちを持っています。一つは神経症から治りたいという気持ちであり、もう一つは神経症から治りたくないという気持ちです。そしてその後者の気持ちから、患者は治療の際に分析医の治療行為に抵抗を見せる。その一つが転移です。こういう文脈での転移は、分析医と患者の関係における過去の人間関係の反復、たとえば両親との関係の反復現象を指します。たとえば陰性転移とかいうと、分析医を父と見立てた患者が、父に対して抱いている敵愾心を、分析医に対して向けてくるわけです。

 ただ、これは分析医にとって必ずしも有害なものではなく、むしろフロイトはこれぞ神経症治療に欠かせないものだと考えます。フロイトはまず転移が起こらなければ、精神分析的な治療プロセスは始まらないと考えた。

 でも、こういうフロイト的な転移の話はここではいったん脇に置いて、続いてはこの概念がのちのち他の精神分析家によってどういうふうに捉え直されたのかってことをここで見ておきたいと思います。そこで紹介したいのがラカンという人の解釈で、ラカンによれば転移というのは分析医を「知っていると想定される主体」として見做すことです。この場合の「知っている」というのは、患者の症状がどのように構成されているのかを「知っている」ということですね。

 といっても、なんのことかわからないかもしれないので、少し迂回して、神経症症状に見られる典型的な構造をここで説明しておきます。神経症とひとくちにいっても様々な種類のものがありますが、ここで簡略的にそのメカニズムを説明すると、神経症というのは「抑圧」という心の仕組みによって生じるとされます。抑圧というのは、患者がある対象にある欲望を向けていることを、患者自身の意識にのぼらないようにする仕組みです。なぜそんなことをするのかといえば、もちろんそういう欲望を患者が認めたくないからですね。しかし、どんなに抑圧しようと、欲望のエネルギーそのものはなかったことにできないので、それはまた形を変えて別のところに出てくる。これが神経症症状としてあらわれる。

 これだけでも抽象的でよくわからないかもしれないので、くわえてフロイト自身の例をあげておきたいと思います。『精神分析入門』で、フロイトは、ある夫人の妄想について語ります。この女性は53歳で、30年前に恋愛結婚した夫とのあいだに二人の子供をもうけ、幸せな家庭生活を送っていました。ところがある日、この女性のもとにある匿名の手紙が来たことをきっかけに、彼女の生活は一変してしまいます。

 その手紙の内容というのは、彼女の夫が、ある若い娘と恋愛関係にあるということを報せる手紙でした。しかし、なぜそのような手紙が急に彼女のもとにきたのか。これについてフロイトは次のように説明しています。

くわしく経過を話せば、だいたい次のとおりです。彼女には一人の小間使いがいました。察するところ、彼女はこの小間使いと頻繁すぎるくらいに内輪話をしていたらしいのです。この小間使いは、夫が経営する工場内にいるある娘に対して憎悪に満ちた敵意をいだいていました。それは、この娘が自分よりも育ちが悪かったにもかかわらず、自分よりずっと出世していたからです。その娘は女中奉公に出ないで、実業教育を受け、この工場にはいったのですが、召集による人手不足のため、いい地位に昇進してしまったのです。彼女は今は、この工場の中で寝起きし、あらゆる紳士たちと交際して、「お嬢さん」とさえ呼ばれていました。人生の競争に遅れをとった小間使いは、当然、昔の友人に対してあらゆる陰口をきくようになったのです。ある日のこと、夫人はお客に来ていた一人の老紳士のことを、この小間使いと話し合いました。この紳士が、奥さんと別居して、別の女性と関係をもっていたことは、誰知らぬものとてなかったのです。婦人は、どうしてそんなふうになったのか自分にもわからないのですが、突然、夫にそんな恋愛関係があったりしたらほんとうに恐ろしいことでしょうねと言ってしまったのです。するとその翌日、わざと字体を変えた匿名の手紙が舞いこみ、呪うべき昨日の話と同じことを知らせてよこしたのです。彼女は、この手紙は意地の悪い小間使いのつくりごとだと推察しました。おそらくそれは当っていたでしょう。というのは、小間使いが憎んでいたあの「お嬢さん」が夫の愛人だとされていたのですから。フロイト 1977,PP.418-419

 そのようなわけで、この手紙は、その前日の夫人の発言を聞いた小間使いが、敵視する「お嬢さん」を陥れるために書いた手紙だったわけです。小間使いは、このことで夫人が夫に対して怒り、夫がことを荒立てないために「お嬢さん」を解雇してしまえば、しめたものだ、ぐらいに思っていたのかもしれません。

 いずれにせよ、夫人はこういう小間使いの企みを見抜き、しかもそれは実際におそらく正しいわけです。しかし、奇妙なことに、彼女はそれがわかっていたにも関わらず、ひどく取り乱してしまいます。そして夫にそのことを問いただし、否定され、自分自身客観的な状況からやはりそれは事実ではなさそうだと納得したあとにも、彼女はずっと嫉妬妄想にとり憑かれます。「お嬢さん」の名前を聞いたり思い出したりすると、反射的に邪推や非難の気持ちが生じてしまうのです。

 では、フロイトは、こういう夫人の症状をどのように考えるのでしょうか。彼はまず、彼女の嫉妬妄想が手紙の件を必ずしも原因としているわけではないと考えます。フロイトはここで前日の小間使いと夫人とのやりとりに注意を促します。彼女は「どうしてそんなふうになったのか自分にもわからない」が、「突然、夫にそんな恋愛関係があったりしたらほんとうに恐ろしいことでしょうねと言ってしまった」。これを考えようによっては、彼女が小間使いに手紙を書くことを思いつかせようとしていたと捉えることもできるでしょう。そこでフロイトは、彼女の妄想は手紙の件ではじめて生じたのではなく、むしろその最初から念頭にあったことだといいます。

 では、そういう妄想はどこからきたのか。ここで彼は分析セッションのあいだ、彼女が彼女の娘婿に対する恋心を抱いているらしい様子を示したこと、そしてそれを本人は意識していないか、わずかにしか意識していないことを見抜き、これに注目します(実はこの娘婿はそもそも彼女の治療をフロイトに依頼してきた依頼人でもありました)。そしてこのような彼女の無意識的な欲望を踏まえ、フロイトは次のように結論します。彼女は実は、娘婿に恋心を抱いていた。しかしその気持ちは、貞淑な良き妻という、夫人が自らをそこに一致させたいと考えている理想的な規範に反し、彼女の良心による呵責を生み出してしまう。したがってそのような抑圧された無意識的な欲望に対する良心の呵責を和らげるために、彼女は、夫の方こそ若い娘に恋心を抱いているのだ、という妄想を作り上げたのである。

 ここには、先ほど僕が抽象的に説明したことの全貌が出揃っています。患者は自分の欲望を認めたくないがためにそれを抑圧してしまう。しかしその欲望自体は消えるわけではないので、その欲望と抑圧の葛藤の結果が別のかたちで、一見不合理な症状となってあらわれる。これが神経症の基本的なメカニズムです。

 それで、話をふたたび転移のそれに戻しましょう。ラカン的転移概念によれば、患者は分析医を「知っていると想定される主体」としている。そしてその場合の「知っている」とは、患者の症状がどのように構成されているのかということを「知っている」ということなのでした。ところで、今までの説明であきらかになったように、患者の症状を構成しているのは、患者自身が認めたくないと考えている欲望と、それの抑圧です。したがって、患者が分析医に「転移」を起こすとき、患者はそこで分析医が患者の無意識的な欲望を知っていると考えているわけです。

 しかし、そもそもそれは分析医しか知りえないことなのかというと、そうではありません。たしかに、本人の意識にのぼっているということを「知っている」という言葉の意味として定義するなら、患者はもちろん自分の欲望を知らないわけですが、逆にいえば、そもそもその欲望は患者自身のものなのですから、無意識においては、患者はその欲望を「知っている」わけです。そして、患者はそのことを自分自身の分析医に対する行動によって示してしまう。

 たとえば、フロイトの論文のなかでも僕が大好きな論文に「否定」というタイトルのものがあります。この冒頭でフロイトは、次のようなことをいいます。

「この夢の人物は誰かとお尋ねですが、母ではありません」。われわれは「それは他ならぬ母である」と訂正する。分析の際には、否定を無視して、患者の思いついた内容だけを自由に取り出すのである。患者が「この人物は母ではないかと思いついたのですが、この思いつきをそのまま認める気にはなれないのです」と言っていると考えるわけである。フロイト 1996,P.295,太字部分は引用元では傍点

 この例において、分析医は「この夢の人物はあなたのお母さまですか?」などとは訊いていません。たんに、「この夢の人物は誰ですか?」と訊いているだけです。それにもかかわらず、なぜ患者はよりにもよってわざわざ特定の人物に言及して、これはその人物ではないなどと言わなければならないのでしょうか。こういうおかしさに、分析医は注目するわけです。そしてそもそもこういう患者の反応は、分析医が自分の欲望を知っているのだと想定した上で、「きっと分析医はこう言わせようとしているに違いないから、それを先回りして否定することでバレないようにしよう」というふうに立ち回る抑圧のシステムがなければありえません。したがってラカン的な転移の内実は、このような場面で明かされることになります。

父との関係あるいは考えるということの難しさ

 ここまでを説明したところで、この文章の本筋にやっと入ることができます。

 今までかんたんに説明してきたラカンの「転移」概念ですが、これを別のアプローチから考えると、また別の様相が見えてきます。そして実はそのアプローチから「転移」を考えることこそが、文系思考のことを考えるための大きな手がかりになると、僕は考えています。では、そのようなアプローチとはなにか。それは、ここで患者が分析医を「父」としてみなしている、と考えてみるアプローチです。

 ここでいう「父」とは、先ほどフロイトの「転移」について僕が述べた時に例に出したような実際の「父親」のことではありません。そもそも精神分析的な意味での「父」とは、メタルールを知っており、担っていると神経症者が想定する存在のことを指します。ここでいう「メタルール」とは、ルールのルール、ルールの王のことです。

 たとえば、精神分析の概念のなかでもっとも有名なエディプス・コンプレックスの図式について考えてみます。エディプス・コンプレックスの図式とは、古代ギリシア悲劇『オイディプス王』のあらすじからヒントを得て作られた図式で、息子はおしなべて、無意識において父を殺し、母を犯したいと考えているという欲望を持っているが、その欲望を貫こうとすると父親に去勢されてしまうため、その葛藤によって苦しむ、というような図式のことだと考えてもらっていいと思います。

 まずここで注目すべきは、父の非対称性です。父は息子に対して上位(メタレベル)に立っていて、息子は無力なため、父に敵いません。しかし、父はそのような恐ろしい存在であると同時に、その万能性によって、息子を条件付きで他の外的な脅威から守ってくれる存在でもあります。その条件とは、彼の敷く法に従うことなのですが、これはたとえば道徳的な法だったりします。世の中にはときに公平世界仮説という「世の中は因果応報でできていて、良いことをする人間は幸せになり、悪いことをする人間はひどい目にあう」というルールを信憑している人たちがいますが、彼らはどこかにそういう法に従う限り、自分たちを死や病や偶然的な不幸から守ってくれる存在がいると、あるいはそういうルールはちゃんと世界において機能しているのだと、そういうふうに信じようとしているわけです。したがって精神分析的な表現を使えば、彼らはそういう意味での父の傘下にあるといえる。

 こういう理解でいえば、父とはまずもって、世界(良い人でもひどい目に合い、悪い人でも幸せになることがある世界)の無意味さ、不条理さ、偶然性から、子を守ってくれる存在であるわけです。そしてこの「偶然性」という部分に注目すると、これ以外の説明図式でも、父を説明することができる。たとえばスピノザという哲学者は「世界は必然的な因果法則に貫かれており、それが偶然に見えるのは、単に人がものを知らないからだ」というふうに受け取れるようなことを言っていますが、こういう偶然-必然の軸から考えると、ここでいう「父」はさっきの転移の対象、つまり「知っていることを想定される主体」のイメージに近くなってくるかもしれません。ラカンはこれを次のように説明します。まず、子は最初母に全面的に依存していて、衣食住や排泄の世話などを頼りきっている。したがって母親にはつねにそばにいてほしい。しかし、母はしばしば自分のそばからいなくなってしまううえ、それがなぜなのか子にはわからない。そこで子は母のこの現前と不在の「偶然性」の法則をなんとかしてつかもうと推測をめぐらせ、結局母の欲望の対象としての「父」にたどり着く。ここでは「父」は、(道徳的な因果応報といった)目的因的な必然性を世界に与える存在ではなく、(科学的な因果関係といった)作用因的な必然性を掌握する存在です。

 いずれにせよ、このようにして、精神分析的な「父」とは、子が彼に従うかぎりにおいて世界の偶然性(より精神分析的にいえば「寄る辺なさ」)にルールを与え、子を守ってくれる存在です。そしてこういう存在として患者は分析医をみなす(転移する)。−−この構図、何かに似てはいないでしょうか。

 僕がこういう長ったらしい説明を経ていいたかったのは、結局そのことです。つまり、おそらく文系の人たちがしばしば固有名詞にこだわってしまうのは、このような意味での「父」として、その固有名詞で名指されるある一個人に「転移」を起こしてしまうからです。

 もちろん、こういうことをいうと、すぐさま次のような反論が飛んでくることは予想できます。つまりそれは、「いや、それはそもそも神経症患者に当てはまることであって、一般の人には当てはまらないんじゃないの」というものです。しかし精神分析的には、そもそも人は基本的に「神経症的」なのであり、それが症状として出るかどうかの境目は、(たとえば社会的な)規範と自分の欲望がどれだけ折り合えているかどうかとかいった具体的な状況に依存したものにすぎない。したがって、ここで僕がふつうの人をさして「神経症的」ということにも、ある程度の正当性はあるわけです。

 それで話を戻すと、やっぱり「生きる意味ってなんなんだ」とか「この社会は何かおかしい、なんでみんなこんな社会に適応できるんだ」とかいった文系的な疑問を持つ人のなかには、つねに何か世界に対する違和感や苛立ちを持っていたり、自分自身の考え方からくる生きづらさを感じている人が多い(しかもこういう気持ちがあるということは、意外と思想書を読む上ですごく有利だったりします。そもそもこういう違和感がなければ抱けない問いや、その違和感を構成している前提としての理屈があらかじめ自分の側にあることで、なぜその思想家がこういうことや、そのことのつぎにあんなことをわざわざ書かなければならないのかということがわかる、少なくともわかった気になれたりするからです)。そしてそういう人たちは、世の中の人が受け容れたり、受け容れたフリをしているルールを懐疑しているし、それを受け容れるフリさえうまくできない。とはいえ、まったくルールのない世界というものには、人は耐えられない。だからこそある特定の個人に、この違和感や苛立ちや生きづらさの法則を、そして世界のありうべき姿を知っている「父」を見出したくなるのではないでしょうか。

 そして、実はこういう意味での「父」は、精神分析的には、「ボクはすごいんだ」という幼児的万能感を人が諦めたあとで、それを委託している対象でもあります(正確にはこれを「二次的ナルシシズム」とか、「自我理想」とか、「超自我」というふうにいいます)。そしてこのナルシシズムのシステムは、フロイトにとって人が妙に他人に魅了されてしまうあの現象、つまり「カリスマ」のシステムでもあります。たとえば僕の例でいえば、僕は一時期三島由紀夫に対して転移し、カリスマを見出していたということになるわけです。

 しかし、先ほどもいったように、このシステムは裏に暴力性をつねに潜ませています。なぜなら息子はつねに「父を殺したい」からです。すごくいやな言い方をすればボクこそが一番なんだと思いたいし、猿山の大将になりたい。だからこそ、自分が「父」と仰ぐ存在のいってることに少しでも瑕疵が見えてくると、掌を返したように攻撃的になる。抑えられていた父殺しの欲望が噴出してきてしまう。こういう関係にある限り、子にとって父は偉大な父であるか、従うに値しない、殺してしまっていい父のいずれかでしかない。

 でも、そういう欲望は、必ずしも悪いものとは限りません。なぜなら、そうした転移は世界に対して一貫的な説明体系を与えたいという欲望がなければ成立しないからです。そもそもなぜそういう人たちの転移の対象となる思想家たちが優れているのかといえば、それは彼らがそれなりの長くて複雑な因果関係を用いて、世界の仕組みや、そのなかで一見関係ないように思える諸々の出来事の関係を語って見せたからだと僕は考えています。その意味で知るということは、QであるとかQでなければならないという誰かが出した結論や一般論をその根拠を問わず鸚鵡返しに繰り返すことではなく、なぜならばPだから、そしてそのPは〜だから、というふうに、長い系列を説明できるようになることではないでしょうか。そして彼らは転移によって、固有名詞の残した様々な発言のあいだに関係を想定し、発見し、因果関係の網を構築していく。するとなんとなくそうした思想家の考えていることの究極原理というか、核というか、そこから彼らの様々な命題が派生してくるような思考のイメージ、あるいは公理の絡まりみたいなものが見えてくる。こうして転移の欲望によって、人は自分なりの知を構築できるようになる。

 そしてこれは僕がアニオタだから思うことなのかもしれませんが、こういうのって、ちょっとキャラクターの解釈と似ているようなところがあると思います。たとえば僕が『リズと青い鳥』論で問題にしようとしたのは、ひとつには『リズと青い鳥』の希美、つまり山田尚子的(厳密に言えばアニメは集団制作なので監督の意図にそのすべてを還元することはできませんが、ここではとりあえずそうしておきます)希美と、『響け!ユーフォニアム』本編の希美のあいだのズレでした。そこで僕は山田尚子のキャラクター解釈はありうるが間違っていると考えたわけですが、そういう考えがそもそも起こり得たのは、僕のほうにも希美というキャラクターの一貫性が想定されており、そこで僕と山田尚子のあいだの「解釈違い」が起こったからです。

 しかし、その一貫性は目に見えるものではないし、どこまでもイメージにとどまらざるをえないものです。そこにあるのは、映像に映ったキャラクターの言動や行動だけです。それと同じことが思想家にもいえます。思想家というのは、違う問題について、違う語彙で、しかし抽象化すれば同じに見えるようなことをしばしば語ります。しかしそれがその思想家の「内面」において抽象化すれば同じであり、そういう思考原理から全てを一貫的に語っていたということを示す証拠はどこにもない。そもそもその「内面」がその固有名詞と転移関係にある読者の錯覚にすぎないかもしれないわけです。そしてその読者が思っているほど、一人の人間が言ったり書いたりすることの一貫性というのはなかったりするものです。

 したがって、転移関係が対象の「内面」に一貫性とルールの理解者としての理想像を強く想定する限り、その欲望はかならず想定された一貫性のほころびや、その説明図式で説明できないものごとへの気づきを生み出してしまう。繰り返しになりますが、そこから父殺しまではあと一歩です。そして今度はそういう「間違った」相手を殺して自分が一番になりたいがため、転移していたという事実を認めたくないがため、自分とこいつは違うということを示したいがために、強い非難をしたり、冷笑的な姿勢をとるようになる。しかしその失望を通して、人ははじめて自分が転移関係にある限りにおいて捉えられていたそのような不完全な枠組みから抜け出すことができる。その繰り返しによってその人の考えは洗練されたものになっていく。

 とはいえ、これまで散々擁護しておきながらも、やはり僕はこういう転移関係によってものを考えるということを良いことだとは言い切れません。僕はこういう人たちの気持ちがわかる気がする一方で、その手のひら返しの身振りに嫌悪感を抱いてきました。なぜなら、そういう身振りが不誠実であるということもさることながら(というかそれは結構本質的なことだと思うのですが、それはともかく)、結局ものを考えるということにおいて不利にはたらくと思うからです。

 そもそも、こうした人たち(もちろん部分的には僕も含まれます)がものを考えるのは、自分たちのナルシシズムを守りたいというのもさることながら、もうひとつには、先述したように、自分や社会や世界に対する違和感からでしょう。そしてそれは少なからず倫理的な意識からでてくる違和感であるはずです。自分はどうすれば正しく生きられるのか、どうすれば世界はこんなひどいものでなくなるのか、どうすれば社会に生きる人たちはお互いに暴力を振るわないですむのか。そういうことを考えたとき、少なからず人は、(先に出した夫人の例のように)現実を直視したくないがあまりに他人に対する暴力を振るう人々や、そういう暴力を制度化し、自明視し、良心の呵責を覚えることのないこの社会の状況に怒りを感じてきたはずです。かりにそういう怒りや救世願望が子供じみたメサイア・コンプレックスやヒロイズムから出てくるものだとしても、いやだからこそ、人は自分がそういうことをやっているかどうかに対してつねに懐疑的でなければならないし、その見地からすれば、一度は自分が感化された父を殺して、自らの思想的出自そのものを否認するような身振りは、自分が怒りを向けてきたもののそれの再演でしかありません。しかし、そのことに自覚的でないかぎり、人は自分がやってることと自分が怒りを向けている人たちがやっていることの類似性を捉え損ない、その意味で自らの思考を裏切ることになってしまいます。僕がその手の手のひら返しが嫌なのは、そうすることによって、そもそも思考とはつねにたえざる自己批判とある種の暴力の批判であるはずなのに、それが無批判に自己肯定とそのことによる暴力にリンクしてしまうからです。もちろん、そうした自己肯定や暴力はつねに考えるということにつきまとうことですが、それと簡単に馴れ合うべきではない。

 いずれにせよ、こんなふうな「転移」や「父殺し」による思考パターンというのは、その手の思考を駆動する条件であると同時に、それを裏切ってしまうものでもあります。そしてこういうふうな文系特有の思考のありかたこそが、論壇などでよくありがちな前の世代の「父」を殺すことで自らの名を挙げようというふうなホモソーシャル的マウンティング合戦の繰り返しを生むのだと、僕は考えます。もちろん、人の考えを鵜呑みにして、ずっとその枠のなかでものを考え、そこに安住したいがために、その説明図式のほころびや、それの反証となるような経験的なデータを無視するよりは、それはいいことなのかもしれません。そしてそういう界隈には、そういう戦闘を好む人たちがいるのも、そういう購買層がそういう出来事が生じうる場所そのものを支える一部であることもわかります。しかしそれはものを考えるということにときに不利に働くし、ものを考える際には、つねにそういうことを自覚していなければいけない。ものを考えるということの難しさは、そういうところにあるんだろうなと思っています。

参考文献

フロイト,ジグムント(1977)『精神分析入門』上巻,高橋義孝他訳,新潮社

同上(1996)『自我論集』竹田青嗣編,中山元訳,筑摩書房

 

 

はじめてお越しの方へ

はじめまして。

当ブログ管理人のかんぼつといいます。

『かんぼつの雑記帳』へようこそ。

 

ここでは、はじめてこのブログをご覧になった方に向けて、このブログの読み方を案内しておきたいと思います。

 

ここには、おもに二種類の記事があります。

 

ひとつは、僕が僕自身のために書いた、メモがわりの記事。こちらは『メモ』というカテゴリーに記事分類されています。

 

もうひとつは、人に読んでもらうために書いた、ある程度内容のまとまった記事。こちらは『エッセイ』というカテゴリーに記事分類されています。

 

『メモ』には、もしかしたら見覚えのない言葉が書いてあったりして、不気味な怪文書じみたことがあるかもしれません。したがってこちらはあまりおすすめしません。

 

いっぽう『エッセイ』は、ある程度人が読むことを想定して書いていますので、『メモ』よりも内容が比較的まとまっていて、まともな文章です(あくまで比較的、ですが)。

 

そのようなわけで、管理人としては、まずは『エッセイ』のなかから、興味のあるものをお読みいただくことをお勧めします。

 

もちろん、これはあくまでガイドマップなので、どのように読むか(あるいは読まないか)は読み手であるあなたに一任します。

 

それでは、ご自由にお楽しみください。

 

かんぼつ

オタ活まとめ01(2018)

友人に影響を受けて今年見た・読んだ作品の総括などすることにしました。いや、やっぱこういう言語化・歴史化作業大事だよね、ということで…。

 

 

◯2018年アニメ

冬クール

ヴァイオレット・エヴァーガーデン

 京アニ堀口悠紀子キャラデザの影響からいいかげん脱したほうがいいんじゃないかとか思うわけですが、それはともかくやはりこの作品。京アニクオリティは毎度のことなのですが、それでもやはり映像がすごくきれい。とはいえ最後まで見てはいません(という作品が以後めっちゃでてきます)。

 本作は郵便局とか代筆の話なので、なんかこう(某大陸哲学的に)いろいろ面白い話だなあと思ったのですが、なんかいい話だなーで終わってしまった感。覚えてるエピソードもあまりありません。なんか泣いたりしたんですが、やっぱり涙活的コンテンツ消費は話を忘れますよね。カタルシスー。

 マジレスをするとこの作品はちゃんと腰を据えて見るべきでした…。

学園ベビーシッターズ

 地元の友人に勧められて見たのですが、見はじめてまっさきに僕の胸にこみあげたのは、コンテンツの内容云々よりも、「友人、おまえどうした…?」という困惑の思いでした。どうやら虎太郎くんにほだされたらしいのですが、ちっちゃい男の子のかわいさにほっこりして少女マンガ原作アニメを見てしまうようなハートウォーミングな人間だったとは露知らず…もっとこう、ゲームのやり込みに血肉を捧げてハートウォーミングのハの字もなくなった荒んだオタクの成れの果てみたいなやつかと思っていました(言い過ぎ)。人って長年の友人でも知らない意外な一面を持っていますよね。

 で、本編について一応言っておくと、これは僕は全話見てます。やっぱり少女マンガって肌に合うんだよなあ、とか思いつつ。こどもたちも可愛いし、ヒロインも男たちもいいやつらだし、なんか優しい世界だなあと思いました。優しい世界に浸っているだけではいかんなあ、とも思いましたが。あと個人的に狼谷兄弟のお母さんというか狼谷先生がめっっっっっっちゃ好みなんですけど、わかってくれる人いますかね…?

ダーリン・イン・ザ・フランキス

 途中までしか見てないですね、これも…いや全話見る気はあります。

 これは後述する『SSSS.グリッドマン』とおんなじで、エヴァの影響が露骨だし、色が綺麗だし、A-1とTriggerが組んでやったという点ですごく興味深いし、(かつてエウレカセブンアネモネが好きで好きでたまらなかった中学生時代を過ごしたので)ゼロツー可愛すぎるし、いいアニメなんですが、やっぱ僕シリアスものは一気見したい人で、こういうのって週放送でみるのつらいんですよね…。

 実はこの作品についてはいろいろ論点があって超面白かったので、三島由紀夫の『文化防衛論』とかフロイトの『快感原則の彼岸』とか伊藤計劃の『ハーモニー』とかと絡めつつめちゃ壮大な作品論を作る予定があったんですが、なんかそういう三島がどうとかフロイトがどうみたいなことをいってタームとか使って賢しらな論を書いてもなんかドン引きみたいになるし、まあ書かなくていいかみたいな気になってるのですが、ただ作品論というか考察記事そのものについてはそういう話は全部抜きにしてコンテンツのなかのはなしだけを丁寧に掘り下げつつ書ければなあとぼんやり考えています。そのためにCONTINUEのダリフラ特集号も買いました。これが「全話見る気はあります」の意味です。

 でも、この作品で僕が個人的に好きなのは上述のこともそうですが、やっぱりいちばんは田中将賀のキャラクターデザインなのかなと。なんか『あの花』くらいの時期の田中将賀はぜんぜん好きでなかったというかむしろなんだよこのぬぼーんとした顔ともにょっとした線の髪の毛はよう! とか思ってたんですが、『じょしらく』あたりからだんだんと、「あれ…なんかよくね?」となりだし、『君の名は。』とか本作とかのキャラデザに至ってはどストライクな感じで、あーなんか絶妙なバランスで成り立っていてほんとうに美しいなあと思いました。とくにゼロツーが。

BEATLESS

 僕の友人たちがすごいハマり、本作のレイシアというヒロインを参照しながら(?)「常勝ヒロイン」なる謎の概念を生み出してたりしていたアニメ。僕は常勝ヒロインなるものの外延も内包もよくわからないしその魅力もよくわからないので、逆に興味があって、そういう意味ではその最たる例が出ている本作も見なければならないのですが、紅霞が退場する手前までしか見てないんですね…。あとTwitterのTLで僕が観測しているべつの界隈、伊藤計劃あたりの日本SFとか機龍警察シリーズを好きな人たちが最初集まってできたと思われる謎の界隈(探ヘク界隈)などはいかにも好きそうな話だなとか思いながら見ていました。

 そのうち見たい。

ゆるキャン△

 みんなゆるキャン△好きだよねーという感じで見ていました。なんか全体的に作りが丁寧だしキャラクターも可愛かった記憶があるのですが、なぜか切ってしまった。見てもいいし見なくてもいいみたいな作品だったのかもしれません。個人的にはしまりんが好きです。

 春クール

ヒナまつり

 このアニメほんとにいったいなにがやりたかったんですか?(いったいなにがやりたいのかわからないアニメが好きな厄介オタク並みの感想)

 無駄にいい作画とナンセンスギャグと独特の世界観に引き込まれたのかなんなのか、結局最終話まで見てしまったのですが、あえてその最大の魅力を言語化するなら描かれている人種が面白いということになるのかもしれません。繁華街のバーテンとかヤクザとかホームレスとか、なんかそういうちょっと周縁的な人たち? が多かった気はします。とはいえ、中学生とかその学校の先生とかも出てきたりしたんですが。

 あと主人公のヒナをはじめとした劇中に出てくるクズどもの描写が妙に生々しくて、この原作者の人間観と人生が気になりました。

 夏クール

 あそびあそばせ

 Twitterでなんども言っていますがこういうアニメを好きになるような人間は品性下劣であり、来し方を振り返って自分がなぜそんな人間になってしまったのかということをしっかりと悔い改めるべきではないかと思う。とはいえ全話見てしまったしめっちゃ好きでした。まあこういうね、なんか好きなものをあえてけなしていくタイプの一周回った称賛はかっこ悪いしよくないなとは思うんですが、でもやっぱりこの手の好みを自信満々に公然と口にするのは良くないと思う。なのでブログでこっそりひねった表現で表明せざるを得ない。

 個別のエピソードは覚えていませんが、やっぱアポクリン汗腺のくだりは試されている気がしました。というのも、僕は実はここ数年「ふつう不快なものが好きなものとセットで出されると、人はその不快なものを組み合わせや錯覚で好きになってしまうのではないか」説を個人的な仮説として半信半疑で提唱していたのですが、どうやらこれが当たっているかもしれないと、今回オリヴィア(好きなもの)+アポクリン汗腺(ふつう不快なもの)の組み合わせを繰り返し鑑賞しているうちに思ってしまったわけですね。つまり「あれ、ワキガ美少女いいのでは…?」という…やっぱりこういうふうな下劣な人間になってしまうのでこのアニメはほんとうによくないんだなあと思います。

 個人的にはオリヴィア兄妹と華子の喪女ネタおよび木野日菜さんの体当たり演技が大好きです。二期があったら絶対見るぞ!

少女☆歌劇レヴュースタァライト

 わかります。

 というか僕はやっぱり輪るピングドラムが大好きで、あとあれのキャラソンアルバムというかHHHのカヴァーアルバムはガチ名盤だと思うしああいう音楽ばかりが巷に溢れていれば僕の音楽生活ももっと楽しいものになっただろうなくらいのものなんですが、それはともかくとして、やっぱりイクニ節を受け継いだスタッフが制作した作品なので、やっぱりある程度は好きなんですね。ただ、これはtwitterで友人と話していても思ったというか、これは二人の一致した見解なんですが、なぜかそこまで好きになりきれなかった。百合だし、色綺麗だし、作画安定してるし、キャラデザいいし、微妙にループものでもあるし、イクニ節だし、好きな要素しかないんですが…これはいつか考えてみるべき問題かもしれません。

 あと僕は「わかります」より「バナナイス!」の方が好きです。ばななちゃん凛々しいのに可愛くて最強すぎないですか? 身長が高いのもいいよね。

 秋クール

SSSS.グリッドマン

 いわずとしれた今年度最高峰の百合作品。尊い~。…Citrus? やがて君になる? いや、知らんがな(*政治的に正しい注釈をしておくと貶す意図はありません)。

 後半になってからがすっごい面白いよなあ、と思ったら、なんかすっごい少数派の意見なんですねこれは。エヴァのパクリで意味不明とか言われてるけど、逆にエヴァの呪縛に囚われないでオタクやってる奴らってなにが楽しくてアニメ見てるんですか? ちょっと僕には理解できないですね。

 

 まあそれはともかくとして、この作品の物語については上記の別の記事で書いてるんでこれ以上言及しないとして、それ以外の魅力をあげると、やはり色がビビッドで綺麗ですね、第一に。色が綺麗な画面を作るアニメって全般的に信用できると思うんですよ。アニマスとかね。

 それから、僕は(なかばオッサンの領域に片足を突っ込んだ)男の子なんですけど、残念ながら合体!とかメカに興奮する人間ではないので、グリッドマンや怪獣のデザインなり動きなりがどうみたいなのってあんまり見ることができていなくてですね(公式twitterではいろいろそこらへんのこだわりについて書かれていたりCG作画を担当なさった会社? のpostがRTされていたりして面白かったです)、どちらかといえば作劇の雰囲気というか、あの高校生たちのけだるい感じとか、リアルっぽい会話劇がなんともいえずよいなあとか思ってみていました。ただああいう作りかたって先が気になるタイプの作劇の仕方とどうしても噛み合わない気がするというか、だからやっぱ一旦切っちゃったというところがありますね。これは僕が悪い。

 あと一つ気になったのが、たまになんか演出が変だなと思う時があって、怪獣とグリッドマンが戦っている時に流れる音楽がやけにしらけた感じがしたというか、そのタイミングでそれ流されても僕別に熱くならないけど…みたいな音楽の使い方が多かった気がします。なんでだろう。まあ熱くなって欲しかったかどうかはわからないんですけどね。

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない

 まず文句からいうとやっぱりいくら冗談でも空気読めててあえて空気読まないんだとしてもセクハラはよくないと思うよ咲太というのがあります。ただでさえ美少女ゲーム方式ハーレムラノベ方式なわけだし。やっぱり女の子を男の子主人公が救う構図ってただでさえウエメセなわけじゃないですか。なんかそういうのでセクハラ…いや当人たちの信頼関係が成り立ってるならいいのかもしれませんが。

 とはいえ、僕は結局そういう構図を前提しつつも真剣に悩んだりなんだりしている美少女ゲームやハーレムラノベが好きだし、その点では青ブタって真面目に作られてるなぁ感じるし、そういうところがこのアニメの好きなところだったりします。

 それから作画方面について言及すると、このアニメはキャラクターデザインがすごい。何がすごいかというと、溝口ケージの原作絵をめっちゃアニメ向きに美しく作ってるんですよ。プロポーションもいいし顔もいいし線もいい。何年か前にさくら荘がアニメ化されて、あれはあれでいいと思うんですけど、今回のキャラデザは完璧だと思います。そんなわけで今回あらたに田村里美という固有名詞を覚えたんですが、この人はヴァルヴレイヴの作監とかやってたんですね(作画wiki仕入れた浅い知識)。

 そしてヒロインの話をすると、やっぱり僕は桜島麻衣先輩が素直に好きです。なんかこれはポンコツだからとか陰キャだからとかそーいうしょうもない一周回った嗜好ではなく、お姉さんで大人っぽくて綺麗で、だけど恋愛にはうといからそっち方面ではちょっと隙があって可愛いといった要素があるからで、これマジで理想の彼女じゃないですかと素朴に思うわけです。まあでもこういうのいないからね、ちゃんと現実見ていこうね。

ゾンビランドサガ

 いくつか個人的に供給に飢えているものがあって、たとえばTSおよびTSFものとかそうで、けんぷファーとかあんまよくないし、俺ツイも作画崩壊がひどいという、なぜかTSおよびTSF方面のものって供給少ないしクオリティもよくないものが多いんですよね。で、そういう個人的に供給ねえなーと思うもののひとつにゾンビ美少女ものというのがあって、パッと思いつくのが『さんかれあ』ぐらいという(ほかにもあるけど)。なお、僕は正統派ゾンビ好きにとっては発狂ものだと思うんですがゾンビとかどうでもよくてゾンビ美少女が好きなだけなので、ロメロとかは全く見てません(もしかしてここでロメロとか言い出すのがにわかだったり? こわい)。見なきゃなあとかは思うんですが。とりあえずユリイカのゾンビ特集号は買ったので、これで勉強しようかなと思います。

 で、そんなわけで『ゾンビランドサガ』です。ただはっきりいってこのアニメには期待を裏切られました。やっぱり僕の本作品についての初めての体験って(当たり前だけど)1話だったわけで、あの1話が好きだったからこそ続きを見たのだし、あの1話の感じで全てが進行してくれたらよかったんですが、残念ながらそうではなかった。

 ただ、やっぱり見ていくとそういうことではなかったんだなというか、この作品っていうのはいろんなものがごったまぜになっていて、毎週何をやるのかわからないところが面白かったんだなと。そういう意味では、当初の期待とは別の意味でものすごく楽しめたし、なんか作品の出来とか関係なく(これは出来が悪いという意味ではないです)、純粋に好きだなあという世界になっていて、これはなんだろうか、愛着みたいなものが湧いてきた感じでした。今となっては全てのキャラクターが愛おしいです。

 ところでシリーズ全体の構成について話をすると、僕の感覚では、このアニメは全12話を1/2・3・4・5/6・7・8・9/10・11・12というふうに区切ることができるかなと。1話はまず出オチ芸ですね。それから5話までは比較的ギャグ要素が多く、各キャラの絡みを見せたりするところが多かった。それから6~9話は一部キャラの過去掘り下げ回。そして10~12話はさくらの過去に絡めてクライマックスを作り、伏せられていた謎を明かしたり、伏線の一部を回収して終了、といったような感じでしょうか。僕が本作のなかであまり好きではないのは3話と9話で、他は大体横並びぐらいで好きですが、やはり一押しはtwitterでも一部で話題になった5話の幸太郎と愛ちゃんの絡みです。この回の種田梨沙の「はいはいサガジェンヌサガジェンヌ」と舌打ちはなんだか不思議と人を惹きつけるものがあるし、その前後の流れも妙に心に残るものだった。なんかたまにこういう何がいいんだかわからないんだけど妙に心に残る場面ってありますよね。もう180度違う例なので申し訳ないのですが、個人的にそれだなと思う別の例をあげておくと、『ゴッドファーザー』の最初のやつの、マーロン・ブランドが孫と追いかけっこしてる時に死んじゃうシーンです。あれはなんか奇妙に印象に残っている。というか、そういうことを最初に言ったのは大学の友人なので、僕はそういう目でこの場面を見ているだけなのかもしれないですが、それはともかく…。

 それで『ゾンビランドサガ』にはいろいろ魅力があると思うのですが、それをあえて一言でいってしまえば、ごった煮感、雑居感なのかな、と思います。

 たとえば、迂闊にも魚拓をとってないのでここで引用することはできないんですが、境監督がtwitterで、「やっぱり人の感情って意外と正反対に思えるものでも同居しうるものだし、人って悲しいだけの時とか、楽しいだけの時ってない。今回の作品ではそういう発想を演出に反映させている」的なことを言っていて、ああそうかこれは監督がわかってやってたことなんだ、と感動した記憶があります。これって一体何のことかというと、たとえば12話でライブに臨む気概を失ってしまったさくらに「あなたがいたからこれまでやってこれたんです」的なことをいいつつ良さげなムードを醸してほかのメンバーが励まそうとしたくだりがあったんですね。まーこれマジでよくある展開だなというか流れだよなあというのはよくアニメを見る人なら(とりわけアイドルアニメには多いと思う)わかってくれると思うんですが、ところが『ゾンビランドサガ』ってそういう流れをばっと断ってしまうんですよね。「いや、そういうのいいから」みたいなことをさくらがいうわけです。要するに、ひとつのムードに収束していきそうな時に、つねにそこに流されていないキャラがいたり、別のムードが侵入してきていたりして、それが『ゾンビランドサガ』特有の泣いていいのか笑っていいのかわからんみたいな空気を作り出している。他の例を出せば愛ちゃんとかリリィの死因とかがこれですね。たぶんこれ、ふつうの視聴者は困惑するし、そういう場合人ってしばしば「いやこれは泣ける話なんだ」「いやこれは笑える話なんだ」って、一つの解釈コードというか、一つの解釈ムード? にコンテンツ理解を収束させようとする傾向があると思うんですが、この作品ってそういうのをバラしちゃうんですよ。そもそもゾンビ美少女というのがそういう存在で、生きてるか死んでるのかわからんし、可愛いけど不気味だし。それからたとえばよく死後ネタをメンバーがいうわけですね。「死ぬ気で頑張れ!」「いやもう死んでるから」みたいな。こういうナンセンスギャグにあらわれる収束できないいろんなコードやいろんなムードのごった煮、雑居というのが、このコンテンツでは様々なところに散りばめられている。僕はこれが『ゾンビランドサガ』の一番の魅力だと思っています。これさっきのエヴァ語りにも通じるんですが。

 とはいえ、やっぱりこの作品はいくつか問題がある。ひとつは脚本がたまに雑なこと。それからもう一つは作画が安定しない。とくにたまに手や指の描写がいやそれ手じゃないでしょ、みたいなのがあるなあと。でも深川さんのキャラ原はもうこれすっごい言われていることだと思いますが最高です。

 あとゆうぎリリィ尊いとかモブが素晴らしいとか純子のイケボ好きとかいろいろ言いたいことはあるんですが、これ以上語ると長くなりすぎるのでやめます…。『ゾンビランドサガ』はいいぞ。

ひもてはうす

 てさぐれとかああいうのが好きな人ならまず間違いなく好きだと思われる短時間ナンセンスギャグ3DCGアニメ枠。声優がキャラをロールプレイしつつほぼ素で喋るいつものパートもありました。

 とにかく小ネタが多かったし、唐突な展開もあったりして、その実験感が面白い作品ではあったのですが、後半は若干失速気味だったかな。

 なんか見たい見たいとも思わずなんとなく見てしまった不思議なアニメでした。EDでの他アニメ作品のキャラクターのコスプレをひもてはうすの面々がおこなっている映像を見ながら毎回作品名を当てては大はしゃぎするバカなオタクをやれたのは楽しかったです。

 

◯その他アニメ(こっちは最後まで見たアニメだけ載せます)

PSYCHO-PASS(一期のみ)

  いやなんかすごい面白かったし、天野明のキャラ原すこだなあと思ったのですが、なんか作画がなあ、と。

 虚淵玄って社会をどう描くんだろという興味を持って見たのですが、その当初の興味を忘れて完全に普通に見てました。でもなんていうか、設定とか話の運びとか、やっぱりユートピアにみせかけたディストピア、みたいな近未来社会を描くときのSFのいつもの感じだなという感じで、個人的にはそこまで面白みを感じなかったかもしれない。いやもっとこのコンテンツならではのユニークな視点や面白さがあるんだよ! という人がいたら教えていただけるともっと面白く見られるかも。

 やっぱりあんまり面白くなかった原因の一つには槙島聖護の設定の問題があって、この人めっちゃ社会の異分子でカリスマのあるかっこいい奴みたいに描かれてるんですが、語ってることは超古典的で、新奇でも特異でもなんでもないんですよね。ようするにこの社会って全部シビュラシステムが人の人生を決めてくれるしそれが最善だとみんな思ってるので個人の主体的な選択の意志が意味なくなっちゃったよねっていう社会で、槙島聖護はそれに対していややっぱ個人の主体的な意志でしょみたいな話をしているわけですが、僕としてはそういう問題なのかなぁとか思ってしまったところがあります(とはいえ本作を分析してるわけではないのでとくに代替案みたいなのは出せないんですが)。でもよくよく考えていくとたぶんいろいろ面白い論点が引き出せるはずだし、これはたんに僕がこの作品をちゃんと見れてないからなんだろうなとも思うので、評価は保留という感じでしょうか。

 あと1クール目のOPがかっこよすぎる。

サクラクエスト

 これは別の記事でも書きましたがあの記事はダメですね…というかここのほとんどの記事がジャンクパーツみたいなものばっかりなんですが…。

 そこでも書いた気がするのでもしかしたら繰り返しになるかもしれませんが、このアニメはPAが作っているお仕事シリーズ的な名前のシリーズものの三作品の一つで、ほかには『花咲くいろは』とか『SHIROBAKO』とかそうそうたるタイトルが並んでいるなか、一番地味でそしておそらくBD売上枚数的な意味でも地味なのが本作です。とはいえ、僕はAIRClannadKanonでもKanonが一番好きだったりする変な奴なので、見ていない『SHIROBAKO』はともかく、『花咲くいろは』と比べるとこっちのほうが好きだったりします。ただ『花咲くいろは』自体がものすごい好きな作品なので、これは「お前が弱かったんじゃない、俺が強すぎたんだ…」的なあれですね。でもたぶんこの意見は少数派で、ほとんどのひとは『花咲くいろは』のほうがいいというんじゃないかと思われます。

 じゃあなんで僕がそんなにこの作品に惹かれるのかというと、やはり各キャラクターの抱えている悩みがリアルだったというのがあるのと、その悩みが明確に解決されないところですね。個人的にはやっぱり問題がばっとはっきり提示されて、それがバシッと具体的に解決してはい終わり! みたいな作品が好きでないので、こう、うじうじ悩んだり時にその問題が日常の生活のなかで保留にされたりあいまいにされたりしながらも、様々なきっかけのなかでキャラクターが少しずつその問題に対する向き合い方を身につけていくみたいな、そういう話が好きなのですが、サクラクエストはまさしくそういう作品で、そういう意味で好みドンピシャでした(『花咲くいろは』がそうではないということではないです)。なんかそういう作品のほうがキャラクターに血が流れているというか、息づいているなあという気がするんだよなあ。

 それからやっぱりテーマの掘り下げがこの作品は丁寧だったなという気がします。テーマの掘り下げとかナイーヴなことを言いたくないのですが、まあそれはともかく、この作品は一つには地方をどう再生するかみたいなことをテーマにしており、そこで若干のファンタジーが入ったりはするものの、基本的にはその問題をすごくしっかり扱っているなあという気がしたわけです。僕はもともと社会性があまりないのでこういう問題ってあまり興味を持ったことがなかったのですが、この作品をみてちょっといろいろ考えさせられたなと。インバウンド事業とかこの作品で初めて知った言葉でした…。

 たぶん僕が今年見たアニメのなかでなにが一番良かったかと聞かれたら、悩みながらもやはりこの作品を選びます。青ブタの監督・脚本コンビだというのもありますが(逆)。

スカイ・クロラ

 かなり前にすでに見ていて、それ以来なんとなくまた見返したいなあと思いつつ見ないでいたんですが、先日あずまんの『セカイからもっと近くに』を読んだらスカイ・クロラセカイ系の文脈で論じた論があって、あやっぱり見ないとなと思って見返した次第です。前に見たときはなんのこっちゃ、まあいつもの押井守だったなという感じでもやっとして終わったのですが、そんときは哲学とかなんかあそこらへんの難しいやつをまったく勉強してなかったので、今そういう諸々を学んだ上で、そしてあずまんの議論を読んだ上で見返したら、うわーなんだこれすげえいいじゃん、と思ってしまったという感じで、やっぱり人って意味の枠組みのなかでものを見てるし、視聴者自身がちゃんと勉強しないと作り手がどれだけ頑張っていろいろな思いを込めて作っていても受け取れないし、そういう意味で本当にこの作品は難しい作品だったんだなあなどと改めて思うとともに、頑張ってきてよかったなぁとも思ったのでした。

 唯一問題点があるとすれば、あずまんの解釈が圧倒的に正しすぎて他の枠組みで見られないということでしょうか…これ答えだなって感じでうん…。

 ただ、あずまんが言及していないところで一点面白いところがあって、それは函南くんがティーチャーという彼らがやらされてる戦争のなかでラスボスみたいな位置にいる奴を倒しにいく場面で、彼がとあるセリフをいう箇所です。なぜかこのアニメときどきキャラの喋りが英語になる(コンバットシーンでは必ずなる)したぶん設定上は常に英語で喋ってると思うんですが、ともかく英語で喋る時には字幕が下に出るんですね。で、そういうとき、基本的にこのシーンに到るまでは、僕が聞いていた限りでは、そんなに(英語)音声と(日本語)字幕とで大きく翻訳的に表現が乖離することってなかったんですが、ところがこのシーンでの函南くんのセリフは音声と字幕とで全然言ってることが違うんです。具体的にどうずれているかというと、日本語字幕では「ティーチャーを撃墜する」なのが、音声では「I kill my father.」になっている。でそこに同一の意味を読み取っていくと、ようするにティーチャーは父なんだと、これは父殺しの物語であり、それに失敗しながらも反復し続ける物語なんだと、そういうことが明白に言われているということになるわけです。

 で、僕はデリダエクリチュールは父殺しであるみたいな話は読んでいないからよくわからないんですが、少なくとも物語論上の父殺しの意義っていのは明白です。ようするにそれは、ある不条理な状況を主人公たちに強いている、つまり彼らが物語のなかで解決すべき問題を構成している象徴的な一点を突破するということにほかならない。そしてセカイ系の感性っていうのは、こういう点を見出せないというか、それがあまりに強すぎるというか、いいかえれば社会だの個人だのの特定の問題を解決したって世界そのものは救済できないし、それが救済できなきゃもはやなんの意味もないような、そういうステージに我々の時代はきているんだみたいな、ざっくりいってそういう感性みたいなもののことなので、ああやっぱりこれそういう話なんだなと、そういうことを思いながら見た作品だったのでした。

 あとやっぱり西尾鉄也の服のシワがすこすぎるんだよなぁ。ナルトが原点なので…。

ストライク・ザ・ブラッド

 すごく面白かったんですけど僕的には語ることはあんまりないタイプのアニメでした()。見てスカッとして忘れちゃったやつですね…よくない(よくないのか?)。

Re:ゼロから始める異世界生活

 これは放映してた時にも見てたんですが途中からつらくなって見るのやめてました(豆腐メンタルなので)。でもやっぱこれフロイトとか考えるのにいいんじゃないかとか考え始め、頑張って見たという次第です(謎)。

 なんか見終わったときにはいろいろ語れることもあったのでしょうが、今となってはないですね。どうしても最近見終わったアニメのほうが色々語れる。ただ、なんかレムが都合のいい女すぎないですか????? というキレとラムのほうが可愛いのになんで世の中の人間はみんなレム可愛いとかいってるんですか????? というキレがあった気がします。

 あとやっぱりこの作者マゾですよね。やっぱヒロイン救いたい願望とマゾヒズムって関係あると思うんですよ。というか僕はここ数年そういうことしか考えてない節がある。

◯特撮(これも最後まで見たものだけ記載)

仮面ライダー鎧武

 やっぱ虚淵玄最高なんだよなぁと思った作品。これ僕的には虚淵作品の中でまどマギとかとおんなじくらい好きな作品です。そしてやはり虚淵玄の魅力っていうのはその独特のめんどくさい観念的な台詞回しの応酬にあるなということを再認識した作品でもあります。

 結構、話自体の構成も綺麗で、小さな共同体同士の小競り合いから始まり、大企業との戦いに移行し、最後に世界を滅ぼす力をめぐる争いに到るというステップを踏んで進行するという感じですんごい美しいんですが、そうしたステップを踏んでいく中でいろんなことを考えながら自分の生き様を見つけ貫こうとするキャラクターたちもまた魅力的でしょうがない。これはまたサクラクエスト式のキャラクター造形とは違った描き方だと思いますが。とくに僕が好きなのは仮面ライダー龍玄(高杉真宙が演じています)で、この人の闇落ちがめっちゃ綺麗なんですよね(謎の褒め言葉)。綺麗な闇落ちを見たい方、仮面ライダー鎧武は必見ですよ。

 ただ、結末自体はそんな好きでもないかもしれない。虚淵作品はやっぱりセカイ系的というか、圧倒的で根本的な不条理を物語上に仕掛けられたある一つの特異点を使うことで内破するとかそれに失敗してぐぬぬってなるみたいな話が多い(まどマギとかF/Zとか)のですが、今回もそういうやつで、禁断の果実がそれにあたる。ただ僕は最近そういう虚淵的崇高が昔ほど好きでなくなっているので、昔見ていたら結末に対する評価は全然違ったかもしれません。

 あと鎧武の格好については個人的には最初のオレンジアームズが一番好きでした。ゲネシスドライバーより戦極ドライバー派です。

◯映画(なんか色々見すぎたので覚えているやつだけ記載)

イェルマ(秋頃視聴)

 もともとガルシア・ロルカの戯曲が原作で、それを現代風に脚色して上演した劇を映像で撮ったものを映画として配給しているみたいなちょっと複雑すぎてよくわかんないやというコンテンツです。僕の狭いアンテナだと絶対こういうのは発見できないと思うんですが、友人のサブカルクソ女が教えてくれたので見に行きました。

 おもな感想としては二つあって、両方とも作品の内容に踏み込んだものでないのであれなんですが、まず一つは劇の喋りって映像で見てるとよくはいってこないなということです。生で演劇とか見に行ったことがないわけではないのでそのときの経験に照らして考えると、やっぱり生で見てるときにはたいがいセリフってふつうに聞き取れているんですが、劇場で見ると最初ちょっと早すぎてついていけなかった。少なくとも最初はすこし困惑した。いや字幕というのもあると思いますが、もしかすると日本語音声でも同じことが起こるかもしれない。

 それからもう一つは、演劇ってけっこう感情的に疲れるなというので、映画っていうてそこまで感情がぶわっと揺さぶられることってないと思うんですが、演劇の場合(内容のショッキングさもひとつの原因ではあるけど)やはり役者の演技がすんごいエモーショナルなので、心にキてしまうんですね。これ生だったらすごい疲れただろうなと思うと、なかなか新鮮な体験だなあ、と思いました

 でもこの作品は二度は見たくない…めちゃつらい…。

ウィッチ(夏頃視聴?)

 ホラー映画が地味に好きなのであーまたなんかみたいなと思って見たらとんでもなく良い作品でした。17世紀のアメリカが舞台になっているのですが、その世界観を演出するための舞台もろもろの作り込みがすごいし、エイリアンだのサメだのでうぎゃー! というよりかは、じわじわと嫌な気分になってくる系、みんながだんだん狂っていく系のホラーで、すごく独特でおもしろかったです。Jホラーともまた違うというか、これは割と新しい恐怖体験なんじゃないかなと(そうでもない?)。それからちょっと耽美系だったかな?

 わりと向こうの人たちが見るといろんな文脈から問題意識を喚起されるような作りになっていたらしく、僕は残念ながらほんとうにそういう教養がなくてわからなかったのですが、そういう意味でも面白いと感じる人はいるかもしれません。僕も一応魔女論とか一時期勉強してたんですけどね…。 

ディア・ハンター(冬頃視聴)

 実は『SSSS.グリッドマン』の記事で真面目とか不真面目とか書いてるあれが間接的にディア・ハンター論になっているのですが、それはなぜかというと、この作品ではデニーロ演じる主人公にとって鹿狩りの意味がベトナム戦争の経験を通して変わってしまうからです。彼はベトナム戦争で敵国の兵士の捕虜になり、彼らのロシアンルーレット遊びの犠牲者にされるのですが、ここではまさしく真面目と不真面目が重ねられている。彼はその前までは鹿狩り(鹿の命を奪う行為だが、同時に遊びでもある)をたんなる遊びとして楽しむことができていたのに、この経験のあとではこれができなくなっている(重ね合わされている)。そしてそれは彼がベトナム戦争で心の傷を負ったがために、故郷の街に帰ってきてもなぜか帰ってきた感じがしないという、その感じと結びついているように思えます。

 見る前はわりと話が複雑なのかと上映時間から察して予測していたのですが、どちらかというと筋自体はシンプルで、そのかわりものすごく場面場面の描写が丁寧で、これは映画館で見ないと一生見ない奴だな…と思いながら見ました。いややっぱ刺激とか速度がないとものが見られないというのは悲しいことですね。でもそういう意味では今回4K上映というがっぷり四つに組んで見る機会が与えられてほんとうによかった。あと有名な劇中のBGMが美しいですね。

プラダを着た悪魔(冬頃視聴)

 これは記事がすでにあるので省略します。

 

 小説編と漫画編とドラマ編とかやろうとしたんですがもう無理ってなったのでやめます。これつらすぎる。力尽きた。

 

 

 

『SSSS.グリッドマン』最終話を見て意味不明だった視聴者に捧げるぼくがかんがえたさいきょうの『SSSS.グリッドマン』について(『SSSS.グリッドマン』最終話周辺考察記事)

 

『SSSS.グリッドマン』のアカネと六花があまりに尊かったので考察記事を書きました。最終話が意味不明だった方はとりあえず僕の話を聞いてくれ。「はじめに」は面倒なら飛ばしても大丈夫です。

 

  • はじめに
  • 1,そもそもアカネはどのような問題を抱えていたのか?−−「退屈」な世界
  • 2,なぜアカネは退屈しているのか?−−「人間」と「神様」のはざまで
  • 3,アカネはいかにして救われたのか?−−「友達」の定義

はじめに

 先日(2018年12月某日)、『SSSS.グリッドマン』の最終話が放映された。本作は円谷プロが二十年近く前に制作した特撮作品『電光超人グリッドマン』の設定を一部引き継いだアニメ作品で、主人公・響裕太とグリッドマンが合体し、街を脅かす怪獣と戦う姿を描いた変身ヒーローものである…といいたいところなのだが、本作にはこのように説明したのでは語りつくせない特性がある。というのも、原作にしろ『SSSS.グリッドマン』にしろ、これらの作品はその主題のひとつに、ヴィラン側の少年少女をどう救うか、というものがあるからだ。まず前提から説明しておくと、両作は大雑把にいって三つの敵と戦っている。まず、①実際に電子空間などで暴れる怪獣。そしてあとの二つは、②その怪獣を作り出す少年少女と、③それをそそのかしている黒幕である。『SSSS.グリッドマン』においては新条アカネというキャラクターがこの②にあたる敵なわけだが、この②に該当する敵、すなわち彼女だけは、敵であると同時に救うべき対象としても描かれることになる。それはなぜかといえば、第一にそれがグリッドマンというコンテンツのコンセプトだからだし、第二にグリッドマン側の陣営、とりわけそのなかでも宝多六花にとってはアカネは同級生であり友人だからで、第三に、怪獣を作り出しているのは彼女の心の闇であり、そしてそれによって彼女もまた苦しめられている(そしてそれをグリッドマンたちは放っておけない)からである。したがって物語はいかにしてアカネが救われるのかということをめぐって展開することになり、その点で『SSSS.グリッドマン』は裕太やグリッドマンの活躍を単純に描くのみならず、アカネのキャラクター描写にもそれなりの比重を置いている。これが本作が単純な変身ヒーローものといいがたい理由である。

 とはいえ、最初からそういうものかな、と思ってしまえば、ある程度本作のスタンスははっきりしており、その点で何をやろうとしているのかについてはかなりわかりやすい。ようするに、本作を(あくまでこれは一つの見方であるが)「新条アカネが怪獣とグリッドマンの戦いを通して救われる物語」としてみる視点を持っておけば、本作のどこをみればいいのかがわかる。つまり、アカネがどんなことで悩んでおり、それがどのような問題を引き起こし、それに対してグリッドマンたちがどのような答えを提示するのか、そういうことを見ていけばいいわけだ。そしてそのような視点で見ればいいんじゃないか、というようなコンセンサスは、少なくともTwitterにおいては、大量RTされていたpostの内容からも、視聴者のあいだである程度共有されていたのではないかというふうに思う。

 ところが、にもかかわらず、実際に最終話が放映されたあとのTwitterでの反応を見てみると、そこには絶賛の声などもある一方、少なからず「意味不明」という形容をしたものも見られた。もちろんそこから意味不明だからダメ、とバッサリ切り捨てたもの、様々な考察記事を読んでなんとなく意味を解釈していったものなど、立場はいろいろあったが、少なくとも彼らの見解はある一点において、つまり最終話を見て「意味不明だ」と思ったという点において共通するのである。

 では僕はどうだったかといえば、僕も実は最初見てよく意味がわからなかった。もちろん12話でやりたいことをやろうとかなり内容を圧縮したせいもあったのだろうし、はたまた僕がちょっと前まで6話くらいでいったん見るのをやめていたのもあったのかもしれないが、やはり(それが意図的であれそうでないのであれ)説明不足感は否めず、見終わった後でも、ぼんやりとやりたいことはわかったものの、「で、結局これアカネはどうなったんだろう…」と困惑したことは否めない。とにかくまず展開そのものが複雑だったし、興味深いが消化しきれない論点もものすごくたくさん示されたし、伏線が回収されるにつれて設定をどう整合的に考えたものかもわからなくなったし、アカネがどういう悩みを持っていたのかといったことについては具体的な過去エピソードやそれについての語りといった明示的なやりかたでは描写されず、映像や断片的なセリフのはしばしから推測するしかないようなものだった。とにかくいろんな理由があって、本作は「わかりにくい」作品になっている。

 しかしながら、最終話を見終わったあと、dアニメストアで放映された過去のエピソードなどを見返して半日ほど過ごしているうち、やがて僕のなかでなんとなくアカネというキャラクターについてのイメージができてきた。そしてそれにともなって、これが『SSSS.グリッドマン』が描いていたことなんじゃないかという、僕なりのぼんやりとした考えもできてきた。前置きが長くなったが、以下のくだりでは、そのことについて少し書いてみようと思う。

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キャラクターとカリスマ

一時期、物語論の研究で、ひたすら脚本のハウツー本とか小説創作論とかシナリオハウツー本とかを図書館で渉猟していたことがあった。そんな時期に見つけた文献の一つに感情で書くなんたらとかいうものがあって、これはざっくりいえば、三幕構成とか起承転結とか構造面の話ばっかしてないで、その話を実際に楽しむ受け手の気持ちを考えることから話を作っていこうぜ、みたいなコンセプトの本である(と記憶している)。

そのなかで、すごく印象に残っているものがある。いわく、その本によれば、魅力的なキャラクター(という表現だったかは定かでないが)には三つのタイプがある。一つ目は、なさけないタイプである。こういうタイプのキャラクターを見ると、受け手は(描き方を間違えるとイラつくだけだが、大半は)応援したくなってしまう。二つ目は、等身大のタイプである。こういうタイプのキャラクターは受け手にとって自分が共感できることが多いため、魅力的である。三つ目は、超人的な力などをもったヒーローのタイプである。こういうタイプのキャラクターはその力やカリスマで受け手の憧れの対象となるから魅力的である。云々。

なんというか、この分類は一見、意味がないようにも思える。それはあたかもあの常套句、つまり「世の中には二種類の人がいる。○○な人と、☆☆な人である」というあれと似ている。一見意味深長だが、考えてみると馬鹿げている。いやそれはそう分類したらなんだってそうだろうけど、だからなんなのという話になってしまう。

とはいえ、僕としてはこれを読んだとき、ここには結構理論的に興味深いものがあるのではないかと、そう直観した。理由はわからない。でもなんとなくこの考えは面白そうだな、と思ったのである。僕の経験上、物事を考える上で心が動かされたアイデアというのは、それがそのときにはたとえどんなにくだらなく思えるものであったとしても、後々になって活きてくるものである。そんなわけで、僕はこの直観と経験則に従い、しばらくこの考えをその素朴な形のままで、頭の片隅に留めておいた。そして留めておいたまま、数年が経過した。

そんな折、先日、千葉さんのツイートでフロイトのカリスマ論についての言及があり、ふとその話とこの話がつながるということがあった。フロイトのカリスマ論というのは管見の限りまとまった論考としてはないが、「ナルシシズム入門」(「ナルシシズムの導入のために」)の一部にそのような記述がある。それは子供、動物、フィクションにおける犯罪者などのカリスマという限定的な対象について述べているものに過ぎないが、おそらく多少の限定は無視できるような射程の論理である。

フロイトによれば、人は誰しも幼児のときに万能感やそれに基づいた幻想(不死の幻想や、自分の思いや考えが現実に影響を及ぼす)を持っているが、それは成長の過程で(物理的な脅威や社会的な脅威によって)「去勢」を被る。しかし、それは完全に失われるわけではなく、かわりに別の万能に思われる存在、たとえば父に委託され、以後人はこの父のお眼鏡にかなう人間になることを通じて、原初の万能感を回復しようとする。このうち、前者の万能感を一次的ナルシシズム、後者の万能感を二次的ナルシシズムないしは自我理想という。そしてフロイトによれば、カリスマのある魅力的な存在というのは、このような意味でのナルシシズムを残しているようにみえる存在のことなのである。「子供の魅力の多くは、そのナルシシズム、自己満足性、近づきがたさによるものである。また、われわれのことなど眼中にないようにみえる動物たち、たとえば猫や大型の禽獣などの魅力もこれと同じ根拠で生まれるのである。あるいは、詩的な作品に描かれた極悪な犯罪者や諧謔家が読者の興味をそそるのは、こうした人物には、自分の自我を貶めるようなすべてのものを遠ざけておくナルシシズム的な一貫性があるためである。あたかもこうした人物は、われわれがすでに捨て去ってしまった幸福な心的状態を維持し、リビドーが傷つけられない状態を保持していることを、われわれは羨むかのようである」(フロイトジークムント「ナルシシズム入門」『エロス論集』中山元編訳、筑摩書房、pp.255-256)。

これを読み直して僕がすぐに思い出したのは、とはいえ、くだんのハウツー本ではなく、『プラダを着た悪魔』である。僕は別のエッセイで、このなかのミランダという女性が主人公に対して父として振舞っていたと述べたが、このミランダにはあきらかにこのような意味でのカリスマがある(という描かれ方をしている)。たとえば、彼女は他者の視線を気にせず(他者の視線を気にしないということは、精神分析的には象徴界が機能していないこと、したがって去勢されていないことを意味する)傲岸不遜に振る舞い、女王として君臨しているが、周りの人々はその振る舞いにもかかわらず、彼女を畏れると同時にファッション界を牽引する第一人者として崇敬してもいる。

しかし、本論の文脈で興味深いのは、実はこのミランダが、一度だけ父のレベルから母-子のレベルに降りてきたことがある、ということである。この母-子のレベルとはどういうものかというと、それはこの文脈では、お互いがお互いに対して共感や同情の対象になりうる関係である(理論的厳密さを期するならばこのようにいうにはもう少し理論的な手続きが必要なのだが、ここではそれは省く)。もともと、僕の精神分析理解では父と母、ラカン的にいえば象徴界想像界は分割不可能なものであり、さらにいえば鏡像的・想像的な関係(母-子)においては相手は同情の対象になりうる(人は完全に非対称な存在、つまり絶対的な父に対しては哀れみや同情の念を抱きづらいものではないだろうか)。したがってこのようなレベルにミランダが降りてきたというのは、彼女が主人公の同情・共感の対象になったということを意味する。

それは、彼女と主人公とその仕事仲間たちが、パリコレのためにフランスに出張したときのことである。夜のホテルで仕事の打ち合わせをしていたとき、ミランダは話の流れで主人公に私的な打ち明け話をする(これまでのミランダの主人公に対する振る舞いを見てきた受け手は、この時点で軽い感動を覚える。というか僕が覚えた)。実はそのようなことは前の場面ですでにほのめかされていたのだが、ミランダは夫とのあいだに持ち上がった離婚話や、それがいざ現実のものとなったとき、世間の口さがない人々の口の端にのぼることで、娘たちが傷つくのではないかということに悩んでいた。彼女は珍しく弱気になっていたおり、そのことを主人公に打ち明けてしまい、主人公はとたんにミランダに対して同情的になってしまう。実はこのミランダの弱みを見てしまったことが主人公を終盤の展開においてある行動に駆り立てるのだが、それはともかくとして、ここで興味深いのは、この父としてのミランダと母としてのミランダが、それぞれの側面において、主人公を魅了してしまうということである。

すでに何を言いたいのかはお分かりだと思うが、僕がここでいいたいのは、これはキャラクターに感情移入する受け手の普遍的な心理なのではないかということであり、それはさきほどのハウツー本に書かれていたことであり、さらにそれはフロイトの理論の文脈に引きつけて考えられるのではないかということである。

この文脈でさらに考えてみたいのは、アニメのキャラクターの振る舞いである。僕は前から幼児的万能感の幻想のうち、思ったことが現実になるというものについては、異能力のことを考えていたのだが、それとは別に、キャラクターの振る舞いについては、ナルシシズム論とカリスマ論の点から考えつつ、それを現今のオタクカルチャーがもつ感情移入のシステムの特性として考えられるのではないかという気がする。この振る舞いというのは、他者の視線の意識が機能していないようにみえる振る舞いのことで、これは僕は以前からしばしば感じていたことだが、日本のアニメや漫画、ラノベのなかでも、特定のコンテンツにおける特定のキャラクター間のコミュニケーションにおいては、相手の気持ちを読むことで生じる逡巡や、相手の脅威性を推し量ることで生じる恐怖などが描かれない場合があり、それがリアリティの点からすれば明らかに不自然に思える場合でも、作劇が成立してしまっているようなことがある気がする。これはいま具体例を挙げることができないのだが、たとえばFateシリーズのギルガメッシュのようなキャラクターの振る舞いがそうなのかもしれない。いずれにせよ、そういうものを実際に参照することで、このあたりのことをもっと掘り下げていくと、面白い発見があるだろう。

『プラダを着た悪魔』とハラスメント

最近、ふと思い立って『プラダを着た悪魔』のDVDをレンタルショップで借りたのだが、見るやいなや、その内容にちょっとびっくりさせられてしまった。ネタバレを極力避けてその内容というのを掻い摘んで説明すると、まず本作はメリル・ストリープ演じるミランダという鬼編集長が取り仕切る超一流のファッション雑誌の編集部に、アン・ハサウェイ演じるアンドレアが彼女付きのアシスタントとして着任するところから始まる。このアンドレアはキャリアを積むためにこの求人に応募をしたのだが、もともとは別の雑誌で働きたかった女性で、ファッションには一切興味がなかった。そのようなわけで、彼女は最初、職場で矢継ぎ早に飛び交う業界用語や固有名詞についていけず指示通りに動けなかったり、ダサい服装を貶されたり、編集長に冷たくあたられたりと、つらい思いをすることになる。しかし、当初キャリアのために就いた一時的な職場に過ぎないと割り切ってファッションから距離を置いていた彼女は、次第にその業界の人たちがファッションにかける情熱を知ることで感化され、彼女なりにそこでの仕事に本腰を入れていくようになる。するともともと有能だった彼女は、徐々に職場で認められていくようになるのだが、もちろんそこで大団円と相成るわけはなく、そうすると今度は私生活での人間関係に亀裂が走るようになる。と、このあともいろいろな話は続くのだが、これ以上話していくとあらすじを全て語ってしまいかねないので、ひとまずこのあたりで止めておこう。それで冒頭の話に戻ると、筆者がこの話を見て驚いたのは、このミランダという人物(鬼編集長)が映画のなかで魅力的な人物として扱われていたからである。

昨今、全世界的にリベラルの価値観が浸透しており、もちろんそのバックラッシュも起こってはいるわけだが、それはともかく日本でも徐々に(その良し悪しはともかく)LGBTがどうという話が語られるようになっていたり、有名人や政治家、スポーツ業界の人々のハラスメントが告発され、大きくとりあげられるようになった。いまやこの世の中はなんらかの非対称な立場に立脚して人が抑圧的に振舞うことを許さない。筆者がこの映画でのミランダの扱いが驚くべきものだといったのはこういう全世界的な風潮を踏まえてのことで、この女性はその魅力的な人物という扱いにもかかわらず、また同時に「非対称な立場に立脚して」「抑圧的に振る舞う」ハラスメント体質な人物の典型としても描かれていたのである。僕はこれを比較的最近の映画だと記憶していたのだが、wikipediaで調べてみると、やはり公開は2006年とのこと。12年前といえば、19世紀末ごろから始まる映画の歴史のなかでいえばとかそういうことを抜きにしてもそんなに昔のこととはいいがたい。しかしその「比較的最近」から12年でこうも感覚が変わってしまったのである。そのことに改めて気づかされたとき、僕はwikipediaを開いたスマホを片手に持ったまま、しばし隔世の感に打たれてしまった。

 


ところで、この映画を見ていて、もうひとつ気づいたことがある。それはハラスメントというものが一体何を意味しているかということである。

まず、この映画の物語自体は、それほど注意をして見ていなくとも、なんとなく社会で働いていくことの大変さ、たとえばそこで自分らしく生きていくことの大変さとか、仕事と私生活のバランスをとることの大変さとか、そういうものを描いていることがわかる。それは要するに人が現代において社会化するということにまつわる一般的な問題でもあると思うが、そのように社会で生きていくというのは、たとえば精神分析的にいえば父の敷く法に従って生きていくことでもあるわけで、この映画の場合、その父を象徴するような存在というのは、もちろんこのミランダである(もちろんここでの父という言葉は実際の性別とは関係ない)。アンドレアは父たるミランダの抑圧的なやり方によって不本意な振る舞いを強いられるが、それに耐えながらともに仕事をしていくなかで彼女の素晴らしさを知り、成長もする。しかしまたそのことによって同時に、やはり仕事やミランダのやり方が自分には合わないということにも気づかされる。したがって、アンドレアは二つのこと、つまりミランダへの尊敬と規範、ミランダへの反感と規範に沿わない自分という二つのあいだで葛藤することになる。

これはまた昨今それが認められていないところの、古典的な成熟の図式でもあるといえるだろう。父の抑圧に対する葛藤よって、はじめて自分を知る(と錯覚する)ことができ、それによってなすべき振る舞いがわかる。そしてそのときには人はこの父殺しなり離反なりを通して、別の仕方で、別の父のもとで社会化することができる。もちろんそれを成し得ないときには(伊藤整か誰かが定義していたような意味での)悲劇が待っていることもあるし、この葛藤がない、つまり規範と馴染めてしまうなら、人はわざわざ物語られるようなこともない人生を生きていけるわけであるが。

ともあれ、そういういくつかのバリエーションは措くとしても、人が社会で生きていく上で生じるそういう葛藤というのは、本作ではそういう古典的な図式によって表現されているわけである。しかし、これはもちろん、非対称的な関係が、そしてそこで抑圧的に振る舞うものの権威が社会で認められている限りにおいて成り立つ図式だから、現代においては人はこのようなアンビヴァレンツな葛藤によって自らを「発見」することはできず、どちらかといえばアンビギュアス(あいまい)な状態に置かれることになるだろう。するといつまでも身の置き所が定まらず、自分はこれでいいのだろうかとさまよってしまうことになる。したがってハラスメントなき自由な社会とは、自分がなりたいような自分になれる(ということになっている)し、そのような自己像を示せといってくる社会でありながら、その実自分が何になりたいのかよくわからなくなりやすい社会でもあるといえる。こういうことはべつだん新しい認識でもなんでもないのだが、僕は『プラダを着た悪魔』の物語構造をぼんやりととらえるなかで、はじめてハラスメントと呼ばれているもののこうした現代的な意味に気づいたのである。

とはいえ、ここで注意すべきなのは、世の中からハラスメントをどんどこ駆逐していったからといって、社会からそういう非対称な構造というのがなくなるわけではないということである。だから結局ここで抑圧されたものはべつのところで回帰してくるわけで、それはおそらく、一方では自分らしく生きよ、とうたう社会でありながら、その自分らしさが結局はその社会の承認する限りにおいての自分らしさであるというようなダブルバインドにおいて人が陥るような葛藤を生み出すだろう。結局、非対称な構造は変わらないまま、その上から発せられる命令の内実だけが変わり、そしてそのことによって以前の葛藤は形を変えてしつこく残り続けているのである。

なんだかこうしてみると僕が今の社会のあり方を批判することでハラスメントを擁護しているようだが、べつにそういうことが言いたいわけではない。そもそも僕はハラスメント体質の人間が心底嫌いである。ただそういう個人的な感情の一方で、やはりハラスメント(と呼ばれがちなもの)の効用というものもそれなりにあるということは認めるしかないわけで、ただハラスメントは悪だと鸚鵡返しに繰り返し、その意味を知ろうとしないうちは、少なくともこの社会の実態はそのようにハラスメントを糾弾することでその人が作ろうとしている社会とはずれたものであり続けるだろう、と思うのである。

 


最後に。べつに『プラダを着た悪魔』のことが語りたかったわけではなく、そこから気づいたことを語りたかったのだけど、それだけで終わってしまうのもなんなので。『プラダを着た悪魔』、すごく面白かったです。あとこれは今年のどっかで『オーシャンズ8』を見て思ったことでもあるけど、アン・ハサウェイはキュートにも見えるし美しくも見える不思議な魅力を持った人だなぁと、あらためて思ったのでした。