かんぼつの雑記帳

noteからこっちに完全に移行しつつあります。アニメ・哲学などを扱ったエッセイを投稿しています。

笑い・暴力・共同体

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先日、M-1グランプリ(お笑い芸人たちがトーナメント方式で漫才の出来を競う番組)を見ていて、ふと気がついたことがあった。それは観客たちの笑い声が生じるタイミングに関することで、よく観察(聴察?)してみると、ほとんどの場合彼らはボケの冒頭ないしクライマックスで笑うか、ツッコミとほぼ同時、あるいは直後に、笑うことがわかる。これはどうやらほとんど一般的な現象のようだ。
むろん、これはお笑い好きの人にとっては自明のことかもしれない。ふつう漫才はボケ→ツッコミという基本形を繰り返して進行するものなのだから、その各々のタイミングで笑いが生じるというのは当たり前、べつにことさらこうして大げさに取り上げる必要はないだろう、というわけである。
だがこれはよく考えてみると不思議なことだ。むろん、僕とてボケで誰かが笑う、というのはなんとなくわかる。それはボケてる人がおかしいからだろう。だが、ツッコミと同時、あるいはその直後に笑うというパターンについてはどのように考えるべきか。このことは少し考えてみれば、そう単純な話でないということがわかる。ここで試みに決勝でのとろサーモンの漫才の例を出そう。彼らの漫才は、道でぶつかった通行人に対するツッコミの不満話から始まる。この不満に共感を求めるツッコミに対し、ボケが「そんなのは流れに身を任せればいいんだ」と切り返してみせると、「じゃあやってみろ」とツッコミは売り言葉に買い言葉で応酬、そこからもしボケがそのときのツッコミの立場だったら、というシュミレーションをおこなうことになる。さて、この場面のクライマックスにおいて笑いの対象になるのは、明らかにこのボケが通行人にぶつかったときの対処の仕方のおかしさなのであって、もしこれだけが彼らの漫才においておかしみを誘うものであるならば、観客はツッコミを必要としないだろう(事実ここではボケだけで笑いが成立する)。にもかかわらず、別の場面では、しばしば観客はボケの最中にはあまり笑うことがなく、ツッコミとほぼ同時か、後になって、点的に、堰を切ったようにしてどっと笑うことがある。ではこうした場合においてツッコミはなんの役割を果たしているのか。なぜボケのみで漫才が完結しない場合があるのか。

 

1,

まずこの問いに答える下準備のために、いったん文学論に迂回しよう。文学論というと怪訝に思われるかもしれないが、そう面倒な話でもないから、しばらく付き合ってもらいたい。
取り上げたいのはコリン・マッケイブジェイムズ・ジョイス論(『ジェイムズ・ジョイスと言語革命』)である。ジョイスは『ユリシーズ』などの長編で知られる20世紀を代表する小説家の一人だが、マッケイブは彼をアイロニーという観点から(も)論じるにあたって、彼の文学に対立する古典的リアリズムのテクストという概念を持ち出し、この代表格にジョージ・エリオットを据える(ここでの<テクスト>については、さしあたり小説のことだと考えてもらってよい)。こうしてジョイス-エリオットという対立軸が敷かれるわけである。ここではジョイスのアイロニーをジョイス的アイロニー、エリオットのアイロニーを古典的アイロニーと呼んでおこう。
ではこのジョイス的アイロニー、古典的アイロニーとはそれぞれなんなのか。まず古典主義的アイロニーから説明しよう。まずマッケイブ本人の言を引く(面倒だったら読み飛ばしてもらってもいい)。

 

古典的アイロニーは、いま目の前にある文と、テクストが示した現実をもとに想定されるしかるべき文との距離のうちに設定される。闇夜のようなダグレー氏の無知蒙昧がミドルマーチからほど遠からぬところに存在しているからといって、それが読者をいささかも途惑わせたりしないのは、ミドルマーチの街の明かりが、テクストそれ自体のまばゆいばかりの明かりによって名ばかりのものになっているからである。
 ジョージ・エリオットは、このうえなく透明な言語をつかえば現実なるものを提示・検証することができると信じている。
 (コリン・マッケイブジェイムズ・ジョイスと言語革命』P.26)

 

これだけ読むとマッケイブは終始ジョイスの側に立ってポジショントークをしているように見えるけれども、彼の名誉のために言っておけば、その評価はそこまで単純素朴なものではなく、エリオットのテクストが、必ずしも一貫して古典主義的リアリズムの文法に貫かれているわけでないことを、彼は明言している。とまあ、そこらへんのことや、ここでエリオットの作品『ミドルマーチ』についてなされている具体的な言及を抜きにして、概要だけ述べるとするならば、古典的アイロニーとは、小説の登場人物の行動や人格に対して、地の文が皮肉をいうこと、そしてそこから生まれる滑稽の効果を指す。この場合、登場人物の自己認識と、その実態においては、あるズレが生じている。たとえば、自分のことを教養豊かだと思っている登場人物が、実際には教養のない人物であった場合、地の文はこのことについて「この男は、なんと教養豊かだったことだろう!」とかなんとかいう。すると、読者の側ではこの皮肉のほんとうの意味がわかるわけで、地の文とともにこの人物を嗤うことができる。これが古典的アイロニーである。
ざっと説明すればこのようなものだが、しかしこの古典的アイロニーにはもう一つ重要な成立要件がある。それは地の文がなんにせよ、ある価値判断の基準を、皮肉をいう前にあらかじめ読み手に与えているということである。たとえばこの場合では「教養深いとはどういうことか」ということを、地の文が前もって読者に語っていなければ、読み手はその登場人物がどういう人物なのかを自分で判断するしかないのだから、唐突に「この男は、なんと教養豊かだったことだろう!」などと言われても、それって皮肉? 本音? と迷ってしまうわけである。つまりここでは価値基準すなわちコードがあらかじめ読者と地の文のあいだで共有されていなければならない。
これに対して、ジョイス的アイロニーはこうしたコードの不在そのものであり、したがってアイロニーは読者の読者自身に対するアイロニー(懐疑)となる。たとえば、先ほど僕は、もし地の文によって前もって価値基準が与えられていなかったら、読者は登場人物が教養豊かなのかどうかを判断できない、といった。いうなれば、まさにこの状況がジョイス的アイロニーの状況である。
さて、するとどうなるか。この状況下で、読者は最初、登場人物の行為を自分なりに批評しようとする。たとえばこいつは正しい、こいつは紋切り型のことしか言っていない、など。しかし、そのようなことをしているうちに、やがて読者は根本的な懐疑に襲われる。私は彼を正しいというが、それはなぜなのか。そもそもその正しさを判断する基準の、さらに高次の判断基準はなんなのか。そういう判断をよく考えず下す自分のその在り方こそ、自分が嗤った紋切り型そのものではないのか。かくして、読者は自己認識と実態とのあいだのズレを思考するように迫られる。これがジョイス的アイロニーである。

 

ジョイスの書法は一連の言説をいわば複写するだけであり、それゆえわれわれはテクストを書き直し、秩序づけるのに自分自身の言説に依拠せざるをえない。この個人的書き直しがあからさまになるのは、われわれが自分の言説を支配的言説として位置づけるほかないからである。テクストがわれわれの代わりにこの状況を引き受けてくれたりはしない。そして自分の言説をテクストに押し付けていることに気づいたとたん、われわれは自分の言説のなかの紋切り型の存在にも気づかされるわけである。[…]『ダブリン市民』は、このメタ言語の欠落を通して、[…]終わりなきアイロニーを生成する。
(コリン・マッケイブジェイムズ・ジョイスと言語革命』P.44)

 

この二つは何が違うのか。まず、ここで押さえておくべき相違点は二つである。
一つは、古典的アイロニーにおいては、読者の、登場人物に対する優位性が確保されているのに対して、ジョイス的アイロニーにおいては、読者の優位性がもはや確保できないこと。これをアイロニーにおける主体性の相違と呼んでおく。
もう一つは、古典的アイロニーにおいては、読者と地の文の仲間関係が成立しているのに対して、ジョイス的アイロニーではこれが成立していないこと。この場合の仲間関係とは、コードを共有している関係であると考えてもらいたい。そしてこのことを、ここでは共同体性といっておこう。
主体性と共同体性における、古典的アイロニーと、ジョイス的アイロニーの違い。これを確認したところで、いよいよ漫才におけるツッコミについて話を進めていこう。

 

2,

古典的アイロニーとジョイス的アイロニーは、まず読者が主体性を確保できるかどうかという点において、そして次に読者と地の文の共同体性を確保できるかどうかという点において、違いをもつ。前者は主体性と共同体性を確保することができる。反対に後者はできない。
この文学論を、ここでさらに千葉雅也の『勉強の哲学』の勉強論に接続してみよう。そのことで文学におけるアイロニーと漫才におけるツッコミを接続しよう。
『勉強の哲学』は勉強について哲学的に論じた本である。そしてその議論の中心的な命題をひらたく述べれば、「勉強とはノリから浮いたあとで、別のノリに移行することである」というものである。
では、それはどういうことなのか。
まずは勉強が始まるきっかけから説明する。ふつう、人は周囲のノリにある程度合わせて生きている。つまりコードに合わせて生きている。たとえば、「仕事にはやり甲斐がなくてはならない」という命題がある。この命題を自明の前提=コードとして、みんなが喋っているとする。これが普通の状態である。
では、そこへ、ふとこういう呟きを投げてみたらどうだろうか。「なんでやり甲斐がなきゃいけないわけ?」「君たち、そういうことをいうやつらに踊らされてるんじゃないの?」ーーこう問われた人たちは、怒るかもしれないし、しらけるかもしれないし、呟いた人を軽蔑するかもしれない。反応はまちまちだろう。確かなことは、彼らがとにかく以前のように無邪気にそれを前提にしてなにかを語ることはできなくなる、ということである。千葉によれば、このような前提=コードのひっくり返し、問い直しこそ、勉強の始まりに他ならない。
これを千葉はツッコミと呼び、さらにアイロニーと言い換える。周囲のノリから一歩引いて、「それ、実はおかしいんじゃないの」とツッコミを入れること。このことによって、疑問が生まれ、考えることが始まる。
しかしこのツッコミには問題もある。千葉によれば、コードは本来無根拠なもの、なんとなくで成り立っているものだから、その根拠を問い、この問いに対して答えとして提出された根拠の根拠を問い…とやっていくと、極端な懐疑のなかに落ち込んでしまう。それはあたかも、ジョイス的アイロニーに見舞われた読者のように。というよりむしろ、その二つは根本的に同質の現象である。
だから、千葉はアイロニーだけでもいけない、という。アイロニーに囚われている限り、なにも考えることはできないから。そこで出てくるのが、ユーモアという概念である。ユーモアとは、ボケとも言い換えられるもので、コードをツッコミのように破壊するのではなく、ズラす事を意味する。
このことを説明するにあたっては千葉自身が本著において提示している例え話を引こう。

 

 たとえば、友達の恋愛について噂話をしている。
 AがBにひどいことを言って、それで別れそうになったけど、結局よりを戻し、でもまたトラブルがあって、どうのこうの……。「Aってそういうとこヤバいよね」、「最悪だわ」、「Bは我慢してたらまずいよ」などと、Aを非難し、Bを心配する流れになっている。
 ここでは、二人の関係を、「恋愛において人はこうあるべき」という、道徳的と言えるようなコードによって解釈しているわけです。
 そこで、こんな発言が出るとする……「うーん、それってさ、音楽なんじゃない?」
 これは、ズレているというか、「スベって浮いている」感じがすると思うんですが、まずこれをユーモアの例とします。これは、自覚的な発言であると想定します。
 ズレた見方が、「連想」的に出てきている。
(千葉雅也『勉強の哲学』PP.92-93)

 

こうした連想的なズレが、新しい話題への接続となる。このズレによって、別の視点から物事を考えられるようになる。
また、千葉によれば、さらにこのユーモアは、拡張的ユーモアと、縮減的ユーモアに分けることができる。先の例は、話が延々と多方向に接続されていく=拡張されていくので、拡張的ユーモアといえる。一方で縮減的ユーモアとは、ある話題に深く閉じるボケで、必要以上に細かい話などを指す。このボケの必要以上さは、その語りが、なにか必要があって、意味があっておこなわれているのではなく、それを語りたいという欲望によって駆動されていることを示す。必要があって喋るのではなく、喋りたいから喋ること、このことに前提されている欲望。この欲望を、千葉は享楽と呼ぶ。この説明が分かりづらいという場合は、ややステレオタイプな例にはなるが、オタクの過剰な語りに象徴されているようなそれを思い浮かべてもらえればいい。
さて、こうしたユーモアの作用が、なぜ勉強に必要なのか。それはアイロニーが陥るナンセンス(無限の懐疑)から、有限性へと折り返すためである。これはユーモアへの折り返しといわれる。が、勉強はこの折り返しによって単純にアイロニー→ユーモアと進行すればよい、というものではなく、アイロニー→拡張的ユーモア、と折り返した後で、さらに縮減的ユーモアを経由し、いい塩梅で、このユーモアに再びアイロニーを突きつけて…というふうに進めていかなければならない(アイロニー→拡張的ユーモア→縮減的ユーモア→アイロニー'→…)。

 

 (1)アイロニーからはじめ、その過剰化をせずにユーモアへ転回し、
 (2)そして、ユーモアの過剰化を防ぐために、形態の享楽を利用する。
 (3)さらに、[…]享楽の硬直化を防ぐために、アイロニカルにその分析をする。
(千葉雅也『勉強の哲学』P.119)

 

 

つまり、1,あるノリから浮いて(アイロニー)、2,別のノリに出航し(拡張的ユーモア)、3,だがそれだけでは航海が延々と繰り返されてしまい、どこにも落ち着けないので、どこかで止まるために、意味のない過剰な欲望、享楽によってあるノリに碇を下ろす=ノる(縮減的ユーモア)。この三段階を基本とし、ちょうどいい加減でアイロニーを入れて、もう一度反復する。かくして、勉強とは、一サイクル分について語るならば、「ノリから浮いたあとで、別のノリに移行すること」、別の言葉で言い換えるなら、「深追いしたあとで、目移りし、深追いと目移りだけではなにもできないので、ほどほどのところで自分なりのこだわりに注目してみること」なのである。

 

4,

勉強とは、ツッコミをいれ、ツッコミすぎてナンセンスになるところでボケ、ボケすぎて別のナンセンスにいたらないところで別のボケ方をすること、その反復で成り立つ。
むろん『勉強の哲学』においては、もっとほかにも細かく面白い話がなされる。が、ここでは必要な議論は切り出したということで、要約に一区切りをつけよう。ここからは千葉の議論を借りるかたちで、漫才におけるツッコミの役割を考える。そのためにまず必要なのは、千葉の用語の等置関係を丸パクリすることである。
ここではしたがって、ボケ=ユーモア、ツッコミ=アイロニーという等式を受け入れる。すると、漫才におけるツッコミを、アイロニーということができるのであり、千葉によればそれは「ノリから浮くこと」となる。
だが、果たして本当にそうだろうか。もう一度よく考えてみよう。ふつう、漫才において、ボケはおかしみのあるキャラクターを演じたり、言行をおこなう役割を担う。それに対してツッコミは、これを「それはおかしい」と指摘することで、観客たちを笑わせる。ここには、ボケ=異常/ツッコミ=正常という図式で整理できるような状況がある、といえよう。
しかしながら、ふつう「ノリから浮くこと」というと、むしろ異常なのはツッコむ側である。なぜって、ふつうは周囲のノリにあわせることこそが「正常」なのだから。
こうした話を踏まえると、どうやらなにか齟齬があるらしいということがわかる。なぜ千葉の議論におけるツッコミと、漫才におけるツッコミは全く真逆の意味を持ってしまうのか。なぜ千葉的ツッコミは異常で、漫才的ツッコミは正常なのか(なお、これ以降千葉的ツッコミのことを、哲学的ツッコミと呼ぶことにする)。
この答えはシンプルである。それは、千葉が勉強を哲学モデル、すなわち「ツッコミ→ボケ」の順序で考えているのに対し、漫才モデルの構造は「ボケ→ツッコミ」の順序をもつからである。ここに根本的な問題があるのだ。
まず、千葉のツッコミは、本来ボケがないところに、ボケを見出す行為としてある。したがってそれは正常の自明性から身を引き離して、コードを別の仕方で眺めることに他ならない。そしてこの哲学的懐疑は、一旦始まるとキリがない、ということは、千葉の議論に沿って既に述べた通りだし、それとジョイス的アイロニーの共通性についてもついでながら指摘しておいた。ここに現れるのは、誰がボケてるのかすらわからない、というナンセンス(コードなし)の地平である。そしてこの地平においては、正常/異常の秩序そのものが転倒されてしまう。この哲学的ツッコミの地平においては、人は主体性も、共同性も確保することができない。つまりこれはジョイス的アイロニーと近いものではあるが、逆に古典的アイロニーとは正反対のものであり、ここで漫才的ツッコミと哲学的ツッコミが、古典的アイロニーとジョイス的アイロニーの関係とパラレルにあるのではないかということが予想される。
そこで、試みに古典的アイロニーと、漫才におけるツッコミを要する笑いの成立過程を、各々に文章化してみよう。
まず先ほど僕はこう述べた。古典的アイロニーにおいて、地の文はまず価値判断の基準(コード)を設定する。そのうえで、この価値判断に照らして嗤うべき振る舞い/在り方を登場人物におこなわせる/させる。最後に、地の文は、これについて本来の意味(こんな振る舞いはバカげている)と逆のことを誇張して述べる(「その振る舞いはなんて素晴らしいのだろう!」)。ここに皮肉の効果が生じる。
つぎに漫才の構図について、正常/異常という言葉を使いつつ表現してみる。まず、観客とのあいだに共有されている正常/異常のコードがある。そのうえで、ボケがこのコードに照らして異常な振る舞いをする。最後に、ツッコミは、共有されているコードに沿って、ボケの異常性を指摘する。すると笑いが強化される。
この二つを並べてみると、ほとんど相似の関係にあることがわかる。したがって漫才は、古典主義的アイロニーと相似の関係にあり、またジョイス的アイロニーと古典的アイロニーの関係と、勉強(哲学)と漫才の関係も、相似の関係にある、ということにしよう。実際、漫才においては、主体性が確保されている(正常/異常の秩序は転倒されない)ばかりでなく、共同体性もまた確保されている(ツッコミと観客のノリの共有)。
以上、ここまでの議論を踏まえれば、漫才におけるツッコミがなんなのか、そしてなぜそれが必要なのかを語ることができるだろう。哲学的ツッコミは、意味や根拠を解体してしまう。逆に漫才的ツッコミは、従来のコードに依存して、意味や根拠を(不完全にではあるが)定める。したがって次のようなことが言える。ツッコミは笑いの根拠を定め、強化する。おそらくボケがうまく機能すれば、観客はボケだけでも勝手に笑っただろう。だがツッコミが正常さを見せつけることで、ボケの異常さはますます際立ち、それだけますます笑えるものとなる、こういう関係があるのではないだろうか。だから漫才的ツッコミは、必ずしも笑いの原因にはならないが、その笑いを補足的に強化する。とはいえ、これはとろサーモンの漫才の特徴なのであって、なんとも意味づけしがたい(=どう笑っていいかわからない)ボケに対して、意味を与えてやることによって、あきらかに笑いに寄与するようなツッコミもあることだろう。ともかくそれは、古典的アイロニーにおける地の文と似た仕方で、状況について注釈する役割を持つ。漫才的ツッコミは、このような点において、哲学的ツッコミと対照することができるのである。

 

5,

ここで話が終わってもいいのだが、最後にもう少しだけ遠くまで行こう。ここでは応用編として、以上の議論から得られた認識を、暴力の考察に用いてみたいのである。
そのため、まずはイジリという形式の笑いの取り方について考えてみよう。イジリは基本的にボケた人にツッコミを入れて笑いを取るという点において漫才と共通するが、漫才と異なるのは、ボケが天然ボケだということである。この天然ボケは天然物であるがゆえに発掘されないと笑いの対象にならない場合があるわけだから、イジリにおけるツッコミは、漫才におけるツッコミよりもより本質的な役割、ボケの明確化という役割を担うことになる。
また、この二つのツッコミにはもう一つ別の相違点もある。人はわざと馬鹿にされるように振舞っている時には、自分はこれをわざと、あえてやっているのだ、という自意識の優位性を確保できるために、ツッコミをされても滅多に侮辱されたと感じることはない。だが、そうでないときに喰らうツッコミはほとんど不意打ちに等しく、そこではボケ側は自分の優位性を確保できない。
このようにイジリという側面からツッコミを考えるとき、そこにはツッコミの暴力性が端的に現れる。ツッコミはなんにせよ猛威を振るう力である。ここでのツッコミは正常な側から異常者の異常性を指摘して、自分たちのコード(正常とはこういうもので、異常とはこういうものだ)に無理やり組み込んでしまう。いいかえれば自分のルールに引きずり込んでしまう。
しかし、この暴力には別の側面もある。たとえば、イジリとは基本的に、イジられる側にイジる側が少なからず好意を持っている場合になされる。これがイジリとイジメを、イジる側において分ける基準となるもの――むろんこれとイジられる側がイジリをどうとらえるかは別問題である――だが、そのことによって彼らは本来異常な=仲間外れになるはずの相手を、仲間のうちに引き込んでいるといってもいい。
人はイジられているうちが華で、シリアスに異常者扱いされている場合には、イジられすらしない、という話もある(極端な話をすれば、シリアスな局面においては、この扱いはレイシズムや排外主義につながるかもしれない)。だが、いいかえればこれは、先にあげたイジリ的ツッコミの暴力の特性、つまり「コードに無理やり組み込む」「ルールに引きずり込む」の別の側面であるともいえる。ある意味で、仲間内に引きずりこむとは、ルールに引きずり込むことだからである。
ここから、漫才的ツッコミ、イジり的ツッコミのもつ暴力の性質を、次のように一般化できるだろう。これらのツッコミの暴力とは、既存の体制や秩序を維持し、強化する性質を持つ。イジり的ツッコミとは、維持する暴力、融和させる暴力である。
ここまでくれば、逆に、哲学的ツッコミに暴力性はあるのか、あるとすればそれはどんな暴力か、ということに答えるのは、そう難しくはない。哲学的ツッコミは、正常の自明性をひっくり返してしまう、つまり破壊するものである。それは場を白けさせてしまう。人々をばらばらにしてしまう。その意味での暴力性を持っている。だから哲学的ツッコミとは、体制を破壊する性質を持つ、破壊する暴力、離散させる暴力だということができるだろう。
維持する暴力と、破壊する暴力。融和する暴力と、離散させる暴力。保守的暴力と革新的暴力。ツッコミの二元論は、さしあたりこのような暴力の二元論に接続することができる。

 

 

<参考文献>
千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』2017年、文藝春秋

デリダ,ジャック『エクリチュールと差異』上巻、若桑毅他訳、1997年、法政大学出版
フロイト,ジークムント『自我論集』中山元訳、1996年、筑摩書房
――『エロス論集』中山元訳、1997年、筑摩書房
――『幻想の未来/文化への不満』中山元訳、2007年、光文社
――『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』中山元訳、2011年、光文社
マッケイブ,コリン『ジェイムズ・ジョイスと言語革命』加藤幹郎訳、1991年、筑摩書房
リクール,ポール『フロイトを読む 解釈学試論』久米博訳、1982年、新曜社

アニメ『Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ』の物語構造について

※注意…全面的なネタバレを含みます。

 

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先日、友人から唐突にLINEが来て、母校(大学)の文化祭に行かないか、と誘われた。われわれが卒業した大学は美術系の大学だけあって、その文化祭にはなかなか見応えのあるものがたくさんある。とはいえ、既に四年間ものあいだこの催し物に参加してきて既にいくぶんか食傷気味だった僕としては、別段行っても行かなくてもどちらでもいいというような心境だった。
それでも友人の誘いに乗ってこの文化祭を見に出かけたのは、それそのものが楽しみだったというよりも、それを口実にして久しぶりに友人と会いたかったからだった。しかしいざ文化祭に行き、展示物を見て回ると、やはりそれなりに収穫がある。それを得たのは学生たちが作った映像作品を見たときのことだった。
この映像作品はいわゆるニチアサにおける特撮枠の一つであるところの仮面ライダーをパロディした作品で、おそらく制作陣にその意図はなかったように思われるが、ここには随所に特撮批評とでもいうべき要素がちりばめられていた。たぶんこの作品そのものに批評性があったというよりは、大学の教室で展示されているものとして、アマチュアが「それっぽく」撮った特撮作品を見る、という環境そのものがそういう効果を作品に付与したという側面も大きいのだろうが、ここでは作品をその鑑賞の環境抜きで独立したものとして語れるか、といったことは脇に置いておくとして、話を前に進めることにしよう。
ともあれこの作品において僕が一番興味深く見たのは、主人公の仮面ライダー(厳密にいえば仮面ライダーではないのだが、便宜的にそう表現しておく)とは別に、もう一人の仮面ライダーが登場する、いわゆる登場回にあたるストーリーだった。まず、このストーリーはそのもう一人の仮面ライダーの存在が仄めかされるシークエンスで始まり、そのあとで主人公がある怪人と戦っている場面に移る。主人公は懸命に戦っているが、怪人は部下と二人掛かりで攻撃を仕掛けてくるため、彼は苦戦を余儀なくされる。こうして形勢が怪人たちの側に傾きかけたところで現れるのがこの新しい仮面ライダーである。彼は主人公に比べてはるかに高い戦闘能力を有しており、おまけに飛び道具まで持っているので、怪人たちをあっという間に追い込んでしまう。しかし彼が一般人を巻き添えにしてまで怪人を倒そうとすると、主人公は一般人を逃がすためにこの邪魔をしてしまい、結果的に怪人を取り逃がすことになる。主人公は戦闘ののち、この仮面ライダーを一般人を巻き添えにしようとしたかどで問い詰めるが、この主人公の正義感は一笑に付され、おまけに「お前のような役立たずは要らない、俺が一人で奴らを倒す」とまでいわれてしまう…。
文化的な背景に依るとは思うが、私見ではこういう展開を目の当たりにして既視感を覚える人は多いのではないかと思う。少なくとも僕としては強烈な既視感を覚えたのだが、僕の場合、この既視感には明確に具体的な参照元が存在した。それは最近見たアニメ『Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ』(以後プリヤ)一期の展開である。
プリヤは簡単にいえば魔法少女モノのアニメで、仮面ライダーと同様にバトル要素のある物語コンテンツだが、一期ではサーヴァントと呼ばれる英雄の霊が具現化した敵七体と、主人公の少女イリヤが戦いを繰り広げるという内容になっている。とはいえ、イリヤは巻き込まれ型の主人公なので、物語開始時点から魔法少女だったわけではなく、やむにやまれぬ、あるいはいくつかの個人的な事情によってこのサーヴァントと戦う羽目になる。したがって一話では魔法少女としてまったくの素人であるイリヤは、当然サーヴァントとの戦闘においてピンチに陥るのだが、ここで助けに入るのが本作もう一人の魔法少女であるところの美遊で、彼女は最初から魔法少女の切り札である「クラスカード」(サーヴァントの力の一部を引き出して使うことができるアイテム)を使いこなし、このサーヴァントを一撃で倒してしまう。
このくだりだけでも先の映像作品とプリヤのストーリー展開が酷似している(主人公が敵と戦っている→ピンチに陥る→主人公が打破できない展開をもう一人の戦闘キャラクターが圧倒的な実力で打破する)ことがわかっていただけると思うが、両者の類似はこれだけに留まらない。その次の回で魔法少女として戦う理由をイリヤに尋ねた美遊は、彼女の「なんとなく」「面白そうだから」「しかたなく」という答えを聞いて「そんな理由で戦うなら戦わなくていい。あとのサーヴァントは自分が倒す」というのである(では逆になぜ美遊がこのサーヴァントたちと戦うのかといえば、それはのちに明かされるように、彼女がこの騒動のそもそもの発端に関係するキャラクターだからである)。
ちなみに、件の特撮作品ではその後どうなるかというと、怪人が兄弟を引き連れて二人掛かりでもう一人の仮面ライダーと戦う展開になり、このピンチに主人公が駆けつけるかたちで、友情関係と共闘関係が成立する。一方のプリヤはどうかといえば、この一期はまるまるイリヤと美遊の友情・共闘関係が成立するまでの物語だといってもよいくらいで、ほとんど同一の展開(一人で最強のサーヴァントに立ち向かい窮地に立たされた美遊をイリヤが助けに行く展開)がクールのクライマックスに待ち受ける。むろん、たかだか23分ほどの映像作品と一期分のアニメ(約22分×10話)では分量がまるで違うから、そこに至るまでの過程は変わってくるのだが、全体の構造を鑑みればここまで似ているというのは面白い。
おそらく、この構造に思いが至った時点で、これをヒントに物語の様々なテーマについて考えることができるだろう。たとえばこの構造はいわゆるバディもの(アニメでいえば『Tiger&Bunny』、ドラマでいえば『相棒』など…)の序盤においても使われているのか、といったことを考えるのも面白いだろうし、ある別のコンテンツにおける似ているが違うようにも思える展開(たとえば『ドラゴンボール』において復活したフリーザが未来からきたトランクスに容易く斬り殺されてしまうところなど)とこの構造に必然的な類似性はあるのか、といったことを考えるのも面白いだろう。だが僕がここで真っ先に考えたのは、「なぜ後から現れた魔法少女(や仮面ライダー)は主人公を拒絶するのか」という疑問だった。
この問いに対する答えは様々なかたちで可能なのだが、ともあれ僕が思いついたのは 「物語を繰り延べるため」という制作者の視点を想定した答えである。むろん、制作者としては「雨降って地固まる展開にすることで二人のキャラクターたちの絆を強く結ぶため」といったような思惑もあるのだと思うが、僕はそれを脇に置いたまま、帰りの電車の中でプリヤのストーリーがどのように繰り延べられているのかについてぼんやりと考えていた。
今思えば、こうした恣意的な連想が僕の頭の中で展開されたのにはそれなりの理由があって、それはおそらく僕がかねてより漫画の連載やアニメのクール単位でのストーリー管理がどのような手法でなされているのかを考えたいと思っていたからだった。というのも、まず連載という制度において綴られる物語は、ほんらい物語というものが始まりと終わりを持つものであるにもかかわらず、商業的な理由からその終わりをつねに遅延させたり、新しい始まりを用意しなければならない宿命を背負っているし、アニメは一話ごと、あるいは数話ごとの物語にケリをつけたりキリのいい引きないし溜めを作りながらも、それを最終的には1クール分という大枠での物語としても見せねばならない(むろん日常系作品などはその限りでもないかもしれないが)。したがって両者はその点においてふつうに物語が語られる仕方とは別の仕方で語られているか、あるいは物語制作の技術としてもともとあるのかもしれない繰り延べをかなり工夫したかたちで用いているはずで、その点においてこれらのコンテンツの分析にはこの繰り延べの技術の分析が不可欠になる。
ともあれこのようなわけで、僕は今回の鑑賞体験から気づいたある特定の物語構造をきっかけに、プリヤを参照しつつこの繰り延べについて考察をおこなってみた。以下に記すのはその成果である。

 

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ここでは、まず僕が「なぜ後から現れた魔法少女(や仮面ライダー)は主人公を拒絶するのか」という問いに対して「物語を繰り延べるため」という回答を考えた理由を述べ、のちの議論の土台を作っておこう。
そのためにはここで僕が通常考えている物語というものについて定義しておかなければならないだろう。僕の物語モデルは非常に単純なもので、それはひとことでいえば「問題が提示され、解決されていくその過程を描くもの」である。そしてこのモデルは僕の独創的な発想に基づいて作られたものなどではなく、物語論とか歴史哲学とか、あるいは脚本や小説制作のハウツー本なんかで繰り返し語られてきた典型的なモデルでもある。
たとえばフレドリック・ジェイムソンという人は『言語の牢獄』というテクストにおいて、この手の物語モデルの原型を作り上げた人たち(構造主義ロシア・フォルマリズムの派の人たち)の思考の形式のようなものについて論じているが、彼はその過程でその物語モデルに言及している。
彼によれば物語には欠如→回復(これを問題→解決といいかえてもよい)といった「願望成就の形式」が存在するが、これは物語の前提条件ではあっても、物語を成すに十分なものではない。なぜなら物語においては「どのように」この願望成就がなされるかということが重要なのであり、変化そのものではなく変化の様相を記述することが重要だからである。いいかえればそれは「過程」こそが重要なのだということでもあり、この議論は「人間はその思考の形式のなかでいかにして時間を記述できるのか(時間の空間化や歴史の構造化についての問い)」という哲学的な議論にも繋がるのだが、こうした難解な問題はここではひとまず措いておくとして、ともあれここでは彼によっていわれているようなことが物語というものを定義するために必要な要素なのだと、さしあたりこう考えておこう。
そしてこの議論はさらに言語学者のA.J.グレマスが考えた行為者モデルの議論に接続される。行為者モデルの議論とは、物語のキャラクターは物語においてそれを進行させるための役割を担っているという考え方で、この役割モデルは全部で六種類ある。これらはそれぞれ主体、対象、送り手、受け手、敵対者、贈与者と呼ばれる。
主体、というのは一般的に主人公といわれているような存在に近く、ある対象をめがけて行動する特性を担った役割である。物語は送り手が主体を対象に向けて送り出すところから始まり、主体はこの対象を目指して進むが、途中で敵対者にその進行を阻まれる。このことによって主体はたいていの場合ピンチやジレンマに追い込まれるが、贈与者の助けによって最終的にはこの敵対者を助けるなり危機を克服するなりして、対象を獲得する。あとは主体がこの対象を受け手に引き渡せば物語は完結する。
さてジェイムソンはこの行為者モデルをどのように先の物語モデル(欠如→回復の形式を前提としつつも、そうした始点と終点ではなく、過程に重心を置くものとしての物語モデル)に接続するのか。彼によれば、この変化の過程の「どのように」を担うのはつねに贈与者なのであり、ここに彼の物語論についての言及の眼目がある。つまり、難解になるのを承知でいえば、ここでジェイムソンが言いたいのは、ある自立し閉鎖した歴史の体系なるもの(たとえば文学なるものの自立した歴史としての文学史)があるとき、その歴史において記述されるなんらかの変化の原因は実は外部からもたらされるということであり、それはとりもなおさずこの歴史の自立性や閉鎖性、自己同一性の不可能性を暴露する、ということである。そしてこのことは、変化の記述が可能になる条件を示しているのであって、その条件とは、体系の外部からくる<他者>なのである。この<他者>を物語論の文脈でいいかえればそれは贈与者だということになるのだが、ここらへんの議論は理解しなくてもよい。とりあえずここで押さえておくべきことは、ジェイムソンが物語を定義するにあたって、欠如→回復の形式にくわえてその過程の様相(how)を考えねばならないといったこと、そしてその様相の記述には贈与者が必要になると述べたということ、である。たとえばある国の王から遣わされた勇者(主体)がさらわれた姫(対象)を助けるために竜(敵対者)との戦いに挑まなければならなくなったとき、ここで勇者に竜という絶対的強者を倒すためのアイテム(聖剣など)をあたえる者(賢者など)があらわれる、といったような展開は様々な物語において似たような形で生じるが、ここで主体にアイテムを与える役割を担うものこそはグレマスのいうところの贈与者であり、そしてこの場面において贈与者はあきらかにこの物語が陥った問題(勇者の任務を邪魔する竜)を解決に導く決定的な原因となっている。それはとりもなおさず「主体は贈与者の協力によって(who)問題を解決した」という構造が「主体はこのようにして(how)問題を解決した」という構造であることを意味しているのである。つまり物語にとって大事なのは副詞にあたる部分なのだ。
さて、これまで僕はジェイムソンの議論を参考にしつつ、物語というものを考える際の基本的な枠組みを概説してきた。むろんグレマスらが分析の対象とした物語は古い民話などが大半なので、これを単純に現代の物語に適用できるかというと必ずしもそうではないし、実際の物語にはもっと入り組んでいて、かなり重層的な分析をしないと構造を整理できないものもあるが、ひとまず単純なモデルとしてはこういったものを想定できる。そしてこれは決して原理を欠いた偶然的ないし経験的な形式などではなく、人間の思考や、欲望のありかたと必然的に関わっているという意味で擬普遍的であり、ここではこのような理由からこのモデルを戦略的に用い、歴史的な時間の隔たり(古い民話と現代の物語の隔たり)を捨象する。このモデルが擬普遍的であるというのは、たとえば「欠如の回復」というモデルを顧みればわかるが、実はこれは古くはプラトン哲学における愛(エロス)のモデルであったりもするのであって、たとえこの愛、欲望のモデルにプラトン哲学の形而上学的で浮世離れした色合いが加わっているにしても、それは我々が「私の生きがいは…」「今年の目標は…」「今日とりあえずやっておきたいことは…」というようなことを考えるときの思考や欲望のありかたなどにも関わっているからである(つまり人の心のあり方が決定的に変化しない限りこの欲望モデルもそれに沿って作られた物語モデルも時代を超えてある程度は妥当といえる)。物語の形式はその点において人間の欲望や実存の形式に寄り添ったものであり、物語がこういった形をとるのは、それが人間の欲望のありかたにフィットさせられているからなのである。
ともあれ、いつまでも「問題の解決が〜」「行為者モデルが〜」などといっていても始まらないので、物語の定義や理論などの話は終えるとして、ここからはこれらの枠組みを実際に用いて、問題となるプリヤの第二話を分析してみよう。

 

2,

ふつう、単純な物語のあらすじないしプロットは、三つの段落にわけて構文で記述することができるし、究極的には一文の構文で表現できる(後者をログラインという)。ログラインを使うとプリヤ未視聴の方にはよくわからないことになるので、ここでは前者を用いてあらすじを書くが、この四つの段落はそれぞれ、

 

1.前提情報の整理と提示(あるとき、あるところに、Aという人がいて、Aはこんな人で、こんなふうな状況aのなかで生きていた)。
2,事件や葛藤の出現(そんなある日、こんなことが起こって、Aは状況b(多くは危機や葛藤状態)に陥ってしまった)
3,ブレイクスルー(しかし、Aは〜によって、この状況bを脱する)
4,結末(こうして、Aは状況cに至った)

 

といった内容をもつ。この構文は僕が勝手に作ったものだが、映画脚本のハウツー本などを見ても似たようなものは出てくる。
ともあれ、基本的にはこの構文を使いつつ、この構文でカバーできないような内容を含む場合(たとえば一つの話において重層的に展開されている二つの物語があって、一方の展開が他方に影響するようなとき)には、適宜この形式に補足的な説明を加えながらあらすじを書き出すこととする。
そのまえに、まずは第一話のおさらいをしておこう。
物語は本作の主人公、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン(イリヤ)の日常を描くところから始まる。彼女は魔法少女もののアニメが好きな小学生で、両親は海外を転々としていてなかなか帰ってこないが、メイドの二人や、兄の衛宮士郎、そして学校の友人たちに囲まれて楽しく暮らしている。
しかしそんなイリヤのもとに、あるとき、マジカルルビーという意志を持った魔法のステッキが飛び込んできて、彼女に「魔法少女にならないか」と勧誘してくる。実はルビーはこの冬木の地に災厄をもたらすかもしれない七体のサーヴァントを倒すために、魔術を学ぶための学院から遣わされた二人の少女たちの一人、遠坂凛の魔術礼装(サーヴァントと戦うための装備)だった。しかし、ルビーの主君である彼女と、その仕事仲間であるルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは犬猿の仲で、まったくお互いに協力するそぶりを見せない。彼女たちの協調性のなさに愛想を尽かしたルビーと、ルビーの妹分であり、ルヴィアの魔術礼装であるマジカルサファイアは、この主君たちのもとから逃げ出して、もっと魔法少女然としたかわいらしく自分たちにふさわしい主君を探していたのであった。
そこで白羽の矢が立ったのがイリヤなのだが、当のイリヤははっきりとした態度を示さない。そうこうしている間に、ルビーの居場所を突き止めた凛が彼女らのもとにあらわれ、イリヤに対しルビーを返すよう要求してくる。だがルビーはイリヤを自分の主にするといって聞かず、そこでしぶしぶ凜はイリヤをサーヴァントとの戦いに巻き込むことにする…。
この第一話をイリヤの物語として考える場合、実はこれを第二話との続きものと考えるほうが適切なのだが、それでもこれを単体の(結末が宙づりにされた)物語として考えることはできる。というのも、主体≒主人公というのは、一般的に考えられているよりも実ははるかに主体性に欠けるキャラクター格で、物語論における<召喚の辞退>というタームが示すように、行動を起こすきっかけを与えられないと行動に移らないうえ、そうしてきっかけを与えられてもなおこれを拒絶することが少なくなく、したがって、しばしばアニメや漫画などでは主人公が行動に踏み切るかどうかについて葛藤していたり、それに乗り気でなかったり、それを拒絶したりするのを、逆の方向へと持っていくために一話を割くというパターンが見受けられるのだが、この第一話もそのようなパターンのものとして考えることができるからである。
とはいえ、この第一話の場合、この葛藤の解消が最終的に主体的になされることがなく、凛の半ば命令にも近いような依頼によってその解決を遅延されてしまうため、この段階でのイリヤはこの一期全体の問題(サーヴァントの打倒とクラスカードの回収)について消極的な態度しか持っていない。したがってプリヤ第一期においてはこうして一旦宙づりにされた問題がのちに第七話のあたりで改めて蒸し返され、最終話まで影響を及ぼすことになるのだが、これについてはのちに重大な論点になることだけを明記して、一旦脇に置いておこう。
ここからは第二話からのあらすじを先に示した構文に沿って記述する。

イリヤ冬木市に住む普通の小学生だったが、あるきっかけで魔法少女として、サーヴァントを倒し、彼らを倒すことで入手できるクラスカードを集めなくてはならなくなったのだった。
そんなある日、イリヤ(主体)は凛(送り手)に呼び出され、サーヴァント(敵対者)との初戦に臨むことになる。だがイリヤは魔法の知識や戦闘の技術もないうえに、凜はサーヴァント相手にはほとんど無力。一方のサーヴァントは英雄が制限つきとはいえ現世によみがえった姿であり、その魔力も戦闘能力もはるかに優れている。イリヤはなんとか実戦を通してサーヴァントとの戦い方を覚えていくが、サーヴァントは「宝具」と呼ばれる必殺技を発動し、イリヤを斃そうとする。
絶体絶命の危機に直面したイリヤだったが、そのとき彼女の前にもう一人の魔法少女(贈与者)が現れ、サーヴァントをあっという間に打倒してしまう。
このようなわけで、イリヤは危機から脱し、サーヴァントを倒したのだった(問題の解決)。

正確にはサーヴァントを倒したのはイリヤではなくこのもう一人の魔法少女
(美遊)であるため、第二話ではきっちりとイリヤ自身が問題を解決し、それらを清算したわけではない。これについても後々述べることになるが、それも今は措いて、ここでは第二話における美遊の立ち位置に注目しておこう。
美遊は当然問題の解決の決定的な原因となっているために、ここでは贈与者の役割を担っていることが明白なのだが、一方で第二話が終わった後の第三話で、彼女ははやくもイリヤを拒絶し、イリヤが戦う動機を問い直すことで、その後の展開への流れを作ることになる。
つまり、美遊は紛れもなく第一話〜第二話までの一つの物語の流れを「終わらせた」のだが、また一方で新たな問題を持ち込み、第十話まで展開されることになるプリヤ一期の大きな流れを「始めて」もいる。とはいえ、一期の内容を知らない方にとっては、このあたりのことがよくわからないだろうから、これについても一応説明しておこう。
一期のクライマックスとなるサーヴァント・バーサーカーとの最終決戦パートでは、美遊とイリヤの物語が交互に展開し、イリヤの物語についてはイリヤの母・アイリスフィール・フォン・アインツベルン(以下アイリ)が、美遊の物語についてはイリヤが贈与者となってブレイクスルーがなされる。とはいえこの二つの物語は並行関係にあるというよりはむしろ主従関係にあり、イリヤの物語は美遊の物語のために展開されている向きがある。あるメインの物語において贈与者の役割にあるキャラクターを主人公とした物語、つまり彼ないし彼女が躊躇しながら最終的にこの贈与に踏み切るまでの物語が、メインの物語と交互に展開される、というのもかなりの頻度でさまざまな作品に用いられるパターン(近々で僕が見たところではたとえば『ブレイブウィッチーズ』の第四話など)だが、プリヤ一期のクライマックスもこのような仕掛けで作られているといえる。
ともあれ、プリヤ一期のクライマックスパートはこのような構造を持っている、ということを確認したところで、ここでは構文に沿ってイリヤと美遊の物語のあらすじを示しておく。

イリヤ(美遊の物語における贈与者)の物語〉
イリヤ(主体)はひょんなことから魔法少女になった小学生。彼女は凛、ルヴィア、そしてもう一人の魔法少女・美遊とともに、サーヴァントを倒し、クラスカードを集めるための戦いに巻き込まれていたが、何でもできて戦闘能力も高い美遊に対して、少なからず劣等感や申し訳なさを感じていた。
そんなある日、イリヤはサーヴァント・アサシンとの戦いにおいて危機に陥ったことで魔力を暴走させ、危うく美遊たちをその攻撃に巻き込みそうになってしまったことによって、美遊に今後の共闘を拒否される。イリヤは美遊の一言と、命の危険を感じたことを理由に魔法少女をやめることを決めるもののの、美遊が危険な戦いに巻き込まれていることを知っていながら、自分だけが日常に帰っていいのかと葛藤する。しかし、彼女は美遊がイリヤに言った通り、自分が美遊の邪魔になってしまうというのではないか、という意識(敵対者)のために、この葛藤を解消することができない。
そんなふうにして悩み続けていたイリヤのもとに、ある日、母親のアイリ(贈与者)が海外から帰ってきて、彼女の相談に乗ってくれる。イリヤは美遊に言われた言葉にこだわり美遊を助けに行けないでいるが、アイリはこの言葉に、「ほんとうにイリヤが足手まといだからそういったのではなく、そういったことで友達を危険から遠ざけようとしたのではないか」と別の解釈を示してみせる。
こうして、イリヤは美遊を助けに行く決意を固めたのだった。

〈美遊の物語〉
美遊はとある事情でサーヴァントと戦い、クラスカード(対象)を回収しなければならなくなった魔法少女である。彼女はもう一人の魔法少女イリヤとともにサーヴァントを倒して回っていたが、彼女の事情にイリヤを巻き込みたくないが故に、彼女を遠ざけ、ついには魔法少女としての戦いから撤退させてしまう。
そんなある日、彼女(主体)は凛、ルヴィア(送り手および受け手)とともに、最後のサーヴァント・バーサーカー(敵対者)と戦うことになる。ところがこのバーサーカーの正体はギリシャ神話最優の英雄ヘラクレスであり、十三回分殺さなければ死なない特殊な肉体を持っていた。美遊は凛とルヴィアに撤退を呼びかけられるが、ここで撤退したら次の戦いではイリヤが呼ばれる羽目になると考えたすえ、凛とルヴィアだけを強制的に帰還させ、このサーヴァントと自力で戦うことを決意する。
美遊は善戦するものの、バーサーカーの強靭な肉体と卓越した力の前に追い詰められてしまう。しかし彼女がとどめを刺されると思ったその瞬間、魔法少女の姿になったイリヤ(贈与者)が現れ、すんでのところで美遊を助ける。イリヤを危険から遠ざけようと思っていた美遊だが、イリヤの想いを知って二人で戦うことを決意し、二人(とイリヤが連れてきた凛とルヴィア)はバーサーカーに挑む。
こうして、美遊はイリヤと改めて友情で結ばれ、バーサーカーを倒すことに成功したのだった。

少しばかり補足説明をしておくと、美遊が凛とルヴィアを帰還させることができたというのは、このサーヴァントと美遊たちが戦っている世界が、日常の世界と違う次元のようなところにあるからであり、おまけにこの次元の間を行き来したり、そこに他人を連れてきたりそこから帰したりできるのは、ある例外を除いてルビーやサファイアの所有者、つまりイリヤと美遊だけだからである。
さて、以上で説明したあらすじが一期のおよそ八話から十話までの内容になるのだが、これらが第二話、第三話において美遊がもたらした物語のポテンシャルを活かしたものであることはわかるだろう。もし美遊に何一つ抱えている秘密などなく、彼女がイリヤに終始協力的で、サーヴァントが現れたこの事態について(のちの展開で明らかになるように)責任を感じてなどいなければ、物語はもっと淡々とサーヴァント七体を狩るだけの物語になっただろう。そしてこうなった場合、物語のポテンシャルを保っているのは、凛やルヴィアたちが持ってきた問題ということになり、ここにイリヤと美遊が関わる必要はなくなるどころか、むしろ彼女らはこのような危険を避けようとするだろう(そしてルビーやサファイアにしても、よもや嫌がる彼女たちに戦いを強要することはあるまい)。未清算の過去という設定、そしてその過去が原因となって引き起こされつつある出来事に責任を感じるような性格設定を付与されているからこそ、美遊は死の危険を冒してでもこの問題に関わるのだし、イリヤイリヤで、美遊が友人であり、そんな彼女が一人で戦い続けることを嫌がっているがために、同じようにこの問題に関わることになる。ここで美遊は明確にイリヤの戦いを動機づける存在なのであり、彼女はイリヤがこの物語から退場することを防ぐ役割、つまりプリヤの物語を延長させる役割を果たしているのである。
したがって、第三話において美遊がイリヤを拒絶し、そして第十話で共闘関係を受け容れるまでの(構造が先かテーマが先かはわからないが、ともあれ友情をテーマにした)物語は、動機の希薄なイリヤを物語の流れにつなぎとめるための手続きとして機能しているし、少なくともそこにおいて語られる二人の人間関係のドラマが終わるまでは、プリヤの物語は語られ続ける「意味」がある。第二話のサーヴァント戦の物語から第十話までの二人の物語が生成した原因、つまりプリヤの物語が延命される原因となった要素こそは、第二話において前触れなく出現した、贈与者としての美遊なのである。前置きが大変長くなったが、これが僕が「なぜ後から現れた魔法少女は主人公を拒絶するのか」という問いに対して「物語を繰り延べるため」と答えた理由である。いいかえれば、この第三話において美遊が示した物語の延命機能としてのポテンシャルは、すべて第二話のあの場面から生じているのだ。

 

3,

次なる問題は、美遊がプリヤ第一期第二話で果たした役割、すなわち物語の繰り延べないし延命効果は、あのときの美遊固有のもの、つまりたんなる偶然的なものなのか、それとも、物語に固有で普遍的な法則によるもの、つまり必然的なものなのか、ということである。僕はこれを必然的なものだと考える。事実、プリヤにおける物語の繰り延べは、この手法を反復することによってなされている。
それは、たんに美遊がつねに物語の繰り延べを行なっているという意味ではない。そうではなくて、僕が言いたいのは、美遊が第一期第二話で果たしていたような役割を担ったキャラクターが、つねにプリヤの物語が新たに生成するその原因となってきたということである。
このことを確かめるために、ここでもう一度、あの場面における美遊が贈与者であったことを思い出そう。そしてプリヤ第一期から第四期までの各話において、贈与者の役割を果たしたものを列挙してみよう。

・第一期
第二話
サーヴァント・ライダーとの戦いにおいて追い詰められたとき…美遊が現れ、これを倒す

第四話〜第六話
サーヴァント・セイバーとの戦いにおいて追い詰められたとき…イリヤが覚醒し、クラスカード・アーチャーに秘められた英雄の能力を自身に憑依させて戦い、セイバーを倒す。
イリヤはクラスカードをこのように使えることを知らなかったため、これはイリヤの無意識とでもいうべきものが贈与者の役割を果たしていることになる。

・第二期
第八話〜第十話
魔術協会から派遣されてきた封印指定執行者、バゼット・フラガ・マクレミッツとの戦いにおいて追い詰められたとき…凛が駆けつけ、戦いを一時休戦へと持ち込む。

他の話を例として挙げてもいいが、僕としてはこれで十分だと考える。なぜなら、おそらくはこの三つの展開だけで、アニメプリヤの全クールの大きな物語の流れを説明できてしまうからだ。
まず、第一期第二話の贈与者・美遊は先ほども述べたように、第一期のクライマックスの展開を生み出す役割を果たしたのだが、彼女はそれだけではなく、三期と四期および劇場版『雪花の誓い』の展開、そしてそもそもこの物語が始まった直接的な原因をも担っており、プリヤのすべての物語を、少なくともそれが語られるポテンシャルを、プリヤというコンテンツに与えたキャラクターである。これについては詳説する余裕がないが、気になった方はプリヤの三期と四期を見てみてほしい。
そして第一期・第四話〜第六話におけるイリヤの覚醒状態(イリヤの無意識)は、第二期の主要な展開の一つである、クロエ・フォン・アインツベルン(以下クロエ)をめぐる物語のポテンシャルを引き出した贈与者である。第二期ではこの無意識が受肉し、クロエというイリヤとは別様のキャラクターとして彼女に対峙することになるが、このクロエとイリヤの物語は、まさにこのセイバーとの戦闘におけるイリヤの覚醒から到来したものなのである。
さらにその第二期の後半では、クロエとイリヤの和解ののちに、彼女らの持っているクラスカードを奪うべく、魔術協会というところからバゼットという女性が派遣されてくるが、この女性はサーヴァント並み、あるいはそれ以上の戦闘力を有しており、美遊、クロエ、イリヤ、ルヴィアは、このバゼットの前になすすべもなく負けてしまう。しかし彼女にとどめを刺されるかと思われたまさにそのとき、ブレイクスルーをもたらしたのは凛であり、凛は回収した七枚のクラスカードの他に、もう一枚のクラスカードが出現したという情報と、そのカードの場所の情報を交渉の材料にして、バゼットとの戦いを休戦に持ち込む。こうして贈与者としての凛がもたらした情報(八枚目のカード)は三期の後半の主要な展開の原因となり、それは美遊の過去をめぐる物語へと接続され、プリヤの物語を四期や劇場版にまで繰り延べている。
こうした構造を見ればわかるように、プリヤの物語の種はその日常回(本筋に関係ないところで展開されるキャラクターの日常を描いた回)を除いて、贈与者によって持ち込まれており、それは語られるべき謎、語られるべき続きへの予兆として、物語にその語りのポテンシャルを付与するのである。
先ほど、僕はプリヤの物語が美遊の登場によって語られる「意味」を獲得した、といった。ところで日本語における意味という言葉はフランス語ではsensであるが、このsensは「意味」という意味の他に、「方向」という意味をも持つ。物語は語られ尽くされるまでは、その終着点の「方向」に向かって語られ続けるが、それが終わる時には、このような指向性を喪失する。それはちょうど人が食欲によって刺激されたとき、空腹が満たされるまでは食べ物を摂取し続けようとするが、それが終わるとその欲望が消失してしまうのを感じる、あの現象と似ている。したがって、ここで僕がいう物語のポテンシャルというのは、受け手によって物語られなければならないと欲望されている謎や中途半端に残された問題が示唆する物語の予感、物語が向かうべき新たな方向への予感のようなものなのである。
さて、このようなことを踏まえると、最後になぜ、このポテンシャルを物語にもたらすのは贈与者でなければならないのか、という問いが生じる。そこで最後にこの問題を論じて、このエッセイを「終わる」ことにしたい。

 

4,

これまで、僕は、物語が問題の解決とその過程を描くことを基本とするものであること、そしてその過程の決定的なところにつねに贈与者が関わること、そしてこの贈与者の観点からプリヤを分析したとき、プリヤの物語の延命がつねに贈与者によってなされることを説明してきた。
そこで、ここでは最後に「なぜプリヤにおいて物語を持ち込んでくるのはつねに贈与者なのか」という問いについて考察を加えておきたい。
さて、この考察を始めるに当たって考えるべきは、なによりもまずジェイムソンのあの見解、すなわち「贈与者=<他者>」という見解である。ではそもそも<他者>とはどのような概念なのか。それを今から少し説明しよう。
現代思想において、基本的な問題のひとつとなってきたのは、ヘーゲル哲学的なものをどう考えるかということなのだが、それは非常にひらたくいえば、他人のことをどう考えるかということにつながる。それはひいては存在、真理観、倫理といった問題について、あるいはもっと具体的にいえば20世紀の主要な問題すなわちナショナリズムファシズム、資本主義経済といったものの問題について考えることにつながるのだが、大雑把にいえば、こうしたイシューの全てを集約するキーワードの一つが<他者>なのである。
<他者>の概念やイメージにはそれを唱える人々によってそれぞれ細かな違いがあるが、とりあえずここでは「自分が理解できないもの」「自分が忘れ去ったもの」「自分が排除したもの」「自分にとって不都合なもの」ぐらいに考えておけばよい。たとえば、自分が理解できないものというのは、世界がそうだし、他人がそうである。そして、本来理解できないはずのそういったものたちを、理解していると思い込むことが、ときに相手への暴力につながることがある。または、そうした理解できなさに直面したとき、僕たちは思わずそういったものを否定したり、なかったことにしたり、排除しようとしたりする。
こうした構図は様々な問題を考えるときに繰り返し繰り返し立ち現れてくる。そしてジェイムソンがこの議論の文脈で論じているロシア・フォルマリズム文学史論についても同じことがいえる。
彼らは簡単にいえば文学論を組み立てようとした人たちだから、当然文学史についても語れなければならない。しかしそこで彼らは一つのジレンマに直面する。それは、文学史における変化をどう記述するか、という問題に関わるジレンマであった。
たとえば、ある時代に文学様式Aが流行っていたとする。そしてその流行が、文学様式Bのそれに取って代わられたとする。ではこの変化はなぜ起きたのか。このことを説明するには二つの方法があるだろう。一つは、文学様式の変化の原因を、文学内にあるものとして考え、この内在的な原因から、変化を説明する方法である。そしてもう一つは、文学様式の変化の原因を、文学外にあるものとして考え、この外在的な原因から、変化を説明する方法である。
もし、前者の説明をおこなうとすれば、文学史はその内容を失うことになる。なぜならば、文学史における変化の原因を文学内に求めるということは
文学史における変化の原因を文学の自己原因的な原理に求めるということであり、こうした原理すなわち抽象的な法則は具体的な内容や時間に規定されえないために、なぜよりによって具体的な文学様式であるAが、別の具体的文学様式であるところのBに取って代わられたのか、ということを説明できない、つまり実際に起こった出来事の特殊なあり方を説明できない(こうした特殊な何かについての語りは、つねに「文学」の原理自体の自己解題に回収されてしまう)からである。
したがって、こうした自己解題の罠をかわすには、人は後者の説明方式をとるほかないだろう。しかしそうすると今度は、この文学史という試みの前提自体が危うくなる。なぜなら、もし文学史の変化を外部的な原因、たとえば社会のシステムの変化によって説明するとすれば、それは極論たんなる社会の歴史にほかならず、この社会の歴史に文学史が回収されてしまうことになるからである。むろん、ここまで極端なことを考える必要はないが、それでも外部にある歴史の変化の原因を求めるならば、その歴史の自己同一性、つまりこの場合でいえば文学および文学史の自己同一性は、つねに脅かされていることになる。したがって、このようなモデルにおいては絶対的に自立した自己同一的な文学史なるものを立てることが不可能になってしまう。
文学史の変化を内部的な原因によって説明すれば具体的な事象や変化を説明できない。しかし文学史の変化を外部的な原因によって説明すれば今度は文学史という単位そのものの存立が脅かされる。いいかえれば、他者をいなかったことにして自立を訴えれば変化が説明できず、他者を受け容れようとすると自分というものが危うくなる。おおまかにいえば、これがロシア・フォルマリズムの陥ったジレンマである。
ジェイムソンはこのようなジレンマの議論を背景に物語について言及しているといえるわけだが、こうした文脈を踏まえると、まさにここでいわれている文学史と物語はパラレルな関係にあるといえるし、文学史における変化の外部的な原因になぞらえられるものは、物語においては贈与者であるといえる。したがって物語における贈与者は基本的にその物語の外側から到来するのであり、これがジェイムソンが贈与者=<他者>という議論を展開した意味である。
事実、人が理解できない他者とは、つねに実際的にもメタフォルカルにも異邦人(ストレンジャー)である。人はこの異邦人と話すことで彼ないし彼女と打ち解けることができるかもしれないが、その会話が始まる最初の瞬間には、この人物は得体の知れない、会話が成立するかもわからない何者かである。したがって本質的に異邦人は未知性によって定義されうるのであり、この未知は知的な欲望を駆り立てる。人はこの未知を既知へと変えていくことで、異邦人を理解しようとする。理解さえできれば、この人物は、あるいはこの人物がもたらした情報は、他者などではなく、たんなる既知のなにかである。
このように他者との出会いは他者への知識欲を掻き立て、他者の他者性はその知識欲によって(空腹な人の前に供された食事のように)食べられてしまう。そして人は、しばしば何かを食べることを欲望するのみならず、何かを食べることを欲望することそのものを欲望するものだ。同様に、物語が終わってほしくないという欲望は、まだ物語を欲望していたいという、物語の欲望への欲望として、物語を欲望する。贈与者は物語において未知のものとして、あるいは未知のものを携えてあらわれる権利を持っているがゆえに、こうした欲望を引きつけることができる。「この少女は何者なのか?」「イリヤはなぜあんな状態になったのか?」「八枚目のカードとはなんなのか?」ーープリヤの物語は外部から引っ張ってきた唐突な贈与者ないしその情報によってこれらの謎を提示し、それに答えるべく物語るという体裁をとって、物語を延命させる。この点において、プリヤの物語は贈与者の本質的な他者性を利用して、物語を展開すると同時に延命するという、二つの役割を贈与者に課している。
こうした話を踏まえれば、プリヤの世界において、とりわけクロエと美遊は、その設定から贈与者たることを宿命づけられている、あるいは逆に、贈与者としてあらわれなければならなかったことで、その設定における他者性を宿命づけられているといえるかもしれない(どちらが先なのかは作者しか知りえないことだろう)。なにしろ、美遊はまさに異界からこのプリヤの世界に来訪したストレンジャーそのものなのだし、クロエについても、そのもともとの出自を考えれば、イリヤの無意識、すなわちイリヤの内なる他者に他ならないのだから。
以上、ここでは「なぜプリヤにおいて物語を持ち込んでくるのはつねに贈与者なのか」という問いについて論じてきた。贈与者は変化の決定的な原因を担うというその性質上つねに唐突に外部から到来することができ、その点において他者性を帯びている。こうした他者性は受け手の欲望を刺激し、物語に方向を与える。だからこそ、贈与者は物語を延命する力を持っているのであり、プリヤはこの力を活かして、第一期から第四期、および劇場版の物語を展開したのである。

 

 

 

意味と価値

ソシュールを翻訳するとき、日本語だと、たとえば「言葉の価値は示差的である」というふうにいいあらわす。ところで僕は原典(『一般言語学講義』の原書)を読んだことがないからわからないのだが、果たしてこの「価値」という言葉にあたるものは、フランス語ではなんというのだろうか。というのも、僕はいつもこの言葉に違和感を覚えてきた人間で、ちがう訳語を当てはめうるならば、その言葉を知りたい、と折に触れて思ってきたのである。まぁ、そんなのは原典を買ってきて勝手に確かめろよ、という話なのだが、これはあくまで話の枕なのでその話は脇に置くとして…。

たとえば、言葉の意味は示差的というならば、わからないまでも、まだなんとなく頷ける気がする。しかし価値となるとヘンだ。むろん、価値はときに「意味」と似た使われ方をする言葉だが、「人生に意味はあるか」というような場合に、これを単純に「人生に価値はあるか」と代置すると違和感を覚える。この違和感をたんなる言葉遣いの習慣の問題だといって切り捨てることはできないだろう(というか、習慣こそは言葉の意味やその変化および差異にとって本質的である)。ではなぜこのような違和感があるのかと考えてみると、ひとつには、単純に、価値という言葉に即物的なニュアンスがあるからかもしれない。ようするに人はつい人間の一生というものをロマンティックに考えてしまうから、それについてその意味なり価値なりを云々するときは、価値と言うよりは意味と言いたい、という気持ちがある。そして第二の理由もこれと類似するか、あるいはその言い換えに過ぎないのかもしれないが、その理由とは、価値という言葉はもっぱら量的なニュアンスを含むのに対し、人生の意味という場合、それは量化困難か、少なくともそうした量化をこのテーマについては拒否したいという欲望がはたらくということである。
ここで価値の量的なニュアンスについて云々する前に、価値と意味に共通する含意を分析し示しておかねばなるまい。価値にせよ意味にせよ、それらの意味を考える上でおそらく重要なのは、少なくともある二つのものの交換関係を考えることである。先ほどの例でいえば「人生の意味」というとき、多くの場合、人は発話内的にはたんに問いを発しているのだが、遂行的には実存的な訴えをおこなっている。人は訳も分からないままその渦中に放り込まれた自分の生が、やがて死に至ることを知る。いくら死について批判的な検討を行い、この意味を転倒しようと試みたとしても、この未来がもつ不快な意味そのものを完全に抹消することはできないだろう。そこで人はなんのために自分は生まれたのかと問わざるを得ない。では人がその人生の意味を問うとき何を与えられれば満足なのかといえば、それは自分がそのために生きるに「値する」なにものかである。これはむろん僕の個人的なイデオロギーではないことを予め断っておくが、たとえばある人が「人生の意味」が「自分の子供を生み育てること」だと考えているとすれば、その人はそれをおこなう限りにおいて自分の人生に「意味がある」と考える訳である。そもそも人生を意味/無意味で考える思考の枠組み自体がひとつの陥穽なのだという話はここではおいておくとしても、ここでこのことについて即物的な言い換えをすれば、人は自分の人生を売ってこの目的の達成に必要な諸々を購っている訳である。これはまさしく「人生」と「その意味」の交換に他ならない。
これは「言葉の意味」についても当てはまる。たとえば「この言葉の意味は?」といわれたとき、私たちは大体似たような意味の言葉を持ってきて説明する(辞書などをめくればこのあたりのことは一目瞭然である)。それは要するに、意味のわからない言葉Aは意味のわかる言葉Bと(完全に等しくとはいえないまでも)交換できるということである。
この二つの意味(言葉の意味というときの意味と人生の意味というときの意味)の意味の差異はここでは脇に置くとしても、ともあれここではある二つのものがあって、それらが互いに代置=交換可能であるという関係がある。しかしここでいう「等しい」とはなんの基準に照らした等しさなのか、それは計量可能なのかといわれると、私たちは返答に窮せざるを得ないだろう…。したがって意味という言葉が前提する交換関係は、矛盾するようだが、実はその本質的な交換不可能性(等置不可能性)、非対称性を露わにしている。
一方で価値というときにも交換関係が前提されていることは認められるのだが、この場合この二つの関係は計量可能である。たとえば経済的な語彙として「価値」という言葉を使う場合、それはただちに値段や費用対効果といった言葉を連想させるが、逆にこのような文脈で意味という言葉を使うことは稀である。したがって、たとえばある物Aは4000円分の価値を持っているなどということはおかしくないが、4000円分の意味を持っているというと途端に違和感が付きまとう。こういう文脈において意味には量的なニュアンスがないが、価値には量的なニュアンスがある、といえるのである。むろん、ここでいう価値というものにも深淵があり、実はそれは確固として自存するものではない、というのはすでに記号論貨幣論において述べられていることであるが、とはいえ価値という言葉を使う場面においては、多くの場合、この二物あるいはそれ以上のものたちのあいだの根本的な交換不可能性は問題となっていないのである。
この言葉の使い分けには、人間の、ある種の態度の違いのようなものが透けて見える。たとえば人間が自分の人生や、言葉といったものに直面した場合、そこにおいては、それらのものに等置できるものやその等置の基準自体がどこにもないということを直観しているのであって、それはある種の神秘との対面なのだ。このようにいったからといって、僕は人の生や言葉といったものを無闇に神秘化しているわけではない。あるものとあるものを交換するということを考えた時に、それらのものが神秘的に思えるような認識のモードに切り替わるかどうかの分水嶺は、たんに交換という問題について根本的な懐疑が兆すかどうかにある。したがって物の交換についてさえ、根本的にこの交換の根拠というものを疑ったならばその物の神秘性を考えざるを得ないのであるが、人はふだんはそんなふうにものごとを考えてみようとはしない。逆にいえば、人は、そんなふうに考えもしないものの価値ないし意味を語る時には価値という言葉を使い、そんなふうについ考えてしまうものの価値ないし意味を語る時には意味という言葉を使う。そしてそれはそのままある態度や感覚の表明という遂行的な言表行為でもあるのだ。
…ここでこの雑文の枕の話題について改めて蒸し返すならば、言葉の価値は示差的である、というのはやはりおかしい。それは言葉の意味ないし価値というものが僕の中で神秘的なものだからだし、量的なものでもないからだろう。しかし、今はこれ以上のことをちゃんと考えられるほど考えが徹底していないし、その徹底の仕方次第では、「やはりここは価値という言葉を使うべきだ」と考え直すことは十分にあり得る。ともあれここではその予備的考察を示すかたちで、この文章の違和感の正体のさらなる批判的検討については、宿題とすることにしようと思う。

変化について

ある認識に至って、分かってみればこんなことかとか、自分は今までこんなことすら分かっていなかったのか、という経験をすることはままあるが、先日もまた僕はそのような体験をした。

それはある問いについてひとつ文章を書こうとしていたときのことである。その問いとは「なぜ人は無限に向かいながら全体性に折り返すのか」という問いであり、ありていにいえばなぜ人は理想に向かい、それを実現する代わりに、理想に向かったことでむしろ新しい過ちを犯すのか、という問いであった。むろん過ちというからにはこれは倫理とか認識論に関わる問いなのであるが、これ自体はとりたてて新しい問いでもない。そしてある意味ではこの問いについては簡単に答えることができる。たとえば、人は疑問に思ったことに答えを与えようとするが、この答えを出したとして、それが正しいかどうかをメタ的に判断することができない。これについては「自分は全てを知っているか」という問いを考えてみればすぐにわかる。したがってこれはひとつには原理的な問題なのである(と断定的に語ること自体が、むろん原理的には不可能なのかもしれない)。
それでは、この不可知論的な問題を倫理的に転回するとどうなるかといえば、それはたとえば「相手のことを知る(理解する)ことができるかどうか」という問いにつながっていく。むろんこれも原理的にはできない。だが相手のことを理解できない(現実)にもかかわらず、理解していると思いたい(理想)がために、自分は相手のことを理解しているというふうに考えてしまうと、それは相手に自分の相手像を押し付けることになったり、思い込みで相手を扱うことになるだろう。それはどう考えても非倫理的な関係の仕方なのであり、だからこそ人と人は理解しあえないという前提を崩さないままに理解しあおうとする二重の態度が必要になる。繰り返すが、もし理想ではなく現実において人と人とが理解しあえると考えてしまったら、その瞬間から理想(人と人とは理解しあえるはずだ)は過ちを、少なくともその可能性を生みだすことになる。これが無限から全体性への折り返しと僕が言ったものの一つの実例である。
とはいえ僕はそのときはこの問題を別の観点から考えていた。これもまた倫理的な話にはなるのだが、それは人が倫理を目指し、そして最終的に自分を倫理的だと思いこむことがむしろ非倫理性を招き入れるという話である(まだるっこい場合は正義を振りかざすことの傲慢さについての話題と考えてもらってもいい)。この場合、ありていに言えば倫理は理想であり、倫理的たりえない自分のあり方は現実であるが、この思い込みがどこから起こるのかと考えると、倫理とナルシシズムの矛盾撞着的な関係について思いが至った。それは以下のようなものである。
たぶん、人にはまず原初的にナルシシズム、自己愛がある。それは端的に自分を愛する感情であるが、これについてはあまりちゃんと分析してはいないから、そういうものがあるとだけざっくばらんに仮定しておく。しかし一方で人は自分がどのような存在であるかに関係ない価値基準を持っている。たとえば美醜の判断がそうだ。美しいものは、自分がそれを憎たらしく思おうが、それが自分にとって不都合なものだろうが、ときにはそれを美しいと認めざるをえないものである。むろん、ごまかしや観念によってこの判断はいくらでも揺らがされうるのだが、ある程度はそれ自身の基準の独立性を保っている。
そしてそれは倫理的判断についてもそうだろう。自分がげんに倫理的であるかどうかの判断は、自己愛的な価値判断とはある程度独立しており、本質的に自己愛の原理に抵触する。なぜなら倫理的価値判断は基本的にエゴイズムを告発するからである。むろん、自己愛とエゴイズムを単純に同一視することはできないが、それについてはここでは保留させてもらう。すると、ともあれここに一種の悲劇があるということを指摘できるだろう。というのも、人間はふつう自己愛を持つと同時に、それと自己愛の価値基準から独立した価値基準において肯定的に判断されるものとを一致させようとするからである。なんのことかわからないという場合には、自己嫌悪のことを考えてもらえばいい。人はたとえ自分を愛していても、自分が醜ければそんな自分を愛することはできず、嫌悪すらするが、この嫌悪はまさしく自己愛と美意識の両方を前提とした嫌悪なのであって、自分を愛していなければ自分が醜いことに頓着などしないし、美醜の価値判断が自分のなかに存在しなければ、自分が美的にどうであろうとそんなことは御構いなしに自分を愛するのみであり、ここからは自分を愛するという判断と美醜の判断を一致させようとする人間の一般的な心理をみてとることができるだろう。そして自己愛と美意識の一致は、少なくとも器量の美においてはある程度可能となるのだが、自己愛と倫理意識の一致はそうはいかない。なぜならば、倫理は基本的にエゴイズムを告発するものなのにもかかわらず、倫理的でありたいという欲望は「自分が」倫理的でありたいという心理であり、この点において前提から撞着し躓いている欲望だからである。自分を倫理的だと思いたがる心理は、この矛盾撞着を認められないナルシシズムに端を発するか、あるいはそれそのものなのだろう。
さてこのような倫理とナルシシズムの撞着的癒着を考えると、自己保存欲とはなんなのかということに思い至らざるをえない。自己保存欲はたんに生物的であり、ある価値規範に自己のあり方を一致させようとする欲望は自己実現的、などと考えるのは簡単だが、そのように短絡的に片付けられるものだろうか。このようなことをつらつらと考えていたときに、ふと、人は本当に生きたいのだろうか、ということに思い至った。
これはふつう自明のことだと思われている。たとえば人が飯を食ったり寝たりしたいと思うのは生きるためだし、セックスをしたいというのは種の生存のためというふうに説明できる。しかしむろんそれは目的論的かつ倒錯的な仮説なのであって、ふつう人は生きるために飯を食おうなどとは思わず、端的に食べたいから食べ、食べること自体を楽しんでいる。そこに生などという観念が入り込む余地はなく、私たちは食べることで結果的に生きながらえているにすぎない。それはたまたま生にとって好都合だということでしかない。むろんそういう目的を持った無意識の狡智とでもいうものが人間を突き動かしているのかもしれないが、おそらくその狡智とて生存を絶対唯一の原理として動いているわけではなく、かなり場当たり的で無原理ないし多数原理的なものとしてあるのだろう。
こうして考えると、人の生はかなり多義的で変化に富んだものであり、ときにはその条件(ゲームのルール)自体が変わりうるものだ。たとえばふつう人は倫理、美といったような幾つかの価値判断規準を持ち合わせているが、こうしたものが根本的に変更を被ったり、ここになにか別の基準が追加されることで、人の生のあり方がまったく別のものになる可能性があるし、この可能性に人は現実的に開かれている。その変化のなかで社会もまたまったく違うものになりうる。というか昔の人間と今の人間の不可解なまでの違いがこの観点から説明できるかもしれない。これはほんとうに面白いしワクワクする考えだ。
しかしよく考えると、こういったことは生成変化とかいった言葉でよく語られているような出来事かもしれないし、ちょっと考えればすぐにわかりそうなことで、こう思った僕はこの発見の興奮を早々に手放してしまった。それにしてもこの認識に至ったときの僕の驚きたるやすごいもので、自分が散々こういうことを考えうる示唆を与えられていたのにこうしたことを考え得なかったことにもびっくりし、認識の内容それ自体にもびっくりした。しかし認識の新奇性のようなものはどうあれこの驚きは大切なものだと思うので、今後はこのことについてもちょっと考えていきたい、と思う。

「感情の運動」について

このまえTwitterをなんとはなしに眺めていたら、感情の運動という話題が流れてきたのだけれども、今回はそのことについて思ったことを備忘録がわりに書いておきたいと思う。このまえといっても一ヶ月ほどまえの話なのでリンクを貼れないのが残念だが、おそらくTogetterにまとめられている話だったように記憶しているから、気になった人は調べてみてほしい。逆にいえばこれから僕がおこなうその概要の紹介は記憶に基づくものなので、正確な情報ではないかもしれないということをあらかじめ断っておく。

さて、感情の運動という話題を語るに当たって、ここでは文脈を補うためにわかりやすい問題提起をしておこう。その問題提起とは、たとえば僕たちは人の身の上話(失恋話だとか…)に妙に食いついてしまうことがあるが、そしてその話を聞きながら心を動かされることに、心地よいものを感じてしまうことがあるが、これは倫理的にどうなのか、というものである。むろん、それを語る本人はいたって真剣で、その内容が失恋などであれば、おそらくは苦しみに耐えきれず、その思いを誰かに聞いてもらいたいと考えたがために、僕たちにその話を持ちかけたのではないかと思われる。しかし僕たちはそれをあたかも今流行りの「涙活」におけるメロドラマ鑑賞のごとく不謹慎に消費してはいまいか。こうしたことを批判する文脈で出てきたのが「感情の運動」という概念なのである。
僕が記憶しているところでは、この批判のあらましは、感情の運動不足と他人の身上話の涙活的消費を紐づけるものである。いわく、感情が運動不足な人は自身の感情の希薄さにうんざりし、なにか心を動かされるものを求める。そしてその好餌となるのが他人の身上話であり、彼らは親切に相談を引き受けたり、話を聞くふりをして、自分の感情の運動不足を補っているのである。だが、それはむろんそのことに苦しみ悩んでいる本人に寄り添っているのではなく、自己本位な動機に基づく行動なのだから、これは倫理的に批判されるべきであるーー。
こうした話を読みながら、なんとなく僕がこれと関連付けたのは、この意見に対する反対なり賛成なりではなく、感情を失ったオタクの問題であり、僕のコミュニケーション能力不足の問題だった。「感情を失ったオタク」というのは、いわゆる厨二病(中二病)のオタクの類型を指す言葉であり、彼らは自分自身に「感情がない」と思っている、あるいはそういうことで格好を付けている。要するにクールの美学の変種のようなものだと考えてもよい。
ただ、僕が思うに、彼らは本来は感情豊かであるはずなのに格好を付けて「感情がない」といっているのではない。彼らは事実そういう実感をもっているのではないかと思う。その根拠は僕自身の体験である。僕自身が感情を失ったオタクだったことはないが、感情がない、といいたくなるその感情の希薄さの感覚についてはなんとなく理解できるのである。それは僕が先にもうひとつあげた問題、つまり僕のコミュニケーション能力不足の問題にも通じる。
僕はよく他人の話に反応できないことがある。たとえば、「○○ってことがあったんだ!」と嬉しそうにいわれたとする。当然これに水を差すのはいいやり方ではないから、一緒に喜ぶなり、ちょっと喜び過ぎをからかうなりするのが良い手なのだろうが、そもそも僕はそうした手段をとっさに思いつけない。なぜかといえば、僕はだいたい他の人のいうことに強く共感しないし、ちょっとからかってやろうなどというユーモラスな発想というか悪戯心が希薄だからである。一番問題なのは前者で、なんにせよ物事に感情的に反応できない、反応が遅れる、というのは、会話にとっては致命的である。テンポが悪くなり、ぎくしゃくし、空気が悪くなる。しかしそれは自分にとってはどうしようもない。恐らく感情を失ったオタクたちも、ひとつにはこういう感情の希薄さあるいは遅延を指して「感情がない」といっているのではないだろうか(こういう感覚についてよくわからないという人は三島由紀夫の『金閣寺』を軽く読んでもらいたい。恐らく冒頭部で主人公がこれに似たことを「どもり」の問題として語っている)。
僕がこのことを「感情の運動」と結び付けたのは、まさしくこの感情の反応の希薄さと遅延が、感情の運動不足によって起こるからではないか、とメタフォリックに考えたからである。ようはそれは身体の比喩で考えれば、反射神経(反射神経なるものはないという話も聞くが)とか筋力がないという話なのである。しかしそうすると次に問題になるのは、それがなぜ起こるのかということだろう。どうして感情の運動不足なるものが起こるのか。
ここで改めて考えてみるべきなのは、反省とか自意識の問題であろう。フロイト風にいえば、ふつう人は快を求めるが、それでは現実に対応できないということに気づいて快さの実現を遅延させるようになる。これを反省-理性の働きとするならば、理性は最初は個々の感情に、次いで感情一般に対立するようになるだろう。正確にいえば、理性や反省を発動させるきっかけになる危機感などは、感情そのものへの背反という逆説的な権能を持つことになるし、この危機感が発動させた反省-理性はものごとを抽象一般化して考える機能を持つから、やがて警戒の対象を感情一般に広げてゆくことになるだろう。すると感情そのものがつねに警戒の対象になるから、こうした一般化を経た警戒感と反省-理性の協働を、どのような場面においても適用しようと心がける人間の心の作用は、感情の反応を遅延させる、いったんお預けにする習慣や、感情自体を抑圧する習慣をもつことになる。するとそのうち感情的な反応の能力が低下してしまう。このようにして考えてみると、なんとなく自分自身の実感にも沿う気がする。
しかし、僕は、あるいは感情を失ったオタクは、コミュニケーションの際、一体何を警戒しているのだろうか。これはおそらくだが大きく分けて二つあって、自分が他人にネガティヴな印象や評価(滑稽、失礼、無神経、馬鹿、ダサい、など…)を与えること、そして自分が他人を傷つけることである。つまり片方はナルシシズムから、もう片方は倫理からくる。しかしこの二つは淵源を異にするものなのであろうか。厨二病的なもの、ナルシシズム、倫理などは、もしかすると父権的で幼児的な万能感からくるヒロイズムに起因していたりはしないだろうか?
おりしもこれは僕が最近考えていることにも近づくのだが、これについては当分結論が出ないだろうから、ここでは疑問を提起するにとどめる。ともあれここらへんのことについて考えるときに重要な主題をもう二つほど提起してこの備忘録を締めくくろう。その二つとは、退屈と離人症という主題である。なにしろ僕たちは退屈な日常が続くと生の実感が持てなくなるものだし、その解決が実生活で叶わないならば、せめてたまには人の恋愛話を聞くなりメロドラマを観るなりして、気を紛らわしたい、と思うものなのだから。

「ツンデレ」の構造 ――ツンデレ美少女にかんする予備的考察

ツンデレっていいですよね。僕はとりわけ高坂桐乃が好きです。ツンデレのうえにクソガキなんて、最高ですよね。

なお、ツンデレ概念について一般的な知識がある方は、「00:イントロダクション」を最後の太字になっている「つまるところ〜」の箇所から読んでもらっても構いません(大部分が個人的な体験談と概念の紹介にあたるため)。

目次
00:イントロダクション
01:ツンデレアイロニー
02:ツンデレと素朴
03:ツンデレとかわいい

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00:イントロダクション

 個人的な話から始めよう。
 僕は中学生時代のひところ、昼飯をメロンパンと牛乳で済ませていた。お金がなかったわけではないし、ましてやダイエットをしていたわけでもない。ようするに、それはたんなるマイブームだったのである。
 では、そもそもメロンパンがマイブームになったきっかけはなんだったのか。すでにおわかりの方も多いかもしれないが、僕はその頃『灼眼のシャナ』というラノベに出てくるシャナというヒロインが大好きで、そのキャラの好物がメロンパンだったのである。
 え、どういうこと? と思われる方もいるだろう。確かに、なぜ好きな二次元美少女の好物がメロンパンだからという理由で、毎日メロンパンを食さなければならないのか、というところの、その必然性を問われると、僕自身にもいまいち因果関係が説明できない。が、それはとにかくそういうものだとして納得してもらうしかないのである。とにかく、僕がメロンパンを好んで食していたのは、「ラノベに出てくる好きなヒロインの好物だったから」なのだ。萌え豚とはそういうものなのである。
 さて、それでは、そんな影響を受けるほどシャナが好きだったのはなぜなのか。その理由の一つは、おそらく、シャナがいわゆる「ツンデレ」であり、僕がツンデレに萌える性質を持っていた(/持っている)からだ。ツンデレとは、キャラクターの特性を指す言葉であり、萌え属性の一つである。ツンデレのキャラは好意を寄せる人物に対して、いつもはツンツンしている(刺々しい)のに、ときおりデレっとする(胸に秘めた好意をのぞかせる)。そのギャップがたまらないのである。
 僕がこの文章を書こうと思ったのは、長年疑問に思っていた自分のこのような心理について、語るための材料が揃ってきたからにほかならない。なぜ人はツンデレに萌えるのか。それはどういう心理状態なのか。つまるところ、ツンデレとはなんなのか。本文章では、このことについて、予備的な考察をしてみようと思う。ツンデレのどこがいいのかわからないという方、ツンデレに萌える自分の気持ちが我ながら謎だという方は、是非とも読んでみてほしい。

 それでは、考察を始める前に、その全体の枠組みを示しておこう。
 ここでは、ツンデレの最大の特徴をギャップ萌えであると考え、「ギャップ」と「萌え」のつながりについて、三段階にわけて考える。まず、ギャップとは何か。次に、ギャップから萌えが生じる条件はなんなのか。最後に、この場合の萌えとは、どのような意味を持っているのか。これらの考察を順次おこなうかたちで、ツンデレの魅力に迫ってみようと思う。

01:ツンデレアイロニー

 ギャップとはなにか。それも、ツンデレがみせるギャップとはなんなのか。このことについて考えるために、ここではまずアイロニーについて考えてみよう。
 アイロニーという言葉には実に複雑な哲学的含意があり、それを説明しようとすると大変面倒なことになってしまう。そこでここでは、通常の意味でいうアイロニーすなわち「皮肉」についてのみ語ることにする。
 皮肉とは、ひらたくいえば、「何かをいうことで、文字通りの意味とは違う意味のことをほのめかす」ことである。たとえば、誰かが何かについてとても的外れなことをいったとして、それに皮肉で返すとする。すると、僕たちは次のようにいうことになるわけだ。

「なるほど、君は本当に賢いんだね」

 もしこの発言を字義通りの意味にとるならば、それは「君は賢い」という意味になるだろう。だが、もしこれを皮肉として受け取るならば、その意味は真逆になる。たとえばそれは、「君は賢くない」というようなものになるはずだ。むろん、僕たちが発言に含ませたのは後者のような意味であるが、それをどう受け取るかは相手次第ということになる。

 したがって、皮肉は、一面においては、卑怯なコミュニケーション行為でもある。たとえば相手が皮肉を皮肉だと理解して、それに怒り、僕たちを非難したとする。しかしそれはあくまでほのめかされたことに過ぎないのだから、僕たちは簡単に逃げを打つことができる。「そんなつもりで言ったんじゃないんだけどな」。事実、そんなつもりで言ったかどうか、本当のところは、相手にはわからない。少なくとも、僕たちの心のなかを覗くなりして、「ほら、やっぱりそう思っていたんじゃないか」なんて指摘することはできないのである。
 このような場面について考えるために、とりわけここで考慮しておくべきポイントは、二つある。一点目は、言葉内の意味と言葉外の意味の違いという点。二点目は、意味決定の覇権(ヘゲモニー)という点である。
 まず一点目について、具体的に考えてみよう。先ほどの例では、言葉内の意味(「君は賢い」)と言葉外の意味(「君は賢くない」)があべこべになっており、そのことによって皮肉が成立したのだった。しかし、これは皮肉をいうときに限った、特殊な話ではない。意味があべこべにはならずとも、言葉内の意味と言葉外の意味が違うということは、他のコミュニケーションにおいても、しょっちゅう起こっている。
 それではまず言葉内の意味と言葉外の意味が一致する場合を考えよう。たとえば先ほどの例で、僕が相手の言ったことに心底感心したとする。すると僕はこのようにいうはずだ。

「なるほど、君は本当に賢いんだね」

 先ほどと言葉内の意味は変わらない。しかし、言葉外の意味は変わる。僕は本当に彼を褒めているのだから、僕にとっては言葉内の意味と言葉外の意味は変わらない、ということになるのだ。
 それでは、今度は別の例を出そう。たとえば、僕と誰かが僕の部屋の中で喋っているとする。おりしも季節は八月、夏の盛りである。にもかかわらず、僕たちは冷房や扇風機をつけることもなく、窓を開けることもなく、だらだらと喋っている。
 しかし流石にたまりかねたのか、話の合間に、ふと相手がこう呟く。

「この部屋、暑いなぁ」

 さて、この場合の言葉外の意味はなんなのだろうか。おそらくこれは僕に窓を開けるなり、冷房や扇風機をつけるなり、冷たい飲み物でも持ってくるなりしてくれ、といっているのではないだろうか。むろん、彼ないし彼女はたんに感想をいったに過ぎないのかもしれない。だが、この言葉が「君がこの部屋の主なんだから、この暑さをなんとかしてくれ」という意味を含んでいる可能性は大いにある。あるいはそれは「君は気が利かないな」かもしれないし、「君は寒がりなの?」かもしれないのだが。
 ともあれ、このような例を踏まえると、言葉内の意味と言葉外の意味がお互いに異なるのは、なにも皮肉をいう場合だけではない、ということがわかるだろう。
 それでは、僕たちは、言葉外の意味をどこから読み取っているのか。それはたとえば身振りや、表情や、話の流れやその場の状況、そのようなものからである。
 ここまで考えたところで、次は二点目、意味決定の覇権について考えてみよう。意味決定の覇権とは、言葉の受け手がもつ権威のことである。
たとえば、コンビニでこういう受け答えをしたことはないだろうか。

「デザートにスプーンはお付けしますか?」
「いえ、結構です」

 実は、僕は、いつもこの受け答えをするときに悩まされる。というのは、この受け答えが、相手にとって失礼になるかもしれないからだ。むろん、「結構です」「要らないです」というのは、文字通りの(言葉内の)意味では問題がないように見えるし、言葉外の意味からいっても、敬語を使っているので、相手に対して失礼には当たらないように思われる。だが、慇懃無礼という言葉が示すように、たとえ言葉が敬語であっても礼を失する場合はあるのだし、「結構」「要らない」というのはかなり強い言葉だ。実際「お気遣いは結構」とか「そんなもの、要らない」みたいな使い方をするときには、相手に対して攻撃的な意味を持つ場合もある。したがって僕がよく使うのは「大丈夫です」という言葉である。しかし、この言い方は日本語としてなにか変ではないか? …買い物をするときにいちいちこんなことを考えている奇矯な人間も、世の中にはいるのである。
 とにかく、このような場合に僕が危惧していることをまとめると、それは、「自分のいったことが、自分が意図した意味とは別の意味に受け取られること」であるといえる。このとき、僕は、相手を恐れている。これが「意味決定の覇権」(=受け手の権威性)である。
 以上の議論から推して考えるに、皮肉とは、この関係を逆倒させる戦略である。皮肉屋はまず言葉の意味を建前(言葉内の意味)と本音(言葉外の意味)に分離する。そうしておいてから、意味決定の覇権を自分の側に手繰り寄せる。いわばかれらは受け手の側(言葉の意味を決める側)に回ってしまうのである。
かくのごとき戦略的行為は、人が口論をするときによくおこなわれる。たとえば、「そんなことはいってない」「そういう意味じゃない」。しかしながら、おたがいがこういうことを始めるとコミュニケーションが破綻するのは、多くの人がよく知るところである。コミュニケーションにおいて合意なしの意味などありえず、意味なしにコミュニケーションはありえない。
 それでもなぜ人はしばしばこのような権威の奪い合いをしたがるのかといえば、それはそういう生き物だからと答えるより他に仕方ない。そういう生き物というのは、相手より優位に立とうとする、少なくとも自分の威厳を保とうとする生き物、という程度の意味である。だから、たとえば相手に対する好意などというものを赤裸々にするのは、恥ずかしいことであったり、屈辱的なことであったりするのである。いいかえれば、それは、自分が話し手=好意を認めてもらう側に立たされることに他ならない。
 さて、ここまできて、ようやく僕たちは「あのセリフ」について考える段階に立ち至った。

「べ、べつにあんたのことなんか好きじゃないんだからねっ!?」

 このとき、この言葉内の意味は、「私はあなたのことが好きではない」であるが、言葉外の意味は「私はあなたのことが好きだ」である。ここでも言葉内の意味と言葉外の意味があべこべなのだ。しかし、この現象は皮肉と単純に等置できるものなのだろうか。

 皮肉においては、言葉内の意味と、言葉外の意味は、そしてその効果は、話し手側の意識下にあった。したがって皮肉家の優位性は確保されている。ところが、ツンデレ的言明においては、言葉外の意味は、伝えたくないのにもかかわらず伝わってしまっている。したがってそれはむしろ優位性の確保の失敗を意味する。
 実は、この観点から考えると、ツンデレ的言明のこのような特徴は、むしろ皮肉をいわれる側の状態に近い。たとえば的外れな発言に対して皮肉をいわれるとき、人は苛立つ。それはなぜなのかといえば、自分では良い発言をしたと思っていたのに、実際にはそうでなかったということを突きつけられ、しかもそのような「恥ずかしい」姿が、公然のものになってしまっていることを自覚するからだ。意識によって制御できなかったものが露出しているとき、そこにはその人間の素朴な姿があらわれてしまっている。ギャップとは、畢竟このようなものにほかならない。
 これは、ツンデレ以外のギャップ萌えや、あるいはギャップ萎えについても同様である。捨て猫を拾う不良(ギャップ萌えの例)や、猫を被った腹黒美少女(ギャップ萎え)などはこのようなパターンに属する。まぁ、個人的なことをいえば猫を被った腹黒美少女はむしろギャップ萌えの対象なのだが、この議論については脇に置くとして、ここではギャップについての結論が出たところで、いったん話を締めくくろう。

 ツンデレにおけるギャップとは、隠したいと思い、普段は隠しおおせているものの、制御できない露出である。

02:ツンデレと素朴

 さきほどは、ツンデレのギャップとはどのようなものなのか、ということを明らかにした。ここからは、ギャップから萌えが生じるのはなぜなのか、ということを考えてみよう。
 そのために、ここでは「素朴」ということを考えてみよう。この言葉は、先ほどの考察においても、一度だけ用いられたものである。「意識によって制御できなかったものが露出しているとき、そこにはその人間の素朴な姿があらわれてしまっている」。つまりある人間の素朴さとは、露出することによって見出されるものなのである。それをこういいかえてもいいだろう。すなわち、素朴とは意識の装いが剥ぎ取られたときに始めて見出されるものである、と。しかもそのようにして確かめられなければならないのは、好ましくない素朴さではなく、好ましい素朴さなのである。したがって、これまでの僕の用語法とは異なるが、素朴という言葉は、そもそも肯定的なニュアンスを帯びたものである。このような仮説から、ギャップと萌えをつなぐ条件を考える、これが本章のねらいである。
 たとえば、いわゆるイキリオタクと呼ばれる人種は、自分がイキっていることを自覚していないがゆえに、笑いの対象になる。ところでイキるというのは、一種の示威行動であり、また痛々しいものでもあるから、好ましいおこないではない。したがって、彼らのイキりは(偽装の試みであるとはいえ、同時に)好ましくない素朴さなのだ。だがこうした人種に対して、僕たちは懐疑を持つだろうか。すなわち、彼らは敢えてイキったふりをしているだけで、本当は僕たちに笑いを提供してくれていて、そうして笑っている僕たちを尻目に密かにほくそ笑んでいるのではないか、などという疑いを持つものであろうか。むろん、そのような疑いを持つことは稀だろう。なぜなら、人間はふつう、そんなことのために自分を悪く見せようなどとは考えないからである。
 だが、逆に、いつもニコニコしていて、善良で、優しい人間に対しては、僕たちは疑いを持ってしまうものではないだろうか。なぜなら、人間はふつう、自分を良く見せたり、好かれようとするものであり、そのためならば、たとえそうすることが苦痛であり、本意に反することであっても、自分を偽装することが往々にしてあるからである(人間にとって本意とはなにかということを考えだすと、それはそれで難しい話なのだが)。むろん、このような疑いを持たない場合には、突然そのことを突きつけられることもある。これがギャップ萎えであるが、それは要するに裏切られたという感情なのであり、裏切りとは、信頼の無根拠性=偽装の偏在的かつ潜在的な可能性の提示である(「奴は本心では何を思っているかわかったもんじゃない」)。したがって、それは素朴さというよりも、むしろ偽装可能性の露出なのだ。
 ともあれそのようなわけで、僕たちは、誰かのおこないが好ましくないときには、それを疑わず、誰かのおこないが好ましいときには、それを疑ってしまうという、哀れな性質をもっている。そして仮に好ましくない素朴さがまったく予期しないかたちで露呈したとしても、その素朴さは偽装可能性として、いわば素朴とは正反対のものとしてもたらされてしまう。しかし、露出した好ましさというのは偽装の及ぶところではないから、僕たちはこのような状態(ギャップ)によって、始めてその好ましさを信じうるのであり、これを素朴と呼ぶのだ。
 このことについて、哲学者のイマヌエル・カントは、ずばぬけて鋭く深い洞察を示している。

[…]素朴は、人間性にとってもともと自然的であるところの誠実が、すでに我々の第二の天性となった偽装の技術に対抗して発露したところのものである。我々はまだ自分を偽る術を知らない単純さをおかしがって笑うが、しかしまたそれと同時にかかる偽装の技術を挫折させる自然な単純さを喜びもするのである。[…]しかしこういうことはほんのちょっとのあいだしか現れない現象であり、やがて偽装の技術がまたしてもこれを蔽い隠してしまうのである、それだからこれを痛ましく思う同情の念、即ち優しいいたわりの感情が同時に交じることになる。そしてこの感動は遊びとして、かかる善意の笑いと極めてよく結びつき得るし、また実際にも結びつくのが普通である。
               ――イマヌエル・カント判断力批判
 むろん、人間にとって誠実さが自然的な天性であり、偽装が二義的な天性であるかはわからない。むしろ僕たちは、素朴を論じる際、ついついこのような優劣関係を立ててしまうことそのものに、素朴という言葉がそもそも含んでいる肯定的なニュアンスの力が示されていると考えるのがよいのかもしれない。といってもこれはドイツ語の訳であるから、日本語の素朴と完全に対応するものでもないが、少なくとも僕たちが素朴というとき、素朴には肯定的なニュアンスが含まれる、と考えることは妥当である。そんなわけで、僕が先ほど用いたようないいかた、つまり好ましい素朴とか、好ましくない素朴とかいういいかたは、片や同語反復であり、片や語義矛盾なのだ、とすらいえるのだ。
 さて、これをツンデレ的露出とつきあわせて考えてみるとどうなるか。ツンデレ的露出とは、明らかかつ好ましくない偽装なのか、それとも僕たちを人間不信に陥れる偽装可能性の露出なのか、それとも素朴(好ましい本性の露出ないし隠され露出することによる好ましさの本性化)なのか。前章でも述べたとおり、ツンデレ的露出は、このうち素朴にあてはまる。だとすれば、ギャップと萌えがつながる条件とは、素朴(素朴的状況)であり、この場合の萌えとは、ひとつには、そこから生じる種々の感情の織りなす交響だといえる。
 僕たちは、これらの感情を列挙するにあたり、カントの洞察を参考にしよう。すなわち、それらは善意の笑いと、歓喜と、優しいいたわりである。ツンデレとは、かくして、人間を信じ、愛しうるものにする状況の総体、またそれを発生させる性格ないし行動特性のことなのである。

03:ツンデレとかわいい

 これまで、僕は、ツンデレ萌えの構造について論じてきた。ここからは、このようなツンデレ萌えの心理の構造をさらに考えながらも、それが一体なにを意味しているのか、ということについても考えていきたい。
 そのためにも、もう一度ツンデレ萌えの構造をおさらいしておこう。
 ツンデレ萌えとは、まずもってギャップ萌えである。この場合のギャップとは、隠したいと思い、普段は隠しおおせているものの、制御できない露出である。そしてこのようなギャップによって露出するのは、当人の素朴さである。素朴さは、それを知覚した人に、善意の笑いと、歓喜と、優しいいたわりの感情を生じさせる。したがって、ギャップと萌えのあいだに橋をわたすのは素朴なのであり、上述の感情こそが、萌えの感情の、少なくとも一部をなすものなのである。
 だが、このような分析だけでは、いわゆる普通のギャップ萌えと、ツンデレ萌えとは区別されないことになる。そこで軽く触れておきたいのが、好ましさについての考察である。
 ツンデレ萌えの好ましさと、ギャップ萌えの好ましさは、どう違うのか。ここで再び不良と捨て猫の例を挙げよう。これはなぜかよく人口に膾炙しているネタなので知らない方はいないと思うが、一応説明しておこう。個人的な脚色は加えさせてもらうが、それはおおむね次のようなシチュエーションである。
 ある学校に不良の男子生徒がいた。同じ学校に通う自分は当然彼に良いイメージを持っていなかったのだが、そんなある雨の日の下校中、ふと彼の姿を見かけることがあった。よくみると、なんと彼は、道端にいる捨て猫(ないし捨て犬)を連れて帰ろうとしているではないか。しかもそれはどうやら、猫が雨ざらしになっているのを見かねての、純粋な善意からくるおこないらしい。それを見た自分は思わずほっこりした気分になり、その不良のことが以前よりも好きになってしまったのだった。――要するに、普段は悪そうな奴が良いことをしているとなんだかすごく良い奴に見えるという、ギャップ萌えの典型的なネタである。
 この場合、「自分」は、不良のどこに好ましさを感じているのだろうか。むろんそれは、不良の善意にである。いいかえれば、彼の行為は、善を好む「自分」の意に適うものだったのだ。悪い奴だと思っていた不良が実は善良な性質をも持ち合わせていることを知り、なんとなく親しみを抱く、このようなところにこそ、「不良と捨て猫」ネタからギャップ萌えが生じる契機がある。
 これをもう一段抽象化してみる。すると、こういえるだろう。ある価値基準(たとえば善-悪)があって、普段はその価値基準に照らして好ましくない存在が、実はその「本性」において好ましい存在だったことがわかる、そのことによって、彼と「自分」とのあいだに親しみが生まれる。それは不良との和解であり、価値を介した間接的な交流なのである。
 それでは、ツンデレ萌えの場合、なにが好ましいのか。それはおそらく「関係性」から生まれる好ましさなのであり、この関係性は、サディスティックな関係性と親近する。
 ここで僕は四方田犬彦の『「かわいい」論』という書物を挙げることにしよう。四方田は、ここで、かわいいという美的カテゴリーについて多角的な分析をおこなっているが、ツンデレ萌えのことを考えるうえでもっとも重要なのは、「「かわいい」言明のヘゲモニー性」とでもいうべき議論である。
 四方田は、人が対象に対して「かわいい」というとき、そこにヘゲモニー性(覇権)が前提されていることを指摘する。ひらたくいえば、何かを「かわいい」というとき、人はその何かより優越した立場にいる。
 ところで、「ツンデレアイロニー」の章で論じた、「意味決定の覇権性」の議論を覚えているだろうか。人は相手の言葉の意味を決定する立場に立ったとき、権威をもつ。すなわちそこでは、話し手と受け手が非対称な関係に立っているのである。この二つの議論はどこか似てはいまいか。
 これらの類似性を足がかりに、かわいい対象及びツンデレ美少女において考えてみよう。かわいい対象は、しばしば、か弱さや小ささを特徴とする。したがってそれは恐るるに足らないのであり、主体(「かわいい」という側)はかわいい対象に対して優位に立てるが、その優位性はまさにその言明(「なにこれかわいい!」)によって確かなものになるのだ。
 ところで、しばしば人は弱いものに対すると、ある両価感情を誘発される。それは、庇護欲とサディズム感情である。たとえば「食べちゃいたいくらいかわいい!」という言葉を思い出してみよう。それでも納得できないというならば、アンナ・カヴァンの『氷』を読んでみるといい。そこにはか弱い少女によって誘発される庇護欲とサディズム感情の、複雑な絡み合いが示されている。
 ツンデレ美少女は、ちょうど、このような立場に立たされる。かわいい対象と違って、ツンデレ美少女は、か弱い存在とは限らない。しかしツンデレ美少女は好意を寄せる登場人物との関係において、決定的な弱みを持っている。それはむろん、その登場人物に対する好意にほかならない。僕はコンビニ店員を意味を受け取る側として恐れるが、ツンデレ美少女は、ちょうどこのような構図で、自分の好意を受け取る相手を恐れる。したがって、このような関係において、当該登場人物は、ツンデレ美少女に対し、権威を持っている。ツンデレ美少女が登場人物に好意を持っていること、そしてその非対称性が微妙な駆け引きのなかで現れること、これが鑑賞者にとって好ましいことなのである。
 ツンデレ美少女は、ふだんはツンツンしている。ようするに、ツンデレ美少女はふだんは好意の所在を宙づりにしておくため、その態度は好ましかったり、好ましくなかったりし、鑑賞者は意味の混乱のなかで酔わされる。だが、彼女がデレるとき、そこでは偽装から素朴が、そして隠されていた好意が露出し、ツンデレ美少女は劣位におかれ、無防備になる。かくしてツンデレ美少女がデレるとき、鑑賞者はツンデレ美少女に好ましさを感じ、和解する。それはツンの不調和を得たのちの調和であるだけに、いっそう強く感じられる。
 最後に、これをカントの素朴論と結びつけてみよう。ツンデレ美少女のデレに思わずにやけたり微笑ましいと思うとき、それは善意の笑いなのだが、笑いはつねに対象に対する主体の優越性を前提する。また好意の確証を得たことによって好ましさを感じるとき、それは歓喜である。さいごに、ツンデレ美少女を愛おしく思う気持ちは、優しいいたわりであり、かわいい対象に対するあの庇護欲にも類似するかもしれない。しかし、ここにおいて示される結論は複雑である。ツンデレ萌えは対象を信じうるもの、愛しうるものとする。したがってそれは調和、または和解の感覚なのだけれども、その調和ないし和解は、ツンデレ美少女の無防備性を前提とする。そしてその感覚の隣接領域にはサディズムが横たわっている。
 かくてここには、愛や調和や官能の両義性が示されるのだ。それは喜ばしいもの、快いものとして描きだされる一方で、相手を劣位に置くものとして、あるいはサディズムに通じるもの、すなわち悪としても描きだされる。ツンデレ美少女とは、このエロスの両義性のなかでゆらぐ存在なのである。

 

 

東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』における憐れみと観光客の道徳性について

「憐れみ」とは何か? 『ゲンロン0』を読んで - うなぎのブログ

この記事に触発されてなんとなく僕も『ゲンロン0』についての個人的な見解の一部を書いてみようと思いました。たぶん僕の読み方の方はありきたりなものになると思うのですが、対照していただけると面白いのではないかと。読解の一助になればさいわいです。

 

※なお、本エッセイは東浩紀『ゲンロン0』と上記記事を読んだ方を対象としていますので、それぞれの内容について細かい説明はおこないません。ご了承ください。

 

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 『ゲンロン0』の論旨のまとめについては引用記事を作成した方が非常にわかりやすくまとめてくださっているので、ここでは割愛するとして、さっそく『ゲンロン0』における憐れみの分析をおこないたいと思います。


 ここでまず引いておきたいのは、引用記事のこの箇所です。

 

 先の憐れみをめぐるグローバリストとナショナリストの分断の事例とは、本来非意志であるところの憐れみという感情が、リベラルの「他者を憐れむべきだ」という命法の中に、言い換えれば意志の中に投げ込まれてしまったがために生じた事態であるように思える。
 この事例ではグローバリストが他者を憐れむことを意志し、直接に連帯することへと使用してしまったがために分断が起こった。しかし、観光客の哲学では憐れみはあくまでも誤配される。その誤配を通してこそ、人々は事後的に連帯することが可能になる。

 

 これは國分功一郎の『中動態の世界』を引き合いに出して憐れみの両義性について論じた箇所ですが、ここでの能動態-中動態の項と能動態-受動態の項の関係は、東の議論を経由する形で、カント哲学の構図に置き換えることもできるでしょう。
 東はしばしば「マクロな視点では数量化できるがミクロな視点ではかけがえのない個性を持っている存在」として人間を考える(二重の)視点について語ります。ここでいうマクロな視点というのは、たとえばビッグデータのような統計にあらわれる、ある指向性をもった運動として人間を捉える捉え方です。またミクロな視点でというのは、ようするに、僕たち一人一人の個人的な視点から見た人間を人間として捉える捉え方です。
 これをカント哲学の用語で置き換えれば、現象界の人間(マクロ視点の人間)と自由界の人間(ミクロ視点の人間)というふうにいえる。さらにこれは理論と実践の違いでもあります。人間は理論認識においては、所詮ある構造のなかで運命に従って動かされているに過ぎない(マクロ的人間観)。だが、人間はそれを嫌だと思い、構造にとらわれないで、自発的に、自由に生きたいとも考える(ミクロ的人間観)。カントはこうして人間の人間自身に対する矛盾する二つの人間観(理論的人間観と実践的人間観)を示します。
 さて、こういうふうなことをいわれると、ふつう、人は前者を後者に無理やりごまかして統合しようとするか、後者を幻想だとバカにしてシニシズムに陥る(いじけて高二病になる)でしょう。しかしカントは人間は理論的な現実(自由意志などない世界)のなかで、できるかぎり実践的に(自分を自由意志のある主体とみなして)生きるべきだと説きます。これは、道徳的な要求でもあります。なぜなら、自由意志がない世界では自分の行為は運命によって決まっているのだから、そこに責任は生じませんが、自分に自由意志があるとみなすと、その行為の原因は自分にあり、必然的にそこから責任が生じるからです。したがってカントにとって実践とは道徳のことなのです。
 ものすごく簡略化していえば、それはようするにこういうことです。「理想は実現できない=現実的なものではない。だが現実に生きながら理想を目指してしまう、その人間の性質は現実的である。したがって、人間は現実のみに拘泥してもいけないし、理想を実現できると考えてもいけない。人間は理想を実現できないことを肝に銘じながら、それでも現実のなかで理想を目指すべきである」。


 さて、以上の議論を踏まえて、ふたたび引用記事の議論を見てみることにします。まず、國分の能動態-中動態的人間観と能動態-受動態的人間観は、それぞれ強引に置き換えれば東のマクロ的人間観とミクロ的人間観につながる。そして東のマクロ的人間観とミクロ的人間観は、カントの理論的人間観と実践的人間観につながる。
さらにここから、カントの道徳哲学の文脈で、憐れみをとらえなおしてみたいと思います。
 カントの道徳哲学は、ふつう、合理的な道徳哲学に分類されます。合理的な道徳哲学とは、経験的な道徳哲学と相反するものですが、ここではまず経験的な道徳哲学の立場がどんなものかを説明したいと思います。
 経験的な道徳哲学とは、ひらたくいえば、道徳は時代や場所や文化、個人個人の価値観などによって変わると考える立場です。したがって、この立場において、普遍的な道徳などというものは存在しません。
 一方の合理的な道徳哲学とは、道徳に普遍性を求めようとする立場です。したがって、この立場においては、時代とか場所とか文化とか個人の価値観に関係なく、絶対的な道徳があるのだ、というふうに考えます。
 どちらも一歩間違えれば危険な考え方ではありますが、ともあれカントは後者の立場に立ちます。このような立場に立ったうえで、カントは、僕たちのおこないが常に普遍的といいうるような道徳性を持っているかどうかという検証を怠らないこと、このことをまず普遍的なきまり(根本法則)として定めます。ようするにそれは、普遍的道徳を目指すことを普遍的な道徳的態度としろ、すなわち「理想(普遍的道徳)は実現できないが、これを目指せ(つねに既成の道徳が本当に道徳的なのかどうか疑いつづけろ)」、このような考え方です。
 こういう考え方をしたカントが、道徳に感情は禁物と考えるのは無理もないことです。なぜなら、道徳はこの場合普遍的なものでなければならず、感情は気まぐれ(経験的)なものだからです。だから、カントにとって純粋な道徳とは非感情的なもの、いいかえれば、自分の感情とは関係なく行われなければならないものです。それはエゴイスティックな感情を克服するのが道徳なのだという単純な話ではありません。それは憐れみやその場の正義感に端を発する道徳行為についてもいえることだったりします。たとえば、浦沢直樹の漫画作品に『MONSTER』というものがありますが、この漫画の主人公は、医師として救った患者が後年殺人鬼になってしまうことに苦悩します。僕たちはしばしば人を職業意識や同情や正義感から助けますが、その結果が最終的にどう転ぶかはわからない。こういうことまで考えて徹底的に悩み、疑え、これがカントの立場です。


 とすると、憐れみを強調する東と道徳の非感情的な普遍性を強調するカントの立場は、このような観点においては、対立することになるのでしょうか。僕の考えでは、それは違います。もちろん二者の関係はまったく同じではないですが、少なくとも対立的ではないと考えます。


 このことを考える鍵は、カントの道徳哲学に存在するあるねじれにあります。そのねじれとは、尊敬の感情の考察に見られるねじれです。
 カントによれば、道徳は非感情的なものです。しかし、カントは同時に、人間は道徳的に生きようとしてしまう性質をもっている、ともいう。これは考えてみればおかしな話です。なぜなら、道徳的に生きようするという人間のあり方は、どう考えても感情的なものだからです。
 したがって、道徳の非感情性を主張したカントでさえも、道徳の基盤に感情を持ってこざるを得ないのです。その感情は、カントの語彙では、尊敬の感情とよばれます。ここでただちに疑問になるのは、尊敬というのは誰に対する尊敬なのか、ということですが、ここでの尊敬は人間には向けられていません。それはカントの言葉でいえば道徳的法則、ひらたくいえば普遍的な道徳に対する尊敬心なのです。
 カントによれば、人間は誰しも普遍的な道徳に対する尊敬心を持っています。しかし、それはやはりカントの道徳哲学では二次的な役割しか与えられません。それは道徳的であることをめざすきっかけにはなってよいが、あくまで道徳は最終的には義務(非感情的なもの)として遂行されなければならない、と、カントはこういうふうにいいます。
ようするに、カントにとって、尊敬の感情とは、経験的な道徳哲学と合理的な道徳哲学を架橋するねじれた橋なのです。
 このことを、憐れみの概念をふまえたアレンジをくわえて説明させてください。たとえば、僕があるところで困っている人に出会うとする。そしてその人に憐れみの感情をいだく。そうすると、それと同時的にかどうか、あるいは同時的というような言葉の表現がふさわしいかどうかはわかりませんが、ともあれ僕の心にはさまざまな感情とともに、道徳心(尊敬の感情)もまた去来するでしょう。すると、次に何が起こるか。この尊敬の感情は、まずは自分以外の感情に反抗し、次いで自分自身に反抗することになります。ここに他の感情と尊敬の感情の違いが認められます。つまり、他の感情はただ感情そのものでしかないのですが、尊敬の感情だけは感情そのものに反抗し、普遍的な道徳(非感情的な道徳)を指向する、例外的かつ反感情的な性質をもっている。すくなくともカントは尊敬の感情をこのように定義し、感情的な道徳が非感情的な道徳につながる契機をみる。いいかえれば、こうやって整理すれば、経験的な道徳哲学と合理的な道徳哲学は逆説的な仕方で架橋されうるし、それぞれの弱点が解消されるかもしれない。カントの道徳哲学は、こんなふうに考えるとよいと思うのです。

 

 ここまでの議論をふまえると、ひとまずナショナリストとリベラルの対立は、経験的な道徳(感情的な道徳)と合理的な道徳(非感情的な道徳)の対立というふうに整理し直すことができるでしょう。それでは、このような対立があちらこちらでおこっている世界において、観光客はどのような役目を果たすのでしょうか。
 観光客は、観光以前には、憐れみを基点とする経験的道徳の申し子であり、動物です。したがって、もし彼らが一つ所にとどまるならば、近くの人たちとは連帯できるが、遠くの人たちとは連帯できないかもしれない。しかし経験的な道徳は、外に対しては、容易に暴力に転化しうるものです。それは「みんな」に対しては適応されるが、「みんなの外」に対しては適応されないどころか、場合によっては外の連中を排斥し、傷つけ、極論殺すことすら正当化しうる。したがって、観光しない動物的人間は、容易に排外主義的ナショナリストになってしまうし、彼らはリベラルの「正しさ」(宮台真司の言葉を借りれば、正しいが気持ちよくないこと)に耳を貸そうとはしない(というより、普遍的正しさを押し付けているだけのリベラルは、本質的にこういった排外主義的ナショナリストと同じです)。
 しかし、それが観光に出かけ、そこで外の人々と触れたらどうなるか。そこにはもしかしたら共感や憐れみが生じてしまうでしょう。そうすると、観光客はいくつもの憐れみのあいだで引き裂かれることになる。彼らは素朴な経験的道徳主義にはとどまれなくなってしまうでしょう。
 ところで、この引き裂かれの経験は、カントがその批判哲学の方法論としても、道徳哲学の肝としても、もっとも重要視したものです。カントは普遍的道徳を目指すことを普遍的な道徳的態度とすることこそが、道徳だと考えた。それはようするに、いくつもの正しさのなかで迷い続け、悩み続け、疑い続けることそのものが、道徳的であるということです。しかしまずはそのような多面的な想像力を発動させるきっかけが必要になります。そこで重要になるのが移動(観光)です。
 東は『ゲンロン0』のなかでカントの『永遠平和のために』を引いていますが、この引用の意味は、このような文脈から考えるととてもわかりやすいと思います。カントにとって、道徳哲学は普遍的なもの、非感情的(理性的)なものでなければならなかったが、そのきっかけになるのは感情だった。その基本理論は『実践理性批判』や『判断力批判』における崇高論で論じられているが、その具体的な方法論は、『永遠平和のために』において提唱されている。これを現代的なプラットフォームのなかで具体的なかたちに落とし込もうとすると、観光産業が浮かびあがってくる。このようなつながりを想定して読んでみると、『ゲンロン0』における観光客概念の実践的な意味が考えやすいのではないでしょうか。