かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

はじめてお越しの方へ

はじめまして。

当ブログ管理人のかんぼつといいます。

『かんぼつの雑記帳』へようこそ。

 

ここでは、はじめてこのブログをご覧になった方に向けて、このブログの読み方を案内しておきたいと思います。

 

ここには、おもに二種類の記事があります。

 

ひとつは、僕が僕自身のために書いた、メモがわりの記事。こちらは『メモ』というカテゴリーに記事分類されています。

 

もうひとつは、人に読んでもらうために書いた、ある程度内容のまとまった記事。こちらは『エッセイ』というカテゴリーに記事分類されています。

 

『メモ』には、もしかしたら見覚えのない言葉が書いてあったりして、不気味な怪文書じみたことがあるかもしれません。したがってこちらはあまりおすすめしません。

 

いっぽう『エッセイ』は、ある程度人が読むことを想定して書いていますので、『メモ』よりも内容が比較的まとまっていて、まともな文章です(あくまで比較的、ですが)。

 

そのようなわけで、管理人としては、まずは『エッセイ』のなかから、興味のあるものをお読みいただくことをお勧めします。

 

もちろん、これはあくまでガイドマップなので、どのように読むか(あるいは読まないか)は読み手であるあなたに一任します。

 

それでは、ご自由にお楽しみください。

 

かんぼつ

『Fate/Grand Order 徳川廻天迷宮大奥』感想

Fate/Grand Order』というゲームがある。かの有名なFateシリーズのうちの一作で、幾万とあるスマートフォン向けアプリゲームのなかでもかなりの人気タイトルとして知られているものである。その最大の特徴はなんといっても壮大なシナリオで、その執筆陣には奈須きのこを始め、多くの有名作家が起用されている。

 

実は、僕も、一年半ほど前からではあるが、このゲームをずっとやってきたユーザーの一人である。本編のシナリオからサーヴァントの育成からはてはSNSの二次創作まで、このコンテンツには長らく楽しませてもらっているし、これまでのイベントも、最低でもシナリオの全クリ、イベント礼装の交換、星4フォウくんと伝承結晶の回収くらいはやってきた。

 

しかし、そんな僕でも、今回の大奥イベントにはほとほとうんざりさせられた。もちろんシナリオは面白かったし、報酬も悪くない。しかし多くのユーザーが言及していたように、とにかくロード時間が長かった。もしアプデで改善されなかったら、途中で投げ出して、シナリオをクリアすることすらできなかっただろう。

 

とはいえいざ最後までやってみると、やはりシナリオは終わりまで読めてよかったと思ったし、そのストーリーを通して改めて考えさせられたこともあった。ここではそのことを備忘録がわりに書いておきたい。とりあげたいのは、本シナリオにおけるカーマと春日局の対比である。

 

神話上、あるいは実際の歴史上のこの二方がどういうふうな性格の持ち主だったかはさておくとしても、今回のイベントでの二人(一方は神だったりビーストだったりするのだが、とりあえず面倒なので一人、二人と数えておく)は、異なる愛のかたちをもつものたちとして描写されていた。一方のカーマは、どこまでも相手を甘やかしてしまう。他方で春日局は、相手が成長できるよう、ときには厳しいこともいう。

 

こういう二人のスタンスは、たとえば春日局のこんなセリフに現れる。

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春日局は、カーマの愛は成長を見守る愛ではない、という。なぜならカーマの愛は、相手を甘やかすことしかできないからであり、そしてその愛が世界を覆うとき、愛し合うということができなくなってしまうからである。

 

しかし、見方によっては、その意味において、カーマの愛は完璧なものなのだとも言える。

 

そもそも、なぜ人は甘やかされるだけではいけないのか。それは強くならなければならないからである。では、なぜ愛し合わなければならないのか。それは弱いからである。人が愛ゆえにときに人に厳しく接するとき、あるいは人と人が愛し合うとき、そこに前提されているのは、世界というものの厳しさ−−つまりそこでは平和だとか生だとかいったものはつねに闘いのなかで勝ち取られなければならないということ、そしてそういう世界にあって、闘い続け、勝ち続けるためには、人はあまりに弱く、それゆえにときとして強さ(成長)を求め、他人を求めなければならないということである。そういったことを考えるとき、もしカーマが永遠に人を庇護してくれ、愛してくれるとするならば、そのときカーマの愛がひとつの救いになることは間違いない。カーマはそういう強さだとか人と人のあいだの愛だとかいったものが必要とされるその前提条件そのもの(世界の厳しさ)を取り除いてくれるからだ。

 

しかし、それでも、そういう選択肢を提示されて、人がそれは何か間違っている気がする、と思ってしまうのは、それがこの世には存在しないユートピアだからというだけではなく、おそらくそのユートピアがある種のニヒリズムと通じているからである。たしかにそのような愛は望ましいかもしれないが、それをいったん受け容れてしまえば、そのような愛の望ましさそのもの、意味そのものがなくなってしまう。それはたとえば、生きていることそのものに苦しみの根源があるのだから、苦しみの最終的な解決は死にしかない、というような考え方とほとんど同じである。救済とか、永遠とか、愛とかいったものと、そういった無とか死が奇妙な一致を示す地点、カーマの示す地点とはこういう地点だといえる。それは第1部でゲーティアが示した地点とそう変わりがない。

 

思えば、FGOのシナリオが執拗に描き続けているのは、このような、そこに至ることで人の生そのものが意味をなさなくなるような救済に対する反抗だといえる。そしてそういう反抗は、たとえばカーマの快楽の愛に対して、春日局の、ときに崇高で、ときに残酷な「強くあれ」という愛を擁護する形をとる。もちろん、それはカーマからすれば倒錯的に映るかもしれないが(「どこまで痛いのが好きなんですか、人間って!」)、とにもかくにも人が生きなければならないのはそのような倒錯であり、そういう倒錯のもとにおける、還元不可能なズレなのだろう。

 

ところで、僕はこういう物語を読むと、いつも伊藤計劃SF小説『ハーモニー』を思い出す。この作品の終わりにおいてもやはり、最後に、そこに至ることでなにもかもが意味を失うユートピア(意識と葛藤のない自明の愛の世界)が示されるからだ。だから、ユートピアを携えてこちらへと手を差し伸べてくる存在があらわれるたびに、僕は御冷ミァハを連想してしまう。

 

人はミァハやカーマが差し出した手をとるべきなのだろうか。僕にはその答えはわからないが、直感的にいえば、今回のイベントでカルデアの面々が出した答えもまた、とても危ういものだとは思う。その厳しさが、ときには人を追い詰めることもあるからだ。

 

人がそういうさまざまな愛のあいだで、自分に対して、また他人に対して、優れたバランスを保ち続ける方法はないものだろうか。今回のシナリオをやりながら、改めてそんなことを考えた。

前世の記憶

このまえ、友人と『聖剣使いの禁呪詠唱』という、一部でネタ扱いされている? アニメを見る機会があった。禁呪詠唱は、メタフィジカルと呼ばれる怪物から人類を守るセイバーの戦いを描いたラノベ原作アニメで、このセイバーというのは、前世の記憶と(メタフィジカルと戦うための)能力を引き継いでいることを特徴とする。主人公もまた前世の記憶をもつセイバーの見習い(学生)だが、つうじょう一人のセイバーが一つの前世しか持たないのに対して、主人公は二つの前世を持つ。そのため、ふつうは一人一役しかこなせないような役割を、二役分こなせるのが主人公の強みとなる。

このアニメを見ていて改めて思ったのは、物語と記憶の関係である。以前どこかの記事でも書いた気がするけれど、記憶というのは、物語においては、しばしば物語を始動したり、行き詰まった状況を打開する鍵となる。たとえば、禁呪詠唱では、主人公が毎回前世の記憶を思い出すことで敵に対する対処法(前世で使っていた技など)を繰り出せるようになるが、こういう意味で、記憶の忘却と想起は、物語を進める鍵となるわけである。

それと関連するのかはわからないが、それにつけて禁呪詠唱を見ながら僕が考えさせられたのは、前世の記憶と、現世の記憶を踏まえた上で、主人公やほかのセイバーたちは、「自分」というものをどのように考えているのかということだ。あまりそういう問題を積極的に扱おうという気配はこのアニメには見受けられないし、そういうことをしなくてもいい作品なのだとは思うが、この問題は(脱構築などと関わる)かなり哲学的なものでもあるわけで、そのあたりのことをこういう具体的な作品から考えるとどういう事が言えるのか、そのことが改めて気になった。

たとえば、おそらく前回の記事で扱ったであろう東京レイヴンズの土御門春虎も、夜光の記憶が侵入してくることでキャラが変わっていくわけだし、それから別の作品でいくと、Dグレアレン・ウォーカーもまたネアの記憶の侵入に苛まれるわけだが、後者の例において、記憶の侵入は、キャラクターの自己同一性にかなり深刻な影響を及ぼしている。

さらにこの視点から見てみると、異能力もときにその使用によって、人のアイデンティティを掘り崩してしまうような、複数的な記憶の侵入をもたらす。たとえばサクラダリセットにおいて、未来視能力、リセット能力、記憶の書き換え能力、他の能力に抵抗してあらゆる記憶を保持し続ける能力といったものは、ときとして、自分と他人、現在と未来、リセット前とリセット後、書き換え前と書き換え後などの異なる時間軸や可能世界や人々についての複数の記憶たちの混在を能力者にもたらす(そしてこういう混在のなかにあってどんな記憶も決して忘れえないという能力を持つ浅井ケイが倫理的に振る舞いたがるということには、かなり深い意味が込められているように思う)。その場合の記憶の侵入(想起や捏造もふくむ)は、ときにキャラクター自身が自分についてなんとなくであれ了解している自己同一性をばらばらにしてしまう。そしてそれはいつも複数の記憶たちが前後で入り乱れたり、あるいは同時に存在したりといった、時間的なズレないしは同時性によって、キャラクターを翻弄する。

でも、これは前世の記憶を持っていたり、世界を三日間ぶんリセットできたり、未来の他人の記憶を覗くことができたり、あらゆる事象を改変する能力のメタレベルに立ってすべての記憶を保持し続けることのできる、そんな特異な設定をもつフィクション上の人物にだけ起こることではない。どんな人でも、記憶というあったのかなかったのかもわからない過去についての情報や、想像という、未来の可能性としてありえはするかもしれないが、いまだここにないもの、あるのかないのかわからないものが好き勝手なタイミングで侵入してくることによって、つねにいまここにある自分というものについての理解をかきまわされてしまう無気味な経験に開かれているからである。

そういう問題が物語のなかで扱われるとき、それはどういう展開を生み出すのか。たとえば、(前世の記憶の想起などによって)そういう無気味な経験にキャラクターが襲われ、それが問題となるとき、キャラクターはそれに対してどう対処するのか。精神分析的な意味での抑圧や排除といった語彙や、既存の物語論によって、それを説明することはできるのか。もしできないとすれば、それをあらためてどう捉えればいいのか。ここ一年ほど、物語について考えているときには、つねにこういうことが念頭にある気がする。

スピッツの好きな楽曲20選(思いついた順)

実は幼い頃からスピッツを聴いていて、すごい影響を受けているのですが、いままでそのことについて考えたことも語ったこともなかったなと思い、今回語ってみることにしました。基本的には思いついた順に好きな曲を20曲。おしながきは以下のようになっております。

 

 

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1,ハチミツ

 

同名のアルバムに収録された曲で、かなりユニークなメロディーラインを持つ、ポップでかわいい曲。くわえて個人的なことをいうと、子供の頃に読んで強い影響を受けた『ハチミツとクローバー』という少女漫画の元ネタ? でもあります。「ガラクタばかりピーコートの/ポケットにしのばせて/意地っ張りシャイな女の子/僕をにらみつける」とか、もうハチクロでしかないですね…。はぐちゃんとかはここからインスピレーションを得て造形されたキャラクターなのかなと勝手に思っています。

個人的に好きなポイントはやっぱり特徴的なメロディーと可愛さです。こういうタイプの可愛い曲を作れるロックバンドってあまりないんじゃなかろうか…ようしらんけど。

 

2,みなと

 

あたたかくて切なくて優しい、という、Theスピッツな一曲です。メロディーも美しく、入りのギターなんかすごい好きですね。加えて歌詞が良すぎる。

たとえば、「汚れてる野良猫にも/いつか優しくなるユニバース」という一節。∀ガンダムでも見たのか知りませんが、なんか草野マサムネはユニバース(ないしユニヴァース)という単語が好きらしく、ちょくちょくほかの楽曲にも出てくる(曲名になっているものもある)んですよね。このユニバースはそのなかでも一番好きなユニバースかもしれません。汚れてる野良猫に優しいユニバース、すごく優しそう(こなみ)。

それから「朝焼けがちゃちな二人を染めてた/あくびして走り出す」とかもいいですね。情景がすっと頭に浮かんでくるし、草野さんが描くいつものいい感じの二人なんですよね。僕も朝焼けに染められたちゃちな二人の一翼を担いたいものです。

歌詞全体を読んでいくと、なんとなく別れとか旅立ちについて、見送った側から歌っている曲だと解釈できますが、こういう見送る系の曲はちょくちょくある気がします。たとえば「魔女旅に出る」もそうですね。

なお、これは僕だけだと思いますが、僕が大好きな漫画に萩尾望都の「アメリカン・パイ」という短編があって、みなとを聴いてるといつもこの漫画のことを連想してしまいます。ぜんぜん違う作品といえばそうなんですが、ただモチーフに若干の共通点があるんですよね。

 

3,魔女旅に出る

 

 独自の世界観が素晴らしい曲です。歌詞は途中もさることながら最初と最後がほんとうによくて、一番冒頭の「ほら苺の味に似てるよ」という天才的な導入と、サビの最後の「いつでもここにいるからね」が好きすぎるという…。

 メロディーは歌唱部分より序奏とか途中で入るバイオリンのくだりとかのほうが好きかもしれません。すごい好きな曲ではあるのですが、楽器とか音作りの知識がないためにこれ以上語れず…そういう教養が欲しいですね。音楽雑誌を読め。

 

4,三日月ロックその3

 

 その1とかその2がないのに唐突にその3とか言い出すあたりがもうほんとうにセンスの塊だなって感じなんですが、それはともかくとてもいい曲です。昔すごい流行っていた「あいのり」という番組のオープニングで使われていた「スターゲイザー」という曲が収録されたシングルのB面なのですが、今にして思うとこの二つが収録されてるシングルって強すぎるだろ…と戦慄を禁じ得ません。あとこれもまたその3案件というかセンスの塊エピソードで、スピッツにはじつは『三日月ロック』というアルバムもあって、何も知らない人がこの曲とアルバムのタイトルを知ったら、とうぜんこのアルバムにこの曲が収録されてるだろうと思うわけなのですが、そこはスピッツのセンス、なぜかこのアルバムにはこの曲が収録されてないんですよね。いやなんでだよ。

 とにかくこの曲はメロディーが全編にわたってかっこいい曲ですが、歌詞も印象的な箇所がちらほらあります。たとえば「抜け出したい気持ちなら/桜が咲くたび現れる/わかってくれるかな?/君なら」とか「待ちわびて/シュールな頭で/ただ君を想う」とか、もうぜったい草野マサムネ以外には書けないヘンテコな歌詞なんですが、なぜか響きがよくて、しかもなんとなく言いたいことがわかっちゃうんですよね。不思議です。

 

5,スカーレット

 

 子供の頃からずっと聴き続けている曲のひとつです。ところで子供の頃ってエレベーターをエベレーターっていったりだとか、言葉に関するヘンな勘違いをしているものですが、この曲についてもそういう勘違いをしていたことがあります。この曲、サビの手前に「乱れ飛ぶ声に/かき消されて/コーヒーの渦に溶けそうでも/ゆらめく陽炎の/向こうから/君が手を伸ばしたら」というフレーズがあるんですが、昔の僕はこの「コーヒーの渦」というのを「恋の渦」だと勘違いしていたんですよね。いやでも恋の渦って完全に凡夫の発想でしかなくて、もう幼少期から草野マサムネとの圧倒的なセンスの差を見せつけられているという。悲しい話です。

 ともあれ、なんというかこの曲の歌詞はこういうヘンなところが随所にありつつも比較的ふつうっぽくて、この時期の曲の歌詞はそういうのが多い気がしますし、メロディーもユニークではあるもののキャッチーですっと聴ける感じがします。とにかくいろいろヒットさせて名を一度売っておこうと作風を一般的なほうに寄せて頑張っていた時期でもあるんでしょうか。よく知らないのですが…。

 歌詞の内容自体に言及すると、寂しさとか悲しさとかを温度の比喩で表現しようとしているのかなと感じます。その観点から考えるとコーヒーの渦もあたたかいものの比喩なのか…でもちょっとこのくだりは謎めいていてよくわからないですね。

 

6,ナナへの気持ち

 

 スピッツの曲のなかでもかなり好きな方の曲です。メロディーはそうでもないのですが、冒頭の「笑いすぎ? ふふふ」みたいな女性の声と、歌詞で描写されるナナの人物像がいちいちツボで、あーこういう女の子いいなあと素直に思います。それから、この歌詞は全編通してナナに恋をしていると思しき男性? の視点からの語り、という形式で書かれているのですが、この二人の関係性もまたぐっとくる。

全体の構成としては、一番はナナの人物像描写で、二番はこの語り手とナナの関係性描写を展開している、という塩梅です。

 まずナナの人物像はこんな感じ。「誰からも好かれて/片方じゃ避けられて/前触れなく叫んで/ヘンなとこでもらい泣き」「たまに少しクールで/元気ないときゃ眠いだけ」「お茶濁す言葉で/周りを困らせて」やばいですね。現実にいたらめんどくさそうだしたぶんこの女KYですが、それがむしろいいみたいな。グッときます。なんで僕の人生にはナナがいないんだ。

 とはいえ、これはあくまで行動とか性格面の話で、じゃあ見た目はどうなのかというとこんな感じ。「ガラス玉のピアス/キラキラ光らせて」「日にやけた強い腕/根元だけ黒い髪」んー結構ギャルっぽい人なのかな? よくわからない。でもまあとにかくいいですね(語彙力)。これが一番の部分です。

 で、二番になると、この語り手とナナは結構仲が良いっぽいということが示唆されます。「街道沿いのロイホで/夜明けまで話し込み」いやこういう関係性憧れますね。尊い…。

 で、このあとこんなふうに続きます。「何もできずホームで/見送られる時の/憎たらしい笑顔/よくわからぬ手ぶり/君と生きていくことを決めた」、これはもう完全に語り手ベタ惚れですね。そしてこの語り手視点の別れの情景を思い浮かべてしまったが最後、聴き手は語り手の目を通して完全にナナの魅力の虜になっているというわけです。

 個人的にスピッツの曲ってざっくりかっこいいやつと、優しくてあたたかくて切ないやつと、ユーモラスでポップなやつと、変態性の強いやつに分かれるのですが、この曲は一番最後のに分類されるかなという感じです。変態で繊細な思春期童貞って感じで、とてもよいのではないかと。

 

7,ラズベリー

 

 これも変態系で、とりわけスピッツ特有のキモいマゾヒズムが前面に出てる曲ですね。「もっと切り刻んで/もっと弄んで」とか言い出すし。でもユーモラスでポップでもあるし、僕の中では歌詞の中に魔女とか出てくることもあって、「魔女旅に出る」となんとなく近い気もする曲です。あとこれは僕だけだと思いますが、この曲を聴くといつもナボコフの『ロリータ』を連想してしまいます。

 この曲、ほんとに開幕から飛ばしていて、初手が「泥まみれの/汗まみれの/短いスカートが/未開の地平まで僕を戻す」ですからね、完全に犯罪者です。ちなみにこの泥まみれとか汗まみれとかの汚さの美学があるところが僕が個人的に『ロリータ』っぽいなと思うところで、ハンバートさんもこういう汚さが好きなんじゃないかなとか勝手に思っていたりします。

 あと変態性云々を抜きにしてもいいフレーズはいっぱいあって、たとえば「しょいこんでる間違いなら/うすうす気づいてる/でこぼこのゲームが今始まる」とか「穴を抜けてこっちへおいでと/五円玉のむこうから呼ぶよ」とか、意味深で面白い歌詞だなあと思います。五円玉のむこうからとか、ふつう思いつかないフレーズですよね。いや死ぬまでに一度誰かを五円玉のむこうから呼んでみたい。これもなんかエロティックな比喩なんでしょうか。よくわかりませんが…。

 

8,初恋クレイジー

 

インディゴ地平線』という結構僕が好きなアルバムのなかに入ってる曲で、このアルバムはほんとうに名曲が多いと思うのですが、そのなかでなんでこれを選んだのかというと、個人的な思い出があるからです。小学校高学年の頃にこの曲と川上弘美の恋愛小説からインスピレーションを得て掌編連作ものの恋愛小説を書いたという黒歴史がね、あるんですね。

 やはりこれも歌詞がいちいちよくてですね、たとえば「夢の世界とうらはらの/苦し紛れ独り言も/忘れられたアイスのように溶けた」とかは比喩が的確ですし、「優しくなれない時も/優しくされない時も/隠れた空は青いだろう/今のまま」とかもなぜかよくわからないんですがグッときますね。

 あと僕のようなキモ・オタクにもいちおう初恋の思い出というものはあるわけですが、その経験に照らしてすごく共感したのは「見慣れたはずの街並も/ド派手に映す愚か者/君のせいで大きくなった未来」とかでしょうか。

 

9,スピカ

 

この曲の評価については完全にハチクロ補正が入っているのですが、それを抜きにしてもすさまじい名曲で、しかもありえんやばいのは、この曲が「楓」のB面ってことですね。なおハチクロのアニメ版では竹本くんというピュアっピュアな男の子が自分探しでどっかの県道を自転車で走ってるときに流れる曲なのですが、いやここで使うかスタッフずるすぎるだろと。ちなみにハチクロのアニメ版はスガシカオスピッツの入門にいい作品ですね。

歌詞はスピッツにしては珍しく? です・ます口調で、ちょっとユーモラスな雰囲気が漂います。「振り向けば/優しさに飢えた/優しげな時代で」とか、グッとくる箇所ですかね。

ここまでいろいろ書き連ねて気がつきましたが、やっぱり僕、メロディーが好きで選んでる曲については全然語れないですね。言語化するための知識と教養がない。悲しいことです。でもこの曲はほんとうにいい曲なので、この記事読んで興味を持たれた方はぜひ聞いてみてください。

ちなみに椎名林檎版も存在します。

 

10,猫になりたい

 

スピカと同じ『花鳥風月』というアルバムに入っています。この『花鳥風月』というアルバムは確か他のアーティストに提供した楽曲のセルフカバー版とかB面の曲とかを集めたもので、前者について言えば、有名どころだとPUFFYの「愛のしるし」のセルフカバーとかが収録されています。

この曲は一見可愛らしいメロディーや音色で作られているのですが、歌詞を見ていくとちょっと奇妙で変態っぽいところがあります。まあ猫になりたいっていう欲望がもうちょっとアレですよね。いや猫になりたい欲自体は全人類が持ってるくらいのメジャーなものだと思いますが、この曲の場合猫になって「君」の腕の中で抱かれるまでがセットなので…。

個人的には「目を閉じて浮かべた密やかな逃げ場所は/シチリアの浜辺の絵ハガキとよく似てた」とか「街は季節を嫌ってる」とかいった箇所がグッときますね。シチリアの浜辺じゃなくてシチリアの浜辺の絵ハガキなのがうまいなあと思います。

 

11,放浪カモメはどこまでも

 

すごくユーモアたっぷりで爽快感のある、気持ちのいい曲です。いやユーモアとかユーモラスとか使いすぎでそれ以外に語彙がないのかよという感じですが、悲しいことにその通りですね。スピッツの曲をずっと聴いているはずなのにこれはどうしたことか。

歌詞についていうと導入がすごくよくて、「悲しいジョークでついに5万年/オチは涙のにわか雨」「でも放浪カモメはどこまでも/恥ずかしい日々/腰に巻きつけて/風にさからうのさ」という一連のフレーズの、陰湿さに陥らない自己諧謔とペーソス、そこにちょっぴり足された爽やかさがなんともいえずいい味を出しています。実際この一連の流れはメロディーともに完璧なので、ここを語るだけでこの曲の良さは言いあらわせるという感じがしますね。

 

12,ジュテーム?

 

こう、恋愛ソングのひとつのパターンとして、「君」を好きになったせいで自分はみっともなくなったとか、バカみたいになってるとか、そういうことを歌うものがありますが(ぱっと思いつくものでいうと青ブタOPの「君のせい」とかですかね)、この曲もそういう恋愛ソングの一つです。でもやっぱりスピッツ節がところどころに利いていて、「カレーの匂いに誘われるように/夕闇を駆け出す生き物が」とか意味がわからなくていいですね。

それからグッとくるところでいうと、「うれしいぬくもりに包まれるため/いくつもの間違い重ねてる」とか、「別にかまわないと君は言うけど/適当な言葉がみつからない/ジュテーム…そんなとこだ」とか、はーよきってなります(語彙)。たぶん君のことが好きなんだけど、その気持ちに振り回されたり、その気持ちをどうとらえていいかわからなくて、どうしたものかなと困っている、そんな気持ちが表現された歌です。

 

13,魔法のコトバ

 

これもたぶんに評価にハチクロ補正がかかってますが、それを抜きにしても掛け値無しの名曲です。スピッツの曲にインスピレーションを得て作られた漫画の実写劇場版のテーマソングをスピッツが書き下ろしたらこうなるよという曲な訳ですが、スピッツがなんかのテーマソングを作るときの原作理解力って本当にすごくて、そりゃスピッツに影響された作品のテーマソングなんだからぴったりで当たり前だろと言われちゃえばそれまでなのかもですが、ほんとうに「ハチクロ」って感じのする曲ですごくて、でもちゃんとスピッツらしさもあるという。自分でも何言ってんだかわかんねえよ。

どこらへんがハチクロっぽいかというと、僕はメロディーについては語れないのでいいとして()、歌詞についていえば「君は何してる?/笑顔が見たいぞ/振りかぶって/わがまま空に投げた」とか、ちょっと竹本くんっぽいなと思ったりしてます。あとサビ部分の「魔法のコトバ/二人だけにはわかる/夢見るとか/そんな暇もないこの頃/思い出して/おかしくてうれしくて/また会えるよ/約束しなくても」なんかは、漫画版のラストシーンのそのあとっぽいかも。余談ですが、あのラストシーンはちょっと萩尾望都の『トーマの心臓』のラストと似てる気がします(雑な連想)。

あと、これは楽曲自体の話ではないのですが、この時期のCDジャケットのイラストは全般的に好きです。福田利之さんという方の手になるものらしいですが、色遣いとか世界観がすごくいい。

 

14,田舎の生活

サビ部分以外が5拍子という変則的な曲です。メロディーからしてちょっと暗い感じで、しかもタイトルから田舎の生活について描いた曲なのかと思って歌詞をよくよく読んでみると、「君」との田舎の生活を夢みてたんだけど結局二人は別れることになってその夢は叶いませんでしたっていう、街住みの人の歌っぽいんですよね。く、暗すぎる…。感傷マゾかよ。

でもそこで妄想されてる情景はありえんよくて、たとえばこんな感じ。「なめらかに澄んだ沢の水を/ためらうこともなく流し込み/懐かしく香る午後の風を/ぬれた首すじに受けて笑う/野うさぎの走り抜ける様も/笹百合光る花の姿も/夜空にまたたく星の群れも/あたり前に僕の目の中に」「一番鶏の歌で目覚めて/彼方の山を見てあくびして/頂の白に思いはせる/すべり落ちていく心のしずく/根野菜の泥を洗う君と/縁側に遊ぶ僕らの子供と/うつらうつら柔らかな日差し/終わることのない輪廻の上」。

いや、草野マサムネ天才か?

 

15,ブチ

ファンには全然違うだろと言われるかもしれませんが、個人的には「ナナへの気持ち」系の萌える歌です。「ブチ」は基本的にここでは語り手が好きな相手のちょっとした欠点の比喩ですが、いや君はむしろそれがいいんだよ! というふうに肯定していく内容になっていて、なんていうか、一種のポンコツ萌えの歌です。いや萌え豚の語彙で語るなって感じですね、ごめんなさい。

一番そういうこの曲のコンセプトがあらわれているのは、たとえばこんなくだり。「君はブチこそ魅力/好きだよすごく/隠れながら/泣かないで/yeah yeah」「お上品じゃなくても/マジメじゃなくても/そばにいてほしいだけ」。ここらへんのくだりを聴いてるとなぜか『ホテル・ニューハンプシャー』のスージーが連想されてむしょうに泣けますね。自分でも謎の情緒です。

でも僕が個人的に好きな箇所はもっと別のところにあって、たとえば「しょってきた劣等感その使い方間違えんな」とか「優しくない俺にも/芽生えてる/優しさ風の思い」とかすごく共感できるし、「君はブチこそ魅力/小町を凌ぐ/本気出して/攻めてみろ/wow wow」のお前煽ってんの?感なんかすごい好きです。いや必ずしもザ・名曲って感じではないと思うんですけど、ユニークで、心に残るいい曲です。

 

16,エスカルゴ

腰を抜かすくらいカッコいいロックで、最初のありえんカッコいいドラムからボーカルが入るまでの一連の流れでもうガーンとやられる感じがします。しかも題材というか比喩がカタツムリて、と思うのですが、歌詞を見るとめっちゃかっこいいカタツムリ。

たとえばこんなくだり。「孤独な巻貝の外から/ふざけたギターの音がきこえるよ」。ひょええええええ。それからサビの部分。「ハニー/君に届きたい/もう少しで道からそれてく/何も迷わない/追いかける/ざらざらの世界へ」。ざらざらの世界ってなんだよ…意味わかんねえよ…でもなんかすごいかっこいいよ…。

僕的には今まで聴いてきたスピッツの楽曲のカッコいい系のなかでいちばんカッコいい曲です。

 

17,ハイファイ・ローファイ

ちょっとテンション高めに、ポップに、愛を叫ぶ歌です。聴いていて爽快感があって、気持ちいい曲ですね。でもたとえば「Fly high!甘い/囁きにも/フラフラと」みたく、ちょっとしたマゾっぽさというか、ファム・ファタールフェチというか、籠絡されたい欲みたいなのが出てる部分もあって、そこはスピッツらしいねじくれがあっていいなと思います。

あと、上の歌詞の「Fly high!」と「甘い」みたいな韻を踏んでる箇所が随所にあって、そのなかで一番好きなのは「Ride on!毎度/カワイイだけで大好きさ/ハイファイ/ローファイ/俺はそれを愛と呼ぶよ」というところですね。この「俺」くんとやら、チョロさがちょっとかわいいですね。

 

18,ベビーフェイス

スピッツは「エンドロールには早すぎる」とか、なにか妙に懐かしさを感じるパロディアスな楽曲をちょくちょく作りますが、この曲もなんとなくそんな感じの曲な気がします。具体的になんのパロディかはよくわからないのですが。

これもメロディーが好きで選んだ作品なのであんまり語れなくてアレなのですが、歌詞の好きな部分をあげると二つくらいあって、サビの「Bye bye/ベビーフェイス/涙をふいて/生まれ変わるよ Yeah…」と「隠し事のすべてに声を与えたら/ざらついた優しさに気づくはずだよ」とかですかね。いやふつう隠し事のすべてに声を与えようと思わないし、優しさにざらつきがあるなんて思いもよらないですよね…でもいわれてみるとなんとなくわかる。うーん不思議だ。

 

19,つぐみ

これもなんかの主題歌だった気がしますが、忘れました。とにかくメロディーというか、音の作り方? が好きな曲です。でも歌詞はふつうぐらいなので、ここであげた20曲の中でいちばん語れない曲かもしれないです。聴いてくれ、という感じですね。

 

20,雪風

少し不穏で、なにかの終わりを前にしているような気分になる、寂しい曲です。でも独特の世界観があってすごく好きな曲ですね。最近(『とげまる』〜『醒めない』)のスピッツの曲の中だと「みなと」や「醒めない」と並んで好きかもしれないです。つまりこのアルバム(『醒めない』)が良すぎるって話ですが。

まず、いきなりこんな風に始まります。「まばゆい白い世界は続いてた/また今日も巻き戻しの海を/エイになって泳ぐ」。いやエイて。でもなんというか、いきなり謎めいていて不思議な気持ちになりますよね。巻き戻しの海というのはループものっぽさを感じますが、どういうことなんだろうとか。白い世界ってなんだとか。ちょっと飛躍した解釈をすると、死後の世界っぽい感じもします。実際、このあとのくだりで「もう会えないって/嘆かないでね」というところとか、思い出を全部過去形で語ってるところとかがあって、なんとなくこの語り手はもう亡くなってるのかなという感じがする。

一番好きなくだりは「お願い夢醒めたら/少しでいいから/無敵の微笑み/見せてくれ/君は生きてく/壊れそうでも/愚かな言葉を/誇れるように」とかで、なんとなく胸に刺さります。

終わり方も唐突で、あんまり他にないようなタイプの曲です。でもスピッツらしさは結構あるかな?

 

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以上、思いついた順にいろいろ語ってみました。こうしてみると音楽素人感がよく出ているなというか、もうこれスピッツの楽曲じゃなくてスピッツの歌詞について語る記事でよかったんじゃないかという気もしますが…まあいいか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好きな女性声優10人(オタ活まとめ02)

こんにちは。

かんぼつです。

今回は声優について語ろうかなと思います。

べつだんあんまり詳しいわけでもないし、声優情報誌とか読んだりしているわけでもないのですが、とはいえアニオタを長年やってくると、好きな声優もそこそこできてくるもの。そんなわけで、とりあえずにわかなりに好きな声優をあげて、その声について自分の感じていることをまとめておこうかなと思った次第です。

とはいえあんまり手当たり次第に話していてもキリがなくなるので、とりあえず条件として、女性声優であること、全部で10人に絞ること、それぞれの声優について出演作品、個人的な推しポイントなどをコメントすること、などを設定して語っていきます。

なお、紹介順にとくにランク付けなどの意図はありませんので、あらかじめご了承ください。

それでは始めていきたいと思います。

1,新井里美

声優界きっての個性派。この方の魅力はなんといっても一度聴けば忘れることのできない、唯一無二の特徴的な声です。

僕がとくに好きな役は『とある科学の超電磁砲』の白井黒子、そして咲阿知賀編の花田煌、『Re:ゼロから始める異世界生活』のベアトリスです。新井さんが声を当てる女の子はネタキャラが多く、上記の例のうち黒子や花田煌はそのように思われがちな気がしますが、僕にとってはふつうに萌えの対象だったり。

惜しむらくは、この人の声を形容するための語彙がこちらにないことですね。カエルっぽいといえばいいのか…いや違うな…。ともあれほんとに病みつきになります。耳にすごく残る。

なお、本人のトークも結構面白くて、超電磁砲のwebラジオでの佐藤利奈との絡みは必聴です。なんでこの人こんな面白いんだろう…。

2,釘宮理恵

言わずと知れたツンデレ界(なんだそれ)の大御所って感じですね。『灼眼のシャナ』のシャナ、ゼロ使のルイズ、とらドラ!の大河、『緋弾のアリア』のアリア、アイマス水瀬伊織と、担当した役名を挙げるだけでもうつよそう…みたいな感じです(ツンデレではないですが、ハガレンのアルも有名ですね)。この名前を出すともうある世代のド直球なキモオタって感じで悔しいんですが、自分に嘘はつけない…。

一時期、シャナに影響されすぎてセブンのメロンパンばっか食っていたとかクラスで非オタ層にまでロリコンとして認知されていたとかいう黒歴史がありますが、それもすべてはこの人のせい。軽い釘宮病患者でした。

ただ、この人についてはあまりに知名度が高いので、ほかにもいいたい情報はあるんですが、そういうことをわざわざあらためて紹介することもないし、それ以外のことを話すとなると自分語りが延々と続きそうなのでこのくらいで。

3,斎藤千和

こういう雑な分類をするとどこかから怒られると思いますが、僕のなかで斎藤千和の声は配役によって二つの系列に分かれます。一つはまどマギのほむほむや『化物語』の戦場ヶ原ひたぎといったさいつよクール系。もう一つは(『のうりん』ではなく)『ぱにぽにだっしゅ』のベッキーとか、ストパンのルッキーニとか、プリヤのクロエといった明るいロリキャラですね。これに『ケロロ軍曹』の夏美とかがイレギュラーとして位置するとかそんな感じでしょうか(いや、本人のキャリア的には代表的な役柄だと思いますが)。

で、僕は後者の高音の弾むように喋る斎藤千和が好き、とくにクロエの斎藤千和が好きで、このまえのFGOのプリヤコラボ復刻のおかげでやっとクロエが我がカルデアに来た時は狂喜乱舞して聖杯を突っ込んだわけですが、こうしたクロエ愛の半分くらいは斎藤千和の声に対するそれで構成されている気がします。

なお、大昔のストパンラジオで斎藤千和小清水亜美が喋ってた回があったと思うのですが、あれは今まで聞いてきたあらゆるアニラジのなかでいっちゃん好きなやつです。

4,伊瀬茉莉也

やっぱりハスキーボイスっていいと思うんですよね。というわけでハスキーボイスといえばまずこの人。これは外せません。

伊瀬茉莉也というと『yes!プリキュア5』のキュアレモネードとかが有名な気がしますが、僕がいっちゃん好きな伊瀬茉莉也はパンストのストッキングです。やはりパンストの功績はパンティとストッキングという素晴らしいキャラクターの創造にあると思うわけですが、そのうちの一人であるストッキングのキュートでポップでダークな魅力を最大限に引き出してるのが伊瀬茉莉也のハスキーボイス。これまたたんにハスキーなだけでなく、少し幼めの声色に振ってるのが最高にツボなんですよね。カートゥーン調のケレン味ある画面ともあってる気がするし。というかこれずっといってるけどパンストの二期やらないかな…

最近だとズヴィズダーのプラーミャ様が好きです。『HUNTER×HUNTER』の新アニメ版のキルア役でも有名。

5,野中藍

これは声優に対しては悪口なのかもしれませんが、野中藍は舌足らず感がすごく好きで、これについては比較的ハキハキ喋る役、たとえばまどマギ佐倉杏子の演技などでも見られる気がします。舌足らずというかもたついてるというかもにょっとしてるというか。それが野中藍のロリっぽい声と合わさってなんともいえない魅力を醸しているので、僕としては好きなのですが…。

個人的に最初に彼女を意識したのは『CLANNAD』の風子ですが、いったん意識してみるとぱにぽにだっしゅの一条さんとか絶望先生風浦可符香とか、ほんとにいい役が多いですね…。

ただ、あまりにもまどマギ佐倉杏子の印象が強すぎるためか、僕としては一番好きな野中藍佐倉杏子かもしれません。

6,小清水亜美

まぁーとにかくほんとうにいい声なんですよね(語彙

新井さんと同じで、小清水亜美の声はどういうふうに形容したらいいかわからないのですが、実は能登麻美子とかと微妙に系列が一緒なのではないかと。お二方ともこう生の声にどこかほわーんとした響きというかフィルターみたいなのがつねに随伴しているような声で、そこが魅力ではないかと。

一般的には小清水亜美というと『狼と香辛料』のホロとかなのかもしれないですが、僕は『狼と香辛料』は触れておらず、そのかわり他の作品ではすごくお世話になっている人でして、具体的にいうとナージャナージャとか、エウレカアネモネとか、スイプリの響(キュアメロディ)とか、あとは咲の原村和、ストパンのシャーリー、ギアスのカレンなど、まぁほんとうに個人的なオタクキャリア黎明期のアニメにつねに小清水亜美がいた感じですね。また、こうして役柄を並べてみると、やっぱり豪気な強い女性とか溌剌とした女の子とか、そういうキャラがとびきり似合う人だなぁと。余談ですがエウレカアネモネが好きなオタクは十中八九ダリフラのゼロツーが好き。

なお斎藤千和の項目でもいいましたが、ストパンラジオのシャーリー&ルッキーニ回は大好きです。

7,後藤沙緒里

強い方の後藤さんが色々と有名ですが、こっちは弱い方の後藤さんです。

なんといってもこの人はボソボソ喋るダウナー系美少女役をやらせたら右に出るものはいないというか、ぼくのかんがえたさいきょうの後藤沙緒里はなんかそういうのです。ASMRみのあるソフトで独特なウィスパーボイスの絶妙さに加え、カ行の発音の際などにみられる極小の破裂音みたいなのがたまらなくツボです。たまにこういう発音で喋る人いますよね…。

具体的な役の話に言及すると、後藤沙緒里が演じた役といえば小鍛冶健夜などもとぉーーってもいいのですが(なおすこやんの相方である福与アナの声は野中藍なので最高に美味しい組み合わせです)、結局のところ『じょしらく』の暗落亭苦来とか、下セカの不破氷菓とか、ああいうダウナー系、陰キャが最高のはまり役だと思うのです。とにもかくにも世のダウナー系美少女大好きオタクは後藤沙緒里に返しても返しても返しきれない恩があるのです。少なくとも僕のオタ活は後藤沙緒里がいなければもっと味気のないものになっていたでしょう。

ありがとう後藤沙緒里

8,大久保瑠美

もともと『ゆゆ式』がきらら系のなかでもかなり好きなほうなので、ゆずこ役の人という認識もあったし、『ゆるゆり』のちなつちゃんの人としても認知していたのですが、本格的に好きになったのはfateまわりのコンテンツをフォローし始めてからです。ようするにアストルフォきゅんとエリちゃんですね。

とにかくこの人の声の魅力は、その明快さとポンコツ属性との親和性の高さかなと。キンキンした声なのになぜかうるさくなくて耳に心地いいんですよね。

でもアニメ方面だとなぜか僕のツボにはまるキャラクターが少ないのが現状なので、あまりそっちで語れることがないのは残念です。

あとこのまえ友人からカルデア放送局の大久保瑠美ゲスト回を布教されたのですが、高橋李依田中美海ともどもぶっ飛んでてめっちゃ好きでした(いや、というか飛んでたのは主にこの二人ですが…)。ギル様好きだったんですね。

9,佐倉綾音

こういうことを声優について語る場で言っていいのかわからないのですが、とにかく佐倉綾音の顔が好き。

ひとつエピソードをあげると、あやねるが前にテレビ出演してたのをたまたま見かけてびっくりしたのが、テレビというと画面内に女優だのモデルだのタレントだのと、それはもう綺麗な方々が並んでいるわけなのですが、あやねるはそのなかでもハッとさせられるくらいにひときわ可愛かったということで、これはほかの方を落としてあやねるをもちあげたいとかそういうことではなく、このときあーこの人はほんとうに可愛いんだな、やばいなと感動したということが言いたい。FGOでたとえると、たとえばガッキーとかが高倍率のサーヴァント特攻とか人型特攻とかだとしたら、佐倉綾音はそれよりさらにバカ高い倍率の魔性特攻とかのマイナー特攻持ちで、僕は魔性なんですよね。

とまれ、僕が最初にあやねるを意識し始めたのは『じょしらく』のマリーさん役で、正直いうとこれが今でもあやねるの最高のはまり役のひとつなんじゃないかと思っていたりします。もともと可愛い系の声というよりはちょっと性格の悪そうなキャラとか、ウザキャラとか、男性的な(とかいうとPC的にアレかも知れませんが)キャラが似合う声だと思うので、マリーさんのべらんめえ口調は三つ目の意味でフィットするなぁ、と思うのです。逆に実はごちうさのココアちゃんなどは僕的にはツボではないのですが、好きな人は多そうですね。なお『夢喰いメリー』のあやねるはまぁまぁ好き、ぐらいでしょうか。

そんで一つ目の性格悪そうなキャラってなんだよっていえば、そりゃもうもちろん『東京レイヴンズ』の大連寺鈴鹿と俺ガイルの一色いろはに決まっていますよね。

とくに後者。やはり伏見つかさ先生と渡航先生は美少女キャラクターを造形させたら右に出るものはいないなと思うわけですが、そんな渡航先生の生み出した美少女のなかでも僕がもっとも素晴らしいキャラクターだなと思うのが一色いろはです。そしてその一色いろはの最大の魅力であるところの性格の悪さがアニメ版において最大限に引き出されているのは、あやねるの演技ともともとの声質が性格の悪い女のそれでしかないから(※本人の性格が悪いとは一言もいってません)。僕にもあんな後輩がいたら良かったのになぁ。

なお、今期のアニメであやねるが声を当てているものといわれてぱっと思いつくのは『五等分の花嫁』の四葉で、これは上記の二パターンには当てはまりませんがハマり役だなぁと思います。なおゲーム方面で言及しておくと、こちらも例外的ですが、FGO宮本武蔵が好きです。

10,悠木碧

悠木碧といえば鹿目まどか、というくらいまどマギのイメージが強烈な悠木碧ですが、ぼくがかんがえたさいきょうの悠木碧は違います。『サクラダリセット』の相麻菫です。このキャラクターは理想のキャラクターを挙げよと言われたときに僕が出せるひとつの究極の「答え」なのですが、その理由というのが、実は悠木碧の声にその多くを負っていたりします。

この方、そもそも声の幅(演技の幅というべき?)が広いのですが、僕にとっての悠木碧の声の魅力は大別して三つあって、まずは伊瀬茉莉也と同じくハスキーボイス、そしてゆらぎと息漏れです。で、この三つが最大限に発揮されるのは、なにかそれっぽい文学的なことを低音でのったりと語るダウナー系のキャラクターの役をやらせたときで、これは管見の限りでは相麻菫と今期のブギーポップぐらいしかいません(ほぼこの二人のための定義みたいになってますが…)。そして、その二つだとより女性的な声音の持ち主である相麻菫を演じるときの声に軍配があがるかなぁというのが僕の所見です。ちなみにFGOの酒呑やソラノヲトのノエルやしょびっちの香坂秋穂もこの系列に当たらずとも遠からずなのですが、やはりここからは少し外れる。でも、相麻菫の喋り方が醸すかすかな色気を露骨にすると酒呑になる気がするので、近いといえば近いのですが。

んで、ハスキーと息漏れはわかるけど、ゆらぎってなんだよというと、これはたとえばこちらをご覧いただきたいです。

www.youtube.com

このまとめ動画にまどマギの一場面の抜粋があると思うのですが、ここでの演技がそのゆらぎの例のひとつです(後述するように実は微妙に違うんですが)。このときのまどかの声は状況もあって生々しいまでに震えていて、うわずったりひっくりかえったりとやたらめったら不安定ですが、この不安定さがふだんのというか、ここまで強く感情が表現されるような演技でない演技でも微妙に出るときがあって、それが「ゆらぎ」と僕が勝手に呼んでる悠木碧の声というか発声のいいところで、このゆらぎが上述の二つの要素と組み合わさると、なんともいえない、不安定で篭っていて微妙に割れてる、きわめて美しい声になります。岡崎律子の声から薄幸感と透明感と息漏れをちょっと抜いてハスキーを足したみたいな。

ただ、こういう声を悠木碧が出してくれることってあまりなくて、たとえば楽曲方面でいうと、高くて可愛いほうに寄せた声で歌われているものが多いので、うーんとなることが多い。ただ、このあいだ『帰る場所があるということ』という曲を買ってしまったのですが、この悠木碧は割と好きでした。ジャケットの写真もすっごく可愛いし、ウィスパーボイス成分のせいで中毒性がある。でも個人的にはもっとこう相麻菫の……相麻菫のキャラソンとか出しません?(キャラ崩壊必至

なお相馬菫系統ではないのですが、例外的にヒロアカの蛙吹梅雨ちゃんは好きです。なんか新井里美への好みがあれしてるのかもしれません。

おわりに

こうしてみると、声とか発声の仕方がいかに好きかみたいな話しかできなくて、このキャラのこのシーンのこの演技が! みたいにいえないのがちょっと悲しいですね。もう少し今度から演技に気をつけてアニメなりゲームなり吹き替え映画なりを見るようにしたいです。よほどの大根でない限りとくに思うところなく見てしまう違いのわからないオタクなので演技の良し悪しがわかる人はすごい。いやそんなんで声優語るなよという話ですが…。

ほかにも渡辺久美子阿澄佳奈日笠陽子沢城みゆき坂本真綾伊藤かな恵能登麻美子村川梨衣佐藤聡美竹達彩奈小見川千明佐藤利奈…と、好きな女性声優をあげていくとまだ色々いるのですが、キリがなくなるのでここら辺にしておきたいと思います。

男性声優編は10人もあげられない()のでやりませんが、一言くらい言っておくと、最近の声優だと石川界人の株が某アニメと某アニメのせいで爆上がりで、ただ一番好きなのは小山力也で、あとは緑川光とか、神谷浩史とか、中村悠一とかが好きです。最近ユーフォを見ていたので中村悠一はやっぱいいなあって思いましたね。というかあの先生中の人と似てない…?

作品を人と語ることについて

0,はじめに

 以前、ある記事で、僕はなにかを好きでいるためには努力をする必要があるといった。そしてその努力の具体的な内容として、好きを言語化するための作業や、コンテンツにかかっている文脈を追う作業の必要性について書いた。

 この記事は11月に書かれたものだが、実際にこういうことを思い始め、実践にうつしはじめたのは、ここからさらに遡って8月ごろになる。したがってそこから数えると、かれこれそういう「好きでいるための意識的な努力」をはじめてすでに半年弱くらいが経過したことになる。ここではその実践から考えたことを備忘録がわりに書き留めておく。以下自己分析(自分語り)になるので注意されたい。

 

1,コンテンツ/コミュニケーション

 僕がこの記事で設定した問題は、「アニメに飽きつつある現状をどうすればいいのか」というものだった。でも、人はたいがいものを考えるとき、それをいつも複数の文脈で考えているものだ。ここでは考えを文章にするにあたって、問題をとりあえずこのひとつにしぼり、その流れに沿っていろいろ書いたわけなのだけど、もちろん僕の頭にはここでは書かなかったような別の問題意識もあった。今回はその一つについて書きたいと思う。これは「僕はなぜ人と趣味を語り合えないのか」という問題意識だ。

 近頃、アニメをはじめとしたコンテンツの消費形態がかわりつつあるといわれる。こういう変化を捉えるための用語として、たとえば「コンテンツ消費/コミュニケーション消費」というものがある。コミュニケーション消費というのは、人があるコンテンツを受容するさい、コンテンツそのものというよりも、そのコンテンツを話の肴にしてコミュニケーションをとるほうを重視するような消費形態をさす言葉であるといえる。これはSNSやインターネットのようなメディアと親和的な消費形態といってよさそうだ。これが適切な例かはわからないが、たとえば『けもフレ』の受容などは、Twitterでの盛り上がりと切り離せないといえるだろうし、最近でいえば『ゾンビランドサガ』の受容などもそうだろう。一方コンテンツ消費とは、コミュニケーションのためとかではなく、たんにコンテンツを消費するような在り方だといえる。

 もちろん、おそらくこの二項関係は完全には分離しないし、重なり合うことができる。人はコンテンツを楽しみながら、それを同時にコミュニケーションのだしに使うこともできる。あるいはコミュニケーションに役立てているに過ぎなかったコンテンツに、そうしたことに関係なくハマってしまうこともある。そしてそのそれぞれに良し悪しがあることだろう。

 僕が最近思うのは、先ほどあげた「僕はなぜ人と趣味を語り合えないのか」という問題は、まさしくこの二つの消費形態「それぞれ」の「良し悪し」に関係するのではないかということである。

 そのことを説明するにあたって、まず僕がどちらの消費形態をより好む傾向にあるかということを、ここではっきりさせておこう。実は僕は昔から「コンテンツ消費」のほうの仕方でコンテンツを受容するきらいがあった。趣味嗜好は比較的ミーハーなほうだし、わかりやすいほうなのだが、かといってコンテンツを他人とコミュニケーションするために消費したことはそんなにない。だから僕は、たとえばSHISHAMOのとあるヒットソングに歌われているような「友達の話題についていくのは本当は私にとっては大変で/私が本当に好きなのは昨日のテレビじゃない」という屈託はなかった。見たくないものはそもそも見なかったからだ。

 ひとつ断っておくと、これはべつにイキリではないし、一匹オオカミや、他人と違うオレ、を気取っているわけではない。いや、そういうこともかつてはあったのかもしれないが、もはや今となってはそれはかっこつけでもなんでもない。体に染み付いた、たんなる習い性になってしまっているのである。

 しかし、こういう「コンテンツ消費」偏重には、当然SHISHAMO的屈託とちょうど裏返しの屈託がある。他人と話題を合わせるのは面倒だが、面倒くさがっていると共通の話題が少なくてコミュニケーションがしづらいという屈託である。もちろん、共通の話題がないことは必ずしもコミュニケーションにとって致命的ではない。でも、そういう、話題などに左右されない「基本的なコミュ力」なるものがないとはいえないにしても、やはり人のコミュ力はコミュニケーションの場の文脈(そこで扱われている話題や、その場にいる集団の性質)によっても大きく左右されるということは疑いえない。

 だから、まず第一に、「コンテンツ消費」偏重の問題は、「他人と話題を合わせられない」ということである。それが「なぜ人と趣味を語り合えないのか」という問題の一つを構成する。

 

2,エンタメ的/文学的

 しかし、ややこしいのは、「僕が」「人と趣味を語り合えない」理由はそれだけではないということである。ここからはまた問題がずれてくるので、そのずれについても語っておこう。

 まず、僕が先ほど立てた「コンテンツ消費」の問題は、「コミュニケーションに配慮した消費活動をしないため、人と話題が合わないこと」だというふうにまとめることができるだろう。しかし、同時に、僕は「人のコミュ力は文脈によって変わる」ともいったし、また僕自身の「趣味嗜好は比較的ミーハーなほうだし、わかりやすいほう」だともいった。だとすれば、この問題、つまり「なぜ僕は人と趣味を語り合えないのか」問題は、そもそも成り立たないことになるだろう。なぜなら、これらの前提をふまえれば、コミュニケーションに配慮した消費活動をしないことは、かならずしも共通の話題を持てず、したがってうまくコミュニケーションできないということに帰結しないからである。いいかえれば、たとえコミュニケーションに配慮しなくても、趣味が多くの人と結果的に共通するなら、話題はかみ合い、そういった問題は生じえない。そして事実、僕はスポーツとかお笑いとか、そういったものについては(ほんとうに残念なことに)ほとんど興味がなく、そういう文化圏のものを好む人とその手のことについて詳しく語り合うことができないけれど、限られた文化圏、たとえばオタクカルチャーについていえば、ほとんどのオタクが好きそうなものが好きなのである。ど直球な萌え豚アニメも好きだし、なろう系だって楽しめる。

 だが、にもかかわらず僕は今まで人とそういうコンテンツを長々と語れたことが少なかった。だからこの問題は僕が「コンテンツ消費」偏重な人間であるということだけからは説明がつかない。いいかえれば、その観点は僕がお笑いとかスポーツとかが好きな人たちとうまくコミュニケーションがとれない理由のひとつを説明するのにしか使えない。

 では、なぜ僕はオタクとあまり作品を語り合えたことがないのか。これについてはある程度はっきりしている。

 それはまず第一に、僕がアニメ(漫画やラノベでもいいが、とりあえずアニメとしておく)についてあまり語ることがないからである。そしてその「語ることがない」という気分の根底には、おそらく、ヒロインが可愛いとか、この展開が面白かったということは個人的な体験で、それはその場でそういうことを感じて楽しかった、で終わる話だ、という発想がある。事実、昔の僕は、そういうことを人としても「わかりみ」とか「それな」みたいな反応しか返せなかった。それ以上のことをわーっと語って相手にドン引きされるのが嫌だったということもあるが、それ以上に付け足すことが特にないし、そもそもヒロインのなにが可愛かったとか、どういう展開があったとかを、そんなに覚えていないからである。

 しかし、では僕はこれだけオタクをやってきて語りたい作品がなにもないのかというと、そんなことはない。たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』や『Fate/Zero』、『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。』や『Fate/Stay night』などには、たぶんに語りたい欲望を刺激されてきた。そしてそれは、碇シンジや、衛宮切嗣や、比企谷八幡や、衛宮士郎といったキャラクターが、何か実存的な問題を生きているように思え、そしてそういう問題は僕にとって重要に思えたからだ。でも、じゃあこういう作品について人と語り合えばいいじゃないかと言われると、僕はどうしてもそういう気になれない。なぜなら、そういう視点から作品について語り始めると、なんだか話題が哲学的でやけに難しいものになってしまうし、そういう話題では、基本的に人と楽しく話せないからである。哲学的なタームを出すとドン引かれるし、そういう言葉を使わないで語ろうとしても、その場ですぐに答えを出せるようなことを扱わないから、やりとりが不活発になる。そして、なんだか無駄に空気が重くなる。いいことがない。

 したがって、僕が人と作品を語り合えない問題のもう一つは、こういう二種類の作品に対する、僕の対峙の仕方に起因する。一方で、僕は萌え豚アニメや面白いアニメについて、それ以上語る必要を感じないし、そもそも内容をそんなに覚えていない。他方で、僕の印象に残っており、僕が語りたいと欲望し続けているアニメについては、それを語り始めると、楽しいコミュニケーションができなくなってしまうという問題が出てくる。

 コミュニケーションに親和的で、その場で楽しめたりすっきりできたりするが、忘れてしまうがゆえに語れない作品と、鑑賞の最中もすっきりせず、なんとなく引っかかり、それゆえに語りたい欲望を刺激し続けるが、コミュニケーションに親和的でない作品。これらを形容する言葉として、ここではさしあたり「エンタメ的/文学的」というキーワードを設定しておこう。一応ことわっておくが、もちろんこの二つは重なり合うことができるし、どちらが良いとか悪いとかいうことは、ここではいっさい問題にしていない。また、これはたんに作品をどう見るかの視点の問題に過ぎず、その意味で作品自体には「エンタメ的」も「文学的」もないともいえるが、とりあえずここではそういう議論は脇に置いて、これを作品を形容する言葉としておく。

 ともあれ、これで「僕はなぜ人と趣味を語り合えないのか」という問題を構成しているもう一つの問題が、ある程度まとめられるように思う。すなわち、それは「エンタメ的作品はコミュニケーション親和的だがそれについて語る言葉を持てず、文学的作品については語る言葉を持てるがそれがコミュニケーション親和的でない」という問題として立てることができる。

 では、この問題はどのように解決すればいいのか。その方法にはさしあたり以下のようなものがあるだろう。

 

1,エンタメ的作品については、感じた楽しい気持ちや面白いという気持ちを表現する技術を養う

2,文学的作品については、そこで感じたことについて、わかりやすい言葉で語れるようにする

 

 思うに、僕が8月からやってきたのは、この二つの実践というか、この目標に向けた実験のようなものである。

 

 一度まとめよう。

 ふたたび、僕はなぜ人と趣味を語り合えないのか。その問題を二つに分割すると、それは第一に、僕がコンテンツ消費型の人間であることの問題である(そしてこの場合に想定されている「人」は、−−こういうざっくばらんな区分に問題はあるとしても、あえてそういう区分をするならば−−非オタク的といえるだろう)。そしてそれは第二に、僕がコミュニケーション非親和的な作品に語る欲望を見出し、コミニケーション親和的な作品に語る欲望を持たないということの問題である(そしてこの場合に想定されている「人」は、「文学的」な話題に興味をほとんどもっていないオタクである)。もちろんこういう問題構成にもたぶんに問題はあるが、ひとまずはこういうことで理解しておく。

 そしてこの二つの小問題のうち、第二の問題については、僕は、作品から感じたこと考えたことを表現する技術を養うトレーニングをする(Twitterで作品のディテールについて語る厄介オタクロールプレイをするなど)ことで、それと向き合おうとしてきた。

 

3,

 最後に、こういった問題と関連して、最近考えていることがある。それはポストモダン論などで盛んに議論されている問題と関連することだ。

 この問題とは、情報供給の過多と、ライフスタイルの細分化の問題である。

 それはもっと抽象的に言えば「大きな物語」とか「大文字の他者」の衰退というふうにいえるかもしれないし、きわめて具体的に言えば、国民みんなが聴いているようなヒットソングがなくなったとか、そういう文化現象の変化からいうことができることかもしれない。いずれにせよ、今、人は昔に比べて世界がどうなっているのかとか、文化はどうなっているのかとか、そういうあらゆることの全体像を掴みづらくなっている。大量の情報を手軽に素早く入手できるようになりながらも、それをどう扱えばいいのかわからないでいる。「みんな」が誰なのかわかりづらくなっている。少なくともそういう全体像がわかり、情報の意味がわかり、「みんな」の内実がわかるという幻想が機能しなくなっている。そのなかで、人はきわめて狭い共同体や細分化された自分の趣味嗜好や欲望のなかに閉じこもっている(「タコツボ化」)。

 こういう観点から考えれば、僕もまた時代の子ということになるのかもしれない。しかしこの際、僕のありかたが僕個人の資質によるものなのか、時代によるものなのか、あるいはその両方なのかということはどうでもいい。重要なのは、こういう時代にいかにして文化を可能にするかということである。

 これは素朴な僕自身の考えで、批判的な吟味や文献渉猟をおこなって培ったものではないが、文化というのは二つの側面を持っている。一つは模倣で、もう一つはメタゲームだ。

 たとえば、誰かがいいものを作ると、それをやりたいといろんな人がその真似を始める。そうしてそれが文化のパブリック・リソースになっていく。たとえばレイモンド・チャンドラーフィリップ・マーロウを主人公とする探偵小説で編み出した独自の文体や作風は、その後の探偵小説の文体や作風を規定している。これが模倣の側面である。

 しかし、模倣は必ず陳腐化に帰結する。だから、その後の時代の作り手は、そのスタイルを「こういう感じのやつでしょ」と定義したうえで、違うことをやるようになる。そうやって作られたコンテンツは、もはやそれ自体だけで理解できるものではなく、先行するものとの関係を踏まえなければ理解できないものになっている。そこには作品レベルのみならず文化レベル(メタレベル)の文脈がかかっている。これがメタゲームの側面である。

 メタゲームのなかで成立するコンテンツは、つねに先行するスタイルを意識的に踏まえたものになっているから、歴史的・文化的であり、それ自体が帰属する(と自己規定した)文化について、自己言及している。しかしそれは外部の人間にはすぐにはわからないので、他の文化圏の人や、結局は同じことだが、後の時代の人にとっては、よくわからないものになっているかもしれない。

 それにしても、なぜメタゲームは通じなくなることがありうるのか。それは、作品が必ずしもそのゲームのルール(その作品が自らをそこに置いているところの歴史的・文化的文脈)を明示しないからである。それはあえて明示されない場合もあるし、そもそもメタゲームをおこなうに際してコンテンツの作者が行った自己規定や文化状況の定義が曖昧だったり、本人にはそれと明確に意識されていないからかもしれない。彼らはとくに自らの行為の意味を問わずなにかをしただけかもしれないし、そこで行われているのは、各人の好き勝手な創作活動かもしれない。

 ここにたとえば批評(あずまん的な意味での)と呼ばれるものの役目が出てくる。それはあえてそのルールを明示し、そこでおこなわれていることの意味を示すものである。あるいはそれは、ときにルールの捏造であることもあるかもしれない(というか常に捏造なのだろう)。だがいずれにせよ、そうやって全てのコンテンツを(暴力的に)一つの、あるいは類型化されたいくつかのゲーム、歴史、文化圏に引きずりこみ、ときに他の圏域にあると思われているものに接続すること、こういう無粋な行為を担うということが、おそらく批評の役割なのだと思う。

 それはある意味で、なにかのフィクション、全体性の幻想を語るということだ。それはもちろんこの時代において親和的でない。なぜなら、人はもはやそういう物語や幻想をナイーヴに信じられないからである。しかし、そういう意味づけの役割を担うものなければ、人は濫造され続ける供給過多なコンテンツ(情報)を語る言葉を持つことができない。

 そして、ふたたび話を戻せば、僕のアニメに対する付き合い方は、ながらくそういう状態にあったような気がする。僕は自分の趣味嗜好でしかコンテンツを摂取していないし、(これだけどっぷりつかっといてなんだという話だが)オタクカルチャーに対する自らの帰属意識に対して懐疑的で、そもそも「オタクカルチャー」などという言葉は、ありもしない領域を錯覚させ捏造するものに過ぎないと感じてきた。でも、僕は最近、そういう文化領域をかりそめにでも画定する言葉を持つために、素朴に「教養」を身につけたいと感じるようになった。この教養というのは、具体的にいえば、ガンダムを全部見るとか、SAO異世界転生の代表作を読むとか、そういうことである(どういうことだ)。そういうふうな文脈を踏まえてさえいれば、そのなかできっと、これまで漫然と見てきたコンテンツについて、語る言葉を持てるようになると思うのである。

 もちろん、必ずしも人は何かについて語らなければならないということではないし、それを僕は他人に強いるつもりもない。そもそも言語化というのは無粋なものだし、それなりに危険なものである。適当に言葉を使えば、借り物の表現でしかものを語れなくなる(どれだけ表現を洗練させても、そもそも言葉が借り物なので、結局はそうなるのだが)。しかもそういうレディメイドの表現はたいてい様々な錯覚や倒錯を含んでいる。だが、その危険性を踏まえ、なお沈黙は金ということを知った上でも、僕はやはり自分の「好き」について他人と語りたいと思う。そういう個人的な思いのうえで、僕はこういうことを考えている。

考えるということ

はじめに

 あけましておめでとうございます。といっても、もう年明けから半月以上経ってるので新年感は皆無ですが。

 それで新年一発目の記事では、ものを考えるってどういうことだろうということについて書いておきたいと思います。まあ、所詮素人考えではあるのですが、一応これでも色々本を読んできて、自分なりにテーマや問いを立ててものを考えてきた人間ではあるので、考えるということについて人並み以上には経験してると思うし、そこから言えることがあるかな、と。

 で、なんでこういう記事を唐突に書こうと思ったかという経緯をいちおう説明しておきますと、実は年始に『リズと青い鳥』を見てどっぷりハマってしまって−−今更かよ!といわれれば「はい…」というしかないんですが、それはともかくハマってしまって、−−それで一本このアニメについて考察記事を書こうと思ったんですよね。

 でも、いろいろ書いているうちに、この作品の難しさとか、それを論じるにあたって採ろうとした方法の難しさとかに辟易としてきてしまって、結局、いまこっちの執筆作業についてはお休みすることにしたわけです。いや、ユーフォの二期とともになんども見比べたり、場面ごとの概要を全部書き出したりしてめっちゃ頑張ったんですけどね、書けませんでしたね…ただ、それはいいとしても、これでなんにも書かないとまたこのブログについての個人的な目標として掲げていた月一更新が怪しくなっちゃうなーという感じだったので、じゃあせっかくだし『リズと青い鳥』論でぶちあたっていた、ものを論じるとか考えるってことの難しさについて、前から考えていたことを書いておくかな、と、こういう次第です。

 とはいえ、ただやみくもに「考えるとは何か」みたいなテーマをドヤッと出しても、まあ強そうだなとは思うんですが、ちょっと扱うのが難しいよなーとか思ったので、とりあえずここでは的を絞って「文系思考とはなにか」ということを考えてみることにします。いや、これも大きいテーマではあると思うし「そもそも文系とか理系とかそういう区別がだな…」と反感を持たれる方がいるのも重々承知ではあるのですが、これはとりあえずのテーマ設定ということで、勘弁してもらえれば。

文系あるあるから考える

 では、あらためて、文系思考とは何か。これについてはいろんな切り口があると思います。でも、ここではひとまず「文系あるある」から、文系ってどういうふうにものを考えてるの、ということを考えるという、ちょっと変わったアプローチをとることにします。

 その「文系あるある」というのは、文系学問好きにまつわる「あるある」、彼らと固有名詞にまつわる「あるある」です。どういうことかというと文系の、ちょっと難しめな本を読んでいる人たちって、大半が固有名詞をすんごい楽しそうに使います。「マルクスが〜」とか、「カントの〜は〜」とか、「小林秀雄の〜」とか、「漱石というのは〜」とかいうときって、なんか文系の人たちって活き活きしている。とにかくめっちゃ固有名詞(とかタームとか)が大好きなんですよね。

 そして、だいたい彼らにはそれぞれ、そのなかでも特権的な位置を占める固有名詞があります。たとえばマルクスが好きな人たちというのはそれぞれに「ぼくのかんがえたさいきょうのマルクス像」を持っていて、それぞれ同じ人の書いた同じ本を読んでいるにも関わらず、そこに書かれている事柄に対する力点の置き方が違ったりする。たとえばある人は物象化論を重視するし、ある人は価値形態論を重視する。こういうことがままあります。

 でも、こういう特権視というのは好意的な例、つまりその固有名詞に対して好意的な例についてのみ見られるわけではありません。なかには特権的な非難の対象になる固有名詞もあります。しかもしばしば見られるパターンとして興味深いのは、そういう非難の対象になる特権的な固有名詞というのが、実はその人にとって以前は好意的な固有名詞だったりすることがある、ということです。

 これ、エビデンスをここで示せるような話ではないのですが、実際文系にはよくある話です。特定の思想家に惹かれ、その人の本を読み、その主張に夢中になる。果ては伝記や、全集にしか入っていないような文章まで読み尽くし、この人こそはと思い、自分なりのその人像を心のなかに構築する。しかししばらく経つと、その思想の瑕疵が目についてきたりして、ある時期を境にこれまでの態度を一変、この固有名詞を激しく非難するようになる。それからさらに一定の時期が経つと、もはや自分はこの人を超えたのだという超然とした態度をとる。そしてこれら一連の流れを新しいマイブームの対象となっている固有名詞に対しても繰り返す。−−もちろん、こういう一連の態度というのをはなからバカらしいと思う人もいるだろうし、こういう自分に途中から気づいてちょっとみっともないな、と思う人もいるでしょうが、たぶんこういうことをしている自分に一生気づかないタイプの人もいます。しかしともあれ、多くはすでに没しており、伝記や本人の著作からしかその人を窺い知れないような、そういう人に対して、こういう強い愛憎こもごもの感情を抱く文系というのはそれなりにいるわけです。

 じゃあそういうことをえらっそーに分析するお前自身はどうなんだよといわれると、実は僕もこういう気持ちはよくわかります。僕の場合、強い非難をすることはありませんが、しかしその思想家に夢中になるというのはあります。そしてそこにはおそらく外野からみれば気持ち悪くて仕方ないような、自己投影の心理があることも事実です。たとえば僕はこのブログではフロイトの話ばかりしていますが、もともとは三島由紀夫という小説家が好きで、僕の考えの多くは、この人から教わったもの、あるいはこの人の考え方の批判的な吟味から出てきています。そういう意味では僕にとって「三島由紀夫」はひとつの特権的な固有名詞であり、今後どれだけ思想的に離反しようと、かけがえのないお師匠様の名前です。一時期は、この人こそ、僕が知りたいと思っていることの答えを知ってる人なんだ、この人こそ僕が感じてきた生きづらさとか世界に対する違和感を明確に言葉にしてくれている人なんだ、と思っていました(たぶんこんな感じで三島由紀夫に自己投影をする人はわりかし多いと思います)。

 だから、僕はこういう人たちの気持ちがわかります。でも一方で、こういう人たちを直感的に間違っていると思う人たちもいるはずだと思うし、その気持ちもまた、よく理解できます。たとえばそういう人たちは、こういう固有名詞に執着する人に対して、公平でないとか、客観的でないとか、そういうふうなことを感じるのではないでしょうか。そして、その感覚の前提には、ものを考えるということは公平で、客観的な営みでなければならないという命題がある。だからこそ、固有名詞に執着して公平性を見失うのはおかしい、どんな思想についても、ある程度距離をとるべきだ、という考えが出てくる。そしてこれはたしかに、納得できる考え方です。

 しかし、残念ながら、僕の考えでは、おそらく文系的思考においては、はなからそういう「公平さ」とか「客観性」みたいなものを不可能にしてしまうような感情や欲望が前提されています。しかもそれは純粋な思考にあとからくっついた不純物とかではなくて、そもそもその思考を可能にするものそのものであるか、あるいはそういうものに由来するものです。それを馬鹿馬鹿しいといって切り捨てるのは簡単ですが、ここではどうして文系的な思考がそうなってしまうのかについて、もう少し突っ込んで考えてみたいと思います。

転移

 そのため、ここでは「転移」という概念を使ってこのあたりのことを考えるとっかかりにしてみたいと思います。この転移というのは(またかよという感じですが)もともと精神分析の概念で、フロイト神経症治療の際に使った言葉です。フロイトによれば、神経症患者は治療の場面に臨んで、相反する二つの気持ちを持っています。一つは神経症から治りたいという気持ちであり、もう一つは神経症から治りたくないという気持ちです。そしてその後者の気持ちから、患者は治療の際に分析医の治療行為に抵抗を見せる。その一つが転移です。こういう文脈での転移は、分析医と患者の関係における過去の人間関係の反復、たとえば両親との関係の反復現象を指します。たとえば陰性転移とかいうと、分析医を父と見立てた患者が、父に対して抱いている敵愾心を、分析医に対して向けてくるわけです。

 ただ、これは分析医にとって必ずしも有害なものではなく、むしろフロイトはこれぞ神経症治療に欠かせないものだと考えます。フロイトはまず転移が起こらなければ、精神分析的な治療プロセスは始まらないと考えた。

 でも、こういうフロイト的な転移の話はここではいったん脇に置いて、続いてはこの概念がのちのち他の精神分析家によってどういうふうに捉え直されたのかってことをここで見ておきたいと思います。そこで紹介したいのがラカンという人の解釈で、ラカンによれば転移というのは分析医を「知っていると想定される主体」として見做すことです。この場合の「知っている」というのは、患者の症状がどのように構成されているのかを「知っている」ということですね。

 といっても、なんのことかわからないかもしれないので、少し迂回して、神経症症状に見られる典型的な構造をここで説明しておきます。神経症とひとくちにいっても様々な種類のものがありますが、ここで簡略的にそのメカニズムを説明すると、神経症というのは「抑圧」という心の仕組みによって生じるとされます。抑圧というのは、患者がある対象にある欲望を向けていることを、患者自身の意識にのぼらないようにする仕組みです。なぜそんなことをするのかといえば、もちろんそういう欲望を患者が認めたくないからですね。しかし、どんなに抑圧しようと、欲望のエネルギーそのものはなかったことにできないので、それはまた形を変えて別のところに出てくる。これが神経症症状としてあらわれる。

 これだけでも抽象的でよくわからないかもしれないので、くわえてフロイト自身の例をあげておきたいと思います。『精神分析入門』で、フロイトは、ある夫人の妄想について語ります。この女性は53歳で、30年前に恋愛結婚した夫とのあいだに二人の子供をもうけ、幸せな家庭生活を送っていました。ところがある日、この女性のもとにある匿名の手紙が来たことをきっかけに、彼女の生活は一変してしまいます。

 その手紙の内容というのは、彼女の夫が、ある若い娘と恋愛関係にあるということを報せる手紙でした。しかし、なぜそのような手紙が急に彼女のもとにきたのか。これについてフロイトは次のように説明しています。

くわしく経過を話せば、だいたい次のとおりです。彼女には一人の小間使いがいました。察するところ、彼女はこの小間使いと頻繁すぎるくらいに内輪話をしていたらしいのです。この小間使いは、夫が経営する工場内にいるある娘に対して憎悪に満ちた敵意をいだいていました。それは、この娘が自分よりも育ちが悪かったにもかかわらず、自分よりずっと出世していたからです。その娘は女中奉公に出ないで、実業教育を受け、この工場にはいったのですが、召集による人手不足のため、いい地位に昇進してしまったのです。彼女は今は、この工場の中で寝起きし、あらゆる紳士たちと交際して、「お嬢さん」とさえ呼ばれていました。人生の競争に遅れをとった小間使いは、当然、昔の友人に対してあらゆる陰口をきくようになったのです。ある日のこと、夫人はお客に来ていた一人の老紳士のことを、この小間使いと話し合いました。この紳士が、奥さんと別居して、別の女性と関係をもっていたことは、誰知らぬものとてなかったのです。婦人は、どうしてそんなふうになったのか自分にもわからないのですが、突然、夫にそんな恋愛関係があったりしたらほんとうに恐ろしいことでしょうねと言ってしまったのです。するとその翌日、わざと字体を変えた匿名の手紙が舞いこみ、呪うべき昨日の話と同じことを知らせてよこしたのです。彼女は、この手紙は意地の悪い小間使いのつくりごとだと推察しました。おそらくそれは当っていたでしょう。というのは、小間使いが憎んでいたあの「お嬢さん」が夫の愛人だとされていたのですから。フロイト 1977,PP.418-419

 そのようなわけで、この手紙は、その前日の夫人の発言を聞いた小間使いが、敵視する「お嬢さん」を陥れるために書いた手紙だったわけです。小間使いは、このことで夫人が夫に対して怒り、夫がことを荒立てないために「お嬢さん」を解雇してしまえば、しめたものだ、ぐらいに思っていたのかもしれません。

 いずれにせよ、夫人はこういう小間使いの企みを見抜き、しかもそれは実際におそらく正しいわけです。しかし、奇妙なことに、彼女はそれがわかっていたにも関わらず、ひどく取り乱してしまいます。そして夫にそのことを問いただし、否定され、自分自身客観的な状況からやはりそれは事実ではなさそうだと納得したあとにも、彼女はずっと嫉妬妄想にとり憑かれます。「お嬢さん」の名前を聞いたり思い出したりすると、反射的に邪推や非難の気持ちが生じてしまうのです。

 では、フロイトは、こういう夫人の症状をどのように考えるのでしょうか。彼はまず、彼女の嫉妬妄想が手紙の件を必ずしも原因としているわけではないと考えます。フロイトはここで前日の小間使いと夫人とのやりとりに注意を促します。彼女は「どうしてそんなふうになったのか自分にもわからない」が、「突然、夫にそんな恋愛関係があったりしたらほんとうに恐ろしいことでしょうねと言ってしまった」。これを考えようによっては、彼女が小間使いに手紙を書くことを思いつかせようとしていたと捉えることもできるでしょう。そこでフロイトは、彼女の妄想は手紙の件ではじめて生じたのではなく、むしろその最初から念頭にあったことだといいます。

 では、そういう妄想はどこからきたのか。ここで彼は分析セッションのあいだ、彼女が彼女の娘婿に対する恋心を抱いているらしい様子を示したこと、そしてそれを本人は意識していないか、わずかにしか意識していないことを見抜き、これに注目します(実はこの娘婿はそもそも彼女の治療をフロイトに依頼してきた依頼人でもありました)。そしてこのような彼女の無意識的な欲望を踏まえ、フロイトは次のように結論します。彼女は実は、娘婿に恋心を抱いていた。しかしその気持ちは、貞淑な良き妻という、夫人が自らをそこに一致させたいと考えている理想的な規範に反し、彼女の良心による呵責を生み出してしまう。したがってそのような抑圧された無意識的な欲望に対する良心の呵責を和らげるために、彼女は、夫の方こそ若い娘に恋心を抱いているのだ、という妄想を作り上げたのである。

 ここには、先ほど僕が抽象的に説明したことの全貌が出揃っています。患者は自分の欲望を認めたくないがためにそれを抑圧してしまう。しかしその欲望自体は消えるわけではないので、その欲望と抑圧の葛藤の結果が別のかたちで、一見不合理な症状となってあらわれる。これが神経症の基本的なメカニズムです。

 それで、話をふたたび転移のそれに戻しましょう。ラカン的転移概念によれば、患者は分析医を「知っていると想定される主体」としている。そしてその場合の「知っている」とは、患者の症状がどのように構成されているのかということを「知っている」ということなのでした。ところで、今までの説明であきらかになったように、患者の症状を構成しているのは、患者自身が認めたくないと考えている欲望と、それの抑圧です。したがって、患者が分析医に「転移」を起こすとき、患者はそこで分析医が患者の無意識的な欲望を知っていると考えているわけです。

 しかし、そもそもそれは分析医しか知りえないことなのかというと、そうではありません。たしかに、本人の意識にのぼっているということを「知っている」という言葉の意味として定義するなら、患者はもちろん自分の欲望を知らないわけですが、逆にいえば、そもそもその欲望は患者自身のものなのですから、無意識においては、患者はその欲望を「知っている」わけです。そして、患者はそのことを自分自身の分析医に対する行動によって示してしまう。

 たとえば、フロイトの論文のなかでも僕が大好きな論文に「否定」というタイトルのものがあります。この冒頭でフロイトは、次のようなことをいいます。

「この夢の人物は誰かとお尋ねですが、母ではありません」。われわれは「それは他ならぬ母である」と訂正する。分析の際には、否定を無視して、患者の思いついた内容だけを自由に取り出すのである。患者が「この人物は母ではないかと思いついたのですが、この思いつきをそのまま認める気にはなれないのです」と言っていると考えるわけである。フロイト 1996,P.295,太字部分は引用元では傍点

 この例において、分析医は「この夢の人物はあなたのお母さまですか?」などとは訊いていません。たんに、「この夢の人物は誰ですか?」と訊いているだけです。それにもかかわらず、なぜ患者はよりにもよってわざわざ特定の人物に言及して、これはその人物ではないなどと言わなければならないのでしょうか。こういうおかしさに、分析医は注目するわけです。そしてそもそもこういう患者の反応は、分析医が自分の欲望を知っているのだと想定した上で、「きっと分析医はこう言わせようとしているに違いないから、それを先回りして否定することでバレないようにしよう」というふうに立ち回る抑圧のシステムがなければありえません。したがってラカン的な転移の内実は、このような場面で明かされることになります。

父との関係あるいは考えるということの難しさ

 ここまでを説明したところで、この文章の本筋にやっと入ることができます。

 今までかんたんに説明してきたラカンの「転移」概念ですが、これを別のアプローチから考えると、また別の様相が見えてきます。そして実はそのアプローチから「転移」を考えることこそが、文系思考のことを考えるための大きな手がかりになると、僕は考えています。では、そのようなアプローチとはなにか。それは、ここで患者が分析医を「父」としてみなしている、と考えてみるアプローチです。

 ここでいう「父」とは、先ほどフロイトの「転移」について僕が述べた時に例に出したような実際の「父親」のことではありません。そもそも精神分析的な意味での「父」とは、メタルールを知っており、担っていると神経症者が想定する存在のことを指します。ここでいう「メタルール」とは、ルールのルール、ルールの王のことです。

 たとえば、精神分析の概念のなかでもっとも有名なエディプス・コンプレックスの図式について考えてみます。エディプス・コンプレックスの図式とは、古代ギリシア悲劇『オイディプス王』のあらすじからヒントを得て作られた図式で、息子はおしなべて、無意識において父を殺し、母を犯したいと考えているという欲望を持っているが、その欲望を貫こうとすると父親に去勢されてしまうため、その葛藤によって苦しむ、というような図式のことだと考えてもらっていいと思います。

 まずここで注目すべきは、父の非対称性です。父は息子に対して上位(メタレベル)に立っていて、息子は無力なため、父に敵いません。しかし、父はそのような恐ろしい存在であると同時に、その万能性によって、息子を条件付きで他の外的な脅威から守ってくれる存在でもあります。その条件とは、彼の敷く法に従うことなのですが、これはたとえば道徳的な法だったりします。世の中にはときに公平世界仮説という「世の中は因果応報でできていて、良いことをする人間は幸せになり、悪いことをする人間はひどい目にあう」というルールを信憑している人たちがいますが、彼らはどこかにそういう法に従う限り、自分たちを死や病や偶然的な不幸から守ってくれる存在がいると、あるいはそういうルールはちゃんと世界において機能しているのだと、そういうふうに信じようとしているわけです。したがって精神分析的な表現を使えば、彼らはそういう意味での父の傘下にあるといえる。

 こういう理解でいえば、父とはまずもって、世界(良い人でもひどい目に合い、悪い人でも幸せになることがある世界)の無意味さ、不条理さ、偶然性から、子を守ってくれる存在であるわけです。そしてこの「偶然性」という部分に注目すると、これ以外の説明図式でも、父を説明することができる。たとえばスピノザという哲学者は「世界は必然的な因果法則に貫かれており、それが偶然に見えるのは、単に人がものを知らないからだ」というふうに受け取れるようなことを言っていますが、こういう偶然-必然の軸から考えると、ここでいう「父」はさっきの転移の対象、つまり「知っていることを想定される主体」のイメージに近くなってくるかもしれません。ラカンはこれを次のように説明します。まず、子は最初母に全面的に依存していて、衣食住や排泄の世話などを頼りきっている。したがって母親にはつねにそばにいてほしい。しかし、母はしばしば自分のそばからいなくなってしまううえ、それがなぜなのか子にはわからない。そこで子は母のこの現前と不在の「偶然性」の法則をなんとかしてつかもうと推測をめぐらせ、結局母の欲望の対象としての「父」にたどり着く。ここでは「父」は、(道徳的な因果応報といった)目的因的な必然性を世界に与える存在ではなく、(科学的な因果関係といった)作用因的な必然性を掌握する存在です。

 いずれにせよ、このようにして、精神分析的な「父」とは、子が彼に従うかぎりにおいて世界の偶然性(より精神分析的にいえば「寄る辺なさ」)にルールを与え、子を守ってくれる存在です。そしてこういう存在として患者は分析医をみなす(転移する)。−−この構図、何かに似てはいないでしょうか。

 僕がこういう長ったらしい説明を経ていいたかったのは、結局そのことです。つまり、おそらく文系の人たちがしばしば固有名詞にこだわってしまうのは、このような意味での「父」として、その固有名詞で名指されるある一個人に「転移」を起こしてしまうからです。

 もちろん、こういうことをいうと、すぐさま次のような反論が飛んでくることは予想できます。つまりそれは、「いや、それはそもそも神経症患者に当てはまることであって、一般の人には当てはまらないんじゃないの」というものです。しかし精神分析的には、そもそも人は基本的に「神経症的」なのであり、それが症状として出るかどうかの境目は、(たとえば社会的な)規範と自分の欲望がどれだけ折り合えているかどうかとかいった具体的な状況に依存したものにすぎない。したがって、ここで僕がふつうの人をさして「神経症的」ということにも、ある程度の正当性はあるわけです。

 それで話を戻すと、やっぱり「生きる意味ってなんなんだ」とか「この社会は何かおかしい、なんでみんなこんな社会に適応できるんだ」とかいった文系的な疑問を持つ人のなかには、つねに何か世界に対する違和感や苛立ちを持っていたり、自分自身の考え方からくる生きづらさを感じている人が多い(しかもこういう気持ちがあるということは、意外と思想書を読む上ですごく有利だったりします。そもそもこういう違和感がなければ抱けない問いや、その違和感を構成している前提としての理屈があらかじめ自分の側にあることで、なぜその思想家がこういうことや、そのことのつぎにあんなことをわざわざ書かなければならないのかということがわかる、少なくともわかった気になれたりするからです)。そしてそういう人たちは、世の中の人が受け容れたり、受け容れたフリをしているルールを懐疑しているし、それを受け容れるフリさえうまくできない。とはいえ、まったくルールのない世界というものには、人は耐えられない。だからこそある特定の個人に、この違和感や苛立ちや生きづらさの法則を、そして世界のありうべき姿を知っている「父」を見出したくなるのではないでしょうか。

 そして、実はこういう意味での「父」は、精神分析的には、「ボクはすごいんだ」という幼児的万能感を人が諦めたあとで、それを委託している対象でもあります(正確にはこれを「二次的ナルシシズム」とか、「自我理想」とか、「超自我」というふうにいいます)。そしてこのナルシシズムのシステムは、フロイトにとって人が妙に他人に魅了されてしまうあの現象、つまり「カリスマ」のシステムでもあります。たとえば僕の例でいえば、僕は一時期三島由紀夫に対して転移し、カリスマを見出していたということになるわけです。

 しかし、先ほどもいったように、このシステムは裏に暴力性をつねに潜ませています。なぜなら息子はつねに「父を殺したい」からです。すごくいやな言い方をすればボクこそが一番なんだと思いたいし、猿山の大将になりたい。だからこそ、自分が「父」と仰ぐ存在のいってることに少しでも瑕疵が見えてくると、掌を返したように攻撃的になる。抑えられていた父殺しの欲望が噴出してきてしまう。こういう関係にある限り、子にとって父は偉大な父であるか、従うに値しない、殺してしまっていい父のいずれかでしかない。

 でも、そういう欲望は、必ずしも悪いものとは限りません。なぜなら、そうした転移は世界に対して一貫的な説明体系を与えたいという欲望がなければ成立しないからです。そもそもなぜそういう人たちの転移の対象となる思想家たちが優れているのかといえば、それは彼らがそれなりの長くて複雑な因果関係を用いて、世界の仕組みや、そのなかで一見関係ないように思える諸々の出来事の関係を語って見せたからだと僕は考えています。その意味で知るということは、QであるとかQでなければならないという誰かが出した結論や一般論をその根拠を問わず鸚鵡返しに繰り返すことではなく、なぜならばPだから、そしてそのPは〜だから、というふうに、長い系列を説明できるようになることではないでしょうか。そして彼らは転移によって、固有名詞の残した様々な発言のあいだに関係を想定し、発見し、因果関係の網を構築していく。するとなんとなくそうした思想家の考えていることの究極原理というか、核というか、そこから彼らの様々な命題が派生してくるような思考のイメージ、あるいは公理の絡まりみたいなものが見えてくる。こうして転移の欲望によって、人は自分なりの知を構築できるようになる。

 そしてこれは僕がアニオタだから思うことなのかもしれませんが、こういうのって、ちょっとキャラクターの解釈と似ているようなところがあると思います。たとえば僕が『リズと青い鳥』論で問題にしようとしたのは、ひとつには『リズと青い鳥』の希美、つまり山田尚子的(厳密に言えばアニメは集団制作なので監督の意図にそのすべてを還元することはできませんが、ここではとりあえずそうしておきます)希美と、『響け!ユーフォニアム』本編の希美のあいだのズレでした。そこで僕は山田尚子のキャラクター解釈はありうるが間違っていると考えたわけですが、そういう考えがそもそも起こり得たのは、僕のほうにも希美というキャラクターの一貫性が想定されており、そこで僕と山田尚子のあいだの「解釈違い」が起こったからです。

 しかし、その一貫性は目に見えるものではないし、どこまでもイメージにとどまらざるをえないものです。そこにあるのは、映像に映ったキャラクターの言動や行動だけです。それと同じことが思想家にもいえます。思想家というのは、違う問題について、違う語彙で、しかし抽象化すれば同じに見えるようなことをしばしば語ります。しかしそれがその思想家の「内面」において抽象化すれば同じであり、そういう思考原理から全てを一貫的に語っていたということを示す証拠はどこにもない。そもそもその「内面」がその固有名詞と転移関係にある読者の錯覚にすぎないかもしれないわけです。そしてその読者が思っているほど、一人の人間が言ったり書いたりすることの一貫性というのはなかったりするものです。

 したがって、転移関係が対象の「内面」に一貫性とルールの理解者としての理想像を強く想定する限り、その欲望はかならず想定された一貫性のほころびや、その説明図式で説明できないものごとへの気づきを生み出してしまう。繰り返しになりますが、そこから父殺しまではあと一歩です。そして今度はそういう「間違った」相手を殺して自分が一番になりたいがため、転移していたという事実を認めたくないがため、自分とこいつは違うということを示したいがために、強い非難をしたり、冷笑的な姿勢をとるようになる。しかしその失望を通して、人ははじめて自分が転移関係にある限りにおいて捉えられていたそのような不完全な枠組みから抜け出すことができる。その繰り返しによってその人の考えは洗練されたものになっていく。

 とはいえ、これまで散々擁護しておきながらも、やはり僕はこういう転移関係によってものを考えるということを良いことだとは言い切れません。僕はこういう人たちの気持ちがわかる気がする一方で、その手のひら返しの身振りに嫌悪感を抱いてきました。なぜなら、そういう身振りが不誠実であるということもさることながら(というかそれは結構本質的なことだと思うのですが、それはともかく)、結局ものを考えるということにおいて不利にはたらくと思うからです。

 そもそも、こうした人たち(もちろん部分的には僕も含まれます)がものを考えるのは、自分たちのナルシシズムを守りたいというのもさることながら、もうひとつには、先述したように、自分や社会や世界に対する違和感からでしょう。そしてそれは少なからず倫理的な意識からでてくる違和感であるはずです。自分はどうすれば正しく生きられるのか、どうすれば世界はこんなひどいものでなくなるのか、どうすれば社会に生きる人たちはお互いに暴力を振るわないですむのか。そういうことを考えたとき、少なからず人は、(先に出した夫人の例のように)現実を直視したくないがあまりに他人に対する暴力を振るう人々や、そういう暴力を制度化し、自明視し、良心の呵責を覚えることのないこの社会の状況に怒りを感じてきたはずです。かりにそういう怒りや救世願望が子供じみたメサイア・コンプレックスやヒロイズムから出てくるものだとしても、いやだからこそ、人は自分がそういうことをやっているかどうかに対してつねに懐疑的でなければならないし、その見地からすれば、一度は自分が感化された父を殺して、自らの思想的出自そのものを否認するような身振りは、自分が怒りを向けてきたもののそれの再演でしかありません。しかし、そのことに自覚的でないかぎり、人は自分がやってることと自分が怒りを向けている人たちがやっていることの類似性を捉え損ない、その意味で自らの思考を裏切ることになってしまいます。僕がその手の手のひら返しが嫌なのは、そうすることによって、そもそも思考とはつねにたえざる自己批判とある種の暴力の批判であるはずなのに、それが無批判に自己肯定とそのことによる暴力にリンクしてしまうからです。もちろん、そうした自己肯定や暴力はつねに考えるということにつきまとうことですが、それと簡単に馴れ合うべきではない。

 いずれにせよ、こんなふうな「転移」や「父殺し」による思考パターンというのは、その手の思考を駆動する条件であると同時に、それを裏切ってしまうものでもあります。そしてこういうふうな文系特有の思考のありかたこそが、論壇などでよくありがちな前の世代の「父」を殺すことで自らの名を挙げようというふうなホモソーシャル的マウンティング合戦の繰り返しを生むのだと、僕は考えます。もちろん、人の考えを鵜呑みにして、ずっとその枠のなかでものを考え、そこに安住したいがために、その説明図式のほころびや、それの反証となるような経験的なデータを無視するよりは、それはいいことなのかもしれません。そしてそういう界隈には、そういう戦闘を好む人たちがいるのも、そういう購買層がそういう出来事が生じうる場所そのものを支える一部であることもわかります。しかしそれはものを考えるということにときに不利に働くし、ものを考える際には、つねにそういうことを自覚していなければいけない。ものを考えるということの難しさは、そういうところにあるんだろうなと思っています。

参考文献

フロイト,ジグムント(1977)『精神分析入門』上巻,高橋義孝他訳,新潮社

同上(1996)『自我論集』竹田青嗣編,中山元訳,筑摩書房

 

 

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いっぽう『エッセイ』は、ある程度人が読むことを想定して書いていますので、『メモ』よりも内容が比較的まとまっていて、まともな文章です(あくまで比較的、ですが)。

 

そのようなわけで、管理人としては、まずは『エッセイ』のなかから、興味のあるものをお読みいただくことをお勧めします。

 

もちろん、これはあくまでガイドマップなので、どのように読むか(あるいは読まないか)は読み手であるあなたに一任します。

 

それでは、ご自由にお楽しみください。

 

かんぼつ