かんぼつの雑記帳

ほとんど個人用メモ。アニメ・哲学などを扱ったエッセイを投稿しています。

キャラクターとカリスマ

一時期、物語論の研究で、ひたすら脚本のハウツー本とか小説創作論とかシナリオハウツー本とかを図書館で渉猟していたことがあった。そんな時期に見つけた文献の一つに感情で書くなんたらとかいうものがあって、これはざっくりいえば、三幕構成とか起承転結とか構造面の話ばっかしてないで、その話を実際に楽しむ受け手の気持ちを考えることから話を作っていこうぜ、みたいなコンセプトの本である(と記憶している)。

そのなかで、すごく印象に残っているものがある。いわく、その本によれば、魅力的なキャラクター(という表現だったかは定かでないが)には三つのタイプがある。一つ目は、なさけないタイプである。こういうタイプのキャラクターを見ると、受け手は(描き方を間違えるとイラつくだけだが、大半は)応援したくなってしまう。二つ目は、等身大のタイプである。こういうタイプのキャラクターは受け手にとって自分が共感できることが多いため、魅力的である。三つ目は、超人的な力などをもったヒーローのタイプである。こういうタイプのキャラクターはその力やカリスマで受け手の憧れの対象となるから魅力的である。云々。

なんというか、この分類は一見、意味がないようにも思える。それはあたかもあの常套句、つまり「世の中には二種類の人がいる。○○な人と、☆☆な人である」というあれと似ている。一見意味深長だが、考えてみると馬鹿げている。いやそれはそう分類したらなんだってそうだろうけど、だからなんなのという話になってしまう。

とはいえ、僕としてはこれを読んだとき、ここには結構理論的に興味深いものがあるのではないかと、そう直観した。理由はわからない。でもなんとなくこの考えは面白そうだな、と思ったのである。僕の経験上、物事を考える上で心が動かされたアイデアというのは、それがそのときにはたとえどんなにくだらなく思えるものであったとしても、後々になって活きてくるものである。そんなわけで、僕はこの直観と経験則に従い、しばらくこの考えをその素朴な形のままで、頭の片隅に留めておいた。そして留めておいたまま、数年が経過した。

そんな折、先日、千葉さんのツイートでフロイトのカリスマ論についての言及があり、ふとその話とこの話がつながるということがあった。フロイトのカリスマ論というのは管見の限りまとまった論考としてはないが、「ナルシシズム入門」(「ナルシシズムの導入のために」)の一部にそのような記述がある。それは子供、動物、フィクションにおける犯罪者などのカリスマという限定的な対象について述べているものに過ぎないが、おそらく多少の限定は無視できるような射程の論理である。

フロイトによれば、人は誰しも幼児のときに万能感やそれに基づいた幻想(不死の幻想や、自分の思いや考えが現実に影響を及ぼす)を持っているが、それは成長の過程で(物理的な脅威や社会的な脅威によって)「去勢」を被る。しかし、それは完全に失われるわけではなく、かわりに別の万能に思われる存在、たとえば父に委託され、以後人はこの父のお眼鏡にかなう人間になることを通じて、原初の万能感を回復しようとする。このうち、前者の万能感を一次的ナルシシズム、後者の万能感を二次的ナルシシズムないしは自我理想という。そしてフロイトによれば、カリスマのある魅力的な存在というのは、このような意味でのナルシシズムを残しているようにみえる存在のことなのである。「子供の魅力の多くは、そのナルシシズム、自己満足性、近づきがたさによるものである。また、われわれのことなど眼中にないようにみえる動物たち、たとえば猫や大型の禽獣などの魅力もこれと同じ根拠で生まれるのである。あるいは、詩的な作品に描かれた極悪な犯罪者や諧謔家が読者の興味をそそるのは、こうした人物には、自分の自我を貶めるようなすべてのものを遠ざけておくナルシシズム的な一貫性があるためである。あたかもこうした人物は、われわれがすでに捨て去ってしまった幸福な心的状態を維持し、リビドーが傷つけられない状態を保持していることを、われわれは羨むかのようである」(フロイトジークムント「ナルシシズム入門」『エロス論集』中山元編訳、筑摩書房、pp.255-256)。

これを読み直して僕がすぐに思い出したのは、とはいえ、くだんのハウツー本ではなく、『プラダを着た悪魔』である。僕は別のエッセイで、このなかのミランダという女性が主人公に対して父として振舞っていたと述べたが、このミランダにはあきらかにこのような意味でのカリスマがある(という描かれ方をしている)。たとえば、彼女は他者の視線を気にせず(他者の視線を気にしないということは、精神分析的には象徴界が機能していないこと、したがって去勢されていないことを意味する)傲岸不遜に振る舞い、女王として君臨しているが、周りの人々はその振る舞いにもかかわらず、彼女を畏れると同時にファッション界を牽引する第一人者として崇敬してもいる。

しかし、本論の文脈で興味深いのは、実はこのミランダが、一度だけ父のレベルから母-子のレベルに降りてきたことがある、ということである。この母-子のレベルとはどういうものかというと、それはこの文脈では、お互いがお互いに対して共感や同情の対象になりうる関係である(理論的厳密さを期するならばこのようにいうにはもう少し理論的な手続きが必要なのだが、ここではそれは省く)。もともと、僕の精神分析理解では父と母、ラカン的にいえば象徴界想像界は分割不可能なものであり、さらにいえば鏡像的・想像的な関係(母-子)においては相手は同情の対象になりうる(人は完全に非対称な存在、つまり絶対的な父に対しては哀れみや同情の念を抱きづらいものではないだろうか)。したがってこのようなレベルにミランダが降りてきたというのは、彼女が主人公の同情・共感の対象になったということを意味する。

それは、彼女と主人公とその仕事仲間たちが、パリコレのためにフランスに出張したときのことである。夜のホテルで仕事の打ち合わせをしていたとき、ミランダは話の流れで主人公に私的な打ち明け話をする(これまでのミランダの主人公に対する振る舞いを見てきた受け手は、この時点で軽い感動を覚える。というか僕が覚えた)。実はそのようなことは前の場面ですでにほのめかされていたのだが、ミランダは夫とのあいだに持ち上がった離婚話や、それがいざ現実のものとなったとき、世間の口さがない人々の口の端にのぼることで、娘たちが傷つくのではないかということに悩んでいた。彼女は珍しく弱気になっていたおり、そのことを主人公に打ち明けてしまい、主人公はとたんにミランダに対して同情的になってしまう。実はこのミランダの弱みを見てしまったことが主人公を終盤の展開においてある行動に駆り立てるのだが、それはともかくとして、ここで興味深いのは、この父としてのミランダと母としてのミランダが、それぞれの側面において、主人公を魅了してしまうということである。

すでに何を言いたいのかはお分かりだと思うが、僕がここでいいたいのは、これはキャラクターに感情移入する受け手の普遍的な心理なのではないかということであり、それはさきほどのハウツー本に書かれていたことであり、さらにそれはフロイトの理論の文脈に引きつけて考えられるのではないかということである。

この文脈でさらに考えてみたいのは、アニメのキャラクターの振る舞いである。僕は前から幼児的万能感の幻想のうち、思ったことが現実になるというものについては、異能力のことを考えていたのだが、それとは別に、キャラクターの振る舞いについては、ナルシシズム論とカリスマ論の点から考えつつ、それを現今のオタクカルチャーがもつ感情移入のシステムの特性として考えられるのではないかという気がする。この振る舞いというのは、他者の視線の意識が機能していないようにみえる振る舞いのことで、これは僕は以前からしばしば感じていたことだが、日本のアニメや漫画、ラノベのなかでも、特定のコンテンツにおける特定のキャラクター間のコミュニケーションにおいては、相手の気持ちを読むことで生じる逡巡や、相手の脅威性を推し量ることで生じる恐怖などが描かれない場合があり、それがリアリティの点からすれば明らかに不自然に思える場合でも、作劇が成立してしまっているようなことがある気がする。これはいま具体例を挙げることができないのだが、たとえばFateシリーズのギルガメッシュのようなキャラクターの振る舞いがそうなのかもしれない。いずれにせよ、そういうものを実際に参照することで、このあたりのことをもっと掘り下げていくと、面白い発見があるだろう。

『プラダを着た悪魔』とハラスメント

最近、ふと思い立って『プラダを着た悪魔』のDVDをレンタルショップで借りたのだが、見るやいなや、その内容にちょっとびっくりさせられてしまった。ネタバレを極力避けてその内容というのを掻い摘んで説明すると、まず本作はメリル・ストリープ演じるミランダという鬼編集長が取り仕切る超一流のファッション雑誌の編集部に、アン・ハサウェイ演じるアンドレアが彼女付きのアシスタントとして着任するところから始まる。このアンドレアはキャリアを積むためにこの求人に応募をしたのだが、もともとは別の雑誌で働きたかった女性で、ファッションには一切興味がなかった。そのようなわけで、彼女は最初、職場で矢継ぎ早に飛び交う業界用語や固有名詞についていけず指示通りに動けなかったり、ダサい服装を貶されたり、編集長に冷たくあたられたりと、つらい思いをすることになる。しかし、当初キャリアのために就いた一時的な職場に過ぎないと割り切ってファッションから距離を置いていた彼女は、次第にその業界の人たちがファッションにかける情熱を知ることで感化され、彼女なりにそこでの仕事に本腰を入れていくようになる。するともともと有能だった彼女は、徐々に職場で認められていくようになるのだが、もちろんそこで大団円と相成るわけはなく、そうすると今度は私生活での人間関係に亀裂が走るようになる。と、このあともいろいろな話は続くのだが、これ以上話していくとあらすじを全て語ってしまいかねないので、ひとまずこのあたりで止めておこう。それで冒頭の話に戻ると、筆者がこの話を見て驚いたのは、このミランダという人物(鬼編集長)が映画のなかで魅力的な人物として扱われていたからである。

昨今、全世界的にリベラルの価値観が浸透しており、もちろんそのバックラッシュも起こってはいるわけだが、それはともかく日本でも徐々に(その良し悪しはともかく)LGBTがどうという話が語られるようになっていたり、有名人や政治家、スポーツ業界の人々のハラスメントが告発され、大きくとりあげられるようになった。いまやこの世の中はなんらかの非対称な立場に立脚して人が抑圧的に振舞うことを許さない。筆者がこの映画でのミランダの扱いが驚くべきものだといったのはこういう全世界的な風潮を踏まえてのことで、この女性はその魅力的な人物という扱いにもかかわらず、また同時に「非対称な立場に立脚して」「抑圧的に振る舞う」ハラスメント体質な人物の典型としても描かれていたのである。僕はこれを比較的最近の映画だと記憶していたのだが、wikipediaで調べてみると、やはり公開は2006年とのこと。12年前といえば、19世紀末ごろから始まる映画の歴史のなかでいえばとかそういうことを抜きにしてもそんなに昔のこととはいいがたい。しかしその「比較的最近」から12年でこうも感覚が変わってしまったのである。そのことに改めて気づかされたとき、僕はwikipediaを開いたスマホを片手に持ったまま、しばし隔世の感に打たれてしまった。

 


ところで、この映画を見ていて、もうひとつ気づいたことがある。それはハラスメントというものが一体何を意味しているかということである。

まず、この映画の物語自体は、それほど注意をして見ていなくとも、なんとなく社会で働いていくことの大変さ、たとえばそこで自分らしく生きていくことの大変さとか、仕事と私生活のバランスをとることの大変さとか、そういうものを描いていることがわかる。それは要するに人が現代において社会化するということにまつわる一般的な問題でもあると思うが、そのように社会で生きていくというのは、たとえば精神分析的にいえば父の敷く法に従って生きていくことでもあるわけで、この映画の場合、その父を象徴するような存在というのは、もちろんこのミランダである(もちろんここでの父という言葉は実際の性別とは関係ない)。アンドレアは父たるミランダの抑圧的なやり方によって不本意な振る舞いを強いられるが、それに耐えながらともに仕事をしていくなかで彼女の素晴らしさを知り、成長もする。しかしまたそのことによって同時に、やはり仕事やミランダのやり方が自分には合わないということにも気づかされる。したがって、アンドレアは二つのこと、つまりミランダへの尊敬と規範、ミランダへの反感と規範に沿わない自分という二つのあいだで葛藤することになる。

これはまた昨今それが認められていないところの、古典的な成熟の図式でもあるといえるだろう。父の抑圧に対する葛藤よって、はじめて自分を知る(と錯覚する)ことができ、それによってなすべき振る舞いがわかる。そしてそのときには人はこの父殺しなり離反なりを通して、別の仕方で、別の父のもとで社会化することができる。もちろんそれを成し得ないときには(伊藤整か誰かが定義していたような意味での)悲劇が待っていることもあるし、この葛藤がない、つまり規範と馴染めてしまうなら、人はわざわざ物語られるようなこともない人生を生きていけるわけであるが。

ともあれ、そういういくつかのバリエーションは措くとしても、人が社会で生きていく上で生じるそういう葛藤というのは、本作ではそういう古典的な図式によって表現されているわけである。しかし、これはもちろん、非対称的な関係が、そしてそこで抑圧的に振る舞うものの権威が社会で認められている限りにおいて成り立つ図式だから、現代においては人はこのようなアンビヴァレンツな葛藤によって自らを「発見」することはできず、どちらかといえばアンビギュアス(あいまい)な状態に置かれることになるだろう。するといつまでも身の置き所が定まらず、自分はこれでいいのだろうかとさまよってしまうことになる。したがってハラスメントなき自由な社会とは、自分がなりたいような自分になれる(ということになっている)し、そのような自己像を示せといってくる社会でありながら、その実自分が何になりたいのかよくわからなくなりやすい社会でもあるといえる。こういうことはべつだん新しい認識でもなんでもないのだが、僕は『プラダを着た悪魔』の物語構造をぼんやりととらえるなかで、はじめてハラスメントと呼ばれているもののこうした現代的な意味に気づいたのである。

とはいえ、ここで注意すべきなのは、世の中からハラスメントをどんどこ駆逐していったからといって、社会からそういう非対称な構造というのがなくなるわけではないということである。だから結局ここで抑圧されたものはべつのところで回帰してくるわけで、それはおそらく、一方では自分らしく生きよ、とうたう社会でありながら、その自分らしさが結局はその社会の承認する限りにおいての自分らしさであるというようなダブルバインドにおいて人が陥るような葛藤を生み出すだろう。結局、非対称な構造は変わらないまま、その上から発せられる命令の内実だけが変わり、そしてそのことによって以前の葛藤は形を変えてしつこく残り続けているのである。

なんだかこうしてみると僕が今の社会のあり方を批判することでハラスメントを擁護しているようだが、べつにそういうことが言いたいわけではない。そもそも僕はハラスメント体質の人間が心底嫌いである。ただそういう個人的な感情の一方で、やはりハラスメント(と呼ばれがちなもの)の効用というものもそれなりにあるということは認めるしかないわけで、ただハラスメントは悪だと鸚鵡返しに繰り返し、その意味を知ろうとしないうちは、少なくともこの社会の実態はそのようにハラスメントを糾弾することでその人が作ろうとしている社会とはずれたものであり続けるだろう、と思うのである。

 


最後に。べつに『プラダを着た悪魔』のことが語りたかったわけではなく、そこから気づいたことを語りたかったのだけど、それだけで終わってしまうのもなんなので。『プラダを着た悪魔』、すごく面白かったです。あとこれは今年のどっかで『オーシャンズ8』を見て思ったことでもあるけど、アン・ハサウェイはキュートにも見えるし美しくも見える不思議な魅力を持った人だなぁと、あらためて思ったのでした。

好きでいるための努力

大昔に『化物語』を読んだとき、強烈に印象に残ったことがある。それは八九寺真宵の「好きなものを好きでいるために努力することは不純なことではなく大事なことなんだ」という旨のセリフだ。

一方には、ほんとうに好きならば、それを好きでいるために努力する必要なんてない、したがって好きであろうとし続けることは不純だ、といったたぐいの考えがありうる。そして真宵のこの発言は、そういう立場に対して、ほんとうにそうなのだろうかと、問いかけ直すようなものである。

現在、僕の手元に『化物語』はなく、確認が取れないため、もちろんこういうことを真宵が言ったかどうか、あるいはこういう文脈の話だったのかは定かでなく、僕の記憶違いの可能性も大いにありうる。ただ、僕にとって重要なのは、その発言の有無や真偽よりも、その内容だ。好きなものを好きでいるということはどういうことなのか。そのために努力は必要なのか。この問いそのものが妥当なものなのかはともかく、それを通じて考えられようとしているものは、とても深い問題なのではないかというのが、僕なりの直観だ。

ところで、こういうことをことさらに今とりあげるのは、僕が最近、まさに好きなものを好きでい続けるために努力する必要を感じたことがあったからだ。その好きなものとはアニメである。

実は最近、アニメを見ることに飽きつつあった。理由はよくわからない。ただ敢えてそれを挙げるとすれば、いくつかあげられないこともない。たとえば、アニメにお定まりの文法みたいなものに食傷しているというのがひとつ、それからこれは数年前から薄々感じていたことではあるが、毎クール毎クール数十本単位でコンテンツがひたすら濫造され、それらのほとんどがクールが過ぎ去るとともに潮が引くように忘れ去られるという状況の過剰なスピード感なりバカバカしさなりについていけなくなってきたというのがひとつ(もっとも、これは作り手が考えなしに作りまくってるとか、消費者が馬鹿みたいに消費しまくってるからこうなってるというよりは、市場そのものの構造的な問題なのだろう)、最後にこれは非常につまらない理由ではあるが、僕もそろそろ歳だしなと感じているというのがひとつ。あと多少これもまた馬鹿げた話だが、僕の集中力の低下もあるいは要因の一つかもしれない。

ともかく、それで最近はアメリカ文学(チャンドラー、アーヴィング、キング)やアクション映画の方に関心が行っているという次第で、アニメはこれきりとうぶん見なくてもいいかもしれないと思いかけていた。そして後に述べるような理由でモチベーションは再燃したし、今期(2018年秋クール)はさいわい『ゾンビランドサガ』のおかげで楽しくオタ活できているのだが、それでも来期はどうなっているかわからない。

そしてこれはどうやら僕だけに起こっている現象でもないらしい。たとえば地元でよくあう友人などは、かつては中学生時代にそのクール毎に放映されているアニメをめぐってともに雑談に花を咲かせたものだが、いまやそのモチベーションはほとんどないらしい。それにTwitterをぐるりと見回してみても、社会人になったのを機にとか、なんとなくとか、その他様々な理由で、アニメを見なくなっていく人は多いように見受けられる。もちろん、それらを共通の現象として一括りにできるかどうかは大いに疑問だが、まぁそういった人は一定数いるわけだ。

もちろん、僕もそういった人たちの大多数のように、なんとなくでアニメから撤退、アニオタ(そもそも僕はアニオタだったのかわからないが)は廃業! というふうにしても良いのかもしれない。

でも、十代の前半から後半にかけてあれだけ熱中し、いろんな問題を抱えつつも付き合ってきた趣味なりライフスタイルなりを、今になって、こんなかたちでやめてしまうというのも、なんだか寂しい話である(僕はこの手の詮無い感傷に固執して道を踏み外すことが少なくないが、それはそれとして)。それで僕は最近、アニメを好きでい続けるために、努力をすることにした。

たとえば、最新話を1話1話見終わるたびに、自分なりに面白かったところ、見応えがあったところ、そしてその箇所から感じたことなどをできるかぎり具体的に、Twitter言語化したり、人の感想を検索して読むようにした。もともと僕はなにごとにつけ言語化や感想の共有というものを軽蔑していた時期があったので、そういうことに慣れ親しんでこなかったというようなこともあり、そういう作業は苦手だったのだが、それを繰り返していくうち、だんだんとそのコンテンツに漠然と感じていた魅力が焦点を結ぶようになり、それが視聴継続のモチベーションになった。

また、別の例を挙げれば、こういうところがもしかしたら僕がアニオタらしからぬ? ところなのかもしれないが、僕は今までアニメ雑誌やwebの記事なんかをろくすっぽ読んだことがなかった。それを最近になって、別の記事で書いた雑誌への興味も手伝って、多少チェックするようになった。またweb記事の情報を拾うため、作品毎の宣伝用Twitter公式アカウントのツイートをしっかり追うようにした。

すると、そこでやはり自分が今まで読まなかったようなものを読む機会が増える。たとえば声優へのインタビュー記事がそれである。もともと、僕はスタッフはともかく、キャスト(声優)がそのコンテンツについてどう考えているかということにはほとんど興味がなかったのだが、それを読んでいるうちにだんだんと面白いと感じるようになった。作り手として作品に携わっている人たちの作品解釈、キャラクター解釈を読むことを通して、作品の魅力を新たに意識したりそれを語る新たな語彙を得られるということはもちろんだが、かれらがどのように試行錯誤し、考えながら演技に臨んでいるかということを知ると、そこで言及されていた具体的な場面を見直すために、一度見たエピソードを復習する機会にもなった。

もちろん、こうしたことは、ふつうのアニオタ(アニメ好き?)は当たり前のようにやっていることなのかもしれない。しかし、僕にとってこうしたことはひどく新鮮な体験だったので、こんなふうに一工夫すれば、こんなにもコンテンツは楽しめるようになるのか、とびっくりした。それとともに、自分が今までいかにテキトーにコンテンツと関わってきたのかに気づき、それもまた大きな驚きとなった。

では、そのテキトーさとはなんだったのか。それはひとつには、細部への(アイロニカルなという意味ではなく、素直な)こだわりや、そういうこだわりを持っている自分の感覚への無関心だろう。また他方では、それは、欲望の文脈をしっかり多様化していく作業の欠如だったのだろう。人は何かを好きになるとき、その好きを意識し感覚していなければならないし、その好きは様々な文脈を絡めることで多様化していくことができる(そしてそういう意味ではアニメ以外のほかのジャンルにも色々と手を出しがちな僕の傾向は良いものなのかもしれない)。すごく大雑把な話をすれば、僕が今まで怠ってきたのは、その二つだったのではないかと思われる。

隈、陰キャ、三白眼、ゾンビ

とくに突っ込んだ話はしません。きわめて私的な話になっています。

 

 

誰にでも変わった趣味嗜好のひとつやふたつはあるものだ。もちろん、僕にも例外なくそんな趣味嗜好が存在する。

それに最初に気づいたのは、大学生の頃だったと思う。僕はある日、『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』の不破氷菓や、『リトルウィッチアカデミア』のスーシィに異常に惹かれている自分に気がついた。そしてその共通点を探っていった結果、そこから「隈がある」「陰キャ」「偏執的で変人」といった要素を見出すに至った。

そうして振り返ってみると、またべつに二人ばかり似たようなキャラクターに心当たりがあることに気がつく。それは『とある科学の超電磁砲』の木山春生であり、『じょしらく』の暗落亭苦来である。後者は不破氷菓とならべるとキャストが後藤沙緒里という別の線も見いだせるのだが(なお僕は後藤沙緒里の声が大好きであり、またこれはきわめて個人的な見解であるため必ずしも多くの同意を得られるとは思わないが、彼女については『咲』のすこやんが至高のハマり役だと考えている)、いずれも、僕が高校生の頃に萌えていたキャラクターであった。

断っておくが、僕はもちろんマイナー性癖持ってるオレ、みたいなサブカルクソ野郎的自意識を持ち合わせてはいないし、ましてやそのような魂胆からことさらにこういったキャラクターたちを称揚しているというわけではない。たんに、このキャラ可愛いな、あのキャラ素敵だな、という経験的なデータが積み重なった結果、ある日こうした嗜好を帰納的に理解するに至ったというだけの話である。

それにしても、なぜ僕は斯様な奇妙な嗜好をもつにいたったのか。それはおそらく、小中時代のデスノートの読みすぎに起因している。

僕が小学生だった当時、巷ではデスノートが爆発的に流行っており、周りにそのタイトルを知らないクラスメイトはいなかったといっていい。僕も多少遅れてではあるが、なんかのきっかけでこのコンテンツに接する運びとなり、たちまち小畑健のおそろしく上手い絵や、大場つぐみの独特の長広舌とケレン味にノックアウトされてしまうこととなった(大場つぐみのしょーもないミソジニーにはここでは目をつぶっておく)。

そして、とりわけこのデスノートのなかで僕が好きだったキャラクターは、(これは当時デスノートに熱中したほとんどの人がそうだったと思うが)夜神月ではなくLであり、ニアであり、メロだった。なにしろこの三人は一癖も二癖もあり、各々に見せ場があり、最高にかっこいい。その時期、僕は何かに憑かれたように隈がある三白眼のキャラクターの顔を自由帳やコピー用紙に描きまくっていたが、これは明らかにこのお三方のせいである(ちなみに、現在の僕には三白眼萌えもある。具体的には『僕のヒーローアカデミア』の耳郎ちゃんは梅雨ちゃんと並んでヒロアカ屈指のヒロインだと思うし、『だがしかし』のキャラデザは全般に刺さるし

、神のみの小阪ちひろのアニメ版キャラデザの瞳の部分が新しいクールで大きくなったときには、それは深い悲しみを覚えた)。

そう、どうやら僕の隈萌え・陰キャ萌え・そしてここに足してもいいならば三白眼萌えのルーツは、ここにあるらしい。これ以外にこれといった心当たりがないのである。

しかしここで疑問なのは、かりにこのような仮説が正しいとして、ではなぜ男キャラに対して抱いていた美学的な感情が、後年によりにもよって美少女萌えに転化しているのか、ということである。僕はお三方を魅力的だとは思っても、彼らにときめいたことはない。ではなぜそれが性別の壁を超え、萌えに結びついているのか。これは非常に大きな謎である。

そして最近、この嗜好は、ゾンビ美少女萌えにまで至ってしまった。『ゾンビランドサガ』もそうだが、『さんかれあ』が気になってしょうがないし、前は人間に戻って欲しいと考えていた気がする『東京レイヴンズ』の夏目も、これは実質ゾンビなのでゾンビのままの方がいいかも…と思い始めてしまっている。そしてこれは単体で唐突に生まれてしまった嗜好ではなく、陰キャ萌えや隈萌えと結びついていると思うのだ。これは論理的な話ではなく、事実として、そのような属性を持つキャラクターたちに抱いているこのえもいわれぬ感情に近いものを、ゾンビ美少女たちに対しても感じるのである。

とはいえ、僕はロメロを見たこともないただの俄ホラー映画好きだし、今まで別にゾンビをどうと思ったこともなかったのだから、これについてはデスノートのような特定のルーツを仮説として提示できるわけでもなく、なぜ自分がこうなったのかはよくわからない。今一部で流行っている『ゾンビランドサガ』の放映より前にはもうこうなっていたから、これがきっかけというわけでもないらしい。

人間、自分のことほど案外よくわかっていないものだが、そうした自身にまつわる様々な謎のなかでは、最近はもっぱらこうした嗜好に関心を抱いている。これはそんな関心に基づき自分の嗜好について考えるための、備忘録がわりの文章である。

雑誌について

僕ぐらいの世代の人間には珍しくないのだろうが、僕は雑誌に興味を持ったことがなかった。ジャンプ漫画は単行本派で、本誌をコンビニで立ち読みしたり買って読んだりすることもない。サブカルチャー・思想・文学・読書文化など、僕が好きそうな分野の専門誌にしても、自分が興味ある話題が特集されているものでさえ、買うのをためらい、実際見送ることが少なくない。

なぜこんなにも雑誌と縁遠いのか。まず、自分が興味ないことが書いてある紙面の分までお金を払いたくない。そして一冊ができるだけそれの扱う話題においてまとまった体裁をとっていた方が良い。連載は断片的で嫌なので、完成したあとで、単行本になったものを買って一気に読みたい。そしてなによりもインターネットやテレビなどのメディアのほうが馴染みがあり、金がかからず、速くて便利である。

と、このように、理由をあらためて挙げてみると言えることは色々あるわけなのだが、おそらくこうした理由はおしなべて僕のある特定の気質によるところが大きいのではないかと思う。その気質とは、放っておくと自分の文脈だけで生きがちな気質、つまり身もふたもない言い方をすれば引きこもり気質である。

たとえば、ふつう会話というのは、会話の相手との過ごす時間を楽しむものであって、もちろんその内容もある程度は大切だが、それが主だった目的ではない。したがって話題というのはそれに対して無関心でもいけないが、かといって過剰に関心を抱いたり、そこからあらぬ方向へ深掘りを始め暴走するようなこともあまり良くないような、そういう性質のものである。つまり会話において重要なのはどんな話題についてもそこそこの関心を持っておくことにほかならない。

ところが、自分の文脈で生きがちな人間というのは、自分が考えたいことや好きなことには強い関心を抱くが、そうでないことには淡白であり、こうした話し方を好まない。それを雑談型に対して、議論型の人間といってもいいだろう。この手の輩は雑談をするよりも議論をしたり、あるいは一人でものを考えたりする方が向いている。まぁこういうふうな生き方を多くの人が構造的に強いられているということは(たとえばポスト・モダンとかタコツボ化とかインターネットの普及だとかいうキーワードを使うことで)もちろん言えるのだろうし、それは実際妥当なのだろうが、そういう構造的な規定であれ僕の生来の気質であれ、いずれにせよ事実としてあるのは僕が今のところはそういう人間であるということである。

それで雑誌のことをあらためて考えてみると、なるほど、これほど雑談とか人の会話と近い媒体もないという気がする。なにかこちらで特集をやっているかと思えば、別のところでは連載があったり、全然違う話題でインタビューや対談をやっている連中がいる。そしてそれらはなんとなくの方向性を与えられてはいるものの、断片的でまとまりがない。こんなふうな雑誌の特徴を鑑みてみると、もちろん違うところもあるが、なんとなく会話に似ている気がする。だから僕は雑誌に今まで興味を持てなかったのかもしれない。僕は自分が好きな特集だけを全ページにわたってやってほしいのであり、それ以外はどうでもいいという読者なのだ。そしてそれはようするに単行本を買って読みたい人間ということに他ならない(もちろん嫌いな単行本もある。それはいうまでもなくアンソロジーだ)。

ところが、最近ゆえあって雑誌に関わる機会が多くなり、雑誌には雑誌の、それなりの面白みがあることに気がつくようになった。

たとえば雑誌の衰退にはインターネットが関わっているともされるが、インターネットと雑誌は当然ながらメディアとしての性質が違う。僕はメディア論に昏いのでこれは素人考えに過ぎないが、その素人考えによれば、インターネットは雑誌に対してライブ感がありすぎるか、なさすぎる。ここでライブ感という言葉を事細かに概念規定する気はないが、さしずめ、「今この時のこの場をみんなと共有してる感」とでもいっておく。一方でインターネットは、今この時を持たないし、みんなと場を共有できない。Google検索はかつてつまり過去に作られたページをずらりと表示しているだけであり、そこへのアクセスは個人個人がおこなう。他方で、SNSでのアニメ実況や掲示板、またチャット機能つきの生放送の動画配信サービスなどは、まさに今この時この場をみんなで共有するためのものだが、そのみんなは数の上でも質の上でも(つまり共有している話題の上でも)限定されていたり、集まりがその場限りであることもある。

ところが雑誌というのはすぐに廃刊になるものもあるけれども、今残っているものはかなりの長期スパンで定期的に情報を発信し続けているし、そこにはその分野内とはいえさまざまな話題に関心をもつ人が集まってくる。そしてバックナンバーはその時々の時事的なものをも取り入れながらも残っていくわけだから、それはアーカイブとしての機能をも果たすことになる。うまく言えないのだが、そこでは共時的であれ通時的であれみんなが共有できる文脈の絡まりが作られているような気がするのである。それは即時的で狭いライブ感とも、孤独で強い文脈を持ち、アナクロニズムなアクセスとも違うものである気がするのである。

と、こんな話をインターネットを使って発信するのもどうかと思うのだが、最近は、こういうイメージをなんとなく抱きながら、もっぱらインターネットとの対比において、雑誌ならではの面白さというのを考えることが多い。もっと文献を読みしっかりと考えればそれなりに正確で意義のあることが言えそうなのだが、とにかく現段階でいえるのは、雑誌文化がこのまま廃れるのはなんだかあんまり良くないのではないか、ということである。その直観がうまく言語化できるようになったら、またこのあたりのことについて書いてみたい。

雑記05(偶然について)

最近ぼんやりと二つの偶然の違いについて考えている。

一方で、三島由紀夫スピノザがいうように、世界はくまなく必然的な因果法則から成っているため、偶然とは単に人間の認識の不十分さによる錯覚にすぎない(ほんとうは全て必然だ)、というようなときの偶然がある。

他方で、それとは別に、ほとんど無意味という言葉と同義語で使われるような偶然というものがあるのであり、この場合は偶然の対義語である必然も、有意味という言葉と結びつく。そしてこの場合の意味とは、人の感情と密接に結びついた概念であるらしい。僕が最近興味を抱くのはこちらの偶然である。

たとえば、人がなにか不条理な出来事に襲われたときに、「どうしてこのような出来事が起こったのか」と問わざるを得なくなることがある。それはおそらく、その出来事によって生じさせられた過剰な感情のけりがつけられないからだ。このいわば処理し得ない余剰としての感情をどこへ向ければいいかわからないときに、このような疑問が発せられるのであって、その場合、「この出来事はしかじかの物理的原因によって生じた」という答えは、それこそ問うた本人にとってなんの意味も持たない。なぜならこの場合問うた人が知りたいのは、物理的にどのような因果関係でその出来事が起こったのかということではなく、なぜよりにもよってこんな不条理な目に他でもない自分が遭わなければならないのかということだからである。

それは誰に降りかかっても良かったはずなのだが、なぜか自分に降りかかった。そして人はそこになんの意味もないということを認めることが難しいらしい。言い換えれば、この問いはすでに出来事に対するその意味の要求なのであり、にもかかわらずその出来事に(因果応報とか神の試練とかいった)さしたる意味がないとき、人はそれを偶然的な出来事と呼ぶ。

では、逆にそれが必然的であるということはどういうことか。もちろんそれは意味があるということである。しかしこの意味があるというのは、一体具体的にはどういうことなのか。それは、余剰分の感情の始末をつける、つまり感情を特定の対象に向け、それを行動によって消費するための物語がそこに見出せるということである。たとえばそれが誰かのせいなら、その誰かに怒りの矛先を向け、罵倒するなり殴るなりすればいい。そうすればすっきりするだろう。それが自分の罪によるというならば、その償いをすればいい。そうすればいつかこの埋め合わせがなされるかもしれないと思えるだろう。重要なのは余剰分の感情を消費すること、滞留したエネルギーを行動を通じて放出することなのだ。そういうエコノミーの関係を(その実効性や合理性にかかわりなく)対象と作れるかどうかが、感情的な存在としての人間にとっては重要なのだろう。

その意味では、出来事が偶然的であるとは、その感情をどこにも向けることができず、自分がそれに対してなにもなし得ないということなのかもしれない。

雑記04(視線)

人間とそれ以外の動物を区分けしたり、人間性のある(あるいは本来的な)人間とそうでない人間を区別するときに、反省の有無を持ち出す論法は、様々な分野で見られる。つまり、自分を意識する存在こそが人間であり、そうでないものは自分を意識しない。こういうふうな発想がある。

ところで自分を意識するというのは、ある意味ではなにかの視線を意識するということでもある。たとえばそれが具体的な相手であり、この相手に嫌われたくないと思えば、人はその相手の眼を想定して自分を見て、この想定された視線をよりどころに、自らを相手の価値観に適うような人間として演出する。

しかしそれが現実には存在せず自分の心においてのみあるような抽象的かつ究極的かつ理想的な存在であるとすれば、どうだろうか。またさらにこの理想的存在が、この人物を四六時中間断なくその心の奥底までをもくまなく見張り、そしてこの人物に対してこの存在自身の比類ない状態に到達するよう要請してくるとしたらどうだろうか。するとまずこの人物が取り組まなければならないのは、その一貫した内面の構築と、到達不可能な理想への絶え間ない漸近の試みである。視線は常に隈なく監視しているのだから、具体的な人物の前にいるときのように、その場限りうわべだけをとりつくろってよしとするわけにはいかない。いかなるときも、心の底から、そのような存在でなければならない。こうしてこの視線は一貫した内面の構築を要求する。それはそこから発生する外的振る舞いがつねに理想的でありうるような、理想的かつ一貫した内面を構築することを要求する。

ところが、この人物は、その存在が要求してくる内面および行為における一貫性や理想性の把持がとうてい人間のなせるわざではないために、結局のところこの試みに失敗するだろう。するとこの人物はそのような弱い自分を詰り、責め、罪悪感に苦しまざるを得なくなるだろう。

この理想的存在とは結局のところこの人物自身が作り上げたものなのだから、この存在の要求は、この人物自身の要求でもある。この人物は自らに理想的であることと、一貫的であることを要求する。そしてその結果生まれてくるのが内面である。しかしこうした内面なるものを行為の手前に想定するのは倒錯だろう。

この倒錯的な内面を生み出す一貫性を要求してくるような視線は、しかし、それ以外の視線を排他的に退けるものではない。というより、もちろんそうした排他性をそれは持っているのだが、ふつう人はこの視線に対して自分自身をうまくごまかしながら、たとえばもっと具体的な視線に合わせて自分を変えるということをやる。しかし前者の視線は自分に対して欺かれているから、それでもこの人物は自分が依然として一貫的だと思い込むことができる。

この後者の視線に合わせすぎれば自己同一性は崩れて混沌とするが、前者に合わせ過ぎてもその場での適合的な振る舞いができなくなるだろう。

このような点で、理想自我と自我理想の違いが考えられるかもしれないのだが、これは結局のところ視線の内実の違いである。ただ、この常にくまなく見張る視線は、ふつうはそこまで徹底化されずに欺かれるのであり、ところがこの欺きが周到に回避されると、この視線は徹底したものになる。ここまでくると、人は自分について一貫性を意識するがあまり、かえって自分が一貫していないことを知ってしまう。そこに不安が生じる。比喩的な不眠状態が生じる。この不眠において、「ある」という状態が意識される。