かんぼつの雑記帳

noteのほうで書いたものの一部をまとめておくためのブログ。アニメ・哲学などを扱ったエッセイを投稿しています。

意味と価値

ソシュールを翻訳するとき、日本語だと、たとえば「言葉の価値は示差的である」というふうにいいあらわす。ところで僕は原典(『一般言語学講義』の原書)を読んだことがないからわからないのだが、果たしてこの「価値」という言葉にあたるものは、フランス語ではなんというのだろうか。というのも、僕はいつもこの言葉に違和感を覚えてきた人間で、ちがう訳語を当てはめうるならば、その言葉を知りたい、と折に触れて思ってきたのである。まぁ、そんなのは原典を買ってきて勝手に確かめろよ、という話なのだが、これはあくまで話の枕なのでその話は脇に置くとして…。

たとえば、言葉の意味は示差的というならば、わからないまでも、まだなんとなく頷ける気がする。しかし価値となるとヘンだ。むろん、価値はときに「意味」と似た使われ方をする言葉だが、「人生に意味はあるか」というような場合に、これを単純に「人生に価値はあるか」と代置すると違和感を覚える。この違和感をたんなる言葉遣いの習慣の問題だといって切り捨てることはできないだろう(というか、習慣こそは言葉の意味やその変化および差異にとって本質的である)。ではなぜこのような違和感があるのかと考えてみると、ひとつには、単純に、価値という言葉に即物的なニュアンスがあるからかもしれない。ようするに人はつい人間の一生というものをロマンティックに考えてしまうから、それについてその意味なり価値なりを云々するときは、価値と言うよりは意味と言いたい、という気持ちがある。そして第二の理由もこれと類似するか、あるいはその言い換えに過ぎないのかもしれないが、その理由とは、価値という言葉はもっぱら量的なニュアンスを含むのに対し、人生の意味という場合、それは量化困難か、少なくともそうした量化をこのテーマについては拒否したいという欲望がはたらくということである。
ここで価値の量的なニュアンスについて云々する前に、価値と意味に共通する含意を分析し示しておかねばなるまい。価値にせよ意味にせよ、それらの意味を考える上でおそらく重要なのは、少なくともある二つのものの交換関係を考えることである。先ほどの例でいえば「人生の意味」というとき、多くの場合、人は発話内的にはたんに問いを発しているのだが、遂行的には実存的な訴えをおこなっている。人は訳も分からないままその渦中に放り込まれた自分の生が、やがて死に至ることを知る。いくら死について批判的な検討を行い、この意味を転倒しようと試みたとしても、この未来がもつ不快な意味そのものを完全に抹消することはできないだろう。そこで人はなんのために自分は生まれたのかと問わざるを得ない。では人がその人生の意味を問うとき何を与えられれば満足なのかといえば、それは自分がそのために生きるに「値する」なにものかである。これはむろん僕の個人的なイデオロギーではないことを予め断っておくが、たとえばある人が「人生の意味」が「自分の子供を生み育てること」だと考えているとすれば、その人はそれをおこなう限りにおいて自分の人生に「意味がある」と考える訳である。そもそも人生を意味/無意味で考える思考の枠組み自体がひとつの陥穽なのだという話はここではおいておくとしても、ここでこのことについて即物的な言い換えをすれば、人は自分の人生を売ってこの目的の達成に必要な諸々を購っている訳である。これはまさしく「人生」と「その意味」の交換に他ならない。
これは「言葉の意味」についても当てはまる。たとえば「この言葉の意味は?」といわれたとき、私たちは大体似たような意味の言葉を持ってきて説明する(辞書などをめくればこのあたりのことは一目瞭然である)。それは要するに、意味のわからない言葉Aは意味のわかる言葉Bと(完全に等しくとはいえないまでも)交換できるということである。
この二つの意味(言葉の意味というときの意味と人生の意味というときの意味)の意味の差異はここでは脇に置くとしても、ともあれここではある二つのものがあって、それらが互いに代置=交換可能であるという関係がある。しかしここでいう「等しい」とはなんの基準に照らした等しさなのか、それは計量可能なのかといわれると、私たちは返答に窮せざるを得ないだろう…。したがって意味という言葉が前提する交換関係は、矛盾するようだが、実はその本質的な交換不可能性(等置不可能性)、非対称性を露わにしている。
一方で価値というときにも交換関係が前提されていることは認められるのだが、この場合この二つの関係は計量可能である。たとえば経済的な語彙として「価値」という言葉を使う場合、それはただちに値段や費用対効果といった言葉を連想させるが、逆にこのような文脈で意味という言葉を使うことは稀である。したがって、たとえばある物Aは4000円分の価値を持っているなどということはおかしくないが、4000円分の意味を持っているというと途端に違和感が付きまとう。こういう文脈において意味には量的なニュアンスがないが、価値には量的なニュアンスがある、といえるのである。むろん、ここでいう価値というものにも深淵があり、実はそれは確固として自存するものではない、というのはすでに記号論貨幣論において述べられていることであるが、とはいえ価値という言葉を使う場面においては、多くの場合、この二物あるいはそれ以上のものたちのあいだの根本的な交換不可能性は問題となっていないのである。
この言葉の使い分けには、人間の、ある種の態度の違いのようなものが透けて見える。たとえば人間が自分の人生や、言葉といったものに直面した場合、そこにおいては、それらのものに等置できるものやその等置の基準自体がどこにもないということを直観しているのであって、それはある種の神秘との対面なのだ。このようにいったからといって、僕は人の生や言葉といったものを無闇に神秘化しているわけではない。あるものとあるものを交換するということを考えた時に、それらのものが神秘的に思えるような認識のモードに切り替わるかどうかの分水嶺は、たんに交換という問題について根本的な懐疑が兆すかどうかにある。したがって物の交換についてさえ、根本的にこの交換の根拠というものを疑ったならばその物の神秘性を考えざるを得ないのであるが、人はふだんはそんなふうにものごとを考えてみようとはしない。逆にいえば、人は、そんなふうに考えもしないものの価値ないし意味を語る時には価値という言葉を使い、そんなふうについ考えてしまうものの価値ないし意味を語る時には意味という言葉を使う。そしてそれはそのままある態度や感覚の表明という遂行的な言表行為でもあるのだ。
…ここでこの雑文の枕の話題について改めて蒸し返すならば、言葉の価値は示差的である、というのはやはりおかしい。それは言葉の意味ないし価値というものが僕の中で神秘的なものだからだし、量的なものでもないからだろう。しかし、今はこれ以上のことをちゃんと考えられるほど考えが徹底していないし、その徹底の仕方次第では、「やはりここは価値という言葉を使うべきだ」と考え直すことは十分にあり得る。ともあれここではその予備的考察を示すかたちで、この文章の違和感の正体のさらなる批判的検討については、宿題とすることにしようと思う。

変化について

ある認識に至って、分かってみればこんなことかとか、自分は今までこんなことすら分かっていなかったのか、という経験をすることはままあるが、先日もまた僕はそのような体験をした。

それはある問いについてひとつ文章を書こうとしていたときのことである。その問いとは「なぜ人は無限に向かいながら全体性に折り返すのか」という問いであり、ありていにいえばなぜ人は理想に向かい、それを実現する代わりに、理想に向かったことでむしろ新しい過ちを犯すのか、という問いであった。むろん過ちというからにはこれは倫理とか認識論に関わる問いなのであるが、これ自体はとりたてて新しい問いでもない。そしてある意味ではこの問いについては簡単に答えることができる。たとえば、人は疑問に思ったことに答えを与えようとするが、この答えを出したとして、それが正しいかどうかをメタ的に判断することができない。これについては「自分は全てを知っているか」という問いを考えてみればすぐにわかる。したがってこれはひとつには原理的な問題なのである(と断定的に語ること自体が、むろん原理的には不可能なのかもしれない)。
それでは、この不可知論的な問題を倫理的に転回するとどうなるかといえば、それはたとえば「相手のことを知る(理解する)ことができるかどうか」という問いにつながっていく。むろんこれも原理的にはできない。だが相手のことを理解できない(現実)にもかかわらず、理解していると思いたい(理想)がために、自分は相手のことを理解しているというふうに考えてしまうと、それは相手に自分の相手像を押し付けることになったり、思い込みで相手を扱うことになるだろう。それはどう考えても非倫理的な関係の仕方なのであり、だからこそ人と人は理解しあえないという前提を崩さないままに理解しあおうとする二重の態度が必要になる。繰り返すが、もし理想ではなく現実において人と人とが理解しあえると考えてしまったら、その瞬間から理想(人と人とは理解しあえるはずだ)は過ちを、少なくともその可能性を生みだすことになる。これが無限から全体性への折り返しと僕が言ったものの一つの実例である。
とはいえ僕はそのときはこの問題を別の観点から考えていた。これもまた倫理的な話にはなるのだが、それは人が倫理を目指し、そして最終的に自分を倫理的だと思いこむことがむしろ非倫理性を招き入れるという話である(まだるっこい場合は正義を振りかざすことの傲慢さについての話題と考えてもらってもいい)。この場合、ありていに言えば倫理は理想であり、倫理的たりえない自分のあり方は現実であるが、この思い込みがどこから起こるのかと考えると、倫理とナルシシズムの矛盾撞着的な関係について思いが至った。それは以下のようなものである。
たぶん、人にはまず原初的にナルシシズム、自己愛がある。それは端的に自分を愛する感情であるが、これについてはあまりちゃんと分析してはいないから、そういうものがあるとだけざっくばらんに仮定しておく。しかし一方で人は自分がどのような存在であるかに関係ない価値基準を持っている。たとえば美醜の判断がそうだ。美しいものは、自分がそれを憎たらしく思おうが、それが自分にとって不都合なものだろうが、ときにはそれを美しいと認めざるをえないものである。むろん、ごまかしや観念によってこの判断はいくらでも揺らがされうるのだが、ある程度はそれ自身の基準の独立性を保っている。
そしてそれは倫理的判断についてもそうだろう。自分がげんに倫理的であるかどうかの判断は、自己愛的な価値判断とはある程度独立しており、本質的に自己愛の原理に抵触する。なぜなら倫理的価値判断は基本的にエゴイズムを告発するからである。むろん、自己愛とエゴイズムを単純に同一視することはできないが、それについてはここでは保留させてもらう。すると、ともあれここに一種の悲劇があるということを指摘できるだろう。というのも、人間はふつう自己愛を持つと同時に、それと自己愛の価値基準から独立した価値基準において肯定的に判断されるものとを一致させようとするからである。なんのことかわからないという場合には、自己嫌悪のことを考えてもらえばいい。人はたとえ自分を愛していても、自分が醜ければそんな自分を愛することはできず、嫌悪すらするが、この嫌悪はまさしく自己愛と美意識の両方を前提とした嫌悪なのであって、自分を愛していなければ自分が醜いことに頓着などしないし、美醜の価値判断が自分のなかに存在しなければ、自分が美的にどうであろうとそんなことは御構いなしに自分を愛するのみであり、ここからは自分を愛するという判断と美醜の判断を一致させようとする人間の一般的な心理をみてとることができるだろう。そして自己愛と美意識の一致は、少なくとも器量の美においてはある程度可能となるのだが、自己愛と倫理意識の一致はそうはいかない。なぜならば、倫理は基本的にエゴイズムを告発するものなのにもかかわらず、倫理的でありたいという欲望は「自分が」倫理的でありたいという心理であり、この点において前提から撞着し躓いている欲望だからである。自分を倫理的だと思いたがる心理は、この矛盾撞着を認められないナルシシズムに端を発するか、あるいはそれそのものなのだろう。
さてこのような倫理とナルシシズムの撞着的癒着を考えると、自己保存欲とはなんなのかということに思い至らざるをえない。自己保存欲はたんに生物的であり、ある価値規範に自己のあり方を一致させようとする欲望は自己実現的、などと考えるのは簡単だが、そのように短絡的に片付けられるものだろうか。このようなことをつらつらと考えていたときに、ふと、人は本当に生きたいのだろうか、ということに思い至った。
これはふつう自明のことだと思われている。たとえば人が飯を食ったり寝たりしたいと思うのは生きるためだし、セックスをしたいというのは種の生存のためというふうに説明できる。しかしむろんそれは目的論的かつ倒錯的な仮説なのであって、ふつう人は生きるために飯を食おうなどとは思わず、端的に食べたいから食べ、食べること自体を楽しんでいる。そこに生などという観念が入り込む余地はなく、私たちは食べることで結果的に生きながらえているにすぎない。それはたまたま生にとって好都合だということでしかない。むろんそういう目的を持った無意識の狡智とでもいうものが人間を突き動かしているのかもしれないが、おそらくその狡智とて生存を絶対唯一の原理として動いているわけではなく、かなり場当たり的で無原理ないし多数原理的なものとしてあるのだろう。
こうして考えると、人の生はかなり多義的で変化に富んだものであり、ときにはその条件(ゲームのルール)自体が変わりうるものだ。たとえばふつう人は倫理、美といったような幾つかの価値判断規準を持ち合わせているが、こうしたものが根本的に変更を被ったり、ここになにか別の基準が追加されることで、人の生のあり方がまったく別のものになる可能性があるし、この可能性に人は現実的に開かれている。その変化のなかで社会もまたまったく違うものになりうる。というか昔の人間と今の人間の不可解なまでの違いがこの観点から説明できるかもしれない。これはほんとうに面白いしワクワクする考えだ。
しかしよく考えると、こういったことは生成変化とかいった言葉でよく語られているような出来事かもしれないし、ちょっと考えればすぐにわかりそうなことで、こう思った僕はこの発見の興奮を早々に手放してしまった。それにしてもこの認識に至ったときの僕の驚きたるやすごいもので、自分が散々こういうことを考えうる示唆を与えられていたのにこうしたことを考え得なかったことにもびっくりし、認識の内容それ自体にもびっくりした。しかし認識の新奇性のようなものはどうあれこの驚きは大切なものだと思うので、今後はこのことについてもちょっと考えていきたい、と思う。

「感情の運動」について

このまえTwitterをなんとはなしに眺めていたら、感情の運動という話題が流れてきたのだけれども、今回はそのことについて思ったことを備忘録がわりに書いておきたいと思う。このまえといっても一ヶ月ほどまえの話なのでリンクを貼れないのが残念だが、おそらくTogetterにまとめられている話だったように記憶しているから、気になった人は調べてみてほしい。逆にいえばこれから僕がおこなうその概要の紹介は記憶に基づくものなので、正確な情報ではないかもしれないということをあらかじめ断っておく。

さて、感情の運動という話題を語るに当たって、ここでは文脈を補うためにわかりやすい問題提起をしておこう。その問題提起とは、たとえば僕たちは人の身の上話(失恋話だとか…)に妙に食いついてしまうことがあるが、そしてその話を聞きながら心を動かされることに、心地よいものを感じてしまうことがあるが、これは倫理的にどうなのか、というものである。むろん、それを語る本人はいたって真剣で、その内容が失恋などであれば、おそらくは苦しみに耐えきれず、その思いを誰かに聞いてもらいたいと考えたがために、僕たちにその話を持ちかけたのではないかと思われる。しかし僕たちはそれをあたかも今流行りの「涙活」におけるメロドラマ鑑賞のごとく不謹慎に消費してはいまいか。こうしたことを批判する文脈で出てきたのが「感情の運動」という概念なのである。
僕が記憶しているところでは、この批判のあらましは、感情の運動不足と他人の身上話の涙活的消費を紐づけるものである。いわく、感情が運動不足な人は自身の感情の希薄さにうんざりし、なにか心を動かされるものを求める。そしてその好餌となるのが他人の身上話であり、彼らは親切に相談を引き受けたり、話を聞くふりをして、自分の感情の運動不足を補っているのである。だが、それはむろんそのことに苦しみ悩んでいる本人に寄り添っているのではなく、自己本位な動機に基づく行動なのだから、これは倫理的に批判されるべきであるーー。
こうした話を読みながら、なんとなく僕がこれと関連付けたのは、この意見に対する反対なり賛成なりではなく、感情を失ったオタクの問題であり、僕のコミュニケーション能力不足の問題だった。「感情を失ったオタク」というのは、いわゆる厨二病(中二病)のオタクの類型を指す言葉であり、彼らは自分自身に「感情がない」と思っている、あるいはそういうことで格好を付けている。要するにクールの美学の変種のようなものだと考えてもよい。
ただ、僕が思うに、彼らは本来は感情豊かであるはずなのに格好を付けて「感情がない」といっているのではない。彼らは事実そういう実感をもっているのではないかと思う。その根拠は僕自身の体験である。僕自身が感情を失ったオタクだったことはないが、感情がない、といいたくなるその感情の希薄さの感覚についてはなんとなく理解できるのである。それは僕が先にもうひとつあげた問題、つまり僕のコミュニケーション能力不足の問題にも通じる。
僕はよく他人の話に反応できないことがある。たとえば、「○○ってことがあったんだ!」と嬉しそうにいわれたとする。当然これに水を差すのはいいやり方ではないから、一緒に喜ぶなり、ちょっと喜び過ぎをからかうなりするのが良い手なのだろうが、そもそも僕はそうした手段をとっさに思いつけない。なぜかといえば、僕はだいたい他の人のいうことに強く共感しないし、ちょっとからかってやろうなどというユーモラスな発想というか悪戯心が希薄だからである。一番問題なのは前者で、なんにせよ物事に感情的に反応できない、反応が遅れる、というのは、会話にとっては致命的である。テンポが悪くなり、ぎくしゃくし、空気が悪くなる。しかしそれは自分にとってはどうしようもない。恐らく感情を失ったオタクたちも、ひとつにはこういう感情の希薄さあるいは遅延を指して「感情がない」といっているのではないだろうか(こういう感覚についてよくわからないという人は三島由紀夫の『金閣寺』を軽く読んでもらいたい。恐らく冒頭部で主人公がこれに似たことを「どもり」の問題として語っている)。
僕がこのことを「感情の運動」と結び付けたのは、まさしくこの感情の反応の希薄さと遅延が、感情の運動不足によって起こるからではないか、とメタフォリックに考えたからである。ようはそれは身体の比喩で考えれば、反射神経(反射神経なるものはないという話も聞くが)とか筋力がないという話なのである。しかしそうすると次に問題になるのは、それがなぜ起こるのかということだろう。どうして感情の運動不足なるものが起こるのか。
ここで改めて考えてみるべきなのは、反省とか自意識の問題であろう。フロイト風にいえば、ふつう人は快を求めるが、それでは現実に対応できないということに気づいて快さの実現を遅延させるようになる。これを反省-理性の働きとするならば、理性は最初は個々の感情に、次いで感情一般に対立するようになるだろう。正確にいえば、理性や反省を発動させるきっかけになる危機感などは、感情そのものへの背反という逆説的な権能を持つことになるし、この危機感が発動させた反省-理性はものごとを抽象一般化して考える機能を持つから、やがて警戒の対象を感情一般に広げてゆくことになるだろう。すると感情そのものがつねに警戒の対象になるから、こうした一般化を経た警戒感と反省-理性の協働を、どのような場面においても適用しようと心がける人間の心の作用は、感情の反応を遅延させる、いったんお預けにする習慣や、感情自体を抑圧する習慣をもつことになる。するとそのうち感情的な反応の能力が低下してしまう。このようにして考えてみると、なんとなく自分自身の実感にも沿う気がする。
しかし、僕は、あるいは感情を失ったオタクは、コミュニケーションの際、一体何を警戒しているのだろうか。これはおそらくだが大きく分けて二つあって、自分が他人にネガティヴな印象や評価(滑稽、失礼、無神経、馬鹿、ダサい、など…)を与えること、そして自分が他人を傷つけることである。つまり片方はナルシシズムから、もう片方は倫理からくる。しかしこの二つは淵源を異にするものなのであろうか。厨二病的なもの、ナルシシズム、倫理などは、もしかすると父権的で幼児的な万能感からくるヒロイズムに起因していたりはしないだろうか?
おりしもこれは僕が最近考えていることにも近づくのだが、これについては当分結論が出ないだろうから、ここでは疑問を提起するにとどめる。ともあれここらへんのことについて考えるときに重要な主題をもう二つほど提起してこの備忘録を締めくくろう。その二つとは、退屈と離人症という主題である。なにしろ僕たちは退屈な日常が続くと生の実感が持てなくなるものだし、その解決が実生活で叶わないならば、せめてたまには人の恋愛話を聞くなりメロドラマを観るなりして、気を紛らわしたい、と思うものなのだから。

「ツンデレ」の構造 ――ツンデレ美少女にかんする予備的考察

ツンデレっていいですよね。僕はとりわけ高坂桐乃が好きです。ツンデレのうえにクソガキなんて、最高ですよね。

なお、ツンデレ概念について一般的な知識がある方は、「00:イントロダクション」を最後の太字になっている「つまるところ〜」の箇所から読んでもらっても構いません(大部分が個人的な体験談と概念の紹介にあたるため)。

目次
00:イントロダクション
01:ツンデレアイロニー
02:ツンデレと素朴
03:ツンデレとかわいい

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00:イントロダクション

 個人的な話から始めよう。
 僕は中学生時代のひところ、昼飯をメロンパンと牛乳で済ませていた。お金がなかったわけではないし、ましてやダイエットをしていたわけでもない。ようするに、それはたんなるマイブームだったのである。
 では、そもそもメロンパンがマイブームになったきっかけはなんだったのか。すでにおわかりの方も多いかもしれないが、僕はその頃『灼眼のシャナ』というラノベに出てくるシャナというヒロインが大好きで、そのキャラの好物がメロンパンだったのである。
 え、どういうこと? と思われる方もいるだろう。確かに、なぜ好きな二次元美少女の好物がメロンパンだからという理由で、毎日メロンパンを食さなければならないのか、というところの、その必然性を問われると、僕自身にもいまいち因果関係が説明できない。が、それはとにかくそういうものだとして納得してもらうしかないのである。とにかく、僕がメロンパンを好んで食していたのは、「ラノベに出てくる好きなヒロインの好物だったから」なのだ。萌え豚とはそういうものなのである。
 さて、それでは、そんな影響を受けるほどシャナが好きだったのはなぜなのか。その理由の一つは、おそらく、シャナがいわゆる「ツンデレ」であり、僕がツンデレに萌える性質を持っていた(/持っている)からだ。ツンデレとは、キャラクターの特性を指す言葉であり、萌え属性の一つである。ツンデレのキャラは好意を寄せる人物に対して、いつもはツンツンしている(刺々しい)のに、ときおりデレっとする(胸に秘めた好意をのぞかせる)。そのギャップがたまらないのである。
 僕がこの文章を書こうと思ったのは、長年疑問に思っていた自分のこのような心理について、語るための材料が揃ってきたからにほかならない。なぜ人はツンデレに萌えるのか。それはどういう心理状態なのか。つまるところ、ツンデレとはなんなのか。本文章では、このことについて、予備的な考察をしてみようと思う。ツンデレのどこがいいのかわからないという方、ツンデレに萌える自分の気持ちが我ながら謎だという方は、是非とも読んでみてほしい。

 それでは、考察を始める前に、その全体の枠組みを示しておこう。
 ここでは、ツンデレの最大の特徴をギャップ萌えであると考え、「ギャップ」と「萌え」のつながりについて、三段階にわけて考える。まず、ギャップとは何か。次に、ギャップから萌えが生じる条件はなんなのか。最後に、この場合の萌えとは、どのような意味を持っているのか。これらの考察を順次おこなうかたちで、ツンデレの魅力に迫ってみようと思う。

01:ツンデレアイロニー

 ギャップとはなにか。それも、ツンデレがみせるギャップとはなんなのか。このことについて考えるために、ここではまずアイロニーについて考えてみよう。
 アイロニーという言葉には実に複雑な哲学的含意があり、それを説明しようとすると大変面倒なことになってしまう。そこでここでは、通常の意味でいうアイロニーすなわち「皮肉」についてのみ語ることにする。
 皮肉とは、ひらたくいえば、「何かをいうことで、文字通りの意味とは違う意味のことをほのめかす」ことである。たとえば、誰かが何かについてとても的外れなことをいったとして、それに皮肉で返すとする。すると、僕たちは次のようにいうことになるわけだ。

「なるほど、君は本当に賢いんだね」

 もしこの発言を字義通りの意味にとるならば、それは「君は賢い」という意味になるだろう。だが、もしこれを皮肉として受け取るならば、その意味は真逆になる。たとえばそれは、「君は賢くない」というようなものになるはずだ。むろん、僕たちが発言に含ませたのは後者のような意味であるが、それをどう受け取るかは相手次第ということになる。

 したがって、皮肉は、一面においては、卑怯なコミュニケーション行為でもある。たとえば相手が皮肉を皮肉だと理解して、それに怒り、僕たちを非難したとする。しかしそれはあくまでほのめかされたことに過ぎないのだから、僕たちは簡単に逃げを打つことができる。「そんなつもりで言ったんじゃないんだけどな」。事実、そんなつもりで言ったかどうか、本当のところは、相手にはわからない。少なくとも、僕たちの心のなかを覗くなりして、「ほら、やっぱりそう思っていたんじゃないか」なんて指摘することはできないのである。
 このような場面について考えるために、とりわけここで考慮しておくべきポイントは、二つある。一点目は、言葉内の意味と言葉外の意味の違いという点。二点目は、意味決定の覇権(ヘゲモニー)という点である。
 まず一点目について、具体的に考えてみよう。先ほどの例では、言葉内の意味(「君は賢い」)と言葉外の意味(「君は賢くない」)があべこべになっており、そのことによって皮肉が成立したのだった。しかし、これは皮肉をいうときに限った、特殊な話ではない。意味があべこべにはならずとも、言葉内の意味と言葉外の意味が違うということは、他のコミュニケーションにおいても、しょっちゅう起こっている。
 それではまず言葉内の意味と言葉外の意味が一致する場合を考えよう。たとえば先ほどの例で、僕が相手の言ったことに心底感心したとする。すると僕はこのようにいうはずだ。

「なるほど、君は本当に賢いんだね」

 先ほどと言葉内の意味は変わらない。しかし、言葉外の意味は変わる。僕は本当に彼を褒めているのだから、僕にとっては言葉内の意味と言葉外の意味は変わらない、ということになるのだ。
 それでは、今度は別の例を出そう。たとえば、僕と誰かが僕の部屋の中で喋っているとする。おりしも季節は八月、夏の盛りである。にもかかわらず、僕たちは冷房や扇風機をつけることもなく、窓を開けることもなく、だらだらと喋っている。
 しかし流石にたまりかねたのか、話の合間に、ふと相手がこう呟く。

「この部屋、暑いなぁ」

 さて、この場合の言葉外の意味はなんなのだろうか。おそらくこれは僕に窓を開けるなり、冷房や扇風機をつけるなり、冷たい飲み物でも持ってくるなりしてくれ、といっているのではないだろうか。むろん、彼ないし彼女はたんに感想をいったに過ぎないのかもしれない。だが、この言葉が「君がこの部屋の主なんだから、この暑さをなんとかしてくれ」という意味を含んでいる可能性は大いにある。あるいはそれは「君は気が利かないな」かもしれないし、「君は寒がりなの?」かもしれないのだが。
 ともあれ、このような例を踏まえると、言葉内の意味と言葉外の意味がお互いに異なるのは、なにも皮肉をいう場合だけではない、ということがわかるだろう。
 それでは、僕たちは、言葉外の意味をどこから読み取っているのか。それはたとえば身振りや、表情や、話の流れやその場の状況、そのようなものからである。
 ここまで考えたところで、次は二点目、意味決定の覇権について考えてみよう。意味決定の覇権とは、言葉の受け手がもつ権威のことである。
たとえば、コンビニでこういう受け答えをしたことはないだろうか。

「デザートにスプーンはお付けしますか?」
「いえ、結構です」

 実は、僕は、いつもこの受け答えをするときに悩まされる。というのは、この受け答えが、相手にとって失礼になるかもしれないからだ。むろん、「結構です」「要らないです」というのは、文字通りの(言葉内の)意味では問題がないように見えるし、言葉外の意味からいっても、敬語を使っているので、相手に対して失礼には当たらないように思われる。だが、慇懃無礼という言葉が示すように、たとえ言葉が敬語であっても礼を失する場合はあるのだし、「結構」「要らない」というのはかなり強い言葉だ。実際「お気遣いは結構」とか「そんなもの、要らない」みたいな使い方をするときには、相手に対して攻撃的な意味を持つ場合もある。したがって僕がよく使うのは「大丈夫です」という言葉である。しかし、この言い方は日本語としてなにか変ではないか? …買い物をするときにいちいちこんなことを考えている奇矯な人間も、世の中にはいるのである。
 とにかく、このような場合に僕が危惧していることをまとめると、それは、「自分のいったことが、自分が意図した意味とは別の意味に受け取られること」であるといえる。このとき、僕は、相手を恐れている。これが「意味決定の覇権」(=受け手の権威性)である。
 以上の議論から推して考えるに、皮肉とは、この関係を逆倒させる戦略である。皮肉屋はまず言葉の意味を建前(言葉内の意味)と本音(言葉外の意味)に分離する。そうしておいてから、意味決定の覇権を自分の側に手繰り寄せる。いわばかれらは受け手の側(言葉の意味を決める側)に回ってしまうのである。
かくのごとき戦略的行為は、人が口論をするときによくおこなわれる。たとえば、「そんなことはいってない」「そういう意味じゃない」。しかしながら、おたがいがこういうことを始めるとコミュニケーションが破綻するのは、多くの人がよく知るところである。コミュニケーションにおいて合意なしの意味などありえず、意味なしにコミュニケーションはありえない。
 それでもなぜ人はしばしばこのような権威の奪い合いをしたがるのかといえば、それはそういう生き物だからと答えるより他に仕方ない。そういう生き物というのは、相手より優位に立とうとする、少なくとも自分の威厳を保とうとする生き物、という程度の意味である。だから、たとえば相手に対する好意などというものを赤裸々にするのは、恥ずかしいことであったり、屈辱的なことであったりするのである。いいかえれば、それは、自分が話し手=好意を認めてもらう側に立たされることに他ならない。
 さて、ここまできて、ようやく僕たちは「あのセリフ」について考える段階に立ち至った。

「べ、べつにあんたのことなんか好きじゃないんだからねっ!?」

 このとき、この言葉内の意味は、「私はあなたのことが好きではない」であるが、言葉外の意味は「私はあなたのことが好きだ」である。ここでも言葉内の意味と言葉外の意味があべこべなのだ。しかし、この現象は皮肉と単純に等置できるものなのだろうか。

 皮肉においては、言葉内の意味と、言葉外の意味は、そしてその効果は、話し手側の意識下にあった。したがって皮肉家の優位性は確保されている。ところが、ツンデレ的言明においては、言葉外の意味は、伝えたくないのにもかかわらず伝わってしまっている。したがってそれはむしろ優位性の確保の失敗を意味する。
 実は、この観点から考えると、ツンデレ的言明のこのような特徴は、むしろ皮肉をいわれる側の状態に近い。たとえば的外れな発言に対して皮肉をいわれるとき、人は苛立つ。それはなぜなのかといえば、自分では良い発言をしたと思っていたのに、実際にはそうでなかったということを突きつけられ、しかもそのような「恥ずかしい」姿が、公然のものになってしまっていることを自覚するからだ。意識によって制御できなかったものが露出しているとき、そこにはその人間の素朴な姿があらわれてしまっている。ギャップとは、畢竟このようなものにほかならない。
 これは、ツンデレ以外のギャップ萌えや、あるいはギャップ萎えについても同様である。捨て猫を拾う不良(ギャップ萌えの例)や、猫を被った腹黒美少女(ギャップ萎え)などはこのようなパターンに属する。まぁ、個人的なことをいえば猫を被った腹黒美少女はむしろギャップ萌えの対象なのだが、この議論については脇に置くとして、ここではギャップについての結論が出たところで、いったん話を締めくくろう。

 ツンデレにおけるギャップとは、隠したいと思い、普段は隠しおおせているものの、制御できない露出である。

02:ツンデレと素朴

 さきほどは、ツンデレのギャップとはどのようなものなのか、ということを明らかにした。ここからは、ギャップから萌えが生じるのはなぜなのか、ということを考えてみよう。
 そのために、ここでは「素朴」ということを考えてみよう。この言葉は、先ほどの考察においても、一度だけ用いられたものである。「意識によって制御できなかったものが露出しているとき、そこにはその人間の素朴な姿があらわれてしまっている」。つまりある人間の素朴さとは、露出することによって見出されるものなのである。それをこういいかえてもいいだろう。すなわち、素朴とは意識の装いが剥ぎ取られたときに始めて見出されるものである、と。しかもそのようにして確かめられなければならないのは、好ましくない素朴さではなく、好ましい素朴さなのである。したがって、これまでの僕の用語法とは異なるが、素朴という言葉は、そもそも肯定的なニュアンスを帯びたものである。このような仮説から、ギャップと萌えをつなぐ条件を考える、これが本章のねらいである。
 たとえば、いわゆるイキリオタクと呼ばれる人種は、自分がイキっていることを自覚していないがゆえに、笑いの対象になる。ところでイキるというのは、一種の示威行動であり、また痛々しいものでもあるから、好ましいおこないではない。したがって、彼らのイキりは(偽装の試みであるとはいえ、同時に)好ましくない素朴さなのだ。だがこうした人種に対して、僕たちは懐疑を持つだろうか。すなわち、彼らは敢えてイキったふりをしているだけで、本当は僕たちに笑いを提供してくれていて、そうして笑っている僕たちを尻目に密かにほくそ笑んでいるのではないか、などという疑いを持つものであろうか。むろん、そのような疑いを持つことは稀だろう。なぜなら、人間はふつう、そんなことのために自分を悪く見せようなどとは考えないからである。
 だが、逆に、いつもニコニコしていて、善良で、優しい人間に対しては、僕たちは疑いを持ってしまうものではないだろうか。なぜなら、人間はふつう、自分を良く見せたり、好かれようとするものであり、そのためならば、たとえそうすることが苦痛であり、本意に反することであっても、自分を偽装することが往々にしてあるからである(人間にとって本意とはなにかということを考えだすと、それはそれで難しい話なのだが)。むろん、このような疑いを持たない場合には、突然そのことを突きつけられることもある。これがギャップ萎えであるが、それは要するに裏切られたという感情なのであり、裏切りとは、信頼の無根拠性=偽装の偏在的かつ潜在的な可能性の提示である(「奴は本心では何を思っているかわかったもんじゃない」)。したがって、それは素朴さというよりも、むしろ偽装可能性の露出なのだ。
 ともあれそのようなわけで、僕たちは、誰かのおこないが好ましくないときには、それを疑わず、誰かのおこないが好ましいときには、それを疑ってしまうという、哀れな性質をもっている。そして仮に好ましくない素朴さがまったく予期しないかたちで露呈したとしても、その素朴さは偽装可能性として、いわば素朴とは正反対のものとしてもたらされてしまう。しかし、露出した好ましさというのは偽装の及ぶところではないから、僕たちはこのような状態(ギャップ)によって、始めてその好ましさを信じうるのであり、これを素朴と呼ぶのだ。
 このことについて、哲学者のイマヌエル・カントは、ずばぬけて鋭く深い洞察を示している。

[…]素朴は、人間性にとってもともと自然的であるところの誠実が、すでに我々の第二の天性となった偽装の技術に対抗して発露したところのものである。我々はまだ自分を偽る術を知らない単純さをおかしがって笑うが、しかしまたそれと同時にかかる偽装の技術を挫折させる自然な単純さを喜びもするのである。[…]しかしこういうことはほんのちょっとのあいだしか現れない現象であり、やがて偽装の技術がまたしてもこれを蔽い隠してしまうのである、それだからこれを痛ましく思う同情の念、即ち優しいいたわりの感情が同時に交じることになる。そしてこの感動は遊びとして、かかる善意の笑いと極めてよく結びつき得るし、また実際にも結びつくのが普通である。
               ――イマヌエル・カント判断力批判
 むろん、人間にとって誠実さが自然的な天性であり、偽装が二義的な天性であるかはわからない。むしろ僕たちは、素朴を論じる際、ついついこのような優劣関係を立ててしまうことそのものに、素朴という言葉がそもそも含んでいる肯定的なニュアンスの力が示されていると考えるのがよいのかもしれない。といってもこれはドイツ語の訳であるから、日本語の素朴と完全に対応するものでもないが、少なくとも僕たちが素朴というとき、素朴には肯定的なニュアンスが含まれる、と考えることは妥当である。そんなわけで、僕が先ほど用いたようないいかた、つまり好ましい素朴とか、好ましくない素朴とかいういいかたは、片や同語反復であり、片や語義矛盾なのだ、とすらいえるのだ。
 さて、これをツンデレ的露出とつきあわせて考えてみるとどうなるか。ツンデレ的露出とは、明らかかつ好ましくない偽装なのか、それとも僕たちを人間不信に陥れる偽装可能性の露出なのか、それとも素朴(好ましい本性の露出ないし隠され露出することによる好ましさの本性化)なのか。前章でも述べたとおり、ツンデレ的露出は、このうち素朴にあてはまる。だとすれば、ギャップと萌えがつながる条件とは、素朴(素朴的状況)であり、この場合の萌えとは、ひとつには、そこから生じる種々の感情の織りなす交響だといえる。
 僕たちは、これらの感情を列挙するにあたり、カントの洞察を参考にしよう。すなわち、それらは善意の笑いと、歓喜と、優しいいたわりである。ツンデレとは、かくして、人間を信じ、愛しうるものにする状況の総体、またそれを発生させる性格ないし行動特性のことなのである。

03:ツンデレとかわいい

 これまで、僕は、ツンデレ萌えの構造について論じてきた。ここからは、このようなツンデレ萌えの心理の構造をさらに考えながらも、それが一体なにを意味しているのか、ということについても考えていきたい。
 そのためにも、もう一度ツンデレ萌えの構造をおさらいしておこう。
 ツンデレ萌えとは、まずもってギャップ萌えである。この場合のギャップとは、隠したいと思い、普段は隠しおおせているものの、制御できない露出である。そしてこのようなギャップによって露出するのは、当人の素朴さである。素朴さは、それを知覚した人に、善意の笑いと、歓喜と、優しいいたわりの感情を生じさせる。したがって、ギャップと萌えのあいだに橋をわたすのは素朴なのであり、上述の感情こそが、萌えの感情の、少なくとも一部をなすものなのである。
 だが、このような分析だけでは、いわゆる普通のギャップ萌えと、ツンデレ萌えとは区別されないことになる。そこで軽く触れておきたいのが、好ましさについての考察である。
 ツンデレ萌えの好ましさと、ギャップ萌えの好ましさは、どう違うのか。ここで再び不良と捨て猫の例を挙げよう。これはなぜかよく人口に膾炙しているネタなので知らない方はいないと思うが、一応説明しておこう。個人的な脚色は加えさせてもらうが、それはおおむね次のようなシチュエーションである。
 ある学校に不良の男子生徒がいた。同じ学校に通う自分は当然彼に良いイメージを持っていなかったのだが、そんなある雨の日の下校中、ふと彼の姿を見かけることがあった。よくみると、なんと彼は、道端にいる捨て猫(ないし捨て犬)を連れて帰ろうとしているではないか。しかもそれはどうやら、猫が雨ざらしになっているのを見かねての、純粋な善意からくるおこないらしい。それを見た自分は思わずほっこりした気分になり、その不良のことが以前よりも好きになってしまったのだった。――要するに、普段は悪そうな奴が良いことをしているとなんだかすごく良い奴に見えるという、ギャップ萌えの典型的なネタである。
 この場合、「自分」は、不良のどこに好ましさを感じているのだろうか。むろんそれは、不良の善意にである。いいかえれば、彼の行為は、善を好む「自分」の意に適うものだったのだ。悪い奴だと思っていた不良が実は善良な性質をも持ち合わせていることを知り、なんとなく親しみを抱く、このようなところにこそ、「不良と捨て猫」ネタからギャップ萌えが生じる契機がある。
 これをもう一段抽象化してみる。すると、こういえるだろう。ある価値基準(たとえば善-悪)があって、普段はその価値基準に照らして好ましくない存在が、実はその「本性」において好ましい存在だったことがわかる、そのことによって、彼と「自分」とのあいだに親しみが生まれる。それは不良との和解であり、価値を介した間接的な交流なのである。
 それでは、ツンデレ萌えの場合、なにが好ましいのか。それはおそらく「関係性」から生まれる好ましさなのであり、この関係性は、サディスティックな関係性と親近する。
 ここで僕は四方田犬彦の『「かわいい」論』という書物を挙げることにしよう。四方田は、ここで、かわいいという美的カテゴリーについて多角的な分析をおこなっているが、ツンデレ萌えのことを考えるうえでもっとも重要なのは、「「かわいい」言明のヘゲモニー性」とでもいうべき議論である。
 四方田は、人が対象に対して「かわいい」というとき、そこにヘゲモニー性(覇権)が前提されていることを指摘する。ひらたくいえば、何かを「かわいい」というとき、人はその何かより優越した立場にいる。
 ところで、「ツンデレアイロニー」の章で論じた、「意味決定の覇権性」の議論を覚えているだろうか。人は相手の言葉の意味を決定する立場に立ったとき、権威をもつ。すなわちそこでは、話し手と受け手が非対称な関係に立っているのである。この二つの議論はどこか似てはいまいか。
 これらの類似性を足がかりに、かわいい対象及びツンデレ美少女において考えてみよう。かわいい対象は、しばしば、か弱さや小ささを特徴とする。したがってそれは恐るるに足らないのであり、主体(「かわいい」という側)はかわいい対象に対して優位に立てるが、その優位性はまさにその言明(「なにこれかわいい!」)によって確かなものになるのだ。
 ところで、しばしば人は弱いものに対すると、ある両価感情を誘発される。それは、庇護欲とサディズム感情である。たとえば「食べちゃいたいくらいかわいい!」という言葉を思い出してみよう。それでも納得できないというならば、アンナ・カヴァンの『氷』を読んでみるといい。そこにはか弱い少女によって誘発される庇護欲とサディズム感情の、複雑な絡み合いが示されている。
 ツンデレ美少女は、ちょうど、このような立場に立たされる。かわいい対象と違って、ツンデレ美少女は、か弱い存在とは限らない。しかしツンデレ美少女は好意を寄せる登場人物との関係において、決定的な弱みを持っている。それはむろん、その登場人物に対する好意にほかならない。僕はコンビニ店員を意味を受け取る側として恐れるが、ツンデレ美少女は、ちょうどこのような構図で、自分の好意を受け取る相手を恐れる。したがって、このような関係において、当該登場人物は、ツンデレ美少女に対し、権威を持っている。ツンデレ美少女が登場人物に好意を持っていること、そしてその非対称性が微妙な駆け引きのなかで現れること、これが鑑賞者にとって好ましいことなのである。
 ツンデレ美少女は、ふだんはツンツンしている。ようするに、ツンデレ美少女はふだんは好意の所在を宙づりにしておくため、その態度は好ましかったり、好ましくなかったりし、鑑賞者は意味の混乱のなかで酔わされる。だが、彼女がデレるとき、そこでは偽装から素朴が、そして隠されていた好意が露出し、ツンデレ美少女は劣位におかれ、無防備になる。かくしてツンデレ美少女がデレるとき、鑑賞者はツンデレ美少女に好ましさを感じ、和解する。それはツンの不調和を得たのちの調和であるだけに、いっそう強く感じられる。
 最後に、これをカントの素朴論と結びつけてみよう。ツンデレ美少女のデレに思わずにやけたり微笑ましいと思うとき、それは善意の笑いなのだが、笑いはつねに対象に対する主体の優越性を前提する。また好意の確証を得たことによって好ましさを感じるとき、それは歓喜である。さいごに、ツンデレ美少女を愛おしく思う気持ちは、優しいいたわりであり、かわいい対象に対するあの庇護欲にも類似するかもしれない。しかし、ここにおいて示される結論は複雑である。ツンデレ萌えは対象を信じうるもの、愛しうるものとする。したがってそれは調和、または和解の感覚なのだけれども、その調和ないし和解は、ツンデレ美少女の無防備性を前提とする。そしてその感覚の隣接領域にはサディズムが横たわっている。
 かくてここには、愛や調和や官能の両義性が示されるのだ。それは喜ばしいもの、快いものとして描きだされる一方で、相手を劣位に置くものとして、あるいはサディズムに通じるもの、すなわち悪としても描きだされる。ツンデレ美少女とは、このエロスの両義性のなかでゆらぐ存在なのである。

 

 

東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』における憐れみと観光客の道徳性について

「憐れみ」とは何か? 『ゲンロン0』を読んで - うなぎのブログ

この記事に触発されてなんとなく僕も『ゲンロン0』についての個人的な見解の一部を書いてみようと思いました。たぶん僕の読み方の方はありきたりなものになると思うのですが、対照していただけると面白いのではないかと。読解の一助になればさいわいです。

 

※なお、本エッセイは東浩紀『ゲンロン0』と上記記事を読んだ方を対象としていますので、それぞれの内容について細かい説明はおこないません。ご了承ください。

 

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 『ゲンロン0』の論旨のまとめについては引用記事を作成した方が非常にわかりやすくまとめてくださっているので、ここでは割愛するとして、さっそく『ゲンロン0』における憐れみの分析をおこないたいと思います。


 ここでまず引いておきたいのは、引用記事のこの箇所です。

 

 先の憐れみをめぐるグローバリストとナショナリストの分断の事例とは、本来非意志であるところの憐れみという感情が、リベラルの「他者を憐れむべきだ」という命法の中に、言い換えれば意志の中に投げ込まれてしまったがために生じた事態であるように思える。
 この事例ではグローバリストが他者を憐れむことを意志し、直接に連帯することへと使用してしまったがために分断が起こった。しかし、観光客の哲学では憐れみはあくまでも誤配される。その誤配を通してこそ、人々は事後的に連帯することが可能になる。

 

 これは國分功一郎の『中動態の世界』を引き合いに出して憐れみの両義性について論じた箇所ですが、ここでの能動態-中動態の項と能動態-受動態の項の関係は、東の議論を経由する形で、カント哲学の構図に置き換えることもできるでしょう。
 東はしばしば「マクロな視点では数量化できるがミクロな視点ではかけがえのない個性を持っている存在」として人間を考える(二重の)視点について語ります。ここでいうマクロな視点というのは、たとえばビッグデータのような統計にあらわれる、ある指向性をもった運動として人間を捉える捉え方です。またミクロな視点でというのは、ようするに、僕たち一人一人の個人的な視点から見た人間を人間として捉える捉え方です。
 これをカント哲学の用語で置き換えれば、現象界の人間(マクロ視点の人間)と自由界の人間(ミクロ視点の人間)というふうにいえる。さらにこれは理論と実践の違いでもあります。人間は理論認識においては、所詮ある構造のなかで運命に従って動かされているに過ぎない(マクロ的人間観)。だが、人間はそれを嫌だと思い、構造にとらわれないで、自発的に、自由に生きたいとも考える(ミクロ的人間観)。カントはこうして人間の人間自身に対する矛盾する二つの人間観(理論的人間観と実践的人間観)を示します。
 さて、こういうふうなことをいわれると、ふつう、人は前者を後者に無理やりごまかして統合しようとするか、後者を幻想だとバカにしてシニシズムに陥る(いじけて高二病になる)でしょう。しかしカントは人間は理論的な現実(自由意志などない世界)のなかで、できるかぎり実践的に(自分を自由意志のある主体とみなして)生きるべきだと説きます。これは、道徳的な要求でもあります。なぜなら、自由意志がない世界では自分の行為は運命によって決まっているのだから、そこに責任は生じませんが、自分に自由意志があるとみなすと、その行為の原因は自分にあり、必然的にそこから責任が生じるからです。したがってカントにとって実践とは道徳のことなのです。
 ものすごく簡略化していえば、それはようするにこういうことです。「理想は実現できない=現実的なものではない。だが現実に生きながら理想を目指してしまう、その人間の性質は現実的である。したがって、人間は現実のみに拘泥してもいけないし、理想を実現できると考えてもいけない。人間は理想を実現できないことを肝に銘じながら、それでも現実のなかで理想を目指すべきである」。


 さて、以上の議論を踏まえて、ふたたび引用記事の議論を見てみることにします。まず、國分の能動態-中動態的人間観と能動態-受動態的人間観は、それぞれ強引に置き換えれば東のマクロ的人間観とミクロ的人間観につながる。そして東のマクロ的人間観とミクロ的人間観は、カントの理論的人間観と実践的人間観につながる。
さらにここから、カントの道徳哲学の文脈で、憐れみをとらえなおしてみたいと思います。
 カントの道徳哲学は、ふつう、合理的な道徳哲学に分類されます。合理的な道徳哲学とは、経験的な道徳哲学と相反するものですが、ここではまず経験的な道徳哲学の立場がどんなものかを説明したいと思います。
 経験的な道徳哲学とは、ひらたくいえば、道徳は時代や場所や文化、個人個人の価値観などによって変わると考える立場です。したがって、この立場において、普遍的な道徳などというものは存在しません。
 一方の合理的な道徳哲学とは、道徳に普遍性を求めようとする立場です。したがって、この立場においては、時代とか場所とか文化とか個人の価値観に関係なく、絶対的な道徳があるのだ、というふうに考えます。
 どちらも一歩間違えれば危険な考え方ではありますが、ともあれカントは後者の立場に立ちます。このような立場に立ったうえで、カントは、僕たちのおこないが常に普遍的といいうるような道徳性を持っているかどうかという検証を怠らないこと、このことをまず普遍的なきまり(根本法則)として定めます。ようするにそれは、普遍的道徳を目指すことを普遍的な道徳的態度としろ、すなわち「理想(普遍的道徳)は実現できないが、これを目指せ(つねに既成の道徳が本当に道徳的なのかどうか疑いつづけろ)」、このような考え方です。
 こういう考え方をしたカントが、道徳に感情は禁物と考えるのは無理もないことです。なぜなら、道徳はこの場合普遍的なものでなければならず、感情は気まぐれ(経験的)なものだからです。だから、カントにとって純粋な道徳とは非感情的なもの、いいかえれば、自分の感情とは関係なく行われなければならないものです。それはエゴイスティックな感情を克服するのが道徳なのだという単純な話ではありません。それは憐れみやその場の正義感に端を発する道徳行為についてもいえることだったりします。たとえば、浦沢直樹の漫画作品に『MONSTER』というものがありますが、この漫画の主人公は、医師として救った患者が後年殺人鬼になってしまうことに苦悩します。僕たちはしばしば人を職業意識や同情や正義感から助けますが、その結果が最終的にどう転ぶかはわからない。こういうことまで考えて徹底的に悩み、疑え、これがカントの立場です。


 とすると、憐れみを強調する東と道徳の非感情的な普遍性を強調するカントの立場は、このような観点においては、対立することになるのでしょうか。僕の考えでは、それは違います。もちろん二者の関係はまったく同じではないですが、少なくとも対立的ではないと考えます。


 このことを考える鍵は、カントの道徳哲学に存在するあるねじれにあります。そのねじれとは、尊敬の感情の考察に見られるねじれです。
 カントによれば、道徳は非感情的なものです。しかし、カントは同時に、人間は道徳的に生きようとしてしまう性質をもっている、ともいう。これは考えてみればおかしな話です。なぜなら、道徳的に生きようするという人間のあり方は、どう考えても感情的なものだからです。
 したがって、道徳の非感情性を主張したカントでさえも、道徳の基盤に感情を持ってこざるを得ないのです。その感情は、カントの語彙では、尊敬の感情とよばれます。ここでただちに疑問になるのは、尊敬というのは誰に対する尊敬なのか、ということですが、ここでの尊敬は人間には向けられていません。それはカントの言葉でいえば道徳的法則、ひらたくいえば普遍的な道徳に対する尊敬心なのです。
 カントによれば、人間は誰しも普遍的な道徳に対する尊敬心を持っています。しかし、それはやはりカントの道徳哲学では二次的な役割しか与えられません。それは道徳的であることをめざすきっかけにはなってよいが、あくまで道徳は最終的には義務(非感情的なもの)として遂行されなければならない、と、カントはこういうふうにいいます。
ようするに、カントにとって、尊敬の感情とは、経験的な道徳哲学と合理的な道徳哲学を架橋するねじれた橋なのです。
 このことを、憐れみの概念をふまえたアレンジをくわえて説明させてください。たとえば、僕があるところで困っている人に出会うとする。そしてその人に憐れみの感情をいだく。そうすると、それと同時的にかどうか、あるいは同時的というような言葉の表現がふさわしいかどうかはわかりませんが、ともあれ僕の心にはさまざまな感情とともに、道徳心(尊敬の感情)もまた去来するでしょう。すると、次に何が起こるか。この尊敬の感情は、まずは自分以外の感情に反抗し、次いで自分自身に反抗することになります。ここに他の感情と尊敬の感情の違いが認められます。つまり、他の感情はただ感情そのものでしかないのですが、尊敬の感情だけは感情そのものに反抗し、普遍的な道徳(非感情的な道徳)を指向する、例外的かつ反感情的な性質をもっている。すくなくともカントは尊敬の感情をこのように定義し、感情的な道徳が非感情的な道徳につながる契機をみる。いいかえれば、こうやって整理すれば、経験的な道徳哲学と合理的な道徳哲学は逆説的な仕方で架橋されうるし、それぞれの弱点が解消されるかもしれない。カントの道徳哲学は、こんなふうに考えるとよいと思うのです。

 

 ここまでの議論をふまえると、ひとまずナショナリストとリベラルの対立は、経験的な道徳(感情的な道徳)と合理的な道徳(非感情的な道徳)の対立というふうに整理し直すことができるでしょう。それでは、このような対立があちらこちらでおこっている世界において、観光客はどのような役目を果たすのでしょうか。
 観光客は、観光以前には、憐れみを基点とする経験的道徳の申し子であり、動物です。したがって、もし彼らが一つ所にとどまるならば、近くの人たちとは連帯できるが、遠くの人たちとは連帯できないかもしれない。しかし経験的な道徳は、外に対しては、容易に暴力に転化しうるものです。それは「みんな」に対しては適応されるが、「みんなの外」に対しては適応されないどころか、場合によっては外の連中を排斥し、傷つけ、極論殺すことすら正当化しうる。したがって、観光しない動物的人間は、容易に排外主義的ナショナリストになってしまうし、彼らはリベラルの「正しさ」(宮台真司の言葉を借りれば、正しいが気持ちよくないこと)に耳を貸そうとはしない(というより、普遍的正しさを押し付けているだけのリベラルは、本質的にこういった排外主義的ナショナリストと同じです)。
 しかし、それが観光に出かけ、そこで外の人々と触れたらどうなるか。そこにはもしかしたら共感や憐れみが生じてしまうでしょう。そうすると、観光客はいくつもの憐れみのあいだで引き裂かれることになる。彼らは素朴な経験的道徳主義にはとどまれなくなってしまうでしょう。
 ところで、この引き裂かれの経験は、カントがその批判哲学の方法論としても、道徳哲学の肝としても、もっとも重要視したものです。カントは普遍的道徳を目指すことを普遍的な道徳的態度とすることこそが、道徳だと考えた。それはようするに、いくつもの正しさのなかで迷い続け、悩み続け、疑い続けることそのものが、道徳的であるということです。しかしまずはそのような多面的な想像力を発動させるきっかけが必要になります。そこで重要になるのが移動(観光)です。
 東は『ゲンロン0』のなかでカントの『永遠平和のために』を引いていますが、この引用の意味は、このような文脈から考えるととてもわかりやすいと思います。カントにとって、道徳哲学は普遍的なもの、非感情的(理性的)なものでなければならなかったが、そのきっかけになるのは感情だった。その基本理論は『実践理性批判』や『判断力批判』における崇高論で論じられているが、その具体的な方法論は、『永遠平和のために』において提唱されている。これを現代的なプラットフォームのなかで具体的なかたちに落とし込もうとすると、観光産業が浮かびあがってくる。このようなつながりを想定して読んでみると、『ゲンロン0』における観光客概念の実践的な意味が考えやすいのではないでしょうか。