かんぼつの雑記帳

日々考えたこと、感じたことを気ままに投稿しています。更新は不定期ですがほぼ月一。詳しくはトップの記事をお読みください。

はじめてお越しの方へ

はじめまして。

当ブログ管理人のかんぼつといいます。

『かんぼつの雑記帳』へようこそ。

 

ここでは、はじめてこのブログをご覧になった方に向けて、このブログの読み方を案内しておきたいと思います。

 

ここには、おもに二種類の記事があります。

 

ひとつは、僕が僕自身のために書いた、メモがわりの記事。こちらは『メモ』というカテゴリーに記事分類されています。

 

もうひとつは、人に読んでもらうために書いた、ある程度内容のまとまった記事。こちらは『エッセイ』というカテゴリーに記事分類されています。

 

『メモ』には、もしかしたら見覚えのない言葉が書いてあったりして、不気味な怪文書じみたことがあるかもしれません。したがってこちらはあまりおすすめしません。

 

いっぽう『エッセイ』は、ある程度人が読むことを想定して書いていますので、『メモ』よりも内容が比較的まとまっていて、まともな文章です(あくまで比較的、ですが)。

 

そのようなわけで、管理人としては、まずは『エッセイ』のなかから、興味のあるものをお読みいただくことをお勧めします。

 

もちろん、これはあくまでガイドマップなので、どのように読むか(あるいは読まないか)は読み手であるあなたに一任します。

 

それでは、ご自由にお楽しみください。

 

かんぼつ

店長と「あれ」

ちょっと前まで、僕は飲食店でアルバイトをしていた。それなりに長い期間やっていて、そのあいだに店長も2度ほど代わった。

どの店長も全然違うタイプの人で、同じ店長といっても、やはり職種や役職で十把一絡げに括れはしないもんだなと、そう思った記憶がある。それぞれに個性的で印象には残っているのだが、最近よく思い出すのは最後の店長だ。

もちろん、最近までよく接していたのはその店長だから、そういう意味でこの店長のことをよく思い出すのは当たり前なのかもしれない。でも僕がこの店長を思い出すのは最近まで一番接していたからではなくて、この頃この店長と僕が似ているなぁと思うことが多いからである。まぁどちらかといえば悪い意味で。


僕がこの店長と最初に会ったのは、彼が赴任してきて数日経った日のことだ。その日はシフトに入っていたのだけれど、シフトの時間帯はちょうどかきいれどきで、僕は店長への挨拶もそこそこに持ち場に入った。多少失礼かなとは思ったのだけれど、まぁ放っておけばそのうち向こうが暇を見つけて挨拶してくるだろうと、ひとまずは目の前に山積みの仕事に集中することにしたのである。

ピーク中の飲食店の厨房というのは、まぁよそは知らないけれど、僕が働いていたところに限っていえば、秒単位で作業の優先順位が入れ替わる場所だ。たとえばサラダを盛り付けていても、揚げ物の注文がくれば、揚げ物は確実に揚げ時間を取られるから先に着手しなければならず、サラダ作りは中断させられる。何か仕込みがなくなればその都度食材を冷蔵庫からとってきて仕込み直さないといけなくなるが、そのあいだにも注文を捌かなければいけなかったり、それらをすべて途中でほっぽって、残数が減ってきた皿やお椀などの食器を、食器洗い場の洗い上がりカゴに取りに行かなければならないこともある。まぁそんなわけで基本的にピーク中は頭も手も空くタイミングがなく、僕は店長のことをすっかり忘れていた。

しかしそうして時間に追われたピークがようやく終わり、退勤時間になってみると、僕は店長にまだ挨拶をしていないことを思い出した。そんなこんなで制服から私服に着替えると、僕は社員がいつも詰めている事務室に向かった。

これは今までの経験上の話だが、通例この手の挨拶というのは、どちら側から声をかけるにせよ、一度始まれば店長側のペース。僕はちんぷんかんぷんなコミュ障学生だったから気の利いたことなんて何一ついえなかったけれど、向こうは大人だから、一通りの挨拶の定型は心得ているし、それに合わせて相槌を打つなり、それっぽい返事をしておけば今までは「あ、なんか顔合わせの挨拶をやったんだな」という実感が持てたのである。

ところが、この店長とのあいだには、そういうやりとりがまったく成立しなかった。僕が声をかけて名乗り、「よろしくお願いします」というと、店長は「よろしく」といったあと、こいつ何しにきたの? みたいな感じで僕をみるばかり。僕は僕でほかに言うこともないので、数瞬沈黙したのち、適当に言葉を濁して早々に辞去してしまった。

そのときの店長の印象は、もちろん良いとは言えなかった。いつも今までの店長たちとのあいだでは当然のように成立していた「なにか」、今までの店長たちがやってくれていた「あれ」がなかったからである。肩透かしを食らったというか、なんか違和感があるというか、とにかくこの人は変な人だなぁと思った。

とはいえ、べつに僕のなかで変な人という評価はそれのみではマイナスでもプラスでもないし、それにいざ付き合い始めてみるとこの店長は事務的な会話は徹底的に事務的でやりやすく、僕としては一緒に働きやすく、さっぱりしていて好きな部類だった。でも案の定ほかの人たちからは不興を買っていて、僕が今まで関わってきた店長のなかではいちばんバイトからの評判が悪かった。

僕は店長が好きだったけど、反面嫌う人たちの気持ちもわかった。とにかくあの店長はふつうの人とモードが違うのだ。ふつうなら出てくるはずの言葉が出てこないし、やりとりもどこかそっけなく、スパーンとしている。べつに不愛想なわけではなく、変に不機嫌になったりもしないけど、なんとなく人間味に欠けるというか、なんというか。しかしおそらく本人はそれに気づいていないし、下手すれば一生気づかないだろう。あの店長は、ふつうの人がやってくれる「あれ」をやらないし、おそらくはできない。今までの店長があたりまえのようにやっていた「あれ」を。


で、話は冒頭に戻る。僕はこのごろ社会人として、また新たな環境で、いろんな人とうまくやっていかなければならなくなった。でも僕は昔から人付き合いが苦手で、やっぱり他の人があたりまえのようにやれているコミュニケーションがとれない。おそらくそのことから生じる悩みは、職場に馴染むまで、そして社会人の作法を身につけるまで続くのだろう。そしておそらくはその後も続くのかもしれない。

いずれにせよ、僕が抱えているその問題は、上司からすればやはり僕の態度や言葉遣いの問題、らしい。たとえば僕の口癖や笑い方が人を馬鹿にしているようだとか。細かいことはもっといろいろ言われているが、ようするに細かな挙動やなんやがあいまって、僕は全体的に「感じの悪い」人間なのだろう。幸い根が悪いわけではない(おそらく)ということについてはその上司にも理解してもらえていると思うのだけど、印象の力というのは絶大だ。だからどうにか直したい。直したいのだけれど、やはり僕本人には自覚がなく、そういうふうに逐一いってもらわなければ直らないようなのだ。

この問題に直面するたびに、やはり僕はあの店長のことを思い出す。店長は言うべきことを言えない人だった。どこか人と振る舞いが違って、そのことで嫌われていた。「あれ」ができない人だった。もちろんそれを思い出したからといって、自分の自覚が深まるわけではまったくない。それはそうなんだけど、でも店長のことを思い出すと、まぁこういうおかしなやつはどこにだっていて、なかには店長なんていう大役をやりおおせてるやつもいるんだよなと、勇気付けられる気がするのである。

雑記06(倒錯とか、夢見りあむとか)

フロイトの有名な言葉に「倒錯は神経症の陰画である」というものがある。最近僕はなんとなくその言葉が気になり始めている。

 


一般的に倒錯というと色んなものがあるが、基本的にフロイトのいう倒錯には二つの特徴があるように思う(最近フロイトのテクストを読んでないのでうろ覚えだけど)。一つは、それが子供の欲望だということ。そしてもう一つは、それが生殖に結びつかないということだ。

もっとも、この二つはフロイトの理論では一つの特徴だといってしまっていいかもしれない。なぜなら子供とは、フロイトの理論においては、生殖とは関係ない性的な欲望をいっぱい持ってる存在のことだからだ。いいかえれば、生まれたばかりの嬰児は多形倒錯的。それが長じるにつれて、生殖に適応的な欲望を持つようになる。それは少し論理的飛躍があるように見えるけれども、人が幼児期の欲望を抑圧する=神経症的になることで、社会に適応していくということをも意味する。

 


だから、フロイトにとって、少なくとも性的な意味で倒錯的であるということは、生殖に適応的でないということを意味する。今こんなことを言えば大問題だが、同性愛もそうだし、アナルセックスやフェチなどもそこに入る。でもそれを必ずしも差別的な意味で受け取ることはない。たとえばその論理をひっくりかえせば、ふつう人は倒錯しているのであり、その観点から見れば、むしろ生殖に適応的な欲望を持つ大人、普通神経症者、社会的存在こそ無理をしている、倒錯的だ、とも言い得るからだ。

そしてこれは僕の考えでは、フロイトの有名な概念、つまり無意識とも関係の深い話である。僕らは無意識に、意識や、意識が作り出したふつうの人間観や社会通念では理解できない不思議な欲望をいっぱい抱えている。それはたとえば「人とは生命を保ち、繁殖することを目的とする存在である」というような人間理解を超えるものだ。

ともあれ、そういう人間理解、つまり神経症的な人間理解から見て、それはどうしても倒錯に映ってしまう。倒錯は神経症が抑圧したもの、それによって意識には理解しがたく、疎遠なものになったものを示す。倒錯は神経症の陰画というのは、こういう意味だと僕は思う。わからんけど。

 


ともあれ倒錯的な欲望というのは、基本的に非合理的に見えるものだ。そして僕が最近考えているのは、倒錯をこういう広い意味で考えることだ。倒錯はたんに生殖という目的に照らしておかしな欲望のことだけでなく、任意の目的に照らしておかしな欲望のことも示し得る概念だ、と考える。そうすると、いろんなことを考えるいいきっかけというか、ひとつの参照項ができるんじゃないかと思うわけである。

 


たとえば、別のところでざっくり述べた夢見りあむ問題。また、人はなぜ病気や病人を、合理的な理解を超えてなお美学的に嗜好するのかという問題。このあたりのことを細かく考えていくと、ニーチェとかハイデガーが考えようとしていたことや、カントの崇高をどう捉えるかということ、フロイトのプロブレマティックな概念である死の欲動をどう扱うかということについても、さまざまなヒントが得られるのではないか。最近はそんな風にまったりのんびりと倒錯について考えている。

三日月・オーガスのこと:「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」第1期(第1話~第25話)レビュー

0,はじめに

先日「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」(以下「鉄血」)というアニメの一期を見ました。ニコ動などでは二期の内容がよくネタにされていたり、一期と二期で評判が正反対だったりと、なにかと話題に事欠かないこのアニメ。以前から気にかけており、いつか見ようと思っていたところ、友人から一緒に見ようと誘われ、ようやく見始めたという次第です。


本作の舞台は、「厄祭戦」と呼ばれる壊滅的な戦争からかなりの時を経て、人々が戦前までのロストテクノロジーを利用しながら生きている時代。物語は、地球の「経済圏」のひとつに植民地支配されている火星の独立を目指す運動家クーデリア・藍那・バーンスタイン嬢が、同じく火星はクリュセの、CGSという民間警備会社を訪れるところから始まります。


このCGSには、三日月・オーガスオルガ・イツカをはじめとする孤児たちやヒューマンデブリと呼ばれる安価な労働力として人身売買された子供たちが寄り集まり、大人たちによる酷使と虐待に苦しんでいました。彼らは労働のために身体改造を余儀なくされ、体内にさまざまな機械を動かすための「阿頼耶識システム」を埋め込まれた存在。この世界では身体改造は禁忌とされているため、彼らはまた差別と嫌悪の対象にもされています。


1話では、そんなクーデリアと彼らのもとに、人類社会の秩序維持のために活動する組織「ギャラルホルン」が襲撃を仕掛けてくる様子が描かれます。その目的は火星独立運動によってギャラルホルンの権威を脅かすクーデリアを、不慮の事故に見せかけて暗殺すること。襲撃を受けた三日月たちは、CGSの兵器と、ながらくCGS施設の電源に使われていたモビルスーツガンダムバルバトス」を駆使して、このギャラルホルンに対抗します。


一期全体の筋書きは、そんなこんなでギャラルホルンの部隊を追い返し、CGS内でクーデターを起こして「鉄華団」を旗揚げした三日月らが、クーデリアを地球に護送するという任務のために奔走するというものです。彼らの旅の道中では企業の搾取による労働者の貧困やギャラルホルン内部の腐敗を象徴する虐殺事件や内政干渉など、この社会の持つ様々なひずみが描かれています。

1,三日月・オーガスはなぜ魅力的なのか①

今回、僕がこの作品についてここで備忘録がわり書いておきたいのは、この作品における重要キャラクターの1人、三日月・オーガス(以下「ミカ」)のことについてです。


他にもたくさんの魅力的な登場人物や、語るべき要素のあるこの作品のなかで、なぜミカに注目するのか。それは、ミカが並み居るキャラクターたちの中でとりわけ魅力的だからというのもさることながら、一番には、彼がこの作品における鉄華団の在り方を象徴するようなキャラクターだからです。


まず、ミカがどんな人物かということについての僕の解釈ですが、第一印象は「サイコ」でした。たとえば、彼は敵に対して情け容赦がなく、殺す際にも一切の同情や躊躇、その他その行為の重みに対するリアクションがありません。それを象徴するシーンやセリフはいくつもあるのですが、有名なものでいえば「ま、いいか、こいつは死んでいいやつだから」とかでしょうか。


でも、よくよくミカという人物を見ていくと、決して彼がサイコなわけではない、少なくとも一辺倒ではないことがわかります。鉄華団の面々のことをとても大切に思っていることがわかるし、その意味での優しさもちゃんと持ち合わせている。彼らが窮地に陥ったときなど、ふだん戦闘中には敵に対して冷淡で乾いた反応しか返さない彼が、怒りを露わにする場面も見受けられます。


そんなわけで、いっけん相異なる二つの側面を持つように見受けられるミカですが、僕はそれはミカのなかでは矛盾していないと考えています。ミカはおそらく自分の身内だと思った人たちには情が厚いが、そのほかの人間については冷淡で、敵ともなれば容赦をしない。そういうふうに、味方と敵とでかなりはっきりと態度を変えるタイプなのでしょう。

 

で、このキャラクター造形についての僕の感想なのですが、とても面白いと思っています。それはなぜかというと、ふつうこの手の話では、主人公格のエースパイロットは殺人行為に葛藤するのが定石のように思われるからです。だいたい主人公は思いやりや同情心が強く、それゆえにしばしばその範囲が敵にまで及んでしまう。そのため、自分がやっていることに罪悪感を覚えて苦しんだり、相手の死を痛ましく思ったりする。


そういう意味では、ミカは完全にこういうキャラクター類型のアンチテーゼのような存在です。その同情の範囲は、味方にしか及ばないからです。だから彼には殺人への葛藤がない。


この作品のもっとも興味深いところは、そんなキャラクターが主人公格に配された物語が、にもかかわらずとても(鉄華団側に)感情移入できるように、また「いいぞもっとやれ」となるように作られているところです。ふつう、こんな設定を持ったキャラクターはヒールになるのですが、そうではない。むしろそんな酷い奴なのに、ミカは受け手にとって魅力的に映る。


とはいえ、もちろん、ヒール的な要素を持ったキャラクターが魅力的に映るというのは、べつだん珍しいことではありません。悪には悪のかっこよさや魅力があって、それは優しさとか正義の心みたいなものを持つキャラクターの魅力とは全く違うものとして成立しうるからです。


でも、ミカの魅力は、そういう悪の魅力というのとも違う気がする。少なくとも僕はそのように感じました。だから、鉄血を見ながら、ずっとミカの魅力はどこにあるんだろう、ということについて考えていました。いいかえれば、ミカの魅力とはなんなのか、それはどこでなぜ生じているのか、そしてその魅力はどのような意味を持つのか、こういうことについて考えていたわけです。


僕がさっき「彼がこの作品における鉄華団の在り方を象徴するようなキャラクター」ということを言ったのは、こういう問いについて考えた結果、ミカというキャラクターをそのように特徴付けることができると思ったからです。

2,三日月・オーガスはなぜ魅力的なのか②−−痛快さ

ミカの魅力ってなんなんだろう。これを一言で言い表そうとしたとき、まず僕が思い浮かべたのはその発言や行動の「痛快さ」でした。その痛快さは、彼が戦闘中、おもに敵と通信しているときなどに感じることができます。しかもその痛快さは笑える痛快さなのです。


実際、先述したように、僕は今回この作品を友人たちと一緒に見たわけですが、そのときに僕が経験したのは、ミカがその手の言動行動をとるたびに、全員が一様に笑ってしまう、という現象でした。そして友人たちがどうだったかはともかく、その笑いが生じたときの自分の気持ちを考えてみると、やはりそれはたぶんに痛快さから生じたもののようなのです。


では、それはいったいどんな種類の痛快さなのか。僕が思うに、これは相手にとって価値があると思っていることを、端的に無価値だと即断して切り捨てることの痛快さです。といってもこれだけだとなんの話なのかわからないと思うので、具体例を挙げてみたいと思います。

(※以下ネタバレ注意)

たとえば、23話「最後の嘘」の後半シーン。
一応このエピソードの文脈を説明しておくと、この時点で鉄華団は無事地球にたどり着き、あとはクーデリアとともに、火星独立運動の鍵を握る大物政治家とともに経済圏の1つ「アーブラウ」の議事堂に向かうだけ、というところまできています。しかし、大気圏突入の際、彼らを阻んだギャラルホルンの部隊に恨みを買ってしまったため、彼らはまたしてもその部隊のモビルスーツ3機に足止めを喰らいます。


このとき、この部隊の隊長をしているのが、カルタ・イシューという女性。実は彼女はギャラルホルン創設に関わった「セブンスターズ」の一翼を担う名家の娘で、並々ならぬプライドを持っています。そんな彼女にとって、テリトリーだった地球外円部を突破されたことは強い屈辱であると同時に、家の名に泥を塗ることにもなる失態でした。そのため、今エピソードでの鉄華団との戦いは、彼女にとって自尊心を回復し、家の名に泥を塗ってしまったその汚名を雪ぐためのチャンスだったのです(実はこれに加えてここにはマクギリス・ファリドという人物への彼女の恋愛感情も絡んでくるのですが、これについては説明を省きます)。


そこで、彼女はまず鉄華団に対して、モビルスーツ3機同士による決闘を申し込みます(注を付しておくと、この世界には一応そういうルールに則った戦いで雌雄を決するという慣習が存在しています。ただこれはかなり昔からの伝統的な慣習なので、この時代には半ば形骸化しており、あまり頻繁にはおこなわれないもののようです。鉄血一期ではこれより前に一回だけこの方式による戦闘が行われました)。彼女がなぜ通常の戦闘ではなく、こんな方式の戦いでの決着を望んだのかというと、それはおそらく彼女にとってこの戦いが自らの名誉を回復するための戦いだったからです。それは後ろ指をさされるいわれのない、お互いの矜持を賭けた正々堂々とした戦いでなければいけなかったのでしょう。


しかし、ここでミカは驚くべき行動をとります。彼女の要求を最後まで聞かず、いきなり強襲を仕掛けるのです。実はここには、カルタに鉄華団の中枢メンバーを殺されたという個人的な怒りもあったのですが、それを考慮に入れても、この行動はいかにもミカらしい行動であり、鉄華団らしい行動であるとも言えます。彼はカルタが重んじる矜持や形式などどうでもいいと考えている。相手にとって価値があると考えているもの、また彼らがそれを重んじていることそのものについて、ミカはまったく顧慮しない。そしてそんな彼の行動にはやはり痛快さがあります。

3,三日月・オーガスはなぜ魅力的なのか③−−ガエリオへの怒りから

そんなこんなで、ミカの魅力とはなんなのか、それはどこで生じているのかについては答えが出ました。ミカの魅力とは、相手にとって価値があると思っていることを、彼が端的に無価値だと即断して切り捨てることの痛快さにあります。そしてそれは、そのような価値観を携えて彼に向かってくる敵との戦闘場面において、彼がとる言動行動によって生じる。ひとまずこういえそうです。


それでは、なぜその痛快さは魅力的なのか。これが僕にとっては一番の謎でした。


しかし、なんとなく物語が後半にいくにつれて、僕は徐々にその理由がわかるようになってきました。そのきっかけは、後半部で何人かのキャラクターに対して僕が抱かされた怒りにあります。


たとえば、先ほど言及したカルタやマクギリスの幼馴染で、おなじくセブンスターズの家の出であるガエリオという男がいます。彼は物語序盤からマクギリスとともにギャラルホルンの一員として登場しますが、この男はその頃から不快なキャラクターでした。たとえばギャラルホルン鉄華団と明確に敵対関係に入る前、彼は一度マクギリスとともに火星を訪れ、そこでミカたちと出会っています。そのときから彼は、ミカの脊髄の不自然な盛り上がり、つまり阿頼耶識システムの施術の痕跡をあからさまに嫌悪していました。身体改造された者に対する差別意識の表れです。


ガエリオはほかにもことあるごとに鉄華団の面々を宇宙ネズミという蔑称で呼びならわしたりと、いけすかないところのあるキャラクターですが、そのいけすかなさが一層際立つのは、彼が部下や友人に対して篤い友情を示したり、自分の戦いを正しいと信じているところが描写されているときです。彼がもっともらしいことや高潔な理想なり思いなりを吐露するたびに、こちらとしては、差別意識を丸出しにして鉄華団の面々を扱ってきたくせになぁと思ってしまうわけです。


こうしたキャラクターの差別意識や欺瞞に対する怒り。そして、そういったキャラクターたちに虐げられている孤児たちやヒューマンデブリに対する強い感情移入。この二つの気持ちは、後半になるにつれてますます強まっていくことになります。そしてその自分の怒りと感情移入を自覚するなかで、僕は、自分が今までミカに対して抱いてきた痛快さとは、こういういけすかないキャラクターたちが重んじるものや価値に対して、彼が孤児としての、虐げられてきたものとしてのリアリティを突きつけるところにこそあるのではないかと気づきました。

4,三日月・オーガスはなぜ魅力的なのか④−−ミカのリアル

ミカにとって、この作品世界はどんなふうに映っているのか。それはおそらく、かなりシンプルな世界なのではないかと思います。弱いものが虐げられ、強いものが虐げる。強くなれば生きていけるが、弱いままだと奪われ、利用され、絞り尽くされて殺される。だから彼にとってカルタやガエリオその他のキャラクターの主張や価値観には興味がない。彼らが敵か味方か、どちらが強いのかが大事なのであって、その他のことを理解するのに手間をかけても意味がないと思っている。なぜならミカにとって、あらゆることの白黒は端的な暴力によって、どちらが強いかによって決まるからです。


そういう意味で、彼には理念もない。つまり世界をよりよくしようとか、誰もが幸せに暮らせるようにしよう、といった、ある種の普遍的なものの考え方がない。彼にとってリアルなのは、自分の身の回りにいる者たちだけです。敵対してくる者にも大切なものがあり、またその人を大切に思う人がいるかもしれない、というような想像力がなく、そこに関心もない。いまここにいるみんなだけが身近でリアルで大切だ。そういう発想が根底にある。


ここには二つの強いリアルがあります。弱肉強食というリアルと、身近な人以外人は愛せないというリアル。ミカはそういうリアルなものしか信じられないキャラクターなのであり、彼がそうなった理由としては、彼の生来の性質もさることながら、出自も大きいように思われます。


ともあれ、こういうミカのリアルを奉じる世界観から出てくる言動行動、その身も蓋もなさは、結果として敵対してくるキャラクターの欺瞞を暴き出したり、甘さを指弾したり、権威を滑稽化したりするような効果を持つ。つまり敵の視点に映るものの意味を彼の視点からひっくり返してしまう。これがミカの魅力(その言動行動の痛快さ)の正体なのではないかと思うわけです。

5,おわりに

最後に残ったのは、その魅力はどのような意味を持つのかという問いですが、これはこれから二期を見るにあたって、僕にとってとても重要な意味をもつ問いなのではないかという気がしています。それというのも、この問いについて考えていくと、結局鉄華団の在り方を肯定していいのかどうかということに繋がっていくからです。


これまで僕はミカのこの魅力を「相手にとって価値があると思っていることを、彼が端的に無価値だと即断して切り捨てることの痛快さ」にあるとして、それは結局視点のひっくり返しの痛快さなのだと言いました。そしてそこにはやはり受け手の怒りが前提されているわけで、だからこそミカがなにか言ったりやったりすると「よくぞ言ってくれた/やってくれた」という気持ちにもなる。


それではその怒りはどこからきたものなのか。もちろんこれは、ひとつには、鉄華団の面々に対する感情移入からくるものでしょう。彼らは理不尽な目に遭ってきたのだから、これ以上そんな目に遭うのは許せない。そう思うのは自然なことです。


だからそれはそれとして、そう思うのはいいのですが、問題は、そこで鉄華団の在り方に同調し過ぎることです。鉄華団の価値観は、基本的にミカの価値観と近いように見受けられます。そしてその説でいくと、鉄華団の基本的な発想は、弱肉強食、身近なものだけを愛する、というものです。それは確かにリアルなのですが、理念とか普遍性を持っていません。だから彼らに全面的に感情移入し、それでよしと割り切ってしまうと、それでは彼らの奪った命や、奪ったものについてはどうなるの? ということになる。あるいはそれじゃ結局不毛な循環を繰り返しているだけじゃないか、という気分になる(べつにそれでもいいという考え方もあると思いますが)。つまりここにはどうしても、ミカ的な主人公類型と旧来の主人公類型(できれば敵も殺したくない主人公)それぞれの是非についての問題が回帰してしまう。


またこれは、受け手がコンテンツとどう向き合えばいいかという問題にも派生していくように思えます。つまりそれは、受け手にまず怒りを抱かせ、ついでそこから生じる復讐心を満たしてあげることでカタルシスを得させるというタイプのコンテンツを許容していいかどうかという問題や、キャラクターの葛藤は要るかどうか問題と繋がるような気がします。僕は個人的にはそういうタイプのコンテンツを許容しませんし、キャラクターは葛藤した方がいいと思う。でも、それはそれとしてミカの在り方が魅力的なのも事実で、それを倫理的な立場からのみ断じてしまうのも、コンテンツの可能性を狭めてしまう気がする(少なくとも鉄血は前者には当てはまらないと思いますが…)。


このあたりのことを、二期では扱うのかどうか。もし扱うとしたら、それはどのように扱われるのか。今のところの僕の予想では、それはおそらく鉄華団やミカの変化(あるいは変わらなさ)の描写を通して、扱われるのではないかという気がしています。そのうえで、彼らがどういう運命のなかで、どういう考え方の元に、どういう選択をしていくのか。それをしっかり見届けたいと思います。

オタ活まとめ02(2019年冬クール)

 去年の末に書いたオタ活まとめの第二弾です。とはいえ、前回は一年単位で鑑賞した作品を振り返るということを試みたのですが、この区切り方だと年のはじめのころに見たものほど展開を忘れていたり思いが薄れていたりであんまり語れないという問題が発生したので、これからはできるかぎりアニメでいう1クール単位で感想をまとめていこうと思います。

 基本的に自分用の備忘録ですが、これからなにか新しい作品に出会いたいな、と思っている人も、参考にしていただけると。
 以下、おしながきです。

 

 

◯2019年冬アニメ

ガーリーエアフォース


 友人のすすめで見てみたら一度も見たことがないはずなのに懐かしさすら覚えたという、古き良きTHE・ラノベ原作アニメでした。
 このアニメはとにかくキャラデザと声優の声が良いのでヒロインがめっちゃかわいいです。とくにメインヒロインであるグリペンと終盤の展開で重要な役割を担うライノが僕の好みで、展開そっちのけで萌え豚していた感があります。あとこのアニメで森嶋優花グリペンのCV)と白石涼子(ライノのCV)という固有名詞を覚えました。白石さんはだいぶベテランの方らしいのですが、声優に詳しくなくて…。
 あと、今作のみどころは個人的には終盤の展開です。もともとこの作品は正体不明の敵(戦闘機)に対抗するために、軍がその敵を撃墜した際に回収した部品を転用して作り上げた兵器の戦いを描くもので、その兵器としてグリペンやライノらヒロインが存在するわけなのですが、彼女らはいわば、どんな仕組みで成り立っているのか十全に把握していない、しかも敵のテクノロジーを転用した兵器なのですから、どんなイレギュラーな行動を起こすかもわからない。終盤の展開はそういった彼女らの「不気味さ」を描いたものです。
 ところで、正体不明の不気味な敵と人類との戦いを描く思弁的なハードSFといえば、、、そう! 神林長平先生の『戦闘妖精・雪風』シリーズですね! 実は高校生から大学生の時期にかけて神林SFにどちゃくそハマっていた時期がありまして、その並み居る名作たちのなかでも本シリーズは一、二を争うほど大好きなシリーズだったりします。
 それで話を元に戻すと、僕の推測では、この原作者、アニメ版の終盤にあたる箇所を執筆するにあたっては、この『戦闘妖精・雪風』シリーズの影響をめっちゃ受けているのではないかと思うんですよ。
で、同じくあれにガツンとやられた身からすると、(こういうことをいうのはおこがましいかもしれませんが)こういうことやりたくなる気持ちってとってもわかる気がするし、いいぞ! もっとやれ! ってなるわけですね。
 ガーリーエアフォースの終盤は雪風っぽくていいぞって話でした。

ケムリクサ

 いわずとしれたたつき監督のオリジナル新作アニメーション。どうやらこの作品とけ○フレ二期をめぐってはSNS上でいろいろ醜いやりとりがあったようですが、もう僕はそんな悲しい現実には煩わされたくないので、その手のメタな話は封印して、コンテンツの内容についてのみ話したいと思います。
 たつき監督の某前作の魅力は綺麗なストーリー構成と、散りばめられた謎、それからロードムービー的というか、旅をモチーフにしているということと、ポスト・アポカリプス的な世界観、ということになるのかもしれませんが、僕が今回ケムリクサを見続けてしまったのも、やはりこれらの要素が揃っていたからなのではないかというふうに思います。それにくわえ、今回は恋愛要素もあったため、ラブコメ大好きおじさん(僕)にはご褒美だったということがある。
 ただ、やはり尺の計算が足りなかったのか、少し最終話は走り気味で、アクションの作画などもところどころ雑だったような。これはどうしても放映の制約上仕方ないのかもしれませんが、最終話だけもう少し延長するとか、もう一話分余裕を設けるとかいうことをやってもよかったのかな、という気がします。

荒野のコトブキ飛行隊

 途中で見るのをやめてしまいましたが、音と空戦と会話劇がよかったので見始めた、という感じでした。左さんは好きなイラストレータさんなのですが、今回のキャラ原は個人的に好みではありませんでした。

盾の勇者の成り上がり

 冒頭のガバガバさはともかく、たぶん最初はいちばん楽しく見ていたし、「理不尽な目に遭い人間不信になった主人公が頑張って成り上がり自分を陥れたものたちを見返す」というコンセプト・面白ポイントが明確だったため安心して見ていたのですが、ところどころ見返す相手に対して与えられるしっぺ返しが手酷く、途中から「そういうことじゃないんだよなぁ…」となってあえなく途中で切ってしまったアニメでした。どんなに主人公と敵対するキャラクターが胸糞悪くても、それを徹底的に叩きのめしてひどい目に合わせるようなコンテンツって好きになれないんですよね。。。
 とはいえ、これは最後まで見ての感想ではないので、評価は保留です。

転生したらスライムだった件


 これも盾の勇者と同じくなろう系の異世界転生ものですが、こちらも結構面白かったです。主人公が転生前に願ったことがユニークスキルとして転生後に反映され、その結果めっちゃ強いスライムになってしまったみたいな話で、主人公が多種族のモンスターを味方に引き入れて勢力をどんどん拡大しつつ、自分自身も強くなっていくのが見ていて気持ちいい。ひたすら拡大していくというか、ひたすら上昇していくというか、そういう面白さ。
 難点をあげるとすれば、周囲のキャラクターが主人公にとって都合よすぎるところでしょうか。主人公に親を殺されたのにすぐに彼に懐いてしまう狼の魔物とか…ただここらへんの文句を言ってるとキリがなくなるし、彼の件については「まぁ人と魔物の感覚はまた違うだろうしな…」ぐらいに考えて、ある程度目をつぶっていました。

◯その他アニメ

銀河英雄伝説(新アニメ版)


 友人が好きなアニメで、勧められたので「じゃあ鑑賞会するか」って感じで突発的に一緒に見たアニメでした。
 全話見てまず思ったのは、作画が安定していたとか、過去エピソードがどっしりしていたとか、両雄の見せ場があったとか、社会情勢の描写が細かいとか、とにかくいろいろひっくるめて「ちゃんとした」アニメだったな、というものでした。またヤンもラインハルトもきちんと対照され、書き分けられていて、それぞれの魅力や陰影があったのもよかったです。とりあえず本作を見た限りでは僕はヤン派なのですが、それもヤンのほうが比較的描写の比重が多く、そのぶん複雑な陰影というか、立体感をもったキャラクターだったからというのがありますね。テンプレートな発言をしないというか、すごく彼独自の価値観に基づいてしゃべっている感じがあったのがよかった。
 それから、本作はちょっと僕のなかで転機になった作品でもありました。というのは、もともと僕はスペースオペラとか、戦記物とか、とにかく社会情勢やら、戦線の情勢やら、キャラクターたちの人間模様やらが複雑に入り混じる壮大でシリアスな物語についていけないところがあったのですが、本作を見てから、むしろそういうものを積極的に読んだり見たりしたいなと思うようになったからです。それでやはり世界が広がったということがあったので、自分が日頃見ないような作品を見ることの大切さというのはこういうところにあるんだろうなと、改めて感じた次第です。

この素晴らしい世界に祝福を!


 すでになんども見直しているアニメなのですが、またしても見直してしまいました。
 きっかけはFGO。この前の大奥イベのときにTwitterで回ってきたカーマちゃんのギャン泣き二次創作絵がアクアを彷彿とさせるもので、それを見たときに久々にアクアの哀れな姿がみたいなと思ったのでした。
 すでにべつのところで感想をだぁーっと書いたことがあるので、今回はとくにいうことはないです。相変わらず僕のこのすば視聴モチベーションは「アクアの情けないギャン泣きが見たい」なんだなということが再確認できたいい振り返りでした。雨宮さん本当にありがとうございます、アクアの演技大好きです。今年上映される劇場版が楽しみです。 

響け!ユーフォニアム(二期)

 経緯は忘れましたが突然思い立って見ました。見たのは冬クールというより秋クールの終わりなのですが、この前の記事に書いてなかったのでこっちに書くことにしました。
 本作の魅力というのを説明するのは難しいですが、あえてまとめてみると、それぞれのキャラクターが各々に屈託を抱えていることで生じる人間関係のギスギスや陰影を丁寧に拾っているところと、時折そうした屈託や一筋縄ではいかないあれやこれやを突き破ってでてくるキャラクターの想いのアツさにあるのかなぁ、と思います。それを一言で表すと青春だなぁという雑な感想になるみたいな(謎)
 そういう観点からいくと、二期の前半部分にあたるのぞみぞ編も面白かったのですが、個人的には後半の黄前ちゃんとあすか先輩とか、お姉さん(麻美子さん)との描写がすごく好きで、印象に残る場面が多かったなと思います。とくに台所作業をしながら黄前姉妹が語り合うところとか、そのあとの朝の通学場面で黄前ちゃんがお姉さんを思って泣くところとかすごく心にしみる場面ですし、あすか先輩に黄前ちゃんが怒る場面など、一期前半であんなにアンニュイ感というか、微温感を醸していた黄前ちゃんが、こんなにも熱い思いの丈をぶつけているのをみて感動しないわけがない、という感じですね。
 しかもこの二人の関係のいいところは、この黄前ちゃんの思いが決して単純な先輩大好き、みたいなものじゃないというところですね。少し姉とあすか先輩を重ねている、考え方によってはよろしくないところもあるし、あすか先輩のこじらせ発言をなんども目の当たりにしてきて「この人ちょっとめんどくさいなあ」とか「感じ悪い人だな」みたいな思いももっている。でもそういうの全部ひっくるめても、というかそういうところ含めてこの人と一緒にユーフォを吹きたいという気持ちが黄前ちゃんにはあり、それはやっぱりこれまでの部活動を通しての思いの集積からしかでてこないもので、そこにはこの二人が過ごしてきた固有の時間があるんだなと思ってこの場面を見ると、やはりグッときてしまいます。
 そして、あすか先輩のほうもやはりちょっと醒めた見方というか、性悪説的な見方を好む方のキャラクターなので、こういう黄前ちゃんの思いに対しても、どこかでおそらく冷徹な考え方をしている部分はあるはずなんですよね。それこそたとえばこの子は誰かと自分を重ねているんだな、というようなところまで見えているのではないかとも思うのですが、しかしその一方では、本質的な部分で黄前ちゃんは自分をわかっている、あるいはわかろうとしてくれている人種なんじゃないか、という信頼を持っているようにも見える。だから認めている。お互いがお互いに対してこういう複雑な好意をもっているところが、この二人の関係性が僕の琴線に触れる理由だったりします。
 まああんまりこういうことをいうと田中あすか黄前久美子しか見てないじゃないかとかただの厄介百合CP厨かと思われかねないのですが、そんなことはなくて(そもそもこの二人の関係性を百合とは呼びたくない)、結構この作品は全体的に素晴らしい作品だと思っています。下手をするといままで見てきた京アニ作品のなかでも一番好きかもしれないというくらい好きな作品でした。どうしてもけいおんとかハルヒとかCLANNADとかのほうが思い出補正が強いのですが。 

聖剣使いの禁呪詠唱

 これも銀英伝と同じく、人に勧められてニコ動のコメント付きで一緒に見たアニメです。メインヒロイン二人のうちひとりが悠木碧だったのでめっちゃ期待していたわりに僕の好きな悠木碧じゃなくてちょっとテン下げしたということはありましたが、本当に良い意味でのクソアニメで、今まで僕が一番好きなクソアニメといえばおにあいだったのですが、それをも軽々と凌駕していった。これは頭一つ分抜けていましたね。もちろん褒め言葉です。
 とはいえ、そういったクソアニメ要素や数々の鉄板ネタ(原作者も知らないドラゴン、俺俺奪奴絶許など)を除いても本作は石鹸枠としてふつうに面白かったなというところはあって、そういう意味では石鹸枠アニメの面白さとクソアニメとしての面白さが共存しているほんとうに素晴らしクソアニメだな、と思いました。中毒性がありますね。
 個人的には小見川千明の良さを再認識したアニメでもあります。

やはり俺の青春ラブコメは間違っている。(3回目か4回目)

 これまた友人たちと見たものです。
 すでに以前に何周かしたことがあったのですが、そのときとはまた見方が変わってきたということがありました。たとえば、俺ガイルといえば基本的にオタクの自己投影を誘発しやすいコンテンツというか、ようするに比企谷八幡高二病を目の当たりにしたオタクが「比企谷八幡、俺じゃん」となることでハマってしまうという仕掛けのコンテンツですが、それは要するに、この作品がオタクというか陰キャが日頃学校生活などで感じている陽キャ的振る舞いへの違和感や屈託(しかもそうした違和感や屈託はたぶんに自意識や倫理観と関わっている)、またそういうことを感じてしまうような状況が具体的かつ細かく描かれ、掘り下げられているということでもあります。それで、以前、それこそ比企谷八幡に自己投影したり、逆に同族嫌悪したりしていた典型的なオタクだったころの僕は、その描き方そのものに感心するというよりも、やはり比企谷八幡と一緒に作品世界に浸っていたわけですが、今回これを見ながら僕が感じたのは、どちらかというと前者の気持ちでした。一期の文化祭実行委員会の描写なんか、なんでこんなに集団作業で生じるあのえもいわれぬ「嫌な感じ」を描くのがうまいのだろうと改めてびっくりしたり。
 それから、比企谷八幡に対する共感というのは相変わらずあったのですが、今回新たに得たのは、それでもやっぱりこの作中で一番偉いのは由比ヶ浜結衣だよな、という見解です。これには個人的な文脈があって、僕は昔から「卑怯なコウモリ」という童話のコウモリが好きで、それはあの物語のコウモリ像を「コウモリは鳥にも獣にもなれない半端者で、風見鶏である」と考えるよりは「コウモリはどちらの要素も兼ね備えているからこそ、二つの対立勢力のあいだをとりもつことができる存在だ」というふうに積極的に解釈しているからなのですが、それと同じことが由比ヶ浜結衣にもいえると思うわけです。由比ヶ浜結衣陽キャになりきれないキョロ充的な存在で、陰キャの屈託もどこかで理解している部分がある。その両方の立場がわかるからこそ、由比ヶ浜結衣はあんなに優しいわけで、これについてはあんまりうまくいえないのですが、僕はそういう由比ヶ浜結衣の卑怯なコウモリ的なところにこそ、おそらく比企谷八幡に対して誰もが感じる「間違い」を、でもその間違いのきっかけとなった彼のこじらせの正しさを損なわないままで、変えるヒントがあるような気がします。
 このオタク由比ヶ浜結衣好きすぎる…。

リズと青い鳥

 ユーフォ二期を見た熱のままゲオでBDを借りて見ました。前評判でユーフォ好きの友人から公式二次創作と聞いていたのですが、本当に作風が違いすぎてびっくりしましたね。
 音の演出や、ストーリーテリングの特殊さ、そしてそもそもこの作品を企画したこと自体からして実験的で面白いなと思ったのですが、ただ物語として筋が通っているかというと少し意味の対応がとれてないなと思うところがありました。たとえば、リズ=みぞれ、青い鳥=希美という構図を後半でひっくり返すところなど、「果たしてそういえるのか?」というところはあった気もしますが、これはまあ受け手の解釈の問題でしょう。実はこれについては一本文章をものそうと思っていたのですが、ちょっといろいろ文脈が絡まりすぎて断念しましたね…。
 これについてはちょっと色々考えたいことがあるので、現段階ではあんまり踏み入った感想は言いたくないというのがあり、ここらへんで終わっておきます。

 

◯映画

アヴェンジャーズ エイジオブウルトロン

 とにかく後半の情報量が多すぎて思い出しただけで頭が痛くなってくるのですが、トニー・スタークがプレミしておいて反省しないみたいな展開で「こいつほんと自己中だな」と思ったのだけは覚えています。とはいえ、そもそもスタークというキャラクターの魅力はそこにあるのかもしれません。いやそのミスで何人も人が死んでるんだから魅力とか言ってる場合ではないのですが、そういう間違いを積み重ねながら、それでも少しずつ変わっていく姿を見届けたいなと思わせるキャラクターなんですよね。このあとシビル・ウォーを見たときにも、あらためてそう感じました。全作踏まえないでこういう語りをするとMCUのオタクからの怒られが発生しそうなのでここらへんで終わっておきたいと思いますが…。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー1&2

 世の中幸せな家族ばかりではないとか、個人の人格形成(というか個人が自分のなかに持っている人格形成のストーリー)に深く関わっているとかいう理由で、「家族」をフィクションで描くのは政治的になかなかセンシティブなことだと思いますが、僕はわりと家族をどう描くかって大事な気がするので、そういう意味でそういう危険性を恐れずなのか知らずなのか、とにもかくにもちゃんと前面に出した本作は個人的に興味深く、かつエンタメとしても面白かったので、MCUの他の作品と比べてもわりと好きな部類でした。主人公がよく聞いているレトロな音楽を要所要所で効果的に使っているのもポイント高かったです。 

マイティ・ソー1&2

 僕の周りはそんなに面白くないと言っている人が多く、マイティ・ソーが面白いのは3からだという意見が主流なのですが、僕は1と2の時点でわりと面白かったです。でもおそらく彼らと僕の見方はちょっとずれていて、僕はソーよりもロキのほうがキャラクターとして面白くて、そっちにフォーカスした見方をしてしまったがゆえに、この二作を楽しめたということがあったんですよね。
 それで、なんで自分はロキみたいなキャラクターが好きなんだろうと自己分析して思ったのは、ひとつには、出自のせいでいろんな屈託を背負わざるを得ないキャラクターが好きなんだなということです。ソーはそれこそオーディンの血を引いた正真正銘の嫡子ですが、ロキはそうではない。ロキはファミリー・ロマンスの一種である捨て子の物語を、幻想のレベルではなく実際のレベルで過去として背負っていて、だからこそ他者からの愛に対する拭い去れない不信感と、自分のヤバさと血の関わりについての暗い想いみたいなものを抱えている。そういうところから出てくるロキの陰影とか、掴みがたさみたいなものをすごい魅力的に感じてしまったので、面白く見ることができた、ということがありました。 

Fate/Stay night[Heaven’s Feel]  Ⅱ.lost butterfly

 僕が最近アニメ映画で圧倒された体験というと「この世界の片隅に」を映画館で見たときでしたが、それとはまったく別の意味で本作には圧倒されました。あんまりこういうオカルティックな表現は好きではないのですが、「作り手の魂がこもっている」というのはこういうことなのかな、という感じで。
 戦闘描写の迫力、音楽の良さ、演出のすごさなど、とにかくいうべきことはたくさんあると思うのですが、ちょっと情報量が多すぎて言語化が追いついてないというのと、見たのが文章を書いている現在地点から数えて数ヶ月くらい前というのがあって、なかなか言葉が出てきません。ただ、強いていうとするならば、僕が本作についてまず思ったのは、これは処女厨の病をどう考えるかみたいな話なのではないかということです。
 いや、これ一見怪電波のような話、というか怪電波なのですが、いちおう根拠はあるにはあって、それは本編前半で桜が「私は処女じゃない」みたいなことをよくわからない文脈で口走るところです。ここのシーンは他にある数々のものすごいシーンたちと並べたときにもちょっと異様な感じのする場面で、それはなぜなのかというと、おそらく「ヒロインは処女でなければならない」という価値観が、それを日頃意識的には否定している僕の心にもどこかで根付いていて、それが物語の進行の文脈をぶった切って、あまりにも赤裸々に取り上げられたからではないかと思います。そしてうまくいえないのですが、この純潔というものにこだわる価値観と、衛宮士郎のサヴァイバーズ・ギルトと切嗣への憧憬からくる病的な正義感は、どこかで通底しているような気がするのです。そしてその正義感自体は決して否定されるべきものではないが、それはどこかで病んでいる、というこの両義性をどう扱うかというときに、桜の非処女宣言の異様さをどう考えるかという問題が出てくる気がします。いまのところは、とても抽象的で、ふわっとした話なのですが。
 まぁしかし、そんなふわふわとした話はここらへんにしておいて、もうひとつこの作品から出てくる問題をとりあげると、それは間桐桜を好きでいいのか問題です。これを僕は「夢見りあむ問題」と呼んでいるのですが、その中身を簡単にいうと、夢見りあむをそのクソ雑魚メンタルによって愛しているオタクは、夢見りあむの成長を欲望することができない、つまりある意味で「問題」であるかもしれない夢見りあむの性質を美学的に肯定してしまう、という問題です。これをより一般化すれば、あるキャラクターが問題となりうるものをもっているときに、それを嗜好してしまうと、よろしくない現状肯定になりうる、という問題といえる。これが間桐桜を好きなオタクについてもいえるわけです。というわけで深く反省したいと思います。

『Fate/Grand Order 徳川廻天迷宮大奥』感想

Fate/Grand Order』というゲームがある。かの有名なFateシリーズのうちの一作で、幾万とあるスマートフォン向けアプリゲームのなかでもかなりの人気タイトルとして知られているものである。その最大の特徴はなんといっても壮大なシナリオで、その執筆陣には奈須きのこを始め、多くの有名作家が起用されている。

 

実は、僕も、一年半ほど前からではあるが、このゲームをずっとやってきたユーザーの一人である。本編のシナリオからサーヴァントの育成からはてはSNSの二次創作まで、このコンテンツには長らく楽しませてもらっているし、これまでのイベントも、最低でもシナリオの全クリ、イベント礼装の交換、星4フォウくんと伝承結晶の回収くらいはやってきた。

 

しかし、そんな僕でも、今回の大奥イベントにはほとほとうんざりさせられた。もちろんシナリオは面白かったし、報酬も悪くない。しかし多くのユーザーが言及していたように、とにかくロード時間が長かった。もしアプデで改善されなかったら、途中で投げ出して、シナリオをクリアすることすらできなかっただろう。

 

とはいえいざ最後までやってみると、やはりシナリオは終わりまで読めてよかったと思ったし、そのストーリーを通して改めて考えさせられたこともあった。ここではそのことを備忘録がわりに書いておきたい。とりあげたいのは、本シナリオにおけるカーマと春日局の対比である。

 

神話上、あるいは実際の歴史上のこの二方がどういうふうな性格の持ち主だったかはさておくとしても、今回のイベントでの二人(一方は神だったりビーストだったりするのだが、とりあえず面倒なので一人、二人と数えておく)は、異なる愛のかたちをもつものたちとして描写されていた。一方のカーマは、どこまでも相手を甘やかしてしまう。他方で春日局は、相手が成長できるよう、ときには厳しいこともいう。

 

こういう二人のスタンスは、たとえば春日局のこんなセリフに現れる。

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春日局は、カーマの愛は成長を見守る愛ではない、という。なぜならカーマの愛は、相手を甘やかすことしかできないからであり、そしてその愛が世界を覆うとき、愛し合うということができなくなってしまうからである。

 

しかし、見方によっては、その意味において、カーマの愛は完璧なものなのだとも言える。

 

そもそも、なぜ人は甘やかされるだけではいけないのか。それは強くならなければならないからである。では、なぜ愛し合わなければならないのか。それは弱いからである。人が愛ゆえにときに人に厳しく接するとき、あるいは人と人が愛し合うとき、そこに前提されているのは、世界というものの厳しさ−−つまりそこでは平和だとか生だとかいったものはつねに闘いのなかで勝ち取られなければならないということ、そしてそういう世界にあって、闘い続け、勝ち続けるためには、人はあまりに弱く、それゆえにときとして強さ(成長)を求め、他人を求めなければならないということである。そういったことを考えるとき、もしカーマが永遠に人を庇護してくれ、愛してくれるとするならば、そのときカーマの愛がひとつの救いになることは間違いない。カーマはそういう強さだとか人と人のあいだの愛だとかいったものが必要とされるその前提条件そのもの(世界の厳しさ)を取り除いてくれるからだ。

 

しかし、それでも、そういう選択肢を提示されて、人がそれは何か間違っている気がする、と思ってしまうのは、それがこの世には存在しないユートピアだからというだけではなく、おそらくそのユートピアがある種のニヒリズムと通じているからである。たしかにそのような愛は望ましいかもしれないが、それをいったん受け容れてしまえば、そのような愛の望ましさそのもの、意味そのものがなくなってしまう。それはたとえば、生きていることそのものに苦しみの根源があるのだから、苦しみの最終的な解決は死にしかない、というような考え方とほとんど同じである。救済とか、永遠とか、愛とかいったものと、そういった無とか死が奇妙な一致を示す地点、カーマの示す地点とはこういう地点だといえる。それは第1部でゲーティアが示した地点とそう変わりがない。

 

思えば、FGOのシナリオが執拗に描き続けているのは、このような、そこに至ることで人の生そのものが意味をなさなくなるような救済に対する反抗だといえる。そしてそういう反抗は、たとえばカーマの快楽の愛に対して、春日局の、ときに崇高で、ときに残酷な「強くあれ」という愛を擁護する形をとる。もちろん、それはカーマからすれば倒錯的に映るかもしれないが(「どこまで痛いのが好きなんですか、人間って!」)、とにもかくにも人が生きなければならないのはそのような倒錯であり、そういう倒錯のもとにおける、還元不可能なズレなのだろう。

 

ところで、僕はこういう物語を読むと、いつも伊藤計劃SF小説『ハーモニー』を思い出す。この作品の終わりにおいてもやはり、最後に、そこに至ることでなにもかもが意味を失うユートピア(意識と葛藤のない自明の愛の世界)が示されるからだ。だから、ユートピアを携えてこちらへと手を差し伸べてくる存在があらわれるたびに、僕は御冷ミァハを連想してしまう。

 

人はミァハやカーマが差し出した手をとるべきなのだろうか。僕にはその答えはわからないが、直感的にいえば、今回のイベントでカルデアの面々が出した答えもまた、とても危ういものだとは思う。その厳しさが、ときには人を追い詰めることもあるからだ。

 

人がそういうさまざまな愛のあいだで、自分に対して、また他人に対して、優れたバランスを保ち続ける方法はないものだろうか。今回のシナリオをやりながら、改めてそんなことを考えた。

前世の記憶

このまえ、友人と『聖剣使いの禁呪詠唱』という、一部でネタ扱いされている? アニメを見る機会があった。禁呪詠唱は、メタフィジカルと呼ばれる怪物から人類を守るセイバーの戦いを描いたラノベ原作アニメで、このセイバーというのは、前世の記憶と(メタフィジカルと戦うための)能力を引き継いでいることを特徴とする。主人公もまた前世の記憶をもつセイバーの見習い(学生)だが、つうじょう一人のセイバーが一つの前世しか持たないのに対して、主人公は二つの前世を持つ。そのため、ふつうは一人一役しかこなせないような役割を、二役分こなせるのが主人公の強みとなる。

このアニメを見ていて改めて思ったのは、物語と記憶の関係である。以前どこかの記事でも書いた気がするけれど、記憶というのは、物語においては、しばしば物語を始動したり、行き詰まった状況を打開する鍵となる。たとえば、禁呪詠唱では、主人公が毎回前世の記憶を思い出すことで敵に対する対処法(前世で使っていた技など)を繰り出せるようになるが、こういう意味で、記憶の忘却と想起は、物語を進める鍵となるわけである。

それと関連するのかはわからないが、それにつけて禁呪詠唱を見ながら僕が考えさせられたのは、前世の記憶と、現世の記憶を踏まえた上で、主人公やほかのセイバーたちは、「自分」というものをどのように考えているのかということだ。あまりそういう問題を積極的に扱おうという気配はこのアニメには見受けられないし、そういうことをしなくてもいい作品なのだとは思うが、この問題は(脱構築などと関わる)かなり哲学的なものでもあるわけで、そのあたりのことをこういう具体的な作品から考えるとどういう事が言えるのか、そのことが改めて気になった。

たとえば、おそらく前回の記事で扱ったであろう東京レイヴンズの土御門春虎も、夜光の記憶が侵入してくることでキャラが変わっていくわけだし、それから別の作品でいくと、Dグレアレン・ウォーカーもまたネアの記憶の侵入に苛まれるわけだが、後者の例において、記憶の侵入は、キャラクターの自己同一性にかなり深刻な影響を及ぼしている。

さらにこの視点から見てみると、異能力もときにその使用によって、人のアイデンティティを掘り崩してしまうような、複数的な記憶の侵入をもたらす。たとえばサクラダリセットにおいて、未来視能力、リセット能力、記憶の書き換え能力、他の能力に抵抗してあらゆる記憶を保持し続ける能力といったものは、ときとして、自分と他人、現在と未来、リセット前とリセット後、書き換え前と書き換え後などの異なる時間軸や可能世界や人々についての複数の記憶たちの混在を能力者にもたらす(そしてこういう混在のなかにあってどんな記憶も決して忘れえないという能力を持つ浅井ケイが倫理的に振る舞いたがるということには、かなり深い意味が込められているように思う)。その場合の記憶の侵入(想起や捏造もふくむ)は、ときにキャラクター自身が自分についてなんとなくであれ了解している自己同一性をばらばらにしてしまう。そしてそれはいつも複数の記憶たちが前後で入り乱れたり、あるいは同時に存在したりといった、時間的なズレないしは同時性によって、キャラクターを翻弄する。

でも、これは前世の記憶を持っていたり、世界を三日間ぶんリセットできたり、未来の他人の記憶を覗くことができたり、あらゆる事象を改変する能力のメタレベルに立ってすべての記憶を保持し続けることのできる、そんな特異な設定をもつフィクション上の人物にだけ起こることではない。どんな人でも、記憶というあったのかなかったのかもわからない過去についての情報や、想像という、未来の可能性としてありえはするかもしれないが、いまだここにないもの、あるのかないのかわからないものが好き勝手なタイミングで侵入してくることによって、つねにいまここにある自分というものについての理解をかきまわされてしまう無気味な経験に開かれているからである。

そういう問題が物語のなかで扱われるとき、それはどういう展開を生み出すのか。たとえば、(前世の記憶の想起などによって)そういう無気味な経験にキャラクターが襲われ、それが問題となるとき、キャラクターはそれに対してどう対処するのか。精神分析的な意味での抑圧や排除といった語彙や、既存の物語論によって、それを説明することはできるのか。もしできないとすれば、それをあらためてどう捉えればいいのか。ここ一年ほど、物語について考えているときには、つねにこういうことが念頭にある気がする。

スピッツの好きな楽曲20選(思いついた順)

実は幼い頃からスピッツを聴いていて、すごい影響を受けているのですが、いままでそのことについて考えたことも語ったこともなかったなと思い、今回語ってみることにしました。基本的には思いついた順に好きな曲を20曲。おしながきは以下のようになっております。

 

 

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1,ハチミツ

 

同名のアルバムに収録された曲で、かなりユニークなメロディーラインを持つ、ポップでかわいい曲。くわえて個人的なことをいうと、子供の頃に読んで強い影響を受けた『ハチミツとクローバー』という少女漫画の元ネタ? でもあります。「ガラクタばかりピーコートの/ポケットにしのばせて/意地っ張りシャイな女の子/僕をにらみつける」とか、もうハチクロでしかないですね…。はぐちゃんとかはここからインスピレーションを得て造形されたキャラクターなのかなと勝手に思っています。

個人的に好きなポイントはやっぱり特徴的なメロディーと可愛さです。こういうタイプの可愛い曲を作れるロックバンドってあまりないんじゃなかろうか…ようしらんけど。

 

2,みなと

 

あたたかくて切なくて優しい、という、Theスピッツな一曲です。メロディーも美しく、入りのギターなんかすごい好きですね。加えて歌詞が良すぎる。

たとえば、「汚れてる野良猫にも/いつか優しくなるユニバース」という一節。∀ガンダムでも見たのか知りませんが、なんか草野マサムネはユニバース(ないしユニヴァース)という単語が好きらしく、ちょくちょくほかの楽曲にも出てくる(曲名になっているものもある)んですよね。このユニバースはそのなかでも一番好きなユニバースかもしれません。汚れてる野良猫に優しいユニバース、すごく優しそう(こなみ)。

それから「朝焼けがちゃちな二人を染めてた/あくびして走り出す」とかもいいですね。情景がすっと頭に浮かんでくるし、草野さんが描くいつものいい感じの二人なんですよね。僕も朝焼けに染められたちゃちな二人の一翼を担いたいものです。

歌詞全体を読んでいくと、なんとなく別れとか旅立ちについて、見送った側から歌っている曲だと解釈できますが、こういう見送る系の曲はちょくちょくある気がします。たとえば「魔女旅に出る」もそうですね。

なお、これは僕だけだと思いますが、僕が大好きな漫画に萩尾望都の「アメリカン・パイ」という短編があって、みなとを聴いてるといつもこの漫画のことを連想してしまいます。ぜんぜん違う作品といえばそうなんですが、ただモチーフに若干の共通点があるんですよね。

 

3,魔女旅に出る

 

 独自の世界観が素晴らしい曲です。歌詞は途中もさることながら最初と最後がほんとうによくて、一番冒頭の「ほら苺の味に似てるよ」という天才的な導入と、サビの最後の「いつでもここにいるからね」が好きすぎるという…。

 メロディーは歌唱部分より序奏とか途中で入るバイオリンのくだりとかのほうが好きかもしれません。すごい好きな曲ではあるのですが、楽器とか音作りの知識がないためにこれ以上語れず…そういう教養が欲しいですね。音楽雑誌を読め。

 

4,三日月ロックその3

 

 その1とかその2がないのに唐突にその3とか言い出すあたりがもうほんとうにセンスの塊だなって感じなんですが、それはともかくとてもいい曲です。昔すごい流行っていた「あいのり」という番組のオープニングで使われていた「スターゲイザー」という曲が収録されたシングルのB面なのですが、今にして思うとこの二つが収録されてるシングルって強すぎるだろ…と戦慄を禁じ得ません。あとこれもまたその3案件というかセンスの塊エピソードで、スピッツにはじつは『三日月ロック』というアルバムもあって、何も知らない人がこの曲とアルバムのタイトルを知ったら、とうぜんこのアルバムにこの曲が収録されてるだろうと思うわけなのですが、そこはスピッツのセンス、なぜかこのアルバムにはこの曲が収録されてないんですよね。いやなんでだよ。

 とにかくこの曲はメロディーが全編にわたってかっこいい曲ですが、歌詞も印象的な箇所がちらほらあります。たとえば「抜け出したい気持ちなら/桜が咲くたび現れる/わかってくれるかな?/君なら」とか「待ちわびて/シュールな頭で/ただ君を想う」とか、もうぜったい草野マサムネ以外には書けないヘンテコな歌詞なんですが、なぜか響きがよくて、しかもなんとなく言いたいことがわかっちゃうんですよね。不思議です。

 

5,スカーレット

 

 子供の頃からずっと聴き続けている曲のひとつです。ところで子供の頃ってエレベーターをエベレーターっていったりだとか、言葉に関するヘンな勘違いをしているものですが、この曲についてもそういう勘違いをしていたことがあります。この曲、サビの手前に「乱れ飛ぶ声に/かき消されて/コーヒーの渦に溶けそうでも/ゆらめく陽炎の/向こうから/君が手を伸ばしたら」というフレーズがあるんですが、昔の僕はこの「コーヒーの渦」というのを「恋の渦」だと勘違いしていたんですよね。いやでも恋の渦って完全に凡夫の発想でしかなくて、もう幼少期から草野マサムネとの圧倒的なセンスの差を見せつけられているという。悲しい話です。

 ともあれ、なんというかこの曲の歌詞はこういうヘンなところが随所にありつつも比較的ふつうっぽくて、この時期の曲の歌詞はそういうのが多い気がしますし、メロディーもユニークではあるもののキャッチーですっと聴ける感じがします。とにかくいろいろヒットさせて名を一度売っておこうと作風を一般的なほうに寄せて頑張っていた時期でもあるんでしょうか。よく知らないのですが…。

 歌詞の内容自体に言及すると、寂しさとか悲しさとかを温度の比喩で表現しようとしているのかなと感じます。その観点から考えるとコーヒーの渦もあたたかいものの比喩なのか…でもちょっとこのくだりは謎めいていてよくわからないですね。

 

6,ナナへの気持ち

 

 スピッツの曲のなかでもかなり好きな方の曲です。メロディーはそうでもないのですが、冒頭の「笑いすぎ? ふふふ」みたいな女性の声と、歌詞で描写されるナナの人物像がいちいちツボで、あーこういう女の子いいなあと素直に思います。それから、この歌詞は全編通してナナに恋をしていると思しき男性? の視点からの語り、という形式で書かれているのですが、この二人の関係性もまたぐっとくる。

全体の構成としては、一番はナナの人物像描写で、二番はこの語り手とナナの関係性描写を展開している、という塩梅です。

 まずナナの人物像はこんな感じ。「誰からも好かれて/片方じゃ避けられて/前触れなく叫んで/ヘンなとこでもらい泣き」「たまに少しクールで/元気ないときゃ眠いだけ」「お茶濁す言葉で/周りを困らせて」やばいですね。現実にいたらめんどくさそうだしたぶんこの女KYですが、それがむしろいいみたいな。グッときます。なんで僕の人生にはナナがいないんだ。

 とはいえ、これはあくまで行動とか性格面の話で、じゃあ見た目はどうなのかというとこんな感じ。「ガラス玉のピアス/キラキラ光らせて」「日にやけた強い腕/根元だけ黒い髪」んー結構ギャルっぽい人なのかな? よくわからない。でもまあとにかくいいですね(語彙力)。これが一番の部分です。

 で、二番になると、この語り手とナナは結構仲が良いっぽいということが示唆されます。「街道沿いのロイホで/夜明けまで話し込み」いやこういう関係性憧れますね。尊い…。

 で、このあとこんなふうに続きます。「何もできずホームで/見送られる時の/憎たらしい笑顔/よくわからぬ手ぶり/君と生きていくことを決めた」、これはもう完全に語り手ベタ惚れですね。そしてこの語り手視点の別れの情景を思い浮かべてしまったが最後、聴き手は語り手の目を通して完全にナナの魅力の虜になっているというわけです。

 個人的にスピッツの曲ってざっくりかっこいいやつと、優しくてあたたかくて切ないやつと、ユーモラスでポップなやつと、変態性の強いやつに分かれるのですが、この曲は一番最後のに分類されるかなという感じです。変態で繊細な思春期童貞って感じで、とてもよいのではないかと。

 

7,ラズベリー

 

 これも変態系で、とりわけスピッツ特有のキモいマゾヒズムが前面に出てる曲ですね。「もっと切り刻んで/もっと弄んで」とか言い出すし。でもユーモラスでポップでもあるし、僕の中では歌詞の中に魔女とか出てくることもあって、「魔女旅に出る」となんとなく近い気もする曲です。あとこれは僕だけだと思いますが、この曲を聴くといつもナボコフの『ロリータ』を連想してしまいます。

 この曲、ほんとに開幕から飛ばしていて、初手が「泥まみれの/汗まみれの/短いスカートが/未開の地平まで僕を戻す」ですからね、完全に犯罪者です。ちなみにこの泥まみれとか汗まみれとかの汚さの美学があるところが僕が個人的に『ロリータ』っぽいなと思うところで、ハンバートさんもこういう汚さが好きなんじゃないかなとか勝手に思っていたりします。

 あと変態性云々を抜きにしてもいいフレーズはいっぱいあって、たとえば「しょいこんでる間違いなら/うすうす気づいてる/でこぼこのゲームが今始まる」とか「穴を抜けてこっちへおいでと/五円玉のむこうから呼ぶよ」とか、意味深で面白い歌詞だなあと思います。五円玉のむこうからとか、ふつう思いつかないフレーズですよね。いや死ぬまでに一度誰かを五円玉のむこうから呼んでみたい。これもなんかエロティックな比喩なんでしょうか。よくわかりませんが…。

 

8,初恋クレイジー

 

インディゴ地平線』という結構僕が好きなアルバムのなかに入ってる曲で、このアルバムはほんとうに名曲が多いと思うのですが、そのなかでなんでこれを選んだのかというと、個人的な思い出があるからです。小学校高学年の頃にこの曲と川上弘美の恋愛小説からインスピレーションを得て掌編連作ものの恋愛小説を書いたという黒歴史がね、あるんですね。

 やはりこれも歌詞がいちいちよくてですね、たとえば「夢の世界とうらはらの/苦し紛れ独り言も/忘れられたアイスのように溶けた」とかは比喩が的確ですし、「優しくなれない時も/優しくされない時も/隠れた空は青いだろう/今のまま」とかもなぜかよくわからないんですがグッときますね。

 あと僕のようなキモ・オタクにもいちおう初恋の思い出というものはあるわけですが、その経験に照らしてすごく共感したのは「見慣れたはずの街並も/ド派手に映す愚か者/君のせいで大きくなった未来」とかでしょうか。

 

9,スピカ

 

この曲の評価については完全にハチクロ補正が入っているのですが、それを抜きにしてもすさまじい名曲で、しかもありえんやばいのは、この曲が「楓」のB面ってことですね。なおハチクロのアニメ版では竹本くんというピュアっピュアな男の子が自分探しでどっかの県道を自転車で走ってるときに流れる曲なのですが、いやここで使うかスタッフずるすぎるだろと。ちなみにハチクロのアニメ版はスガシカオスピッツの入門にいい作品ですね。

歌詞はスピッツにしては珍しく? です・ます口調で、ちょっとユーモラスな雰囲気が漂います。「振り向けば/優しさに飢えた/優しげな時代で」とか、グッとくる箇所ですかね。

ここまでいろいろ書き連ねて気がつきましたが、やっぱり僕、メロディーが好きで選んでる曲については全然語れないですね。言語化するための知識と教養がない。悲しいことです。でもこの曲はほんとうにいい曲なので、この記事読んで興味を持たれた方はぜひ聞いてみてください。

ちなみに椎名林檎版も存在します。

 

10,猫になりたい

 

スピカと同じ『花鳥風月』というアルバムに入っています。この『花鳥風月』というアルバムは確か他のアーティストに提供した楽曲のセルフカバー版とかB面の曲とかを集めたもので、前者について言えば、有名どころだとPUFFYの「愛のしるし」のセルフカバーとかが収録されています。

この曲は一見可愛らしいメロディーや音色で作られているのですが、歌詞を見ていくとちょっと奇妙で変態っぽいところがあります。まあ猫になりたいっていう欲望がもうちょっとアレですよね。いや猫になりたい欲自体は全人類が持ってるくらいのメジャーなものだと思いますが、この曲の場合猫になって「君」の腕の中で抱かれるまでがセットなので…。

個人的には「目を閉じて浮かべた密やかな逃げ場所は/シチリアの浜辺の絵ハガキとよく似てた」とか「街は季節を嫌ってる」とかいった箇所がグッときますね。シチリアの浜辺じゃなくてシチリアの浜辺の絵ハガキなのがうまいなあと思います。

 

11,放浪カモメはどこまでも

 

すごくユーモアたっぷりで爽快感のある、気持ちのいい曲です。いやユーモアとかユーモラスとか使いすぎでそれ以外に語彙がないのかよという感じですが、悲しいことにその通りですね。スピッツの曲をずっと聴いているはずなのにこれはどうしたことか。

歌詞についていうと導入がすごくよくて、「悲しいジョークでついに5万年/オチは涙のにわか雨」「でも放浪カモメはどこまでも/恥ずかしい日々/腰に巻きつけて/風にさからうのさ」という一連のフレーズの、陰湿さに陥らない自己諧謔とペーソス、そこにちょっぴり足された爽やかさがなんともいえずいい味を出しています。実際この一連の流れはメロディーともに完璧なので、ここを語るだけでこの曲の良さは言いあらわせるという感じがしますね。

 

12,ジュテーム?

 

こう、恋愛ソングのひとつのパターンとして、「君」を好きになったせいで自分はみっともなくなったとか、バカみたいになってるとか、そういうことを歌うものがありますが(ぱっと思いつくものでいうと青ブタOPの「君のせい」とかですかね)、この曲もそういう恋愛ソングの一つです。でもやっぱりスピッツ節がところどころに利いていて、「カレーの匂いに誘われるように/夕闇を駆け出す生き物が」とか意味がわからなくていいですね。

それからグッとくるところでいうと、「うれしいぬくもりに包まれるため/いくつもの間違い重ねてる」とか、「別にかまわないと君は言うけど/適当な言葉がみつからない/ジュテーム…そんなとこだ」とか、はーよきってなります(語彙)。たぶん君のことが好きなんだけど、その気持ちに振り回されたり、その気持ちをどうとらえていいかわからなくて、どうしたものかなと困っている、そんな気持ちが表現された歌です。

 

13,魔法のコトバ

 

これもたぶんに評価にハチクロ補正がかかってますが、それを抜きにしても掛け値無しの名曲です。スピッツの曲にインスピレーションを得て作られた漫画の実写劇場版のテーマソングをスピッツが書き下ろしたらこうなるよという曲な訳ですが、スピッツがなんかのテーマソングを作るときの原作理解力って本当にすごくて、そりゃスピッツに影響された作品のテーマソングなんだからぴったりで当たり前だろと言われちゃえばそれまでなのかもですが、ほんとうに「ハチクロ」って感じのする曲ですごくて、でもちゃんとスピッツらしさもあるという。自分でも何言ってんだかわかんねえよ。

どこらへんがハチクロっぽいかというと、僕はメロディーについては語れないのでいいとして()、歌詞についていえば「君は何してる?/笑顔が見たいぞ/振りかぶって/わがまま空に投げた」とか、ちょっと竹本くんっぽいなと思ったりしてます。あとサビ部分の「魔法のコトバ/二人だけにはわかる/夢見るとか/そんな暇もないこの頃/思い出して/おかしくてうれしくて/また会えるよ/約束しなくても」なんかは、漫画版のラストシーンのそのあとっぽいかも。余談ですが、あのラストシーンはちょっと萩尾望都の『トーマの心臓』のラストと似てる気がします(雑な連想)。

あと、これは楽曲自体の話ではないのですが、この時期のCDジャケットのイラストは全般的に好きです。福田利之さんという方の手になるものらしいですが、色遣いとか世界観がすごくいい。

 

14,田舎の生活

サビ部分以外が5拍子という変則的な曲です。メロディーからしてちょっと暗い感じで、しかもタイトルから田舎の生活について描いた曲なのかと思って歌詞をよくよく読んでみると、「君」との田舎の生活を夢みてたんだけど結局二人は別れることになってその夢は叶いませんでしたっていう、街住みの人の歌っぽいんですよね。く、暗すぎる…。感傷マゾかよ。

でもそこで妄想されてる情景はありえんよくて、たとえばこんな感じ。「なめらかに澄んだ沢の水を/ためらうこともなく流し込み/懐かしく香る午後の風を/ぬれた首すじに受けて笑う/野うさぎの走り抜ける様も/笹百合光る花の姿も/夜空にまたたく星の群れも/あたり前に僕の目の中に」「一番鶏の歌で目覚めて/彼方の山を見てあくびして/頂の白に思いはせる/すべり落ちていく心のしずく/根野菜の泥を洗う君と/縁側に遊ぶ僕らの子供と/うつらうつら柔らかな日差し/終わることのない輪廻の上」。

いや、草野マサムネ天才か?

 

15,ブチ

ファンには全然違うだろと言われるかもしれませんが、個人的には「ナナへの気持ち」系の萌える歌です。「ブチ」は基本的にここでは語り手が好きな相手のちょっとした欠点の比喩ですが、いや君はむしろそれがいいんだよ! というふうに肯定していく内容になっていて、なんていうか、一種のポンコツ萌えの歌です。いや萌え豚の語彙で語るなって感じですね、ごめんなさい。

一番そういうこの曲のコンセプトがあらわれているのは、たとえばこんなくだり。「君はブチこそ魅力/好きだよすごく/隠れながら/泣かないで/yeah yeah」「お上品じゃなくても/マジメじゃなくても/そばにいてほしいだけ」。ここらへんのくだりを聴いてるとなぜか『ホテル・ニューハンプシャー』のスージーが連想されてむしょうに泣けますね。自分でも謎の情緒です。

でも僕が個人的に好きな箇所はもっと別のところにあって、たとえば「しょってきた劣等感その使い方間違えんな」とか「優しくない俺にも/芽生えてる/優しさ風の思い」とかすごく共感できるし、「君はブチこそ魅力/小町を凌ぐ/本気出して/攻めてみろ/wow wow」のお前煽ってんの?感なんかすごい好きです。いや必ずしもザ・名曲って感じではないと思うんですけど、ユニークで、心に残るいい曲です。

 

16,エスカルゴ

腰を抜かすくらいカッコいいロックで、最初のありえんカッコいいドラムからボーカルが入るまでの一連の流れでもうガーンとやられる感じがします。しかも題材というか比喩がカタツムリて、と思うのですが、歌詞を見るとめっちゃかっこいいカタツムリ。

たとえばこんなくだり。「孤独な巻貝の外から/ふざけたギターの音がきこえるよ」。ひょええええええ。それからサビの部分。「ハニー/君に届きたい/もう少しで道からそれてく/何も迷わない/追いかける/ざらざらの世界へ」。ざらざらの世界ってなんだよ…意味わかんねえよ…でもなんかすごいかっこいいよ…。

僕的には今まで聴いてきたスピッツの楽曲のカッコいい系のなかでいちばんカッコいい曲です。

 

17,ハイファイ・ローファイ

ちょっとテンション高めに、ポップに、愛を叫ぶ歌です。聴いていて爽快感があって、気持ちいい曲ですね。でもたとえば「Fly high!甘い/囁きにも/フラフラと」みたく、ちょっとしたマゾっぽさというか、ファム・ファタールフェチというか、籠絡されたい欲みたいなのが出てる部分もあって、そこはスピッツらしいねじくれがあっていいなと思います。

あと、上の歌詞の「Fly high!」と「甘い」みたいな韻を踏んでる箇所が随所にあって、そのなかで一番好きなのは「Ride on!毎度/カワイイだけで大好きさ/ハイファイ/ローファイ/俺はそれを愛と呼ぶよ」というところですね。この「俺」くんとやら、チョロさがちょっとかわいいですね。

 

18,ベビーフェイス

スピッツは「エンドロールには早すぎる」とか、なにか妙に懐かしさを感じるパロディアスな楽曲をちょくちょく作りますが、この曲もなんとなくそんな感じの曲な気がします。具体的になんのパロディかはよくわからないのですが。

これもメロディーが好きで選んだ作品なのであんまり語れなくてアレなのですが、歌詞の好きな部分をあげると二つくらいあって、サビの「Bye bye/ベビーフェイス/涙をふいて/生まれ変わるよ Yeah…」と「隠し事のすべてに声を与えたら/ざらついた優しさに気づくはずだよ」とかですかね。いやふつう隠し事のすべてに声を与えようと思わないし、優しさにざらつきがあるなんて思いもよらないですよね…でもいわれてみるとなんとなくわかる。うーん不思議だ。

 

19,つぐみ

これもなんかの主題歌だった気がしますが、忘れました。とにかくメロディーというか、音の作り方? が好きな曲です。でも歌詞はふつうぐらいなので、ここであげた20曲の中でいちばん語れない曲かもしれないです。聴いてくれ、という感じですね。

 

20,雪風

少し不穏で、なにかの終わりを前にしているような気分になる、寂しい曲です。でも独特の世界観があってすごく好きな曲ですね。最近(『とげまる』〜『醒めない』)のスピッツの曲の中だと「みなと」や「醒めない」と並んで好きかもしれないです。つまりこのアルバム(『醒めない』)が良すぎるって話ですが。

まず、いきなりこんな風に始まります。「まばゆい白い世界は続いてた/また今日も巻き戻しの海を/エイになって泳ぐ」。いやエイて。でもなんというか、いきなり謎めいていて不思議な気持ちになりますよね。巻き戻しの海というのはループものっぽさを感じますが、どういうことなんだろうとか。白い世界ってなんだとか。ちょっと飛躍した解釈をすると、死後の世界っぽい感じもします。実際、このあとのくだりで「もう会えないって/嘆かないでね」というところとか、思い出を全部過去形で語ってるところとかがあって、なんとなくこの語り手はもう亡くなってるのかなという感じがする。

一番好きなくだりは「お願い夢醒めたら/少しでいいから/無敵の微笑み/見せてくれ/君は生きてく/壊れそうでも/愚かな言葉を/誇れるように」とかで、なんとなく胸に刺さります。

終わり方も唐突で、あんまり他にないようなタイプの曲です。でもスピッツらしさは結構あるかな?

 

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以上、思いついた順にいろいろ語ってみました。こうしてみると音楽素人感がよく出ているなというか、もうこれスピッツの楽曲じゃなくてスピッツの歌詞について語る記事でよかったんじゃないかという気もしますが…まあいいか。